【名店発見】馬刺しウマすぎっ!!!

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  • Опубліковано 18 січ 2024
  • #サバンナ高橋 #グルメ #居酒屋 #馬刺し #錦糸町
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КОМЕНТАРІ • 12

  • @yukis3171
    @yukis3171 5 місяців тому +2

    高橋さんの美味しそうなリアクションと西中さんのまじボケ、良いですねー❤

  • @chan-he8lq
    @chan-he8lq 5 місяців тому +1

    食べてるの好きです😊
    久しぶりに孤独のグルメ見たいです🤭

  • @user-sm1hp4kf2u
    @user-sm1hp4kf2u 5 місяців тому +1

    いつも楽しみにしてます美味しそうな馬刺しです

  • @YumikoKimura-hx8qy
    @YumikoKimura-hx8qy 5 місяців тому +1

    馬刺し旨い。大好き❤

  • @user-ge1hc4fh3m
    @user-ge1hc4fh3m 5 місяців тому +1

    熊本また来てください!!
    是非御船テラスへ!最高です!

  • @user-bz9wp1tc3s
    @user-bz9wp1tc3s 5 місяців тому +1

    昨年末に放送してたアド街て紹介されてた2件ですね。
    どちらもとても美味しそう。

  • @user-ms9no9dv8e
    @user-ms9no9dv8e 5 місяців тому +1

    高橋さんの1人飲み歩きも見たいです

  • @user-pc3Mf7kU4z
    @user-pc3Mf7kU4z 2 місяці тому

    馬刺しになるのは食用に飼育されてきた馬です。馬肉生産量が最も多い熊本県では重種馬を食用に飼育しています。霜降りが特徴的で、馬刺しにすると旨みと脂の甘みが広がります。一方で、福島県の会津産の馬肉は軽種馬を使用しています。馬の種類によって馬肉の見た目や味は全く異なり、会津産の馬刺しは柔らかい赤身が特徴です。1200年間肉食を避ける文化が始まった西暦675年に当時の天皇が「肉食禁止令」を発布しました。仏教では肉食が禁止されており、代わりに魚を食べていました。私の父も肉を食べず、魚しか食べませんでした。軍馬の産地だった阿蘇地域で、戦後の食糧難で馬肉を食べ始めたことで広く一般に伝わり、昭和30年代には飲食店でも扱うようになりました。日本国内で馬肉を生で食べる習慣は熊本県、長野県、山梨県、福島県、静岡県等に存在します。
     日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)と考えられています。国家方針として、朝鮮半島勢力の協力の下、軍馬・家畜馬として導入しました。馬の生産地は九州ではダントツ1位の熊本だけではなく、福岡が上位5位に入っています。 東北では福島だけではなく、3位の青森、7位に秋田、8位に山形、9位に北海道でも生産されています。
     元寇ではそのモンゴルと戦い、日本が勝ちました。弓騎兵の蝦夷(えみし)との戦いの中で、大和朝廷の警察兼軍隊である健児(こんでい)は重装長弓騎兵になりました。これをベースに重装長弓騎兵の武士が登場し、鎌倉幕府という軍事政権が誕生しました。平安時代から鎌倉時代の日本は牧(まき場)も多く、鎌倉時代の元寇では、重装長弓騎兵を20万人も動員し、軽装短弓騎兵のモンゴル帝国軍を撃退しました。射程の長い和弓でモンゴル帝国軍の指揮官を狙い撃ちにしました。
     競馬用のサラブレットは、民間では三菱財閥の小岩井農場が1907年、種牡馬インタグリオーと種牝馬20頭をイギリスより輸入し、本格的なサラブレッド生産に着手しました。サラブレッドの体高は平均160〜170cm。対して、日本在来馬の平均的な体高は130cmほどです。 日本在来馬のルーツとされるモウコノウマが120cmくらいであることから、もともと小型だった在来馬が明治時代以降に洋種との交配を経た結果やや大型化したという可能性も考えられます。引退した馬たちは行き先がほとんどありません。 毎年5000頭の引退馬たちが乗馬クラブへ渡っていきますが、多くの命が、人知れず失われているという事実があります。 人知れず殺され、馬肉として食用になっている可能性があります。 
     10世紀初めに作られた『延喜式』には官牧(国で作った牧場)が書き残されています。「左右馬寮」の官牧があったのは4か国・32牧、甲斐(山梨県)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・信濃(長野県)・上野(群馬県)、「兵部省」の官牧は17か国・27牧、駿河(静岡県)・相模(神奈川県南部)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・安房(千葉県南部)・上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部~東京都東部~埼玉県東部~茨城県南西部)・常陸(茨城県北東部)・下野(栃木県)・伯耆(鳥取県中部・西部)・備前(岡山県東南部・兵庫、香川県の一部)・周防(山口県東南部)・長門(山口県西部)・伊予(愛媛県)・土佐(高知県)・肥前(佐賀県・長崎県)・肥後’(熊本県)・日向(宮崎県)、信濃には「望月の駒」と呼ばれて都の貴族に大人気だった馬の名産地・望月牧をはじめ、山鹿牧 ・塩原牧 ・岡屋牧 ・平井弓牧 ・笠原牧 ・高位牧 ・宮処牧 ・埴原牧 ・大野牧 ・大室牧 ・猪鹿牧 ・萩倉牧 ・新治牧 ・長倉牧 ・塩野牧などの16牧が置かれていました。
     最初、信州では牧で馬を放牧していたことだけ知っていました。眞田一族も牧で馬を放牧していました。眞田氏の先祖の滋野氏は公家が信州に下向し、土着化したものです。滋野氏の先祖は馬と一緒に大陸から渡ってきたという説もあり、牧での馬の放牧を生業としていました。滋野氏から海野氏、望月氏、根津氏が分かれました。その海野氏から眞田氏が分かれました。
     左右馬寮の32牧のうちの半分が信濃の国が占めており、全国的にみてもとても良い馬の産地でした。もともと、馬は大陸から4世紀ごろに持ち込まれ、軍用・輸送用・農耕用などに活用するため、国の指導のもと飼育・繁殖されました。その後、力を持った豪族が自分の牧場を作って更に馬を増やし始めた。牧にはそれを管理する人がいます。しかも、何人もの人が必要です、また、馬を管理するためには馬を乗りこなす必要もあります。こうして、牧には大勢の人が集まり、馬の扱いに慣れた人は弓矢を取り武士に成長していきました。長野県では牧それぞれに武士団が発達し、特に望月牧を中心とする「滋野一族」は、佐久の広い盆地に広がって大きな勢力を持つようになりました。特に、海野氏は中原兼遠と結んでいたという系図も残されています。
     最近、NHKの番組で見たのですが、古代に朝鮮半島を経由して主に軍事用の馬を輸入しました。多くの酸性土壌ではpHの低下に伴い、溶出するアルミニウムイオンによる根の障害により、作物の生育は阻害されます。アルミニウムイオンの多い土地は稲作に適さないので、ここでは繁殖力の強いススキを牧草にして、馬を飼う牧場にしていました。草食動物をまとめて多頭数飼養するとなると、「まき場」が必要になります。難波、大和、平安時代は河内国の旧河内湖周辺の肥沃湿地に繁茂するヨシを拠り所に馬飼部造を置きました。次いで、信濃16牧を設けましたが、その3/4は湖跡、河川敷のヨシ原を中心とし、埴原牧と浅間山麓の3牧だけが丘陵地形上のススキ、チガヤが使われました。これ以後設立される牧場は山麓丘陵地が選ばれることが多く、大正初期発足の馬産供用限定地では、これが馬牧の標準的立地とみなされるようになりました。つまり、馬糧野草が湿性遷移系列から乾性遷移系列に変わりました。戦後は馬も野草もその用途を大幅縮小し、競走馬などが牧草地で僅かに飼われていますが、「牛飲馬食」と言われた採食量が野草時代に比べ低減し、逆転します。

  • @user-qn6zg7jz6b
    @user-qn6zg7jz6b Місяць тому

    貝柱は箸でクルクル回すと取れますよ!

  • @user-nc5fn9tw1h
    @user-nc5fn9tw1h 5 місяців тому +1

    大正湯行ってやす。

  • @HK-qt1kc
    @HK-qt1kc 5 місяців тому +1

    吉田類さん2回も来てる名店引き当てるとは…
    「炭酸が踊ってる〜!」の後に、メーカーがニットクさんか聞いて欲しかった(笑)
    小よしにも吉田類さん来ないかな😀