第248回「空になるには」2021/9/11【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • Опубліковано 12 лис 2024
  • 本日の管長日記は、「空になるには」です。
    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
    本日もよろしくお願いいたします。
     
    ■管長日記「空になるには」
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    川尻宝岑居士の『坐禅の捷径』を読んでいます。
    興味深い譬え話がありました。
    宝岑居士の解説は達意的で、味わいが深いものであります。
    まず、坐禅の用心について、
    「用心とは心を用うるということで、いったい坐禅をするのに用心するというはないことで、坐禅の用心は用心せぬのが用心じゃ。
    しかるに今時坐禅をする人が、みな心を用いて坐禅をするから、とかく埒(らち)があかぬのじゃ。」
    と説かれています。
    なかなか、「用心せぬが用心じゃ」と言われても、取り付く島もありません。
    更に、
    「まず、たいがい坐禅をする人が空になろうなろうと心を用いておる。これが第一間違いじゃ。」と言って、空になろう、無になろうなどと用心するのが間違いだというのです。
    そこで、
    「空になろうと思っているからいつまでもなれぬので、たとえばここに一碗の飯がある、この飯をどうかしてなくそうなくそうと白眼(にらみ)つけているうちは、いつまでたってもなくならぬ。
    それから智恵をもみ出して、考えれば考えるほどなおなくならぬ。
    まだなくならぬ、まだあると白眼つけているうち、いつか日が暮れてしまうのじゃ。」
    というのです。
    確かに目の前にある、ご飯をにらみつけて、ご飯を無くそうとしても無くなるものではありません。
    ではどうすればいいかというと、
    「なくそうともなくなすまいとも思わず、法に従って箸で運んで食ってしまうと、いつの間にかなくなってしまう。」
    というのであります。
    まさにその通り、無くそう無くそうといくら思ってもご飯は無くなりませんが、ペロリと食べてしまえば、ご飯は空になります。
    そこで、宝岑居士は、
    「坐禅もそのとおり、空になろう、なろうと、この身躯を白眼つけていると、いつまで立ってもなくならぬ。
    ところを、法に従って一則の公案を提斯(ていぜい)(問題としてひっさげて取り組む)して三昧に入って見ると、空になろうともなるまいとも、思わず知らず、いつか自身をも忘じてしまう。」
    というのです。
    公案というのは、禅の問答で与えられる課題を申します。
    趙州和尚が言った「無」の一字とはどういうものか工夫するのであります。
    只ひたすら呼吸に合わせて「無」になりきってゆくのであります。
    宝岑居士は、
    「この忘じたところが空じゃと思うか。それはまだ正真に忘じて見ない前の分別じゃ。正真に忘れきったところは、空でもなければ不空でもない。空とも不空とも、なったともならぬとも思わぬところが真実で、仮りに号づけて真空という。
    いったい凡夫の了簡では、わが身を空にしてしまって、その空になったところを自身で見る気になっているので、ソコデ自身で自身をにらみつけて汲々としているのであって、これが心を用うるというもので、坐禅の見当違いをやっているのじゃ。」
    というのであります。
    いくら意識分別の心で、空になろうとしてもなれるものではないのです。
    鈴木大拙先生が、『禅と日本文化』(岩波新書)で説かれた「さとり」の話を思い起こします。
    引用しますと、
    「一人の樵夫が奥山でせつせと樹を切つてゐた。さとりと云ふ動物が現れた。平素は里に見当らぬ大変珍らしい生きものだった。樵夫は生捕にしようと思つた。動物は彼の心を読んだ。
    「お前は己を生捕りにしようと思つてゐるね」。度肝を抜かれて、樵夫は言葉も出ないでゐると、動物が云つた。「そら、お前は己の読心力にびつくりしてゐる」。益々愕いて、樵夫は斧の一撃に依つて彼を打ちたおしくれんといふ考を抱いた。すると、さとりは叫んだ。
    「やア、お前は己を殺さうと思ってあるな」。
    樵夫は全くどぎまぎして、此不思議な動物を片附けることの不可能を覚ったので、自分の仕事の方を続けようと思つた。
    さとりは寛大な気配を見せなかつた。尚も追求して云つた。「そら、到頭、お前は己をあきらめてしまったナ」。
    樵夫は、自分をどうしてよいか、わからなかつた、おなじく此動物をどう扱つていいか判らなかつた。到頭、此事態に全く諦をつけて、斧を取り上げた。
    さとりの居ることなぞ気に掛けないで、勇気を出して一心に、再び樹を切り始めた。さうやつてゐるうち、偶然に斧の頭が柄から飛んで其動物を打ち殺した。」
    という話であります。
    この話は奥深いものがあります。
    さとりを気にかけているうちは、さとりは消えないのであります。
    さとりなど気にせずに、ひたすた木を伐ることに打ちこんでいて、さとりは消えてしまうのであります。
    さとりが残っていては、いつまでも悩みは尽きないのであります。
    一心に打ちこんで、さとりをも忘れているところが大事なのです。
    いや大事なのだなどと思ってはもう駄目です。
    また大拙先生は、こういうことも述べて下さっています。
    「自分をむなしうするという工夫は、積極的に、他のために働くことです。他のために自分の労を惜しまずに、手足を動かしていると、自分のことが自然に気にかからなくなります。
     この手足を動かすということは、なんでもないようで、なかなか意味深いのです。手足を動かして他のためにつくす、これをちいさなときからならしておくと、自然に自分のことのみを考えるくせが少なくなり、何かにつけて「誠」がやしなわれ、信仰ができてくるのです。」(『鈴木大拙随聞記』)
    自分をむなしうするとは、空にすることだと言ってもいいでしょう。
    あれこれ考えるよりも、何か一所懸命に手足を動かして、他の為に働くのであります。
    知らず知らずのうちに、空になっています。
    もちろん空になったなんて思ったら駄目です。
    ただ充実感があるのみです。
    さっぱりした心境になるのみであります。
    横田南嶺
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