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【補足】 言葉足らず・説明不足の箇所がありました2:25両者を直通する列車は無かったのです。↓両者を直通する「旅客」列車は無かったのです。10:03石灰石輸送は開始当初、甲武鉄道(現・中央本線)や山手線、東海道本線を通して行われました。今の感覚で見ると遠回りのように思われます。しかし、当時はまだ南武鉄道(現・南武線)が立川まで開通していませんでした。立川に南武鉄道が到達したのは1929年(昭和4年)なので、これ以降は南武鉄道経由で運行されたものと考えられます。五日市鉄道と南武鉄道は1940年(昭和15年)に合併するなど、重要なパートナーとして石灰石輸送に貢献しました。
疎開先が五日市でした、蒸気機関車でした、懐かし!ありがとう♬
中華屋さん、サイクリングで行きましたよ。そうかぁ、、五日市駅方面へのあの坂が旧線跡だったんですね。。またいつか行って確認します。
昭和40年代の頃の古い地図や時刻表には残っており、実際に行くと線路もありました。この地を訪れたのは1971年(昭和46年)廃止前後の岩井線でした。ED16が貨物列車を引き、クモハ40が単行等で走っていました。クモハ40は単行運転もできる戦前製の優れたデザインの名車です。この近辺だと、青梅線、五日市線、南武線、下河原線、横浜線などでもクモハ40は走っていました。現在、実際の線路跡は、少なくなっていますが、あちこちにその遺構が残っています。1998年(平成10年)の8月に青梅線、南武線の石灰石輸送貨物列車が廃止され、それ以降はトラック輸送に切り替わってしまいました。八高線では1999年(平成11年)の9月に、西武鉄道も1996年(平成8年)3月に、セメント列車が廃止されていたので、この頃は立て続けにこの地域での鉄道輸送による石灰石輸送等の廃止が重なっていた時期でしたが、その時代の始まりであったのかもしれません。残るは秩父鉄道ぐらいですが、今年、熊谷の秩父鉄道三ヶ尻線も廃止が決まっているので、セメントの列車の今後の行く末はどうなるのかはわかりません。現在、実際に五日市線の走っている北の方、約1.5㎞ほど離れているあたりに、平井川という川が流れています。岩井線廃止後は日の出町から鉄道は消滅しました。8:00の地図にもあるように、平井川付近を通る伊奈分岐ルートが、多少金がかかってでも採用されていれば、現在も岩井線は存続していた可能性があります。平井川周辺のこちらの方が街の中心部であり、人口もはるかに多いからです。本線である中央本線からすれば、支線の支線のそのまた支線の話しです。
昭和40年代後半は、まだ内房線も、このチョコレート色の列車が走っていたような気がしました。幼稚園に入園する前なもんで、はっきりとは覚えてませんが❗
外房線も、チョコレート色でした。
五日市鉄道の話を出すなら、立川拝島間の通称「五鉄」も含めて欲しかったですね。by元「南中神駅」周辺民。
コメントありがとうございます。五鉄の方は、取り上げておられるUA-camrの方が岩井支線より多いので後回しにしてしまいました(汗)五日市線を包括的に取り上げるには必要不可欠な区間ですので、ネタストックに入れておきます!
玉電も仲間に入れてあげて下さいw
五日市線なら かつて 拝島から先も青梅線とは別のルート(現 新奥多摩街道)で立川に行ってたみたいね (平成生まれらしくない発言だけど……)
卒塔婆の生産シェア6割www
【補足】 言葉足らず・説明不足の箇所がありました
2:25
両者を直通する列車は無かったのです。
↓
両者を直通する「旅客」列車は無かったのです。
10:03
石灰石輸送は開始当初、甲武鉄道(現・中央本線)や山手線、東海道本線を通して行われました。今の感覚で見ると遠回りのように思われます。しかし、当時はまだ南武鉄道(現・南武線)が立川まで開通していませんでした。立川に南武鉄道が到達したのは1929年(昭和4年)なので、これ以降は南武鉄道経由で運行されたものと考えられます。
五日市鉄道と南武鉄道は1940年(昭和15年)に合併するなど、重要なパートナーとして石灰石輸送に貢献しました。
疎開先が五日市でした、蒸気機関車でした、懐かし!ありがとう♬
中華屋さん、サイクリングで行きましたよ。そうかぁ、、五日市駅方面へのあの坂が旧線跡だったんですね。。またいつか行って確認します。
昭和40年代の頃の古い地図や時刻表には残っており、実際に行くと線路もありました。この地を訪れたのは1971年(昭和46年)廃止前後の岩井線でした。ED16が貨物列車を引き、クモハ40が単行等で走っていました。
クモハ40は単行運転もできる戦前製の優れたデザインの名車です。この近辺だと、青梅線、五日市線、南武線、下河原線、横浜線などでもクモハ40は走っていました。
現在、実際の線路跡は、少なくなっていますが、あちこちにその遺構が残っています。
1998年(平成10年)の8月に青梅線、南武線の石灰石輸送貨物列車が廃止され、それ以降はトラック輸送に切り替わってしまいました。
八高線では1999年(平成11年)の9月に、西武鉄道も1996年(平成8年)3月に、セメント列車が廃止されていたので、この頃は立て続けにこの地域での鉄道輸送による石灰石輸送等の廃止が重なっていた時期でしたが、その時代の始まりであったのかもしれません。
残るは秩父鉄道ぐらいですが、今年、熊谷の秩父鉄道三ヶ尻線も廃止が決まっているので、セメントの列車の今後の行く末はどうなるのかはわかりません。
現在、実際に五日市線の走っている北の方、約1.5㎞ほど離れているあたりに、平井川という川が流れています。岩井線廃止後は日の出町から鉄道は消滅しました。8:00の地図にもあるように、平井川付近を通る伊奈分岐ルートが、多少金がかかってでも採用されていれば、現在も岩井線は存続していた可能性があります。平井川周辺のこちらの方が街の中心部であり、人口もはるかに多いからです。
本線である中央本線からすれば、支線の支線のそのまた支線の話しです。
昭和40年代後半は、まだ内房線も、このチョコレート色の列車が走っていたような気がしました。
幼稚園に入園する前なもんで、はっきりとは覚えてませんが❗
外房線も、チョコレート色でした。
五日市鉄道の話を出すなら、立川拝島間の通称「五鉄」も含めて欲しかったですね。
by元「南中神駅」周辺民。
コメントありがとうございます。
五鉄の方は、取り上げておられるUA-camrの方が岩井支線より多いので後回しにしてしまいました(汗)
五日市線を包括的に取り上げるには必要不可欠な区間ですので、ネタストックに入れておきます!
玉電も仲間に入れてあげて下さいw
五日市線なら かつて 拝島から先も青梅線とは別のルート(現 新奥多摩街道)で立川に行ってたみたいね (平成生まれらしくない発言だけど……)
卒塔婆の生産シェア6割www