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昔地下鉄サリン事件があった際に東海道新幹線沿線の病院から薬をかき集めて新幹線に載せて東京へ輸送したことがあったらしい
テレビニュースの仕事をしていたころ、支局が取材したニュース用ビデオテープをJRの特急列車で本社まで運んでいました。今は電波回線やインターネットプロトコル(IP)回線で送ります。
今でも大量のデータ送る場合は通信回線使うより、新幹線にて記憶媒体ごと運んだ方が早いことがあるそうです
昭和のころ、約100キロ離れた実家から正月に「オモチを送った!」と電話連絡が来た。そしてその3週間後、国鉄の小荷物取扱駅から「荷物を取りに来い!」という連絡が来たので、自宅から約10キロ離れたその駅に荷物を取りに行ったら、オモチはカビだらけになっていた。鉄道輸送もトラック輸送も極端に行きすぎるとその弊害が出る。
3週間もかかったんですか!?そんなんじゃナマモノなんて送れないですね
@@yomogi_HYP さん当時はこれが普通でした。2~3週間はかかるのが普通。距離が遠かったり、師走、正月などの時はもっとかかる場合もあった。2~3日で着く宅急便がでてきたときには度肝を抜かれた。
@@権三郎平衛 当時の郵便小包も翌日に着くところなどほとんど無かった。
子どもの頃(中学生くらいだったかな)荷物引き取りのハガキが来た。親に取りに行くように言われて、《私鉄と国鉄を乗り継いで》取りに行った。駅員の態度が「悪い」を通り越して「怖かった」のを憶えています。
@@hustlersuzuki7094 さん連中は、「役人」だったですからね。いつも上から目線でしたね。鉄道車両の記号に「ヤ」の記号(事業用車の意味)がありますが、これは「役人」の「ヤ」です。その名残が今も使われています。
たしかに40年ほど前に、「国鉄那覇港貨物駅」がありました。本土から送った荷物を引き取りに行ったことがありました。
不便とはいえ安くて速いのに黒猫に負けたんか……後半がクロネコの歴史の解説になってるのも丁寧で高評価
宅急便ほか宅配便と比較したら「遅くて高い」だったと思われ
国営企業の独占事業でお察し
@@syuzredsyuzred8507 郵便小包はなんとかゆうぱっくへ変革して生き残ったから対照的でもある
安いから利益が出ない速くても受付時間が限られていたら意味がない
預けて受け取る人件費の方が遥かに大きいからな、船でも合鑑って制度があって、乗船時に荷物を預けて(引越し荷物でも可)下船時に受け取るって制度があるから似た様な物だが、量がまるで違うからなー。
北陸の学校に進学して一人暮らしするために、衣類や布団を小荷物で送ったなぁ。現地の駅で引き取って、下宿までどうやって持って行くか思案に暮れたのも懐かしい思い出。もう四十年も前の話です。
私の父も同じ事言ってました。
駅近傍に日通の営業所あってそこ頼んでましたね
持ったり担いだりするには重かったり、1人手に負えない大きな荷物、また荒天や昼間対応不可な平日となると、もうお手上げでした。到着もさることながら、引き取り持ち帰るまでの日数が読めないので、生ものや急ぎの物を送るのは事実上不可能でした。故に地元の商店で、定価でも物が売れる、という側面もあったのですね。今は近所のスーパーと変わらぬ値段で、酒や米や段ボール入りの生鮮食材が宅配されます。逆に言うと、地元の商店の衰退というのは、この宅配の発展も大きいんですね。
6:00 だから駅のすぐ近くに日通の営業所があったんだ。マジで目から鱗だわ。
もともと通運というのは、荷主さんから発駅まで、その先、着駅から荷受人までという、いわゆる小運送を担う会社のことですからね。
鉄道小荷物に関して、自身の母親が若かりし頃に三重県で働いていた時(昭和40年代末頃)に実家の福岡(かなり田舎の方)へ使った事があり、動画中にあった小荷物の送り方に受け取り側に通知書が届いた後に駅へ取りに行かなければならないという点がありましたが、駅によっては日通があるところではエリア内であれば、送り先へ運んでくれたそうで、使用した際、荷物を降ろす駅を本来の最寄り駅ではなく、日通があるひとつ先の駅までにしていたそうです。
駅受取と配達があり、後者のほうが追加料金がかかるって制度だったと思います
東京鉄道荷物をルーツに持つJR子会社に23年間勤務しておりました、扱っていたのは新聞です。新聞の衰退で退職し、現在は産業用運搬車両教習場の教官をしております。
東日本物流ですかね鉄道荷物会社も小荷物廃止、分割民営化に際して悶着があったようですね新聞だとやはりターレなど運転されてたのでしょうか
@@yomogi_HYP リーチ式フォークリフトに乗っていました。ニチユのプラッターですねそのプラッターですが、プラットホームから貨物列車の荷扱いをするためにニチユと日通が共同開発したと聞きました(間違っていたらゴメンナサイ)リーチ式フォークリフトは各社から出てますがニチユがオリジナルだと思います。
函館本線の夜行旧型客車列車は、隅田川貨物駅から運ばれてきたマニと函館のスハフ44を連結して走ってた。スハフよりマニの方が両数多い。首都圏の荷物を北海道内輸送のため、荷物列車に少数の客車がぶら下がってた運用だった。
昔の映像「ある機関助士」にも上野駅で「いっせきー(一関) よねざわーと言って小荷物放り投げてるシーンがありますね。
安岡章太郎の小説で昔の国鉄職員がきっぷ販売でいかに無愛想でぶっきらぼうで陰湿かを事細かに描いてたの思い出しました
何度も何度も見てしまう中毒性があります。ありがとうございます。いずれ、臨海鉄道を題材に取り上げていただければな、とおもいました。日の目を見ることの少ない貨物を、興味深くウイットに富んだ構成で、いま一番お気に入りです。センスもナイス。
相変わらず面白いですね ボーっと視聴してしまう味わいヤマト運輸のロックな対応に草
杉並区の松庵が実家です子供の頃は今みたいな宅急便やコンビニなんかもなく荷物を送る時は荻窪と西荻窪の中間地点の高架線の下にあった「荻窪小荷物取扱所」に自転車でよく行ったなぁ善福寺川の脇にあったから行きも帰りも坂道でチャリはきつかった思い出
松庵ですか!!高級住宅地ですね。
お蕎麦屋さんのそばの高架下ですね。1988年ごろまでは看板がありました。
@@ogikubo15 え!あの場所ご存じなんですか?本むら庵っていう有名なおそば屋さんの本店があります!小荷物扱い所があった場所は今はオシャレな雑貨屋さんと佐川急便の営業所になってますすぐそばにある「日本標準」っていう会社のビルも昭和感満載で好きです
@@takana4381 そんなに高級住宅街でもないですよ最近はちょっとオシャレな賃貸アパートやコインパークばかりになってきました西荻の街歩きがちょっとしたブームになって小さな個性的なお店も増えてます
@@miharu3748 小荷物取扱所のあった場所のことは作家の井伏鱒二氏が『荻窪風土記』に「善福寺川のガード際の洗い場へ鮠釣に行った。現在、中央線のガード下に荻窪駅管轄の小荷物扱所が出来ている場所である。」と書いてますね。太宰治と一緒に釣りに来てたみたいです。
なんやこの詳細でわかりやすい解説は
宅配便も最近はなんだか行き詰ってるんでたまには思い出されてはいますが、手荷物小荷物って不思議なぐらい忘れられてますよね。タイムトリップ先頃に親に連れられて国電の駅に預けにいったり自動車駅に受取りにいったり してたんで覚えてるんですが、同世代でも話が通じなかったりします。
冒頭のはこビュンはあまり知られていないですね。仙台支社管轄のあるお客さんのところでルーター故障が発生。すぐに用意できる代替機が本社にしかなく、ヤマトの集荷も終わっている時間。途方に暮れていると言うのを聞いたので、前述の「はこビュン」の事を教えて東京発やまびこ221号で発送。翌日朝から通常稼働出来たので、社内はもとより先方のお客さんにまで感謝された。
バイク便各社が、ドアツードアの急送サービスを提供しているよ。遠隔地だと、新幹線や航空機にスタッフが乗っていく。運賃よりも速度の法人向けサービス。個人も使えるが。
@@TinySnowFairySugar 最初はハンドキャリー便を考えていたそうです。担当者へ話した時、その料金の安さ(2000円ちょっと)に信じられないといった顔をしていました。
問題は鉄道の方が道路より災害に弱く復旧するまでに時間がかかるという事かな。
次回は「鉄道郵便」の解説をお願いします。
次回はその予定です!
新幹線のやつは、国鉄時代から「ひかりレールゴーサービス」やってましたね。まあ歴史は繰り返すわけですな。
入場券で車内に入って網棚に荷物を乗せて、送り先の連絡を受けた相手が下ろすとかの手口もあったそうですな。
@@クモハ165 それで思いついたのが、ひかりレールゴーサービスだったとか。らいちょうレールゴーサービスもありましたが、大阪駅の受付場所が物凄い辺鄙な場所にありました。
@@クモハ165 グリーン個室におクスリだけ置いて下車→ 無人だったので車掌に施錠されてしまい、受け取り役が個室に入れず受け取り失敗→ 事件発覚なんてのがありましたw
@@クモハ165 おクスリと言えば地下鉄サリン事件の時に、農薬事故の治療で使う解毒剤を新幹線の各駅で積み込んで東京にかき集めた事がありました農薬メーカーが、リン系の農薬で稀に起こる事故対策として持っていた在庫を放出したそうで…
@@47th-sol64さん「PAM」とか「アトロピン」ですね。
ヤマト運輸は、黒船をしたのだねぇ🙄🤔
こんにちは。まだあまり本数ないですけど、おっさんの目から見ても解説が的確すぎます。どこで勉強されたのですか?今後の動画も期待しております。
ありがとうございます国鉄時代を一切経験していないので書籍や当時を知る人から情報を集めています…
鉄道チッキ持っていって、海外船乗りだった親父の大荷物を取りに行ったのも懐かしい思い出
解りやすい解説で良かった。郵便車編を楽しみにしてます!
鉄道お荷物、解かり易い動画をありがとうございました。
末期の荷物列車は機関車がEF58→碓氷峠から降りたEF62使ってたから高速走行に耐えられなくてよくぶっ壊れていたと旧横川運輸区の中の人から聞いた事がある。まだEF65PF末期車が新車でブルトレ引いてた時代。次は鉄道郵便ですね♪(現在でもJRコンテナで広告郵便やしま〇ろうが主に使用。あと関東対北海道向けも普通郵便もJR貨物じゃなかったかな。)
機関車の老朽化&電暖化が要因だけど、やはりEF62だと無理があったのですね。まあ、程なくして廃止になりましたから、あれこれ改造転用しなくて正解でした。
何で駅に量り置いてあんねや思てたけど、そないなことになってたんや。勉強になりました。ありがとうございました。
東海道新幹線でも西濃がカンガルー超特急便昔やってましたね。覆面レスラーの「マル チョ〜!」のCMは好きだった
JR東海/西日本とJR東日本が「レールゴー」として以前直営していた。企業間では結構使われていた。直営では儲からないのかJR東海は止めた⇒実質、西濃が引き継いだ⇒西濃も止めた東も直営だったが止めた⇒子会社に移管
国鉄だけじゃなく私鉄にもありましたね。たとえば私の最寄りの東武東上線なんかでも、駅に荷物ホームがあり、駅前に日通の営業所があり、単行の赤い荷物電車が走っていました。
ヤマトも1990年代半ばくらいまでは、年末になるとキャパオーバーで12月30日には受付停止になった事もあったんだけどね
当時は年末年始は引受・配達をそもそもしていなかったはず。
@@jjjj6075かつてコミケ御用達だったフットワークは正月は休業していた(会場受付分は正月休み明け配達だったのか?)。郵便局だけは(年賀郵便があるから)現場は大晦日も元日もフル稼働していたから、冬コミで当時の晴海会場からの帰途に銀座郵便局から速達小包で戦利品を送り、自分は新幹線で帰阪したことがある。荷物は元日に配達された。
小学生の頃、キハ35の先頭車両の先頭部分一部を幕で区切ってましたね幕には荷物と、記載されてました全面展望が見えず悔しい思いをしたのを覚えてます
初めて視聴しました、動画編集作成and投稿お疲れ様でした🙏編集と演出にすごく力入ってて、1本作成するのにめちゃくちゃ大変だったと思います💦(語録遣いで)わかりやすくて楽しくてタメになる鉄道歴史解説でした!国鉄はその膨大な赤字と巨大組織ゆえの硬直さが問題だったとよく言われますが、前提が誰もが平等に使える公共サービスですし、何千億円の赤字も、企業としての赤字と見るか、サービスの維持管理費と見るかで違ってきますよね…とはいえ、サービスの維持管理が困難になった結果解体されたわけなので、本末転倒だったわけですね😅あと、俺たちはサービスを提供してやってんだぞ(むしろ利用客に不利益が発生)って意識があった限り、見限られるのも時間の問題でしたね…
大変勉強になりました。硬い話しは他のコメントにお任せして、単純にマニアとしての感想では、一両毎に窓や扉の配置の異なった個性的な客車を十両程も連ねて、スマートなEF58の牽引する急行荷物列車が、特急列車よりも魅力的でしたね。残念ながら消滅してしまった今、模型で楽しんでます。
沖縄に国鉄駅があったことを初めて知りました。勉強になりました!
昔はやたら距離の長い普通鈍行列車があったのは結構この荷物の輸送のためだったりします
夜行の急行にも最後尾に荷物車が連結してあって、新聞とかを深夜~早朝に各駅で下ろしていくと。(・ε・` )
@@クモハ165かつての東京〜大阪の寝台急行「銀河」は名古屋での旅客乗降はできなかったが、荷物の発着は扱っていた模様。太閤口の北側にあった荷物窓口に銀河の発着時刻が掲示されていたように思う。
昔、東海道線等で走っていた頃は夏場、冷房がなかったので大変だった様です。どうしても我慢できない時は郵便車には冷房がついていたのでお邪魔させてもらってたそうです。
予算のある郵政省の郵便車とそうでない荷物車の格差ですね
4:59 懐かしい。時刻表のピンクのページにありましたね。
小さい頃に父親が『チッキで送るわ』と荷物を出してソレが届いたのを覚えてますでも、どのような経路を通ったのかはさっぱりわからんかった
某赤字ローカル線で鉄道を残す方法として、「貨客列車の運行」「荷物は駅での取り扱い。集荷と配達は別料金」を提案したら、「そんなの面倒臭い」「だったら役場の軽トラで受け取りに行って、職員が配れば良い」とかの意見が出たから、「ほらみなさん!今「鉄道なんかいらない」「車と道路が便利」って言いましたよね!廃止ですよ、廃止!お互いが合意しました!録音もしましたよ!」ってのが、最近のお話。
一時期、カンガルーの会社が東京~大阪間に限り、のぞみ超速便ってのをやっていた記憶がある。
懐かしいな、田舎の親戚の家から「駅に行って荷物を送る」ってのを小さい頃見たのを思い出しましたわww都心部とか大都市部圏内なら輸送はあったけど地方間に大都市間や郵便物では届けられない程の荷物は鉄道荷物で送っていたんよね荷物札としっかりした縄で縛っていて荷にマジックで更に書き込みされていたのを憶えています
その昔、秋葉原で重量物を購入し鉄道小荷物を使ったんですが、隅田川駅から荷が届いたから引き取るようハガキが自宅に届くまで三日…。ハガキを持って駅まで自転車で往復するなど、初めから秋葉原まで自転車で買いに行けば良かった…なんて事になってました。これじゃ宅急便に負けますよね…。
わかりやすいしめちゃくちゃ面白いです!今後も楽しみにしてます
ありがとうございます!
>鉄道小荷物。昔見た、『ハチ公物語』の冒頭場面を思い出した。上野博士が、秋田県のブリーダーから生後間もない秋田犬を買う。その子犬の発送方法が鉄道小荷物だった。
今もそうなのかは知りませんが、昔は鉄道の客車・バスなど公共交通にペットの持ち込みは原則禁止で、唯一の移動手段が鉄道の小荷物扱いだったのですよね(盲導犬は例外でしたか?それでも結構悶着もあったような?)。昔の児童漫画でバスや列車にペットの犬や猫を持ち込んで降ろされてしまうシーンは定番でした。
茶番の構成?が良かったので高評価します。
まぁ、この頃は『クロネコメール便』ってのもなかったですからね。ヤマト運輸は、そういうことでも、ある意味すごいですよね。しかし、茜ちゃん死亡フラグ確定ですねw。ただ、宇都宮ぐらいだと、20年前まで普通電車の最後尾が、新聞輸送をしていたんですよね…。
かって国鉄の夜行急行特に客車列車には必ず荷物車が連結されて翌朝配達の朝刊が積荷の常連だった
都会でベストなのはコンビニ受け取りラスト1マイルは取りに来いだとどんだけ効率上がるかよ受領もハンコやサインではなくスマホでやれたら完成よやたら宅配にこだわってるけども、昼は家に誰もいないし無駄よ
確かに。一応時間帯の指定はあるとはいえ、何時来るか分からないのを待つのは結構しんどいですから、置き配にしてもらうか、コンビニ受け取りにするか、そうでなけりゃ仕事先まで来てくれたほうが楽なのですよね。
本当にそうなったらコンビニの業務がパンクする場所にもよるが
@@user-m1kep0e とはいうものの手数料掛かってもコンビニ受け取りが一番便利なのよね
まあまだ普及段階ですがコンビニや駅併設のロッカー受け取り所が増えてるので…特にJR東日本は独自にやり始めたますし
「自宅配達」限定で困ったことがある。某格安携帯電話会社のSIMカード受取。宅配業者の不在連絡票が投函されていたので最寄駅の宅配ボックスを指定して配達依頼をしたが「転送不可」との連絡があった。宅配業者に問い合わせると「送り主が転送不可の指定をしているから送り主側と相談してください」とのこと。携帯電話会社に連絡(おそらくは電話受付は業務受託のコールセンター業者)すると「パンフレット記載のとおり自宅宛に発送することになっている」との回答。「そちらとの合意は自宅あての『発送』までで『受領』方法までは合意していない」と主張したがラチがあかず「受領しないと顧客都合解約で違約金がかかる」とまで言われた。本人確認のために確認書類の画像データを携帯電話会社に提供してあったのだが。結局、宅配業者と再配達日時を分単位で協議して自宅玄関先で荷物を受領した。
高校時代、国鉄でバイトしてたから懐かしいわー
少し前に普通の通勤電車に荷物が乗っていたのでこの時代に鉄道荷物?と気になっていました。スッキリしましたありがとうございます。
そういえば、郵便小包も宅配便に敗れ去ったのを覚えていますね。鉄道小荷物が今でもあったら宅配便と競合していたに違いありませんね。
そのうちクロネコが地方でJRに委託して通常の電車増結して荷物列車復活させそう
終わりの方にでてきた嵐電の宅急便輸送は一般の営業列車に荷物専用車を連結した2両編成で運行しているので前例は既にありますねコロナ禍で輸送力過剰になった路線なら1両くらい貸し切っても良さそうなので拡大するといいですね
鉄道小荷物は駅⇔駅🚉宅配便はドア🚪toドア🚪鉄道の弱点「小回りがきかない」が衰退への致命打だと思うな^^;
昔の駅には一杯日通の人いたな〜
古い駅にはホームの片隅に日通の倉庫が有りましたね。
この動画もう一回見たくていろいろ検索してやっと辿り着けたー!
吊掛のクモユニ74が東海道線の113系を従えて爆走していたのは壮観でしたね。
一番前にくっついてましたねでっかい目玉の四角い箱形だからなんかすきでした
八高線の箱根ヶ崎駅でも、私が幼稚園に入る前くらいまでは鉄道小荷物を扱っていました。荷物用の受付窓口があり、秤が置いてありました。親の実家から送られてきた米や農産品を、母と一緒に駅まで取りに行った記憶が薄っすらあります。確かに送り先が箱にも直接書かれていました。当時の八高線には荷物車の連結がされていなかったので、旅客車内の一部を仕切って荷物を積んでいたと思われます。余談ですが、当時はホームでタブレット交換もしていました。それからほどなくして、荷物は宅急便で直接家に送られてくるようになりました。
昔、私も通信販売で駅留めなので、受取りに最寄りの駅まで荷物を取りにいったことがあります。
こう見るとクモハユニとかクモハニとかの貨客混在車両は確実性を重視するための本当に良い施策だったのがよく分かる個人的にはMOTOトレインなんて今の世で是非とも復活させてほしい列車、ある意味唯一無二な鉄道でしか出来ない列車なんだけどなぁ
カートレインは車の積み込みに難があったけどMOTOトレインは実用的だったと思いますがJR各社のやる気が無さそうですね。
フェリーの方が食事もできるし、タダで風呂にも入れますし、バイクは手荷物扱いなのでクルマよりも割安なんですよね。(・ε・` )
長期休暇の時に新しく「家族」になった「シャム猫」を手廻り小荷物扱いで預けようと窓口に行ったが,麻酔が中途半端に効いていて暴れてしまい,受け取りを拒否されてしまい、持ち込み品として「雷鳥」と「みずほ」に乗せて行ったことがありました。流石に「みずほ」の寝台内には「ネコ」は持ち込め無かったので車端の更衣室に預けて一晩過ごしました。昔の方が融通が効いたような気がします🎵
JR西日本小野田線運用のクモハ123は荷物電車クモニ143を国鉄末期の荷物輸送終了後旅客電車に魔改造されました。
素人ですが大変解り易い内容でした。最近は地方でも駅前の再開発が進んでなくなりつつありますが、それなりに大きい駅前には日通の倉庫があったものですが、この事業があったからだったのですね?
いい動画でした。昔は 荷造り方法が悪いと怒られたりハガキで到着通知がきたり
最後は千葉方面へ新聞夕刊輸送してましたね。名鉄名古屋駅はまだ新聞輸送してたかなぁ。
むかしは多くの駅に手小荷物受付窓口がありましたね。荷物の受け渡しがしやすい低い位置にカウンターがあって、切符売り場よりも間口の大きい駅もありました。
子供の頃に祖母に手を引かれて、駅まで荷物を取りに行きましたね。懐かしいです
鉄道省と逓信省が融合して、鉄道駅で受け付けた小荷物をゆうパックとして郵便局員が各戸まで配達する体制にしてれば化けてただろうなあ。
レールゴーサービスは最近までやってたんですよね。東京の倉庫から交換部品を大阪で当日中に受け取れるので全職では重宝してました。駅受け取りしなければいけないのがネックでしたが。
幼稚園児のころ、祖母に連れられて国鉄の駅まで荷物を受け取りに行った記憶がありますねたぶん荷物持ちとして小さいのを一個持たされてたんでしょうけど
昔出稼ぎに行ってた父親が良く利用してた記憶が…そういえば、ドクタースランプの単行本のおまけページに、鳥山明先生が新幹線で名古屋から原稿送ってたエピソード描いてましたね。
23:18 民営化初期の90年代前半頃には、特急日本海に併結されてバイク輸送に使われていたケースもあったはずなので、JR西に承継されたのもあったようですね(記憶違いやったら御免)
【モトトレイン】と【モトとレール】ですな。ガソリンを一旦抜かなくてはならないのが手間だったようですな。カートレインも何台も積めないので効率が悪そうでした。
4:19 紐で縛るのは、郵便小包も同じだった。紐で縛らないと受託してくれない。なぜかといえば、荷札をくくりつけるのもあるし、スタッフが手鉤をもっていて、それを引っかけるため。手鉤を紐に引っ掛けて、引っ張る・投げる。箱が傷もうが、中身が壊れようが知ったこと無し。6:10 そんな優しい口調では無い。死んだ自分の父親が怒ってた。昭和30年代頃なんて国鉄駅員が偉そうに「こんなんじゃ送れん、やり直せ!」とか言って突き返す。ヤマトが宅急便を始めたら、鉄道小荷物も郵便小包も二度と使わなくなったな。郵便小包は今と違って大きさや重量の制限がもっと小さく、大きな荷物は鉄道小荷物を使うしか無かった。日本通運とかは法人相手だからな。ヤマトが風穴を空けたら、鉄道小荷物は死亡・郵便小包はゆうパックになって相当改善した。以前、自分はJR貨物の総合職をしてたが鉄道会社伝統の現場勤務の貨物駅で働いたら、廃墟の鉄道小荷物コーナーが残存していた。で、貨物駅の国鉄時代からのヲッサンは、到底客商売が出来ない人たち。ほんとは性格が良い人も多いんだけどね。横浜羽沢に、がらんどうの鉄道小荷物用プラットフォームが残ってたりもしたな。恥ずかしい負の遺産
田舎ではまだこっそり生きてるおばぁちゃんが運転手に荷物を手渡しでお願いねって無人駅、ワンマンそんなんでいいねん、家まで持ってこいなんて過剰サービスよ駅まで受け取りに来い、ならこんなユルユルでもこそっとできてる
いつか駅の赤帽についても取り上げてほしいです。
環境に、優しい鉄道輸送。
久々に見つけた為になる面白い動画。知らない事が多くて。配達してくれるのって駅から何キロだかまてで、そんなんじゃ全国荷物が届かない所だらけだから、大抵荷物取り扱い駅前に日通があったんですよね。通運使わないならあとは自分で地元の運送業者に頼むしかなかったとか。もしくは車を借りて自分で運転。それと自動車線(乗合自動車)でも荷物輸送していたんですよね。そんな事もあって自動車線に駅があったりする。14:11 ワキ5000にしか見えんw3:06 貨物列車って全く到着が分らなかったの?一応貨物列車の運転時刻は決まっているから、何日の第何列車で来るのか分らなかったって感じ? いずれにしてもへぇ~そうなの?
鉄道が無い佐渡島にも駅があるという豆知識につながりますな。ちなみに伊勢丹もあります。(*´・∀・)
当時の貨物列車はコンテナ列車が少なく、車扱い(貨車1両単位で操車場で入替え)だったので操車場で次の列車へつなぎ替えをしていたので、接続が悪いと操車場で1日待ちぼうけだったりします
合理化やトラック輸送に 押されて、貨物列車も戸口から戸口へのコンテナに替わって、昔のバラエティー豊かな貨物列車はすっかり見なくなりましたが、広大な操車場と入れ替え機関車の警笛、貨車が連結する時の音、効率的ではなかったが、あの独特な雰囲気は実に魅力的に感じられたものです。
123系電車 荷物輸送で余った車両を、旅客用に改造しました。小野田線・宇部線・山陽本線で走っています。一両で走行可能です。
郵便専用のクモニ143は郵政省所有車だったため旅客転用できず最初の車検も残ってるうちに廃車になった実働3年くらいだった。
昔は中央本線で走っていなかったか?みどり湖経由(塩嶺トンネル経由)の開通で旧線になった区間の普通列車で使っていたような記憶がある。
子供の頃国鉄でスキーに行くときは、荷物はチッキで送ってましたねぇ…
お疲れ様です。私も辛うじて駅引き取りの小荷物を見ていた記憶のある、最後の世代かも知れません。幾重にも厳重に縛って、紐を通し宛名を書いて、自転車の荷台に乗せて駅まで持って行ったり、引き取ったりしていました。一度、駅に着いていたのに、着いてないと間違われていたか?違う駅に着いていたか?で、予定の荷物を2日3日遅れて引き取った事があり、親が激怒していました。あの時も確か、もう国鉄に荷物は頼めない、宅配便の方が良い!という流れをヒシヒシと感じたものです。
チッキ「荷物のコップが割れた?そんなの梱包が悪かったんだよ!」なを「放り投げる」「蹴飛ばす」「突き飛ばす」が当たり前な世界です非常識?あははっあなたも一時間で千個ぐらい捌いてから仰って下さいね?うん、こわい
昔のゆうパックも同じ、郵便局に持ち込むと、「途中で投げるからしっかり梱包しとかないと壊れるよ」と当然のように言ってましたね。ネコや飛脚に流れるのは当然の話、因みにゆうぱっくと呼ばれるようになってからは投げて無いですよ。
1972年、鹿児島の母の実家から蜂蜜を国鉄で送ってもらいましたが、「天地無用」とか貼りまくっていたのに、見事に割れていましたね。オカン怒りまくりww そんなことを思い出しました。因みに隼人→平野ですw
瓶だったらクッション代わりに新聞紙やパッキンを大量に詰め込むとかしないと、あと天地無用じゃダメで↑やワレモノ、取扱注意のラベル貼らないと。これは今の宅配便でも同じで輸送に耐えられる梱包をするのは荷送人の役目。
「天地無用」というのは「上下さかさまにするな」という意味であり「易損品注意」という意味ではない。
確かに昔の小包は必ずひもで結んでいましたね。投げるの当たり前だったとは親に聞きました。
後、荷札を細い針金でくくり付けるのも。
北海道新幹線のパレット輸送構想も小荷物輸送の一種と言えますね
1974年12月に関西の某駅で小荷物のアルバイトをしていました。懐かしいです。どこどこ駅着の荷物は、どの列車の何両目に載せる、というのも決まっていました。受けた荷物はその段階で、駅の中で仕分けをしているのですが、全国の駅名、路線図が頭に入っていないと仕分けはできなかったです。下関からの急行列車の荷物車では、鮮魚もあり溶けた氷水が服にかかり、生臭いにおいが付くのでイヤでした。
引き込み線もなく長距離列車線にもホームが無い103系の国電しか停まらない駅にも手荷物扱所がありましたね。九州から送り渋谷駅で受取ったことあります。
結局国鉄がお役所仕事で自滅しただけやんけwJRは国鉄時代に比べてサービスよく色々やってくれるだろうけど、分割民営化後JR会社同士の分断が進んで異なる地域の輸送がどんどん不便になっているのが気になる。
郵便小包も投げていたのかな。
「暮しの手帖」でテストしたら鉄道と郵便で送った割れ物は割れていたとかありましたな。「ワレモノ注意」と書いてもマジックで消されたとか。(´Д`|||)
郵便小包→紐かけ必須だった頃はまとめて大きな袋に入れて投げていた、ゆうぱっく→宅配便の影響を受けて紐かけ無しで箱で遅れるようになってから投げなくなった。
17:42 いきなり葵がぶち切れてて草。壊れ物は布団をグルグル巻きにして、材木で挟んで送っていたなー。投げるせいで荷物の梱包が増えて、結果集荷量が増えていた説。
40年前においじいちゃんが親に野菜やお米等を良く送ってくれた覚えがあります。自宅に赤帽や日通が来ていた覚えがあり、荷札と紐と箱に送り先もかいてありました。
料金もあるけど、猫さんはJNRと違い、集荷から宅配までやってくれるから勝てたのでしょう。郵便局もS60年くらいから普通局は集荷サービス始めましたから(特定局でも局長判断で集荷してる所もあった)民営化してから普通郵便はやめてしまいましたけど。
チッキですね。まあ貨物駅まで営業時間内に取りに来いとか梱包かなりしっかりしないと崩れてるとか今の基準でいえばサービスとしては全くダメなイメージでした。もっとも今の宅急便も人手不足は深刻なので、単なるコンテナ輸送の鉄道←→トラックではなく、もう一歩進める良いアイデアないかな。ピギーバックやバイモーダル貨車が事実上凍結されてしまっているし。。。
手始めに宅配便のトラックを駐車取り締まり対象から除外すればアルバイト人員減らせる。
手荷物は「チッキ」と呼ばれてました。
ticketが語源というか英語の音に忠実な日本語化です。ミシンやメリケン粉も同じタイプですね。
どうでもいいけど国鉄からの駅員は輸送からの連絡のチャイムを「デス」と言ってたな。「おい、デス鳴ってるぞ!」とか。「dispatcher」を指していたようだが「ディス」じゃなくて「デス」「death」に聞こえて運輸会社として気持ち悪かったw
@@TinySnowFairySugar 切符に日付を付けるダンチングマシンもDatingからの訛りでなんというかモヤモヤする用語ですね〜
荷物をポンポン投げるのはどの会社も今もやってる。さすがに手鉤で引っ掛けて放ったり重量品や壊れ物まで放ったりしないが軽い物なら空を飛ぶから、梱包と密封はなるべくしっかりやった方がいい。
やはりそうなんですかね最近はAmazonとかも角が潰れてたりして限界を感じます
懐かしいですね。確か数十年前に高校の卒業旅行で福岡→東京に行った時にブルートレイン便で東京から博多へ荷物を送った記憶があります。
愛知県の尾張地方在住ですが、未だに名鉄名古屋駅の専用搬入スロープで流れてくる新聞を駅員がせっせと積み込むあの光景のルーツが知れて、なぜかノスタルジックな気分になりました現状だとカオス駅としてなじみ深い2線3面の中間ターミナル駅にあるまじきしょぼ……慎ましやかな駅構造の、中島部分で積み下ろしてますが、改修計画後の4線ホーム(予定)ではどんな感じになるのか、ちょっと楽しみだったり
国鉄小荷物 手荷物(チッキ)よく利用していました
愛媛だと今でも松山から宇和島の高速バスに荷物だけ乗せて同じようなことができる
国鉄が民営化されるわけだ…
1970年代半ば国鉄職員として隅田川駅で働いていました。繁忙期の駅の風景が懐かしいです。季節季節で送られてくる荷物が変わります。 春は布団等が多かったです。冬は北海道から新巻鮭が荷物車満載になって送られて来ました。ホームで仕分ける時、投げるものだから鮭が ホームを泳いでいました。昭和52,53年頃からクロネコヤマトが宅配便を始めてから、小荷物輸送も衰退していきました。
ヤマトの過度なサービスでトラック業界が行き詰まってますね。国鉄がもうちょい本気で小荷物やってたら今でも有人駅が多かっただろうね。
尋常じゃない数の拠点に尋常じゃない数の人員を置いてシステムをぶん回してるヤマトのやり方は国鉄に通じるところがありますね
地元では夕刊限定で朝日新聞が最後まで荷物車で運ばれてたな。荷物車の停止位置に朝日のジャンパーを着た、お兄ちゃん達が並んでたわ。多分、他の新聞社は夕刊は扱って無かったんだよね。これは今もか。
昔地下鉄サリン事件があった際に東海道新幹線沿線の病院から薬をかき集めて新幹線に載せて東京へ輸送したことがあったらしい
テレビニュースの仕事をしていたころ、支局が取材したニュース用ビデオテープをJRの特急列車で本社まで運んでいました。今は電波回線やインターネットプロトコル(IP)回線で送ります。
今でも大量のデータ送る場合は
通信回線使うより、新幹線にて記憶媒体ごと運んだ方が早いことがあるそうです
昭和のころ、約100キロ離れた実家から正月に「オモチを送った!」と電話連絡が来た。そしてその3週間後、国鉄の小荷物取扱駅から「荷物を取りに来い!」という連絡が来たので、自宅から約10キロ離れたその駅に荷物を取りに行ったら、オモチはカビだらけになっていた。
鉄道輸送もトラック輸送も極端に行きすぎるとその弊害が出る。
3週間もかかったんですか!?
そんなんじゃナマモノなんて送れないですね
@@yomogi_HYP さん
当時はこれが普通でした。2~3週間はかかるのが普通。距離が遠かったり、師走、正月などの時はもっとかかる場合もあった。
2~3日で着く宅急便がでてきたときには度肝を抜かれた。
@@権三郎平衛 当時の郵便小包も翌日に着くところなどほとんど無かった。
子どもの頃(中学生くらいだったかな)荷物引き取りのハガキが来た。親に取りに行くように言われて、《私鉄と国鉄を乗り継いで》取りに行った。駅員の態度が「悪い」を通り越して「怖かった」のを憶えています。
@@hustlersuzuki7094 さん
連中は、「役人」だったですからね。いつも上から目線でしたね。
鉄道車両の記号に「ヤ」の記号(事業用車の意味)がありますが、これは「役人」の「ヤ」です。その名残が今も使われています。
たしかに40年ほど前に、「国鉄那覇港貨物駅」がありました。本土から送った荷物を引き取りに行ったことがありました。
不便とはいえ安くて速いのに黒猫に負けたんか……
後半がクロネコの歴史の解説になってるのも丁寧で高評価
宅急便ほか宅配便と比較したら「遅くて高い」だったと思われ
国営企業の独占事業でお察し
@@syuzredsyuzred8507
郵便小包はなんとかゆうぱっくへ変革して生き残ったから対照的でもある
安いから利益が出ない
速くても受付時間が限られていたら意味がない
預けて受け取る人件費の方が遥かに大きいからな、
船でも合鑑って制度があって、乗船時に荷物を預けて(引越し荷物でも可)
下船時に受け取るって制度があるから似た様な物だが、
量がまるで違うからなー。
北陸の学校に進学して一人暮らしするために、衣類や布団を小荷物で送ったなぁ。現地の駅で引き取って、下宿までどうやって持って行くか思案に暮れたのも懐かしい思い出。もう四十年も前の話です。
私の父も同じ事言ってました。
駅近傍に日通の営業所あってそこ頼んでましたね
持ったり担いだりするには重かったり、1人手に負えない大きな荷物、また荒天や昼間対応不可な平日となると、もうお手上げでした。
到着もさることながら、引き取り持ち帰るまでの日数が読めないので、生ものや急ぎの物を送るのは事実上不可能でした。
故に地元の商店で、定価でも物が売れる、という側面もあったのですね。
今は近所のスーパーと変わらぬ値段で、酒や米や段ボール入りの生鮮食材が宅配されます。
逆に言うと、地元の商店の衰退というのは、この宅配の発展も大きいんですね。
6:00 だから駅のすぐ近くに日通の営業所があったんだ。マジで目から鱗だわ。
もともと通運というのは、荷主さんから発駅まで、その先、着駅から荷受人までという、いわゆる小運送を担う会社のことですからね。
鉄道小荷物に関して、自身の母親が若かりし頃に三重県で働いていた時(昭和40年代末頃)に実家の福岡(かなり田舎の方)へ使った事があり、動画中にあった小荷物の送り方に受け取り側に通知書が届いた後に駅へ取りに行かなければならないという点がありましたが、駅によっては日通があるところではエリア内であれば、送り先へ運んでくれたそうで、使用した際、荷物を降ろす駅を本来の最寄り駅ではなく、日通があるひとつ先の駅までにしていたそうです。
駅受取と配達があり、後者のほうが追加料金がかかるって制度だったと思います
東京鉄道荷物をルーツに持つJR子会社に23年間勤務しておりました、扱っていたのは新聞です。
新聞の衰退で退職し、現在は産業用運搬車両教習場の教官をしております。
東日本物流ですかね
鉄道荷物会社も小荷物廃止、分割民営化に際して悶着があったようですね
新聞だとやはりターレなど運転されてたのでしょうか
@@yomogi_HYP
リーチ式フォークリフトに乗っていました。
ニチユのプラッターですね
そのプラッターですが、プラットホームから貨物列車の荷扱いをするために
ニチユと日通が共同開発したと聞きました(間違っていたらゴメンナサイ)
リーチ式フォークリフトは各社から出てますが
ニチユがオリジナルだと思います。
函館本線の夜行旧型客車列車は、隅田川貨物駅から運ばれてきたマニと函館のスハフ44を連結して走ってた。
スハフよりマニの方が両数多い。
首都圏の荷物を北海道内輸送のため、荷物列車に少数の客車がぶら下がってた運用だった。
昔の映像「ある機関助士」にも上野駅で「いっせきー(一関) よねざわーと言って小荷物放り投げてるシーンがありますね。
安岡章太郎の小説で昔の国鉄職員がきっぷ販売で
いかに無愛想でぶっきらぼうで陰湿かを事細かに描いてたの思い出しました
何度も何度も見てしまう中毒性があります。ありがとうございます。
いずれ、臨海鉄道を題材に取り上げていただければな、とおもいました。
日の目を見ることの少ない貨物を、興味深くウイットに富んだ構成で、いま一番お気に入りです。
センスもナイス。
相変わらず面白いですね ボーっと視聴してしまう味わい
ヤマト運輸のロックな対応に草
杉並区の松庵が実家です
子供の頃は今みたいな宅急便やコンビニなんかもなく荷物を送る時は
荻窪と西荻窪の中間地点の高架線の下にあった「荻窪小荷物取扱所」に自転車でよく行ったなぁ
善福寺川の脇にあったから行きも帰りも坂道でチャリはきつかった思い出
松庵ですか!!高級住宅地ですね。
お蕎麦屋さんのそばの高架下ですね。1988年ごろまでは看板がありました。
@@ogikubo15
え!あの場所ご存じなんですか?
本むら庵っていう有名なおそば屋さんの本店があります!
小荷物扱い所があった場所は今はオシャレな雑貨屋さんと佐川急便の営業所になってます
すぐそばにある「日本標準」っていう会社のビルも昭和感満載で好きです
@@takana4381
そんなに高級住宅街でもないですよ
最近はちょっとオシャレな賃貸アパートやコインパークばかりになってきました
西荻の街歩きがちょっとしたブームになって小さな個性的なお店も増えてます
@@miharu3748 小荷物取扱所のあった場所のことは作家の井伏鱒二氏が『荻窪風土記』に「善福寺川のガード際の洗い場へ鮠釣に行った。現在、中央線のガード下に荻窪駅管轄の小荷物扱所が出来ている場所である。」と書いてますね。太宰治と一緒に釣りに来てたみたいです。
なんやこの詳細でわかりやすい解説は
宅配便も最近はなんだか行き詰ってるんでたまには思い出されてはいますが、手荷物小荷物って不思議なぐらい忘れられてますよね。
タイムトリップ先頃に親に連れられて国電の駅に預けにいったり自動車駅に受取りにいったり してたんで覚えてるんですが、同世代でも話が通じなかったりします。
冒頭のはこビュンはあまり知られていないですね。仙台支社管轄のあるお客さんのところでルーター故障が発生。すぐに用意できる代替機が本社にしかなく、ヤマトの集荷も終わっている時間。途方に暮れていると言うのを聞いたので、前述の「はこビュン」の事を教えて東京発やまびこ221号で発送。翌日朝から通常稼働出来たので、社内はもとより先方のお客さんにまで感謝された。
バイク便各社が、ドアツードアの急送サービスを提供しているよ。
遠隔地だと、新幹線や航空機にスタッフが乗っていく。
運賃よりも速度の法人向けサービス。個人も使えるが。
@@TinySnowFairySugar 最初はハンドキャリー便を考えていたそうです。担当者へ話した時、その料金の安さ(2000円ちょっと)に信じられないといった顔をしていました。
問題は鉄道の方が道路より災害に弱く復旧するまでに時間がかかるという事かな。
次回は「鉄道郵便」の解説をお願いします。
次回はその予定です!
新幹線のやつは、国鉄時代から「ひかりレールゴーサービス」やってましたね。
まあ歴史は繰り返すわけですな。
入場券で車内に入って網棚に荷物を乗せて、送り先の連絡を受けた相手が下ろすとかの手口もあったそうですな。
@@クモハ165 それで思いついたのが、ひかりレールゴーサービスだったとか。
らいちょうレールゴーサービスもありましたが、大阪駅の受付場所が物凄い辺鄙な場所にありました。
@@クモハ165 グリーン個室におクスリだけ置いて下車
→ 無人だったので車掌に施錠されてしまい、受け取り役が個室に入れず受け取り失敗
→ 事件発覚
なんてのがありましたw
@@クモハ165 おクスリと言えば
地下鉄サリン事件の時に、農薬事故の治療で使う解毒剤を新幹線の各駅で積み込んで東京にかき集めた事がありました
農薬メーカーが、リン系の農薬で稀に起こる事故対策として持っていた在庫を放出したそうで…
@@47th-sol64さん
「PAM」とか「アトロピン」ですね。
ヤマト運輸は、黒船をしたのだねぇ🙄🤔
こんにちは。
まだあまり本数ないですけど、おっさんの目から見ても解説が的確すぎます。どこで勉強されたのですか?今後の動画も期待しております。
ありがとうございます
国鉄時代を一切経験していないので書籍や当時を知る人から情報を集めています…
鉄道チッキ持っていって、海外船乗りだった親父の大荷物を取りに行ったのも懐かしい思い出
解りやすい解説で良かった。
郵便車編を楽しみにしてます!
鉄道お荷物、解かり易い動画をありがとうございました。
末期の荷物列車は機関車がEF58→碓氷峠から降りたEF62使ってたから高速走行に耐えられなくてよくぶっ壊れていたと旧横川運輸区の中の人から聞いた事がある。
まだEF65PF末期車が新車でブルトレ引いてた時代。
次は鉄道郵便ですね♪(
現在でもJRコンテナで広告郵便やしま〇ろうが主に使用。あと関東対北海道向けも普通郵便もJR貨物じゃなかったかな。)
機関車の老朽化&電暖化が要因だけど、やはりEF62だと無理があったのですね。まあ、程なくして廃止になりましたから、あれこれ改造転用しなくて正解でした。
何で駅に量り置いてあんねや思てたけど、そないなことになってたんや。
勉強になりました。ありがとうございました。
東海道新幹線でも西濃がカンガルー超特急便昔やってましたね。覆面レスラーの「マル チョ〜!」のCMは好きだった
JR東海/西日本とJR東日本が
「レールゴー」として以前直営していた。
企業間では結構使われていた。
直営では儲からないのか
JR東海は止めた⇒実質、西濃が引き継いだ⇒西濃も止めた
東も直営だったが止めた⇒子会社に移管
国鉄だけじゃなく私鉄にもありましたね。
たとえば私の最寄りの東武東上線なんかでも、駅に荷物ホームがあり、駅前に日通の営業所があり、単行の赤い荷物電車が走っていました。
ヤマトも1990年代半ばくらいまでは、年末になるとキャパオーバーで12月30日には受付停止になった事もあったんだけどね
当時は年末年始は引受・配達をそもそもしていなかったはず。
@@jjjj6075
かつてコミケ御用達だったフットワークは正月は休業していた(会場受付分は正月休み明け配達だったのか?)。
郵便局だけは(年賀郵便があるから)現場は大晦日も元日もフル稼働していたから、冬コミで当時の晴海会場からの帰途に銀座郵便局から速達小包で戦利品を送り、自分は新幹線で帰阪したことがある。
荷物は元日に配達された。
小学生の頃、
キハ35の先頭車両の先頭部分一部を幕で区切ってましたね
幕には荷物と、記載されてました
全面展望が見えず悔しい思いをしたのを覚えてます
初めて視聴しました、
動画編集作成and投稿お疲れ様でした🙏
編集と演出にすごく力入ってて、1本作成するのに
めちゃくちゃ大変だったと思います💦
(語録遣いで)わかりやすくて楽しくてタメになる鉄道歴史解説でした!
国鉄はその膨大な赤字と
巨大組織ゆえの硬直さが
問題だったとよく言われますが、
前提が誰もが平等に使える公共サービスですし、
何千億円の赤字も、企業としての
赤字と見るか、サービスの維持管理費と見るかで
違ってきますよね…
とはいえ、サービスの維持管理が
困難になった結果解体されたわけなので、
本末転倒だったわけですね😅
あと、俺たちはサービスを提供してやってんだぞ(むしろ利用客に不利益が発生)って
意識があった限り、見限られるのも
時間の問題でしたね…
大変勉強になりました。硬い話しは他のコメントにお任せして、単純にマニアとしての感想では、一両毎に窓や扉の配置の異なった個性的な客車を十両程も連ねて、スマートなEF58の牽引する急行荷物列車が、特急列車よりも魅力的でしたね。残念ながら消滅してしまった今、模型で楽しんでます。
沖縄に国鉄駅があったことを初めて知りました。勉強になりました!
昔はやたら距離の長い普通鈍行列車があったのは結構この荷物の輸送のためだったりします
夜行の急行にも最後尾に荷物車が連結してあって、新聞とかを深夜~早朝に各駅で下ろしていくと。(・ε・` )
@@クモハ165
かつての東京〜大阪の寝台急行「銀河」は名古屋での旅客乗降はできなかったが、荷物の発着は扱っていた模様。太閤口の北側にあった荷物窓口に銀河の発着時刻が掲示されていたように思う。
昔、東海道線等で走っていた頃は夏場、冷房がなかったので大変だった様です。どうしても我慢できない時は郵便車には冷房がついていたのでお邪魔させてもらってたそうです。
予算のある郵政省の郵便車とそうでない荷物車の格差ですね
4:59 懐かしい。時刻表のピンクのページにありましたね。
小さい頃に父親が『チッキで送るわ』と荷物を出して
ソレが届いたのを覚えてます
でも、どのような経路を通ったのかはさっぱりわからんかった
某赤字ローカル線で鉄道を残す方法として、「貨客列車の運行」「荷物は駅での取り扱い。集荷と配達は別料金」を提案したら、「そんなの面倒臭い」「だったら役場の軽トラで受け取りに行って、職員が配れば良い」とかの意見が出たから、「ほらみなさん!今「鉄道なんかいらない」「車と道路が便利」って言いましたよね!廃止ですよ、廃止!お互いが合意しました!録音もしましたよ!」ってのが、最近のお話。
一時期、カンガルーの会社が東京~大阪間に限り、のぞみ超速便ってのをやっていた記憶がある。
懐かしいな、田舎の親戚の家から「駅に行って荷物を送る」ってのを小さい頃見たのを思い出しましたわww
都心部とか大都市部圏内なら輸送はあったけど地方間に大都市間や郵便物では届けられない程の荷物は鉄道荷物で送っていたんよね
荷物札としっかりした縄で縛っていて荷にマジックで更に書き込みされていたのを憶えています
その昔、秋葉原で重量物を購入し鉄道小荷物を使ったんですが、隅田川駅から荷が届いたから引き取るようハガキが自宅に届くまで三日…。ハガキを持って駅まで自転車で往復するなど、初めから秋葉原まで自転車で買いに行けば良かった…なんて事になってました。これじゃ宅急便に負けますよね…。
わかりやすいしめちゃくちゃ面白いです!今後も楽しみにしてます
ありがとうございます!
>鉄道小荷物。
昔見た、『ハチ公物語』の冒頭場面を思い出した。上野博士が、秋田県のブリーダーから生後間もない秋田犬を買う。その子犬の発送方法が鉄道小荷物だった。
今もそうなのかは知りませんが、昔は鉄道の客車・バスなど公共交通にペットの持ち込みは原則禁止で、唯一の移動手段が鉄道の小荷物扱いだったのですよね(盲導犬は例外でしたか?それでも結構悶着もあったような?)。昔の児童漫画でバスや列車にペットの犬や猫を持ち込んで降ろされてしまうシーンは定番でした。
茶番の構成?が良かったので高評価します。
まぁ、この頃は『クロネコメール便』ってのもなかったですからね。ヤマト運輸は、そういうことでも、ある意味すごいですよね。しかし、茜ちゃん死亡フラグ確定ですねw。ただ、宇都宮ぐらいだと、20年前まで普通電車の最後尾が、新聞輸送をしていたんですよね…。
かって国鉄の夜行急行特に客車列車には必ず荷物車が連結されて翌朝配達の朝刊が積荷の常連だった
都会でベストなのはコンビニ受け取り
ラスト1マイルは取りに来いだとどんだけ効率上がるかよ
受領もハンコやサインではなくスマホでやれたら完成よ
やたら宅配にこだわってるけども、昼は家に誰もいないし無駄よ
確かに。一応時間帯の指定はあるとはいえ、何時来るか分からないのを待つのは結構しんどいですから、置き配にしてもらうか、コンビニ受け取りにするか、そうでなけりゃ仕事先まで来てくれたほうが楽なのですよね。
本当にそうなったらコンビニの業務がパンクする
場所にもよるが
@@user-m1kep0e とはいうものの手数料掛かってもコンビニ受け取りが一番便利なのよね
まあまだ普及段階ですがコンビニや駅併設のロッカー受け取り所が増えてるので…
特にJR東日本は独自にやり始めたますし
「自宅配達」限定で困ったことがある。某格安携帯電話会社のSIMカード受取。
宅配業者の不在連絡票が投函されていたので最寄駅の宅配ボックスを指定して配達依頼をしたが「転送不可」との連絡があった。宅配業者に問い合わせると「送り主が転送不可の指定をしているから送り主側と相談してください」とのこと。携帯電話会社に連絡(おそらくは電話受付は業務受託のコールセンター業者)すると「パンフレット記載のとおり自宅宛に発送することになっている」との回答。
「そちらとの合意は自宅あての『発送』までで『受領』方法までは合意していない」と主張したがラチがあかず「受領しないと顧客都合解約で違約金がかかる」とまで言われた。本人確認のために確認書類の画像データを携帯電話会社に提供してあったのだが。
結局、宅配業者と再配達日時を分単位で協議して自宅玄関先で荷物を受領した。
高校時代、国鉄でバイトしてたから懐かしいわー
少し前に普通の通勤電車に荷物が乗っていたのでこの時代に鉄道荷物?と気になっていました。スッキリしましたありがとうございます。
そういえば、郵便小包も宅配便に敗れ去ったのを覚えていますね。鉄道小荷物が今でもあったら宅配便と競合していたに違いありませんね。
そのうちクロネコが地方でJRに委託して通常の電車増結して荷物列車復活させそう
終わりの方にでてきた嵐電の宅急便輸送は一般の営業列車に荷物専用車を連結した2両編成で運行しているので前例は既にありますね
コロナ禍で輸送力過剰になった路線なら1両くらい貸し切っても良さそうなので拡大するといいですね
鉄道小荷物は駅⇔駅🚉
宅配便はドア🚪toドア🚪
鉄道の弱点「小回りがきかない」が衰退への致命打だと思うな^^;
昔の駅には一杯日通の人いたな〜
古い駅にはホームの片隅に日通の倉庫が有りましたね。
この動画もう一回見たくていろいろ検索してやっと辿り着けたー!
吊掛のクモユニ74が東海道線の113系を従えて爆走していたのは壮観でしたね。
一番前にくっついてましたね
でっかい目玉の四角い箱形だから
なんかすきでした
八高線の箱根ヶ崎駅でも、私が幼稚園に入る前くらいまでは鉄道小荷物を扱っていました。
荷物用の受付窓口があり、秤が置いてありました。
親の実家から送られてきた米や農産品を、母と一緒に駅まで取りに行った記憶が薄っすらあります。
確かに送り先が箱にも直接書かれていました。
当時の八高線には荷物車の連結がされていなかったので、旅客車内の一部を仕切って荷物を積んでいたと思われます。
余談ですが、当時はホームでタブレット交換もしていました。
それからほどなくして、荷物は宅急便で直接家に送られてくるようになりました。
昔、私も通信販売で駅留めなので、受取りに最寄りの駅まで荷物を取りにいったことがあります。
こう見るとクモハユニとかクモハニとかの貨客混在車両は確実性を重視するための本当に良い施策だったのがよく分かる
個人的にはMOTOトレインなんて今の世で是非とも復活させてほしい列車、ある意味唯一無二な鉄道でしか出来ない列車なんだけどなぁ
カートレインは車の積み込みに難があったけどMOTOトレインは実用的だったと思いますがJR各社のやる気が無さそうですね。
フェリーの方が食事もできるし、タダで風呂にも入れますし、バイクは手荷物扱いなのでクルマよりも割安なんですよね。(・ε・` )
長期休暇の時に新しく「家族」になった「シャム猫」を手廻り小荷物扱いで預けようと窓口に行ったが,麻酔が中途半端に効いていて暴れてしまい,受け取りを拒否されてしまい、持ち込み品として「雷鳥」と「みずほ」に乗せて行ったことがありました。
流石に「みずほ」の寝台内には「ネコ」は持ち込め無かったので車端の更衣室に預けて一晩過ごしました。
昔の方が融通が効いたような気がします🎵
JR西日本小野田線運用のクモハ123は荷物電車クモニ143を国鉄末期の荷物輸送終了後旅客電車に魔改造されました。
素人ですが大変解り易い内容でした。最近は地方でも駅前の再開発が進んでなくなりつつありますが、
それなりに大きい駅前には日通の倉庫があったものですが、この事業があったからだったのですね?
いい動画でした。
昔は 荷造り方法が悪いと怒られたり
ハガキで到着通知がきたり
最後は千葉方面へ新聞夕刊輸送してましたね。名鉄名古屋駅はまだ新聞輸送してたかなぁ。
むかしは多くの駅に手小荷物受付窓口がありましたね。荷物の受け渡しがしやすい低い位置にカウンターがあって、切符売り場よりも間口の大きい駅もありました。
子供の頃に祖母に手を引かれて、駅まで荷物を取りに行きましたね。懐かしいです
鉄道省と逓信省が融合して、鉄道駅で受け付けた小荷物をゆうパックとして郵便局員が各戸まで配達する体制にしてれば化けてただろうなあ。
レールゴーサービスは最近までやってたんですよね。
東京の倉庫から交換部品を大阪で当日中に受け取れるので全職では重宝してました。
駅受け取りしなければいけないのがネックでしたが。
幼稚園児のころ、祖母に連れられて国鉄の駅まで荷物を受け取りに行った記憶がありますね
たぶん荷物持ちとして小さいのを一個持たされてたんでしょうけど
昔出稼ぎに行ってた父親が良く利用してた記憶が…
そういえば、ドクタースランプの単行本のおまけページに、鳥山明先生が新幹線で名古屋から原稿送ってたエピソード描いてましたね。
23:18 民営化初期の90年代前半頃には、特急日本海に併結されてバイク輸送に使われていたケースもあったはずなので、JR西に承継されたのもあったようですね(記憶違いやったら御免)
【モトトレイン】と【モトとレール】ですな。ガソリンを一旦抜かなくてはならないのが手間だったようですな。カートレインも何台も積めないので効率が悪そうでした。
4:19 紐で縛るのは、郵便小包も同じだった。紐で縛らないと受託してくれない。
なぜかといえば、荷札をくくりつけるのもあるし、スタッフが手鉤をもっていて、それを引っかけるため。
手鉤を紐に引っ掛けて、引っ張る・投げる。箱が傷もうが、中身が壊れようが知ったこと無し。
6:10 そんな優しい口調では無い。死んだ自分の父親が怒ってた。
昭和30年代頃なんて国鉄駅員が偉そうに「こんなんじゃ送れん、やり直せ!」とか言って突き返す。
ヤマトが宅急便を始めたら、鉄道小荷物も郵便小包も二度と使わなくなったな。
郵便小包は今と違って大きさや重量の制限がもっと小さく、大きな荷物は鉄道小荷物を使うしか無かった。
日本通運とかは法人相手だからな。
ヤマトが風穴を空けたら、鉄道小荷物は死亡・郵便小包はゆうパックになって相当改善した。
以前、自分はJR貨物の総合職をしてたが
鉄道会社伝統の現場勤務の貨物駅で働いたら、廃墟の鉄道小荷物コーナーが残存していた。
で、貨物駅の国鉄時代からのヲッサンは、到底客商売が出来ない人たち。ほんとは性格が良い人も多いんだけどね。
横浜羽沢に、がらんどうの鉄道小荷物用プラットフォームが残ってたりもしたな。恥ずかしい負の遺産
田舎ではまだこっそり生きてる
おばぁちゃんが運転手に荷物を手渡しでお願いねって
無人駅、ワンマン
そんなんでいいねん、家まで持ってこいなんて過剰サービスよ
駅まで受け取りに来い、ならこんなユルユルでもこそっとできてる
いつか駅の赤帽についても取り上げてほしいです。
環境に、優しい鉄道輸送。
久々に見つけた為になる面白い動画。知らない事が多くて。
配達してくれるのって駅から何キロだかまてで、そんなんじゃ全国荷物が届かない所だらけだから、大抵荷物取り扱い駅前に日通があったんですよね。通運使わないならあとは自分で地元の運送業者に頼むしかなかったとか。もしくは車を借りて自分で運転。
それと自動車線(乗合自動車)でも荷物輸送していたんですよね。そんな事もあって自動車線に駅があったりする。
14:11 ワキ5000にしか見えんw
3:06 貨物列車って全く到着が分らなかったの?一応貨物列車の運転時刻は決まっているから、何日の第何列車で来るのか分らなかったって感じ? いずれにしてもへぇ~そうなの?
鉄道が無い佐渡島にも駅があるという豆知識につながりますな。ちなみに伊勢丹もあります。(*´・∀・)
当時の貨物列車はコンテナ列車が少なく、車扱い(貨車1両単位で操車場で入替え)だったので操車場で次の列車へつなぎ替えをしていたので、接続が悪いと操車場で1日待ちぼうけだったりします
合理化やトラック輸送に 押されて、貨物列車も戸口から戸口へのコンテナに替わって、昔のバラエティー豊かな貨物列車はすっかり見なくなりましたが、広大な操車場と入れ替え機関車の警笛、貨車が連結する時の音、効率的ではなかったが、あの独特な雰囲気は実に魅力的に感じられたものです。
123系電車 荷物輸送で余った車両を、旅客用に改造しました。小野田線・宇部線・山陽本線で走っています。一両で走行可能です。
郵便専用のクモニ143は郵政省所有車だったため旅客転用できず最初の車検も残ってるうちに廃車になった実働3年くらいだった。
昔は中央本線で走っていなかったか?
みどり湖経由(塩嶺トンネル経由)の開通で旧線になった区間の普通列車で使っていたような記憶がある。
子供の頃国鉄でスキーに行くときは、荷物はチッキで送ってましたねぇ…
お疲れ様です。
私も辛うじて駅引き取りの小荷物を見ていた記憶のある、最後の世代かも知れません。
幾重にも厳重に縛って、紐を通し宛名を書いて、自転車の荷台に乗せて駅まで持って行ったり、引き取ったりしていました。
一度、駅に着いていたのに、着いてないと間違われていたか?違う駅に着いていたか?で、予定の荷物を2日3日遅れて引き取った事があり、親が激怒していました。
あの時も確か、もう国鉄に荷物は頼めない、宅配便の方が良い!という流れをヒシヒシと感じたものです。
チッキ「荷物のコップが割れた?そんなの梱包が悪かったんだよ!」
なを「放り投げる」「蹴飛ばす」「突き飛ばす」が当たり前な世界です
非常識?
あははっ
あなたも一時間で千個ぐらい捌いてから仰って下さいね?
うん、こわい
昔のゆうパックも同じ、郵便局に持ち込むと、「途中で投げるからしっかり梱包しとかないと壊れるよ」と当然のように言ってましたね。ネコや飛脚に流れるのは当然の話、因みにゆうぱっくと呼ばれるようになってからは投げて無いですよ。
1972年、鹿児島の母の実家から蜂蜜を国鉄で送ってもらいましたが、「天地無用」とか貼りまくっていたのに、見事に割れていましたね。オカン怒りまくりww そんなことを思い出しました。因みに隼人→平野ですw
瓶だったらクッション代わりに新聞紙やパッキンを大量に詰め込むとかしないと、あと天地無用じゃダメで↑やワレモノ、取扱注意のラベル貼らないと。
これは今の宅配便でも同じで輸送に耐えられる梱包をするのは荷送人の役目。
「天地無用」というのは「上下さかさまにするな」という意味であり「易損品注意」という意味ではない。
確かに昔の小包は必ずひもで結んでいましたね。投げるの当たり前だったとは親に聞きました。
後、荷札を細い針金でくくり付けるのも。
北海道新幹線のパレット輸送構想も小荷物輸送の一種と言えますね
1974年12月に関西の某駅で小荷物のアルバイトをしていました。懐かしいです。どこどこ駅着の荷物は、どの列車の何両目に載せる、というのも決まっていました。受けた荷物はその段階で、駅の中で仕分けをしているのですが、全国の駅名、路線図が頭に入っていないと仕分けはできなかったです。下関からの急行列車の荷物車では、鮮魚もあり溶けた氷水が服にかかり、生臭いにおいが付くのでイヤでした。
引き込み線もなく長距離列車線にもホームが無い103系の国電しか停まらない駅にも手荷物扱所がありましたね。九州から送り渋谷駅で受取ったことあります。
結局国鉄がお役所仕事で自滅しただけやんけw
JRは国鉄時代に比べてサービスよく色々やってくれるだろうけど、分割民営化後JR会社同士の分断が進んで異なる地域の輸送がどんどん不便になっているのが気になる。
郵便小包も投げていたのかな。
「暮しの手帖」でテストしたら鉄道と郵便で送った割れ物は割れていたとかありましたな。「ワレモノ注意」と書いてもマジックで消されたとか。(´Д`|||)
郵便小包→紐かけ必須だった頃はまとめて大きな袋に入れて投げていた、ゆうぱっく→宅配便の影響を受けて紐かけ無しで箱で遅れるようになってから投げなくなった。
17:42 いきなり葵がぶち切れてて草。壊れ物は布団をグルグル巻きにして、材木で挟んで送っていたなー。投げるせいで荷物の梱包が増えて、結果集荷量が増えていた説。
40年前においじいちゃんが親に野菜やお米等を良く送ってくれた覚えがあります。
自宅に赤帽や日通が来ていた覚えがあり、荷札と紐と箱に送り先もかいてありました。
料金もあるけど、猫さんはJNRと違い、集荷から宅配までやってくれるから勝てたのでしょう。郵便局もS60年くらいから普通局は集荷サービス始めましたから(特定局でも局長判断で集荷してる所もあった)民営化してから普通郵便はやめてしまいましたけど。
チッキですね。
まあ貨物駅まで営業時間内に取りに来いとか梱包かなりしっかりしないと崩れてるとか今の基準でいえばサービスとしては全くダメなイメージでした。
もっとも今の宅急便も人手不足は深刻なので、単なるコンテナ輸送の鉄道←→トラックではなく、もう一歩進める良いアイデアないかな。
ピギーバックやバイモーダル貨車が事実上凍結されてしまっているし。。。
手始めに宅配便のトラックを駐車取り締まり対象から除外すればアルバイト人員減らせる。
手荷物は「チッキ」と呼ばれてました。
ticketが語源というか英語の音に忠実な日本語化です。ミシンやメリケン粉も同じタイプですね。
どうでもいいけど
国鉄からの駅員は
輸送からの連絡のチャイムを
「デス」と言ってたな。
「おい、デス鳴ってるぞ!」とか。
「dispatcher」を指していたようだが
「ディス」じゃなくて「デス」
「death」に聞こえて運輸会社として気持ち悪かったw
@@TinySnowFairySugar 切符に日付を付けるダンチングマシンもDatingからの訛りでなんというかモヤモヤする用語ですね〜
荷物をポンポン投げるのはどの会社も今もやってる。さすがに手鉤で引っ掛けて放ったり重量品や壊れ物まで放ったりしないが
軽い物なら空を飛ぶから、梱包と密封はなるべくしっかりやった方がいい。
やはりそうなんですかね
最近はAmazonとかも角が潰れてたりして限界を感じます
懐かしいですね。確か数十年前に高校の卒業旅行で福岡→東京に行った時にブルートレイン便で東京から博多へ荷物を送った記憶があります。
愛知県の尾張地方在住ですが、未だに名鉄名古屋駅の専用搬入スロープで流れてくる新聞を駅員がせっせと積み込むあの光景のルーツが知れて、なぜかノスタルジックな気分になりました
現状だとカオス駅としてなじみ深い2線3面の中間ターミナル駅にあるまじきしょぼ……慎ましやかな駅構造の、中島部分で積み下ろしてますが、
改修計画後の4線ホーム(予定)ではどんな感じになるのか、ちょっと楽しみだったり
国鉄小荷物 手荷物(チッキ)よく利用していました
愛媛だと今でも松山から宇和島の高速バスに荷物だけ乗せて同じようなことができる
国鉄が民営化されるわけだ…
1970年代半ば国鉄職員として隅田川駅で働いていました。繁忙期の駅の風景が懐かしいです。季節季節で送られてくる荷物が変わります。
春は布団等が多かったです。冬は北海道から新巻鮭が荷物車満載になって送られて来ました。ホームで仕分ける時、投げるものだから鮭が
ホームを泳いでいました。昭和52,53年頃からクロネコヤマトが宅配便を始めてから、小荷物輸送も衰退していきました。
ヤマトの過度なサービスでトラック業界が行き詰まってますね。国鉄がもうちょい本気で小荷物やってたら今でも有人駅が多かっただろうね。
尋常じゃない数の拠点に尋常じゃない数の人員を置いてシステムをぶん回してるヤマトのやり方は国鉄に通じるところがありますね
地元では夕刊限定で朝日新聞が最後まで荷物車で運ばれてたな。
荷物車の停止位置に朝日のジャンパーを着た、お兄ちゃん達が並んでたわ。
多分、他の新聞社は夕刊は扱って無かったんだよね。これは今もか。