信じるものはなぜ救われないのか(玄照寺住職 瓜生崇)

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  • Опубліковано 1 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 61

  • @利一八田
    @利一八田 Рік тому +2

    良いお話を聴かせて頂きました。信じなければ存在しないものは無いと云うこと。神も仏もこの世には無い。人間が物語として登場させた人間の願望で、依って神仏は自分自身。しかし自分の心と何時迄も戯れている事が不幸。人間は肉体の欲求の動力で前へ進む。進む態度は人間社会でどうあるべきかは経験の積み重ねで造りあげて行く。その姿は住んでいる場所によって環境が違うだけにそれぞれが有る。信じる心は危うい。信じ無い事が肝心、経験の無い人はすぐ何でも信じるから気を付けて。

    • @武井健二-s5m
      @武井健二-s5m Місяць тому

      >進む態度は人間社会でどうあるべきかは経験の積み重ねで造りあげて行く。その姿は住んでいる場所によって環境が違うだけにそれぞれが有る
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・共感
      優れた認識だと思います・・「縁」の重要さを意識します
      道元の正法眼蔵に
      自己をはこびて万法を修証するを迷とする・・
      万法すすみて自己を修証するは悟りなり・・
      の言葉が有ります

  • @掛川裕史-z7y
    @掛川裕史-z7y 4 роки тому +11

    熱意あるお話に引き込まれました。
    ありがとうございました。

  • @守屋次郎-c6c
    @守屋次郎-c6c 2 місяці тому

    有り難うござます。
    聞即信の捉え方が、分かりました。
    阿弥陀如来から、南無阿弥陀仏の名号を、私に称えてくれ。と、呼び掛けられてる私が居る。
    自力ではなく、他力の願力。
    阿弥陀如来の本願力。

  • @user-ge4nz5a.ari8fuku10
    @user-ge4nz5a.ari8fuku10 2 роки тому +4

    凄いお聴聞に会わせて戴きました。老病死をなるべく見ない様に生きてきました。逃れられない現実を思い知らされました。上手くいえませんが心臓に突き刺さりました。迫力がありました。ありがとうございました。つくづく浄土真宗で良かったと思いました。南無阿弥陀仏🙏

  • @青木修-q2o
    @青木修-q2o 2 роки тому +1

    毎回の法話有難うございます。

  • @さかくらゆきこ
    @さかくらゆきこ 4 роки тому +7

    最後の徳龍和尚のお話、心に染みました。正覚の大音は響流十方、今も響いているのですね。声なき声、私を呼ぶ声、聞即信の体験をこれからもお伝え下さい。南無阿弥陀仏。

  • @東山泰子
    @東山泰子 3 роки тому +14

    瓜生先生の情熱がひしひしと伝わってきます。本当に熱く心地良く響いてきます。ありがとう御座います♥嬉しくて有り難いです☺南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏感謝してます!

  • @yoppyhappy_wagenaigo_49
    @yoppyhappy_wagenaigo_49 5 місяців тому

    初めまして、こんにちは。先生のお話しを聴かせてもらって有り難く感じております。
    親鸞会って、どう思う?と聞かれた事がありました。
    その会で聞いてこられたお話しを聞かせてもらった時、
    私が浄土真宗のお寺で聴かせてもらっているお話しと
    何か違う、違和感のようなものを感じました。が、
    言葉で説明が出来なくて、
    私が聴かせてもらっている言葉は、
    聞即信
    です。
    その言葉だけで精一杯でした。
    この度の先生のお話しを聴かせてもらって、
    答え
    なのかも知れません
    が、
    私は答えを知っているだけ、と気付かされました
    答えは知っているかもしれませんが、
    私に、何かが欠けている事に気付かされました。合掌

  • @のべたん-n8q
    @のべたん-n8q 2 роки тому +6

    すみっコぐらし、私も見て、不覚にも泣いてしまいました。
    ひよこには『どこにも居場所のない存在』という役割を与えられています。それが救いなのではないのかと、思いました。
    自分には存在価値がない、と感じているひとたちを救うには、物語が必要であり、その物語を私たちに与えているのが、宗教なのかもしれません。
    ※補足
    その物語が毒にも薬にもなることを理解し、注意して取り扱わないといけません。

  • @長谷川政良
    @長谷川政良 4 роки тому +5

    二回目ですが、私の拙い歩みと教え教学とをわかりやすいお言葉で照らして頂きました。また、そのことを忘れて分からない歩みが始まりますが、ユウチューブ、Zoomでの出会いを有り難く頂きました。合掌。

  • @barmyheart1
    @barmyheart1 3 роки тому +9

    私も元親鸞会会員です。
    瓜生さんのお名前は予てより存じてましたが初めて聴かせていただきました。
    立派なご説法ですね。続けて聴聞したいと思いました。有難うございます。

  • @平安座晴生
    @平安座晴生 2 місяці тому

    すごく理解できました。そうなれるかわ、分からないけど。

  • @いんなん-l1x
    @いんなん-l1x 3 роки тому +3

    十人十色
    色々な人がいて色々な佛教があるということを改めて勉強できました。
    有難うございます❗️
    信心、阿弥陀さま、極楽、同じ言葉であり同じ情報なはずが受け取りによってこんなにも違うという魅力✨
    人間って凄い❗️

    • @4月の雨
      @4月の雨 Рік тому

      いんなんさんのすばらしい聴聞の姿勢、勉強になります。

  • @遥かに想う鳰の海
    @遥かに想う鳰の海 2 роки тому +2

    ただ「南無阿弥陀仏」と唱えたら救済される、という単純な教えだと誤解していました。
    親鸞聖人の教えはものすごく難解ですね。
    瓜生さんのお話をもっと聴かせていただき考えてみたいです。

  • @草川廣江
    @草川廣江 4 роки тому +4

    連日御法話を拝聴できて、有難うございます。

  • @Syokunin5146
    @Syokunin5146 3 роки тому +1

    途中訳が分からなくなり、だいぶ悲しくなりました。でももっと聞いていたいと思いました。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +5

    「聞即信」、ずいぶん響きました。もしかしたら白旗上げて降参してしまうかもしれません。ありがとうございました。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +7

    1:43:00、善導はなぜなむあみだぶつが救いなのかと問われた時、「それは仏さまの願いだから」と言った。わたしはわたしの思いの殻から絶対に出ることができない。人間の所以たるところの理性や知性、分別、差別・・・。1:50:00まで珠玉だ、響いてきた。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +6

    51:00、疑城胎宮、神仏を信じるというのは最も深い疑いのこと、わたしにとって都合のいい救い、都合のいい世界を作っているだけ、自分の理性、こころ、思いから出られない、厳しいことをはっきり言ってくださった。

  • @gotoyoshimasa7430
    @gotoyoshimasa7430 2 роки тому

    ありがとうございました

  • @s.y7373
    @s.y7373 6 місяців тому

    非常に勉強になりました。有り難うございました。
    しかし、話の中の「人間の存在価値」は今私が入っている高齢者施設に生活している人達がもしこの動画を見てどう思うでしょうか。幸いこの施設の約120名の爺さん婆さんでスマートフォンを持ってUA-camを見ているのはほとんどいません。この情報化社会の中で高齢者への配慮は宗教の役割を考える上で大切だと思います。
    このお話しの中の「親鸞の取引」、「自性」、「海」や善導の話しはどの経典や文献にあるのでしょうか。いいお話しで、私の知らないものばかりです。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +3

    1:30:00信心を起こしなさい(至心信楽欲生といういことと聞いたような?)をなむあみだぶつを称えなさいに書きかえた。称我名号に至る善導、そして法然の教えを学ばせていただきました。1:32:00から親鸞の19・20願、1:38:00から18願に展開する。18願は我が名を称えよとの呼び声・・・。

  • @kenkawashima
    @kenkawashima 4 роки тому +1

    大経の御味わいが一皮むけたようで嬉しい。なんまんだぶ ありがたい

  • @匿名-v6n4c
    @匿名-v6n4c 4 роки тому +1

    58歳です。お父さまの話は身にしみました。自分も腹水がたまった状態で苦しみ喘ぎながら大小便をたれ流して死ぬのかと思うと恐ろしくてなりませんでした。合掌

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +3

    54:00華不開、理性によって信じている浄土というのは一人だけのもの、56:00一人ぼっち、仏教では救われていないことを意味する。56:40マザーテレサ。58:20信じていますと言えるのは調子がいいから、環境が整っているから。七里和上とおそでさんの信心。1:03:45これも危ない、信じることのできないものを救ってくださるという新たな「信じる」世界に閉じこもっていしまって・・・わたしのことを言われている、なむあみだぶつ。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +3

    1:3800三願転入の説明。わたしの願いを満たすためのわたし本位の念仏から、真如の「わたしの名前をよんでくれ」との願いに方向が変わる。17願、宇宙の全体が如来の名を称えている。

  • @koronbiamilk1060
    @koronbiamilk1060 3 роки тому +1

    私が思い通りにできることは私が思っている以上にほとんどないと思った。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +3

    18:00人は生まれてその理由がわからない、だから自分の存在価値を探す。生きる理由を探し続ける。そのことを「独生独死」という。23:50津久井やまゆり苑・・・役に立つ立たないことが自分の存在確認になってしまっている、存在そのものに理由があるのにと説かれている(これは自分も慣れっこになっているから分かりにくいことだが大事なことなんだろう、ただし役に立つことが生きがいなのは自然だと思う、役に立てない人を差別する気はないけれど)。根源的な自分の存在の意味が見つからない、だから役に立つ立たないか、他者との関わりをいつまでも求め続ける、これはわかる。これを独生独死という。
    34:30すみっコぐらし、ドクライドっ子か。迫る。なんでわたしは独りぼっちなのか、自分を中心に他者を分け隔てる自分の思いの殻、分別、自分のものさしで世界を見る。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +2

    1:50:00香樹院徳龍師。分別、差別、理性の心に閉じこもっているわたし、そのわたしをを呼んでいる、呼び続けている。自分の心で願って聞くのじゃあないんだ、聞こえるんだ。1:52:20親鸞は「信心とは名前が聞こえること」だと言った。聞こえる、にわたしの心は入らない。なむあみだぶつとは真如の世界のはたらきのこと。それげ口から出ている。今、聞こえる、届いている、事実として。1:54:00聞即信、聞こえたということが信心。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +1

    1:17:00平等院鳳凰堂。善導より前の九品往生は最後の審判と、考え方が似ていると思いました。1:26:25人の役に立つことをを求めて競争する生き方と善導以前の九品往生の解釈の方向性は同じと話された。1:28:40何もかもたまたま(縁だ)、一皮むいたら何か事が起きたら自分の信心なんか放り投げる、「念ずることも想うこと」もできないのが現実のわたしじゃないか!、おそでさんの例えにあるごとく。そのことに気づいたら、なむあみだぶつを称えることしかできないと、そう善導は考えられた。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +4

    1:55:00まとめのまとめ、どれだけ信じたとしても自分中心の自己満足を超えたものではないのだ。しかしわたしの口をついて「なむあみだぶつ」が出ているという事実(聞こえる)は間違いなく、親鸞聖人はこの事実をもってご信心となさった、といただきました。聞こえたということが信心なんだ、聞即信、この最後のところを何べんも聞かせていただいています。まだ腹に落ちない。

    • @nasidoori
      @nasidoori 4 роки тому

      tosio yagi さん、ありがとうございます。

  • @booboo-ov3tj
    @booboo-ov3tj 4 роки тому +9

    すばらしいご説法と思います。ありがとうございました。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +3

    44:30物語を信じることによって存在を確かめようとする。55:30「独りぼっち」とは仏教においては救われてないという意味。

  • @tosioyagi9187
    @tosioyagi9187 4 роки тому +1

    1:30:00称我名号について。Wikiarcを参考に。善導(613-681)は『観経疏』玄義分で、本願は称名させて生死を超えると見極められ、第1願から第48願まで全て「…称我名号願生我国…」と読みかえて記した。500年後の法然(1133-1212)、親鸞がその解釈に従った。

  • @かいわれ右近
    @かいわれ右近 3 роки тому +1

    信仰というか信心というものについて、当たり前かもですが結構深い検討があったことが判りました。ありがとうございました。
    キリスト教などは「信じる」ということについて殆ど問い直すことをしないみたいなので、その違いは大きいと思います。
    しかし信心とか信仰というものは、安心のための落としどころをどうにかして設定しないと意味が無いものなんでしょうか?
    いやそもそも 宗教とは信仰だ みたいというか、信心ありきみたいな印象を受けますが、浄土真宗から信心を取ったら何もないみたいな感じでなんでしょうか。

    • @4月の雨
      @4月の雨 Рік тому +1

      信心は浄土真宗の扇の要みたいなもんじゃないでしょうかね。
      扇は要だけでできているわけではないですが、要がなくなればばらばらになります。
      浄土真宗の信心というのもいわゆる一般のイメージの信仰とは全く違うので詳しく学んでみてはいかがと思います。

    • @かいわれ右近
      @かいわれ右近 Рік тому

      @@4月の雨
      信心というものが、人の意図によるものでない、つまり「信じる」という行為とは別の、他力の、弥陀の本願力と呼ばれるような範疇のものなら、それについて云々するのはあまり意味が無いんでしょうね。だとしますと更に「信じるものは救われない」というのが納得できます。

    • @4月の雨
      @4月の雨 Рік тому +1

      @@かいわれ右近
      弥陀の本願力とよばれるのは、自然(じねん)といったりしますが、本来性ともいうかそういったことです。
      私が「信じる」ということ、おっしゃったような心の行為(意業)に先立って「信じる」ように、あるいはうなづけるようにその背景を整えるはたらきのようなことに仏教は着目しています。とりわけ浄土に往生するなどということを「信じる」ことさえも弥陀仏のはたらきによるものだと表現されます。
      私の意業という「果」に先立つ「因」や「縁」のようなことだということを意味すると思います。
      私たちは何かを(もちろん阿弥陀如来などにさえも)自分の意業でしっかり信じて信じて信じ込むことは実際の処「苦しい」のです。そのような「自力の」信じる、というのは逆説的ですが実際は「疑っている」有様です。
      下手な譬えですが、旦那さんが出勤するとき、「あなた信じてるわ」と急に言うとしたら、実は「信じたい」という願望はあっても内実疑いを消したいという気持ちがあるときかもしれません。実際信じてるときは、「信じてる」ということばさえ出ないぐらい前提となってたりするのです。
      ・・・と弥陀如来と私との「信」の関係をあきらかにすることによって、私たちの生活の細部にわたってよくやっている「信じる」ということの背景を「気づき」、究極的には、阿弥陀仏を「私が」信じるという、いわば、「心の持ちよう」系のことは、「心の力味」でしかなかったり、逆に、「しらんけど(すでに阿弥陀さんがすくってくださってるんだし)、そのまますすめとおっしゃっているんじゃね?」と少しも力む必要も無い処に安らぎや時には生きる力が生まれてくることもあったりするということもあるかと思います。
      長文になり失礼いたしました。

    • @かいわれ右近
      @かいわれ右近 Рік тому

      @@4月の雨
      > とりわけ浄土に往生するなどということを「信じる」ことさえも弥陀仏のはたらきによるものだと表現されます。
      捉え方によっては、と言いますかある意味では全てが弥陀のはたらきだと言えると思います。
      私達は本当は既に救われているのだ、などという話もあるくらいですしね。
      しかしそうだとすると宗教は無用というか葬儀や結婚式の為だけのものってことになります。実際そんな感じになってますけど。
      > 「自力の」信じる、というのは逆説的ですが実際は「疑っている」有様です。
      そうですね。瓜生さんも仰ってますが、あやふやだと認知しているから「信じる」必要があるわけで。
      > 実際信じてるときは、「信じてる」ということばさえ出ないぐらい前提となってたりするのです。
      日常において、私たちは周りの見えているものが何であるか殆ど「わかって」い(るつもりになってい)ます。でも実際は各人なりの知識(経験)を投影しているのであって、人それぞれでそれを把握する仕方や深さが違いますよね。
      そのことを「自分が置かれているところの現実はこうであると『信じて』いる」という表現をするということですね。
      「弥陀如来」や念仏といったものも、そのような意味での「信じて」いるものになるということが救いにつながるってことでしょうか? ではなくその状態が救われているということでしょうか。
      僕はそのような「信じている」も無い心が空であると思ってますが。
      > 長文になり失礼いたしました。
      いえこちらこそです。考える機会を頂き感謝です。

    • @4月の雨
      @4月の雨 Рік тому +1

      おっしゃる通り世間一般にとらえられている信仰心ということと浄土真宗で説かれている「他力の信心」はご指摘の通り全く異なりますね。
      ただ、信仰の深まりの中に於いて、見えてきたものの見方が真宗で語られること同様に、「自分の信仰心が何かをなしたのではなくて、信じられる心さえも神や仏に与えられたのだ」と受け止められたとするならば、その境地的なところは同じ構造かと思います。そこにおいて、「浄土真宗は仏教の一部である」というより、自分と他者、自分と世界すべてとの関係の一端を示す普遍的なことに言及しているのではないかと私は受け止めています。
      つまり「自分で〇〇を信仰する」(〇〇は阿弥陀もふくめて)が頭ごなしに信じ込むことが大切だというのではなく、「ようやく〇〇が大切なのだと信の心に出遇うご縁にめぐまれた」ということが大切なのだということです。
      浄土真宗の要のところはまさに他力の信心なのですが、実はそれと同じように大事なのは、「どうしてそのように信心が大事になっていくようになっていったか」ということだろうと思います。自覚的な宗教心の有無に関わらず私たちは不都合をなくし都合の良いことを選択していろいろ行動をするんでしょうが、そもそも「本当の幸せ」とかもっとよく生きていく、安心して死んでいける道はないだろうかと求道するということがときに起きることもあるかと思います。ここでは詳しくは書き記せませんが、そのなかでいろんな修行法がある、だとか念仏が大事なのだとか、念仏と言っても唱えるというより、信心なのだ、信心といっても他力の信心なのだ、というような、展開が長々と経過するなかで見出されてきたことだと思います。
      なので、最初から「信心が大事だ」とその言葉だけあっても面食らってしまうのも必然だろうと思います。
      おっしゃっている通り、「落としどころ」、つまり一般にはよりどころと呼ばれるものを探し探しし続ける中でようやく浮かび上がってきたこと、それが信心だということだと思います。思えば、先人たちがすでに「信心が大事だぞ」と言ってこられたのでしょうが、それを自分自身のこととして受け止められるには、無数のご縁のつみ重なりでようやくいただけるのかもしれません。そして、この「無数のご縁のつみ重なり」を「アミダと名付けたてまつる」とよばれているのかと思います。
      そして、そのような受け止め方を、「浄土(という表現からいただいた)真(の)宗」と名付けられた、ということです。
      数学の公式を覚えろというのでは頭が痛くなり拒絶反応を示すことがあります。しかし、同じ数学であっても自分が思い至り、証明した思考の結果をよく使う重大なことだと思い、〇〇の法則と名付けられていく。こういうことが科学の営みにもあるかと思います。

  • @moamoacyan3715
    @moamoacyan3715 3 роки тому +1

    やっぱりきちんと頭丸めて修行して理屈じゃ無くわかって行くことなのかな?

  • @BobBob-hb8ep
    @BobBob-hb8ep 3 роки тому +2

    信心・・南無阿弥陀仏に三信がある、まるで一遍上人ですね。
    善導大師はそんな解釈をされてたんですね。
    あと瓜生さん、リピートが多いです、二度三度、多いときは四度も同じ単語を繰り返します。
    きっと強調したいんでしょう、繰り返しを減らせばもう少し短時間で法話が終われますよ。

  • @小竹淳一-z6r
    @小竹淳一-z6r 3 роки тому +1

    聞こえたらどうなるんですか?

  • @大西啓詞
    @大西啓詞 Місяць тому

    法 全て也は、是非無し😢❤