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こういうチャンネルほんとうに大切だと思う、、、
コメントでも一般庶民の貴重なエピソードが読めますね
私の実家の仏壇の上に軍服姿の爺ちゃんの白黒写真が飾って有ります、スッと背が高く胸板も厚く軍服が良く似合ってます、小さい頃存命だった祖母から軍服の下に布な綿など入れ込んで恰幅良く見せていた、と言う話しを聴いています、我が家は分家で食糧不足で農家の本家から支援も希薄、苦労している中で余程に兵隊に取られたのが悔しかったのでしょう。
親父は「大人はみんな表と裏で言ってる事が全然違うから本当に嫌になった」とは言ってたな。表:日本は勝ってる、万歳三唱、白人をぶっ飛ばせ裏:もう負けるだろうな、天皇陛下云々より飯を食わせてくれ
特攻機の整備をしていた人から聞きましたが、出撃をした後に機体の不調を理由に早々に引き返して来る人が毎回1人くらいは居たそうです。(離陸後は着陸用の車輪は脱落させてしまうので、その前に戻って来たそうです)「本当は死にたくなかったんだろうけど当時は冗談であってもそんな事を言うのは絶対に許されない雰囲気だったからね。結局は次の出撃で亡くなる事になっちゃうんだけど・・」とおっしゃってました。高校時代にお世話になった先生は戦時中ゼロ戦に乗っていたそうですが「敵の機銃で撃たれるから基地に帰って来ると機体が穴だらけ、座席は軽量化の為に最初から穴だらけ。ペラペラの機体だよ」と言ってました。燃料タンクだけは撃たれたら終わりだから、その事に気を付けつつ「今日は生きて帰って来れるかな・・」と思いながら出撃していたそうです。
日記の文章聞いただけで涙が溢れてきました…戦争へ行かせる為に我が子を育てた訳ではないでしょうに…。
ばあちゃん(終戦当時20歳)は軍需工場で毎朝竹槍訓練をしながら「これでアメリカの機関銃に勝てる訳なかろう、アホらしい」と思っていたそうです当然、思うだけに留めておいたわけですが
はだしのゲンで父ちゃんが同じ事言って非国民扱いされて大変な目に遭ったシーンを思い出した。
思うだけに,とどめていたから、生き残ったのだと思います。利口な方です。
@@kaisyuu-w2s 口に出したら憲兵に捕まってリンチの末に殺されるとか普通にある時代だからね!
常識的な、祖母さん。
コロナ禍でソーシャルディスタンスとかバカバカしいことみんな大真面目にやっていたから人間って変わらないなと思った。
終戦当時(現代では北方領土の)国後島で生活していた人の話に依ると、戦時中も全く平和だったが、ある時から函館便の供給が止まり、それにいち早く気付いた商人達から島を離れ、次いで軍人や公務員も脱出。何も知らされていない住民だけがソ連兵に捕まり、その後悲惨な目に遭ったとの事です。情報が極一部の人達にしか伝わっていない時代だったのですね。
情報弱者が不利益をこうむるのは今の時代も同じだよ。
現代の会社も同様だと思われます現場の人間には何も知らせずに離職する役職者達
祖国を護る為に戦地に行ったのではなく祖国の同調圧力から家族を守る為に犠牲になって戦地に行ったのです。
近年のコロナ騒動時の日本人の同調圧力っぷりを顧みるに、日本人ってそういう気質傾向がありますね。自分は生粋の日本人ですが、日本人のこういう傾向が大嫌いです。私は自分軸を持っており、簡単に周囲に流されないという自負があります。
戦中、戦後と日本国民の皆さんの気持ちは人それぞれですね。私の両親も戦争を経験していますが、その当時はどういう思いで生活していたか聞いておけばよかったです。もう2人とも亡くなってしまったので聞けなかったことを後悔しています。
太平洋戦争のことを記録・記憶することは大事な仕事と考えます。動画制作者さんに感謝です。私自身は、過去の記録に加え、いま起こっていることもキチンと見ておこうと思っています。戦場であれ、町の中であれ、ミサイルや砲弾が落ちた所に人がいる・ 生活していることを、食糧や燃料・電力、医薬品などの不足に陥った社会を。そして侵攻・戦争終結後、砲弾やミサイルの破片、不発弾、地雷などの撤去、社会の復旧にどれ程の労力や資金が必要になるかを想像することも。
家は代々軍人家系。お婆ちゃんは開戦の時は町中の人が怖いぐらいに目を輝かして頑張ってくださいと言い、魚屋は尾頭付きの鯛を持ってきて、町長も紋付袴で挨拶に来た。だけど負けたらみんな自分は最初から戦争なんか反対だったんだと冷たい目で家を見るようになった。人間ショックがあるとあれだけ喜んでたのに忘れるんだねえ。と言っていた。そんな国民の熱狂の中、祖父と近くに住んでいた中尉さんは困ったことになったと夜遅くまで奥の部屋で話し込んでいたそうです。
昔も今も、浅はかな人が多いと困ったことになりますよね😢
祖父は陸軍でしたがアメリカと戦争して勝てるわけねーだろと思っていたし周りもそう言っていた、と言っていましたうちの家は会社をやっていて戦前(戦後もだけど)アメリカから輸入していたので国力が違うことはわかっていたみたいです
海軍航空隊に従軍していた祖父も言ってました
「国民は国を守ろうと必死に戦った。だが、国は国民を守らなかった」いつぞやの新聞の投書です。まさにそのとおりだと思います。
そもそも国は利権争いのために戦争してるからな
今の政府も、国民を守っているのか❓同じですよね。
動画で紹介されてた作家田辺聖子の自伝的作品「欲しがりません勝つまでは」で裕福な中流家庭の戦中生活が描写されてる。女学校の友達と同人誌を作ったり月刊の少女雑誌を楽しみにしてたりと。軍国少女と言いながらも日々の生活を楽しんでる描写が新鮮。漫画家のわたなべまさこ著のエッセイ「まんがと生きて」で中流家庭の戦中~戦後の生活が俗ぽく書かれて面白い。華やかでおしゃれが好きだったようで玉音放送を聞いた時にこれから気兼ねなくスカートがはけると思ったそうだ。
うちの祖母は、祖父(祖母からみれば夫)が出征した時、押し入れに隠れて声を殺して泣いたと聞いた。人前では悲しさを見せると、非国民と呼ばれたのであろう。
戦中に青春時代を過ごした母に聞くと、信用していない人の前ではともかく、結構本音で話していたそうです。戦場に行って死ぬのは嫌だ。米英に勝てるわけがないと。心の底から軍国主義に騙されていた人は少数だったと言っています。
非国民だったのですか?
叔父が戦地で右手を無くして帰って来た話しをしてくれた時にまだ当時5〜6歳の自分は右手痛い?って聞いたらたまに痛みがあるけどそれより仲間の中で叔父だけ帰ってきた事が1番心が痛いと言ったのが幼い自分でも戦争の悲しかった事が理解できました
8月15.日、皇居前広場では玉音放送で泣き崩れる人がいた。霞が関の官庁では、機密書類を燃やす黒い煙が立ち上っていた。銀座では、早くもモンペを脱ぎ捨て、スカート姿で闊歩する女性がいた。 その話を聞いて、切り替えが早い人、立ち直りが早い人が結局勝ち組になるのかなと思った。
おじいちゃんがまだ小さい子供の頃、家の近くにアメリカの戦闘機だかなんだかが落ちてきて、それを近所の仲間と見に行った時にあまりに立派で大きくて肝を潰して「コリャ日本負けるかも」と心の中で思ったそう。実際に声に出してはとても言えなかったそうです。それまでは零戦なんかをカコイイと思っていたけど、比べものにならなかったと。例えて言えば、日本の飛行機が蛾でアメリカの飛行機が鳩に見えたと言っていました。ちなみに近所には多摩川という大きな川が流れていて、それを滑走路と勘違いして落ちる飛行機がたまにあったとのこと。
当時の兵隊だった人の著書に、空襲で簡易防空壕に退避した際、曹長と同じ壕に隠れたが、その曹長に『日本は勝つと思うか?』と、聞かれ「勿論です!」と、答えたら『バカモン!敵機が日本の上空を飛び回ってるんだぞ!』と、頭に拳骨食らい、「では曹長のお考えは?」と、聞き返すと‥『今、貴様の考えている事と同じだ。今のうちにフンドシをよく洗っておけ』『煮しめのような色では白旗の代わりにならないぞ😂』と、答えたそうで😅
B29の爆撃機やったのかな?度肝を抜く大きさだよね💦
軍人は意気揚々と戦争に行った人も多いだろう。国民も、日清日露戦争で大国に勝ってるから今度も勝つと信じた人も多かっただろう。ただ、赤紙徴兵された者の多くはどう思ったのか。私の祖父は結婚数カ月で海軍に赤紙召集だった。祖母は妊娠していた。出征前夜、「戦争なんか行きとうない」とボロボロ泣いたそうだ。ただ、出征の日はバンザイバンザイの声の中、立派に出征したそうだ。おそらく多くの召集兵は同じだろう。そして戦死。戦争に行った何人かに聞いたが、「戦争は酷い事する事」と言ってたなあ。命令されても最初は人を撃つ事を躊躇するが、そのうち、「俺に殺らせろ !」になっていく心理も聞いたことがある。人が変わるって事。p
職業軍人も好戦的な人間はそうそういないからね。大抵は国を守るというよりも職業として軍人を選んだ形。だから戦闘も遠くから射撃するならまだしも、目の前で敵兵と戦うのは抵抗があったとか。
戦争するしかないと言う人たちには、是非最前線で勇敢に戦って欲しいですね!
任せろ
『英雄』になれるなら喜んで
今は西洋被れが多いですからねw
口だけ勇ましいネトウヨ様はどうせみっともなく逃げ出しますよ
昭和18年夏でも、横浜の山下公園ではアイスクリームを売っていたと母が言っていました。書物では昭和20年に銀座ですき焼きとウィスキーを出していた店があり、金や物資、特権があれば殆どの物は手に入ったそう。
今の北●鮮がそうですね。
地域差・貧者富者による差はかなりあったようですね。家の母も戦中派ですが学校へ持っていく弁当はいつも芋ばかり(名古屋市内に住んでました。)対して今の海部郡の結構大きい農家の娘である親友はいつも弁当箱一杯に詰めてある銀シャリで本当に自分の弁当が恥ずかしく、白米をお腹いっぱい食べられる親友が羨ましかったと語っていたものです。
@@ambassadeurcrazy さま はじめまして。そうですね、日本は今でも地域間格差がありますから民間の流通が阻害され、配給制度の戦時下ではより厳格な壁があったでしょう。あの当時を経験した人達が、「さつま芋だけはもう食べたくない」とよく言っていたのを思い出しますが、現在の農水省の飢餓対策が未だにサツマイモの増産と言うのは笑えませんね。
中学生の頃亡くなった祖父が20代前半のとき前線に出てアメリカ軍の捕虜になった経験があったそうです。当時旧制高校への進学を目指して勉強していたそうですが、戦争に出なければならなくなったことを考えると悔しかっただろうなーって思います。ただ、無事に生きて帰ってきたおかげで今の私がいると思うと祖父には感謝してもしきれないです。存命中は一切当時の話をしなかった人なので相当辛かっただろうと思います。
「良人」と書いて「おっと」と読みます。
大正15年生まれの祖母に戦時中戦争どう思っていた?と聞いたら「若い子がたくさん死んでかわいそうで早く戦争なんか終わってしまえばいいのに」って思ってたと言ってしました、玉音放送聞いた時もやっと終わったと思っただけだと、、、、😮悔しくて泣いたりしたのかなと思ったら違ってました。
ちゃんと個人の思想に偏ることの無い、良い動画だと思いました。
よくこれだけの資料を調べて下さいました。ありがとうございました。亡き父は飛行機乗りでした。実際に出征はせずに済みましたが,自分の攻撃でいったい何人を殺すことになるのかと心を痛めていたそうです。祖父は終戦の玉音放送を聞いて,「嗚呼,やっと皆が安心して暮らせる。」と言ったそうです。当時であれば非国民ですね。
戦前・戦中に日本人と外国人のハーフの人、身体や発達に障がいがある人たちはどのように生活していたか、どのような人生を送っていたのか前からすごく気になっています。
図書館やネットで調べましょう。あなたは頭いいです。からすぐできます、
インドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースは、1923年に日本国籍を取得した。また、その長男(日本人とのハーフ)は、日本陸軍の軍人となり、1945年の沖縄戦で戦死している。
@@Ken-pp7dy 初めて知りました。教えていただきありがとうございます。
春日陽さまいつも楽しく見ております。リクエストがあります。明治・大正・昭和初期の大大阪の動画を見たいです。大大阪の動画をアップしてほしいです🙇♀️
ありがとうございます!参考にさせていただきます😊
昭和3年生まれの母は、戦争が終わったとき、負けた悔しさよりホッとしたと言っていました。食べるものもなく、何度も空襲を受け、時には米機から直接機銃掃射を受け、おそらく日本は負けると薄々感じていたそうです。でもそれからはたいへん。若い女の子はみんな頭を丸刈りにして山の中へ隠れろと言われたそうです。進駐軍がきたら、米兵にみんな犯されると思っていたそうです。日本の兵隊も中国で同じようなことやっていたそうですので。
従軍経験者がよく言う「良い人や真面目な人ほど先にシんでしまう」って言うけど、現代社会でも同じだなと思う。真面目に任務(業務)をこなそうとする人ほど危険な戦線に立ち殉職しやすいし(仕事の負担を押し付けられて潰れる)、不真面目な人は要領良く後方で立ち回ったり、人の戦果に便乗したりして生存して昇進する。(うまくサボったり、部下や同僚の成果を我が物顔で報告する)多くのそういう人が幹部になってまた下を使い潰していくんだよな
気がすごく強いおばあちゃんが言ってた僕がアメリカに戦争に勝てると思ってた?って聞いたら飛んでる飛行機見たおばあちゃんは絶対勝てないって言ってた。でもおばあちゃんはアメリカの事悪く言わなかったロシアと北朝鮮はボロクソ言ってたのに(笑)
はじめまして🙇お手玉して歌い、ロシアをディスってませんでしたか?私の母は、お手玉歌でロシアをディスっておりました。
戦争反対者に対して容赦のない取り締まりを行なっていたり居丈高に威張り散らしていた憲兵は、敗戦後に報復されるのを恐れて、憲兵だった事を必死に隠していた人もかなりいたらしい。
特高警察もそうだね。敗戦後すぐにGHQが解体したから職員は全員解雇された。
ダサいよな 自分らはイジメが好きなのにやられるのはいやなんよな
うちの爺さんは、戦時中少尉で満州に居ました。20年初頭辺り迄は食糧事情は良かったと言ってました。(本土に比べればですが)
本音で生きられないのはどの時代でも一緒だなぁ....😮💨
誰かが言ってたなこの頃の日本は 今の北朝鮮と同じだと😢
6:35 この写真はどんな状況?
コロナの時にこんな雰囲気を一時感じることができましたよね・・・国やマスコミが進める感染対策とやらに表立って反論すると非国民みたいな雰囲気を。
全然違うと思う。
戦争については絶対に語らなかったけど、昭和天皇崩御された時の号外を街中でもらったからすげえ優しい婆ちゃんに見せたら、陛下の写真が半分に折られてる新聞で、俺が烈火の如く怒られた。
大叔父さんの手記にあったんだけど海軍士官学校の大尉クラスの教官が「倒すべき相手はアメリカ軍なのに陸軍と海軍で対立ばっかしている。このままだと日本はアメリカに負ける」って言ってたらしい。当時学生だった大叔父さんは(日本軍が勝てるとは思わないけど敗北なんてありえないでしょ?)って思ってたらしい。この時1944年くらいだったか戦争なんて辞めろ!って思うのは本当に負けそうになった時くらいしかないのさ
例えば連合国では普通に陸軍の軍用機を海軍の空母で輸送してたのに、日本では同じ事が出来ずムダに空母が港に係留されていた。昭和天皇がその事を海軍の高官に指摘するも、沈黙するだけでまともな返答は無かったとか。
@@ヒマワリのたね うわ~。大日本帝国陸海軍てアホの集団でしたか?
大正12年生まれの私の母は、艦載機の機銃掃射の銃弾からドブに飛び込んで逃れ命をながらえましたが、最晩年に戦時中が一番楽しかったなと語っていました。
ぶっとんだ方で豪快な方ですね
ウチのじいちゃんも幼い俺を膝の上に座らせながら『戦争は楽しかった』って話を聞かせてくれました
介護施設で働いていた時に女性利用者が戦時中に機銃掃射から逃げてる時に意地悪な子に突き飛ばされて転倒したけど、なんとか逃れた。しばらく歩いていたら突き飛ばした意地悪な子が死んでたのを見た。その時ざまあみろと思ったと言ってました。終戦記念日に話してくれました。
戦中の日記なら山田風太郎の「戦中派不戦日記」が文章も上手くてイイです。軍国主義だった風太郎でも、心のどこかで負けることを何となく感じているのが分かります。
つね子さんの日記で涙腺崩壊した…😢則さんは御無事だったんだろうか…。子供の頃の塾の先生がよく「一度砲弾が着弾して吹っ飛ばされた所にもう一度着弾する可能性は低いから、仲間と『ここにいようぜ』って隠れて戦闘をやり過ごしたwww上官が来ると闘ってるふりして『行くぞー!』とか言ってなぁ😂」って笑い話みたいに語っていたけど、今考えたらそんな経験を笑い話に出来るのがもう凄い。本当に楽しそうに笑いながら話すんだよ…。そんな経験した人達に敵わないっていつも思う。
贅沢は素敵だ!
日中戦争から太平洋戦争終結まで従軍した父が生前、開戦当時の日本政府を描いたテレビドラマを見て、「よくぞアメリカとの戦争を決断してくれた」みたいな事言った。反戦主義の父の当時の父がどうだったかが知れる姿だった。
多数派の選択で酷い目にあったから、やはり少数意見の尊重は民主主義において必要なのだなと感じた
今は逆に少数派が変に力を持つようになって世を思いのままに動かしている感はある。多数派も少数派も、どちらかが絶対に正しい訳ではない。偏重する事無くバランス良く両者の意見を取り上げる事が肝要なのだろうが、なかなか難しいのだろうな…
@@un-105x いや、選挙で勝ってる多数派の自公が好き勝手やって日本衰退してんじゃん。(まあ国民の多数派ではなく投票者での、かつ小選挙区制とかいう腐ったルールでの多数派だから、自民入れている奴も国民の16%くらいの少数派だけど)
戦後の国民の気持ちも知りたいです
いやぁ、、、ここまでわかりやすく、よくまとめられていらっしゃる。良いお仕事をされたかと思います。感服します! ( ^ . ^)=b
戦中の銃後の話で有名なのは「はだしのゲン」ですかね('ω')雑炊食堂で「おお!今日の雑炊は箸が立つぞ!」となるとその食堂は大盛況になるとか千人針の話とか。あっしのひいばあさんの話もいろいろ聞かされて近くの河川敷で乗馬訓練や竹槍訓練を受けてたそうです('ω')戦争末期の空襲も、敵は必ず午前中にやってきて午後には来なかったので、農作業は午後からやってたとか(B-29などの大型爆撃機は農村には爆弾を落とさなかった。農村にやってくるのは F6Fヘルキャットなどの戦闘機が主)8月15日には午前中も敵機がやってこないと思ったら終戦になってたとか(玉音放送を聞いていなかった)。
『はだしのゲン』と見て、私も1番にその、『おお、今日の雑炊は箸が立つぞ!』を思い出しました。小学校図書館の禁書扱いが廃止されて本当に良かったと思います。全ての子供たちに読んでもらいたいです。
あれ創作やぞ、ファンタジーぐらいで読むのがいいと
だめだ、出生する夫を見送るところ、涙なしでは見られないよ
出生する夫を見送る?ずいぶん変わった光景だなwww
はだしのゲンを読んでもし戦争になったらどうしようってマジで不安になったし怖くなった。毎日不安で楽しい事はあるのかと思ってしまう。
12:26~北朝鮮体制となんら変わらんな形は違えど一部の上位層の為に国民が犠牲なるのは今も大差ない気もするけど
同感です。中国の体制もコアの部分は一緒ですかね。
うちの父は昭和6年生まれなので、モロに軍国少年世代でした。父から戦争中の不平不満を聞いた事が有りません。最も、空襲で家を失う事もなく、出征した兄たちも戦死しなかったからかもしれませんけど。晩年まで大東亜戦争は正しかったと言ってましたので、子供の頃に受けたマインドコントロールって一生抜けられないんだなぁと思いました。
わかります。昭和初期生まれより、明治生まれの方が実は、ロシア文学や海外の文化を積極的に受け入れてたので、洗脳されてはいなくて情報統制をするのが大変だったらしい。私の曽祖父は、さらに田舎育ちなので、日清、日露の戦争の話が結構、明るく。ほとんどが地上戦で、戦する前には、露の市民と仲が良く、昼は戦争、夜はお酒勝負してた時代。お互いをリスペクトしてた戦地もあったんです。この世代と軍事教育を受けた子どもたち、そして戦後教育を受けた孫世代、この3代は複雑な家庭環境が多そう
@ さま確かに受けた教育による世代間ギャップはありますね。わたしは父から「お前たちのような日教組の教育を受けたのと違って、パパたちは日本人としての正しい教育を受けたんだ。」という意味不明なマウントをされた事があります😅
私の父は昭和4年生まれでした。戦時中は男子は国の為に戦うのが当たり前だと思っていたそうで、特攻に志願し、少年飛行兵として訓練を受けている途中で戦争が終わったと言っていました。戦後GHQのアメリカ人が来て、「こんな国と戦って勝てる訳がなかった」と思ったそうです。戦争は絶対にいけない、戦争は悲惨だ、と言っていました。
失礼ながらその考え方もGHQ 史観、日教祖史観と言うマインドコントロールなんですよお父様もあなた様も見る側の視点が変われば正解でもあり間違いでもあると思います私はお二方両方の言い分を見てそう感じた次第です。
@@なた-b8e本当に失礼な奴だな…上から目線で何様のつもりなんだよ 自分は何からも洗脳を受けてない賢者とでも言うつもりなのか…
当時の人たちは戦後生まれの人たちと何が違うと言えば国家制度です。戦前は天皇を中心とした国家であり国民は臣民と呼ばれました。兵役は義務であり、20歳になったら徴兵検査を受けて適合者は陸軍部隊に入営しなければなりません。海軍は基本的に志願制をとってましたが戦時は徴兵もありました。召集令状が来ると「お召しが来た」と言っていたそうです。つまり天皇陛下からの命令で戦地に赴いたのです。
父方のじーちゃんは八丈島に派遣され、空に向かって銃を打つも、米軍は飛行機だから足軽兵士の弾なんて届くわけない。ほんと情けなかったと言っていた。
私の母は、東京大空襲の時、足立区千住竜田町に住んでおり、荒川に避難したそうです。足立区千住一帯も被害が大きかったようです。
コロナの時の俺らと同じだよ高揚感、絶望感、慣れ
終戦当時でも「まだ戦力がある」と思ってたのが、どれだけ国が大本営で都合のいいことしか言ってなかったかがわかるね戦力なんてほとんど残ってなかったのにね
私が聞くところでは、戦時中は楽しかったと。熱狂の中にあった。それはそうだと思う。いわば、命懸けのゲーム。スポーツ以上に国民が熱中するのは感覚的によくわかる。
言論の自由、報道の自由がなければ国民は無知になり愚民になるのです。今なら無茶、無謀と簡単に言えますが当時は超大国相手に本気で勝てると思ってたんです
今もそんな自由はないですけどね。あっても握りつぶされます。
今もマスコミは不都合な事は伝えない自由があるそうです
江戸時代は良い時代だったようですが、徳川家が政治を続けていたら、こんな戦争はしてなかったかもしれませんね。
まあこれそのまま今の北朝鮮人民の話ではあったりするよな
そりゃ、北朝鮮は大日本帝国をモデルに国を作ったからだよ。ひいては中国人らも同じ。西洋的民主主義が即席にできるわけもなく結局中共という専制国家となった。支那朝鮮の戦後は日本の置き土産
北朝鮮ほどではなかったようですよ。政府と軍に逆らいさえしなければ結構自由だったとか。今の中国くらいでしょうか。
@@suiseibank 「北朝鮮とか大陸の支那朝鮮の戦後は大日本帝国の置き土産」とのコメントが削除された模様。意図はコメ主のような「北朝鮮人民そのまま」という安直な観察への皮肉のつもりだったんですがね。いうまでもなく私自身そんな安直な表現には吐き気を催す嫌悪を抱いています。しかし大日本帝国の厳しい軍紀と果断な行動、剛直な姿勢が大陸の動乱を通じてかれらの一つの手本になったのは間違いないと思います。「近代国家の国民(人民)意識」を未開なアジア人民に移植するには好都合というか最適解だったから。で、元に戻って「北朝鮮が大日本帝国の話であったりする」というのは実態としては、おっしゃる通り違うと思います。
@@suiseibank 😄😄😄、確かにさ、今の中国は戦前の日本に似てるて言われたりはするよな、天皇が居る中国だわ😆
@@suiseibank あはははは、天皇が居る中国だよな😂
惰性で戦うなんて正気じゃできないよ😅
コッペパンか解らないけどそのもらって喜んでる男の子の顔が好きだわ!
その男の子は俺たちからしたらおじいちゃんって考えたら不思議よな
戦後の平和教育のおかげで当時の気持ちを正直に語れなくなっていますが、こうして当時を生きた人々の日記では多くが対米開戦に喝采しているんですよね。既に10年にもなる大陸での戦いに加え、欧米諸国の締め付けによる閉塞感はそれほど重苦しかったという事でしょう…。
そもそも満洲から引けば締め付けは終わったんですけどねぇ
私の父親は祖父から開戦当日に「この戦争は負ける。今から負けて国が大変な時に備えて勉強をするように」と言われたと言ってます。祖父は技術者で曾祖母は若い頃に駐在アメリカ人の邸宅にお手伝いとして働いた事があり、日本との技術や生活レベルが格段に違うのを目にしていたので、日本が勝てるわけが無いと常に言っていたそうです。
閉塞感がわかないくらいの締め付けですませなかった欧米が悪い。でもそれって締め付けといえるのかなぁ。
@@TOR-ORU 満州事変直後の締め付けって具体的になんでしょうか?
@@かぶとむし-n5z お、俺っすか?満洲事変に起因するABCD包囲網の経済制裁の認識です
大叔母は従軍看護婦 フィリピンのジャングルを駆け巡ったそうだ。 同じ部隊の中に好きな人いたけど、戦死したって言ってた。リアルドラマ😢
井戸端会議で主婦が近所に徴兵があった家で戦死の連絡とありそれを普通に話していたと祖父の大学生時代で教練と言う単位があり評価が乙だと徴兵時酷い目に遇うので甲を取る為に全力にやっていたと亡くなった父が話していました。
6:22 『よそゆき』の言葉って言ってるやん。本音じゃないって事やん。
私の片方の祖父は貧困の出身でしたが学問に秀でていたので、軍で推薦を受けて学校に行くことが出来、終戦近くの頃に大本営に配属されたそうです。そこで、想像を遥かに超えた各方面の日本軍や民間人の絶望的状況を知ることになって辛くて仕方なかったそうです。もう一方の祖父は、戦線で病気になり、退却時にそのまま放置されてソ連の捕虜になり、6年くらいシベリアにいたそうです。ただ本人は、当時親切に接してくれたロシア人家庭の話をするのみで、本当に苦しかったことは一切語りませんでした。親族によると、心の壊れた状態から立ち直るのに10年以上要したそうです。祖母は双方共に、戦争は物心付いた頃からずっとあるもので、戦争のない時代が来ること自体が想像出来なかったと言ってました。
戦中生まれで、終戦当時はまだ7歳だった母は、今でも寝る時は必ず手元のすぐそばに衣服を綺麗にたたんで、すぐに着替えられるようにして寝ます。夜、突然空襲警報が鳴って、真っ暗な中で着替えて防空壕に避難することが日常茶飯事だったから身に付いてしまった習慣で…そういう時は、ホンの少しでも灯りを付けると空からは見えてしまって、そこに爆弾を落とされると教わったため、真っ暗な中でも着替えられるようになったそうです。夜中に突然空から爆弾を落とされても誰にも文句を言えない、それが日常になってしまうのが戦争というものなんでしょう。
当時は教育格差があったから、地方はわからないけど、都心部で教養のある人達から話を聞いた時、共通して、「開戦時から両親から勝てる訳ないと聞いていた。マッカーサーの言葉を聞いて確信した。」って言ってたな。
田辺聖子の文章が怖い
戦争は良く無いと判っていても誰も言えなかった悪いと言っただけで犯罪者
ご名答、国民が厭戦気分では戦争が出来ないのでね
いつも世の中は人というものは変わらいなと思います。wがいい例ですが、今頃「だまされた。うつべきでなかった。後悔してる」とかいう。騙されるも何も誰かが言ったことを鵜呑みにするっこと自体、大人の取るべき態度ではない。常に丸投げ、誰かの言うことを信じて、都合が悪くなるとだまされてたという。本当に情けない。自己責任が根付くことは永遠になさそう。あの戦争だってみながいいことだと思い勝つと信じてた。後になってだまされたという。誰が騙したのか?別に誰もあなた程度どうでもいい人ををだましに来てなんかいないですよね。かってにあのとき〇〇がそういってた。それを信じた。それが騙されたってことらしい。ひたすらに被害者ぶる。責任転嫁。みっともない。
確かにそういう人は多くいたでしょうね。でも、そうでなく最初から反対だった人達もいたでしょうから、そういう人達は可哀想ですよね。
あ、「反対」って、戦争の話ですよ。wは後悔してない人もたくさん居るはずですから。
祖父は真珠湾攻撃のニュースを聞いたとき「やったか!やったな!」と喝采したという。後年それを伝えてくれた祖母は「日本は戦争ばかりして今度は負けるだろう、とその時思った」と語った。これは時局に関心のある祖父に対して時局にうとく悲観が先立つ当時の苦労女の違いだろう。結果的に祖母が正確に見ていた。戦後に生き残った多くの日本人は多数の死をひきかえに生を享受して当時を振り返る。そこには様々な立場の違いがあり、感想は一様でない。事実も人の数だけある。後世の余計な脚色はいらない。実存主義を歴史観に適用すると未来(現在)の目から過去の実存の泥沼に入り泥にまみれかつそれを透視することなのだろう。
祖母の叔父は戦前20年以上アメリカにいたので、叔父からは絶対負けると聞かされていたようです。竹槍、長刀の練習もどうせ負けるのになあと冷めていたとか。叔父さんは帰国後徴兵されていきました。
以前、本屋で戦時中の落書きを集めた本を見つけました。陸軍大臣宅の壁に「天皇のバカ」と書かれていたようです。すぐに警察は犯人を捜しましたが、結局見つからなかった模様。
そうですよ新聞ラジオで開戦に扇動していましたから軍隊が腰抜けー!と国民が罵倒していた
1:50「太平洋戦争」は欧米(連合国)が使った言葉です、日本では「大東亜戦争」と呼びます陛下は両方に気を使い「先の大戦」とのお言葉を使われます
まあ、どっち使ったところで大差ないがな(笑)
田辺さんやべぇな😅
ネトウヨ思想そのもの、、、
旧日本に生まれなくてよかった!
故に「ゆとり」が生産されたんだよなw
記憶が無いだけで前世は戦時中を生きていたかも知れない。
今ものが言えない旧日本人からしてもオマエなんかこの世にいらないさ、と言うだろうよ。
おふくろのおじちゃんは呉の海軍将校だったとオヤジ方のじいさんは陸軍中将だったと聞いてるけど戦後両じいさんの仕事が50過ぎてもナゾのまま両じいさんはGHQ相手の仕事してたと聞いたけど未だ両じいさんの戦後の生活が未だわからない、オヤジにおふくろ方の戦後も裕福な生活してたと聞いたけど未だに疑問だな
偏向報道だらけのメディアの影響力は恐ろしい。昔も今も。
根拠の薄い個人の話を盲信する心理も恐ろしいですけどね。
「ヴァカどもが対米開戦しやがったあやまち でお茶を濁してるようじゃまた同じことを繰り返しかねないがな
○「 戦争は百害あって一利なし 」 皆様も体験されたら分かります 因 果 応 報・作用と反作用 災いは忘れた頃にやってる🇯🇵戦争になれば国民の30%犠牲
徴兵2回とかソ連抑留でトマト食べ過ぎて、トマト嫌いになって帰ってきた爺ちゃん。朝鮮半島で刑務官していた親戚。空爆中にのんびり疎開戦前から戦後までの新聞が土壁の土留めで張ってあって開戦時の新聞とか読んだ。食いもんが無かったのは都市部の話で、まぁまぁ田舎に係る地域に住んでる人は食いもんに困って無かった。家の父方母方共にバリバリの元武家由来の家柄だったから、戦前から定期的に軍役に就いてる。特に毛利家勘定奉行だった母方は、江戸後期明治維新・日清・日露・日中・太平洋へ勘定方として従軍してる。飯に関しての資料がたくさん残ってる。金勘定や物資の補給に関わる部署に配属されるべき育成された人材だったので、ソ連抑留で読み書きできねぇソ連兵の代わりに台帳管理してたりとか今でもありえねぇって扱いを受けてた。旧ソ連の第二次大戦時のソ連の教育レベルがいかに低かったかがよくわかる。勘定奉行経験者は戦前・戦中・戦後どの時代においても通用する人材の宝庫。
賛成にしろ反対にしろ、どちらの意見もあるから何とも言えないんだよね。たらればになるけど、しなかったらしなかったで今のNKみたいになっていた可能性もあったかもだし。今よりも発展が早かったかもだし。
と、言うより、名実共に主権を失い、日本は米国の植民地になって居たで有ろう事は先ず間違い無いでしょう(どうにも戦争の悲惨さだけを殊更に挙げて、戦争反対=防衛費増額反対とかに持って行き兼ねない感もしますからね)。何より、そもそもな話、米国サイドは最初から日本の交渉に応じる気など、毛頭有りませんでしたからね(つまり、最初から攻める気満々だった。降伏に関しても、連合国サイドが応じなかった訳ですからね。この時点でこの動画を挙げたUP主が印象操作して居る何よりの証拠ですよ)。果たして、大東亜戦争の惨状だけを見て当時の日本を叩いて居る方々はその点を理解して居るのか、自分も疑問に感じますね…。自分は先の大東亜戦争は『日本が敗北した戦争』と、捉えて居ますが、此方のコメントを見る限り『戦前の洗脳教育とは言うが、なかなかどうして。現在の国民もしっかり戦後の公共機関の教育に洗脳されて居るでは無いか』と、映ってならないですね。
@@榛葉貴夫叩くというか戦争は勝つ見込みがあるからするのであって負けたら叩かれるのは当たり前 そもそも戦争は利権争いですからな どんな大層な大義名分を掲げたとて所詮は奪い合い それに今の日本が反戦になるのも仕方ない 防衛費もなけりゃ、人員も少ない ネットでは勇ましいことをいうやつは数あれどなぜか行動に移すやすはいない 自衛隊は今も人員不足 まずはそこからやな😂
本音と建前、匿名掲示板のおまえらと仕事中のおまえらみたいなもんだな。随分と違うだろおまえらも。
今まで通り苦しみに打ち勝ち勉強だ
戦時中(対米開戦前)に撮られた祖父母と外祖父母たちの思春期〜青年期の写真を見ていると、当時の男性で肥満してる人は極めて少ないが、戦時中の女性は現代の女性よりもぽっちゃりしてる。祖父の母や妹、祖母の実家の家政婦さん、外祖母と同級生たち、街や村で偶然写った女性たち、みんな顔が丸々してて腰回りも厚く脚も太い。栄養状態は決して悪くなかったと思います。
大国と戦って何故勝てると思ったのか・・・今だにわからないです。
それだけ敵国であるアメリカを知らな過ぎたんです。大和魂が根底にあるから勝てると本気で信じて疑わなかったんでしょうね。真珠湾攻撃を立案、実施した山本五十六連合艦隊司令長官も、日米開戦には猛反対した軍人の1人です。山本長官はアメリカに滞在していた経験がありアメリカの国力を目の当たりにしていましたからね。どんなに無謀な戦いだと説いても軍上層部は聞き入れなかったとか。
「部屋の中の象」といって、誰もが分かっていても、困難な話題は見て見ぬふりするものです。当時の首脳だって勝てないと分かってはいましたよ。そんなことは総力戦研究所でとっくに分かっていた。でも、単に抵抗するのが面倒で、希望的観測に縋りたかっただけで。今でも社会保障財政なんかがそうでしょう。少子高齢化でどうやっても存続できないのに、総裁選でも衆院選でもロクに議題にならない。ホントは年金額減らして高齢者向け医療の自己負担額増やさないといけないのに。
なお総力戦研究所では、「日本に大和魂があっても、アメリカにもアメリカ魂がある。戦争は両国とも必死になるものだから、精神力で決まるものではない」と発言が残っています。意外と冷静だったんですよ。
海軍は不戦を貫いたんだがなw陸軍がアホやったw
陸軍悪玉論云々は枝葉の話で、根本的な問題は、陸軍と海軍はなぜ対立していたのか、統一的な運用ができなかったのは何故なのか、という点でしょう。どちらかに責任を問うのは不毛だと思います。
当時の人が現代にタイムスリップしたら昔に戻りたいと思うんだろうな。欲だらけで頑張れ頑張るほど叩かれる現代。人間はやはりお腹いっぱい食べない方が楽しいんだろうね。
戦争をやることに是非はあるが始めてしまったらもう勝ちに行くしかないからなあ、始めるかどうかの決定権は一般国民にはない
憲兵隊の一人一人に面突き合わせて発言すると優しく可愛がって貰えるのかもしっかり体験してほしい😊
私の知人によると、あの12月8日の朝は特に寒く、ラジオを聞いたときは...とうとうやってしまったと思い、暗然たる気持ちになったとのことですが、12月8日と言えば成道会ですな、よりによってこんな日に真珠湾攻撃をするとは。
親父はミッドウェー海戦で戦死した弟の敵討ちするために潜水艦で敵の米軍駆逐艦を撃沈したと話した。
あの時代にSNSあったらどうなってたんだろうか。国民の洗脳や情報統制はやり放題の時代だったんだろうけど、それでも違和感持ってる人がそれなりにいた
祖父が父の兄が海軍予科練 その次兄が陸軍幹部候補生になった時、20歳になれば徴兵されるのに…とつぶやいていたと。これが親の本音でしょう。
11月8日は12月8日の間違いですね~
教育は恐ろしい一面を持っていると感じさせる😱
22:09 国民も生活が大変だったと思うが、嫌と言えず命を懸けて戦った人をここまで言うのもなんだかなあ…。
こういうチャンネルほんとうに大切だと思う、、、
コメントでも一般庶民の貴重なエピソードが読めますね
私の実家の仏壇の上に軍服姿の爺ちゃんの白黒写真が飾って有ります、スッと背が高く胸板も厚く軍服が良く似合ってます、小さい頃存命だった祖母から軍服の下に布な綿など入れ込んで恰幅良く見せていた、と言う話しを聴いています、我が家は分家で食糧不足で農家の本家から支援も希薄、苦労している中で余程に兵隊に取られたのが悔しかったのでしょう。
親父は「大人はみんな表と裏で言ってる事が全然違うから本当に嫌になった」とは言ってたな。
表:日本は勝ってる、万歳三唱、白人をぶっ飛ばせ
裏:もう負けるだろうな、天皇陛下云々より飯を食わせてくれ
特攻機の整備をしていた人から聞きましたが、出撃をした後に機体の不調を理由に早々に引き返して来る人が毎回1人くらいは居たそうです。(離陸後は着陸用の車輪は脱落させてしまうので、その前に戻って来たそうです)
「本当は死にたくなかったんだろうけど当時は冗談であってもそんな事を言うのは絶対に許されない雰囲気だったからね。結局は次の出撃で亡くなる事になっちゃうんだけど・・」とおっしゃってました。
高校時代にお世話になった先生は戦時中ゼロ戦に乗っていたそうですが「敵の機銃で撃たれるから基地に帰って来ると機体が穴だらけ、座席は軽量化の為に最初から穴だらけ。ペラペラの機体だよ」と言ってました。燃料タンクだけは撃たれたら終わりだから、その事に気を付けつつ「今日は生きて帰って来れるかな・・」と思いながら出撃していたそうです。
日記の文章聞いただけで涙が溢れてきました…
戦争へ行かせる為に
我が子を育てた訳ではないでしょうに…。
ばあちゃん(終戦当時20歳)は軍需工場で毎朝竹槍訓練をしながら「これでアメリカの機関銃に勝てる訳なかろう、アホらしい」と思っていたそうです
当然、思うだけに留めておいたわけですが
はだしのゲンで父ちゃんが同じ事言って非国民扱いされて大変な目に遭ったシーンを思い出した。
思うだけに,とどめていたから、生き残ったのだと思います。利口な方です。
@@kaisyuu-w2s
口に出したら憲兵に捕まってリンチの末に殺されるとか普通にある時代だからね!
常識的な、祖母さん。
コロナ禍でソーシャルディスタンスとかバカバカしいこと
みんな大真面目にやっていたから人間って変わらないなと思った。
終戦当時(現代では北方領土の)国後島で生活していた人の話に依ると、戦時中も全く平和だったが、ある時から函館便の供給が止まり、それにいち早く気付いた商人達から島を離れ、次いで軍人や公務員も脱出。何も知らされていない住民だけがソ連兵に捕まり、その後悲惨な目に遭ったとの事です。情報が極一部の人達にしか伝わっていない時代だったのですね。
情報弱者が不利益をこうむるのは今の時代も同じだよ。
現代の会社も同様だと思われます
現場の人間には何も知らせずに離職する役職者達
祖国を護る為に戦地に行ったのではなく
祖国の同調圧力から家族を守る為に犠牲になって戦地に行ったのです。
近年のコロナ騒動時の日本人の同調圧力っぷりを顧みるに、日本人ってそういう気質傾向がありますね。
自分は生粋の日本人ですが、日本人のこういう傾向が大嫌いです。
私は自分軸を持っており、簡単に周囲に流されないという自負があります。
戦中、戦後と日本国民の皆さんの気持ちは人それぞれですね。
私の両親も戦争を経験していますが、その当時はどういう思いで生活していたか聞いておけばよかったです。
もう2人とも亡くなってしまったので聞けなかったことを後悔しています。
太平洋戦争のことを記録・記憶することは大事な仕事と考えます。動画制作者さんに感謝です。
私自身は、過去の記録に加え、いま起こっていることもキチンと見ておこうと思っています。
戦場であれ、町の中であれ、ミサイルや砲弾が落ちた所に人がいる・ 生活していることを、
食糧や燃料・電力、医薬品などの不足に陥った社会を。
そして侵攻・戦争終結後、砲弾やミサイルの破片、不発弾、地雷などの撤去、社会の復旧にどれ程の労力や資金が必要になるかを想像することも。
家は代々軍人家系。お婆ちゃんは開戦の時は町中の人が怖いぐらいに目を輝かして頑張ってくださいと言い、魚屋は尾頭付きの鯛を持ってきて、町長も紋付袴で挨拶に来た。だけど負けたらみんな自分は最初から戦争なんか反対だったんだと冷たい目で家を見るようになった。人間ショックがあるとあれだけ喜んでたのに忘れるんだねえ。と言っていた。
そんな国民の熱狂の中、祖父と近くに住んでいた中尉さんは困ったことになったと夜遅くまで奥の部屋で話し込んでいたそうです。
昔も今も、浅はかな人が多いと困ったことになりますよね😢
祖父は陸軍でしたがアメリカと戦争して勝てるわけねーだろと思っていたし周りもそう言っていた、と言っていました
うちの家は会社をやっていて戦前(戦後もだけど)アメリカから輸入していたので国力が違うことはわかっていたみたいです
海軍航空隊に従軍していた祖父も言ってました
「国民は国を守ろうと必死に戦った。だが、国は国民を守らなかった」いつぞやの新聞の投書です。まさにそのとおりだと思います。
そもそも国は利権争いのために戦争してるからな
今の政府も、国民を守っているのか❓
同じですよね。
動画で紹介されてた作家田辺聖子の自伝的作品「欲しがりません勝つまでは」で裕福な中流家庭の戦中生活が描写されてる。
女学校の友達と同人誌を作ったり月刊の少女雑誌を楽しみにしてたりと。軍国少女と言いながらも日々の生活を楽しんでる描写が新鮮。
漫画家のわたなべまさこ著のエッセイ「まんがと生きて」で中流家庭の戦中~戦後の生活が俗ぽく書かれて面白い。
華やかでおしゃれが好きだったようで玉音放送を聞いた時にこれから気兼ねなくスカートがはけると思ったそうだ。
うちの祖母は、祖父(祖母からみれば夫)が出征した時、押し入れに隠れて声を殺して泣いたと聞いた。人前では悲しさを見せると、非国民と呼ばれたのであろう。
戦中に青春時代を過ごした母に聞くと、信用していない人の前ではともかく、結構本音で話していたそうです。戦場に行って死ぬのは嫌だ。米英に勝てるわけがないと。心の底から軍国主義に騙されていた人は少数だったと言っています。
非国民だったのですか?
叔父が戦地で右手を無くして帰って来た話しをしてくれた時にまだ当時5〜6歳の自分は右手痛い?って聞いたらたまに痛みがあるけどそれより仲間の中で叔父だけ帰ってきた事が1番心が痛いと言ったのが幼い自分でも戦争の悲しかった事が理解できました
8月15.日、皇居前広場では玉音放送で泣き崩れる人がいた。霞が関の官庁では、機密書類を燃やす黒い煙が立ち上っていた。銀座では、早くもモンペを脱ぎ捨て、スカート姿で闊歩する女性がいた。
その話を聞いて、切り替えが早い人、立ち直りが早い人が結局勝ち組になるのかなと思った。
おじいちゃんがまだ小さい子供の頃、家の近くにアメリカの戦闘機だかなんだかが落ちてきて、それを近所の仲間と見に行った時にあまりに立派で大きくて肝を潰して「コリャ日本負けるかも」と心の中で思ったそう。実際に声に出してはとても言えなかったそうです。
それまでは零戦なんかをカコイイと思っていたけど、比べものにならなかったと。例えて言えば、日本の飛行機が蛾でアメリカの飛行機が鳩に見えたと言っていました。
ちなみに近所には多摩川という大きな川が流れていて、それを滑走路と勘違いして落ちる飛行機がたまにあったとのこと。
当時の兵隊だった人の著書に、空襲で簡易防空壕に退避した際、
曹長と同じ壕に隠れたが、その曹長に
『日本は勝つと思うか?』と、聞かれ「勿論です!」と、答えたら
『バカモン!敵機が日本の上空を飛び回ってるんだぞ!』と、頭に拳骨食らい、
「では曹長のお考えは?」と、聞き返すと‥
『今、貴様の考えている事と同じだ。今のうちにフンドシをよく洗っておけ』
『煮しめのような色では白旗の代わりにならないぞ😂』と、答えたそうで😅
B29の爆撃機やったのかな?度肝を抜く大きさだよね💦
軍人は意気揚々と戦争に行った人も多いだろう。国民も、日清日露戦争で大国に勝ってるから今度も勝つと信じた人も多かっただろう。ただ、赤紙徴兵された者の多くはどう思ったのか。私の祖父は結婚数カ月で海軍に赤紙召集だった。祖母は妊娠していた。出征前夜、「戦争なんか行きとうない」とボロボロ泣いたそうだ。ただ、出征の日はバンザイバンザイの声の中、立派に出征したそうだ。おそらく多くの召集兵は同じだろう。そして戦死。
戦争に行った何人かに聞いたが、「戦争は酷い事する事」と言ってたなあ。命令されても最初は人を撃つ事を躊躇するが、そのうち、「俺に殺らせろ !」になっていく心理も聞いたことがある。人が変わるって事。p
職業軍人も好戦的な人間はそうそういないからね。大抵は国を守るというよりも職業として軍人を選んだ形。だから戦闘も遠くから射撃するならまだしも、目の前で敵兵と戦うのは抵抗があったとか。
戦争するしかないと言う人たちには、是非最前線で勇敢に戦って欲しいですね!
任せろ
『英雄』になれるなら喜んで
今は西洋被れが多いですからねw
口だけ勇ましいネトウヨ様はどうせみっともなく逃げ出しますよ
昭和18年夏でも、横浜の山下公園ではアイスクリームを売っていたと母が言っていました。書物では昭和20年に銀座ですき焼きとウィスキーを出していた店があり、金や物資、特権があれば殆どの物は手に入ったそう。
今の北●鮮がそうですね。
地域差・貧者富者による差はかなりあったようですね。家の母も戦中派ですが
学校へ持っていく弁当はいつも芋ばかり(名古屋市内に住んでました。)対して今の海部郡の結構大きい農家の娘である親友はいつも弁当箱一杯に詰めてある銀シャリで本当に自分の弁当が恥ずかしく、白米をお腹いっぱい食べられる親友が羨ましかったと語っていたものです。
@@ambassadeurcrazy さま はじめまして。そうですね、日本は今でも地域間格差がありますから民間の流通が阻害され、配給制度の戦時下ではより厳格な壁があったでしょう。あの当時を経験した人達が、「さつま芋だけはもう食べたくない」とよく言っていたのを思い出しますが、現在の農水省の飢餓対策が未だにサツマイモの増産と言うのは笑えませんね。
中学生の頃亡くなった祖父が20代前半のとき前線に出てアメリカ軍の捕虜になった経験があったそうです。
当時旧制高校への進学を目指して勉強していたそうですが、戦争に出なければならなくなったことを考えると悔しかっただろうなーって思います。
ただ、無事に生きて帰ってきたおかげで今の私がいると思うと祖父には感謝してもしきれないです。
存命中は一切当時の話をしなかった人なので相当辛かっただろうと思います。
「良人」と書いて「おっと」と読みます。
大正15年生まれの祖母に戦時中戦争どう思っていた?と聞いたら「若い子がたくさん死んでかわいそうで早く戦争なんか終わってしまえばいいのに」って思ってたと言ってしました、
玉音放送聞いた時もやっと終わったと思っただけだと、、、、😮
悔しくて泣いたりしたのかなと思ったら違ってました。
ちゃんと個人の思想に偏ることの無い、良い動画だと思いました。
よくこれだけの資料を調べて下さいました。ありがとうございました。亡き父は飛行機乗りでした。実際に出征はせずに済みましたが,自分の攻撃でいったい何人を殺すことになるのかと心を痛めていたそうです。祖父は終戦の玉音放送を聞いて,「嗚呼,やっと皆が安心して暮らせる。」と言ったそうです。当時であれば非国民ですね。
戦前・戦中に日本人と外国人のハーフの人、身体や発達に障がいがある人たちはどのように生活していたか、
どのような人生を送っていたのか前からすごく気になっています。
図書館やネットで調べましょう。あなたは頭いいです。からすぐできます、
インドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースは、1923年に日本国籍を取得した。また、その長男(日本人とのハーフ)は、日本陸軍の軍人となり、1945年の沖縄戦で戦死している。
@@Ken-pp7dy 初めて知りました。教えていただきありがとうございます。
春日陽さま
いつも楽しく見ております。
リクエストがあります。
明治・大正・昭和初期の大大阪の動画を見たいです。
大大阪の動画をアップしてほしいです🙇♀️
ありがとうございます!参考にさせていただきます😊
昭和3年生まれの母は、戦争が終わったとき、負けた悔しさよりホッとしたと言っていました。食べるものもなく、何度も空襲を受け、時には米機から直接機銃掃射を受け、おそらく日本は負けると薄々感じていたそうです。でもそれからはたいへん。若い女の子はみんな頭を丸刈りにして山の中へ隠れろと言われたそうです。進駐軍がきたら、米兵にみんな犯されると思っていたそうです。日本の兵隊も中国で同じようなことやっていたそうですので。
従軍経験者がよく言う「良い人や真面目な人ほど先にシんでしまう」って言うけど、現代社会でも同じだなと思う。
真面目に任務(業務)をこなそうとする人ほど危険な戦線に立ち殉職しやすいし(仕事の負担を押し付けられて潰れる)、不真面目な人は要領良く後方で立ち回ったり、人の戦果に便乗したりして生存して昇進する。(うまくサボったり、部下や同僚の成果を我が物顔で報告する)
多くのそういう人が幹部になってまた下を使い潰していくんだよな
気がすごく強いおばあちゃんが言ってた
僕がアメリカに戦争に勝てると思ってた?って聞いたら飛んでる飛行機見たおばあちゃんは絶対勝てないって言ってた。
でもおばあちゃんはアメリカの事悪く言わなかった
ロシアと北朝鮮はボロクソ言ってたのに(笑)
はじめまして🙇
お手玉して歌い、ロシアをディスってませんでしたか?
私の母は、お手玉歌でロシアをディスっておりました。
戦争反対者に対して容赦のない取り締まりを行なっていたり居丈高に威張り散らしていた憲兵は、敗戦後に報復されるのを恐れて、憲兵だった事を必死に隠していた人もかなりいたらしい。
特高警察もそうだね。敗戦後すぐにGHQが解体したから職員は全員解雇された。
ダサいよな 自分らはイジメが好きなのにやられるのはいやなんよな
うちの爺さんは、戦時中少尉で満州に居ました。20年初頭辺り迄は食糧事情は良かったと言ってました。(本土に比べればですが)
本音で生きられないのは
どの時代でも一緒だなぁ....😮💨
誰かが言ってたな
この頃の日本は 今の北朝鮮と同じだと😢
6:35 この写真はどんな状況?
コロナの時にこんな雰囲気を一時感じることができましたよね・・・
国やマスコミが進める感染対策とやらに表立って反論すると非国民みたいな雰囲気を。
全然違うと思う。
戦争については絶対に語らなかったけど、昭和天皇崩御された時の号外を街中でもらったからすげえ優しい婆ちゃんに見せたら、陛下の写真が半分に折られてる新聞で、俺が烈火の如く怒られた。
大叔父さんの手記にあったんだけど
海軍士官学校の大尉クラスの教官が「倒すべき相手はアメリカ軍なのに陸軍と海軍で対立ばっかしている。このままだと日本はアメリカに負ける」って言ってたらしい。
当時学生だった大叔父さんは(日本軍が勝てるとは思わないけど敗北なんてありえないでしょ?)って思ってたらしい。この時1944年くらいだったか
戦争なんて辞めろ!って思うのは本当に負けそうになった時くらいしかないのさ
例えば連合国では普通に陸軍の軍用機を海軍の空母で輸送してたのに、日本では同じ事が出来ずムダに空母が港に係留されていた。昭和天皇がその事を海軍の高官に指摘するも、沈黙するだけでまともな返答は無かったとか。
@@ヒマワリのたね うわ~。大日本帝国陸海軍てアホの集団でしたか?
大正12年生まれの私の母は、艦載機の機銃掃射の銃弾からドブに飛び込んで逃れ命をながらえましたが、最晩年に戦時中が一番楽しかったなと語っていました。
ぶっとんだ方で豪快な方ですね
ウチのじいちゃんも幼い俺を膝の上に座らせながら『戦争は楽しかった』って話を聞かせてくれました
介護施設で働いていた時に女性利用者が戦時中に機銃掃射から逃げてる時に意地悪な子に突き飛ばされて転倒したけど、なんとか逃れた。
しばらく歩いていたら突き飛ばした意地悪な子が死んでたのを見た。
その時ざまあみろと思ったと言ってました。
終戦記念日に話してくれました。
戦中の日記なら山田風太郎の「戦中派不戦日記」が文章も上手くてイイです。
軍国主義だった風太郎でも、心のどこかで負けることを何となく感じているのが分かります。
つね子さんの日記で涙腺崩壊した…😢
則さんは御無事だったんだろうか…。
子供の頃の塾の先生がよく
「一度砲弾が着弾して吹っ飛ばされた所にもう一度着弾する可能性は低いから、仲間と『ここにいようぜ』って隠れて戦闘をやり過ごしたwww上官が来ると闘ってるふりして『行くぞー!』とか言ってなぁ😂」
って笑い話みたいに語っていたけど、今考えたらそんな経験を笑い話に出来るのがもう凄い。
本当に楽しそうに笑いながら話すんだよ…。
そんな経験した人達に敵わないっていつも思う。
贅沢は素敵だ!
日中戦争から太平洋戦争終結まで従軍した父が生前、開戦当時の日本政府を描いたテレビドラマを見て、「よくぞアメリカとの戦争を決断してくれた」みたいな事言った。反戦主義の父の当時の父がどうだったかが知れる姿だった。
多数派の選択で酷い目にあったから、やはり少数意見の尊重は民主主義において必要なのだなと感じた
今は逆に少数派が変に力を持つようになって世を思いのままに動かしている感はある。
多数派も少数派も、どちらかが絶対に正しい訳ではない。
偏重する事無くバランス良く両者の意見を取り上げる事が肝要なのだろうが、
なかなか難しいのだろうな…
@@un-105x いや、選挙で勝ってる多数派の自公が好き勝手やって日本衰退してんじゃん。(まあ国民の多数派ではなく投票者での、かつ小選挙区制とかいう腐ったルールでの多数派だから、自民入れている奴も国民の16%くらいの少数派だけど)
戦後の国民の気持ちも知りたいです
いやぁ、、、ここまでわかりやすく、よくまとめられていらっしゃる。
良いお仕事をされたかと思います。感服します! ( ^ . ^)=b
戦中の銃後の話で有名なのは「はだしのゲン」ですかね('ω')
雑炊食堂で「おお!今日の雑炊は箸が立つぞ!」となるとその食堂は大盛況になるとか
千人針の話とか。
あっしのひいばあさんの話もいろいろ聞かされて
近くの河川敷で乗馬訓練や竹槍訓練を受けてたそうです('ω')
戦争末期の空襲も、敵は必ず午前中にやってきて午後には来なかったので、農作業は
午後からやってたとか
(B-29などの大型爆撃機は農村には爆弾を落とさなかった。農村にやってくるのは
F6Fヘルキャットなどの戦闘機が主)
8月15日には午前中も敵機がやってこないと思ったら終戦になってたとか
(玉音放送を聞いていなかった)。
『はだしのゲン』と見て、私も1番にその、『おお、今日の雑炊は箸が立つぞ!』を思い出しました。
小学校図書館の禁書扱いが廃止されて本当に良かったと思います。
全ての子供たちに読んでもらいたいです。
あれ創作やぞ、
ファンタジーぐらいで読むのがいいと
だめだ、出生する夫を見送るところ、涙なしでは見られないよ
出生する夫を見送る?
ずいぶん変わった光景だなwww
はだしのゲンを読んでもし戦争になったらどうしようってマジで不安になったし怖くなった。毎日不安で楽しい事はあるのかと思ってしまう。
12:26~
北朝鮮体制となんら変わらんな
形は違えど一部の上位層の為に国民が犠牲なるのは今も大差ない気もするけど
同感です。中国の体制もコアの部分は一緒ですかね。
うちの父は昭和6年生まれなので、モロに軍国少年世代でした。父から戦争中の不平不満を聞いた事が有りません。最も、空襲で家を失う事もなく、出征した兄たちも戦死しなかったからかもしれませんけど。晩年まで大東亜戦争は正しかったと言ってましたので、子供の頃に受けたマインドコントロールって一生抜けられないんだなぁと思いました。
わかります。昭和初期生まれより、明治生まれの方が実は、ロシア文学や海外の文化を積極的に受け入れてたので、洗脳されてはいなくて情報統制をするのが大変だったらしい。
私の曽祖父は、さらに田舎育ちなので、日清、日露の戦争の話が結構、明るく。ほとんどが地上戦で、戦する前には、露の市民と仲が良く、昼は戦争、夜はお酒勝負してた時代。お互いをリスペクトしてた戦地もあったんです。
この世代と軍事教育を受けた子どもたち、そして戦後教育を受けた孫世代、この3代は複雑な家庭環境が多そう
@ さま
確かに受けた教育による世代間ギャップはありますね。わたしは父から「お前たちのような日教組の教育を受けたのと違って、パパたちは日本人としての正しい教育を受けたんだ。」という意味不明なマウントをされた事があります😅
私の父は昭和4年生まれでした。戦時中は男子は国の為に戦うのが当たり前だと思っていたそうで、特攻に志願し、少年飛行兵として訓練を受けている途中で戦争が終わったと言っていました。戦後GHQのアメリカ人が来て、「こんな国と戦って勝てる訳がなかった」と思ったそうです。
戦争は絶対にいけない、戦争は悲惨だ、と言っていました。
失礼ながらその考え方もGHQ 史観、日教祖史観と言うマインドコントロールなんですよ
お父様もあなた様も見る側の視点が変われば正解でもあり間違いでもあると思います
私はお二方両方の言い分を見てそう感じた次第です。
@@なた-b8e本当に失礼な奴だな…上から目線で何様のつもりなんだよ 自分は何からも洗脳を受けてない賢者とでも言うつもりなのか…
当時の人たちは戦後生まれの人たちと何が違うと言えば国家制度です。戦前は天皇を
中心とした国家であり国民は臣民と呼ばれました。兵役は義務であり、20歳になった
ら徴兵検査を受けて適合者は陸軍部隊に入営しなければなりません。海軍は基本的に
志願制をとってましたが戦時は徴兵もありました。召集令状が来ると「お召しが来た」
と言っていたそうです。つまり天皇陛下からの命令で戦地に赴いたのです。
父方のじーちゃんは八丈島に派遣され、空に向かって銃を打つも、米軍は飛行機だから足軽兵士の弾なんて届くわけない。ほんと情けなかったと言っていた。
私の母は、東京大空襲の時、足立区千住竜田町に住んでおり、荒川に避難したそうです。
足立区千住一帯も被害が大きかったようです。
コロナの時の俺らと同じだよ
高揚感、絶望感、慣れ
終戦当時でも「まだ戦力がある」と思ってたのが、どれだけ国が大本営で都合のいいことしか言ってなかったかがわかるね
戦力なんてほとんど残ってなかったのにね
私が聞くところでは、戦時中は楽しかったと。熱狂の中にあった。それはそうだと思う。いわば、命懸けのゲーム。スポーツ以上に国民が熱中するのは感覚的によくわかる。
言論の自由、報道の自由がなければ国民は無知になり愚民になるのです。
今なら無茶、無謀と簡単に言えますが当時は超大国相手に本気で勝てると思ってたんです
今もそんな自由はないですけどね。あっても握りつぶされます。
今もマスコミは不都合な事は伝えない自由があるそうです
江戸時代は良い時代だったようですが、徳川家が政治を続けていたら、こんな戦争はしてなかったかもしれませんね。
まあこれそのまま
今の北朝鮮人民の
話ではあったりするよな
そりゃ、北朝鮮は大日本帝国をモデルに国を作ったからだよ。ひいては中国人らも同じ。西洋的民主主義が即席にできるわけもなく結局中共という専制国家となった。支那朝鮮の戦後は日本の置き土産
北朝鮮ほどではなかったようですよ。政府と軍に逆らいさえしなければ結構自由だったとか。今の中国くらいでしょうか。
@@suiseibank 「北朝鮮とか大陸の支那朝鮮の戦後は大日本帝国の置き土産」とのコメントが削除された模様。意図はコメ主のような「北朝鮮人民そのまま」という安直な観察への皮肉のつもりだったんですがね。いうまでもなく私自身そんな安直な表現には吐き気を催す嫌悪を抱いています。しかし大日本帝国の厳しい軍紀と果断な行動、剛直な姿勢が大陸の動乱を通じてかれらの一つの手本になったのは間違いないと思います。「近代国家の国民(人民)意識」を未開なアジア人民に移植するには好都合というか最適解だったから。で、元に戻って「北朝鮮が大日本帝国の話であったりする」というのは実態としては、おっしゃる通り違うと思います。
@@suiseibank 😄😄😄、確かにさ、今の中国は戦前の日本に似てるて言われたりはするよな、天皇が居る中国だわ😆
@@suiseibank あはははは、天皇が居る中国だよな😂
惰性で戦うなんて正気じゃできないよ😅
コッペパンか解らないけどそのもらって喜んでる男の子の顔が好きだわ!
その男の子は俺たちからしたらおじいちゃんって考えたら不思議よな
戦後の平和教育のおかげで当時の気持ちを正直に語れなくなっていますが、こうして当時を生きた人々の日記では多くが対米開戦に喝采しているんですよね。既に10年にもなる大陸での戦いに加え、欧米諸国の締め付けによる閉塞感はそれほど重苦しかったという事でしょう…。
そもそも満洲から引けば締め付けは終わったんですけどねぇ
私の父親は祖父から開戦当日に「この戦争は負ける。今から負けて国が大変な時に備えて勉強をするように」と言われたと言ってます。
祖父は技術者で曾祖母は若い頃に駐在アメリカ人の邸宅にお手伝いとして働いた事があり、日本との技術や生活レベルが格段に違うのを目にしていたので、日本が勝てるわけが無いと常に言っていたそうです。
閉塞感がわかないくらいの締め付けですませなかった欧米が悪い。でもそれって締め付けといえるのかなぁ。
@@TOR-ORU 満州事変直後の締め付けって具体的になんでしょうか?
@@かぶとむし-n5z お、俺っすか?
満洲事変に起因するABCD包囲網の経済制裁の認識です
大叔母は従軍看護婦 フィリピンのジャングルを駆け巡ったそうだ。 同じ部隊の中に好きな人いたけど、戦死したって言ってた。
リアルドラマ😢
井戸端会議で主婦が近所に徴兵があった家で戦死の連絡とありそれを普通に話していたと
祖父の大学生時代で教練と言う単位があり評価が乙だと徴兵時酷い目に遇うので甲を取る為に全力にやっていたと
亡くなった父が話していました。
6:22 『よそゆき』の言葉って言ってるやん。本音じゃないって事やん。
私の片方の祖父は貧困の出身でしたが学問に秀でていたので、軍で推薦を受けて学校に行くことが出来、終戦近くの頃に大本営に配属されたそうです。
そこで、想像を遥かに超えた各方面の日本軍や民間人の絶望的状況を知ることになって辛くて仕方なかったそうです。
もう一方の祖父は、戦線で病気になり、退却時にそのまま放置されてソ連の捕虜になり、6年くらいシベリアにいたそうです。
ただ本人は、当時親切に接してくれたロシア人家庭の話をするのみで、本当に苦しかったことは一切語りませんでした。
親族によると、心の壊れた状態から立ち直るのに10年以上要したそうです。
祖母は双方共に、戦争は物心付いた頃からずっとあるもので、戦争のない時代が来ること自体が想像出来なかったと言ってました。
戦中生まれで、終戦当時はまだ7歳だった母は、今でも寝る時は必ず手元のすぐそばに衣服を綺麗にたたんで、すぐに着替えられるようにして寝ます。夜、突然空襲警報が鳴って、真っ暗な中で着替えて防空壕に避難することが日常茶飯事だったから身に付いてしまった習慣で…
そういう時は、ホンの少しでも灯りを付けると空からは見えてしまって、そこに爆弾を落とされると教わったため、真っ暗な中でも着替えられるようになったそうです。夜中に突然空から爆弾を落とされても誰にも文句を言えない、それが日常になってしまうのが戦争というものなんでしょう。
当時は教育格差があったから、地方はわからないけど、都心部で教養のある人達から話を聞いた時、共通して、「開戦時から両親から勝てる訳ないと聞いていた。マッカーサーの言葉を聞いて確信した。」って言ってたな。
田辺聖子の文章が怖い
戦争は良く無いと判っていても誰も言えなかった悪いと言っただけで犯罪者
ご名答、国民が厭戦気分では戦争が出来ないのでね
いつも世の中は人というものは変わらいなと思います。wがいい例ですが、今頃「だまされた。うつべきでなかった。後悔してる」とかいう。騙されるも何も誰かが言ったことを鵜呑みにするっこと自体、大人の取るべき態度ではない。常に丸投げ、誰かの言うことを信じて、都合が悪くなるとだまされてたという。本当に情けない。自己責任が根付くことは永遠になさそう。あの戦争だってみながいいことだと思い勝つと信じてた。後になってだまされたという。誰が騙したのか?別に誰もあなた程度どうでもいい人ををだましに来てなんかいないですよね。かってにあのとき〇〇がそういってた。それを信じた。それが騙されたってことらしい。ひたすらに被害者ぶる。責任転嫁。みっともない。
確かにそういう人は多くいたでしょうね。
でも、そうでなく最初から反対だった人達もいたでしょうから、そういう人達は可哀想ですよね。
あ、「反対」って、戦争の話ですよ。
wは後悔してない人もたくさん居るはずですから。
祖父は真珠湾攻撃のニュースを聞いたとき「やったか!やったな!」と喝采したという。後年それを伝えてくれた祖母は「日本は戦争ばかりして今度は負けるだろう、とその時思った」と語った。これは時局に関心のある祖父に対して時局にうとく悲観が先立つ当時の苦労女の違いだろう。結果的に祖母が正確に見ていた。戦後に生き残った多くの日本人は多数の死をひきかえに生を享受して当時を振り返る。そこには様々な立場の違いがあり、感想は一様でない。事実も人の数だけある。後世の余計な脚色はいらない。実存主義を歴史観に適用すると未来(現在)の目から過去の実存の泥沼に入り泥にまみれかつそれを透視することなのだろう。
祖母の叔父は戦前20年以上アメリカにいたので、叔父からは絶対負けると聞かされていたようです。竹槍、長刀の練習もどうせ負けるのになあと冷めていたとか。
叔父さんは帰国後徴兵されていきました。
以前、本屋で戦時中の落書きを集めた本を見つけました。陸軍大臣宅の壁に「天皇のバカ」と書かれていたようです。すぐに警察は犯人を捜しましたが、結局見つからなかった模様。
そうですよ新聞ラジオで開戦に扇動していましたから
軍隊が腰抜けー!と国民が罵倒していた
1:50
「太平洋戦争」は欧米(連合国)が使った言葉です、日本では「大東亜戦争」と呼びます
陛下は両方に気を使い「先の大戦」とのお言葉を使われます
まあ、どっち使ったところで大差ないがな(笑)
田辺さんやべぇな😅
ネトウヨ思想そのもの、、、
旧日本に生まれなくてよかった!
故に「ゆとり」が生産されたんだよなw
記憶が無いだけで前世は戦時中を生きていたかも知れない。
今ものが言えない旧日本人からしてもオマエなんかこの世にいらないさ、と言うだろうよ。
おふくろのおじちゃんは呉の海軍将校だったとオヤジ方のじいさんは陸軍中将だったと聞いてるけど戦後両じいさんの仕事が50過ぎてもナゾのまま両じいさんはGHQ相手の仕事してたと聞いたけど未だ両じいさんの戦後の生活が未だわからない、オヤジにおふくろ方の戦後も裕福な生活してたと聞いたけど未だに疑問だな
偏向報道だらけのメディアの影響力は恐ろしい。昔も今も。
根拠の薄い個人の話を盲信する心理も恐ろしいですけどね。
「ヴァカどもが対米開戦しやがった
あやまち でお茶を濁してるようじゃ
また同じことを繰り返しかねないがな
○「 戦争は百害あって一利なし 」
皆様も体験されたら分かります
因 果 応 報・作用と反作用
災いは忘れた頃にやってる
🇯🇵戦争になれば国民の30%犠牲
徴兵2回とかソ連抑留でトマト食べ過ぎて、トマト嫌いになって帰ってきた爺ちゃん。
朝鮮半島で刑務官していた親戚。
空爆中にのんびり疎開
戦前から戦後までの新聞が土壁の土留めで張ってあって開戦時の新聞とか読んだ。
食いもんが無かったのは都市部の話で、まぁまぁ田舎に係る地域に住んでる人は食いもんに困って無かった。
家の父方母方共にバリバリの元武家由来の家柄だったから、戦前から定期的に軍役に就いてる。
特に毛利家勘定奉行だった母方は、江戸後期明治維新・日清・日露・日中・太平洋へ勘定方として従軍してる。
飯に関しての資料がたくさん残ってる。
金勘定や物資の補給に関わる部署に配属されるべき育成された人材だったので、ソ連抑留で読み書きできねぇソ連兵の代わりに台帳管理してたりとか今でもありえねぇって扱いを受けてた。
旧ソ連の第二次大戦時のソ連の教育レベルがいかに低かったかがよくわかる。
勘定奉行経験者は戦前・戦中・戦後どの時代においても通用する人材の宝庫。
賛成にしろ反対にしろ、どちらの意見もあるから何とも言えないんだよね。
たらればになるけど、しなかったらしなかったで今のNKみたいになっていた可能性もあったかもだし。今よりも発展が早かったかもだし。
と、言うより、名実共に主権を失い、日本は米国の植民地になって居たで有ろう事は先ず間違い無いでしょう(どうにも戦争の悲惨さだけを殊更に挙げて、戦争反対=防衛費増額反対とかに持って行き兼ねない感もしますからね)。
何より、そもそもな話、米国サイドは最初から日本の交渉に応じる気など、毛頭有りませんでしたからね(つまり、最初から攻める気満々だった。降伏に関しても、連合国サイドが応じなかった訳ですからね。この時点でこの動画を挙げたUP主が印象操作して居る何よりの証拠ですよ)。
果たして、大東亜戦争の惨状だけを見て当時の日本を叩いて居る方々はその点を理解して居るのか、自分も疑問に感じますね…。
自分は先の大東亜戦争は
『日本が敗北した戦争』
と、捉えて居ますが、此方のコメントを見る限り
『戦前の洗脳教育とは言うが、なかなかどうして。現在の国民もしっかり戦後の公共機関の教育に洗脳されて居るでは無いか』
と、映ってならないですね。
@@榛葉貴夫叩くというか戦争は勝つ見込みがあるからするのであって負けたら叩かれるのは当たり前 そもそも戦争は利権争いですからな どんな大層な大義名分を掲げたとて所詮は奪い合い それに今の日本が反戦になるのも仕方ない 防衛費もなけりゃ、人員も少ない ネットでは勇ましいことをいうやつは数あれどなぜか行動に移すやすはいない 自衛隊は今も人員不足 まずはそこからやな😂
本音と建前、匿名掲示板のおまえらと仕事中のおまえらみたいなもんだな。随分と違うだろおまえらも。
今まで通り苦しみに打ち勝ち勉強だ
戦時中(対米開戦前)に撮られた祖父母と外祖父母たちの思春期〜青年期の写真を見ていると、当時の男性で肥満してる人は極めて少ないが、戦時中の女性は現代の女性よりもぽっちゃりしてる。祖父の母や妹、祖母の実家の家政婦さん、外祖母と同級生たち、街や村で偶然写った女性たち、みんな顔が丸々してて腰回りも厚く脚も太い。栄養状態は決して悪くなかったと思います。
大国と戦って何故勝てると思ったのか・・・今だにわからないです。
それだけ敵国であるアメリカを知らな過ぎたんです。
大和魂が根底にあるから勝てると本気で信じて疑わなかったんでしょうね。
真珠湾攻撃を立案、実施した山本五十六連合艦隊司令長官も、日米開戦には猛反対した軍人の1人です。
山本長官はアメリカに滞在していた経験がありアメリカの国力を目の当たりにしていましたからね。
どんなに無謀な戦いだと説いても軍上層部は聞き入れなかったとか。
「部屋の中の象」といって、誰もが分かっていても、困難な話題は見て見ぬふりするものです。当時の首脳だって勝てないと分かってはいましたよ。そんなことは総力戦研究所でとっくに分かっていた。でも、単に抵抗するのが面倒で、希望的観測に縋りたかっただけで。
今でも社会保障財政なんかがそうでしょう。少子高齢化でどうやっても存続できないのに、総裁選でも衆院選でもロクに議題にならない。ホントは年金額減らして高齢者向け医療の自己負担額増やさないといけないのに。
なお総力戦研究所では、「日本に大和魂があっても、アメリカにもアメリカ魂がある。戦争は両国とも必死になるものだから、精神力で決まるものではない」と発言が残っています。意外と冷静だったんですよ。
海軍は不戦を貫いたんだがなw
陸軍がアホやったw
陸軍悪玉論云々は枝葉の話で、根本的な問題は、陸軍と海軍はなぜ対立していたのか、統一的な運用ができなかったのは何故なのか、という点でしょう。どちらかに責任を問うのは不毛だと思います。
当時の人が現代にタイムスリップしたら昔に戻りたいと思うんだろうな。欲だらけで頑張れ頑張るほど叩かれる現代。人間はやはりお腹いっぱい食べない方が楽しいんだろうね。
戦争をやることに是非はあるが始めてしまったらもう勝ちに行くしかないからなあ、始めるかどうかの決定権は一般国民にはない
憲兵隊の一人一人に面突き合わせて発言すると
優しく可愛がって貰えるのかも
しっかり体験してほしい😊
私の知人によると、あの12月8日の朝は特に寒く、ラジオを聞いたときは...とうとうやってしまったと思い、暗然たる気持ちになったとのことですが、12月8日と言えば成道会ですな、よりによってこんな日に真珠湾攻撃をするとは。
親父はミッドウェー海戦で戦死した弟の敵討ちするために潜水艦で敵の米軍駆逐艦を撃沈したと話した。
あの時代にSNSあったらどうなってたんだろうか。
国民の洗脳や情報統制はやり放題の時代だったんだろうけど、それでも違和感持ってる人がそれなりにいた
祖父が父の兄が海軍予科練 その次兄が陸軍幹部候補生になった時、20歳になれば徴兵されるのに…とつぶやいていたと。これが親の本音でしょう。
11月8日は12月8日の間違いですね~
教育は恐ろしい一面を持っていると感じさせる😱
22:09 国民も生活が大変だったと思うが、嫌と言えず
命を懸けて戦った人をここまで言うのもなんだかなあ…。