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やはり考古学は「フィールドワーク」無くして、発展はあり得ないのだなぁと、非常に勉強になりました。縄文・弥生の人達も多くの失敗と成功から学ばれていったのでしょうね。
いつもありがとうございます。どんな分野でも現場は大事でしょうね。少しでも参考になることがあれば幸いです。
ここまで詳しく土器の作り方を聞いたことがなかったので、前編後編とも、とても楽しく、勉強になりました!時代が下るにつれ技術が進歩していくのとともに、芸術家肌の制作者も出現したかもしれませんね。「こんなの甕じゃねえ!ガシャン」みたいな。笑 いや~考古学って本当に面白くて浪漫がありますね。
覆い焼きは、一般の人にとってはほとんどなじみがないですよね。こういう焼き方なんじゃないかって言われ出したのは、1988年に提唱されましたんですが、学会の中でも広まり始めたのは2000年以降だと思います。当時は何言ってんの? みたいな感じだったんですが、今ではかなり一般化していると思います。こんなの甕じゃねえ! は私の中では相当新しい時代のイメージですね(笑)。
@@koukogaku なんと、つい最近なんですね。野焼きから覆い焼、穴釜へ進化する話は道理にかなっており、素人の私も大いに納得です。私が学生時代に習った(義務教育レベルですが)歴史や考古学も、どんどん上書きされて、少し寂しい反面、面白くてワクワクしますね。これからも楽しみにしております。
私も博物館で弥生土器の焼成を行ったときに、色々な方の論文や書籍を読んで参考にさせていただきました。黒斑がベッタリ付いたときには感動しましたね…このような動画があると、覆い焼きのハードルが下がって、体験で採用する博物館も増えるかもしれませんね。ありがとうございます。
そうなんですね。少しでも広まればいいですね。ただ個人的には縄文土器作りの体験講座で、土器を炙って焼くやり方が早くなくなってほしいと思っています。あれは現代の陶芸の感覚とごっちゃにしている気がしています。
@@koukogaku 返信ありがとうございます。私も炙りに対しては否定的です…また、出土土器を見るとかなりの砂粒が含まれているのにも関わらず、体験で使われる陶芸用粘土にあまり砂をあまり混ぜていないので、炙りをやっても失敗品が多く生じてしまうのだと思います。土器作りに関わらず、復元・使用実験を行う際には遺物をよく観察することも重要であると考えています。
@@しゃんしゃん-e8r そうなんですよね。混ざってないものを野焼き用粘土として販売しているようですので、そのまま作って焼いて破裂することが多いようですね。よく観察することは、本当に大事ですね。
なるほど、"藁"を使うところが重要ですね。ということは、稲作が増え、藁の増加によって藁燃料が増え、その結果として弥生土器が広まっていったということですね。藁燃料を使うために飛散を防ぐために重しとして灰をかけ、更に土をかけるようになり、焼成の温度条件が変わったことで、土器の作り方や構造に変化が生じたと考えると自然ですね。そう考えると稲作の増加が徐々に弥生土器への変化につながっていったという変遷が自然に理解できます。要するに"野焼き"から"覆い焼き"への移行がどのように起こったかということに説明ができます。陸稲から水稲への移行は寒冷化が大きく影響します。要するに亜熱帯が故に自然に陸稲が自生していた状態から、寒冷化により水田として亜熱帯の模擬をするようになったと考えることもできる。だとすれば、寒冷化により陸稲から水田稲作が始まったと考えられる。
ご視聴ありがとうございます。お言葉を返すようで申し訳ないですが、日本における覆い焼きの始まりは、縄文時代晩期に韓半島から稲作をはじめとした様々な技術が玄界灘沿岸地域・佐賀平野に伝えられた時に、その1つの要素として伝えられたと思います。ですので、壺という器形・土器の作り方と共に焼き方も伝えられたと考えられています。これが弥生時代前期には一気に愛知県西部まで伝えられます。これも焼き方が単体で伝わったのではなく、遠賀川式土器という当時の壺・甕・鉢のセットの土器の作り方、もっと言えば稲作をはじめとする弥生文化全体と共に伝えられました。動画の最後の図で、野焼きが弥生時代・古墳時代・古代にまで残るようになっているのは、愛知県東部よりも東には、段階的に伝えられているからです。大雑把には、南関東までは弥生時代中期のうちに、北関東・南東北には古墳時代前期のうちに、北東北には古墳時代中期から後期のうちに、北海道中南部には古墳時代末から古代に、それ以北にはひょっとしたら伝わっていないかもしれません。これらも焼き方だけではなく、土器の作り方と共にセットで伝えられています。仰ったようなことは、最初に覆い焼きが開始された場所ではそうだったかもしれませんね。稲藁を使う事がポイントでしょうね。
前に博物館で縄文・弥生・土師器の破片を触って、それが薄く固く進化しているのを実感しました。それには製法の改良があったのですね。そのプロセスの一部始終が見られて納得できました。黒斑のつき方を手掛かりに製法が復元できるというのも面白いですね。
技術的・理論的には動画で説明した通りなんですが、実際に弥生土器が縄文土器よりも明らかに硬く焼き締まっているかというと、正直なところ、体感的には違いはない気がします(;^_^A。やはり須恵器以降に劇的にへんかするんじゃないでしょうかね。黒斑がどのようにしてあんなに丸くつくのかについては、色々な議論があったようで、考古学の第一人者の方ですら、まだ燃えていて熱い時に木の板で挟んで取り出した時の、板との接触によってついたのではと言われた時期もありました。その説も一定の支持があったように記憶しています。
若い頃 土師器の復元實驗をしました地面を5寸程掘り下げ、まきと藁で野燒しました仕上がりは祝部土器色で、少しですが自然釉もかかっていました
そうなんですね。野焼きで自然釉がかかるとは、凄いですね。
土器自体は子供の頃から教科書に載っていたり千葉県に引っ越した際には近所を少し掘っただけで縄文式土器が出てきて身近なモノでした。ただ、焼成粘土塊なんてモノは初めて知りました。本当にわかりやすい説明、仮説もとても説得力がありました。藁と灰で覆っただけで土器まで真っ赤になるほど温度が上がる事には本当に驚きました。
ご視聴ありがとうございます。なかなか覆われた中がどんな風になっているのかを映像で見ることはないですものね。私も最初にあれを見た時は、ちょっと感動しました。
大変面白いです
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
分かりやすい解説をありがとうございます。論文読まずに済んだ・・・・
ご視聴ありがとうございます。論文読みましょう(笑)。
5世紀になって窯を使うようになると黒斑は付かないようですね。埴輪は黒斑があるものと無いものと両方あるので築造年代の目安になるような気がいたします☺
いつもありがとうございます。窯については金子さんの方が詳しいと思います(笑)。また教えてください。
@@koukogaku いえいえそんなことはありません。いつも勉強させていただいております。今後ともよろしくお願いいたします☺
作り方が分からなければ自分たちで実際にやってみようというところが考古学の面白いところですね土器作り以外にも古代の米飯の作り方やタタラ場体験など、やってみて初めて想像したことが具体性を伴うものになる
仰る通り、実験してわかること、実験しないとわからないことも多いですよね。ただ、昔各地の博物館で行われていた縄文土器作り体験を見た経験からしますと、実験で同じような現象を再現できたとしても、当時もそのようにやっていたのかどうかは必ずしも言えない気がしています。現代の感覚・常識のバイアスを取り払って、いかに当時の環境の中で可能なことを考えられるのかが問われていると思います。
弥生土器では覆いをつけて閉所で焼く所まで進んでいたのですね。これが進むと釜を作り閉所でより高温で焼く須恵器になり、須恵器では酸素が少ない釜の中で焼くので鉄が還元されて黒っぽくなってきます。そして酸素が少ないところで鉄鉱石や砂鉄を焼くと鉄になるというところまで繋がっていきそうだな。
製鉄技術はアナトリアで発明され、ヒッタイトの滅亡とともに世界中に広まりました。但しそれを受け入れる為の技術が青銅器製作として準備されていました。日本列島やアフリカサブサハラ地区では青銅器と鉄器が同時に入ってきました。
興味深い発表でした。複雑な形の土偶だと収縮率の差から割れたりヒビが入ると思いますが複雑な形の土偶が多く発掘されています。技術的には簡単なことではないはずです。独自のノウハウを持っていたのでしょうね。
土偶の造形は本当に凄いですね。あのような造形をどのようにして考え出したのでしょうか。
縄文土器=野焼き、弥生土器=覆い焼き、と言う知識は持っていましたが、具体的な方法を知ったのは初めてです。特に驚いたのが野焼きの方が初期には高温になると言う事です。野焼き=低温と思っていました。
熱を閉じ込めることが出来ない上に短時間焼成なので、覆い焼きと比べると、相対的には土器が受ける熱量が少なくて、ある意味低温と言えば低温なのかもしれませんね。こういうことが、縄文土器の断面で見ると芯が黒くなっている理由だと思います。内部に含まれている有機物が熱で焼失しなくて残る現象です。
弥生時代に百間川原尾島遺跡にいたのは何民族だったんだろうか?縄文後期に人が住み始めたとあるけれど、それまではアカホヤ噴火以降誰もいなかったのなら渡来人の可能性もありそうだ、岡山だし。渡来人系土器と東北の倭系土器ではまた違いがありそうね。
百間川原尾島遺跡だけで見ていれば、住んでいなかった時期があるかもしれませんが、岡山平野というくらいの広い単位で見れば、連綿と人は住み続けていたと思いますよ。東北の倭系土器が何の事をおっしゃっているのかわかりませんが、東北北部では、南からの影響のほかに、北海道の土器の影響が強くなったり弱くなったりしながら変化していくようです。
油(ゴマか菜種)を塗って焼いてた想ってた。
これぐらいの藁と木で出来るんですか?
覆い焼きのことを言っておられるんですよね? あくまでも1つの解釈・想定ですが、動画にもあるように、泥や灰が熱の放出を防いでくれて真っ赤になるほどですので、熱量的には十分かと思います。
粘土の質の問題ですね試行錯誤をして水分量、陰干し、したんでしょうね失敗は成功の母
粘土の質と焼き方は関連が強いと思います。試行錯誤を繰り返して粘土と焼き方が進歩していったのではないでしょうか。
こんばんは😊(゚▽゚)/😊
こんばんは☺
やはり考古学は「フィールドワーク」無くして、発展はあり得ないのだなぁと、非常に勉強になりました。
縄文・弥生の人達も多くの失敗と成功から学ばれていったのでしょうね。
いつもありがとうございます。どんな分野でも現場は大事でしょうね。少しでも参考になることがあれば幸いです。
ここまで詳しく土器の作り方を聞いたことがなかったので、前編後編とも、とても楽しく、勉強になりました!
時代が下るにつれ技術が進歩していくのとともに、芸術家肌の制作者も出現したかもしれませんね。「こんなの甕じゃねえ!ガシャン」みたいな。笑
いや~考古学って本当に面白くて浪漫がありますね。
覆い焼きは、一般の人にとってはほとんどなじみがないですよね。こういう焼き方なんじゃないかって言われ出したのは、1988年に提唱されましたんですが、学会の中でも広まり始めたのは2000年以降だと思います。当時は何言ってんの? みたいな感じだったんですが、今ではかなり一般化していると思います。こんなの甕じゃねえ! は私の中では相当新しい時代のイメージですね(笑)。
@@koukogaku なんと、つい最近なんですね。野焼きから覆い焼、穴釜へ進化する話は道理にかなっており、素人の私も大いに納得です。
私が学生時代に習った(義務教育レベルですが)歴史や考古学も、どんどん上書きされて、少し寂しい反面、面白くてワクワクしますね。これからも楽しみにしております。
私も博物館で弥生土器の焼成を行ったときに、色々な方の論文や書籍を読んで参考にさせていただきました。
黒斑がベッタリ付いたときには感動しましたね…
このような動画があると、覆い焼きのハードルが下がって、体験で採用する博物館も増えるかもしれませんね。
ありがとうございます。
そうなんですね。少しでも広まればいいですね。ただ個人的には縄文土器作りの体験講座で、土器を炙って焼くやり方が早くなくなってほしいと思っています。あれは現代の陶芸の感覚とごっちゃにしている気がしています。
@@koukogaku
返信ありがとうございます。
私も炙りに対しては否定的です…
また、出土土器を見るとかなりの砂粒が含まれているのにも関わらず、体験で使われる陶芸用粘土にあまり砂をあまり混ぜていないので、炙りをやっても失敗品が多く生じてしまうのだと思います。
土器作りに関わらず、復元・使用実験を行う際には遺物をよく観察することも重要であると考えています。
@@しゃんしゃん-e8r そうなんですよね。混ざってないものを野焼き用粘土として販売しているようですので、そのまま作って焼いて破裂することが多いようですね。よく観察することは、本当に大事ですね。
なるほど、"藁"を使うところが重要ですね。
ということは、稲作が増え、藁の増加によって藁燃料が増え、その結果として弥生土器が広まっていったということですね。
藁燃料を使うために飛散を防ぐために重しとして灰をかけ、更に土をかけるようになり、焼成の温度条件が変わったことで、土器の作り方や構造に変化が生じたと考えると自然ですね。
そう考えると稲作の増加が徐々に弥生土器への変化につながっていったという変遷が自然に理解できます。
要するに"野焼き"から"覆い焼き"への移行がどのように起こったかということに説明ができます。
陸稲から水稲への移行は寒冷化が大きく影響します。
要するに亜熱帯が故に自然に陸稲が自生していた状態から、寒冷化により水田として亜熱帯の模擬をするようになったと考えることもできる。
だとすれば、寒冷化により陸稲から水田稲作が始まったと考えられる。
ご視聴ありがとうございます。お言葉を返すようで申し訳ないですが、日本における覆い焼きの始まりは、縄文時代晩期に韓半島から稲作をはじめとした様々な技術が玄界灘沿岸地域・佐賀平野に伝えられた時に、その1つの要素として伝えられたと思います。ですので、壺という器形・土器の作り方と共に焼き方も伝えられたと考えられています。これが弥生時代前期には一気に愛知県西部まで伝えられます。これも焼き方が単体で伝わったのではなく、遠賀川式土器という当時の壺・甕・鉢のセットの土器の作り方、もっと言えば稲作をはじめとする弥生文化全体と共に伝えられました。動画の最後の図で、野焼きが弥生時代・古墳時代・古代にまで残るようになっているのは、愛知県東部よりも東には、段階的に伝えられているからです。大雑把には、南関東までは弥生時代中期のうちに、北関東・南東北には古墳時代前期のうちに、北東北には古墳時代中期から後期のうちに、北海道中南部には古墳時代末から古代に、それ以北にはひょっとしたら伝わっていないかもしれません。これらも焼き方だけではなく、土器の作り方と共にセットで伝えられています。
仰ったようなことは、最初に覆い焼きが開始された場所ではそうだったかもしれませんね。稲藁を使う事がポイントでしょうね。
前に博物館で縄文・弥生・土師器の破片を触って、それが薄く固く進化しているのを実感しました。それには製法の改良があったのですね。そのプロセスの一部始終が見られて納得できました。黒斑のつき方を手掛かりに製法が復元できるというのも面白いですね。
技術的・理論的には動画で説明した通りなんですが、実際に弥生土器が縄文土器よりも明らかに硬く焼き締まっているかというと、正直なところ、体感的には違いはない気がします(;^_^A。やはり須恵器以降に劇的にへんかするんじゃないでしょうかね。黒斑がどのようにしてあんなに丸くつくのかについては、色々な議論があったようで、考古学の第一人者の方ですら、まだ燃えていて熱い時に木の板で挟んで取り出した時の、板との接触によってついたのではと言われた時期もありました。その説も一定の支持があったように記憶しています。
若い頃 土師器の復元實驗をしました
地面を5寸程掘り下げ、まきと藁で野燒しました
仕上がりは祝部土器色で、少しですが自然釉もかかっていました
そうなんですね。野焼きで自然釉がかかるとは、凄いですね。
土器自体は子供の頃から教科書に載っていたり千葉県に引っ越した際には近所を少し掘っただけで縄文式土器が出てきて身近なモノでした。ただ、焼成粘土塊なんてモノは初めて知りました。本当にわかりやすい説明、仮説もとても説得力がありました。藁と灰で覆っただけで土器まで真っ赤になるほど温度が上がる事には本当に驚きました。
ご視聴ありがとうございます。なかなか覆われた中がどんな風になっているのかを映像で見ることはないですものね。私も最初にあれを見た時は、ちょっと感動しました。
大変面白いです
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
分かりやすい解説をありがとうございます。論文読まずに済んだ・・・・
ご視聴ありがとうございます。論文読みましょう(笑)。
5世紀になって窯を使うようになると黒斑は付かないようですね。埴輪は黒斑があるものと無いものと両方あるので築造年代の目安になるような気がいたします☺
いつもありがとうございます。窯については金子さんの方が詳しいと思います(笑)。また教えてください。
@@koukogaku いえいえそんなことはありません。いつも勉強させていただいております。今後ともよろしくお願いいたします☺
作り方が分からなければ自分たちで実際にやってみようというところが考古学の面白いところですね
土器作り以外にも古代の米飯の作り方やタタラ場体験など、やってみて初めて想像したことが具体性を伴うものになる
仰る通り、実験してわかること、実験しないとわからないことも多いですよね。ただ、昔各地の博物館で行われていた縄文土器作り体験を見た経験からしますと、実験で同じような現象を再現できたとしても、当時もそのようにやっていたのかどうかは必ずしも言えない気がしています。現代の感覚・常識のバイアスを取り払って、いかに当時の環境の中で可能なことを考えられるのかが問われていると思います。
弥生土器では覆いをつけて閉所で焼く所まで進んでいたのですね。これが進むと釜を作り閉所でより高温で焼く須恵器になり、須恵器では酸素が少ない釜の中で焼くので鉄が還元されて黒っぽくなってきます。そして酸素が少ないところで鉄鉱石や砂鉄を焼くと鉄になるというところまで繋がっていきそうだな。
製鉄技術はアナトリアで発明され、ヒッタイトの滅亡とともに世界中に広まりました。
但しそれを受け入れる為の技術が青銅器製作として準備されていました。
日本列島やアフリカサブサハラ地区では青銅器と鉄器が同時に入ってきました。
興味深い発表でした。複雑な形の土偶だと収縮率の差から割れたりヒビが入ると思いますが複雑な形の土偶が多く発掘されています。技術的には簡単なことではないはずです。独自のノウハウを持っていたのでしょうね。
土偶の造形は本当に凄いですね。あのような造形をどのようにして考え出したのでしょうか。
縄文土器=野焼き、弥生土器=覆い焼き、と言う知識は持っていましたが、
具体的な方法を知ったのは初めてです。特に驚いたのが野焼きの方が初期には高温になると言う事です。野焼き=低温と思っていました。
熱を閉じ込めることが出来ない上に短時間焼成なので、覆い焼きと比べると、相対的には土器が受ける熱量が少なくて、ある意味低温と言えば低温なのかもしれませんね。こういうことが、縄文土器の断面で見ると芯が黒くなっている理由だと思います。内部に含まれている有機物が熱で焼失しなくて残る現象です。
弥生時代に百間川原尾島遺跡にいたのは何民族だったんだろうか?縄文後期に人が住み始めたとあるけれど、それまではアカホヤ噴火以降誰もいなかったのなら渡来人の可能性もありそうだ、岡山だし。渡来人系土器と東北の倭系土器ではまた違いがありそうね。
百間川原尾島遺跡だけで見ていれば、住んでいなかった時期があるかもしれませんが、岡山平野というくらいの広い単位で見れば、連綿と人は住み続けていたと思いますよ。東北の倭系土器が何の事をおっしゃっているのかわかりませんが、東北北部では、南からの影響のほかに、北海道の土器の影響が強くなったり弱くなったりしながら変化していくようです。
油(ゴマか菜種)を塗って焼いてた想ってた。
これぐらいの藁と木で出来るんですか?
覆い焼きのことを言っておられるんですよね? あくまでも1つの解釈・想定ですが、動画にもあるように、泥や灰が熱の放出を防いでくれて真っ赤になるほどですので、熱量的には十分かと思います。
粘土の質の問題ですね
試行錯誤をして水分量、陰干し、したんでしょうね
失敗は成功の母
粘土の質と焼き方は関連が強いと思います。試行錯誤を繰り返して粘土と焼き方が進歩していったのではないでしょうか。
こんばんは😊(゚▽゚)/😊
こんばんは☺