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貴重な写真ばかりですねありがとうございます観ていて楽しいです大正時代にはとても惹かれます
今回も貴重な写真、ありがとうございました。こんな女学生の写真見たことありませんでしたので、感激です!次の動画も楽しみにしています!
コメントありがとうございます。今回、古い雑誌からの掲載だったので、画像が荒かったのですが、他にはない写真が多かったので、使いました。気に入っていただけた方がいて、私もうれしいです。これからもよろしくお願いします。
毎回感心するのは動画作成のための材料の豊富さと、その解説の豊富な知識。
ほめていただけてうれしいです。毎回必死で作っているので、泣けるほどです❤
伯母は戦時中の入学で薙刀練習に軍需工場の勤労奉仕…受験したのに新制中学校に編入…。苦労話を聞いた時に楽しかったことは?と尋ねると男女共学になってフォークダンスをしたことだそうです。
コメントありがとうございます。ほろ苦い思い出と、ほろ甘い(?)思い出に、やっぱり青春っていいなと思いました。最近はフォークダンスもないようで、もったいないなと思っています。
バンカラって、大阪府の天王寺高校の校風として一番、耳にしましたハイカラに対比した言葉で、男子学生服の襟には白いカラーをつけてたのが、高いのが流行って、オシャレだったのでしょうね。蛮カラはハイカラをもじって、応援団など、着物で袴、下駄の学生を言ったけど、衣服や外見を重視せず、内面を重視するという自分たちを謙遜して言った言葉のように思います。ハイカラは最初は神父様たちの装束として日本に浸透し、静かで敬虔で穏やかで待ち続ける彼らを尊重しつつ、ハイカラだと言ったのでしょうが、自分たち蛮カラだと、走る時は裸足で(当時の日本では代々、草履や縄草履、地下たびでも歩けるよう、道の障害物が取り払われていたのが、戦後も昭和40代にもまだ、残っていたのですが、阪神大震災以降、巨大建築ブームになって、公園も道も荒れてしまった、、小石や小枝が道に落ちてると、そこで地面に書いて説明してたりできたの。大阪の土は表面は白く乾いてるけど、すぐ下は、湿気で黒くなってるから)ひとっ走り、ってね。男らしい行動力って感じです。相撲をとる時も、裸足になりました。周囲に土俵を小石で書いてね。明治の女学校時代、京都御所や相国寺、冷泉家に挟まれた同志社女学校に、南北戦争で南軍として名家で婚約もされたのですが、破談にされ、新島襄のSOSで来日され、パイプ・オルガンの寄付金を募って日本に当時、まだ3ヶ所しかなかった貴重なオルガンを作ってくれます。多分、南北戦争って、実は奴隷商資本が世界を回ってた時代ですから、南軍、南部というのに移住してきたヨーロッパの家族は、すでにスペイン王がローマ法王庁で大きな権限を持つのと奴隷商資本に対抗せず、受容したというのでヘンリー8世は、カトリック信仰のまま、英国教会を設立して奴隷資本と対抗する英議会や大衆もパブで政治談義をするという社会に移っていくし、ロシアでも、宮廷での社交界でフランス語だけの政治談義もあるけれど、民主主義社で大地主の大作家らが活躍する時代でもあり、日本もいち早く、福沢諭吉が江戸末期に防衛で設立した鉄砲洲が新政府になって芝に移転し、世界中の情報が集まり、新島襄は諭吉より7才若い、江戸生まれですから、しかも維新の時代、アメリカでは奴隷貿易資本が、さらに産業革命を迎え、世界制服を狙ってる獣は、アメリカで拠点を置き始めて、日本を狙ってる時期、、 デントン先生は英系移民だったから、しかもとても厳しい家庭に育ち、アイロンがされた真っ白な綿のハンカチがシンボルで、佐々木光枝先生が在学時に、戦争中でしたが、ガラス窓に貼りつけて乾かせるというのを教えられたそうです。みんな、袴って、確かに重たいけれど、そこから、女子ブルマがデザインされ、今の体操パンツになったのだと思う。西洋のソックスや靴の方が下駄や足袋より締め付けてる、ということは感じませんか? イスの生活は確かに、美脚には大切だけど、畳や板間での立ったり、座ったりの生活、和式トイレなども、日本人の脚力を作ったものだと父は言ってました。日本女性が膝、足首が弱いのは、立場によって長い時間、ずうっと、正座をし続けなければならない立場があると思います。天照大神の国ですから、笑、男性は女性崇拝の文化があり、昭和の斎藤茂吉の長男の茂太さんは、日本男性は、戦後でも、結婚して子供ができると、自分も妻の子供になってしまう症候群を書かれていて、、多くの日本人が納得したわけです。グローバル化に連れ、男性の女性化になっていきます? 苦笑男尊女卑というのは、戦時中、日本軍がアジア兵に占拠された事態となり、内閣の指示を無視して前線部隊が動き出すのは、、無線中継が海軍艇がしてたのが、無線技術で米独蘭仏などに無線ハイジャックされてしまったからかもしれませんが。。mmmともかく、、日本人青年が二等兵として入隊すると、上等兵のアジア系の先輩兵がリンチいじめをしたというのは戦前派の世代からはよく耳にしました昭和30代にはそういうドクメンタリー映画がテレビで放映されてましたし、終戦後、帰還した人は一才、思い出話御法度とされ、ロシアで捕虜になった方達が戻ってこられて少し、やっぱり、そうだったんだ、、という感じです。。それほど、東京裁判をしたトルーマンという人脈は恐ろしく、残忍で、酷い裁判だったということです。。きっと、本当のナチズム人材が脈々と、時代により国を違えて、彼らは最新技術をゲシュタポ的に科学者を軟禁したり経済を動かすことで最新テロ技術を開発させていく?
日本女子大は 女子大第一号なんですね。第一期生に 作家の田村俊子がいます。瀬戸内寂聴が 晴美だった頃 田村俊子 という 小説を書いています。田村俊子は 綺麗な人です✨
登録者数1000人おめでとう🎉
いつもコメントありがとうございます!1000人、本当にうれしいです。支えていただき、ありがとうございます。
I'm from Los Angeles. I love old era's Japan.My grandma was born in 1917 and she was graduated Hirosaki Girl's School (Current Hirosaki Chūō High School). Her family was an ancestral Hirosaki Domain samurai.
明治に生まれた祖母二人の卒業アルバムを見せてもらったことがあるが、現代と同じような写真のアルバムだった!服装は、二人とも袴だった。
卒業アルバム!見たことないです!似た感じだったのですね。想像しただけでワクワク。そして、きっとおばあさまはお金持ちの子女だったのですね。うらやましいです❤️
@@Cosono-Japan 会津田島駅から福米沢の家まで自分の土地だけ通って帰れたそうです。
まず、日本で最初に写真撮影をしたのは、坂本龍馬!その時期でも、戦後でさえ、写真を撮ると、寿命を吸い取られる、という噂が流されていて、、この噂も、、きっと!日本人にすり替わるのに邪魔になるからだった?と今は考える。。苦笑実際、和歌山には女学校がなく、祖母は末っ子でしたが、上のお姉さん3人は皆、奈良県桜井女学校に宿泊して通学した。おそらく?江戸期の老中らが桜井藩の人物が多かったから、明治になって、奈良に桜井藩の人たちが移住したのではないだろうか?梅でも桃(梅は中国の国花だったし、桃は桃太郎で明治期の和歌山で成長した果樹)でもなく、果樹は当時は果実ほどの大きさじゃないので、子供を持たない桜だったのかも?しれない??桜田門外ノ変も実は、井伊直弼を殺さずに、死んだことにして、大老、老中の人事を変えるために?桜田門での事件が必要だったのではないだろうか。だって、、井伊直弼って、本当に、、佐倉藩にお願いする低姿勢で、人道的で良識のある誠実な人物なのに、、彼に老中、大老役をうっちゃって、退陣して、そして、新たな人選をして、桜田門外ノ変が起こる。。というのなら、、その後の近畿の存在価値が理解できる。。?
卒業アルバムも2000以降は、加工術がすごくって、祖母の卒業アルバムを2010以降、見ると、多くの人たちが混血系の容貌にかえらた上で、顔の部分だけ移植してるのがわかった。とっても、不自然。。見てもいつも、そういう異変がなかった。目立たない日本人の容姿容貌だった。。
とても分かりやすく詳細に教えていただいてありがとうございます(^^)写真等もあまり見ないものばかりだったので勉強になりました。もし可能でしたら、男子校も配信してくださいませんでしょうか?中々男子学生の生活が分かるものがない気がして😅ご検討よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます!男子学生ですよね。探してみます。そう言えば、女学生特集を扱ったものは多いですが、男子学生って結構ありませんよね。がんばってみます。気長にお待ちください💘
@@Cosono-Japan 様ご返信くださりありがとうございます(^^)気長に待ちます💓ご無理のない範囲でよろしくお願いいたします(^^)
それぞれの写真は貴重で興味深いですが、いつ頃のものかがわかるといいです。明治大正は60年間ありますから、どれが明治初期でどれが大正末なのか、などがわかると興味も倍増します。
がんばって載せられるのは載せるようにしますね。なかなか難しいですけどw
私の父方の祖母(大正10年産まれ)は生前「爺さんは尋常小学校しか出てないけどワタシャ高等科まで行った」って威張っていたな。そりゃ昭和初期に北海道でチャリンコ乗ってたお嬢様は違うやろ…😅
コメントありがとうございます。北海道で自転車ですか!めちゃくちゃハイカラですね。おじいちゃん、何にも言い返せないですね。そんな関係、憧れます!
この時代に女学校に通うだなんて、世が世ならお姫様だった…なんて人達でしょうね。富岡製糸場に集められた女性達も当初はこうした良家のお嬢様ばかりで、ごくのんびりしたものだったとか。それだけに庶民の目にはさぞまぶしかった事でしょう…。
コメントありがとうございます!庶民とお姫様・・・きっと、ものすごく差があったんでしょうね。
私の母校の中高は、1870年創立の日本初の女子高等教育機関、アメリカ改革派教会宣教師団が設立したミッションスクールの女学校です。明治期の母校の生徒たちは、士族や裕福な商家の子女が多く、寮があって遠隔地からも受け入れていました。「お姫様」に相当する、元貴族、元大名家の令嬢は、女子学習院に通うのが普通でしたから、それ以外の女学校に通っていたのは、それ以下、せいぜい、江戸時代ならお武家(旗本、藩士)のお嬢さま、大店のお嬢さまレヴェルです。大正時代になりますが、朝ドラ『花子とアン』のモデルになった東洋英和女学院の生徒であった、白蓮こと柳原燁子は華族である伯爵家の令嬢でしたが、かなり没落していて、白蓮は多額の結納金、支度金をを獲得するために何度も結婚させられています。東洋英和女学院に通っていたのは、最初の結婚、離婚後ですね。村岡花子は、甲府でしたっけ? 貧しい農家の出で、花子が女学校を出て教師として戻ってきてから、やっとおかずに目刺しがつくようになった。それまでは薄い雑炊くらいしか食べられなかった庶民の出です。-私の母校は、カナダ系の東洋英和女学院ではありませんが、似たようなミッションスクール。公立女学校のような良妻賢母、軍国の母教育ではなく、創立当初から、「男尊女卑の気風が色濃く残る日本に、社会の指導者たる女性を育てる」ことを目的として設立されました。畳敷きの部屋で作法の授業はあったそうですが、修身教育はなく、毎朝の礼拝は、戦時中に駆り出された学徒動員先の工場でも、ひそかに守られていたそうです。また、英語、音楽、創作ダンスの教育が盛んで、これも、太平洋戦争中、アメリカ人教師たちが人質交換でアメリカに送還され、日本人が校長になり、校名も横文字から日本語に変更された後も続けられていました。寮もあり、金銭的に余裕がなくても、才能と向学心がある生徒には、授業料免除、奨学金支給で受け入れていました。創立当初はアメリカ改革派教会からの献金もあったでしょうし、宣教師団の目的は、あくまでも向学心のある優秀な女性を日本に育てること。私学でしたから、授業料は徴収してはいましたが、半分ボランティアの社会活動に近い。お金持ちのお嬢さま教育では意味がないのです。現在は寮はなくなりましたが、授業料は年額50万円程度と私立校としては普通。在校中に両親が亡くなるなどした場合には、奨学金制度で卒業まで支えるそうです。-それでも、当時女学校に通えたのは恵まれた人たちだったでしょうが、全員が「お姫様」だったというのは誤解です。明治生まれの祖母も地元の佐賀の女学校を卒業していますが、実家は庄屋で、しかも両親が早くに亡くなっていて、教育熱心な長兄が女学校に通わせてくれたとのこと。お蔭で祖母は、元加賀藩御文庫係の子息である祖父のもとに嫁いでいます。祖父の方も、士族とはいえ、早くに父親が亡くなり、しかも祖父の上に一ダースくらいの姉がいて、祖父は末子で長男。家は窮乏しているのに跡継ぎとして期待され、苦学して大学の法学部と経済学部を出て役人になっています。-華族ですら、窮乏して華族の地位を自ら捨てた人もいます。ましてや、通常の女学校に通っていた士族や商家の娘たちは、女子学習院に通う皇族の姫や華族令嬢ほど豊かだったわけでは必ずしもない。現代でもそうですが、要は親が教育熱心で、本人に向学心があるかどうかの問題でしょう。
会津藩が女性教育を重視してるのは、一番、嫌な時期に(絶対、悪者役、死ぬのが決められた立場)、明治政府という全く!いくらお金持ちであっても、日本中を潤わせるほどの資本はない明治政府が、当時、アメリカなどの大統領選を見ても分かる通り、、奴隷商資本が産業革命の新技術で労使体制に移る中で統合し?というか、、奴隷資本家が新技術で使用人側に移っていっただけ? 日本も掃除するのも丸く履かないできっちり隅々まで履く、とか、手先が器用で研究?修行制度があり、礼節とお行儀が行き渡ってる、識字率が世界一と、手作りだが、書物、刊行物も読んでる、、というので、奴隷として使うことを狙い続けられてる? 一方で、、中国大陸からゴールドラッシュとともに移住した在米アジア人たちも、世界制服を狙って、呑気な欧州系の中に混血し、、、トルーマンのような人物や、、ヒトラーのような人物が出来上がったのではないだろうか? ヒトラーは最初はローマ法王(この時期には奴隷商スペイン系の人事から経て、ちゃんと、独身を約束し、生涯、カトリック精神の博愛を誓った方々に戻ってる)のメッセンジャーであったはずなんだけど、、軍隊に入って、戦争で怪我をして野戦病院に入院して退院したら、いわゆる有名なヒットラー演説をする人に代わっていたそうだ。。最初は、ユダヤ系のドイツの地主の息子さんで、絵描きになるのが子供の頃からの夢で、その人が、ユダヤ人迫害するなんて、、想像できない?しかも、当時は、まだ、人口増加が爆発してない時期だし。。??しかも、ロシア革命の前に、すでに、英、独、米、露がロシア革命のヒーローをドイツ軍の列車に乗せたりして移動させてたことが、昭和60に青山大学教授になった方が、阪神大震災以降、現実となる現在までの異常事態が予告されてる。。ま、、ユダヤ人が告白したということで自分たちに責任を負わせてるから発行が可能になってるのでしょうが。。でも、、シェークスピアの時代から、延々と有能な才能と敬虔な人格とを持つことで、資本最重視の民から疎んじられ続けてきた民族史から考えると、、これは彼らが自分たちの民族史を振り返って、予言したことで、テロ資本のプロトコール(お定まりのパターン)ってことではないだろうかと、今は思う。。苦笑
国の政策により制服がコロコロ変わるなんて女学生も大変でしたね。その中で美意識が磨かれる⁉️
コメントありがとうございます!制服の大きな変更は、今じゃ許されないですよね。まさに激動!って感じです。
母親が静岡女子師範して先生になったが当時の両親はある面 偉かったのか 養女だったので苦労したんだろうなタイムスリップしてみる映像は❤です
幼女とか昔は結構あったと聞きますよね。ご苦労はあったと思いますが、主様がいらっしゃるので、幸せだったと思います。
鹿鳴館に駆り出されたのはいわゆる芸者ではなかったでしょうか?
メインは芸者さんが中心だったみたいですけど、給仕には学生も駆り出されたそうです。上流階級の生活に近いってことでしょうね。
今でいう上級国民やろ
コメントありがとうございます!まさに上級国民!いまより貧富の差がはげしかったでしょうから、相当の上級っぷりだったと思います。
貴重な写真ばかりですね
ありがとうございます
観ていて楽しいです
大正時代にはとても惹かれます
今回も貴重な写真、ありがとうございました。こんな女学生の写真見たことありませんでしたので、感激です!
次の動画も楽しみにしています!
コメントありがとうございます。
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他にはない写真が多かったので、使いました。
気に入っていただけた方がいて、私もうれしいです。
これからもよろしくお願いします。
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ほめていただけてうれしいです。
毎回必死で作っているので、泣けるほどです❤
伯母は戦時中の入学で薙刀練習に軍需工場の勤労奉仕…受験したのに新制中学校に編入…。苦労話を聞いた時に楽しかったことは?と尋ねると男女共学になってフォークダンスをしたことだそうです。
コメントありがとうございます。
ほろ苦い思い出と、ほろ甘い(?)思い出に、やっぱり青春っていいなと思いました。
最近はフォークダンスもないようで、もったいないなと思っています。
バンカラって、大阪府の天王寺高校の校風として一番、耳にしました
ハイカラに対比した言葉で、男子学生服の襟には白いカラーをつけてたのが、高いのが流行って、オシャレだったのでしょうね。
蛮カラはハイカラをもじって、応援団など、着物で袴、下駄の学生を言ったけど、衣服や外見を重視せず、内面を重視するという自分たちを謙遜して言った言葉のように思います。
ハイカラは最初は神父様たちの装束として日本に浸透し、
静かで敬虔で穏やかで待ち続ける彼らを尊重しつつ、ハイカラだと言ったのでしょうが、自分たち蛮カラだと、走る時は裸足で(当時の日本では代々、草履や縄草履、地下たびでも歩けるよう、道の障害物が取り払われていたのが、戦後も昭和40代にもまだ、残っていたのですが、阪神大震災以降、巨大建築ブームになって、公園も道も荒れてしまった、、小石や小枝が道に落ちてると、そこで地面に書いて説明してたりできたの。大阪の土は表面は白く乾いてるけど、すぐ下は、湿気で黒くなってるから)ひとっ走り、ってね。男らしい行動力って感じです。相撲をとる時も、裸足になりました。周囲に土俵を小石で書いてね。
明治の女学校時代、京都御所や相国寺、冷泉家に挟まれた同志社女学校に、南北戦争で南軍として名家で婚約もされたのですが、破談にされ、新島襄のSOSで来日され、パイプ・オルガンの寄付金を募って日本に当時、まだ3ヶ所しかなかった貴重なオルガンを作ってくれます。多分、南北戦争って、実は
奴隷商資本が世界を回ってた時代ですから、南軍、南部というのに移住してきたヨーロッパの家族は、すでにスペイン王がローマ法王庁で大きな権限を持つのと
奴隷商資本に対抗せず、受容したというのでヘンリー8世は、カトリック信仰のまま、英国教会を設立して奴隷資本と対抗する英議会や大衆もパブで政治談義をするという社会に移っていくし、ロシアでも、宮廷での社交界でフランス語だけの政治談義もあるけれど、民主主義社で大地主の大作家らが活躍する時代でもあり、日本もいち早く、福沢諭吉が江戸末期に防衛で設立した鉄砲洲が新政府になって芝に移転し、世界中の情報が集まり、新島襄は諭吉より7才若い、江戸生まれですから、しかも維新の時代、アメリカでは奴隷貿易資本が、さらに産業革命を迎え、世界制服を狙ってる獣は、アメリカで拠点を置き始めて、日本を狙ってる時期、、 デントン先生は英系移民だったから、しかもとても厳しい家庭に育ち、
アイロンがされた真っ白な綿のハンカチがシンボルで、佐々木光枝先生が在学時に、戦争中でしたが、ガラス窓に貼りつけて乾かせるというのを教えられたそうです。みんな、袴って、確かに重たいけれど、そこから、女子ブルマがデザインされ、今の体操パンツになったのだと思う。
西洋のソックスや靴の方が下駄や足袋より締め付けてる、ということは感じませんか? イスの生活は確かに、美脚には大切だけど、畳や板間での立ったり、座ったりの生活、和式トイレなども、日本人の脚力を作ったものだと父は言ってました。日本女性が膝、足首が弱いのは、立場によって長い時間、ずうっと、正座をし続けなければならない立場があると思います。天照大神の国ですから、笑、
男性は女性崇拝の文化があり、昭和の斎藤茂吉の長男の茂太さんは、日本男性は、戦後でも、結婚して子供ができると、自分も妻の子供になってしまう症候群を書かれていて、、多くの日本人が納得したわけです。
グローバル化に連れ、男性の女性化になっていきます? 苦笑
男尊女卑というのは、戦時中、日本軍がアジア兵に占拠された事態となり、内閣の指示を無視して前線部隊が動き出すのは、、無線中継が海軍艇がしてたのが、無線技術で米独蘭仏などに無線ハイジャックされてしまったからかもしれませんが。。mmm
ともかく、、日本人青年が二等兵として入隊すると、上等兵のアジア系の先輩兵がリンチいじめをしたというのは戦前派の世代からはよく耳にしました
昭和30代にはそういうドクメンタリー映画がテレビで放映されてましたし、
終戦後、帰還した人は一才、思い出話御法度とされ、ロシアで捕虜になった方達が戻ってこられて少し、やっぱり、そうだったんだ、、という感じです。。
それほど、東京裁判をしたトルーマンという人脈は恐ろしく、残忍で、酷い裁判だったということです。。きっと、本当のナチズム人材が脈々と、時代により国を違えて、彼らは最新技術をゲシュタポ的に科学者を軟禁したり経済を動かすことで最新テロ技術を開発させていく?
日本女子大は 女子大第一号なんですね。第一期生に 作家の
田村俊子がいます。瀬戸内寂聴が 晴美だった頃 田村俊子 という 小説を書いています。
田村俊子は 綺麗な人です✨
登録者数1000人おめでとう🎉
いつもコメントありがとうございます!
1000人、本当にうれしいです。
支えていただき、ありがとうございます。
I'm from Los Angeles. I love old era's Japan.
My grandma was born in 1917 and she was graduated Hirosaki Girl's School (Current Hirosaki Chūō High School). Her family was an ancestral Hirosaki Domain samurai.
明治に生まれた祖母二人の卒業アルバムを見せてもらったことがあるが、現代と同じような写真のアルバムだった!
服装は、二人とも袴だった。
卒業アルバム!見たことないです!
似た感じだったのですね。
想像しただけでワクワク。
そして、きっとおばあさまはお金持ちの子女だったのですね。
うらやましいです❤️
@@Cosono-Japan
会津田島駅から福米沢の家まで自分の土地だけ通って帰れたそうです。
まず、日本で最初に写真撮影をしたのは、坂本龍馬!
その時期でも、戦後でさえ、写真を撮ると、寿命を吸い取られる、という噂が流されていて、、この噂も、、きっと!日本人にすり替わるのに邪魔になるからだった?と今は考える。。苦笑
実際、和歌山には女学校がなく、祖母は末っ子でしたが、上のお姉さん3人は皆、奈良県桜井女学校に宿泊して通学した。
おそらく?江戸期の老中らが桜井藩の人物が多かったから、明治になって、奈良に桜井藩の人たちが移住したのではないだろうか?
梅でも桃(梅は中国の国花だったし、桃は桃太郎で明治期の和歌山で成長した果樹)でもなく、果樹は当時は果実ほどの大きさじゃないので、子供を持たない桜だったのかも?しれない??
桜田門外ノ変も実は、井伊直弼を殺さずに、死んだことにして、大老、老中の人事を変えるために?桜田門での事件が必要だったのではないだろうか。
だって、、井伊直弼って、本当に、、佐倉藩にお願いする低姿勢で、人道的で良識のある誠実な人物なのに、、彼に老中、大老役をうっちゃって、退陣して、そして、新たな人選をして、桜田門外ノ変が起こる。。というのなら、、その後の近畿の存在価値が理解できる。。?
卒業アルバムも2000以降は、加工術がすごくって、祖母の卒業アルバムを2010以降、見ると、多くの人たちが混血系の容貌にかえらた上で、顔の部分だけ移植してるのがわかった。とっても、不自然。。
見てもいつも、そういう異変がなかった。目立たない日本人の容姿容貌だった。。
とても分かりやすく詳細に教えていただいてありがとうございます(^^)
写真等もあまり見ないものばかりだったので勉強になりました。
もし可能でしたら、男子校も配信してくださいませんでしょうか?
中々男子学生の生活が分かるものがない気がして😅
ご検討よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます!
男子学生ですよね。探してみます。
そう言えば、女学生特集を扱ったものは多いですが、男子学生って結構ありませんよね。
がんばってみます。
気長にお待ちください💘
@@Cosono-Japan 様
ご返信くださりありがとうございます(^^)
気長に待ちます💓
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それぞれの写真は貴重で興味深いですが、いつ頃のものかがわかるといいです。明治大正は60年間ありますから、どれが明治初期でどれが大正末なのか、などがわかると興味も倍増します。
がんばって載せられるのは載せるようにしますね。
なかなか難しいですけどw
私の父方の祖母(大正10年産まれ)は生前「爺さんは尋常小学校しか出てないけどワタシャ高等科まで行った」って威張っていたな。そりゃ昭和初期に北海道でチャリンコ乗ってたお嬢様は違うやろ…😅
コメントありがとうございます。
北海道で自転車ですか!
めちゃくちゃハイカラですね。
おじいちゃん、何にも言い返せないですね。
そんな関係、憧れます!
この時代に女学校に通うだなんて、世が世ならお姫様だった…なんて人達でしょうね。富岡製糸場に集められた女性達も当初はこうした良家のお嬢様ばかりで、ごくのんびりしたものだったとか。それだけに庶民の目にはさぞまぶしかった事でしょう…。
コメントありがとうございます!
庶民とお姫様・・・
きっと、ものすごく差があったんでしょうね。
私の母校の中高は、1870年創立の日本初の女子高等教育機関、アメリカ改革派教会宣教師団が設立したミッションスクールの女学校です。
明治期の母校の生徒たちは、士族や裕福な商家の子女が多く、寮があって遠隔地からも受け入れていました。
「お姫様」に相当する、元貴族、元大名家の令嬢は、女子学習院に通うのが普通でしたから、それ以外の女学校に通っていたのは、それ以下、せいぜい、江戸時代ならお武家(旗本、藩士)のお嬢さま、大店のお嬢さまレヴェルです。
大正時代になりますが、朝ドラ『花子とアン』のモデルになった東洋英和女学院の生徒であった、白蓮こと柳原燁子は華族である伯爵家の令嬢でしたが、かなり没落していて、白蓮は多額の結納金、支度金をを獲得するために何度も結婚させられています。東洋英和女学院に通っていたのは、最初の結婚、離婚後ですね。
村岡花子は、甲府でしたっけ? 貧しい農家の出で、花子が女学校を出て教師として戻ってきてから、やっとおかずに目刺しがつくようになった。それまでは薄い雑炊くらいしか食べられなかった庶民の出です。
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私の母校は、カナダ系の東洋英和女学院ではありませんが、似たようなミッションスクール。
公立女学校のような良妻賢母、軍国の母教育ではなく、創立当初から、「男尊女卑の気風が色濃く残る日本に、社会の指導者たる女性を育てる」ことを目的として設立されました。
畳敷きの部屋で作法の授業はあったそうですが、修身教育はなく、毎朝の礼拝は、戦時中に駆り出された学徒動員先の工場でも、ひそかに守られていたそうです。
また、英語、音楽、創作ダンスの教育が盛んで、これも、太平洋戦争中、アメリカ人教師たちが人質交換でアメリカに送還され、日本人が校長になり、校名も横文字から日本語に変更された後も続けられていました。
寮もあり、金銭的に余裕がなくても、才能と向学心がある生徒には、授業料免除、奨学金支給で受け入れていました。
創立当初はアメリカ改革派教会からの献金もあったでしょうし、宣教師団の目的は、あくまでも向学心のある優秀な女性を日本に育てること。私学でしたから、授業料は徴収してはいましたが、半分ボランティアの社会活動に近い。お金持ちのお嬢さま教育では意味がないのです。
現在は寮はなくなりましたが、授業料は年額50万円程度と私立校としては普通。在校中に両親が亡くなるなどした場合には、奨学金制度で卒業まで支えるそうです。
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それでも、当時女学校に通えたのは恵まれた人たちだったでしょうが、全員が「お姫様」だったというのは誤解です。
明治生まれの祖母も地元の佐賀の女学校を卒業していますが、実家は庄屋で、しかも両親が早くに亡くなっていて、教育熱心な長兄が女学校に通わせてくれたとのこと。
お蔭で祖母は、元加賀藩御文庫係の子息である祖父のもとに嫁いでいます。
祖父の方も、士族とはいえ、早くに父親が亡くなり、しかも祖父の上に一ダースくらいの姉がいて、祖父は末子で長男。
家は窮乏しているのに跡継ぎとして期待され、苦学して大学の法学部と経済学部を出て役人になっています。
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華族ですら、窮乏して華族の地位を自ら捨てた人もいます。
ましてや、通常の女学校に通っていた士族や商家の娘たちは、女子学習院に通う皇族の姫や華族令嬢ほど豊かだったわけでは必ずしもない。
現代でもそうですが、要は親が教育熱心で、本人に向学心があるかどうかの問題でしょう。
会津藩が女性教育を重視してるのは、一番、嫌な時期に(絶対、悪者役、死ぬのが決められた立場)、明治政府という全く!いくらお金持ちであっても、日本中を潤わせるほどの資本はない明治政府が、当時、アメリカなどの大統領選を見ても分かる通り、、奴隷商資本が産業革命の新技術で労使体制に移る中で統合し?というか、、奴隷資本家が新技術で使用人側に移っていっただけ?
日本も掃除するのも丸く履かないできっちり隅々まで履く、とか、手先が器用で研究?修行制度があり、礼節とお行儀が行き渡ってる、識字率が世界一と、手作りだが、書物、刊行物も読んでる、、というので、奴隷として使うことを狙い続けられてる? 一方で、、中国大陸からゴールドラッシュとともに移住した在米アジア人たちも、世界制服を狙って、呑気な欧州系の中に混血し、、、トルーマンのような人物や、、ヒトラーのような人物が出来上がったのではないだろうか? ヒトラーは最初はローマ法王(この時期には奴隷商スペイン系の人事から経て、ちゃんと、独身を約束し、生涯、カトリック精神の博愛を誓った方々に戻ってる)のメッセンジャーであったはずなんだけど、、軍隊に入って、戦争で怪我をして野戦病院に入院して退院したら、いわゆる有名なヒットラー演説をする人に代わっていたそうだ。。最初は、ユダヤ系のドイツの地主の息子さんで、絵描きになるのが子供の頃からの夢で、その人が、ユダヤ人迫害するなんて、、想像できない?しかも、当時は、まだ、人口増加が爆発してない時期だし。。??
しかも、ロシア革命の前に、すでに、英、独、米、露がロシア革命のヒーローを
ドイツ軍の列車に乗せたりして移動させてたことが、昭和60に青山大学教授になった方が、阪神大震災以降、現実となる現在までの異常事態が予告されてる。。ま、、ユダヤ人が告白したということで自分たちに責任を負わせてるから発行が可能になってるのでしょうが。。
でも、、シェークスピアの時代から、延々と有能な才能と敬虔な人格とを持つことで、資本最重視の民から疎んじられ続けてきた民族史から考えると、、
これは彼らが自分たちの民族史を振り返って、予言したことで、テロ資本のプロトコール(お定まりのパターン)ってことではないだろうかと、今は思う。。苦笑
国の政策により制服がコロコロ変わるなんて女学生も大変でしたね。その中で美意識が磨かれる⁉️
コメントありがとうございます!
制服の大きな変更は、今じゃ許されないですよね。
まさに激動!って感じです。
母親が静岡女子師範して先生になったが当時の両親はある面 偉かったのか 養女だったので苦労したんだろうな
タイムスリップしてみる映像は❤です
幼女とか昔は結構あったと聞きますよね。
ご苦労はあったと思いますが、主様がいらっしゃるので、幸せだったと思います。
鹿鳴館に駆り出されたのはいわゆる芸者ではなかったでしょうか?
メインは芸者さんが中心だったみたいですけど、給仕には学生も駆り出されたそうです。
上流階級の生活に近いってことでしょうね。
今でいう上級国民やろ
コメントありがとうございます!
まさに上級国民!
いまより貧富の差がはげしかったでしょうから、相当の上級っぷりだったと思います。