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【修正】「鹿助」ではなく、「鹿介」が正しいです。動画全編にわたって「鹿助」になってしまっています汗。
故郷の名将です。紹介して貰って嬉しいです。
忠義を尽くしても諦めずに戦いを辞めないてのはカッコイイけど、それが報われるとは限らないてのが残酷だな
山中鹿介の主君って義久なんでしょうか?勝久なんでしょうか?尼子再興を果たしたとして尼子の当主は誰にするつもりだったのでしょうか?
晴久が粛清した側の、しかも既に僧籍に付いて大人しくしてた勝久をいきなり引っ張り出して、尼子の敵だった山名に縋って豊国にまで見捨てられてるからな…三沢為清等の旧尼子家臣は毛利家に仕えたりしたけど、鹿之助にとっては、新宮党が好き勝手振る舞えた時代の尼子が理想だったんだろうか…(忠義の対象が人<<体制)
悲しいけど、それが戦国の世の常なのがキツい鹿之介ほどの男なら別の武将に仕えても勇名を轟かせる実力はあったんだろうけどあくまで主君と共にある事を選んだそれを武士の鑑なのか使える主君を間違えた破滅なのか
本当そうですね!どうして殺されるの?此れってあまりにも理不尽過ぎるわ!😡
@@直人鈴木-h8vそれくらい、毛利家にとっても厄介な存在だったんでしょう。にしても、一人の武将に大大名が手を焼くとは。鹿之介はどれだけ強かったかが分かりますね。
山中鹿之介の母親は家が貧しくても自分がボロい着物着てても近所の子供達に飯を振る舞い、衣類を与えていた。鹿之助には「仲間を裏切ってはいけない。苦しい事、楽しい事は分かち合いなさい。」と教えた。それが山陰の麒麟児を生んだ。
こういう忠誠に熱い武将は大好きだ
三国志で例えるなら呂布に忠義を尽くす高順、劉璋に忠義を尽くす張任ですね。😊
山中鹿助は尼子再興は果たすことが出来なかった上に毛利軍に処刑された最期になったが、鹿助の長男の幸元とその子孫は明治時代鴻池財閥の基礎を作り、明治時代に毛利氏以上の権力を握ることが出来て、現在も鴻池財閥の流れが続いている。山中鹿助が言った七難八苦を耐え抜いた褒美が明治時代にやって来たと感じる。
長男幸元は摂津の国で清酒を製造して財を築いたそうです。
こうやって支えてくれた部下がいて勝久も嬉しかっただろうな
武士は生き様。そして死に様。お家は滅んでもその生涯に感銘を受けた後世の人々が誇り高きサムライと評価される。子孫が残ってればそれでお家の未来も開ける。 自分たちも生き様なのよなあ....。こういう筋の通った人生に憧れる。
お疲れ様でした。江戸明治はガチであの真田より人気をほこる戦記ものだったそうです。それが時代と共に風化し、戦時中その忠義で再度もてはやされたものの、やはり時代に合わないと、地元以外また忘れ去られようとしています。現代人にはとても理解しがたい忠義という信念。今後の熱い志は世の中に存在しうるか?ですね。
軍師官兵衛の鹿之助の最期は泣けたな‥‥積年の想いの報われなさがあまりにも辛かった
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ!」の言葉が有名ですね
そして三日月は本当に願いを叶えてしまった
尼子家「あれっ……? これお前が願ったせいで当家が被害受けたんじゃ……」
ドラえもんの単行本にのび太の親父が山中鹿之介の話をのび太にする一幕があってびっくりしたし昔はそのくらい有名だったんだろうなあ
個人的に鹿助はドラえもんで知りました。くろうみそと言う道具の話で出て来た事で印象に残ってます。
もっと利口な生き方もできたのだろうが愚直さゆえに人々の記憶に残った武将って感じですかねえ…
古郷の島根では、昔は社会科の教科書に記述皆無などでも、地元の有名人関係の人生模様、経歴偉業?などを教師や祖父母両親親族などから、(昔は)自然と教えられていました。 動画作成投稿に感謝します。
関西に鴻池という財閥があったらしく、その開祖が鹿之介の子孫だったと聞いた事があります。鹿之介の熱意が子孫にも引き継がれた結果、財閥として力を持てたのは不思議ですね。
鹿の子の子の子 虎視眈々
今は鴻池グループだよね
一昨日、備中松山城に行った際に山中鹿之介殿のお墓に手を合わせたばかりなのでタイムリーすぎる!
山中鹿介を待っていました。すばらしい内容で知らない方にも彼の忠義をわかって頂けると思います。鹿介と同郷の者として感謝いたします。
忠義に厚く、長身で美男子だったとか。
義久への忠義は?
同じく同郷です。素晴らしい紹介されて本当に嬉しい😂
吉川元春に捕らえられた時に「腹を下した」と便所通いを繰り返して、番兵を油断させて「そこ」からくぐり抜けて脱走したそうなんですが。
あまりにも厠が長くて、毛利兵がもしかして倒れてるんじゃね?と心配して見に行ったら脱走が発覚した
この武将の名前を初めて聞いたのはドラえもんだった。のび太のパパがのび太に説教する時に例に出してました。どういう人物かこの動画で初めて知りました。ありがとうございます。
大好きな武将の1人ですが、あえて言います。忠勇義烈、清廉潔白な人ではない。乱暴で欺瞞、利己的な人柄です。毛利領内で山賊もしています。全てはお家再興の為。宇喜多直家と似ていると思います。だからこそ戦国時代で重宝されたのでしょう。
待ってました!!ゲームがきっかけではありますが、今現時点でハマってる武将です!!
本当に日本の歴史の中でも戦国時代はロマンの宝庫だなぁ。感動した!
第二次まででもすごいのに第三次、実質的には第四次まで再興運動をしていたのすごすぎる!!
この人の大河ドラマ見てみたいなぁ
ほんとね…、大河ドラマでやってほしい男だよ
肥溜め潜って脱出する場面も?
@@クッパ大王 ショーシャンクの空に みたいな
毛利家相手に良く立ち回ってたな😊
戦国時代の武将などもっと投稿してくれたら知らない人でもすぐ覚えられる教科書みたいで日本史を学ぶみたい鹿之助真面目だな
戦前の教科書には、忠義に篤い立派な武将として山中鹿之助が載っていたらしいです。元寇の絵巻とかもそうですが、日本は敗戦してからGHQの方針があり、教育も価値観も変わってしまったようですね。
尼子軍随一の武士、山中鹿介尼子再興のために命をかけた鹿介。羽柴秀吉も鹿介の死を悲しんでいたらしいです
七難八苦なんぞ望まなければな…結局最期は信長と秀吉に見捨てられる形になったな…とは言え、織田や羽柴(豊臣)より子孫は栄えたみたいだが…
別所の謀反がなければ尼子再興の可能性が高かったことを考えると本当に惜しかったと思います
毛利推しとしてはいい迷惑でした
自分は宇喜多推しなので尼子再興して欲しい派ですね😂
常に不屈の精神で尼子再興に命懸けでまさに我に七難八苦を与えたまえと唱え続けた、山中鹿之助、忠義の武士ですね、小説でこの人物に出会ったときは衝撃を受けました。戦国時代にこんなにも凄い人がいた事に感動すらあったことに嬉しく感じる所存です!動画有難う御座います、🎉
泣けるわ
初めて聞いた歴史人物です!もっとこの歴史人物について調べよう!
主家の為に命を掛ける..山中鹿助幸盛お見事👍
確か海音寺潮五郎さんが彼はそのまま羽柴秀吉に仕えていれば間違いなく一国一城の主になれたと書かれていた。それから領内で尼子の再興しても良かったかも知れない。黒田官兵衛が旧主の小寺氏を自分の領土で再興させたみたいに。
日本酒大好きな自分としては息子さんにも感謝してます
忠義を尽くしたのはあくまで「尼子家」であって「勝久」個人でなかったという視点からだと評価が分かれますね
鹿介の生涯と姜維の生涯が何処か重なると考えるのは私だけでしょうか?
主家の為に再興をめざした美談にされてるけど、主家の義久が毛利に下ったのに勝手に暴れれてた脳筋武将に思える。尼子の為を思うなら、毛利家臣として武功を立てる道もあったと思う。戦国の世では戦に負けた大名が勝った大名の有力家臣に。みたいなこともちょいちょいあったわけだし。
尼子義久は、30年も幽閉され出家し生ける屍と変わらない状態であり、大名はおろか武将でもなくなったらから、仕える主君では無くなったんだよね。鹿介はあくまで大名としての尼子家復興を願ったが、義久には野心も大名に復帰する気も疾うに無くなっていたと。
@@dutj9ehr 義久が降伏して幽閉されたのは1567年。尼子再興軍が立ち上がったのは1569年。2年で反逆者の子ども連れてきて旗揚げしてるんよな。大義名分が完全に終わってるんよ
運が悪かったのと行動が早すぎた。もう少し織田家が毛利家に攻勢を仕掛けた時に再興に動いていたら。
それが亀井茲矩です
やっぱり毛利元就こそ最強では。こんなに大きい内戦が同時に勃発してもまとめ上げて見事に鎮圧してしまうとからね。明智光秀への洞察力も恐れ入った。山中鹿之介の動画だが毛利元就の采配に恐れ入る。
合戦の勝率は化け物級に高いらしいね。
山中鹿之助の話なら「我に七難八苦を与えたまえ」は出してほしかったね。
忠義の士ではあったんだろうけど、当時の尼子宗家にとってはありがた迷惑だっただろうな。宗家当主である義久とその家族は毛利領内で幽閉の身でありながらも生きてるのに、勝手に分家の者を旗印に担いで軍事行動をしてるんだから。
忠義を尽くして尼子家を再興させたいだけなのにどうして殺されなあかんのや!😡巫山戯るな!😡同胞を失ったって言うのはとんだ逆恨みや。😡
ワタクシは鹿之助よりも尼子勝久様に涙した
大好きな山中鹿之助様を取り上げて下さり、有難う御座います😂めっちゃ嬉しいです⸜(*ˊᗜˋ*)⸝
戦国無双5で初登場したしかのすけ君!ずっと気になってたので嬉しいです!!
織田に頼るという選択は正しかったが、所詮は外様、便利使いされてあっさり見捨てられてしまう。悲しいなぁ
山中鹿之介公ですが江戸時代の中山みき公と言う人物みたいな波瀾万丈の人生を送っている気がします。もしかしたら中山みき公は山中鹿之介に憧れており影響を与えたかも知れません。
山中鹿之助の大河ドラマみたいなぁ🤔
単純な一騎打ちの能力では最強の噂も名高い山中鹿之介最近は鹿之助ではなく鹿介って書くことが多いんですかね?たまたまですかね?月山富田城この前初めて行ったんですけど、御子守口の七曲り本当にキツくてエグかった…あそこを敵を警戒しながら攻めていった兵士って凄いと改めて考えさせられた
古河公方足利成氏やってください❤
長男はよく父親に引き摺られず商人としてよく成功出来たな。
大名としては滅亡してるけど尼子義久は関ヶ原後まで毛利の客将として生きてるし子孫は明治まで毛利氏に仕えてるし尼子再興の前に義久の側に居たほうが良かったんじゃないの?
ちなみに鹿之助は史実で一騎打ちの記録が残る珍しい武将。第二次月山富田城の戦いなどで毛利軍の武将を討ち取ったと記録されている。三国志(主に演義)ではよく武将が一騎打ちする(史実で一騎打ち頑張ってったのは孫策vs太史慈や関羽vs顔良くらいだが)シーンは良くあるが戦国時代で一騎打ちで名を残すのは珍しい。
@@多聞丸-w5t さんへ討ち取ったのは品川大膳だったよな?
@@クッパ大王おっしゃる通りです。他にも品川大膳以外にも複数の武将を一騎打ちで討ち取ってますが、やっぱり品川大膳との一騎打ちが有名ですね。
鹿之助の血は絶えず、鴻池善右衛門はその流れって話もあったような…。
16:45尼子勝久、ぐう聖すぐる…
山中鹿助幸盛の血筋は続いており、息子・幸元は逃れた先の鴻池(現・兵庫県伊丹市鴻池)の姓を名乗り、豪商になったという
地元の一つです。荒木村重、上島鬼貫、行基さんに並ぶ、地元の偉人だと思います。
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話からドM扱いするリプレイ動画が某所によくあったなあw
ここまで詳しくは知りませんでした。惜しい人材ですね。
戦国無双5の山中鹿介は毛利元就と戦って相槌になって倒れた印象
毛利家はあまりにも強すぎました元就がいなくても元春、隆景がいます。
そして元春、隆景がいなくても輝元、広家、秀秋がいます
そして昭和、毛利名人がいます。高橋名人も青色吐息になりました。m.ua-cam.com/video/I9dp_1LC3rA/v-deo.html
次回、遂に甲斐姫が登場するのか!
待ってた
上月城の戦いの時に秀吉は勝久に脱出するように手紙を送ったけど籠城を続けたとか……尼子勝久と山中鹿之助が生きていたら豊臣家に何らかの影響があったかもしれませんね。
秀吉の家臣下で尼子家の別家という形で再興できたかもしれない。それこそ、小牧長久手の戦いで徳川軍相手に一騎打ちとかしてそう。勝久と鹿之介以下尼子旧臣が生き残ってる世界線を見てみたい。
あと少し、秀吉が天下を獲るまで生き残れたなら鹿助の尼子再興は成功したかも知れませんね。上月城を信長が見捨てた時点で打つ手なしではあったかもですが。そして尼子家と言えば八つ墓村の祟り!
メッチャカッコよく毛利家持ち上げてるけど、長男がネガティブ…w。
鹿助を連れていかなった義久は、「降将」が如何にあるべきかは心得ていた気がする。戦闘能力がメインで評価される後世の創作や戦国ゲームでは無能描写に落ち着いてしまうけど、評価以上に智慧がありそう。尼子家に「もう少し年配の鹿助」が何人かいればそもそも毛利に負けてなかった筈だけど、現実はそうではなかったのだ。
七難八苦の逸話のせいで、後世にドMとか揶揄されることになるとは思わなかったろうなぁw
祖母の実家が尼子関係の土地だったからか子供の頃より鹿之助の忠義が教科書に記載されて皆当たり前のように習って皆知っていたのに戦後位から忠臣蔵の忠義の方が全国的に有名になっていったのが切ないと申しておりました。
今度は吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊をお願い致します。
なぜか定期的にすっ飛ばされる毛利家
徳永先生が広島ご出身なので、むしろ濃い話を複数考えてるとか?
山中鹿介は、尼子家再興にこだわらずに他家に士官する生き方もできたと思う。
やっぱアツいねぇ
義久「勝久め…勝手な事をしおって…犬死にも程がある…我が尼子は毛利家に仕える道を選ぶ…!」
そんな義久の思惑を崩壊させたかもしれない尼子再興軍。幽閉されても毛利に恭順する道を選んだ義久にとっては、迷惑なものだったかも知れないですね。
@@rui_koshigawa 実際に尼子再興軍は滅ぼされたのに対して、義久を始めとした毛利家に投降した側は後に許されて毛利家の家臣団に組み込まれてますしね
動画ありがとうございます。板垣退助が一目置いた人物ですか。自由民権運動の代表、爵位を得るも自分の代だけで返上するとかどこか一途なところは似ているかもしれません。
最後の紹介は甲斐姫ではなくのぼうさまが良かったな
毛利家「しつこいぞお前ら💢💢💢‼️」しかし、鹿之助の子孫は商売で今も血縁は残ってるみたいね
鴻池グループ調べてみて!だよね
良くも悪くも、自己中心的で、周囲を振り回す人という印象。
鹿之助の首は備中高松城での首実検後、備後の鞆城に送られました。鞆城では足利義昭将軍も首実検したとのこと。首はその地に埋葬され、鞆の浦には現在でも首塚が鎮座しています。
鹿之助は生き続ける、、、伝説として。
勝久は切腹することになった際に鹿助に夢を託すも、それは叶わなかった。鹿助は勝久にあの世で何とわびたのだろう。
山中鹿助の本名は幸盛で山陰の戦国武将で私の住んでる岡山県が最後の地なのよね、高梁市に鹿助の墓がある
7:43 この時に大友家が呼応してれば毛利家もヤバかったかもな
忠義という信念はどこから生まれるのか?理解に苦しむ。
輝じゃなく輝の家臣が勝手に鹿之助を謀札したみたいな内容あるけど、輝も関わってる可能性高いと思うけどね
戦国大戦でお世話になったなぁ〜
かっこいい武将だけど報われなかった
尼子家再興のために尽くした山中鹿之助。彼の三日月に誓った『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』のシーンは大河ドラマでも登場して有名でしたね・・・・🤔でも、そんな鹿之助の願いは叶わず、あのような結末を迎えるなんて、戦国の世とは言え悲しいですね・・・・😢
どちらかと言うと願いが叶ってしまったんだが…
??鹿?「しかのこのこのここしたんたん!しかのこのこのここしたんたん!!(野太い声で)」毛利軍「ひえ〜〜〜」尼子義久「や、うちは関係ないので…」
義久には鹿介の行動は迷惑そのものですね。
尼子再興と言ってるけど当主の義久は特に動かず余生を送ってたが鹿之助をどう思ってたんだろうか
逆に鹿介も当主の義久をどう思っていたのだろうか
@@ricken_620 勝久を担ぐ辺り見限っていたかもしれませんね毛利に降る人を当主と認めない感じで
人生は山あり谷あり
七難八苦を三日月に願ったのだから本望やろ
山中鹿助ら「尼子再興!」尼子義久「え?やめてw」
ほんとそれwww
本当に「相手が悪すぎた」としか・・・(7:35)この決断力と判断力、臨機応変に対応できる柔軟さが「毛利強し」の基盤なのでしょうね(明智光秀)そういえばこのお方、割と忠臣でしたね(なお本能寺)
最後まで主家の再興を諦めず何度でも挙兵する。後世の自分たちは胸を打たれますが、当時の敵勢力は気が気じゃないでしょうね。
毛利側から見れば泳がせておけば領内の反毛利勢力をまとめてくれるのである意味都合が良いけど織田家との衝突が始まると何をしてくるか分からない物騒な人物なんだよなだから最終的には始末されたんだろ
山中鹿之介をどう評価するか分かれそう主君に忠義を尽くし最期まで共に戦った忠義の武士かはたまた沈む船(尼子家)から脱出せず別の陣で名を轟かせる機会を逃した愚者か人によって評価は変わるな
七難八苦望んだせいで本当に七難八苦来ちゃった人
@@蛍丸-z1o さんへ俺が言霊はあると思ってる理由になってる出来事
尼子の本家の尼子義久が幽閉されているとはいえ生きていて何だかんだ関が原くらいまで存命してるのに新宮党の血脈で尼子復興って大義の面で無理があるとしか思えない。塩冶興久とか尼子国久って尼子の言うこと聞かなかった西出雲の旗頭だし。
尼子氏再興と言えば聞こえは良いが、下手をすれば毛利の元にいる尼子義久が誅殺されるかも知れない行為。私は過大評価されてる武将だと思っています。
@@rui_koshigawa 粛清された新宮党の遺児を連れてきて尼子の当主ですよって言ってるの正気の沙汰じゃなくてビビる。こんなんに乗っかった尼子旧臣とか出雲、石見、伯耆の国人ヤバすぎとか思っちゃうよね
まあ、それでも当主で良かったって言っているので、勝久も惨死覚悟で挑んじゃないですかね?
勝久はそれで良かったかも知れないが、もしも毛利が尼子の一族根絶やしなんて出たら、義久としたら大迷惑な話だったと思います。
小早川隆景の生涯 お願いします!
戦前戦中は人気のある英雄だったけど、戦後はGHQの意向で一気に貶められたよなぁ
山中鹿介は日本人の心にとても響く人で自分も生き方は好きなんだけど、批判されるのは覚悟の上で書きますが本人に人望が本当にあったのかは微妙だと思う。旧尼子家臣はそりゃついて来るだろうが、再興運動も短期間で終わっている所から地元の地侍や寺院や民衆や他勢力からも支持されなかったの可能性があると思う。上月城でも信長勢力から見捨てられたりしていますし。あと毛利側の視点からすれば、テロリストでしかない。本当に尊敬されるほどの人格者なら、名も伝わらぬ家臣に殺されるだろうか?とにかく講談の脚色による贔屓を抜いて考えないといけない人物じゃないかなとも思います。
人望以前に尼子本家の義久が生きてて「大名家」としては滅亡してるけど「家」としての尼子家は残ってるのに本家を蔑ろにして復興って筋が通ってないから。なんか変だぞ?って違和感は普通に感じる話だと思うよ。
@@斉藤有志-r7s なるほど、その観点もありましたね。勉強になります。義久からしたら「余計なことすんなよ、毛利に世話になってる俺の立場はどうする気やねん、死ねってか?」て感じですよね。個人的には山中鹿介って尼子家臣が自分の土地を取り返したいのに、利用されたのでは?とも考えてます。
【修正】
「鹿助」ではなく、
「鹿介」が正しいです。
動画全編にわたって「鹿助」になってしまっています汗。
故郷の名将です。紹介して貰って嬉しいです。
忠義を尽くしても諦めずに戦いを辞めないてのはカッコイイけど、それが報われるとは限らないてのが残酷だな
山中鹿介の主君って義久なんでしょうか?勝久なんでしょうか?
尼子再興を果たしたとして尼子の当主は誰にするつもりだったのでしょうか?
晴久が粛清した側の、しかも既に僧籍に付いて大人しくしてた勝久をいきなり引っ張り出して、尼子の敵だった山名に縋って豊国にまで見捨てられてるからな…
三沢為清等の旧尼子家臣は毛利家に仕えたりしたけど、鹿之助にとっては、新宮党が好き勝手振る舞えた時代の尼子が理想だったんだろうか…(忠義の対象が人<<体制)
悲しいけど、それが戦国の世の常なのがキツい
鹿之介ほどの男なら別の武将に仕えても勇名を轟かせる実力はあったんだろうけどあくまで主君と共にある事を選んだ
それを武士の鑑なのか使える主君を間違えた破滅なのか
本当そうですね!どうして殺されるの?此れってあまりにも理不尽過ぎるわ!😡
@@直人鈴木-h8v
それくらい、毛利家にとっても厄介な存在だったんでしょう。
にしても、一人の武将に大大名が手を焼くとは。鹿之介はどれだけ強かったかが分かりますね。
山中鹿之介の母親は家が貧しくても自分がボロい着物着てても近所の子供達に飯を振る舞い、衣類を与えていた。鹿之助には「仲間を裏切ってはいけない。苦しい事、楽しい事は分かち合いなさい。」と教えた。それが山陰の麒麟児を生んだ。
こういう忠誠に熱い武将は大好きだ
三国志で例えるなら呂布に忠義を尽くす高順、劉璋に忠義を尽くす張任ですね。😊
山中鹿助は尼子再興は果たすことが出来なかった上に毛利軍に処刑された最期になったが、鹿助の長男の幸元とその子孫は明治時代鴻池財閥の基礎を作り、明治時代に毛利氏以上の権力を握ることが出来て、現在も鴻池財閥の流れが続いている。山中鹿助が言った七難八苦を耐え抜いた褒美が明治時代にやって来たと感じる。
長男幸元は摂津の国で清酒を製造して財を築いたそうです。
こうやって支えてくれた部下がいて勝久も嬉しかっただろうな
武士は生き様。そして死に様。お家は滅んでもその生涯に感銘を受けた後世の人々が誇り高きサムライと評価される。子孫が残ってればそれでお家の未来も開ける。
自分たちも生き様なのよなあ....。こういう筋の通った人生に憧れる。
お疲れ様でした。江戸明治はガチであの真田より人気をほこる戦記ものだったそうです。それが時代と共に風化し、戦時中その忠義で再度もてはやされたものの、やはり時代に合わないと、地元以外また忘れ去られようとしています。現代人にはとても理解しがたい忠義という信念。今後の熱い志は世の中に存在しうるか?ですね。
軍師官兵衛の鹿之助の最期は泣けたな‥‥
積年の想いの報われなさがあまりにも辛かった
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ!」の言葉が有名ですね
そして三日月は本当に願いを叶えてしまった
尼子家「あれっ……? これお前が願ったせいで当家が被害受けたんじゃ……」
ドラえもんの単行本にのび太の親父が山中鹿之介の話をのび太にする一幕があってびっくりしたし昔はそのくらい有名だったんだろうなあ
個人的に鹿助はドラえもんで知りました。
くろうみそと言う道具の話で出て来た事で印象に残ってます。
もっと利口な生き方もできたのだろうが愚直さゆえに人々の記憶に残った武将って感じですかねえ…
古郷の島根では、昔は社会科の教科書に
記述皆無などでも、地元の有名人関係の
人生模様、経歴偉業?などを教師や祖父母
両親親族などから、(昔は)自然と教えられて
いました。
動画作成投稿に感謝します。
関西に鴻池という財閥があったらしく、その開祖が鹿之介の子孫だったと聞いた事があります。
鹿之介の熱意が子孫にも引き継がれた結果、財閥として力を持てたのは不思議ですね。
鹿の子の子の子 虎視眈々
今は鴻池グループだよね
一昨日、備中松山城に行った際に山中鹿之介殿のお墓に手を合わせたばかりなのでタイムリーすぎる!
山中鹿介を待っていました。
すばらしい内容で知らない方にも彼の忠義をわかって頂けると思います。
鹿介と同郷の者として感謝いたします。
忠義に厚く、長身で美男子だったとか。
義久への忠義は?
同じく同郷です。
素晴らしい紹介されて本当に嬉しい😂
吉川元春に捕らえられた時に「腹を下した」と便所通いを繰り返して、番兵を油断させて「そこ」からくぐり抜けて脱走したそうなんですが。
あまりにも厠が長くて、毛利兵が
もしかして倒れてるんじゃね?
と心配して見に行ったら脱走が発覚した
この武将の名前を初めて聞いたのはドラえもんだった。のび太のパパがのび太に説教する時に例に出してました。どういう人物かこの動画で初めて知りました。ありがとうございます。
大好きな武将の1人ですが、あえて言います。
忠勇義烈、清廉潔白な人ではない。
乱暴で欺瞞、利己的な人柄です。毛利領内で山賊もしています。全てはお家再興の為。宇喜多直家と似ていると思います。
だからこそ戦国時代で重宝されたのでしょう。
待ってました!!ゲームがきっかけではありますが、今現時点でハマってる武将です!!
本当に日本の歴史の中でも戦国時代はロマンの宝庫だなぁ。感動した!
第二次まででもすごいのに第三次、実質的には第四次まで再興運動をしていたのすごすぎる!!
この人の大河ドラマ見てみたいなぁ
ほんとね…、大河ドラマでやってほしい男だよ
肥溜め潜って脱出する場面も?
@@クッパ大王
ショーシャンクの空に みたいな
毛利家相手に良く立ち回ってたな😊
戦国時代の武将などもっと投稿してくれたら知らない人でもすぐ覚えられる
教科書みたいで日本史を学ぶみたい
鹿之助真面目だな
戦前の教科書には、忠義に篤い立派な武将として山中鹿之助が載っていたらしいです。
元寇の絵巻とかもそうですが、日本は敗戦してからGHQの方針があり、教育も価値観も変わってしまったようですね。
尼子軍随一の武士、山中鹿介
尼子再興のために命をかけた鹿介。
羽柴秀吉も鹿介の死を悲しんでいたらしいです
七難八苦なんぞ望まなければな…結局最期は信長と秀吉に見捨てられる形になったな…とは言え、織田や羽柴(豊臣)より子孫は栄えたみたいだが…
別所の謀反がなければ尼子再興の可能性が高かったことを考えると本当に惜しかったと思います
毛利推しとしてはいい迷惑でした
自分は宇喜多推しなので尼子再興して欲しい派ですね😂
常に不屈の精神で尼子再興に命懸けでまさに我に七難八苦を与えたまえと唱え続けた、山中鹿之助、忠義の武士ですね、小説でこの人物に出会ったときは衝撃を受けました。戦国時代にこんなにも凄い人がいた事に感動すらあったことに嬉しく感じる所存です!動画有難う御座います、🎉
泣けるわ
初めて聞いた歴史人物です!
もっとこの歴史人物について調べよう!
主家の為に命を掛ける..山中鹿助幸盛お見事👍
確か海音寺潮五郎さんが彼はそのまま羽柴秀吉に仕えていれば間違いなく一国一城の主になれたと書かれていた。それから領内で尼子の再興しても良かったかも知れない。黒田官兵衛が旧主の小寺氏を自分の領土で再興させたみたいに。
日本酒大好きな自分としては息子さんにも感謝してます
忠義を尽くしたのはあくまで「尼子家」であって「勝久」個人でなかったという視点からだと評価が分かれますね
鹿介の生涯と姜維の生涯が何処か重なると考えるのは私だけでしょうか?
主家の為に再興をめざした美談にされてるけど、主家の義久が毛利に下ったのに勝手に暴れれてた脳筋武将に思える。
尼子の為を思うなら、毛利家臣として武功を立てる道もあったと思う。
戦国の世では戦に負けた大名が勝った大名の有力家臣に。みたいなこともちょいちょいあったわけだし。
尼子義久は、30年も幽閉され出家し生ける屍と変わらない状態であり、大名はおろか武将でもなくなったらから、仕える主君では無くなったんだよね。鹿介はあくまで大名としての尼子家復興を願ったが、義久には野心も大名に復帰する気も疾うに無くなっていたと。
@@dutj9ehr 義久が降伏して幽閉されたのは1567年。尼子再興軍が立ち上がったのは1569年。2年で反逆者の子ども連れてきて旗揚げしてるんよな。大義名分が完全に終わってるんよ
運が悪かったのと行動が早すぎた。もう少し織田家が毛利家に攻勢を仕掛けた時に再興に動いていたら。
それが亀井茲矩です
やっぱり毛利元就こそ最強では。
こんなに大きい内戦が同時に勃発してもまとめ上げて見事に鎮圧してしまうとからね。
明智光秀への洞察力も恐れ入った。
山中鹿之介の動画だが毛利元就の采配に恐れ入る。
合戦の勝率は化け物級に高いらしいね。
山中鹿之助の話なら「我に七難八苦を与えたまえ」は出してほしかったね。
そして三日月は本当に願いを叶えてしまった
忠義の士ではあったんだろうけど、当時の尼子宗家にとってはありがた迷惑だっただろうな。
宗家当主である義久とその家族は毛利領内で幽閉の身でありながらも生きてるのに、勝手に分家の者を旗印に担いで軍事行動をしてるんだから。
忠義を尽くして尼子家を再興させたいだけなのにどうして殺されなあかんのや!😡巫山戯るな!😡同胞を失ったって言うのはとんだ逆恨みや。😡
ワタクシは鹿之助よりも尼子勝久様に涙した
大好きな山中鹿之助様を取り上げて下さり、有難う御座います😂
めっちゃ嬉しいです⸜(*ˊᗜˋ*)⸝
戦国無双5で初登場したしかのすけ君!ずっと気になってたので嬉しいです!!
織田に頼るという選択は正しかったが、所詮は外様、便利使いされてあっさり見捨てられてしまう。悲しいなぁ
山中鹿之介公ですが江戸時代の中山みき公と言う人物みたいな波瀾万丈の人生を送っている気がします。もしかしたら中山みき公は山中鹿之介に憧れており影響を与えたかも知れません。
山中鹿之助の大河ドラマみたいなぁ🤔
単純な一騎打ちの能力では最強の噂も名高い山中鹿之介
最近は鹿之助ではなく鹿介って書くことが多いんですかね?たまたまですかね?
月山富田城この前初めて行ったんですけど、御子守口の七曲り本当にキツくてエグかった…
あそこを敵を警戒しながら攻めていった兵士って凄いと改めて考えさせられた
古河公方足利成氏やってください❤
長男はよく父親に引き摺られず
商人としてよく成功出来たな。
大名としては滅亡してるけど尼子義久は関ヶ原後まで毛利の客将として生きてるし
子孫は明治まで毛利氏に仕えてるし
尼子再興の前に義久の側に居たほうが良かったんじゃないの?
ちなみに鹿之助は史実で一騎打ちの記録が残る珍しい武将。第二次月山富田城の戦いなどで毛利軍の武将を討ち取ったと記録されている。
三国志(主に演義)ではよく武将が一騎打ちする(史実で一騎打ち頑張ってったのは孫策vs太史慈や関羽vs顔良くらいだが)シーンは良くあるが戦国時代で一騎打ちで名を残すのは珍しい。
@@多聞丸-w5t さんへ
討ち取ったのは品川大膳だったよな?
@@クッパ大王
おっしゃる通りです。他にも品川大膳以外にも複数の武将を一騎打ちで討ち取ってますが、やっぱり品川大膳との一騎打ちが有名ですね。
鹿之助の血は絶えず、鴻池善右衛門はその流れって話もあったような…。
16:45
尼子勝久、ぐう聖すぐる…
山中鹿助幸盛の血筋は続いており、息子・幸元は逃れた先の鴻池(現・兵庫県伊丹市鴻池)の姓を名乗り、豪商になったという
地元の一つです。
荒木村重、上島鬼貫、行基さんに並ぶ、地元の偉人だと思います。
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話からドM扱いするリプレイ動画が某所によくあったなあw
ここまで詳しくは知りませんでした。惜しい人材ですね。
戦国無双5の山中鹿介は毛利元就と戦って相槌になって倒れた印象
毛利家はあまりにも強すぎました
元就がいなくても元春、隆景がいます。
そして元春、隆景がいなくても
輝元、広家、秀秋がいます
そして昭和、毛利名人がいます。
高橋名人も青色吐息になりました。
m.ua-cam.com/video/I9dp_1LC3rA/v-deo.html
次回、遂に甲斐姫が登場するのか!
待ってた
上月城の戦いの時に秀吉は勝久に脱出するように手紙を送ったけど籠城を続けたとか……
尼子勝久と山中鹿之助が生きていたら豊臣家に何らかの影響があったかもしれませんね。
秀吉の家臣下で尼子家の別家という形で再興できたかもしれない。それこそ、小牧長久手の戦いで徳川軍相手に一騎打ちとかしてそう。勝久と鹿之介以下尼子旧臣が生き残ってる世界線を見てみたい。
あと少し、秀吉が天下を獲るまで生き残れたなら鹿助の尼子再興は成功したかも知れませんね。
上月城を信長が見捨てた時点で打つ手なしではあったかもですが。
そして尼子家と言えば八つ墓村の祟り!
メッチャカッコよく毛利家持ち上げてるけど、長男がネガティブ…w。
鹿助を連れていかなった義久は、「降将」が如何にあるべきかは心得ていた気がする。戦闘能力がメインで評価される後世の創作や戦国ゲームでは無能描写に落ち着いてしまうけど、評価以上に智慧がありそう。
尼子家に「もう少し年配の鹿助」が何人かいればそもそも毛利に負けてなかった筈だけど、現実はそうではなかったのだ。
七難八苦の逸話のせいで、後世にドMとか揶揄されることになるとは思わなかったろうなぁw
祖母の実家が尼子関係の土地だったからか子供の頃より鹿之助の忠義が教科書に記載されて皆当たり前のように習って皆知っていたのに戦後位から忠臣蔵の忠義の方が全国的に有名になっていったのが切ないと申しておりました。
今度は吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊をお願い致します。
なぜか定期的にすっ飛ばされる毛利家
徳永先生が広島ご出身なので、むしろ濃い話を複数考えてるとか?
山中鹿介は、尼子家再興にこだわらずに他家に士官する生き方もできたと思う。
やっぱアツいねぇ
義久「勝久め…勝手な事をしおって…犬死にも程がある…我が尼子は毛利家に仕える道を選ぶ…!」
そんな義久の思惑を崩壊させたかもしれない尼子再興軍。
幽閉されても毛利に恭順する道を選んだ義久にとっては、
迷惑なものだったかも知れないですね。
@@rui_koshigawa 実際に尼子再興軍は滅ぼされたのに対して、義久を始めとした毛利家に投降した側は後に許されて毛利家の家臣団に組み込まれてますしね
動画ありがとうございます。
板垣退助が一目置いた人物ですか。自由民権運動の代表、爵位を得るも自分の代だけで返上するとかどこか一途なところは似ているかもしれません。
最後の紹介は甲斐姫ではなくのぼうさまが良かったな
毛利家「しつこいぞお前ら💢💢💢‼️」
しかし、鹿之助の子孫は商売で今も血縁は残ってるみたいね
鴻池グループ調べてみて!だよね
良くも悪くも、自己中心的で、周囲を振り回す人という印象。
鹿之助の首は備中高松城での首実検後、備後の鞆城に送られました。鞆城では足利義昭将軍も首実検したとのこと。首はその地に埋葬され、鞆の浦には現在でも首塚が鎮座しています。
鹿之助は生き続ける、、、伝説として。
勝久は切腹することになった際に鹿助に夢を託すも、それは叶わなかった。鹿助は勝久にあの世で何とわびたのだろう。
山中鹿助の本名は幸盛で山陰の戦国武将で私の住んでる岡山県が最後の地なのよね、高梁市に鹿助の墓がある
7:43 この時に大友家が呼応してれば毛利家もヤバかったかもな
忠義という信念はどこから生まれるのか?理解に苦しむ。
輝じゃなく輝の家臣が勝手に鹿之助を謀札したみたいな内容あるけど、輝も関わってる可能性高いと思うけどね
戦国大戦でお世話になったなぁ〜
かっこいい武将だけど報われなかった
尼子家再興のために尽くした山中鹿之助。
彼の三日月に誓った『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』のシーンは大河ドラマでも登場して有名でしたね・・・・🤔
でも、そんな鹿之助の願いは叶わず、あのような結末を迎えるなんて、戦国の世とは言え悲しいですね・・・・😢
どちらかと言うと願いが叶ってしまったんだが…
??鹿?「しかのこのこのここしたんたん!しかのこのこのここしたんたん!!(野太い声で)」
毛利軍「ひえ〜〜〜」
尼子義久「や、うちは関係ないので…」
義久には鹿介の行動は迷惑そのものですね。
尼子再興と言ってるけど当主の
義久は特に動かず余生を送ってたが
鹿之助をどう思ってたんだろうか
逆に鹿介も当主の義久をどう思っていたのだろうか
@@ricken_620 勝久を担ぐ辺り
見限っていたかもしれませんね
毛利に降る人を当主と認めない感じで
人生は山あり谷あり
七難八苦を三日月に願ったのだから本望やろ
山中鹿助ら「尼子再興!」
尼子義久「え?やめてw」
ほんとそれwww
本当に「相手が悪すぎた」としか・・・
(7:35)この決断力と判断力、臨機応変に対応できる柔軟さが「毛利強し」の基盤なのでしょうね
(明智光秀)そういえばこのお方、割と忠臣でしたね(なお本能寺)
最後まで主家の再興を諦めず何度でも挙兵する。後世の自分たちは胸を打たれますが、当時の敵勢力は気が気じゃないでしょうね。
毛利側から見れば泳がせておけば領内の反毛利勢力をまとめてくれるのである意味都合が良いけど織田家との衝突が始まると何をしてくるか分からない物騒な人物なんだよな
だから最終的には始末されたんだろ
山中鹿之介をどう評価するか分かれそう
主君に忠義を尽くし最期まで共に戦った忠義の武士か
はたまた沈む船(尼子家)から脱出せず別の陣で名を轟かせる機会を逃した愚者か
人によって評価は変わるな
七難八苦望んだせいで本当に七難八苦来ちゃった人
@@蛍丸-z1o さんへ
俺が言霊はあると思ってる理由になってる出来事
尼子の本家の尼子義久が幽閉されているとはいえ生きていて何だかんだ関が原くらいまで存命してるのに新宮党の血脈で尼子復興って大義の面で無理があるとしか思えない。塩冶興久とか尼子国久って尼子の言うこと聞かなかった西出雲の旗頭だし。
尼子氏再興と言えば聞こえは良いが、
下手をすれば毛利の元にいる尼子義久が誅殺されるかも知れない行為。
私は過大評価されてる武将だと思っています。
@@rui_koshigawa 粛清された新宮党の遺児を連れてきて尼子の当主ですよって言ってるの正気の沙汰じゃなくてビビる。こんなんに乗っかった尼子旧臣とか出雲、石見、伯耆の国人ヤバすぎとか思っちゃうよね
まあ、それでも当主で良かったって言っているので、勝久も惨死覚悟で挑んじゃないですかね?
勝久はそれで良かったかも知れないが、
もしも毛利が尼子の一族根絶やしなんて出たら、
義久としたら大迷惑な話だったと思います。
小早川隆景の生涯 お願いします!
戦前戦中は人気のある英雄だったけど、戦後はGHQの意向で一気に貶められたよなぁ
山中鹿介は日本人の心にとても響く人で自分も生き方は好きなんだけど、批判されるのは覚悟の上で書きますが本人に人望が本当にあったのかは微妙だと思う。
旧尼子家臣はそりゃついて来るだろうが、再興運動も短期間で終わっている所から地元の地侍や寺院や民衆や他勢力からも支持されなかったの可能性があると思う。上月城でも信長勢力から見捨てられたりしていますし。
あと毛利側の視点からすれば、テロリストでしかない。本当に尊敬されるほどの人格者なら、名も伝わらぬ家臣に殺されるだろうか?
とにかく講談の脚色による贔屓を抜いて考えないといけない人物じゃないかなとも思います。
人望以前に尼子本家の義久が生きてて「大名家」としては滅亡してるけど「家」としての尼子家は残ってるのに本家を蔑ろにして復興って筋が通ってないから。なんか変だぞ?って違和感は普通に感じる話だと思うよ。
@@斉藤有志-r7s なるほど、その観点もありましたね。勉強になります。
義久からしたら「余計なことすんなよ、毛利に世話になってる俺の立場はどうする気やねん、死ねってか?」て感じですよね。
個人的には山中鹿介って尼子家臣が自分の土地を取り返したいのに、利用されたのでは?とも考えてます。