特攻 歪められた戦果 ~元兵士 戦後70年の証言~

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  • Опубліковано 28 гру 2024
  • 鹿児島・知覧にはかつて、特攻隊の基地があった。知覧特攻平和会館には、沖縄戦の特攻で命を落とした1036人の遺影が並べられている。昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸。知覧から連日のように特攻機が出撃した。4月22日、約50機が出撃する大規模な作戦が行われた。軍令部の記録には、海軍は2隻を撃沈、陸軍は第六航空軍が7隻、第8飛行師団が12隻に大きな損害を与えたとしるしてある。一方、アメリカ海軍作戦年誌には沖縄で特攻機によって損害を受けたのは7隻としており、日本側の記述の21とはかけ離れている。4月22日の攻撃に参加した高橋増雄さん(92歳)は知覧から沖縄に特攻機を誘導する任務を負った。特攻隊に与えられたのは、本来は作戦には使われない九九式高等練習機だった。高橋さんは特攻機を沖縄付近まで誘導して引き返した。戦果があったかは確認しなかった。
     福岡に司令部があった第六航空軍。司令官・菅原道大中将は戦後、回想録に「状況が許す限り、偵察機による偵察。隊長機に無電機をつけて攻撃開始を報告させる。無線電話の傍受、米軍は電話無統制でそれを傍受した。」としるした。北島令司さんは特攻機の突入を見届けるのが任務だった。北島さんは「ほとんど敵機に突っ込む前に海に落ちた。終戦間際はほtんど成果は無かったと思う」と語った。元通信兵・岡部覺治さんは当時の通信システムを使って当時の連絡の様子を再現した。岡部覺治さんは「突入報を突入するときには押しっぱなしにする。突入したか撃ち落とされたらその連絡は途絶える。自分の命をかけて攻撃に行った。地上にいるものとすれば、戦艦をひとつやっつけたと考えたい。そう言い聞かせた」と語った。
     戦果確認の3つ目の手段である米軍の無線傍受。4月22日のの特攻作戦にも記録が残されていた。「大破」など敵機を有効に攻撃していたと記されていた。通信傍受をしていた松本憲太郎さんは「一隻も沈んでない。そんなこと書いた人間いたんですね。ヒットしたけど大したことないときは、パス、過ぎたと記録した」と語った。後ろで戦果を判定していた上官がその戦果を誇張していた。
     歪められた戦果は国民の士気を高めるために使われた。米軍の当時の映像資料では「日本はあらゆる種類の航空機を特攻に使い、中には訓練機もある。アメリカ海軍は作戦を遂行した特攻機はわずか1%と見積もっている」と伝えていた。航空機による特攻で4000人の若者が命を落とした。高橋増雄さんは特攻機を誘導していた。2014年、戦後初めて知覧に行き、自分が誘導した人達の遺影と向き合った。高橋さんは「今自分があるのはこの人達のためだと思った」と語った。北島令司さんは戦後同僚の遺族を訪ね歩いた。特攻機の突入を見届けるのが任務だった北島さんは「俺の息子が死んでなんでお前がこんなところに来たんだと言われて胸が締め付けられる思いでした」と語った。
    2015/02/14

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