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戦争回避のためにしたのなら、徳川慶喜は本当に優秀だったかもね
敵前逃亡は徳川のためとしては汚点だが、日本の為なら素晴らしい功績。慶喜は本物の天才だ。
やっぱ幕末は最高に面白い。主の動画の良さも相まって毎回すごく楽しみです。こんな人が友達にいればなあ、
熱い時代ですよね。幕末のお話は何度でも聴きたくなります。
慶喜ってドラマとか映画だと無能な感じで描かれるけどめっちゃ優秀だよな。
鎌倉殿の13人をリアルタイムで見ています。武士の世の始まりと終わりを同時に追うことができ、感慨深いものがあります。武士階級の栄枯盛衰、歴史のロマンを感じますね。
ついに大政奉還!楽しみにしてました!
毎週金曜日を楽しみにしています。本当にありがとうございます。
8:00 坂本龍馬が後藤象二郎と一体となって大政奉還策を推進したというのは誤りだと思います。 龍馬と中岡が薩土盟約の橋渡しをした思いは、薩摩と同じ、つまり「土佐藩が幕府に大政奉還建白をしても幕府は拒否し、これが武力討幕の名分となる。」と踏んだからです。でなければ、バリバリの武力討幕派の中岡まで薩土盟約に加担するはずがありません。それは龍馬も同じ考えだったはずです。 では、なぜ龍馬は後藤に大政奉還策を進言したのでしょうか。その理由は、薩長の挙兵準備になお時間がかかるので、その間大政奉還建白で政局を維持して時間稼ぎをし、しかも最終的に幕府が土佐藩の大政奉還建白を拒否するだろうから、土佐藩が幕府に見切りをつけて薩長に加わる決断をすることを期待したからでしょう。龍馬にとって一番の目的は、土佐藩を薩長に取り込むことで時流に取り残されないようにすることだったのです。 龍馬も西郷ら同様に、端から大政奉還が実現できるとは思っていませんでした。だからこそ、後藤に対し、「(幕府との)交渉が決して破断にならないうちに、土佐より兵を上京させ、後藤先生ご自身は早々に土佐へお引き取りになり(中略)、この「破談にならないうちに」という意味は「兵を用いる術策でございます。」(慶応3年10月10日頃の書簡)と指示したのです。 ただ、大政奉還が実現したことは、龍馬や中岡、薩長にとってまさかの出来事でした。特に、理由はどうあれ、後藤に大政奉還策を示した龍馬の思いは複雑だったと思います。この意外な展開によって、大政奉還後の龍馬は将来への展望を持てなくなったと思います。もし、暗殺されていなかったら、薩長の王政復古のクーデータ計画を知った時点でこれに飛びつき、西郷・大久保と通謀して王政復古への土佐藩取り込みを図ったでしょう。しかし、史実では、龍馬と中岡を失った薩摩藩は「短刀一本で片が付く。」などと無理をせざるを得なかったのでした。「龍馬がいたらなあ。」と西郷と大久保は思ったことでしょう。
写真の隣に家紋があるのいいね👍
慶喜すげえ…
本当にわかりやすい動画誠にありがとうございます。何度も何度も見て、とても勉強になっております。解説が画像付きで覚えやすく、気になるところまで深掘られており、とても覚えやすいです、、本当にありがとうございます。一つ、来年の受験に向けて、江戸時代から現代までを「忙しい人のための」シリーズ優先的に作成していただくことなどは科のでしょうか。本当に恐れ入るご依頼なのですが、優先的に見ていきたく、もし可能でしたらご検討いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
大政奉還って名を捨て実を取る策で、慶喜にとって起死回生の策だったんだけど…
この方は、天才です。
徳川慶喜は武人として見れば無能かもしれないけれど、政治家としては国内外の情勢をうまく見ていると思う。
慶喜は、英国の動きをよく把握していたんですね。
立場上世界中の裏表から情報を得てたから 勝海舟等は屈辱を味わったと思います
慶喜有能すぎるだろ
大政奉還そのものは武力行使よりは良い方策だったと思うが、結果として職を奪われたものは数知れず 大転換期というのは痛みを伴うものなのかなぁ
大政奉還はしても版籍奉還はするつもりは無かった慶喜
明治以降が楽しみで仕方ない
大政奉還・・・仕方なかったよなぁ・・・武士の世が終わったなら次わどのようになるのだろうか 次回を楽しみにしてます
ついにここまで来たか
孝明天皇は幕府側で慶喜、容保、松平定敬が大好きで長州嫌いだった。容保には特に宸翰を渡している。孝明天皇の死因は天然痘だが暗殺とも云われている。孝明天皇の死によって幕府の運命は暗転した。薩長同盟は成文ではなく口約束で、後で桂が覚えを文章にして手紙を竜馬に渡して、その裏に赤字で竜馬に裏書きして貰った。動画のその書類は土佐の坂本竜馬記念館にある。容堂は佐幕派で武力行使を反対したが、板垣退助がこれを無視して独断で土佐藩兵を率いて東山道軍として倒幕戦に参加した。容堂が佐幕派なのは藩主となる見込みがない時に、幕府の仲介で藩主と成れたから幕府に恩義を感じていたから。土佐藩で上士の板垣は掛川以来の家老になる家柄。若い頃暴れん坊で有名だったが容堂によって軍司令官に抜擢された。維新後は軍統率力を薩長に警戒されて文民官となったが、後に自由民権運動を推進していった。板垣と竜馬は全く接点はなかった。
今は全世界が幕末。
徳川慶喜公と武田勝頼公が一番大好き💓♥️❤️ですね。🎵岡崎城と浜松城と青葉城が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
Yoshinobu Tokugawa is also my favorite!! Lovely handsome man he was! 😘
大政奉還を決意したのは、これまで約700年間も政治を行ってこなかった朝廷には政治を行うのは無理だ、そのうち徳川を頼ってくるに違いないといった思惑があったとかなかったとか
その通り。実際、政務もまた委任されて将軍職もそのまま。外交も幕府が継続。ほんと慶喜、切れ者。
慶喜がハンドルを握り続けた場合の日本も見てみたかったな
このタイミング…薩長同盟ドンピシャリ
龍馬も手紙で「慶喜が大政奉還を飲まなかったら俺が刺し違える」と書いてるように最後通牒のような建白だったと思われる。
何はともあれ、いつの時代も天皇の存在は絶大ですね。
事件のたびに細かく年号を表記してほしいです。慶応とか昭和とか
いきなり野獣先輩でてきて笑った
まじワロタ
後藤象二郎先輩ワロタ
幕末はフランスに植民地を約束してたらしいだから徳川慶喜は将来を懸念した話があるらしい
幕末にハマってしまいそう
めちゃくちゃテクニカルやなあ。
大政奉還 1867年一ツ橋(18)胸(6)なでおろす(7)奉還や
大政奉還に喜んだのって外様だけだよな、親徳川側から見たら失望しかなかったと思う。
外様の土佐藩と一緒になって大政奉還を慶喜にしつこく進めていたのは、親藩の尾張徳川家の徳川慶勝と越前松平家の松平春嶽ですけどね。そもそも大政奉還はもとは親徳川側から出た案で、発案者は幕臣の大久保一翁だし。
天保年間以降自壊していき、遂には各地の大名からも見放され、僅かな線香の残り火みたいな状況になってしまった幕府を、どう終わらせるかが1867年の慶喜の課題だったのでは。
俺も大政を奉還してみてーたぶん俺のヒイヒイじいさんは一緒に駿府に引っ越したと思う
でも慶喜って、戦争回避どころか、大阪から挙兵した会桑に薩摩藩討伐令を持たせて送り出しているんですよね。慶喜自身も好戦的で、各国大使に薩摩藩討伐を告げ、軍艦で薩摩艦を砲撃したかと思えば大阪の薩摩藩邸も襲撃させている。在京の薩摩兵は少数だから勝てると思って会桑を京へ進軍させたら、例の鳥羽伏見でドンパチが始まった。ところが、思いのほか見方の兵が弱っちくて薩摩軍に大敗。これは薩摩藩と旧幕府陣営の私闘だから、朝廷はあずかり知らぬところ。新政府軍は岩倉具視の入れ知恵で、勝手に作った錦の御旗を掲げて進軍していたら、勘違いした諸藩が、天皇の象徴に弓は引けぬと新政府側へ寝返り続出となった。自身も朝敵となることを恐れた慶喜は、見方には薩摩との徹底抗戦を叫びながら、彼らを現場に置き去りにして自分だけこっそり江戸へと逃亡しちゃった。会桑の頭だけ連れて逃げたから、残された兵は自滅するように大敗してしまった。見方によっては、ウ~ム...
今は宗教の自由や麻薬やドラッグ何やらで平気で破ってんだから
慶喜が優秀すぎる…
孝明天皇の死が不自然に感じる 暗殺されたのではないだろうか
大久保と岩倉が作った偽の勅命の話は?
結局天皇に揺さぶられては多くの戦いや命が失われた。
サラリーマンスーツも終わろうとしてるから、今の時代も幕末ですかね。
頭良いヒト多すぎ
フランスもイギリスも植民地にしてやろう感プンプンしとるわwこっから建て直すのがすげえ
日本が近代化するためにも仕方ないとはいえ、黒船のせいで国内は本当に振り回された時代だったなー。だから私は開国〇〇周年とかは祝う気にはなれませんね
慶喜「あいつら無能だからどうせわしを頼ってくるぞ。あと戦争したくないから穏便にな」死ぬ覚悟で来てる薩長にこれで勝てるわけがない。
たかが外様一藩というがイギリスの支援もあったわけで…
薩摩は幕府を裏切った。僕は薩摩人は信用出来んね。
でもアメリカの植民地。
薩摩と長州嫌いになってくる
この前にも言ったけど大政奉還はまだ先自分が思う大政奉還はこれそう思う回が出てきたらまたその時に話します
なんやコイツ
結構です👋
流れに草
大政奉還なんかしたから、戊辰戦争なんかで滅んだんだよ
戦争回避のためにしたのなら、徳川慶喜は本当に優秀だったかもね
敵前逃亡は徳川のためとしては汚点だが、日本の為なら素晴らしい功績。慶喜は本物の天才だ。
やっぱ幕末は最高に面白い。
主の動画の良さも相まって毎回すごく楽しみです。
こんな人が友達にいればなあ、
熱い時代ですよね。
幕末のお話は何度でも聴きたくなります。
慶喜ってドラマとか映画だと無能な感じで描かれるけどめっちゃ優秀だよな。
鎌倉殿の13人をリアルタイムで見ています。
武士の世の始まりと終わりを同時に追うことができ、感慨深いものがあります。
武士階級の栄枯盛衰、歴史のロマンを感じますね。
ついに大政奉還!楽しみにしてました!
毎週金曜日を楽しみにしています。本当にありがとうございます。
8:00 坂本龍馬が後藤象二郎と一体となって大政奉還策を推進したというのは誤りだと思います。
龍馬と中岡が薩土盟約の橋渡しをした思いは、薩摩と同じ、つまり「土佐藩が幕府に大政奉還建白をしても幕府は拒否し、これが武力討幕の名分となる。」と踏んだからです。でなければ、バリバリの武力討幕派の中岡まで薩土盟約に加担するはずがありません。それは龍馬も同じ考えだったはずです。
では、なぜ龍馬は後藤に大政奉還策を進言したのでしょうか。その理由は、薩長の挙兵準備になお時間がかかるので、その間大政奉還建白で政局を維持して時間稼ぎをし、しかも最終的に幕府が土佐藩の大政奉還建白を拒否するだろうから、土佐藩が幕府に見切りをつけて薩長に加わる決断をすることを期待したからでしょう。龍馬にとって一番の目的は、土佐藩を薩長に取り込むことで時流に取り残されないようにすることだったのです。
龍馬も西郷ら同様に、端から大政奉還が実現できるとは思っていませんでした。だからこそ、後藤に対し、「(幕府との)交渉が決して破断にならないうちに、土佐より兵を上京させ、後藤先生ご自身は早々に土佐へお引き取りになり(中略)、この「破談にならないうちに」という意味は「兵を用いる術策でございます。」(慶応3年10月10日頃の書簡)と指示したのです。
ただ、大政奉還が実現したことは、龍馬や中岡、薩長にとってまさかの出来事でした。特に、理由はどうあれ、後藤に大政奉還策を示した龍馬の思いは複雑だったと思います。この意外な展開によって、大政奉還後の龍馬は将来への展望を持てなくなったと思います。もし、暗殺されていなかったら、薩長の王政復古のクーデータ計画を知った時点でこれに飛びつき、西郷・大久保と通謀して王政復古への土佐藩取り込みを図ったでしょう。しかし、史実では、龍馬と中岡を失った薩摩藩は「短刀一本で片が付く。」などと無理をせざるを得なかったのでした。「龍馬がいたらなあ。」と西郷と大久保は思ったことでしょう。
写真の隣に家紋があるのいいね👍
慶喜すげえ…
本当にわかりやすい動画誠にありがとうございます。
何度も何度も見て、とても勉強になっております。
解説が画像付きで覚えやすく、気になるところまで深掘られており、とても覚えやすいです、、本当にありがとうございます。
一つ、来年の受験に向けて、江戸時代から現代までを「忙しい人のための」シリーズ優先的に作成していただくことなどは科のでしょうか。
本当に恐れ入るご依頼なのですが、優先的に見ていきたく、
もし可能でしたらご検討いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。
大政奉還って名を捨て実を取る策で、慶喜にとって起死回生の策だったんだけど…
この方は、天才です。
徳川慶喜は武人として見れば無能かもしれないけれど、政治家としては国内外の情勢をうまく見ていると思う。
慶喜は、英国の動きをよく把握していたんですね。
立場上世界中の裏表から情報を得てたから 勝海舟等は屈辱を味わったと思います
慶喜有能すぎるだろ
大政奉還そのものは武力行使よりは良い方策だったと思うが、結果として職を奪われたものは数知れず 大転換期というのは
痛みを伴うものなのかなぁ
大政奉還はしても版籍奉還はするつもりは無かった慶喜
明治以降が楽しみで仕方ない
大政奉還・・・仕方なかったよなぁ・・・武士の世が終わったなら次わどのようになるのだろうか 次回を楽しみにしてます
ついにここまで来たか
孝明天皇は幕府側で慶喜、容保、松平定敬が大好きで長州嫌いだった。
容保には特に宸翰を渡している。
孝明天皇の死因は天然痘だが
暗殺とも云われている。
孝明天皇の死によって
幕府の運命は暗転した。
薩長同盟は成文ではなく口約束で、後で桂が覚えを文章にして手紙を
竜馬に渡して、その裏に赤字で
竜馬に裏書きして貰った。
動画のその書類は土佐の坂本竜馬記念館にある。
容堂は佐幕派で武力行使を反対したが、
板垣退助がこれを無視して
独断で土佐藩兵を率いて
東山道軍として倒幕戦に参加した。
容堂が佐幕派なのは藩主となる見込みがない時に、幕府の仲介で藩主と成れたから幕府に恩義を感じていたから。
土佐藩で上士の板垣は掛川以来の家老になる家柄。
若い頃暴れん坊で有名だったが
容堂によって軍司令官に抜擢された。
維新後は軍統率力を薩長に警戒されて文民官となったが、後に自由民権運動を推進していった。
板垣と竜馬は全く接点はなかった。
今は全世界が幕末。
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岡崎城と浜松城と青葉城が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
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その通り。
実際、政務もまた委任されて
将軍職もそのまま。
外交も幕府が継続。
ほんと慶喜、切れ者。
慶喜がハンドルを握り続けた場合の日本も見てみたかったな
このタイミング…薩長同盟ドンピシャリ
龍馬も手紙で「慶喜が大政奉還を飲まなかったら俺が刺し違える」と書いてるように最後通牒のような建白だったと思われる。
何はともあれ、いつの時代も天皇の存在は絶大ですね。
事件のたびに細かく年号を表記してほしいです。慶応とか昭和とか
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まじワロタ
後藤象二郎先輩ワロタ
幕末はフランスに植民地を約束してたらしい
だから徳川慶喜は将来を懸念した話があるらしい
幕末にハマってしまいそう
めちゃくちゃテクニカルやなあ。
大政奉還 1867年
一ツ橋(18)
胸(6)なでおろす(7)
奉還や
大政奉還に喜んだのって外様だけだよな、親徳川側から見たら失望しかなかったと思う。
外様の土佐藩と一緒になって大政奉還を慶喜にしつこく進めていたのは、親藩の尾張徳川家の徳川慶勝と越前松平家の松平春嶽ですけどね。そもそも大政奉還はもとは親徳川側から出た案で、発案者は幕臣の大久保一翁だし。
天保年間以降自壊していき、遂には各地の大名からも見放され、僅かな線香の残り火みたいな状況になってしまった幕府を、どう終わらせるかが1867年の慶喜の課題だったのでは。
俺も大政を奉還してみてー
たぶん俺のヒイヒイじいさんは一緒に駿府に引っ越したと思う
でも慶喜って、戦争回避どころか、大阪から挙兵した会桑に薩摩藩討伐令を持たせて送り出しているんですよね。慶喜自身も好戦的で、各国大使に薩摩藩討伐を告げ、軍艦で薩摩艦を砲撃したかと思えば大阪の薩摩藩邸も襲撃させている。在京の薩摩兵は少数だから勝てると思って会桑を京へ進軍させたら、例の鳥羽伏見でドンパチが始まった。
ところが、思いのほか見方の兵が弱っちくて薩摩軍に大敗。これは薩摩藩と旧幕府陣営の私闘だから、朝廷はあずかり知らぬところ。新政府軍は岩倉具視の入れ知恵で、勝手に作った錦の御旗を掲げて進軍していたら、勘違いした諸藩が、天皇の象徴に弓は引けぬと新政府側へ寝返り続出となった。自身も朝敵となることを恐れた慶喜は、見方には薩摩との徹底抗戦を叫びながら、彼らを現場に置き去りにして自分だけこっそり江戸へと逃亡しちゃった。会桑の頭だけ連れて逃げたから、残された兵は自滅するように大敗してしまった。
見方によっては、ウ~ム...
今は宗教の自由や麻薬やドラッグ何やらで平気で破ってんだから
慶喜が優秀すぎる…
孝明天皇の死が不自然に感じる 暗殺されたのではないだろうか
大久保と岩倉が作った偽の勅命の話は?
結局天皇に揺さぶられては多くの戦いや命が失われた。
サラリーマンスーツも終わろうとしてるから、今の時代も幕末ですかね。
頭良いヒト多すぎ
フランスもイギリスも植民地にしてやろう感プンプンしとるわwこっから建て直すのがすげえ
日本が近代化するためにも仕方ないとはいえ、
黒船のせいで国内は本当に振り回された時代だったなー。
だから私は開国〇〇周年とかは祝う気にはなれませんね
慶喜「あいつら無能だからどうせわしを頼ってくるぞ。あと戦争したくないから穏便にな」
死ぬ覚悟で来てる薩長にこれで勝てるわけがない。
たかが外様一藩というがイギリスの支援もあったわけで…
薩摩は幕府を裏切った。
僕は薩摩人は信用出来んね。
でもアメリカの植民地。
薩摩と長州嫌いになってくる
この前にも
言ったけど
大政奉還はまだ先
自分が思う大政奉還はこれ
そう思う回が出てきたら
またその時に話します
なんやコイツ
結構です👋
流れに草
大政奉還なんかしたから、戊辰戦争なんかで滅んだんだよ
慶喜がハンドルを握り続けた場合の日本も見てみたかったな