仏の救いと煩悩の関係を親鸞はどう明らかにしているか

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  • Опубліковано 4 вер 2024

КОМЕНТАРІ • 29

  • @user-jg2be7wr9k
    @user-jg2be7wr9k Рік тому

    心は浄土に遊ぶなり、っていい響きですね!

  • @user-lq8po3ns1i
    @user-lq8po3ns1i Рік тому +4

    本当に、心、コロコロです。
     清らかな心全くありません。
    先生有難うございました。🙇‍♀️

  • @user-ix9xw2wk6q
    @user-ix9xw2wk6q Рік тому +6

    いつもありがとうございます🙇‍♂️
    勉強になります。

  • @user-gu8ft4tg3c
    @user-gu8ft4tg3c Рік тому +3

    今日もありがとうございます。💮🤱🌷🤱🌹🤱🌻🤱🌺🤱

  • @tocchi_men
    @tocchi_men Рік тому

    ありがとうございます!

    • @byBuddhism
      @byBuddhism  Рік тому

      お布施拝受しました。ありがとうございます。

  • @user-rf6wy3bu2d
    @user-rf6wy3bu2d Рік тому +6

    菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝🙏🙏🙏

  • @user-jo1lr3yp3u
    @user-jo1lr3yp3u Рік тому +4

    いつもありがとうございます。
    苦悩の原因が煩悩ではなく、無明の闇である。と
    説法して戴く度に、得も言われぬ感動を致します。
    感謝申し上げます。

  • @user-om3rw4sh3k
    @user-om3rw4sh3k Рік тому +2

    とても、大変、すごく、勉強に、なりました。真実、誠に、ありがとうございました。

  • @user-rb2ko3rz5h
    @user-rb2ko3rz5h Рік тому +1

    弥陀に救われた心の世界深いですね。私もなりたいです。菊谷さんいつもありがとうございます。

  • @cufk1101
    @cufk1101 Рік тому +7

    普段まともそうなことを言っている、自分の心の中を覗いてみれば、なんとおぞましいことを考えているのやら。
    とても他人には見せられません。
    そんな未熟で不完全な自分を受け入れて、人として成長して行きたいですね。🙂

  • @amano-kazu
    @amano-kazu Рік тому +5

    「本音で語ろう」という言葉がよく言われますが、人間って、その「本音」自体が汚れているんですよね。だから「建前」があります。で、日常生活は「建前」で暮らすことになります。なので、それは仕方ないことなんですよね。でも、それだとどこか寂しい。自分をわかってもらえてない気がするし、他人も疑ってしまう・・・
    でも、そんな人間の汚い心のままであっても、日々、むくれず、逃げずに生きていくことで、いつの日か純真な心に到達するのかな、と。そんな気がしています。
    いつも貴重なお話をありがとうございます。

  • @tsutomuo6756
    @tsutomuo6756 Рік тому +2

    また一つ理解が深まりました。

  • @Tsuyoshi-wz4jg
    @Tsuyoshi-wz4jg Рік тому

    虚仮不実で清浄の心もない、という親鸞聖人のお言葉を聞くと、安心するというか救われたような気持ちになります。心の中に煩悩が頭をもたげた時、自分のことを浅ましいと思いながらも、少しでも冷静に自分のことを見つめることができるようになりたいと思っています。ありがとうございました。

  • @frederickchung1662
    @frederickchung1662 Рік тому +3

    色々と勉強になりました! 😁ありがとうございます!!

  • @yasuhitootsuka6890
    @yasuhitootsuka6890 Рік тому

    幼少期、お仏壇の前で正信偈を唱えて過ごした頃がありました。
    思えば何かを考えて唱える事もなく、無心で読んでいた覚えがあるのですが、
    あの経物はお経ではなく、親鸞聖人の教えなのでしょうか?
    仏の教えを学んでいる方はお経を唱える時、
    どんな心の在り方でいらっしゃいますか?
    私は仕事や、恋愛、お金のことでも、趣味のことでも、また他人との会話程の些細な事でも、
    心の在り方というか、それに対する自分の心の向きというか姿勢がとても大切だと、何時からか思うのです。
    上手く気持ちを言語化出来ていないので、色々学ばせていただいております。
    長々とコメント失礼しました、また動画楽しみにしています。

  • @user-mk6mq1np5f
    @user-mk6mq1np5f Рік тому +2

    欲も怒りも両義性がある。
    前に進ませる欲や怒りには後悔することはない。後悔するものは自身を陥れる。

  • @user-tc9ii2gz4v
    @user-tc9ii2gz4v Рік тому +3

    仏教のお話し、あの人この人にと、どうしても聞かせてあげたいとの思いが煩悩が瞬間消えさるのではないでしようか?🌠

  • @hsasakiak
    @hsasakiak Рік тому

    信楽と仏の悟りとは別物なのですね。信楽ですと、亡くなるときに仏になって輪廻転生から解き放たれ浄土に行けることが弥陀の救いにより生きているうちに一念で確定するということなのですね。

  • @handle_K.T.
    @handle_K.T. Рік тому +4

    「煩悩を断たずに涅槃を得る」とは何を意味しているのでしょうか?
    お釈迦様は因縁を説かれたとの理解です。
    「煩悩を断ち涅槃を得る」であれば「輪廻に生まれる因が煩悩であるため、その因を断てば輪廻に生まれない」という説明は理解できます。
    では、「煩悩を断たずに涅槃を得る」とはどのように理解すればよいのでしょうか?
    お釈迦様の教えの最も短い要約は四聖諦ではないかと思っています。
    苦諦:生きるとは苦である(生きる = 認識する = 苦)
    集諦:苦は渇愛から生まれる(渇愛 = 「のどがかわいて水を欲しがるように、凡夫が五欲に愛着すること」 = もろもろの執着)
    滅諦:渇愛を残りなく無くせば苦は消える(原因が消えれば結果は出ないということ)
    道諦:渇愛を残りなく無くす方法は存在し、実践可能である(その方法を説いたのが仏教)
    四行に纏めた超要約のため、正しく理解するには個別の説明が必要になると思いますが、概ね上記の流れが仏教全体を表しているとの理解です。
    →自力で苦の原因を無くす(修行により真理を悟ることで執着を断つ)ことで、来世は涅槃に生まれるということです。
    お釈迦様は自力で輪廻から脱出する方法を説かれていましたが、他力で救われるとはどのような因果関係で成り立つものなのでしょうか?

    • @handle_K.T.
      @handle_K.T. Рік тому +1

      @@encounter1964
      なるほど。 言葉の定義となると何が正しいのか難しいところですね。
      ただ、劣等感等は煩悩となりますので、やはり「煩悩を断たずに涅槃を得る」の意味はよく分からないです。。。

    • @user-mk6mq1np5f
      @user-mk6mq1np5f Рік тому

      佛教では四諦八正道が悟り(目覚めた人=仏)への道。他力とは、浄土真教のほとんどの信者は阿弥陀仏の力だと思っています。南無阿弥陀仏と唱え続ければ仏になると信じています。それでいいのです。幸せは現世であればいい。それ以上を望む必要はありません。信者だけでなく僧も現世での救いがあればいいのです。

    • @handle_K.T.
      @handle_K.T. Рік тому +1

      @@user-mk6mq1np5f
      その通りだと思っています。
      実態としては、龍樹さんが「お釈迦様の説法のうち出家向けの説法と在家向けの説法で分け、難行道(小乗)と易行道(大乗)に分類した」ってところなのかな? との理解です。
      (まぁ、そこまで厳密に分けたわけでは無いでしょうけど、大雑把にはそんな感じかと。)
      →お釈迦様は在家信者向けに解脱への道はあまり説いていないです。
      現世での幸福を目指すこと自体は特段否定するつもりもありませんし、何を目標とすべきかなんて他人がとやかく言うことでもないと思っています。
      お釈迦様も苦の滅尽を提案しているだけで、強制する気なんてまったくありませんでした。
      それに、輪廻を廻り続けた所でどうせ過去世の記憶が辿れる人なんてほぼいないでしょうし、何れ落ちるであろう悪趣での苦しみは他人事と思えば良いだけです。
      ですが、「煩悩を断たずに涅槃を得る」と言われてしまうと、、、
      涅槃って四向四果(四双八輩)の悟りの階梯を最終段階まで行った人が行くところです。
      煩悩を断たずに阿羅漢果に到達するなんて無理なので、「それは流石に言ってる事がおかしくないですか?」と感じてしまいます。
      そんなわけで、冒頭の『「煩悩を断たずに涅槃を得る」とは何を意味しているのでしょうか?』という問いとなりました。

  • @Hoittony
    @Hoittony Рік тому

    救いなど要らない。自分の道をただ歩いて行くそして無に帰す。

  • @user-tu3nb9qg9u
    @user-tu3nb9qg9u Рік тому +1

    ありがとうございます!

  • @yumigoto756
    @yumigoto756 Рік тому +2

    ありがとうございます!