虚空の独り言18 悟った人の境地について

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  • Опубліковано 8 лют 2020
  • 虚空門前にて。誰もこないので独りでつぶやいたもの。
    ラマナ・マハルシ、ラーマ・クリシュナをはじめ、数々のインドの聖者が推薦したインドの聖典Ashtavakra Gitaをもとに、zero解釈を入れてできるだけ聴いてわかるようにまとめた。よって、この一連の動画は、あくまで一つの解釈・解説である。
    ヨーガの真髄、ヴェーダーンタ、シャンカラによる不ニ一元、イエス、釈迦、老子、ムハンマド、ルーミー、中世神秘家マイスター・エックハルトなどの真の意味をくみとる際の基礎かつ精髄と言える内容。要は結局同じ事である。
    「私の本性は真我・神・仏であるから怠惰に何もしなくともよい」と解釈するのは、易きに流れ悟らせまいとする自我の罠であり、真に本性にとどまり実現することはいつまでたってもできない。そこは注意深くお聴きいただきたい。行や瞑想を終えるとすぐにもとに戻ってしまうことを痛烈に指摘している箇所がある。
    聖典・行・瞑想の放棄は、安易に早い段階でなされない。ハシゴは昇った後最終的に、必要がなくなるのであって、それまでは活用される。
    いずれにしても、どうでもよいことであるが・・・
    ここに吹き込んだ雰囲気その他をお楽しみください。0
  • Розваги

КОМЕНТАРІ • 33

  • @kenjiokagmail
    @kenjiokagmail 4 роки тому +7

    ありがとうございます。無我に安らぐ方向を示してくださったようです。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +4

      コメントありがとうございます。

  • @user-vd4gr3og9q
    @user-vd4gr3og9q 4 роки тому +12

    よくぞここまで、言葉という脆弱な伝達手段で言い切りましたね。十分、伝わる人には伝わったでしょう。ありがとうございます。あなたのような人を待っていました。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +11

      解脱者がよく、「これは私がやったり言うのではなく、神がするのだ」と表現しますが、真の自己にぎりぎり迫った自我から発せられる言葉であったり、自我が真我と一致しているからです。そこには「私という個人の言葉・行為」という思いはありません。すべてに満ちているところから発せられる、ある一つの表現と言えるのでしょう。

  • @user-vv7nx4gg5n
    @user-vv7nx4gg5n 4 роки тому +7

    ただただ・・・
    ありがとうございます✨🙏

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +4

      ありがとうございます。

  • @user-oo9is4fn1d
    @user-oo9is4fn1d 3 роки тому +9

    決して言葉には表せない
    無我の境地を、あらゆる言葉を使って
    表して下さっている究極のメッセージだと感じます🌈
    聴くだけで、「在る」状態に戻れます。
    声に光波動が乗っているのですね✨
    ありがとうございます🙏

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  3 роки тому +7

      知としての真理に関する表現としては、かなり迫っていると思います。<ジュニャーナ・ヨーガ>
      しかし、これを単なる知識や感覚だけにとどまらず、生きた知、体現するためには、バクティ(信仰・明け渡し)が不可欠ですね。<バクティ・ヨーガ>
      とは言っても、気づくことができる狭い範囲だけでの明け渡しだけでは、実際には不十分です。
      ですから、意識できていない領域での邪魔になっているものを解消するために、<カルマ・ヨーガ>(「自分がやっている」や「解消したいから、悟りたいから」と言った想いなしに、ただただ必要な行法や日常での意識深化)の実践が必要となります。
      この3点は、三脚であってどれかが掛けるとバランスを欠いて究極に迫ることはできずに崩れてしまいます。並行してどれも重視しながら、バランスよく洗練させていただくことが肝要ですね。

  • @user-cq3to5kv6f
    @user-cq3to5kv6f Місяць тому +1

    公開しないでいいのですが。
    今日、子供に昔のことを話していたのですが、私の今、目の前に現れてある現象もまた過ぎ去って行くのだと思うと、真の私は変わっていないのに、目の現象が私も含めて変わって行くのに気ずきました。ラマナマハルシが言っていたフイルムてはこれだったのでしょうか。

  • @bhakuk5325
    @bhakuk5325 4 роки тому +7

    🙏🏻

  • @user-cr7oy3ru8p
    @user-cr7oy3ru8p Рік тому +1

    アドバイスいつもありがとうございます。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  Рік тому

      こちらこそ、活用いただきありがとうございます。

  • @MITSURUODANI
    @MITSURUODANI 4 роки тому +5

    『それを言っちゃあお終いよ』への終局へ向けて、じわじわといよいよぎりぎりのところまで来ているのでしょうか。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +6

      現代社会的には「身も蓋もない事」「何の役にも立たない事」と受け取られがちでしょうね、真理というものは。

  • @harumaki282
    @harumaki282 4 роки тому +7

    私という主観性が幻想であるのに、
    覚った人が何処にいるのか?とも思います。
    真我だけがある。
    神だけがある。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +7

      コメントありがとうございます。
      それがこの聖典の要点の一つですね。悟り、真我、神というものは、自我にとってのもので、実際にはどれも概念で、そもそもそのように呼べるものは無いというわけです。
      しかし「真我だけ、神だけ実在する」というような表現は、聖典や聖者の言葉にもよくみられ、無論、真理をそのように表現する事もできますが、真意をくみ取れないと「真我」「神」といったものに、なんらかの対象や概念を想起させがちなので、あえてそのような伝え方を避けるというスタンスもあります。この聖典で注目したいのは、「~だけ、全ては~」という表現しているところもありますが、最後の章で、「何も無い、無すら無い」というところまで突き詰めて表現しようと試みているところです。中世の神秘家マイスター・エックハルトの説教にもそのような突き抜けた表現があります。それが、言葉として一般の人に伝えられるぎりぎりの表現法の一つのように思います。
      「真我とそれ以外」、「神とそれ以外」といった分離や違いを観るのは自我ですから、実際には本来的な意味での真我や神というものは、「真我」「神」と呼ぶ事もできないはずです。どうしても何か名付けてしまうとすぐそれにイメージや概念がついてきますから。そういったことから、他の章で「彼が成ったもの、それに呼び名はない」という表現や、
      「真我?それが何だというんだ?」「そもそも悟るべき何があるんだ?」といった類のつぶやきで表現されています。ただ、こういったことが本心から言えるのは、いわゆる解脱者だけであって、しかも同時に自我とつながっている特殊な状態の時にあり得る言葉ということになります。そうでなければ、単なる知識からの言葉に過ぎなくなってしまいますね。
      絶大な人気を誇るラマナやニサルガといった聖者たちすら、そういった言葉を発っした時に常にその状態だったのかはわからないと思います。彼らにとって、実際にその状態の時があって、その実体験の記憶としての「知識」や、彼らも学んだ聖典からの「知識」を表現として取り入れながら人々に伝えた可能性があるということです。
      だとしても、いわゆる凡夫の自我からこういったことを表現して伝えるのと、真我に飲み込まれた・一致してしまった自我が何かを行う場合は、別物です。自我としての働きはあってももはや自我と呼べない、それを超えたものからくる表現・反映とも言えるものになります。これは傍からは判別が非常に難しいものです。表面的には、同じことを言葉にすることが可能だからです。
      ですから、他の動画でも話した事がありましたが、そんな他人の状態を気にするより自分の精進ということに、意識を向けた方がいいのでしょう。これも含めて、探究者が陥りがちな誤解やよそ見をぬぐい去るかのように、解脱者について伝えるために、そもそも解脱自体あり得ないことを明確に言い切っている内容は、聖典の中でも群を抜いて純粋さが感じられますね。名立たる聖者達が勧めた聖典だけあります。

    • @harumaki282
      @harumaki282 4 роки тому +7

      丁寧なお返事、誠にありがとうございます。
      「何も無い、無すら無い」とは、
      「在るの対極としての無」なども無いところという印象を受けました。
      全てに先立つそれというか。
      「悟った人」、「彼」とは、すなわち真我のことなんだなと改めて思いました。
      この世界の人々、物、事、全てに先立つ透明性のようなものでしょうか。
      「愚か者」とは、今この瞬間の思い、感覚、肉体を自分としている自我のことでしょうか。
      「解脱」や「悟った状態」という考え方が、じつはトラップな気がしてなりません。
      そういうものを信じることで個人としての自分をキープしているような。
      ある意味、自我の抵抗なのではないかと思います。
      本来、「それ」以外ありえないというのが唯一本当の真実で、
      どうやったって常ににそうであるということを受け入れていいように思います。
      段階的に悟りに到達しつつある人というのがそもそも存在していないと今は信じています。
      気づきを与えてくださる素晴らしい動画をいつもありがとうございます。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +6

      聖典や真理に関する表現は、独特のとらえ方が必要です。一種の詩的な解釈です。「解脱者・彼・師」というのは、文脈によります。真の意味でつかわれる場合、それは真我や神そのものと同義であるはずです。
      「愚か者」というのも一般的な意味ではなく、真我と一致しておらず、分離を観ているもの全てということです。
       おっしゃる通り、解脱・真我実現と言われるものは、「状態」と呼ぶにはあまりに突き抜けたものです。ですから、どのようなものであれ言葉で表現されれば、いかに今回のつぶやきがかなり純粋に真理に迫っているものだとは言え、やはり限界はあると感じます。しかし「真我や神、悟りや解脱、聖典や聖者の言葉」といったものを全て蹴散らし、その後にさらに「無すら無い」という流れは、真理に言葉で伝えようとする試みとしては多くの探究者の方々のために伝えておきたいと思いました。また、私のチャンネルがいかに聖典や行のことを伝えるものが多くとも、この真理を忘れないでいただきたいのです。
       確かに悟りや解脱やそのために行は、自我にとってのものです。それは常にただそこにあって満ちているものです。しかし、肉体や私意識に深いところでとらわれていることをまずは認めなければ、真我を「知っている」だけでいつまでたってもそこに完全にとどまることにならず、自我に引き戻されます。自我との一致は想像以上に根深いものです。途方もなく。言い換えれば、真理を頭だけで体現しようとすることは、途方もないことを安易に夢見ているだけということです。
      今現在とらわれているところから解消していくと、着実に迫り易いことから、いわゆる行がツールとして活用されます。その方法は無数にありますが、いずれにせよ今回のシリーズの核心を忘れて行うのであれば、全て自我のためということになってしまうので、強烈な注意として印象づけたかった意図もあります。
      真理の知と行・実践は2枚の羽です。いずれかが欠けても「すでに真の自己だ」ということを、頭ではなく本当にそれに「成る」という飛翔はできないのです。飛び立つためには、飛び立とうという意志、飛び方を知っている事、そして実際にそれをすること、これらが統合されて初めて実現されるという、ごく当たり前のことが、ここにも当てはまります。知と行の双方をいろいろ紹介・共有できればと考えています。
      コメントありがとうございます。

    • @harumaki282
      @harumaki282 4 роки тому +6

      たしかに、自我との一致は根深いですね。
      この事を見抜けた上で、そのことにとらわれる事なく在りたいと思います。
      感謝、喜び、静けさ。

  • @user-kd1xe9yg2w
    @user-kd1xe9yg2w 2 роки тому +3

    I'm not
    Everything's unity

  • @TheShue777
    @TheShue777 4 роки тому +6

    まずもって不可能と思える定義だとわかります(^^)
    だが定義してみることに意義がある。
    そのような方がいるなら有無を言わさずまずはひれ伏してしまうでしょう。
    そしてそこからです。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 роки тому +4

      そうですね。定義はいかになされようと、自我にとってのものです。
      真の自己に迫るには、「赤子のようでなければならない」とナザレのイエスが言ったように、何かに対する定義に無頓着である方がよいのです。長年、世界を言葉や定義、概念でとらえる事に慣れ切っている場合には、いきなり一足飛びで赤子の状態に戻るのは難しいので、定義や概念を洗練させ水晶のような、純粋な結晶、本質以外をできるだけそぎ落としていくと、それを手放すのも楽になってくると思います。余計なものをたくさんつけているから、手放すのも難しい場合が多いのでしょう。

  • @user-hl5hr7jg1f
    @user-hl5hr7jg1f Рік тому

    なんか神ってますね裏側の出来事のようにも思えていますよね!!!
    なにかのつぶやきかしらね!!!

  • @user-ny7xk5ph4x
    @user-ny7xk5ph4x 3 роки тому +4

    ゼロさんは、この動画で言っているような、悟った人で、そういう境地なのですか?

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  3 роки тому +5

      自分として見ている対象が、どういう「境地」にあるかに関心がないので知りません。他者として見ている対象も、自分として見ている対象も結局同じもので、しかも、「境地・段階・状態」というのは、全て我執を基盤とした自我の範疇に過ぎないでしょう。それらがどういう「境地」だろうと関心が持てないのです。
       勘違いされる方が多いようなので、折に触れていつも言ったり書いたりしなければならないのですが、
      私は悟り・聖者・聖典といったものにそれ程興味があるわけではないのです。
      以前、興味があったことがあったので、私の内に情報や経験や技法などが大量にあって、そういう事に関心がある人たちに何か聞かれたり頼まれた時に、内から湧いてくるまま対応しているだけです。
      この動画の内容も、チャンネルで今メインでやっている事も、本心では全て他愛もない物だと感じているので、気の向くまま気楽にやっております。
      古くから私の活動を見ておられる方々は、その辺り、よくご存じだと思います。

    • @user-ny7xk5ph4x
      @user-ny7xk5ph4x 3 роки тому +3

      @@ArtOasisZero
      分かりました。
      返信ありがとうございます。

  • @user-kd1xe9yg2w
    @user-kd1xe9yg2w 2 роки тому +2

    Experience is not memorized

  • @user-xw7gc7xx7b
    @user-xw7gc7xx7b 4 місяці тому +1

    肉体を持ってして欲が完全になくなることは在るのでしょうか?子どもは純粋な欲だけのような。息を吐いた後吸いたくなり苦しむでしょう。あるがままにの“在る”とは?意識してない体の働きだけという事でしょうか?真我と一体化した状態をコントロール出来るのでしょうか?

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 місяці тому

      欲も呼吸も肉体から湧いてくる自然な現象です。
      真我でないものは、そもそも存在しません。全てが真我なのです。ですから、「真我である事」「ありのままである事」というのは、コントロールしたり、「ありのままでいよう」という想いによって成される事ではありません。
      私意識も含めて何らかの想念や観念と自己同一化してそれを「私」だと信じる事も、真我であろうとする事も、意識をどうこうしようとするのも、全て自然に湧いてくる想念ですが、こういった本来の自己に留まる事を阻害しているものを減じていくのがヨーガの様々な行です。
      心や肉体があっても想念が湧いて来ても、それに囚われず離れている事がポイントです。それらは全て「私」でも「私のもの」でもない事に確信が持てるまで諦めずに続ける必要があります。

    • @user-xw7gc7xx7b
      @user-xw7gc7xx7b 4 місяці тому

      言葉は意思を伝える手段ですが、創り出した概念故になかなか100%真意が伝わらないですね。例えでお願いします。
      心臓が動いている事実と風で木の葉が揺らぐ現象は両者とも真我である。これ正しいでしょうか?とらわれず明け渡す(離れる)のがポイント。行は必須ではなく、「私は誰?」と内面への問いかけで宜しいのでしょうか?教えて頂ければ幸いです。

    • @ArtOasisZero
      @ArtOasisZero  4 місяці тому

      心臓、風、木の葉、すべて真我です。それを真我でないと観るのは自我を個別の存在として自己同一化して観ているからです。
      「私」と「世界」が分離して実際に存在していると感じている人にとっては、行は必要です。ヨーガの行も日常生活も、いずれも行です。ただ「私は誰」と問いかけているだけでは意味がありません。これは「私は誰」と問うインド伝統の行法を広めたラマナ・マハルシも言っている事です。
      「私は誰かと問う事」とはつまり、「私」というものは概念に過ぎず、誤った自己同一化であるという事に常に気づいていくという事です。常に何をしていても誤った自己同一化から離れて、起こってくる想念や行為を自分のものとして観ないということを継続するのです。
      これは真剣に目の前の事に没頭して取り組む事によってもできる修練です。それは行でも日常でも、いついかなる時でも何をしていても、出来る限り行い、結果も捨てて行っていく事がポイントです。
      途方もなく根深いこの根本的誤解・無明を完全に焼き払うには、水から出された魚が水を求めるような必死さで、この根本的誤解を払って切って離れようとする熱意が継続されなければなりません。
      半端な覚悟や頭でやっても、実際には何にもなりません。
      そういった熱意が湧いてこないなら、ただ日常生活を大切に真剣に生きる事です。ヨーガの行もできれば取り組むと助けになるでしょう。余計な囚われが減るにしたがって、おのずから必要な熱意や知恵は内から湧いてくるようになります。

    • @user-xw7gc7xx7b
      @user-xw7gc7xx7b 4 місяці тому +1

      詳細なご教授ありがとうございます。
      感謝いたします🙏。
      真我は苦や至福を区別せず求めない。