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十数年前、普段ほとんど会わない父方の祖父に「拓殖大学へ進学します」と報告したら、祖父(当時80歳くらい・法政大卒)から「拓大か!よかったじゃないか」と言われたことを思い出しました。当時は気遣ってくれたのかと考えましたが、少し合点がいきました。
1961年当時に40歳を超えていた祖父が、早慶は昔は簡単に入れたと言っていたが、まさか本当だったとは。
それは、ちょっと違うと思いますよ。
それはちがう
@@flex-iq8zh同感。
拓大と青学が同じレベル!貴重な資料ありがとうございました😊
今でも地方進学校では国立重視私立軽視の考え方は変わらないのでは
現在はMARCHレベルの私立とFランと言われる私大がドングリの背比べだった時代差がついていったのはやはり都心部の強みを活かした三次産業への就職実績を伸ばしていった点や、六大学野球などの学生スポーツによるアピールが人気を分けていったのかな有力な企業が東京に本社を構えるようになれば、地方の優秀な国公立大学よりも都市部の私立大学の方が情報を手に入れ易いだろうし、意外と私立にも面白い学生がいる事を企業も知りやすくなる、という流れだったのかな情報入手のし易さ、ネットワーク構築のメリットについては、学生だけでなく教授陣においても同様だっただろう学会の数、文献へのアクセス、海外からの情報入手の効率など、かなりメリットはあったはずで関西(大阪)、関東(東京)で比べても、昔より都市の力関係が顕著になってきた事が、関西学院大の緩やかなパワーダウンの原因の一つになっているようにも思う
当時は国公立と私学の学費が10倍位の差があった。小生の頃の国公立の学費は月¥1,000でしたよ。
30年ほど前から急に倍々で上がって今や下宿して地方国公立行くより地元私立(文系)の方がマシという現状。今の70代前後は学費でも年金受給額でも逃げ切り世代。戦後教育に染まって日本をめちゃくちゃにした張本人の世代のくせに、と思います。
確かに。昭和47年度は月¥1.000円。昭和48年度からは月¥3.000円でしたね。
@@hiroino2557 昭和40年入学で月1000円でしたよ その3年前は確か月300円だったかな
6か月6,000円の前納だったと思うが、それでも飲み代やマージャンで使い、延滞していた学生が散見された。なかには支払わずに退学させられた者もいた。
この頃は、大学の数は100 校代で、大学進学率も20%もなかった時代だから、大学生は貴重な存在でした。この5年後、1966(昭和41)年に大学が急に増設され一気に増えました。それでも全部で270校くらいでした。
おじいちゃんが滋賀大落ちたって話してたけどこんなにすごかったんだな……国からなんかの勲章もらってたしすごかったんだろうな。。。もう一度会いたい
東の横っ国、西の滋賀
拓大が過去、職業会計人を多く排出していたという話を聞いたことがある。。。。
大企業に小樽商大出身の取締役とか結構いたらしい。
60年前の受験生は現在の78歳くらいでしょうか?1961年の大学序列を踏まえると、世代間で学歴観にギャップが生じるのもしょうがない気がします…
1961年ってことは、1942年生まれ世代(今年80歳)のデータを基に、1943年生まれ世代(今年79歳)が利用したデータってことになる。
滋賀大卒だけど年配の方からの評価がやたら高かった理由が漸く理解できた
確か政治評論家の田原総一郎は、滋賀大学落ちの早稲田大学進学だったはず。
今は早稲田>>超えられない壁>>滋賀大ですね🥲
半世紀でとてつもない差をつけられたな笑
彦根高商や!舐めたらあかんぞ。
拓殖ちょっと無双してるの好きw
いかに現在は新設大学が多いことか‼しかし、歴史的、伝統的な大学の存在感は古今東西変わらない‼
私の8歳上になる姉が昭和37年に地元の県立高校普通科から東京大学文科二類に現役合格しました。姉の中学時代の通知表を母親から見せてもらった時はオール5だったので中学時代から頭が良かったようですが、進学塾には行かず、父親から女の子は大学に行くと生意気になると大学進学に反対されてましたが、国立大学なら授業料が安いから許すと言われ発奮したようです。この姉は海外勤務で婚期を逸し、40歳で結婚したので1人娘しか産んでませんが、この1人娘も東京大学理科三類に一浪はしましたが翌年合格して医学部を卒業後に東京大学付属病院の内科医になってます。
すんばらしい。
ここは、1961年の大学の難易度状況を語っている動画で個人の自慢話のコメは不要。そんなコメの書き込みを放置したら、自分、親、祖父、兄弟の自慢話てんこ盛りとなり、動画の趣旨とずれてしまう。
この時代は、青森から東京に10時間とかの時代で、国内移動も難しく、地方の優秀者は地方のトップの大学に行くのが当たり前で、選択の余地がすくなく、東京一極集中していなかったんですね。
甲南はボンボンで頭がいい近所にいる80歳くらいの老紳士ですが一番の公立進学高から甲南出の社長が2人います
甲南は会社経営者の子弟が多くて関関同立の次と言われていましたが、アホボンと言われていました。今は近大に抜かれて産近甲龍の最下位に落ちたのはやはり理系が弱点だったようです。神戸の人口減少が酷いことも影響があるでしょう。
すごい昔には鈴木商店に縁の家柄のボンボンの人が灘高校出て浪人してどこも受からなくて甲南大に入学卒業した人がおって結局その人経営者側の人やったんで系列会社の帝人の社長のち会長をつとめた。灘高校から甲南大 伝説の人や!😂
大学数もこれぐらいでいい。今は…ようわからん大学が多すぎ
俺の親父(昭和7年生まれ)は関学経済出身なんたが、俺が高校生の時に近大受験したいと言った時に罵倒された事を思い出した。滋賀大経済や大経大の評価の高さ、関大を馬鹿にする感覚がこの表を見たら本当にリアルに感じました。面白かったです!
当時は「キン・ポン・カン(近大・日大・関大)」と言って〇〇が入学する大学の代名詞だった。
@@taiichironakagawa7310キンポンカンと言ったのは近大です。今はソウケイキンと言っています。
当時は関大は弁護士志望の学生が多くて関大は法学部だけは良いと言われました。その後は工学部が牽引しました。文系エリート大学の関学は理系が弱点で今は同志社>関関立になりました。
昔、週刊誌に同志社が関学と違って威張らないのは近くに京大があるからだと書いてありました。関学がレベルが落ちても他大学を馬鹿にしたがるのは伝統が身についているのですかね。
関大や立命館に行けなかった人が大経大にいった時代なのでこのコメントはおかしい。関学は経済学部はレベルが高かったが法学部や工学部は別。と言うか工学部はなかった?
神奈川大学が、日東駒専より上で、明治学院や成蹊レベルだったことや外交官試験の合格者数で上智などと名を連ねていたのが、思い起こされます。
拓殖大学が旧制大学時代の名門校なのは知ってたけど、明治と同等か上ってのは驚き‼️何があったんだろう❓よく聞くのは学生団体(応援団)の不祥事。でも他大学でも同様のことはあったはず🤔
団塊の世代の受験者数と大学数を考慮すると、今と違ってどの大学もそこそこ難しかったのではないか?
当時は国立授業料は年間9600円、奨学金は月5000円ぐらいあったので寮でも入れば奨学金だけで生活できた。私立文科系の授業料はこの5から10倍。2部(夜間)が有名大学(早稲田など)にあり授業料は昼間の半分くらい。新入社員の初任給は25000円程度。大学生は学生服が普通で私服は私立大学生など一部。
昭和36年頃の大卒平均初任給は 14000円、国家公務員(上級) は13000円程度です。25000円というのは、よほど特殊な仕事ではないかと思料されます。
加藤一二三は早大だけど写真見ると学生服で対局してますね
2部でしっかり学び有名企業にかなり入社した。
私は昭和39年に大学に入学しましたが入学試験は慶応の経済、早稲田の政経、関学の経済、大阪市立の経済に合格しました。入学したのは西の慶応と言われた関学の経済でした。
京大を西の東大と言った人がいました西のナントカと言われて喜んではいけません。
もう80才にお近いのではありませんか?学歴厨ですか
"西の"とかいう謳い文句に騙されてて草経団連や日商会のメンツを見れば分かるけど今も昔も日本の政財界を牛耳ってるのは東京一工・早慶OBですよ?笑関学が並んだ事なんて一度もありません笑
その頃受験生だった者ですが、北大が偏差値が低く出ているのは、その当時北大のみが文理問わず数三まで必須で、かつ理科社会共に2科目だったからです。逆に一橋は理科が受験科目になく、4教科でした。旺文社のデータはそれぞれの大学の入試の特色を踏まえて出しているのではないので、ここに出た模試の数字のみで実際の難易度がわかるわけではありません。ちなみに私は文系なのに日大医学部を志望校に書いたところA判定をもらったことがあります。これは試験科目関係なく一律にデータを出すから起きることです。
一橋大学も横浜国立大学も神戸大学も、戦前の高等商業学校がルーツにあるから、現代よりもさらに難易度が高く見える。
@@小林直哉-t3y 九帝大(七帝大&京城帝大、臺北帝大)。三商、東京商科大(一橋大)、神戸商業大(神戸大)、大阪商業大(大阪市立大)。ニ文理、廣島文理大(広島大)、東京文理大(東京教育大・筑波大)。あと陸士&海兵。
一橋は理科がなかった???
一橋は一次二次がありましたが二次に理科がなく、東工大は社会がなかったと記憶していました。なにしろ50年も前のことなので違っていたらすみません。
@@q5r-pv4 75年卒ですがありましたよ、2科目あったような。
当時の4年制大学への進学率は7.5%、短大を含んでも10%
そうとなると準fランから大東亜帝国並みの地方私大は東京一極集中の影響であるだろうとは思う7.5となると男子に偏るなどすればMARCHレベルだと思われる。ただあの時代は授業料もバイト程度で行けるぐらい安かったらしい。
横国が京大以上 この時代より後だが二期校時代は東大落ちしか行けない超のつく難関大学だった
横国が京大より上と言うことはあり得ない。
@@iru-f2d さすがに京大以上ということはあり得ないですよね。でも阪大以上、一橋並みだったというのは事実みたいです。浪人東大落ち1万人が定員1600人の横国に殺到ですから。
なぜか同じ首都圏なのに、埼玉大学には行かない^_^
当時の国公立上位の状況からして東大落ちたら横国に行くしかない横国に入学して1年後に東大再チャレンジして入るのもいたと聞いている
東北学院大学(仙台市)の合格難易度が、MARCH、関関同立よりも高かった時代ですね。
今が大事ですね^^
関学がヤバかったのは有名だけど拓殖と武蔵も意外と高いね。
いまの体たらくを見ると卒業生は可哀想だね
@@SirHumphryDavy1 武蔵OBです~すいません🧖
@@SirHumphryDavy1今は同志社>>関関立ですね‼️
成城、成蹊、武蔵、甲南(兵庫)は旧制七年生高校(高校と大学が一貫になっている)だったからどこも名門。
貴重な資料ですね。この時代の明大卒業の先輩方がOB会を仕切ってますがやたらと気合い丸出しの方多いです。納得しました。
興味深く拝見させて頂きました。とにかく、ご縁があって入学したところを大切にすべきですね。母校になるのですから。
甲南大学高くね?後、昔の関学は凄かったんだな〜
明治では商が看板学部というのはこの頃の位置ずけからなんだな
文系学部の比較と言いつつ、人文系が入っていないのが残念。
当時の関西学院は各学部の中でも経済学部が突出して難関学部でしたね。入学してからのことですが10人集まれば7人近くが浪人でした。私が現役と知って皆からどうして浪人して京大、阪大へ行かないんだと言われました。私が大阪市大の経済に合格したけど関学へ来たと言ったら そうかそうかと納得していました。当時の出身高校も大阪は北野、天王寺、高津、大手前、三国ヶ丘、兵庫は神戸、加古川東、兵庫、奈良は奈良、畝傍、郡山と今の優秀進学校が多かったですね。今は学長の村田さんが推薦率を上げて学生数を獲得する経営第一の方針にしているのが現状ですかね。女性の比率も半分になっているみたいでいずれ関西学院女子大学になっているかも・・・頑張れFIGHTERS!!
1972年受験組です。東大(国立一期校)の滑り止めで、横浜国大(国立二期校の雄)に合格・入学しました。同期の多くは、国立大志望で、早慶志望は、少数派の時代でした。
この頃からかな、早慶滑り止めでも、国立受かり早慶落ちる人が出てきた、一流国立以外の国立の滑り止めにならなくなり、普通国立の滑り止めはマーチでも危なくなった。
私大バブルの頃なら、文系地帝に受かって MARCHクラスの私大に落ちるケースはざらにあった。
@@経済学部卒 その頃の地方国公立は簡単だったのですか?
@@カケルチャンネル-c9d 〉その頃の地方国公立は簡単だったのですか?→私大バブル期においても国立至上主義でしたから、少なくとも今と同じくらいは難易度は高かったと思いますよ。受験生が非常に多く 大学の数も今よりも少ないから 私立大学がそれだけ難しかった(というか激戦区だった)という話です、特に私立文系は。私大がもっとも難易度が高かった時代は、1991〜1995年あたりだと思いますが それでもその頃も国立大学のほうが評価は上です。ただ、第一志望の国立大学に合格して、併願した私立大学に落ちてくる人がザラにいたという話です。
東大・京大にいける学力があっても、上京して仕送してもらう余裕なんてないし「大学なら近所に自転車で通える地元国立大があるし、やりたい勉強できるし、農家や商家の手伝いなんかしながら、大学に進学させてもらえるだけありがたい…」という子も、多い時代ですね。 上京して就職した子は実家に仕送りなんかしている子も、多かったんじゃないかな…
1961年は先の大戦後16年目です。受験生は戦時中に生まれています。そのご父兄たちは旧制の学校で学びましたからまだ旧制学校の影響が残っていて、旧高等商業の流れを汲む、小樽商科大学はかつて日銀支店が小樽におかれていたことからもわかるように明治期大正期の北方経済の要もであったのでしょう。また近江商人という言葉からわかるように、大正期に作られた彦根高等商業をルーツとする滋賀大経済学部あるいは簿記会計学の沼田嘉穂のいた横浜国大経済学部は人気が高かったのでしょう。
もう旧制中学の影響は終わっていました。
小樽商科大学はかつての名門!
北大前期で落ちた人が、後期で小樽商科大に行くケースが多いんじゃないかな。
小樽商科大学といえば、古くは小林多喜二、最近では塩地美澄、ってイメージ。
私の記憶が間違っていなければ、小樽商科大学は2期校で、そのなかではトップクラスだった。
滋賀大学は近江商人、後には大手商社が生まれた地盤なので経済には強いというイメージがある
かなりの年配の方から 昔の私立は早稲田でも慶応でも明治でも学費を払える金銭的余裕と普通の頭さえあれば自由に選んで入れたと聞いたことがある
昔は地方はお金持ちが都会の私立大学に行きました。今はみんな金持ちになったのですね。
それは、1961年よりかなり前の話。
まぁ早慶でも国立大受からん頭の人が家柄や金て入れた。
大学には偏差値には表れない要素がたくさんある それが大学の持つ総体としてのfacultyである 歴史や伝統、雰囲気、学会内における勢力、教員の質とその管理、施設の質量、予算他などである 学生は入ってから知るかもしれないが知らない者が殆どであろう
60年前は早稲田、明治、中央、法政、青学などは二部(夜間部)が存在していて、卒業すれば混在しているから要注意だよ。
昔は夜間部に苦学生がいてよく勉強しましたよ。
夜間の学生はよく勉強したよ弁護士や会計士などなど本来 入ってから学ぶのが本意ではないのか?卒業時さらに人格を磨き社会に貢献するそれが大学で学ぶことの意義でもある中退は京都大学卒業ではなく高卒だよ!ふーみん(本人は学歴厨ではないけど)
夜間部の方が優秀な人が多かったと聞いてますよ。
@@KH-zu5mp 夜間部にも優秀な人がいたということでしょう。
祖父がこの頃受験して広島大教育学部だけど凄かったんだな...
MARCH よりも関西の同志社と関学がだいぶ上だったんですね。同志社関学が西の早慶と言われていたと聞きましたが納得です。関学ブランドが強い意味がわかりました。それから、甲南が思ってた以上に上位と思いました。
@佐倉綾音:ゼノ ?Marchびいきされていますねw同志社は明治と同じなんですがねw
@佐倉綾音:ゼノ 頭悪そう(あたまわるそう)
MAR=同志社、CH=立命館、学習院=関関
立命?どこにでも入ってくるのね。確か辞退率85%だからこの件には関係ないかな。あまりいいイメージ無い。この動画では昔も低かったみたいです。そんなことより、やっぱり国公立最強。
@@imnkyko1443 日大理工=マーチ理工
1968年(昭和43)にヒットした高石友也の「受験生ブルース」の主人公は、高3になってもまだ「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ・・・」とやっているボンクラだが、多分戦中の「愛国の花」世代の母親はそれでも「一流の大学に入らねば あたしゃ近所の皆様に 合わせる顔がなあいのよー」と尻を叩く。次第に大学進学率も上がり、受験競争が熾烈になってきた60年代後半から70年代初期になっても、このカーチャンの認識する「一流の大学」は国立大学、特に当時の一期校に他ならず、慶應を除く私大など、早稲田だろうが明治だろうが法政ポン大だろうが、十把一絡げにバカにされていた。その中でようやく早稲田の評価が一流に「昇格」したのは学園紛争が一段落した70年代半ばになってからだろう。申し訳ないがまだその頃になっても、明法立はアホ大扱い、日東駒専など残念ながら大人たちの間では大学扱いにもされていなかった記憶がある。
関学と滋賀の経済のレベルに驚きました。滋賀大経済は今でも良いと思いますが、当時は彦根高商のブランドが強力だったのですね。経済商学志望の近畿の秀才たちが、特に旧帝大や東京の名門校に流れることなく旧高商の学校を選んでいた時代なんでしょう。関西学院は1970年代の大学入試全国化の流れに従うまでは今で言うところのICU的な存在で、関西の中でも知る人ぞ知る学校で、特に宣伝もせずスポーツ推薦もとることなく少数精鋭教育を続けていたと聞きます。
彦根高商、小樽高商は名門中の名門!
政治評論家の田原総一郎は滋賀大学落ちの早稲田大学進学だったはず。
この時代だと、戦後に設立された大学のほとんどはまごうことなき「新設大学」で今以上にしょうもないイメージ。
成蹊、武蔵は経済の名門だったんだな
当時の国立大学は受験日別に二つのグループに分かれており、「一期校」と「二期校」と呼ばれていました。従って、一期校と二期校を同列にみることは出来ません。受験生は一期校と二期校を併願できたので、大多数の受験生は一期校をまず受験し、不合格の場合にのみ二期校を受験していました。したがって、一期校の方がレベルが高かったのです。
横国だけは東大落ちの専用学校で超超難関大学だった
私は1990年代の後半の就職氷河期時代に「各県を代表するレベルの国立大学」を卒業したのですが、職場の上司から「あんたは就職氷河期の影響を受けていないだろう」と言わんばかりの態度をとられたのを覚えています。昔の国立志向の強さが影響していたのかもしれませんね・・・
当時は中卒で働く人も多かった時代。大学に行くだけで、最低でも今のMARCHレベルの実力はありそう。
今と比べて中卒や高卒でも頭の良い人が多かったともいえそう。みんなが大学目指す世の中なら学歴で序列が明確になるから。
ない
@断面2次半径 当時、私立に入れるのは限られたお金持ちだけだから、倍率低かったのではないかなと。
MARCHなんてもてはやされているが、当時は青山学院はアホ学なんて言われていたっけ
14 大阪経済大学 明治法政経経営 と同じ15に法政 関西 甲南時代によりかわるなあ…1961年か。
法政、明治、関西の各大学は法学部が有名でしたから。
地味に東北学院すごくて草
入り易い大学の代表としてポンキンカン(日大、近大、関大)という言葉があったというのは聞いたことがあるが、法政や日東駒専も拓大より下だったんだな。南山大学と近畿大学に合格した滋賀県に住む親戚の子が「どっちに行こうか迷ってる」とウチの90歳に近い爺さんに言うと、爺さんは「そんなもん比べるまでもないやろ、南山にしろ」と言っていたのを思い出した。大昔の南山大学と近畿大学だと、私学の最上位クラスと最下位クラスほどの差があるもんな。
ポンキンカンと言ったのは近大です。今はソウケイキンと言っています。
近大は世耕家の政治力が絶大でした。それでもレベルはかなり低かったですが近年やっと花開きましたが最近世耕が邪魔になり始めたようです。
南山と近大を受けるのは考えられない。
@@iru-f2d 受験したのは滋賀県に住んでいる人なんですよ。そう書いてますよね。滋賀県は近畿地方に属しておりますが、近畿圏にも中京圏にも近いんですよ。あなたがどこにお住まいかは存じませんが、住んでいる地域によって併願する大学は変わってくるのが普通ではないでしょうか?
@@オリビア8世南山を受ける人は文系だと思うので関関同立を受けると思いました。
拓殖大学って凄かったんだね。なんで今こんなに落ちぶれたの?
50年前に神戸商科大を卒業した爺です。当時は私立大学は国公立大学の下というイメージが有りました。同級生には、関関同立はもちろん早慶蹴りも多数いました。卒業生の9割が一部上場の有名企業に就職しました。当時とは厭世の感があります。
1961年当時の国公立と私立難易度差や授業料はややイメージ出来てましたが拓殖大の難易度の高さは驚愕でした😱長期的に見ると難易度の栄枯盛衰が見られると思いました。貴重な資料ありがとうございました。1963年生まれの日東駒専出身より。
中央大学商学部卒業です。青山学院大学経営学部も受かりましたがOBに会社経営者が多いから中央大学に行きました。早稲田は落ちましたが現在会社経営者になりました。
確か明治はレベルをあげるのに経営的には厳しくとも合格者を選別した、水増しで合格者を出すのが普通なのにしないで乗り切り、合格者の偏差値をあげた。その甲斐あってマーチクラスの最上位になれた。
明治は私立では理科大と並び一般入試率が70%のトップクラスで学生の質を上げている
貴重な資料だな。
関学経済166で、慶應商167と1点差。ジジイたちが関学をやたら持ち上げる理由がわかる。
慶應経はもっと高いでしょう。
あのね、今も優秀だけど昔はもっと凄くてお金持ちのボンボンが多くて裕福な上に頭が良くてかっこいいイケメンが多くて東の慶應ボーイ、西の関学ボーイって言われたんよ😂😂😂😂😂
東京都立大学(首都大東京)がかつては7科目で普通にレベル高かったって聞いたことある
昭和36年の受験生は戦前生まれですかね。当時の試験問題を各大学の受験生に受けさせたらどの程度の点数を取るのか興味があります。
可能であれば理系もお願いします。
凄い
東大か一橋かの時代だった。いまもそうかもしれない。当時に近い一橋卒としてはそう思う。文二と一橋経済は進路が官僚か商社マンかの進路の違いでエリートが卒業していた。今の中間一貫校で占有されている東大とは違うな。
0:49 日本福祉大学は経済じゃなく社会福祉学部だと思います。当時は経済学部ありません。福祉が注目されたバブル期前後は社会福祉学部は偏差値56くらいあったのに、当時模試偏差値が5~8くらいは低かった(実際には日本福祉大学に入るために経済学部を併願した社会福祉学部志願者が多かったから模試よりは難易度高かった)経済学部が今や「いちばんマシ」なのは嘆かわしいですが、福祉という学問や社会福祉学部の立地を考えると仕方ない面はあります。
昔は関大蹴り大経大がいたらしいが納得できた
いつの時代も どの指標も 東大文1がトップなのかな
国立1期校、2期校があった時ですね。横浜国立は東大の滑り止めだったので、横国の点数は高かったのですね。1期校、2期校をなくしてから、国立は下がり、私立は爆上がりしました。
生まれた年だ国立1期2期ってあったなぁと思ったら共通一次試験が始まったそんな受験期でした
国立1期校2期校制度が廃止され、共通一次導入後に私学が難化したということか。それと当時から存在していたにも関わらず、このランキング表に掲載されていない大学は、今の言葉で言うFランだったと言うことか?
俺のおやじが団塊(1947,1948,1949年生まれの人)なんだが、当時の国公立行く人は早稲田慶応は大学じゃない。と口をそろえて言っていたそうだ。それくらい国立指向だったわけですな。
それは言い過ぎ。うちの親戚も団塊だけど、早稲田政経、慶應の経済(理財)は名門だっていうのが、当時からの感覚。あんたの親の場合、上京できない地方人が放言していたんだろう。
@@marukitakuya このランキング見たら、納得じゃないですか?明らかに国公立が上ですし。あと当時は大学に行く人はエリートかつ裕福ですから、上京しなかった地方人だから言うってことはないと思いますけどね。おやじは北大獣医でしたが、早慶なんてまったく相手にしてないですよ、本当に。
@@NET-mo7yp ていうか、南山とか西南学院が今より難しいことからもわかるように、この頃は、地元志向が高かったんだと思うんですよ。その中で、中央に出ていく野心のある人が、東京の私学に行ったりした。てかさ、早慶出身者のリスト見たら、昔から人材を輩出してることなんか一目瞭然だと思うんだが。あなたはさ、親父さんを尊敬してるのかもしれないし、それは悪くないことだけど、まず自分の親を相対化することが必要だね。
@@NET-mo7yp そりゃ獣医さんであれば当時であっても早慶は相手にしないんじゃないですかね?早慶に獣医系の実績はないし。基本どの大学でも前身・看板学部はありますから、看板学部はどの大学でもほかの学部に比べて一歩抜け出ているのは当時では当然の話かと思います。ただ私の親(東京五輪時受験)は慶応の経済ですが、早慶は(東・京の)滑り止め扱いではあったようですが。
明治の終わりごろに、帝大卒の人が、最近は大学が増えてレベルが下がったと新聞に投稿しているのを読んだことがあります。それで、増えた大学というのが、京都帝国大学。なんだか、すごい世界だなって思いました。
偏差値と就職実績が必ずしも一致しない理由の1つに世代間ギャップというのがあります。企業の採用担当責任者が40~50代と推定すると就活生とは概ね20~30年開きがあります。大学の序列も当時の感覚のままでいることが考えられるので昔は難しかったのに今は易化してる大学は就職面ではコスパがいいかもしれませんね。(地方国公立がMarchと対等に戦えるのもそれが理由でしょう。)
代表的なのが、津田塾大、東京女子大、日本女子大、学習院、関西学院大学
二松学舎大学ってどうなんだろう…?
カトちゃん(S18年生まれ)の世代が受験生の頃ですね♫
東京大学は、旧制高校の文科理科それぞれ甲類、乙類を引き継いで、後に現在の文2(主に経済)、理3(主に医学)を、文1、理2から分離させたらしいが、いつのことだろう。1961年の一覧表では文1しか見えないようだが。例えば1935年生まれの畑正憲さんは、医学部進学の予定で理2を受験したが、進学振り分けで獣医に志望を変えている。
大学に行く人より優秀な人が就職していた。地方では高校入学も少ない時代。
むかしは夜間部はどうだったのかな?吉永小百合さんとか(早稲田二文)。私は近眼が酷いので二部は避けた。
タモリも第二文学部です。
大滝詠一(早稲田)川島なお美 沖田浩之 (青山)しっかり勉強すればいいじゃないか!
ランク17、3教科合計(300点満点)の合格者平均が50点代って低すぎね? これって受ければ誰でも入れるレベルじゃん?
進学大学を決めている要因 立地>費用>就職先>先生>研究内容
社長経営陣がko、編集が早稲田だらけの時代だから、この時代の旺文社ランキングはあまり当てにならないとかつて2ちゃんでみたな。特にko法。旺文社社長もko法だったな。
青森まで鉄道、青函連絡船乗って函館、さらに鉄道でやっと札幌。そこにある大学に行こうとする本州以南の人。60年前ならレアな人でしょうね。
旺文社か、なつかしいね。僕は共通一次世代だが、この頃は導入前なので、国立一・二期、公立大学それぞれに挑戦できた。つまり(滑り止めの)私立は、国公立3校がダメな場合に入学したわけで(もちろん例外もあるが)、今よりかなりレベルが低かったのだろう。これくらいの大学数で良いというコメントがあったが、2050年までには、これくらいどころかランキング10位下クラスも楽観できないと予想している。
本近関(ポンキンカン)時代じゃないないの。大学数が少なく国公立中心だった見たいだね。近大あたりは、誰でも入れた時代なんだからね。その後の京産など本当に名前さえ書けば合格な過去があるからね。
ポンキンカンはマンモス大学という意味だね。いまや早稲田などマンモス大学は10以上あるね…今や死後コバショーが動画でいっていた
京都産業大学はまだ出来る前の時代です。
関学の懐古趣味が凄いですね‼️
それだけ現在が残念無念になっているということ。懐古趣味を寛大な目で見て差し上げましょう!!!
昔の人が国立大学は凄いと言うのが判りますね。地方国立大学の方がはるかにMarchなんかより難しい時代だったのですね。早慶ですら地方国立大学に負けていたのですね。
でも北見工大とかは、今も昔も偏差値低そう。
@断面2次半径 それは知りませんでしたが、そうみたいです。1960年に北見工業短期大学で1966年に四年制大学になったようです。まあ代わりに室蘭工業大学とでも書いておけばよかったですね。なんか北海道教育大学もなかったような気もします🤔北見工業大学も室蘭工業大学も後期が本番のような大学だった気がします🤔まあ前にも似たようなことは言いましたが これらの大学はあくまでも、理系の大学受験生の母集団の中では下のほうかも知れませんが 4人に1人しか大学進学してない時代では 全体的にはレベルはそんなに低くないと思います。まあ、東京の中堅私立大学よりは受かりやすいですが まあ、秋田大学の工学部あたりと同レベルじゃないかと思います。
早慶は半分推薦だからね笑
学生運動が盛んになる前で学校の独立自治の精神が強く地方国立大学は、その地方の中心となっていました。学生運動が鎮静化されて共通一次テストが始まり大学間の序列化が進み、すっかり牙を抜かれてしまった。その間私立の台頭が進んだのです。
18歳人口が200万人くらいで大学生数16万人の時代.今は同世代人口が110-120万人で大学生数60万人.当時の18歳人口が今の2倍、大学定員は今の1/4だったということは 60年前の中堅以上の大学生は今なら最低でも京大には行けそう
関西の国立の併願校に大阪経済大学受けていた時代
理系のデータはないのですか?
母校ですが、成蹊を成城と言ってましたね。
理系編もお願いします。
南山経済が早稲田法より上なのまじでおもろい
格は南山=早稲田
なお現在
戦前戦後くらいまでは、早慶の法はもともと法律学校ではなかったため、評価は低かったと聞いたことがある。
この頃は青学=立教=中大>明治=法政だったんだないつから明治が中大をまくり始めたんだろう地方は、この頃はまだ交通網が未発達で、地域内での進学が主流で地方の名門私大がその地域の旧帝大や拠点国立の滑り止めとして高レベル層をゲットできてたが今は交通網の発達ですぐ東京来れるから、地方の帝大を第一志望に私大なら刺激が多く就活にも便利な東京の名門を選ぶということだな
明らかなのは、中大が八王子という山ん中へ大学丸ごと移転したのが自ら没落した。八王子なら、大抵の地方よりも田舎だから、そんな山ん中で勉強する為に、わざわざ上京しないし、親も上京させない(苦笑)
当時リアルな大学受験を経験したものです。当時の東京の私大は早稲田=慶応>上智>中央=明治>立教>青学=法政って感じです。
早慶上中と聞いていましたが、この資料で納得しました。
甲南大学は名門
良いとこの子が多いので有名でした。関関同立の次と言われていましたが近大に抜かれたのはやはり今の時代、理系に弱点があったようです。
南山大学外国語学部のOBです。昔はすごかったみたいですね。
50年ほど前、社会出て気が付いたのは早慶以下は大学名を言わない言えなかったのでしょう(女子の立教・青山は可)、大学に進学しない優秀な都立高校生が沢山いたから、早慶以下は〇カの証明みたいになってしまう・・ので浪人しても早慶以上を目指した。実際「早慶です」と言うと「すごいですね」・「優秀なんですね」と言われるが。〇冶大・〇央大・〇政大などだと「ああそうですか」。〇本大・〇洋大・〇沢大等だと絶対大学名を言わない・・そういう世界・世の中でした。
当時は地方から都会の私大に行く人はお金持ちでした‼️
関西私大は関学、同志社、甲南この三大学がよかったとくに関学経済学部は名門これはよく聞きましたね現在、産近甲龍で括られていちばん損をしているのが甲南、得をしているのが近大龍谷と関大は同レベル京産は存在していなかったんじゃないのかないずれにせよこの時代は大学進学する者は少なくこのあたりの大学を出ていれば現在も万人に評価されるということでしょう
でも今の甲南って近大より普通に偏差値低いですよ...甲南と龍谷だったら難易度は互角ですね
関大は法学部が名門で弁護士志望の学生が多かったです。理系は関学も甲南も最下位です。と言うか工学部はなかった?甲南は関関同立の次と言われましたがアホボンと言われていました。
①私立文系は入試科目に数学がないのに平均点だけで国公立と比較している。なので実際の国公立対私立の格差はこの表よりさらに大きかった、と思われる。②国公立の入試日は前期・後期ではなく大学丸ごと1期校・2期校に分かれていた。2期校は「格下」というイメージに悩まされたものの1期校を不合格になった人が多数受験して高倍率になり、難易度はずいぶん高かった。横浜国立大学・小樽商科大学・和歌山大学などがその例。③戦前から大学であった伝統校(学部)と戦後できた新制大学(学部)での格差が大きい。経済学部で大阪市立大学が大阪府立大学よりずいぶん難しかったり、神戸大学が大阪大学より難しかったりというのがその例。④学費の差は藤田滋さんが書かれている通りです。当時女子で「家に大学・短大に行かせてもらえるお金がない」という人が看護専門学校(当時は授業料無料)へ結構進学していました。
私立文系入試科目に数学がなかったとされていますが、昭和30年代から40年代の慶應の経と商は数学が必須科目でした。早稲田も政経は選択科目に数学がありました。私は昭和21年生まれですが、当時は大学の格の上下を聞いた覚えはなかったと思います。戦後に大学昇格した
(続き) …ところは駅弁大学と揶揄していました。どこの駅にもあるから… という意味です。
@@森本恭博 駅弁が買えた旧国鉄の急行列車の停車駅名がその名前の由来です。
昔は一橋経済がtier1だったのか
古希を過ぎた、都内育ち、当時の都内の全国でも超有名中学から、開成を滑り止め合格、教駒(現在の筑駒)合格を蹴り、150人以上東大合格の都立トップ校に進学した、1960年代の東大入試中止の、1期、2期校の世代です。当時は、早慶の地位は国立大学に対して非常に低く、高校受験でも、慶応高校、早稲田高等学院に進学するのは、小生の中学の最下層で、滑り止めの対象にもなりませんでした。また、東海道新幹線も開通して数年で、高速道路もなく、「都落ち!」という言葉や意識がポピュラーで、地方の旧帝大受験生は、ロマン派で成績下位の数名が、北大を受験する程度でした。圧倒的に東大志向の為、一橋、東工大受験生は少なく、1期東大、2期横国、滑り止め早慶のパターンでした。一橋、東工大受験層は横国が異常に難しいので、2期は東外大、農工大や電通大にするか、滑り止めの慶応経済、早稲田政経、早稲田理工に進み、早慶以外の私立に行くものは、学年で1~3名でした。授業料の国立私立格差が大きく、50年代は国立年間3600円でしたが、60年代は6000円~9000円で、70年代初頭は12000円でした。私立大学の授業料は60年代後半で、文系で約20万円、理系では40万円~60万円と非常に高く、私立大学生の保護者の不満が強く、70年代に国立大学授業料は毎年3倍ずつ、数回上昇しました。医学部では無く工学部が一番人気でしたが、慶応の工学部は、藤原工業大学を吸収したものであり、戦後は、都下の小金井にありました。事情を知らない地方高校の受験生はともかく、慶応工学部は不人気で、難易度、人気ともに圧倒的に早稲田の理工が高く、小生の高校では慶応工学部進学者は皆無に近い状態でした。当時は、横国工学部が京浜急行の弘明寺駅近くにあり、小生の高校の東大受験層では、ほぼ100%が志望しました。その結果、当時、難易度が異常に高く、競争率が20数倍~40数倍にもなり、マスメディアでも報道されていました。成績下位で理科一類では無く、理科二類志望に下げて合格すると、理学部や農学部しか進学できなかったので、二期の横国工学部に行こうと受験したり、理科一類合格しても受験料を払ったのだからと横国工学部を受験する不届きものも居ました。しかし、元々、成績下位であったり、気力が無いので、殆ど全員、横国工学部は不合格でした。その結果、東大>横国>一橋及び東工大という、世間評価とは異なる異常序列になっていました。東工大や一橋、地方旧帝大を受けるようになったのは、東大入試中止が大きかったですね。京大はまだ少なく、一橋、東工大が増えました。旧帝では、大阪大学が都落ち感、京大2番手から嫌われ、東北大学のほうが人気でした。東大一辺倒であった、60年近く前の都立トップ校の話ですが、年賀状を作成していたら、見つけてしまい、昔を思い出してしまいました。
名古屋も大阪東北と同じ地方旧帝だと思うのですが、名古屋は視野に入れた人は居なかったのでしょうか?
東大合格者数トップの日比谷高校OBのご意見は非常に参考になります関西でも関関同立の付属中高に進学するのは稀でしたねましてや丸坊主が校則の近大付属高はクラスの底辺層に近い連中が進学していましたですから近大は関西ではイメージは良くなかったです薬学部だけが別格で医学部はまだできて2期生くらいの時でしたから合格しても莫大な寄付金がかかると聞いてました医学部人気は今ほどではなかった時代です一部の私立医大もカネで入れる時代ですとにかく高校では国公立大学を目指すように指導されたと思います私学では関学経済、同志社英文科が頭一つ抜けていたように思います
名古屋大学は最後に誕生した旧帝大なので評価が低いと思われます。
@@藤田滋-d1s であれば、大阪も名古屋より少し前なだけで旧帝大としては歴史が浅いので、東北とは比べ物にならないくらい評価が低かったのでしょうかね。
関東では東大>横国だった時代、一期校二期校の時代は 東大落ちたら横浜国大しかなかった時代ですね。
偏差値ってなんだろう?マーチとか学群作った受験産業ってなんだろう?
そう入ってからが大事なのに意味不明な数値だよね
十数年前、普段ほとんど会わない父方の祖父に「拓殖大学へ進学します」と報告したら、祖父(当時80歳くらい・法政大卒)から「拓大か!よかったじゃないか」と言われたことを思い出しました。当時は気遣ってくれたのかと考えましたが、少し合点がいきました。
1961年当時に40歳を超えていた祖父が、早慶は昔は簡単に入れたと言っていたが、まさか本当だったとは。
それは、ちょっと違うと思いますよ。
それはちがう
@@flex-iq8zh同感。
拓大と青学が同じレベル!貴重な資料ありがとうございました😊
今でも地方進学校では国立重視私立軽視の考え方は変わらないのでは
現在はMARCHレベルの私立とFランと言われる私大がドングリの背比べだった時代
差がついていったのはやはり都心部の強みを活かした三次産業への就職実績を伸ばしていった点や、六大学野球などの学生スポーツによるアピールが人気を分けていったのかな
有力な企業が東京に本社を構えるようになれば、地方の優秀な国公立大学よりも都市部の私立大学の方が情報を手に入れ易いだろうし、意外と私立にも面白い学生がいる事を企業も知りやすくなる、という流れだったのかな
情報入手のし易さ、ネットワーク構築のメリットについては、学生だけでなく教授陣においても同様だっただろう
学会の数、文献へのアクセス、海外からの情報入手の効率など、かなりメリットはあったはずで
関西(大阪)、関東(東京)で比べても、昔より都市の力関係が顕著になってきた事が、関西学院大の緩やかなパワーダウンの原因の一つになっているようにも思う
当時は国公立と私学の学費が10倍位の差があった。
小生の頃の国公立の学費は月¥1,000でしたよ。
30年ほど前から急に倍々で上がって今や下宿して地方国公立行くより地元私立(文系)の方がマシという現状。今の70代前後は学費でも年金受給額でも逃げ切り世代。戦後教育に染まって日本をめちゃくちゃにした張本人の世代のくせに、と思います。
確かに。昭和47年度は月¥1.000円。昭和48年度からは月¥3.000円でしたね。
@@hiroino2557 昭和40年入学で月1000円でしたよ その3年前は確か月300円だったかな
6か月6,000円の前納だったと思うが、それでも飲み代やマージャンで使い、延滞していた学生が散見された。なかには支払わずに退学させられた者もいた。
この頃は、大学の数は100 校代で、大学進学率も20%もなかった時代だから、大学生は貴重な存在でした。
この5年後、1966(昭和41)年に大学が急に増設され一気に増えました。
それでも全部で270校くらいでした。
おじいちゃんが滋賀大落ちたって話してたけどこんなにすごかったんだな……
国からなんかの勲章もらってたしすごかったんだろうな。。。もう一度会いたい
東の横っ国、西の滋賀
拓大が過去、職業会計人を多く排出していたという話を聞いたことがある。。。。
大企業に小樽商大出身の取締役とか結構いたらしい。
60年前の受験生は現在の78歳くらいでしょうか?
1961年の大学序列を踏まえると、世代間で学歴観にギャップが生じるのもしょうがない気がします…
1961年ってことは、1942年生まれ世代(今年80歳)のデータを基に、1943年生まれ世代(今年79歳)が利用したデータってことになる。
滋賀大卒だけど年配の方からの評価がやたら高かった理由が漸く理解できた
確か政治評論家の田原総一郎は、滋賀大学落ちの早稲田大学進学だったはず。
今は早稲田>>超えられない壁>>滋賀大ですね🥲
半世紀でとてつもない差をつけられたな笑
彦根高商や!舐めたらあかんぞ。
拓殖ちょっと無双してるの好きw
いかに現在は新設大学が多いことか‼
しかし、歴史的、伝統的な大学の存在感は古今東西変わらない‼
私の8歳上になる姉が昭和37年に地元の県立高校普通科から東京大学文科二類に現役合格しました。
姉の中学時代の通知表を母親から見せてもらった時はオール5だったので中学時代から頭が良かったようですが、進学塾には行かず、父親から女の子は大学に行くと生意気になると大学進学に反対されてましたが、国立大学なら授業料が安いから許すと言われ発奮したようです。
この姉は海外勤務で婚期を逸し、40歳で結婚したので1人娘しか産んでませんが、この1人娘も東京大学理科三類に一浪はしましたが翌年合格して医学部を卒業後に東京大学付属病院の内科医になってます。
すんばらしい。
ここは、1961年の大学の難易度状況を語っている動画で個人の自慢話のコメは不要。そんなコメの書き込みを放置したら、自分、親、祖父、兄弟の自慢話てんこ盛りとなり、動画の趣旨とずれてしまう。
この時代は、青森から東京に10時間とかの時代で、国内移動も難しく、地方の優秀者は地方のトップの大学に行くのが当たり前で、選択の余地がすくなく、東京一極集中していなかったんですね。
甲南はボンボンで頭がいい
近所にいる80歳くらいの老紳士ですが一番の公立進学高から甲南出の社長が2人います
甲南は会社経営者の子弟が多くて関関同立の次と言われていましたが、アホボンと言われていました。今は近大に抜かれて産近甲龍の最下位に落ちたのはやはり理系が弱点だったようです。神戸の人口減少が酷いことも影響があるでしょう。
すごい昔には鈴木商店に縁の家柄のボンボンの人が灘高校出て浪人してどこも受からなくて甲南大に入学卒業した人がおって結局その人経営者側の人やったんで系列会社の
帝人の社長のち会長をつとめた。灘高校から甲南大 伝説の人や!😂
大学数もこれぐらいでいい。
今は…ようわからん大学が多すぎ
俺の親父(昭和7年生まれ)は関学経済出身なんたが、俺が高校生の時に近大受験したいと言った時に罵倒された事を思い出した。
滋賀大経済や大経大の評価の高さ、関大を馬鹿にする感覚がこの表を見たら本当にリアルに感じました。
面白かったです!
当時は「キン・ポン・カン(近大・日大・関大)」と言って〇〇が入学する大学の代名詞だった。
@@taiichironakagawa7310
キンポンカンと言ったのは近大です。今はソウケイキンと言っています。
当時は関大は弁護士志望の学生が多くて関大は法学部だけは良いと言われました。その後は工学部が牽引しました。文系エリート大学の関学は理系が弱点で今は同志社>関関立になりました。
昔、週刊誌に同志社が関学と違って威張らないのは近くに京大があるからだと書いてありました。関学がレベルが落ちても他大学を馬鹿にしたがるのは伝統が身についているのですかね。
関大や立命館に行けなかった人が大経大にいった時代なのでこのコメントはおかしい。
関学は経済学部はレベルが高かったが法学部や工学部は別。と言うか工学部はなかった?
神奈川大学が、日東駒専より上で、明治学院や成蹊レベルだったことや外交官試験の合格者数で上智などと名を連ねていたのが、思い起こされます。
拓殖大学が旧制大学時代の名門校なのは知ってたけど、明治と同等か上ってのは驚き‼️
何があったんだろう❓よく聞くのは学生団体(応援団)の不祥事。でも他大学でも同様のことはあったはず🤔
団塊の世代の受験者数と大学数を考慮すると、今と違ってどの大学もそこそこ難しかったのではないか?
当時は国立授業料は年間9600円、奨学金は月5000円ぐらいあったので寮でも入れば奨学金だけで生活できた。私立文科系の授業料はこの5から10倍。2部(夜間)が有名大学(早稲田など)にあり授業料は昼間の半分くらい。
新入社員の初任給は25000円程度。大学生は学生服が普通で私服は私立大学生など一部。
昭和36年頃の大卒平均初任給は 14000円、国家公務員(上級) は13000円程度です。25000円というのは、よほど特殊な仕事ではないかと思料されます。
加藤一二三は早大だけど写真見ると学生服で対局してますね
2部でしっかり学び有名企業にかなり入社した。
私は昭和39年に大学に入学しましたが入学試験は慶応の経済、早稲田の政経、関学の経済、大阪市立の経済に合格しました。入学したのは西の慶応と言われた関学の経済でした。
京大を西の東大と言った人がいました西のナントカと言われて喜んではいけません。
もう80才にお近いのではありませんか?学歴厨ですか
"西の"とかいう謳い文句に騙されてて草
経団連や日商会のメンツを見れば分かるけど今も昔も日本の政財界を牛耳ってるのは東京一工・早慶OBですよ?笑
関学が並んだ事なんて一度もありません笑
その頃受験生だった者ですが、北大が偏差値が低く出ているのは、その当時北大のみが文理問わず数三まで必須で、かつ理科社会共に2科目だったからです。逆に一橋は理科が受験科目になく、4教科でした。
旺文社のデータはそれぞれの大学の入試の特色を踏まえて出しているのではないので、ここに出た模試の数字のみで実際の難易度がわかるわけではありません。
ちなみに私は文系なのに日大医学部を志望校に書いたところA判定をもらったことがあります。これは試験科目関係なく一律にデータを出すから起きることです。
一橋大学も横浜国立大学も神戸大学も、戦前の高等商業学校がルーツにあるから、現代よりもさらに難易度が高く見える。
@@小林直哉-t3y 九帝大(七帝大&京城帝大、臺北帝大)。三商、東京商科大(一橋大)、神戸商業大(神戸大)、大阪商業大(大阪市立大)。ニ文理、廣島文理大(広島大)、東京文理大(東京教育大・筑波大)。あと陸士&海兵。
一橋は理科がなかった???
一橋は一次二次がありましたが二次に理科がなく、東工大は社会がなかったと記憶していました。なにしろ50年も前のことなので違っていたらすみません。
@@q5r-pv4 75年卒ですがありましたよ、2科目あったような。
当時の4年制大学への進学率は7.5%、短大を含んでも10%
そうとなると準fランから大東亜帝国並みの地方私大は東京一極集中の影響であるだろうとは思う
7.5となると男子に偏るなどすればMARCHレベルだと思われる。
ただあの時代は授業料もバイト程度で行けるぐらい安かったらしい。
横国が京大以上 この時代より後だが二期校時代は東大落ちしか行けない超のつく難関大学だった
横国が京大より上と言うことはあり得ない。
@@iru-f2d
さすがに京大以上ということはあり得ないですよね。
でも阪大以上、一橋並みだったというのは事実みたいです。
浪人東大落ち1万人が定員1600人の横国に殺到ですから。
なぜか同じ首都圏なのに、埼玉大学には行かない^_^
当時の国公立上位の状況からして東大落ちたら横国に行くしかない
横国に入学して1年後に東大再チャレンジして入るのもいたと聞いている
東北学院大学(仙台市)の合格難易度が、MARCH、関関同立よりも高かった時代ですね。
今が大事ですね^^
関学がヤバかったのは有名だけど拓殖と武蔵も意外と高いね。
いまの体たらくを見ると卒業生は可哀想だね
@@SirHumphryDavy1 武蔵OBです~すいません🧖
@@SirHumphryDavy1今は同志社>>関関立ですね‼️
成城、成蹊、武蔵、甲南(兵庫)は旧制七年生高校(高校と大学が一貫になっている)だったからどこも名門。
貴重な資料ですね。
この時代の明大卒業の
先輩方がOB会を仕切ってますが
やたらと気合い丸出しの方多いです。納得しました。
興味深く拝見させて頂きました。とにかく、ご縁があって入学したところを大切にすべきですね。母校になるのですから。
甲南大学高くね?後、昔の関学は凄かったんだな〜
明治では商が看板学部というのはこの頃の位置ずけからなんだな
文系学部の比較と言いつつ、人文系が入っていないのが残念。
当時の関西学院は各学部の中でも経済学部が突出して難関学部でしたね。入学してからのことですが10人集まれば7人近くが浪人でした。私が現役と知って皆からどうして浪人して京大、阪大へ行かないんだと言われました。私が大阪市大の経済に合格したけど関学へ来たと言ったら そうかそうかと納得していました。当時の出身高校も大阪は北野、天王寺、高津、大手前、三国ヶ丘、兵庫は神戸、加古川東、兵庫、奈良は奈良、畝傍、郡山と今の優秀進学校が多かったですね。今は学長の村田さんが推薦率を上げて学生数を獲得する経営第一の方針にしているのが現状ですかね。女性の比率も半分になっているみたいでいずれ関西学院女子大学になっているかも・・・頑張れFIGHTERS!!
1972年受験組です。
東大(国立一期校)の滑り止めで、横浜国大(国立二期校の雄)に合格・入学しました。
同期の多くは、国立大志望で、早慶志望は、少数派の時代でした。
この頃からかな、早慶滑り止めでも、国立受かり早慶落ちる人が出てきた、一流国立以外の国立の滑り止めにならなくなり、普通国立の滑り止めはマーチでも危なくなった。
私大バブルの頃なら、文系地帝に受かって MARCHクラスの私大に落ちるケースはざらにあった。
@@経済学部卒 その頃の地方国公立は簡単だったのですか?
@@カケルチャンネル-c9d
〉その頃の地方国公立は簡単だったのですか?
→私大バブル期においても国立至上主義でしたから、少なくとも今と同じくらいは難易度は高かったと思いますよ。
受験生が非常に多く 大学の数も今よりも少ないから 私立大学がそれだけ難しかった(というか激戦区だった)という話です、特に私立文系は。
私大がもっとも難易度が高かった時代は、1991〜1995年あたりだと思いますが それでもその頃も国立大学のほうが評価は上です。
ただ、第一志望の国立大学に合格して、併願した私立大学に落ちてくる人がザラにいたという話です。
東大・京大にいける学力があっても、上京して仕送してもらう余裕なんてないし「大学なら近所に自転車で通える地元国立大があるし、やりたい勉強できるし、農家や商家の手伝いなんかしながら、大学に進学させてもらえるだけありがたい…」という子も、多い時代ですね。 上京して就職した子は実家に仕送りなんかしている子も、多かったんじゃないかな…
1961年は先の大戦後16年目です。受験生は戦時中に生まれています。そのご父兄たちは旧制の学校で学びましたからまだ旧制学校の影響が残っていて、旧高等商業の流れを汲む、小樽商科大学はかつて日銀支店が小樽におかれていたことからもわかるように明治期大正期の北方経済の要もであったのでしょう。また近江商人という言葉からわかるように、大正期に作られた彦根高等商業をルーツとする滋賀大経済学部あるいは簿記会計学の沼田嘉穂のいた横浜国大経済学部は人気が高かったのでしょう。
もう旧制中学の影響は終わっていました。
小樽商科大学はかつての名門!
北大前期で落ちた人が、後期で小樽商科大に行くケースが多いんじゃないかな。
小樽商科大学といえば、古くは小林多喜二、最近では塩地美澄、ってイメージ。
私の記憶が間違っていなければ、小樽商科大学は2期校で、そのなかではトップクラスだった。
滋賀大学は近江商人、後には大手商社が生まれた地盤なので経済には強いというイメージがある
かなりの年配の方から 昔の私立は早稲田でも慶応でも明治でも学費を払える金銭的余裕と普通の頭さえあれば自由に選んで入れたと聞いたことがある
昔は地方はお金持ちが都会の私立大学に行きました。
今はみんな金持ちになったのですね。
それは、1961年よりかなり前の話。
まぁ早慶でも国立大受からん頭の人が家柄や金て入れた。
大学には偏差値には表れない要素がたくさんある それが大学の持つ総体としてのfacultyである 歴史や伝統、雰囲気、学会内における勢力、教員の質とその管理、施設の質量、予算他などである 学生は入ってから知るかもしれないが知らない者が殆どであろう
60年前は早稲田、明治、中央、法政、青学などは二部(夜間部)が存在していて、卒業すれば混在しているから要注意だよ。
昔は夜間部に苦学生がいてよく勉強しましたよ。
夜間の学生はよく勉強したよ
弁護士や会計士などなど
本来 入ってから学ぶのが本意ではないのか?卒業時さらに人格を磨き社会に貢献する
それが大学で学ぶことの意義でもある
中退は京都大学卒業ではなく高卒だよ!ふーみん(本人は学歴厨ではないけど)
夜間部の方が優秀な人が多かったと聞いてますよ。
@@KH-zu5mp 夜間部にも優秀な人がいたということでしょう。
祖父がこの頃受験して広島大教育学部だけど凄かったんだな...
MARCH よりも関西の同志社と関学がだいぶ上だったんですね。同志社関学が西の早慶と言われていたと聞きましたが納得です。関学ブランドが強い意味がわかりました。それから、甲南が思ってた以上に上位と思いました。
@佐倉綾音:ゼノ ?
Marchびいきされていますねw
同志社は明治と同じなんですがねw
@佐倉綾音:ゼノ 頭悪そう(あたまわるそう)
MAR=同志社、CH=立命館、学習院=関関
立命?どこにでも入ってくるのね。確か辞退率85%だからこの件には関係ないかな。あまりいいイメージ無い。この動画では昔も低かったみたいです。
そんなことより、やっぱり国公立最強。
@@imnkyko1443 日大理工=マーチ理工
1968年(昭和43)にヒットした高石友也の「受験生ブルース」の主人公は、高3になってもまだ「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ・・・」とやっているボンクラだが、多分戦中の「愛国の花」世代の母親はそれでも「一流の大学に入らねば あたしゃ近所の皆様に 合わせる顔がなあいのよー」と尻を叩く。次第に大学進学率も上がり、受験競争が熾烈になってきた60年代後半から70年代初期になっても、このカーチャンの認識する「一流の大学」は国立大学、特に当時の一期校に他ならず、慶應を除く私大など、早稲田だろうが明治だろうが法政ポン大だろうが、十把一絡げにバカにされていた。その中でようやく早稲田の評価が一流に「昇格」したのは学園紛争が一段落した70年代半ばになってからだろう。申し訳ないがまだその頃になっても、明法立はアホ大扱い、日東駒専など残念ながら大人たちの間では大学扱いにもされていなかった記憶がある。
関学と滋賀の経済のレベルに驚きました。
滋賀大経済は今でも良いと思いますが、当時は彦根高商のブランドが強力だったのですね。経済商学志望の近畿の秀才たちが、特に旧帝大や東京の名門校に流れることなく旧高商の学校を選んでいた時代なんでしょう。
関西学院は1970年代の大学入試全国化の流れに従うまでは今で言うところのICU的な存在で、関西の中でも知る人ぞ知る学校で、特に宣伝もせずスポーツ推薦もとることなく少数精鋭教育を続けていたと聞きます。
彦根高商、小樽高商は名門中の名門!
政治評論家の田原総一郎は滋賀大学落ちの早稲田大学進学だったはず。
この時代だと、戦後に設立された大学のほとんどはまごうことなき「新設大学」で今以上にしょうもないイメージ。
成蹊、武蔵は経済の名門だったんだな
当時の国立大学は受験日別に二つのグループに分かれており、「一期校」と「二期校」と呼ばれていました。
従って、一期校と二期校を同列にみることは出来ません。受験生は一期校と二期校を併願できたので、大多数の受験生は一期校をまず受験し、不合格の場合にのみ二期校を受験していました。したがって、一期校の方がレベルが高かったのです。
横国だけは東大落ちの専用学校で超超難関大学だった
私は1990年代の後半の就職氷河期時代に「各県を代表するレベルの国立大学」を卒業したのですが、職場の上司から「あんたは就職氷河期の影響を受けていないだろう」と言わんばかりの態度をとられたのを覚えています。昔の国立志向の強さが影響していたのかもしれませんね・・・
当時は中卒で働く人も多かった時代。
大学に行くだけで、最低でも今のMARCHレベルの実力はありそう。
今と比べて中卒や高卒でも頭の良い人が多かったともいえそう。みんなが大学目指す世の中なら学歴で序列が明確になるから。
ない
@断面2次半径 当時、私立に入れるのは限られたお金持ちだけだから、倍率低かったのではないかなと。
MARCHなんてもてはやされているが、当時は青山学院はアホ学なんて言われていたっけ
14 大阪経済大学 明治法政経経営 と同じ
15に法政 関西 甲南
時代によりかわるなあ…
1961年か。
法政、明治、関西の各大学は法学部が有名でしたから。
地味に東北学院すごくて草
入り易い大学の代表としてポンキンカン(日大、近大、関大)という言葉があったというのは聞いたことがあるが、法政や日東駒専も拓大より下だったんだな。
南山大学と近畿大学に合格した滋賀県に住む親戚の子が「どっちに行こうか迷ってる」とウチの90歳に近い爺さんに言うと、爺さんは「そんなもん比べるまでもないやろ、南山にしろ」と言っていたのを思い出した。
大昔の南山大学と近畿大学だと、私学の最上位クラスと最下位クラスほどの差があるもんな。
ポンキンカンと言ったのは近大です。
今はソウケイキンと言っています。
近大は世耕家の政治力が絶大でした。それでもレベルはかなり低かったですが近年やっと花開きましたが最近世耕が邪魔になり始めたようです。
南山と近大を受けるのは考えられない。
@@iru-f2d
受験したのは滋賀県に住んでいる人なんですよ。
そう書いてますよね。
滋賀県は近畿地方に属しておりますが、近畿圏にも中京圏にも近いんですよ。
あなたがどこにお住まいかは存じませんが、住んでいる地域によって併願する大学は変わってくるのが普通ではないでしょうか?
@@オリビア8世南山を受ける人は文系だと思うので関関同立を受けると思いました。
拓殖大学って凄かったんだね。
なんで今こんなに落ちぶれたの?
50年前に神戸商科大を卒業した爺です。
当時は私立大学は国公立大学の下というイメージが有りました。
同級生には、関関同立はもちろん早慶蹴りも多数いました。
卒業生の9割が一部上場の有名企業に就職しました。
当時とは厭世の感があります。
1961年当時の国公立と私立難易度差や授業料はややイメージ出来てましたが拓殖大の難易度の高さは驚愕でした😱長期的に見ると難易度の栄枯盛衰が見られると思いました。貴重な資料ありがとうございました。1963年生まれの日東駒専出身より。
中央大学商学部卒業です。青山学院大学経営学部も受かりましたがOBに会社経営者が多いから中央大学に行きました。早稲田は落ちましたが現在会社経営者になりました。
確か明治はレベルをあげるのに経営的には厳しくとも合格者を選別した、水増しで合格者を出すのが普通なのにしないで乗り切り、合格者の偏差値をあげた。その甲斐あってマーチクラスの最上位になれた。
明治は私立では理科大と並び一般入試率が70%のトップクラスで学生の質を上げている
貴重な資料だな。
関学経済166で、慶應商167と1点差。
ジジイたちが関学をやたら持ち上げる理由がわかる。
慶應経はもっと高いでしょう。
あのね、今も優秀だけど昔はもっと凄くてお金持ちのボンボンが多くて裕福な上に頭が良くてかっこいいイケメンが多くて東の慶應ボーイ、西の関学ボーイって言われたんよ😂😂😂😂😂
東京都立大学(首都大東京)がかつては7科目で普通にレベル高かったって聞いたことある
昭和36年の受験生は戦前生まれですかね。当時の試験問題を各大学の受験生に受けさせたらどの程度の点数を取るのか興味があります。
可能であれば理系もお願いします。
凄い
東大か一橋かの時代だった。いまもそうかもしれない。当時に近い一橋卒としてはそう思う。文二と一橋経済は進路が官僚か商社マンかの進路の違いでエリートが卒業していた。今の中間一貫校で占有されている東大とは違うな。
0:49 日本福祉大学は経済じゃなく社会福祉学部だと思います。当時は経済学部ありません。
福祉が注目されたバブル期前後は社会福祉学部は偏差値56くらいあったのに、当時模試偏差値が5~8くらいは低かった(実際には日本福祉大学に入るために経済学部を併願した社会福祉学部志願者が多かったから模試よりは難易度高かった)経済学部が今や「いちばんマシ」なのは嘆かわしいですが、福祉という学問や社会福祉学部の立地を考えると仕方ない面はあります。
昔は関大蹴り大経大がいたらしいが納得できた
いつの時代も どの指標も 東大文1がトップなのかな
国立1期校、2期校があった時ですね。横浜国立は東大の滑り止めだったので、横国の点数は高かったのですね。1期校、2期校をなくしてから、国立は下がり、私立は爆上がりしました。
生まれた年だ
国立1期2期ってあったなぁ
と思ったら共通一次試験が始まった
そんな受験期でした
国立1期校2期校制度が廃止され、共通一次導入後に私学が難化したということか。
それと当時から存在していたにも関わらず、このランキング表に掲載されていない大学は、今の言葉で言うFランだったと言うことか?
俺のおやじが団塊(1947,1948,1949年生まれの人)なんだが、当時の国公立行く人は早稲田慶応は大学じゃない。と口をそろえて言っていたそうだ。
それくらい国立指向だったわけですな。
それは言い過ぎ。うちの親戚も団塊だけど、早稲田政経、慶應の経済(理財)は名門だっていうのが、当時からの感覚。
あんたの親の場合、上京できない地方人が放言していたんだろう。
@@marukitakuya このランキング見たら、納得じゃないですか?明らかに国公立が上ですし。あと当時は大学に行く人はエリートかつ裕福ですから、上京しなかった地方人だから言うってことはないと思いますけどね。おやじは北大獣医でしたが、早慶なんてまったく相手にしてないですよ、本当に。
@@NET-mo7yp ていうか、南山とか西南学院が今より難しいことからもわかるように、この頃は、地元志向が高かったんだと思うんですよ。
その中で、中央に出ていく野心のある人が、東京の私学に行ったりした。
てかさ、早慶出身者のリスト見たら、昔から人材を輩出してることなんか一目瞭然だと思うんだが。
あなたはさ、親父さんを尊敬してるのかもしれないし、それは悪くないことだけど、まず自分の親を相対化することが必要だね。
@@NET-mo7yp そりゃ獣医さんであれば当時であっても早慶は相手にしないんじゃないですかね?早慶に獣医系の実績はないし。
基本どの大学でも前身・看板学部はありますから、看板学部はどの大学でもほかの学部に比べて一歩抜け出ているのは当時では当然の話かと思います。
ただ私の親(東京五輪時受験)は慶応の経済ですが、早慶は(東・京の)滑り止め扱いではあったようですが。
明治の終わりごろに、帝大卒の人が、最近は大学が増えてレベルが下がったと新聞に投稿しているのを読んだことがあります。
それで、増えた大学というのが、京都帝国大学。なんだか、すごい世界だなって思いました。
偏差値と就職実績が必ずしも一致しない理由の1つに世代間ギャップというのがあります。
企業の採用担当責任者が40~50代と推定すると就活生とは概ね20~30年開きがあります。
大学の序列も当時の感覚のままでいることが考えられるので昔は難しかったのに今は易化してる大学は就職面ではコスパがいいかもしれませんね。
(地方国公立がMarchと対等に戦えるのもそれが理由でしょう。)
代表的なのが、津田塾大、東京女子大、日本女子大、学習院、関西学院大学
二松学舎大学ってどうなんだろう…?
カトちゃん(S18年生まれ)の世代が受験生の頃ですね♫
東京大学は、旧制高校の文科理科それぞれ甲類、乙類を引き継いで、後に現在の文2(主に経済)、理3(主に医学)を、
文1、理2から分離させたらしいが、いつのことだろう。
1961年の一覧表では文1しか見えないようだが。
例えば1935年生まれの畑正憲さんは、医学部進学の予定で理2を受験したが、進学振り分けで獣医に志望を変えている。
大学に行く人より優秀な人が就職していた。地方では高校入学も少ない時代。
むかしは夜間部はどうだったのかな?吉永小百合さんとか(早稲田二文)。私は近眼が酷いので二部は避けた。
タモリも第二文学部です。
大滝詠一(早稲田)
川島なお美 沖田浩之 (青山)
しっかり勉強すればいいじゃないか!
ランク17、3教科合計(300点満点)の合格者平均が50点代って低すぎね? これって受ければ誰でも入れるレベルじゃん?
進学大学を決めている要因
立地>費用>就職先>先生>研究内容
社長経営陣がko、編集が早稲田だらけの時代だから、この時代の旺文社ランキングはあまり当てにならないとかつて2ちゃんでみたな。特にko法。旺文社社長もko法だったな。
青森まで鉄道、青函連絡船乗って函館、さらに鉄道でやっと札幌。そこにある大学に行こうとする本州以南の人。
60年前ならレアな人でしょうね。
旺文社か、なつかしいね。僕は共通一次世代だが、この頃は導入前なので、国立一・二期、公立大学それぞれに挑戦できた。つまり(滑り止めの)私立は、国公立3校がダメな場合に入学したわけで(もちろん例外もあるが)、今よりかなりレベルが低かったのだろう。これくらいの大学数で良いというコメントがあったが、2050年までには、これくらいどころかランキング10位下クラスも楽観できないと予想している。
本近関(ポンキンカン)時代じゃないないの。大学数が少なく国公立中心だった見たいだね。近大あたりは、誰でも入れた時代なんだからね。その後の京産など本当に名前さえ書けば合格な過去があるからね。
ポンキンカンはマンモス大学という意味だね。いまや早稲田などマンモス大学は10以上あるね…今や死後
コバショーが動画でいっていた
京都産業大学はまだ出来る前の時代です。
関学の懐古趣味が凄いですね‼️
それだけ現在が残念無念になっているということ。懐古趣味を寛大な目で見て差し上げましょう!!!
昔の人が国立大学は凄いと言うのが判りますね。地方国立大学の方がはるかにMarchなんかより難しい時代だったのですね。早慶ですら地方国立大学に負けていたのですね。
でも北見工大とかは、今も昔も偏差値低そう。
@断面2次半径
それは知りませんでしたが、そうみたいです。1960年に北見工業短期大学で1966年に四年制大学になったようです。
まあ代わりに室蘭工業大学とでも書いておけばよかったですね。
なんか北海道教育大学もなかったような気もします🤔
北見工業大学も室蘭工業大学も後期が本番のような大学だった気がします🤔
まあ前にも似たようなことは言いましたが これらの大学はあくまでも、理系の大学受験生の母集団の中では下のほうかも知れませんが 4人に1人しか大学進学してない時代では 全体的にはレベルはそんなに低くないと思います。
まあ、東京の中堅私立大学よりは受かりやすいですが まあ、秋田大学の工学部あたりと同レベルじゃないかと思います。
早慶は半分推薦だからね笑
学生運動が盛んになる前で学校の独立自治の精神が強く地方国立大学は、その地方の中心となっていました。学生運動が鎮静化されて共通一次テストが始まり大学間の序列化が進み、すっかり牙を抜かれてしまった。その間私立の台頭が進んだのです。
18歳人口が200万人くらいで大学生数16万人の時代.
今は同世代人口が110-120万人で大学生数60万人.
当時の18歳人口が今の2倍、大学定員は今の1/4だったということは
60年前の中堅以上の大学生は今なら最低でも京大には行けそう
関西の国立の併願校に大阪経済大学受けていた時代
理系のデータはないのですか?
母校ですが、成蹊を成城と言ってましたね。
理系編もお願いします。
南山経済が早稲田法より上なのまじでおもろい
格は南山=早稲田
なお現在
戦前戦後くらいまでは、早慶の法はもともと法律学校ではなかったため、評価は低かったと聞いたことがある。
この頃は青学=立教=中大>明治=法政だったんだな
いつから明治が中大をまくり始めたんだろう
地方は、この頃はまだ交通網が未発達で、地域内での進学が主流で地方の名門私大がその地域の旧帝大や拠点国立の滑り止めとして高レベル層をゲットできてたが今は交通網の発達ですぐ東京来れるから、地方の帝大を第一志望に私大なら刺激が多く就活にも便利な東京の名門を選ぶということだな
明らかなのは、中大が八王子という山ん中へ大学丸ごと移転したのが自ら没落した。
八王子なら、大抵の地方よりも田舎だから、そんな山ん中で勉強する為に、わざわざ上京しないし、親も上京させない(苦笑)
当時リアルな大学受験を経験したものです。当時の東京の私大は早稲田=慶応>上智>中央=明治>立教>青学=法政って感じです。
早慶上中と聞いていましたが、この資料で納得しました。
甲南大学は名門
良いとこの子が多いので有名でした。関関同立の次と言われていましたが近大に抜かれたのはやはり今の時代、理系に弱点があったようです。
南山大学外国語学部のOBです。昔はすごかったみたいですね。
50年ほど前、社会出て気が付いたのは早慶以下は大学名を言わない言えなかったのでしょう(女子の立教・青山は可)、大学に進学しない優秀な都立高校生が沢山いたから、早慶以下は〇カの証明みたいになってしまう・・ので浪人しても早慶以上を目指した。実際「早慶です」と言うと「すごいですね」・「優秀なんですね」と言われるが。〇冶大・〇央大・〇政大などだと「ああそうですか」。〇本大・〇洋大・〇沢大等だと絶対大学名を言わない・・そういう世界・世の中でした。
当時は地方から都会の私大に行く人はお金持ちでした‼️
関西私大は関学、同志社、甲南
この三大学がよかった
とくに関学経済学部は名門
これはよく聞きましたね
現在、産近甲龍で括られていちばん損をしているのが甲南、得をしているのが近大
龍谷と関大は同レベル
京産は存在していなかったんじゃないのかな
いずれにせよこの時代は大学進学する者は少なくこのあたりの大学を出ていれば現在も万人に評価されるということでしょう
でも今の甲南って近大より普通に偏差値低いですよ...
甲南と龍谷だったら難易度は互角ですね
関大は法学部が名門で弁護士志望の学生が多かったです。理系は関学も甲南も最下位です。と言うか工学部はなかった?
甲南は関関同立の次と言われましたがアホボンと言われていました。
①私立文系は入試科目に数学がないのに平均点だけで国公立と比較している。なので実際の国公立対私立の格差はこの表よりさらに大きかった、と思われる。②国公立の入試日は前期・後期ではなく大学丸ごと1期校・2期校に分かれていた。2期校は「格下」というイメージに悩まされたものの1期校を不合格になった人が多数受験して高倍率になり、難易度はずいぶん高かった。横浜国立大学・小樽商科大学・和歌山大学などがその例。③戦前から大学であった伝統校(学部)と戦後できた新制大学(学部)での格差が大きい。経済学部で大阪市立大学が大阪府立大学よりずいぶん難しかったり、神戸大学が大阪大学より難しかったりというのがその例。④学費の差は藤田滋さんが書かれている通りです。当時女子で「家に大学・短大に行かせてもらえるお金がない」という人が看護専門学校(当時は授業料無料)へ結構進学していました。
私立文系入試科目に数学がなかったとされていますが、昭和30年代から40年代の慶應の経と商は数学が必須科目でした。早稲田も政経は選択科目に数学がありました。
私は昭和21年生まれですが、当時は大学の格の上下を聞いた覚えはなかったと思います。戦後に大学昇格した
(続き) …ところは駅弁大学と揶揄していました。どこの駅にもあるから… という意味です。
@@森本恭博
駅弁が買えた旧国鉄の急行列車の停車駅名がその名前の由来です。
昔は一橋経済がtier1だったのか
古希を過ぎた、都内育ち、当時の都内の全国でも超有名中学から、開成を滑り止め合格、教駒(現在の筑駒)合格を蹴り、150人以上東大合格の都立トップ校に進学した、1960年代の東大入試中止の、1期、2期校の世代です。当時は、早慶の地位は国立大学に対して非常に低く、高校受験でも、慶応高校、早稲田高等学院に進学するのは、小生の中学の最下層で、滑り止めの対象にもなりませんでした。また、東海道新幹線も開通して数年で、高速道路もなく、「都落ち!」という言葉や意識がポピュラーで、地方の旧帝大受験生は、ロマン派で成績下位の数名が、北大を受験する程度でした。圧倒的に東大志向の為、一橋、東工大受験生は少なく、1期東大、2期横国、滑り止め早慶のパターンでした。一橋、東工大受験層は横国が異常に難しいので、2期は東外大、農工大や電通大にするか、滑り止めの慶応経済、早稲田政経、早稲田理工に進み、早慶以外の私立に行くものは、学年で1~3名でした。授業料の国立私立格差が大きく、50年代は国立年間3600円でしたが、60年代は6000円~9000円で、70年代初頭は12000円でした。私立大学の授業料は60年代後半で、文系で約20万円、理系では40万円~60万円と非常に高く、私立大学生の保護者の不満が強く、70年代に国立大学授業料は毎年3倍ずつ、数回上昇しました。医学部では無く工学部が一番人気でしたが、慶応の工学部は、藤原工業大学を吸収したものであり、戦後は、都下の小金井にありました。事情を知らない地方高校の受験生はともかく、慶応工学部は不人気で、難易度、人気ともに圧倒的に早稲田の理工が高く、小生の高校では慶応工学部進学者は皆無に近い状態でした。当時は、横国工学部が京浜急行の弘明寺駅近くにあり、小生の高校の東大受験層では、ほぼ100%が志望しました。その結果、当時、難易度が異常に高く、競争率が20数倍~40数倍にもなり、マスメディアでも報道されていました。成績下位で理科一類では無く、理科二類志望に下げて合格すると、理学部や農学部しか進学できなかったので、二期の横国工学部に行こうと受験したり、理科一類合格しても受験料を払ったのだからと横国工学部を受験する不届きものも居ました。しかし、元々、成績下位であったり、気力が無いので、殆ど全員、横国工学部は不合格でした。その結果、東大>横国>一橋及び東工大という、世間評価とは異なる異常序列になっていました。東工大や一橋、地方旧帝大を受けるようになったのは、東大入試中止が大きかったですね。京大はまだ少なく、一橋、東工大が増えました。旧帝では、大阪大学が都落ち感、京大2番手から嫌われ、東北大学のほうが人気でした。東大一辺倒であった、60年近く前の都立トップ校の話ですが、年賀状を作成していたら、見つけてしまい、昔を思い出してしまいました。
名古屋も大阪東北と同じ地方旧帝だと思うのですが、名古屋は視野に入れた人は居なかったのでしょうか?
東大合格者数トップの日比谷高校OBのご意見は非常に参考になります
関西でも関関同立の付属中高に進学するのは稀でしたね
ましてや丸坊主が校則の近大付属高はクラスの底辺層に近い連中が進学していました
ですから近大は関西ではイメージは良くなかったです
薬学部だけが別格で医学部はまだできて2期生くらいの時でしたから合格しても莫大な寄付金がかかると聞いてました
医学部人気は今ほどではなかった時代です
一部の私立医大もカネで入れる時代です
とにかく高校では国公立大学を目指すように指導されたと思います
私学では関学経済、同志社英文科が頭一つ抜けていたように思います
名古屋大学は最後に誕生した旧帝大なので評価が低いと思われます。
@@藤田滋-d1s であれば、大阪も名古屋より少し前なだけで旧帝大としては歴史が浅いので、東北とは比べ物にならないくらい評価が低かったのでしょうかね。
関東では東大>横国だった時代、一期校二期校の時代は 東大落ちたら横浜国大しかなかった時代ですね。
偏差値ってなんだろう?マーチとか学群作った受験産業ってなんだろう?
そう
入ってからが大事なのに意味不明な数値だよね