Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
このテーマは、歴史好きにはたまらないですね。
四天王寺の有る所が 、何故 埋立地の多い所 なんや ?上町台地やで。
歴史上で見逃せない血縁関係は、蘇我馬子の妻で蘇我蝦夷の母は、物部守屋の父である物部尾輿の娘。この事実は、四天王寺が蘇我馬子によって建立された証拠でもある。その名が伏せられ、あたかも聖徳太子が建てた事にしたのは、中臣(藤原)氏が蘇我氏を滅ぼしているからに他ならない。隋唐や朝鮮諸国との外交関係を担い、難波の交易で国庫を支えていた蘇我氏の権益をクーデターによって奪い、実績をなき物にした。結果、仏教伝来前から付き合いのあった百済偏重外交に傾倒し、白村江の戦いが起きている。その不手際を隠蔽する為のもの。勝てば官軍、負ければ賊軍。歴史は、勝者の都合よく改竄されるもの。日本書記が誰の指示で編纂されたのかを観れば、その事情を知れたもの。権力と結びついている文史学見地の歴史学は、時代錯誤で虚偽記載が多い。考古学見地による歴史学こそが、物的証拠による歴史の事実である。
四天王寺の近くの高校だったのでよく境内で昼寝してたわ。
2:04 『日本書紀』にもある記述です。2:19 これを改竄された歴史というのは主張が強気すぎます。どこまでが信用できる記述かは日本神話の相違から史料批判に使われる部分ですが、概ね9世紀初頭~11世紀にかけての書物であり日本書紀よりも弱いですが信頼度はあると見ていいでしょう。系図に関しては『上宮記』の引用で信用できる部分が多く、冠位十二階においても蘇我馬子と共に仏教を興隆しその過程で冠位十二階を制定したという日本書紀と隋書の倭国伝から否定できるものではありません。慧慈法師は三経義疏のうち一つが真筆の草稿の可能性が高いことから肯定できますし、勝鬘経の講演も熱心な仏教信者であった聖徳太子ならばありえることです。また裏書も最低でも200年は経過しているにも関わらず考古学的な記述とズレが大きくはありませんので信頼はできるでしょう。なおこの裏書きも没年に関しては概ね怪しいです。一方で第三部の厩戸豊聡八耳命の「一時に八人から受けた話をそれぞれ答え、また有るときは一を聞いて八を知った」は宗教者としての色が濃く、太子創建の七寺については四天王寺と法隆寺のみが肯定できるもので、薬師如来像光後銘は薨逝より後となる623年の成立と考えられますのでこの記述については後世に制定された伝説とみていいでしょう。2:29 これ聖徳太子は虚像であるという説の論者に多いのですが、じゃあその大王と呼ばれ、本来政府中枢にいるべき人物が後世の事件にも歴史にも家柄の血筋にも記述されることなく、その全てが聖徳太子と蘇我馬子(ひいては推古天皇)へと書き換えられたとするのは短絡的な発想かと思われます。2:39 元四天王寺ですが鵲森宮の社伝にはその位置に大きな矛盾があり信頼性が低く、玉造にあったものが移されたとする説も肯定できる遺構が見つかっておりません。2:51 荒陵山金光明四天王大護國寺なのでまず荒陵寺、また荒陵は難波ですから難波大寺、難波古絵図の「皇居小川堀」が堀江と考えられており堀江寺とされることに違和感はありません。18世紀の『摂津名所図会』からも『荒陵山四天王寺敬田院』『一名難波寺、また難波大寺、また御津寺法花園、また堀江寺、また荒陵寺ともいふ』とあることから別名として伝わっていたと考えるほうが妥当でしょう。3:03 中の仏像に関しては謂れと年代が一致せず後世の伝説ですが、605年より建築が始まったというのは斑鳩宮の痕跡から年代は間違いないと思われます。3:11 ということで根拠のない妄想を述べているということを自覚していただければと思います。4:12 『日本書紀』から見える記述は蘇我馬子が「諸天王と大神王のために寺塔を建てて三宝を広める」と、厩戸皇子が「白膠木を切りとって急いで四天王の像を作り、今もし自分をこの戦に勝たせて下さったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」と誓願したことが記述されています。この記述では発願したことには言及しておりませんので両方嘘か両方本当であることが可能性としてあがります。前者は名称がありませんが蘇我馬子による発願から飛鳥寺の正当性が証明されております。それを考えるとこの下りは信頼性がおけるので推古元年是歳条の「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」は肯定できるでしょう。5:57 聖徳太子より後の時代の人物である孝徳天皇の功績は日本書紀に政治体制の改革をしたことがきっちり記述されていますし、阿倍内麻呂は四天王寺で法要をしていることが記述されています。功績が消しさられたとは一体?6:07 難波に遷都したのは652年です。考古的には難波宮より前、推古朝の時代には四天王寺が存在したことは間違いないでしょう。6:52 聖徳太子が外護として建てたと言われる四天王寺七宮があることを考えると別に問題はないかと思いますが。7:32 伽藍配置の肝は回廊と「塔と堂の順位付け」です。つまるとこ門の存在どうこうより南から「塔→金堂→講堂」と並んでる事が重要です。8:02 逆では?法隆寺の瓦より四天王寺の瓦が後から作られているのであるなら、少なくとも若草伽藍より後に作られたのは当然のことだと思うのですが。8:14 といっても作りはじめの時代から瓦が葺かれた時代が後であるという可能性は十分存在します。四天王寺を作り始めるが10年の間完成せず何らかの事情で若草伽藍を優先→若草伽藍が終わってから四天王寺の瓦に取り掛かる事はありえます。推古元年よりの着工であれば推古朝の間にできるのは当然だと思います。法隆寺も推古15年なのでそこからちょっと足が出たところで推古朝の間です。14:12 若草と四天王寺の伽藍が南北に並ぶのは海から見た景色ではなく百済の寺院の影響です。定林寺式伽藍配置と呼ばれます。軍守里廃寺など百済の形式から見えるように海から見えるどうこうは一切関係がありません。(もっとも軍守里廃寺とて中国から影響を受けたのではという指摘がありますが)16:36 崩御は587年から593年にかけてと考えられていますが、竹田皇子が記録から出なくなるのは丁未の乱の直後です。この事から難波皇子と共に呪殺されたというよりは戦死したか、戦争の傷が原因で崩御したと考えるほうが妥当ではないでしょうか。16:51 寺つつきは『源平盛衰記』が最速です。ここまで上宮聖徳法皇帝説を改ざんされた伝説といいつつ、もっと後世にかかれた伝説をありえることとして論じるのは正しい姿勢ではないかと思います。21:05 敏達天皇に穴穂部間人皇女が嫁いだという記録も、蘇我氏が改竄したという証拠もありません。穴穂部間人皇女が用明天皇に嫁いだのは少なくとも574年より前なので敏達天皇が即位した頃でしょう。穴穂部間人皇女が敏達天皇の后なのであれば571年に額田部皇女と婚姻を結んだ翌年ぐらいに穴穂部間人皇女と婚姻を結んで、最後に575年に広姫を后にしたととなりますが、全く記録が残らないということはないでしょう。また穴穂部間人皇女は血筋を辿ると母方は蘇我小姉君→蘇我稲目→蘇我高麗で蘇我の血筋、父親は欽明天皇ですから遡って継体天皇→彦主人王→乎非王であり物部氏ではないですね。崇峻が物部系という話も調べててみかけましたが、物部は元々家系が大臣クラスというだけで婚姻を結んでいたとか欽明天皇方面に血縁関係あるといった事実はないと思うのですが。21:24 押坂彦人大兄皇子は生没年が共にはっきりとしていませんが敏達天皇の第一子です。生まれは敏達天皇が婚姻した頃である575年が有力なのですが崩御までの10ヶ月で3人生むのは無理なので、現実には前年妊娠してしまったので出産したとかのほうがありそうですから574年でもいいかもしれません。息長氏の氏族として存在が確実であろう広姫は同年崩御ですから1歳で崩御している計算になります。穴穂部間人皇女の崩御は622年、押坂彦人大兄皇子は607年の段階で崩御が確認されていますから広姫という存在を無視し穴穂部間人皇女を採用すると母親より先に死没しているのに、母親の死を見届けた事になり破綻します。21:42 穴穂部間人皇女が575年になくなった広姫であるという証明が必要です。少なくとも穴穂部間人皇女が622年崩御というのは『上宮聖徳法王帝説』から取れますのでこれを覆す証拠が必要だと思います。21:47 これも572年生まれであるという確固たる証拠が必要です。如何せん婚姻前の話なので。21:51 これも証明が必要だと思います。推古天皇は571年には敏達天皇に嫁いでおりますので育てる理由がある……か?22:01 蘇我が推してた竹田皇子が存命です。22:30 穴穂部皇子と物部守屋を滅ぼし崇峻天皇が殺害されたあとに即位したわけですがその間に母親である蘇我堅塩媛が出る幕がないです。23:11 命令そのものは炊屋姫から降りています。23:15 丁未の乱の経過をみるに物部守屋から仕掛けたという流れはありません。穴穂部皇子を擁立しようとしたら蘇我馬子に誅殺された後、衣摺の館に攻めてこられた図式になります。23:24 物部方の中臣勝海の話ですね。いつのまに彼の逸話が蘇我馬子の手柄になったんです?やってることが上宮聖徳法王帝説と変わらないのでは?
神道仏教寺です、仏はない。漢音は菩薩。菩薩は仏陀ではない
このテーマは、歴史好きにはたまらないですね。
四天王寺の有る所が 、何故 埋立地の多い所 なんや ?
上町台地やで。
歴史上で見逃せない血縁関係は、蘇我馬子の妻で蘇我蝦夷の母は、物部守屋の父である物部尾輿の娘。この事実は、四天王寺が蘇我馬子によって建立された証拠でもある。その名が伏せられ、あたかも聖徳太子が建てた事にしたのは、中臣(藤原)氏が蘇我氏を滅ぼしているからに他ならない。
隋唐や朝鮮諸国との外交関係を担い、難波の交易で国庫を支えていた蘇我氏の権益をクーデターによって奪い、実績をなき物にした。結果、仏教伝来前から付き合いのあった百済偏重外交に傾倒し、白村江の戦いが起きている。その不手際を隠蔽する為のもの。
勝てば官軍、負ければ賊軍。歴史は、勝者の都合よく改竄されるもの。日本書記が誰の指示で編纂されたのかを観れば、その事情を知れたもの。権力と結びついている文史学見地の歴史学は、時代錯誤で虚偽記載が多い。考古学見地による歴史学こそが、物的証拠による歴史の事実である。
四天王寺の近くの高校だったのでよく境内で昼寝してたわ。
2:04 『日本書紀』にもある記述です。
2:19 これを改竄された歴史というのは主張が強気すぎます。どこまでが信用できる記述かは日本神話の相違から史料批判に使われる部分ですが、概ね9世紀初頭~11世紀にかけての書物であり日本書紀よりも弱いですが信頼度はあると見ていいでしょう。系図に関しては『上宮記』の引用で信用できる部分が多く、冠位十二階においても蘇我馬子と共に仏教を興隆しその過程で冠位十二階を制定したという日本書紀と隋書の倭国伝から否定できるものではありません。慧慈法師は三経義疏のうち一つが真筆の草稿の可能性が高いことから肯定できますし、勝鬘経の講演も熱心な仏教信者であった聖徳太子ならばありえることです。また裏書も最低でも200年は経過しているにも関わらず考古学的な記述とズレが大きくはありませんので信頼はできるでしょう。なおこの裏書きも没年に関しては概ね怪しいです。
一方で第三部の厩戸豊聡八耳命の「一時に八人から受けた話をそれぞれ答え、また有るときは一を聞いて八を知った」は宗教者としての色が濃く、太子創建の七寺については四天王寺と法隆寺のみが肯定できるもので、薬師如来像光後銘は薨逝より後となる623年の成立と考えられますのでこの記述については後世に制定された伝説とみていいでしょう。
2:29 これ聖徳太子は虚像であるという説の論者に多いのですが、じゃあその大王と呼ばれ、本来政府中枢にいるべき人物が後世の事件にも歴史にも家柄の血筋にも記述されることなく、その全てが聖徳太子と蘇我馬子(ひいては推古天皇)へと書き換えられたとするのは短絡的な発想かと思われます。
2:39 元四天王寺ですが鵲森宮の社伝にはその位置に大きな矛盾があり信頼性が低く、玉造にあったものが移されたとする説も肯定できる遺構が見つかっておりません。
2:51 荒陵山金光明四天王大護國寺なのでまず荒陵寺、また荒陵は難波ですから難波大寺、難波古絵図の「皇居小川堀」が堀江と考えられており堀江寺とされることに違和感はありません。18世紀の『摂津名所図会』からも『荒陵山四天王寺敬田院』『一名難波寺、また難波大寺、また御津寺法花園、また堀江寺、また荒陵寺ともいふ』とあることから別名として伝わっていたと考えるほうが妥当でしょう。
3:03 中の仏像に関しては謂れと年代が一致せず後世の伝説ですが、605年より建築が始まったというのは斑鳩宮の痕跡から年代は間違いないと思われます。
3:11 ということで根拠のない妄想を述べているということを自覚していただければと思います。
4:12 『日本書紀』から見える記述は蘇我馬子が「諸天王と大神王のために寺塔を建てて三宝を広める」と、厩戸皇子が「白膠木を切りとって急いで四天王の像を作り、今もし自分をこの戦に勝たせて下さったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」と誓願したことが記述されています。この記述では発願したことには言及しておりませんので両方嘘か両方本当であることが可能性としてあがります。前者は名称がありませんが蘇我馬子による発願から飛鳥寺の正当性が証明されております。それを考えるとこの下りは信頼性がおけるので推古元年是歳条の「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」は肯定できるでしょう。
5:57 聖徳太子より後の時代の人物である孝徳天皇の功績は日本書紀に政治体制の改革をしたことがきっちり記述されていますし、阿倍内麻呂は四天王寺で法要をしていることが記述されています。功績が消しさられたとは一体?
6:07 難波に遷都したのは652年です。考古的には難波宮より前、推古朝の時代には四天王寺が存在したことは間違いないでしょう。
6:52 聖徳太子が外護として建てたと言われる四天王寺七宮があることを考えると別に問題はないかと思いますが。
7:32 伽藍配置の肝は回廊と「塔と堂の順位付け」です。つまるとこ門の存在どうこうより南から「塔→金堂→講堂」と並んでる事が重要です。
8:02 逆では?法隆寺の瓦より四天王寺の瓦が後から作られているのであるなら、少なくとも若草伽藍より後に作られたのは当然のことだと思うのですが。
8:14 といっても作りはじめの時代から瓦が葺かれた時代が後であるという可能性は十分存在します。四天王寺を作り始めるが10年の間完成せず何らかの事情で若草伽藍を優先→若草伽藍が終わってから四天王寺の瓦に取り掛かる事はありえます。推古元年よりの着工であれば推古朝の間にできるのは当然だと思います。法隆寺も推古15年なのでそこからちょっと足が出たところで推古朝の間です。
14:12 若草と四天王寺の伽藍が南北に並ぶのは海から見た景色ではなく百済の寺院の影響です。定林寺式伽藍配置と呼ばれます。軍守里廃寺など百済の形式から見えるように海から見えるどうこうは一切関係がありません。(もっとも軍守里廃寺とて中国から影響を受けたのではという指摘がありますが)
16:36 崩御は587年から593年にかけてと考えられていますが、竹田皇子が記録から出なくなるのは丁未の乱の直後です。この事から難波皇子と共に呪殺されたというよりは戦死したか、戦争の傷が原因で崩御したと考えるほうが妥当ではないでしょうか。
16:51 寺つつきは『源平盛衰記』が最速です。ここまで上宮聖徳法皇帝説を改ざんされた伝説といいつつ、もっと後世にかかれた伝説をありえることとして論じるのは正しい姿勢ではないかと思います。
21:05 敏達天皇に穴穂部間人皇女が嫁いだという記録も、蘇我氏が改竄したという証拠もありません。穴穂部間人皇女が用明天皇に嫁いだのは少なくとも574年より前なので敏達天皇が即位した頃でしょう。穴穂部間人皇女が敏達天皇の后なのであれば571年に額田部皇女と婚姻を結んだ翌年ぐらいに穴穂部間人皇女と婚姻を結んで、最後に575年に広姫を后にしたととなりますが、全く記録が残らないということはないでしょう。
また穴穂部間人皇女は血筋を辿ると母方は蘇我小姉君→蘇我稲目→蘇我高麗で蘇我の血筋、父親は欽明天皇ですから遡って継体天皇→彦主人王→乎非王であり物部氏ではないですね。崇峻が物部系という話も調べててみかけましたが、物部は元々家系が大臣クラスというだけで婚姻を結んでいたとか欽明天皇方面に血縁関係あるといった事実はないと思うのですが。
21:24 押坂彦人大兄皇子は生没年が共にはっきりとしていませんが敏達天皇の第一子です。生まれは敏達天皇が婚姻した頃である575年が有力なのですが崩御までの10ヶ月で3人生むのは無理なので、現実には前年妊娠してしまったので出産したとかのほうがありそうですから574年でもいいかもしれません。息長氏の氏族として存在が確実であろう広姫は同年崩御ですから1歳で崩御している計算になります。
穴穂部間人皇女の崩御は622年、押坂彦人大兄皇子は607年の段階で崩御が確認されていますから広姫という存在を無視し穴穂部間人皇女を採用すると母親より先に死没しているのに、母親の死を見届けた事になり破綻します。
21:42 穴穂部間人皇女が575年になくなった広姫であるという証明が必要です。少なくとも穴穂部間人皇女が622年崩御というのは『上宮聖徳法王帝説』から取れますのでこれを覆す証拠が必要だと思います。
21:47 これも572年生まれであるという確固たる証拠が必要です。如何せん婚姻前の話なので。
21:51 これも証明が必要だと思います。推古天皇は571年には敏達天皇に嫁いでおりますので育てる理由がある……か?
22:01 蘇我が推してた竹田皇子が存命です。
22:30 穴穂部皇子と物部守屋を滅ぼし崇峻天皇が殺害されたあとに即位したわけですがその間に母親である蘇我堅塩媛が出る幕がないです。
23:11 命令そのものは炊屋姫から降りています。
23:15 丁未の乱の経過をみるに物部守屋から仕掛けたという流れはありません。穴穂部皇子を擁立しようとしたら蘇我馬子に誅殺された後、衣摺の館に攻めてこられた図式になります。
23:24 物部方の中臣勝海の話ですね。いつのまに彼の逸話が蘇我馬子の手柄になったんです?やってることが上宮聖徳法王帝説と変わらないのでは?
神道仏教寺です、仏はない。漢音は菩薩。菩薩は仏陀ではない