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fukajirou
Japan
Приєднався 25 лют 2010
関東の中世史の動画。
室町・戦国の二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏に関係した動画。
深谷市内の史跡を半日以内で巡るコースを紹介。
室町・戦国の二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏に関係した動画。
深谷市内の史跡を半日以内で巡るコースを紹介。
『光る君へ』でロバート秋山が演じる 藤原実資
『光る君へ』で秋山竜次さんが演じている藤原実資は、政治や儀式などのしきたりに詳しく、道理を重んじ筋を通す人で、道長の九条流とはライバル関係であった小野宮流を継承した人。
藤原実資の養子となった藤原資平は篠田諒が演じる。
藤原実資の養子となった藤原資平は篠田諒が演じる。
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Відео
『光る君へ』で黒木華が演じる道長の妻・倫子の実家、源雅信と藤原穆子
Переглядів 2 тис.День тому
藤原道長の正室倫子(黒木 華)は源雅信(益岡 徹)と藤原穆子(石野 真子)の子として土御門殿で生まれた。 父・源雅信は宇多天皇の孫、宇多天皇の第8皇子・敦実親王の第3皇子で、17歳の時に臣籍降下して源雅信と称した。 母・藤原穆子は中納言・藤原朝忠の娘、藤原氏の勧修寺流。
始祖鎌足から『光る君へ』の藤原道長までの藤原氏の足跡を追う
Переглядів 26 тис.14 днів тому
藤原氏の始祖は藤原鎌足で、藤原氏は長い間政治の中枢にいた事で多くの記録が残っており、藤原氏全てを網羅すると膨大な量となります。 ここでは藤原鎌足から、現在放映されているNHK大河ドラマ『光る君へ』で登場する藤原道長までの足跡を簡単に追ってみます。
奥州合戦 (その後) 大河兼任の乱
Переглядів 3883 місяці тому
奥州合戦(その後) 大河兼藤の乱では、奥州合戦から半年後、泰衡の家臣であった大河兼 が主人の仇を討と蜂起、その顚末を追う。 治承4年(1180年)に始まった治承・寿永の乱から10年、頼朝の戦がようやく終わる。
奥州合戦(3)阿津賀志山の戦い、奥州藤原氏滅亡
Переглядів 3283 місяці тому
文治5年(1189年)、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすために奥羽へ出兵した、これが『奥州合戦』 治承4年(1180年)に始まった治承・寿永の乱から9年、『奥州合戦』に勝利した頼朝は武士政権を確立した。 奥州合戦(3)では、阿津賀志山の戦い(厚樫山)から鎌倉へ帰還までを追う。
奥州合戦(2)鎌倉軍出発、奥州方の守り、大手軍に見る藤原氏
Переглядів 9384 місяці тому
文治5年(1189年)、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすために奥羽へ出兵した、これが『奥州合戦』。 奥州合戦(2)では、頼朝の大手軍の編成を掘り下げます、その中には藤原氏をルーツとした武士達が多数含まれています。 迎え撃つ奥州藤原氏は阿津賀志山の防塁など各地に防御拠点を構築した。
奥州合戦(1)奥州藤原氏への圧力
Переглядів 6204 місяці тому
文治5年(1189年)、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすために奥羽へ出兵した、これが『奥州合戦』 治承4年(1180年)に始まった治承・寿永の乱から9年、『奥州合戦』に勝利した頼朝は武士政権を確立した。 奥州合戦(1)では、奥州出兵迄の頼朝・朝廷・奥州藤原氏との間の駆け引きを追ってゆく。
義経の逃避行(2)義経を匿う藤原氏のネットワーク、義経の最後
Переглядів 62210 місяців тому
頼朝と対立し、朝敵として追われることになった義経は、平泉へそして衣川の戦いで自害した。
義経の逃避行 (1)
Переглядів 91510 місяців тому
頼朝と対立し、朝敵として追われることになった義経のその後を追ってゆく。 義経は藤原氏ゆかりの談山神社に身を隠し逃亡を続ける。
治承・寿永の乱(15)地盤固め・鎌倉の整備・亀の前・新田氏と足利氏(改訂版)
Переглядів 2,5 тис.2 роки тому
治承・寿永の乱(15)地盤固め・鎌倉の整備・亀の前・新田氏と足利氏(改訂版)
久しぶりに見ました 小野宮の生き残り作戦ですね いい味出していますね
確か、治承寿永の乱シリーズにコメント頂いたと思います。 今回もご視聴いただきましてありがとうございます。
人口の三割亡くなるのは恐ろしい!😅
語りの口調を今少し工夫して欲しいです 余りにも単調で、折角の内容が届いてこないです
ご視聴ありがとうございます。 ナレーションが良くないと度々指摘されてます。 高音気味に発声したりとか抑揚を付けようと努力はしていますがナレーションの才が無いので・・・近年AIナレーションの品位向上が著しいので簡単に使いこなせるアプリの登場に期待してます。
@ さん 頑張ってください
いや、俺はこの抑揚のないナレーションが好きだ、 NHK教育や通信大学的な、 余計なものを省いた、ただ学問に集中出来るような飾り気の無さが良い。
@@S_McQueenさん ありがとうございます、ご意見参考にさせていただきます。
北家隆盛の基礎を作ったのは内麻呂だと思うのですがこの動画でも内麻呂についての言及が有りません。 幼くして父の真楯を失った内麻呂は桓武天皇に取り入り、式家全盛の中で苦労して右大臣にまで登りつめます。その過程の中では真夏、冬嗣の母親である百済永嗣を桓武天皇に差出すという手段を選ばない事まで行っています。やがて桓武天皇から平城天皇そして嵯峨天皇の時代になると、兄の真夏を平城上皇の側近にし弟の冬嗣を嵯峨天皇の側近にしました。 そして薬子の乱で平城上皇が失脚し嵯峨天皇の時代になると冬嗣は蔵人として嵯峨天皇に使えるようになります。蔵人は天皇の側近中の側近のとなる官職でこの事が冬嗣流の藤原氏の発展に繋がって行きます。 個人的には北家隆盛のターニングポイントは藤原内麻呂が作ったと思っています。
北家にとっての内麻呂の重要性が良く解る内容の投稿ありがとうございます、この動画を視聴した方の参考になると思います。 全体を短くしようとはしょってしまい反省しています。
藤原氏の歴史の中で内麻呂は忘れられてる存在でしょう?北家でも房前ー真楯は語られ飛んで冬嗣ー良房になるのが普通です。その間に位置する内麻呂の存在は重要だと思います。ご存知だとは思いますが、冬嗣の兄の真夏の末裔が室町時代に将軍家と婚姻を結んだ日野家ですね。
@@Machan-c2q さん そうですね、おっしゃる通りです。 真夏の末裔が日野家とは知りませんでした、このネタ何かの折に使わせていただきます。
鎌足の死後に、まだ少年の不比等に代わって中臣一族の代表格となった中臣金が右大臣まで出世しますが、壬申の乱に敗れて処刑。不比等への賞罰は壬申の乱で何もありませんでしたが、巻き込まれて失脚していたら、以後の藤原氏の栄華はなく、日本史は大きく変わっていました。
壬申の乱はよく調べてはいないのですが、若かったのでそれが幸いしたという事でしょうか、偶然というか運命ですかね。
こういうの(家系図)を探していました。素晴らしいですね! 「中世以前の関東」も視ました。これも力作! 鎌倉時代(頼朝没後)の北条氏やその周辺(武家、天皇家、足利氏、新田氏)、更には鎌倉末期(北条高時、足利尊氏、南北朝)や、室町時代(足利家とその周辺の武家、天皇家)で、このようなのがあったら是非みたいと思いました。
ありがとうございます。 調査や作図そしてビデオ編集に時間が掛かります(気合を入れて集中して作業しない)ので、多分忘れた頃に次のシリーズが完成となります、その時にはご視聴お願いいたします。
こんにちは。
ここにもいた
@@KokonTouzai-Rekisi-Channel ここにもいたKokonTouzai-Rekisi-Channel5 時間前 ここにもいる。
とても分かりやすく面白い。
ご視聴ありがとうございます
よくし調査されましたね
ありがとうございます
退屈。
そうですね、トピックスが無く単調になってしまいました ご指摘ありがとうございます
嫌なら見るなといいたい、 これ程事細かく図柄でも解説してくれるチャンネルは貴重だ、これを退屈と言うのは、 「僕は無知です」と言うのと同等の行為だぞ? 恥ずべきコメントを残すな、 君はゆっくり動画でも見てろ
五十子陣と合わせて行きたいです。
建礼門院❤
鎌倉時代の建築様式の問題で書院建築と書いてしまった件について
治承、寿永からここまで完走しました たいへん詳しく学びになりました、ありがとうございます 関東室町も見始めようと思います
長時間のご視聴ありがとうございます これからも宜しくお願いいたします
加賀美遠光は小笠原氏と南部氏の祖になりますね。遠光の次男長清が小笠原氏になり、三男光行が南部氏の祖になります。奥州征伐で武功を挙げたことにより八戸の地を与えられ、後に一族が入部したことが八戸南部氏の始まりとされています
南部氏に付いてウィキペディアを覗いてみましたが随分と丁寧に書かれており驚きです。奥州合戦で武功を挙げ土着した南部氏は成功した例ではないかと思います。
@@fukajirou ですが南部氏の糠部郡(現八戸周辺)入部の時期には諸説あり、上記の奥州征伐後説と建武期の南北朝動乱時に南朝方の南部師行の頃に入部したという説の2つがあります。
青森県の浅虫には善知鳥峠に古戦場の石碑があります。それにそのすぐ近くには蝦夷館という小規模の城郭跡があります。
検索しましたら善知鳥トンネル入り口に古戦場の石碑がありました(40度53分1.60秒 140度51分3.41秒)。大河兼任は善知鳥崎の上の蝦夷館辺りに籠城したのではないでしょうか? 具体的な場所が判りました、ありがとうございます。
小山党と上総・千葉・三浦・大場の坂東平氏は義朝からの流れで頼朝に従ってるのかな? 足利は、義康と義朝の関係で従うのは理解できる。 新田は、しょうがないね^^;時流読めないのはここからなのかな・・・ 頼朝と御家人の関係は、興味が付かないですね
全く同感です! ご視聴ありがとうございます
わかりやすい! この時代の東国武士の根拠地などが直観的に理解できる!!
今回もご視聴いただき、ありがとうございます
唐突な立体的家系図が面白すぎる
ありがとうございます
間違いの歴史では⁇義経も゙妻子も゙平泉を脱出して蝦夷までは来ています
ご視聴ありがとうございます 各地の伝承を拾い集め整理すれば異なる物語になるやも知れませんね
今でも中村氏という末裔がおられるそうです
おっしゃる通りです
義経の正室郷御前の実家河越重頼のも全滅したわけでなく今も血脈は残っていてどなたか分からないが会った方がおられるみたいですそういえばどこかの社長さんで河越さんとかおっしゃる方がおられましたね@@fukajirou
そうですね郷御前の父・重頼と兄は頼朝に誅殺されましたが、弟達は河越氏として続いていますね
とても分かりやすい動画ですね。 ありがとうございます。
ご視聴いただきましてありがとうございます。
わざわざ返信を頂き、ありがとうございます。fukajirouさんの作られた関東関係系図は本当に素晴らしいです。@@fukajirou
系図を評価して頂いた事が励みになります。
@@fukajirou 本当に綿密な作業だと思います。平安時代の関東は分からない事ばかりですもんね。
源義經確實是個好孩子...
はぇ~
こういう伝承って好きだわ
ありがとうございます
大変興味深いです。ありがとうございます。個人的には、中野長者(新宿十二社熊野)となる鈴木九郎の祖先が鈴木三郎とのことで、実は大宮八幡(頼義)に鈴木三郎、阿佐ヶ谷(今は中野坂上に移転)宝仙寺(義家)に義経が潜んでいた(奥州で死んだコトにして争いを防いだ)らと妄想したりもしてて、なんとかソレらしい話は出ないかと期待したりw 大宮八幡を支配していた中野殿は、坂東武士を連れて熊野詣をしたりしてたらしいのですが、あさかや氏が旦那で中野殿が先達というコトらしいのです。ずっと、穂積鈴木が大宮八幡からの源氏の縦の道を守ってたのかなと。雑色をやってたのは多田源氏らしいのですが。中野殿は、後に太田道灌に場所を譲り鬼門の中野に移ったという説もあり、ソレと宝仙寺の移転も符合します。あさかや氏はカリスマ性が有り、中野への移転を人々が悲しみ、今は世尊院として、鎌倉道で中野・宝仙寺と繋がっています。あと、宝仙寺は、鎌倉幕府成立の頃に秘仏化もされています。また、今も中野・宝仙寺をすぐ南の成願寺(鈴木九郎)が見守る位置関係に有ります。あと、有名な妙法寺も元は宝仙寺と同じ真言の尼寺らしく、阿佐ヶ谷では水路で繋がってたのかなと思わせる歩道が残っています。静御前が?とw
ご視聴・コメントありがとうございます。 鈴木三郎(重家)は衣川の戦いで義経と共に自害して果てましたが、その一族の子孫が室町時代に東京中野に移住し神社や寺を建立し、それらが現在も残っていると云う事で、身近に感じます。 登場人物を深く掘り下げてゆくと、色々な物語・人々のネットワークが際限なく広がっていきワクワクします。
斬新な系図+年表ですね
ご視聴いただきありがとうございます。 その人が生きた時代・関わりのある人との関係がより鮮明となるよう、時間軸に沿って並べた系図を作りました。 動画編集の過程で、系図にその人達が生きた時代に起こった事象を年表という思いは無く追記しました、おっしゃる通り系図+年表として見ることができます、目からうろこです。コメントありがとうございました。
素晴らしい動画ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます。
需要ないからやめな
その家系図はどこで見れますか?
ご視聴ありがとうございます。 お問い合わせの件、深次郎のホームページで関連する系図を公開しています。系図をダウンロードすると見やすいと思います。 fuajirouのUA-camチャンネルに深次郎のホームページへのリンクが有りますし、 「深次郎」で検索しても見つかると思います。
@@fukajirou ありがとうございます
知性を感じます。 なかなか合戦はねー ビジュアル的に表現が難しいところですがうまくまとまってますねー 全合戦やってください よろしくお願いいたします‼️
ありがとうございます。 少しずつ進めていきます。 合戦については、夫々の動きを時系列に沿って地図上に配置し私なりに推定しておりますので、エ~~本当?!、と思われる点が有ろうかと思いますが、多数の解釈の中の一つと捉えて頂ければと思います。
三増峠、勢場画⚡︎原♡k
熊谷は「くまがい」と読みます。
ご指摘ありがとうございます。 熊谷直実は「くまがい」と覚えていたのですが・・ 当時の地名も「くまがい」と読むのが正しいですよね ありがとうございます。
地名の熊谷が「くまがい」から「くまがや」になったのは、つい数十年前のことです。高齢者の一部はいまでも熊谷を「くまがい」と呼びます。
そうですか、勉強不足でした。ご教授ありがとうございます。
やっぱりホントカオスすぎる
そうですねー。 視聴いただきありがとうございます。
見易い
京の応仁の乱より早く始まった関東の戦国時代、豊沃な関東平野で麻の如く乱れた各勢力の争いをわかりやすく解説いただきありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます。 掘り下げてゆくと複雑な世界が更に広がるのではと思います。
分かりやすい!
ありがとうございます。
素晴らしい資料分析です。 特に1177年の平清盛の東国視察のために松田郷に松田御亭を建設していたのを侍所云々は驚きました。 坂東武士たちにとってこの一連の戦いに一族の浮沈を懸命に戦う姿が、資料上に思い浮かぶのですが、平清盛と源頼朝の後世の両巨頭の存在のせめぎ合う状況下になったのは、清盛が東国を呑み込む段階に来ていたからだ👀と感じました。
ご視聴ありがとうございます。 平家は国司などを置いて坂東を支配していたが、坂東武士達夫々の思惑も入り乱れややもすれば不安定となる坂東。 清盛自らが出張って主従関係を確実な物とするための儀礼を行おうと計画したのではと思います。
@@fukajirou ご返信ありがとうございます。 おっしゃる通りに思います。 ちょうど政変と遷都を起こした時期が飢饉に当たってしまい、失敗しましたが、既に全国的な武家政権が実現する寸前にいたのは、さすが先見性が高いですね。
最後の地図見て次は奥州藤原か〜と思ってしまった
最後までご視聴いただきまして、ありがとうございました。 垂下指となり、指の動きが悪くなり返信ができませんでした。奥州藤原へと行きたい所ですが、しばらくは指と腕のリハビリとなります。
@@fukajirou 大丈夫ですか。お体御自愛なさってください。痛むと思いますのでご返信は不要です。
堅実に地均しをする範頼、後白河の命すら無視して戦を院(や頼朝?)の手の平の常識から逸脱させる義経、この両輪の妙。あの時代に、ここまで戦場が拡がっていて、どうやってタイミングを合わせていたのか?お互いの思惑を疑ったり、信じたり。義経の浮いたアート的な選択に、秀衡との密約が有ったのだとしたら、奥州藤原も凄いプレーヤーだなぁ
義経の慣習に囚われない型破りな行動が勝因でははと思います、秀衡と義経に何らかの密約が有った結果とすれば、秀衡凄い!ですね。 ご視聴ありがとうございました。
シリーズ完了ありがとうございます&お疲れ様でした どのくらい資料を読みこんだのかと驚嘆するばかりです また改めて最初から見直したいと思える作品です 知らないことが沢山あり、また、後の世に繋がっていく血縁が興味深い 平家都落ちから壇ノ浦に至るまでの疑問が氷解していく最終章でした
関東の中世史というカテゴリーなので、関東以外の出来事はさらっと流して10話程で終わらせる計画でしたが、動画制作を進める中で色々なヶ所で時間軸/地理(配置)/人物などの関係に疑問が生じて、のめり込んでしまい23話と長くなり、作業開始から2年以上掛かってしまいました。 最後までご視聴いただきまして、ありがとうございました。
教科書だと数行で終わってしまうが、細かく見ると、多くの合戦と駆け引き、そして人命が失われた。鎮魂のために平家物語が吟じられたのもよくわかる平家の落ちぶれ方がよくわかる。まさしく諸行無常を感じられる動画でした!
平家があっけなく敗れてしまい驚きです。栄華を誇り、幼子まで命を奪われ滅亡した平家への哀れみかから平家物語が生まれたのではと想像します。 ご視聴ありがとうございました。
続きがずっと気になってました 投稿ありがとうございます 地縁、血縁に思惑が絡み合った動きに加え、マップ表示で誰が何処で誰と対峙していたかが一目で分かって、ドラマの単純な合戦シーンだけでは解らない複雑さを知ることができ、感謝です
ご視聴ありがとうございます。 動画制作の目指す所を評価いただきましてありがとうございます。
複雑で多様な人物模様を根気強く表現された、労作だと思います。
評価いただきまして、ありがとうございます。
ドラマチック過ぎる。しかし、各勢力は数百規模で、地元の誰が加勢するかも大きく影響してたんですね。無数の小さなドラマの積み重ね
そうですよね、各地の武士達も一族の生残りを賭け情勢を見極め行動していたのではと思います。
訂正;結城氏は治承・寿永の乱前には存在していなかった。 小山政光の庶子・朝光が頼朝から結城を貰い結城朝光となる。従って治承・寿永の乱前には結城氏は存在していなかった。
上杉がイキったのが悪い
今も 子どもたちの手作りの灯籠を飾っているのですか?
ご無沙汰しているので??です。行事は長く続くのではと思います。
素晴らしい動画ですね
ご視聴いただきまして、ありがとぅございます。
今までの回を一気見してしまいました! 系譜・地理をここまで分かりやすく可視化した解説は今までなかったので、 とても楽しませて頂いてます。
系譜・地理を柱に制作しました、評価して頂きありがとうございます。
古利根川→〇 ふるとねがわ、✕ ことねがわ ,です。