Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
ごくろうさまです。近くが故郷でこのあたりもよく自転車で走っていました。飛行場の話は聞いたことがありませんでした。楽しい話、ありがとうございます。
2千米の滑走路とありますが、そんな長さがあったはずはありません。荏原藤沢に勤務していた者です。60年ほど前の工場敷地購入時の当地の様子ははっきり記憶にあります。ススキの原っぱに荒れ果てたコンクリート滑走路だけ、掩体壕やタコつぼも残っていました。滑走路は海水浴客監視の単発セスナ機程度には十分でした。パイロットの話として海から台地に吹き上げる末端の乱気流が嫌だとも言ってました。当飛行場は空母発着操縦士の最終陸上訓練基地でした、滑走路が短いのは当たり前。そして気流が乱れ離着陸が難しいからこそ、ここに空母機搭乗員の最終訓練基地を設置してあったと当時説明を聞きました。尚、工場敷地のどこにも当時の面影は全く残っておりません。
元藤沢市民です。昔、祖父から現荏原製作所の敷地が戦中、戦後飛行場であったことをよく聞かされました。この辺を通るたびにこんなとこに飛行場があったのかとも思っていましたが。考えてみれば厚木基地や深谷通信所、瀬谷 の補給基地など近くにたくさんの旧日本軍、米軍関連施設がたくさんあり現役で利用されている施設もあります。先の大戦の痕跡とわかる人がだんだん少なくなってきましたが、貴殿のように掘り下げてくれるコンテンツに感謝します。
新旧画像の比較が分かりやすくてとてもよかったです。こういう歴史的な考察はとても面白いですね。
古い航空写真だけではなかなかイメージが湧かなかったのですが現在の写真と重ねてみることでようやく位置関係がハッキリしました。同時に当時からある道の存在もわかり今回の動画の着想にも繋がることになります。ちなみにこの動画もスマホ編集ですがさすがにスマホの小さい画面で写真の合成はできずその部分だけはタブレットを使って作成してます。こういう歴史(近代史?)モノもわりと好きなジャンルなので私のドライブ動画に絡める形でまた作れたらと思います。
子供のころ、かっ走路でトノ様バッタを採取しました。海軍の飛行場後に民間のレジャー用の運用をされていなしゅた。セスナ機が江の島方向日離陸するのが日常的でした。ゼロ戦の格納豪が二基永く残っていました。バイパスを渡って左に行ったところから滑走路に入れました。テニススクールのあるところが滑走路で今のそのコンクリートがそのまま使われています、
有難うございます。とても興味深く見入ってしまいました。素晴らしい動画、レポートでした!
再び失礼します、工場の受付を入った所に、昔の滑走路のコンクリート舗装が今でも残ってますよ。
昭和35年頃の、小学生時代。飛行場に、自由に入られました。セスナ機が多く停めてあり、操縦席に入り込みました。
元地元ですけれど飛行場だったんですね。国鉄大船工場も昔は軍用地みたいだし…勉強になります🤔
懐かしいですね。子どもの頃、荏原製作所のトラック付きグラウンドでしょっちゅう遊んでいました。さらに野球場が3面ほど、南北に延びていた滑走路の名残りも一部あって、とにかく広大だった印象が残っています。近くに防空壕もありましたね。
私もいけなかったかもしれませんが、荏原製作所のグラウンドで午後7時頃、誰もいなくて30分くらいトラックをグルグル走ってました。30年くらい前の話ですが。その後、離れてしまいましたが、今はマンションになってるのかどこだったのか分かりません。SSCのテニスクラブは当時既にあって、少しだけテニススクールに通ったのですが、面白さが分からずすぐに辞めてしまいました。今から考えると後悔です、健康的な趣味になったかもしれないのに
近くに「関東航空計器」という会社が存在するのも名残りです。
両親がデートでこの飛行場からセスナに乗ったと聞いていました。私も地元のスポーツ店が始めたアメフトのクラブチームに入り、飛行場跡地が練習場所だったので毎週通っていました。懐かしい場所の紹介をしていただきありがとう御座いました!余談ですが、飛行場があったからかは判りませんが善行駅から善行団地にかけての住宅地の地下にはアリの巣のように防空壕が存在していたそうです。
稲荷加圧ポンプ所の西側に隣接して北へ向かう直線が誘導路の跡です。修道院入口交差点から西側に入って関東航空計器がある建物の隣には、当時の格納庫の建物がそのまま残っていました。しかし、現在、絶賛解体中です。また一つ当時の遺構が消えつつあります。18年ほど前には老人福祉センター前交差点の近くにコンクリート製の燃料庫が3つありました。ここは宅地開発の際に全て撤去されています。これはインターネット飛行機雑誌「ヒコーキ雲」にて、藤沢海軍航空隊の燃料庫として詳しくレポートしてあります。
現在、大庭に住んでおりますが、飛行場があった事はまったく知らず、この動画を見て驚きました😳毎日、仕事帰りに飛行場跡のすぐそばを通っているので、今度散策してみます😊
20年ほど前に荏原製作所で働いていましたが飛行場の痕跡はほとんど残っていいませんでした。テニスコートから引地川へ下って行った交差点付近にレンガ作りの燃料庫あとが残っていましたが宅地開発で今ではもうありません。
昭和45年頃藤沢市西富に住んでいました、現在住宅団地や工場があるあたり当時は細長い広大な空き地でした
藤沢飛行場懐かしく反応して仕舞いました。飛行場の下の方にあった小学校に通っていました、6年生の時U2が不時着し騒ぎに成ってました、この頃かな?よくグライダーの練習見に行ってました、あ~模型飛行機(ゴム動力の)大会で48秒飛んで入賞したっけな~。
地元です、子供の頃、工場が出来る前の放置されて劣化した滑走路跡で良く凧揚げをしてました。
グリーンハウスは、ドラマ「タイヨウのうた」や「ガリレオ」のロケ地になった場所で2階にかつてあった玉屋食堂さんは劇中の帝都大学の食堂とされていました。懐かしく拝見しました。
なるほど、藤沢飛行場は、初めて聞いたよ!たしかにあの辺って入り組んでるね! 三共自動車!懐かしいね本町駅その裏側ですね!
グリーンハウスの裏手の森に穴は塞がれてしまっているが燃料庫だったか防空壕があった気がします。
植木屋の頃、入れないフェンス中の草刈りを数ヶ月しましたね。昔の何かの痕跡はありましたねぇ〜当時は20歳頃だから、興味は無かったけど…総合教育センターで、グリーンハウスにマッカーサー元帥が来たとか聞きました。厚木は有名でしたが、善行にも来ていた様です。歴史を感じましたね~
私が子供の頃に今ある工場の敷地が一般開放の日があり、近所なので両親といった思いがあります滑走路のようなものがあって人に聞いた話では飛行機が離発着していたと言う話を覚えています。多分私はその頃は昭和45年から47年位の時だと思います。
こんにちは。藤沢市のことは知らないことだらけですが、先ずはゴルフ場があったことと、その後飛行場が有ったことを初めて知りました。興味深い映像有難うございました。クラブハウスの設計者であったアントニオ・レ-モンドが日本で開設した設計事務所は、昭和50年頃には六本木にありました(今でも代々木に事務所を構えています)。六本木ではありますが、コンクリ-トの建物ではなく和風の平屋の建物で、仕事で何度もここを訪れたことを想い出しました。
ここに飛行場があるという話を知ったのは実は結構前の話です。尺の都合で全く触れてませんが飛行場末期に米軍の偵察機が不時着する事件が発生したそうです。現地で何も発見できなかった探索ですが最後にグリーンハウスを絡めて強引に締めてしめいました。私が動画を作るにあたって事前に色々調べたりしますがソースはだいたいWikipediaになります。あれも一度見だすと気になるワードをたどってなかなか止まらなくなりますがおかげで色々な事を知ることができました。使用者がコロコロ変わりながら次第に老朽化してきたグリーンハウスですが過去に保存計画が浮かんでは消えていたようです。その過程でレーモンド事務所自身が耐震評価を手掛けているなど興味深いエピソードもありました。モダニズム建築の権威と言われた(らしい)レーモンドが自身の様式と全く異なる設計で作られたグリーンハウスですがそれが逆に稀少性を生み保存運動のきっかけになったようです。結局は東京2020大会が契機になりスポーツセンターの再整備と合わせて改修工事が実施されて今に至ります。
海へ出て行くそのグライダーの曳航を小学校の頃校庭から眺めていましたここは戦後 米偵察機の不時着がありましたね
初めまして!明治小学校のご出身でしょうか?
およそ60年前になりますが、鵠沼に住む義兄が飛行機のライセンスを取りに通っていました。一度付いて行ったときに二人乗りの小型機に乗せてもらい江ノ島の上をふわふわと飛びました。まだ周りには戦時中の飛行機の格納庫が残っていました。その後ほどなく飛行場は竜ケ崎に移ったと聞きました。残念ながら飛行場のよすがは残っていないようですが、たいへん懐かしく見させていただきました。ありがとうございました。
23の頃にバイトでこのあたりを、トラックで走ったのが懐かしい…戦時中は飛行場があったのか…
うわーなんとなく見てたらグリーンハウスって食堂じゃないですか。よくプールの帰りにオムライス食べてました。ポストミックス飲みながら帰ったのが懐かしい思い出。
その飛行場跡地は荏原製作所藤沢工場になっています。30年近く前に工場検査で伺いましたが敷地が台地でほぼ水平になっている事から、以前は軍の飛行場だったのでは?と思っていました。戦時中は、主に関東から西日本地域にかけて相当数の飛行場が作られたとの事ですのでその中の1つだと思います。当時工場は冷凍機等を作っていましたが現在も操業していると思います。
コメントありがとうございます。今となってはここに飛行場があったことなど遠い昔話ですが戦時中は確かにあちこちに飛行場があったようです。横須賀市追浜にある日産追浜工場もかつては飛行場だったそうですし愛川町中津の内陸工業団地もそうだったようです。相模原市中心部付近の国道16号も道路脇にかなり余裕がありますがこれも戦時中の軍都計画の一環で臨時の滑走路として使う想定だったと言われています。戦争の記憶も遠くなった現在はその事に気が付かずただ通りすぎるだけなのでしょうね。
知り合いが昔この下にコンクリート製の格納庫が有って登って遊んでいたと言ってました。その話から滑走路は丘の下だと思っていましたが、飛行場が有ったのは丘の上だったのですね。厚木飛行場の北の端には防空壕らしき空洞が有り、子供の遊び場になってたと友達が話していました。
戦前生まれの父から、荏原製作所の場所には海軍の飛行場があったと聞いていました。ただ、戦争末期には飛ばす飛行機も尽きていたようで、張り子の飛行機を並べていただけのようです。グリーンハウスには、私自身が宿泊したことがあります。もう40年以上前の中学2年生のときに何かの学校行事で1泊した思い出があります。当時はまだ現役の教育施設でした。
子供の頃、大庭大橋(当時はまだなかった)を登った辺りに広大な原っぱがあり、夏休みに毎日ソフトボールをしていたことがあります。「今日エバラいこーぜ」みたいに話していたのですが飛行場跡地の端っこの方だったんですね。知りませんでした。
小学生の頃に映画館で観た「黒いジェット機事件(U2不時着事件)」のニュース映画で藤沢飛行場の存在を知りましたが、その後1974年に藤沢に転居してきた頃には、まだ滑走路跡地の荏原製作所脇の畑に掩蔽壕が残っており、農業資材置き場として使われていたのを見た記憶があります。
コメントありがとうございます。かつては掩体壕があったのですか。神奈川では金沢区の野島に現存するそうですがこれも隣接する日産追浜工場がかつては海軍飛行場だったからでしょう。動画内で少し触れた旧香取航空基地もやはり掩体壕がありいくつか現存します。近くでは見れませんでしたが遠くから確認できました。
大戦中司令部だったグリーンハウスには地下への入口があって結構広大な地下施設になっているという都市伝説があるんですがどうなんでしょうね。入口っぽいのはあるんですが流石に入る事できなくて…
Google Earth北側に出ている小学校出身です。S50年前後の高校生頃まで荏原製作所も出入りが緩く陸上のトラックも使わせてもらいましたが当時はハッキリ滑走路あととわかる広い舗装された場所が南北を貫いていました。セスナのような飛行機も関東航空計器の脇にあった気がします。映像にある周辺の道路は今でも生活道路です。
情報ありがとうございます。あの手の企業の施設は今ではセキュリティが厳しいとは思いますが昔は緩かったんですね。関東航空計器は戦後に設立されて現在も存在しますが同時期に東洋航空工業が設立されて藤沢飛行場を運営すると共に航空機の製造も行っていたようです。藤沢飛行場が廃止になったのはこの東洋航空工業の業績が思わしくなかった為と思われます。飛行場廃止後に荏原製作所が入ったのは昭和40年だそうですがそれから10年くらいはまだ滑走路跡も残っていたんですね。南側の住宅地はまだ新しい印象を持ちましたがそうやって徐々に飛行場の痕跡が消えて行ったのでしょうね。
今は外れてしまいましたが6年ほど前まで、跡地にあるこの大きな某事業所さんはわたしの管理担当得意先の1社さんで、月に2回ほど工場敷地内に伺っていました。その際、部署の方との雑談の中で時折このゴルフ場と飛行場の話が出てきたものです。工場敷地を東西方向に貫く比較的広い道路が昔の滑走路の名残りだそうですよ、と当時社員の方からは聞いたことがありましたが、HAKASEさんの今回の検証で滑走路は南北に近い向きであったと知り驚きました。この辺りの丘陵地は優雅な起伏を湛えた風光明媚な所ですので、先人がゴルフ場を着想するのも、現代の人々が瀟洒な家を建てて暮らしたいと思うのも、素敵な安らぎを求める同じ心のはたらきなのだと感じます。いい場所です。ありがとうございました。
あの中に入った事があったのですか。それでも雑談レベルの話しか出てこないのはやはりハッキリわかるような痕跡は残っていないという事なのでしょうか。あの滑走路のあった一帯はあそこだけ突き出した小山のような地形なので何も無かった当時は空母のような感じだったのでしょうね。西には天気が良ければ富士山も見えるようなので高台らしい眺めのいい場所なのでしょう。
お客様の施設内のことなので詳しくお話しすることはできませんが、僭越ながらもう少しだけお赦しいただけるのなら、今回のHAKASEさんの検証結果を照らし合わせ、現在の当該事業所の敷地内にはかつての飛行場の痕跡はもう何も残ってはいないといえます。多くは語れませんが、それは中に何十回も入れていただき隅々まで見せていただいた者の確信に近い印象です。以上、失礼しました。
@@境川枸杞弘 実際に中にも入った方の話を聞けるとは思ってなかったので貴重な話をありがとうございました。ちなみにグリーンハウスという名前は実は正式名称ではなくゴルフ場時代に隣接する修道院の修道女達がそう呼んでいたのがルーツらしいです。あまり詳しくは言えませんが実はその修道院は仕事で関わりがあります。人と人との関わりの中で思わぬところで繋がる事もあるので縁って面白いですね。
荏原製作所内の構内道路の感じが元飛行場の後と言う感じがします。さすがに建物は無かったですね。
荏原製作所に仕事で行ったときに、荏原製作所の人から「知っていますか、この場所は昔飛行場だったんですよ」と言われ、そう言えば会社に敷地は平らで真っすぐな道が伸びていた。今は住宅地になっているが、住宅地の工事をしているときに滑走路に向かって旧日本軍の大きなトンネルが見つかったそうです。
私の親は、ここの荏原の飛行場からゼロ戦が飛んだのを見たと、言っておりました。その後は東大のグライダー部が使っていたのは、私自身見ております。
近くの横須賀市在住の者ですが、横須賀には旧海軍の飛行場が3カ所有りました。現在、ソレイユの丘と駐車場が跡地で残ってます。藤沢市は全く知りませんでした。!!
コメントありがとうございます。追浜に飛行場があったのは知っていましたがソレイユの丘がそうだったのは知りませんでした。武山に駐屯地があるのはそれと何か関係があるのでしょうか。当時の飛行場の痕跡は・・さすがに無いんでしょうね。
陸海空と教育隊ですね。詳しくは分かりませんが、旧海軍施設ですね。もう一つの飛行場は南下浦の農道になります。😊
大学のグライダー 部で使わせていただいてました、地形の特性で海からの上昇気流が良い塩梅で…大昔の話です。
コメントありがとうございます。ここは滑走路が短いせいで軽飛行機くらいしか使えなかったみたいですね。高台の上にあって滑走路の前後はほぼ崖なのでグライダーで着陸する時にちょっとでもコースがズレたら崖下一直線なんて事にならなかったのでしょうか、なんて思ったりします。
藤沢市民です。地元の老人が飛行場と空中戦、砲撃の話をしてくれました。実際に飛行場があった映像をみて感激しました。今度、グリーンハウスまでサイクリングします。
コメントありがとうございます。善行駅前にあった案内板によれば「戦時中飛行機を隠した土塁」というものがあるようですが車でちょっと走り回るだけでは見つけられませんでした。もうちょっと現地を歩き回ってつぶさに観察したら何か見つかるかもしれませんね。
10年前くらいに荏原製作所に外部の作業者として3日間仕事をしました。ごく普通の工場が並んでいました。
こんにちは。此方の「旧藤澤カントリー俱楽部/クラブハウス」がBS朝日で12月1日(水)22:00~22:30に放映されます。番組の詳細は不詳ですが、録画予約を先ほど済ませました。
こんにちは。グリーンハウスは戦時中に旧海軍の司令部となり戦後は連合軍が駐留したようですがそれ以降は飛行場とは関係がなくなり広大なゴルフ場跡地やグリーンハウスを巡って色々と争奪戦が繰り広げられたようです。おそらく飛行場とはあまり関係のない内容になると思いますが激動の時代を生き抜いてきたグリーンハウスの特集番組は興味深いですね。
もうさすがに痕跡を見つけるのは難しいですね。私の子供の頃は映像最初の大庭大橋登って左折した交差点、あそこを右折してすぐに燃料庫?と噂されてた地下壕があった。セブンイレブンのある場所には掩体壕があったし、すぐ裏の道からファミマ~映像の中の住宅地の道は誘導路の名残。荏原の中はSSC出来る前はもっと滑走路っぽかった。米軍のU2が不時着した事件も。
先程の高台に行く上り坂は石名坂ですね私は、子供の頃おじいちゃんと散歩に石名坂を登り飛行場に行った事が何回か有ります。プロペラ機が数台並んでいました。周りは砂利道でしたね
本鵠沼に住んでいましたが小さい頃に上空でグライダーが飛んでいるのをよくみました。また父から聞いた話としては近所に零戦のパイロットの方の住まいがありその方が帰投されると上空で翼端を振って通過したとか飛行場付近で零戦が不時着した場所があるとか色々な話がありました。
’87~92 頃、この外周路に、夜になると車趣味の仲間と集いラリーの SSゴッコ に興じたものです。現代の映像を拝見するに、路面やフェンスは当時と殆ど同じ。チョイとばかり血は騒いだけど、70歳過ぎ(還暦+①巡+1年)の年寄り、身の程を弁えましょうかね。
滑走路は、幅60メートル・長さは945メートルとの記録がありますね。滑走路があまりに短いため、米軍接収も1年で解除となったようです。その後、東洋航空が25メートル×824メートルの滑走路として認可を得て、民間に貸していたとのこと。
藤沢市善行在住です。荏原製作所が飛行場だった事は、昔から通っていた歯医者さんで聞きました。詳しい事は荏原製作所の社内見学会で知りました。工場内のメイン道路はその名残りと聞いています。
私は子どもの頃善行団地に住んでました(S.43年)その当時セスナ機が着陸してたと父が言ってました。少年野球の練習で荏原製作所のグランドに行きながら滑走路をあるていた記憶があります。また、ワークマンやセブンイレブンに防空壕があり小学生の頃遊んでたらおじさんに「入るみな!」と怒られたこともありました😅
この地区に住んでいるのに知らない事ばかりでした。この付近に航空計器関連の会社があるのもその名残なのでしょうか。
民間飛行場だった時代はここに東洋航空工業という会社があって飛行機の製造を行っていたと共に飛行場の運営も行っていたようです。業績が芳しくなく結局は倒産してしまったようですがそれも飛行場が無くなった一因なのでしょう。関東航空計器は現在も存在しますがその頃からあったようなので飛行場があった頃の名残といえばそうと言えるのかも知れませんね。
本土上陸への防戦基地だったんですね。米軍はコロネット作戦と言ってたらしいですが。特攻機は10000機、帝国陸軍軍人軍属3000万人ですから私はアメリカ海兵隊600万は壊滅したと思ってます。胸熱ですね。
地元民ですが、昔からゴルフ場と飛行場の存在は知っていましたが、どちらも一般道からのアプローチでは存在は窺い知る事ができません。グリーンハウスや市の記録ぐらいでしかわからず、二、三十年住んでるくらいの方は「えっそんなのあったの?」というくらい認知度は低いです。ゴルフ場は南のキリスト系学校の敷地もそうだったし、北は善行北から国道に出る辺りまでがそうでした。あの時代には良いゴルフ場らしかったので、GHQ 含めたお偉いさんの御用達だったと聞いています。飛行場は聞いた所だと高台にあるので戦争に関係しているとか。戦後はゴルフ場への航空アクセスとかなんとか。あと余談ですが、ゴルフ場と飛行場の間の谷の部分ですが、大昔は海の入江でした。飛行場のある高台の一部の稲荷という地名に貝塚があり、善行駅北側の消防署脇にさらに貝塚があった石碑があります。他にも善行という地名に由来や善行大橋というのはどこなのか?と地元民にとっても謎多き場所となっています。
厚木飛行場が近くにあるのにわざわざ何で作ったのかが不思議。
厚木飛行場は元々軍のパイロットを養成する為の施設として作られて戦況の悪化で次第に首都圏防空の要となっていったようです。一方で藤沢飛行場は軍用機の無線機や光学機器を整備するための整備兵を養成する為に作られたそうで元々の使用目的は全く異なるようです。神奈川県で調べたら愛川町中津にある内陸工業団地はかつて軍の飛行場があったようですし現在の日産追浜工場もかつて飛行場だったようです。今では考えられないですが戦時中は軍の影響力が強く軍の意向に逆らうと非国民扱いされる風潮だったようなので土地の収用も強制的にできたのでしょうね。
@@hakasedrive5911 日産自動車工場は元々予科練の飛行場だったそうです、後に茨城県の阿見町に移転しています。
折角素晴らしい検証をしているのに、4分47秒付近の解説の「ら」抜き言葉で台無し。
「ら抜き言葉」。見れる、食べれる、寝れる・・などの「れ」の前の「ら」が脱落した言い方です。一時期、日本語の乱れの象徴として叩かれましたが、今ではアナウンサーも原稿を離れたトークなどの場面では話していますし、画面に出るテロップも「見れる」となっていることがあります。(私も、「辛い物は食べられない」と言った時に、「食べられない?どこの方言?」と真面目な顔で日本人に質問されたことがあります・・・。)実は、この「ら抜き言葉」。日本語教師の間では、「理由のある現象」として捉えられています。(なんていうと、「ら抜き言葉、絶対認めない!」と言っている先生方に怒られそうですが・・。)今日は、どうして「ら抜き言葉は理由のある現象」として捉えられているかをお話したいと思います。「食べられる」これだけを聞いて、皆さんは「可能表現」か、「尊敬表現」かの区別がつきますか? 私は「これだけでは、どちらか分かりません」という答えです。そうなのです。この「~られる」という言い方は、可能表現と尊敬表現の両方で使われる厄介なものなのです。特に、会話で主語を省略する傾向のある日本語は、「食べられる」だけで話すこともあるので、外国人にとっては、「可能?尊敬?」と混乱を招く原因となっています。また、この「ら抜き言葉」は「上一段活用」と「下一段活用」の動詞と「来る」の可能表現だけに表れる現象です。動詞の多くを占める「五段活用」の可能表現は、「書ける」、「読める」、「話せる」のように、「らを入れない」のです。要するに、動詞の多数は「ら」を入れずに可能を表すのに、ある限られた動詞のみ「らを入れなければならない」というイレギュラーが生じているのです。(日本人はこれをイレギュラーと考えないかもしれませんが、日本語を外からの視点で見ている外国人は「ら有り言葉=イレギュラー」と捉えています)まとめると、①「見られる」、「食べられる」のように「ら有り(?)言葉」では、 可能表現か、尊敬表現かの区別がつかないので、 その区別を付けるために可能表現の時に「ら」の脱落が起きている。②動詞の大部分を占める「五段活用」の可能表現のルール同様、「上/下一段 活用」、「来る」も「ら」をつけない変化をさせた結果が「ら抜き言葉」ということが言えます。こう考えると、この「ら抜き言葉」も、それなりの理由がある現象だと言えるのではないでしょうか。
仰る通り、カ行変格活用の他に上/下一段活用でも「ら」抜き言葉が生じる事は認識しておりますし、可能形か尊敬表現かの区別を容易につけられるというメリットも存じております。しかし、例えば「きれる」という文字だけ目にした時、刃物で切る事が出来るのか、服を着る事が出来るのか、前後の文章を読んで繋がりから意味を推測しなくてはいけないという弊害も生じる事は避けられません。上記のように、一長一短かと思います。
何だかんだ言っても、我々一般人は、もはや何でもアリの世の中だ。権利だ個性だを主張すれば、たいがいのことはまかり通る。賛同を得ることができる。四角四面は己の首を絞めることもあれば、安心していられる隠れ家のようでもある。私は自分がどうするかを選ぶとき、天皇家ならどちらを選択するか?を考えて決定します。それが私の自尊心であり、自己評価です。
ごくろうさまです。
近くが故郷でこのあたりもよく自転車で走っていました。
飛行場の話は聞いたことがありませんでした。
楽しい話、ありがとうございます。
2千米の滑走路とありますが、そんな長さがあったはずはありません。
荏原藤沢に勤務していた者です。60年ほど前の工場敷地購入時の当地の様子は
はっきり記憶にあります。ススキの原っぱに荒れ果てたコンクリート滑走路だけ、
掩体壕やタコつぼも残っていました。
滑走路は海水浴客監視の単発セスナ機程度には十分でした。
パイロットの話として海から台地に吹き上げる末端の乱気流が嫌だとも言ってました。
当飛行場は空母発着操縦士の最終陸上訓練基地でした、滑走路が短いのは当たり前。
そして気流が乱れ離着陸が難しいからこそ、ここに空母機搭乗員の最終訓練基地を
設置してあったと当時説明を聞きました。
尚、工場敷地のどこにも当時の面影は全く残っておりません。
元藤沢市民です。昔、祖父から現荏原製作所の敷地が戦中、戦後飛行場であったことをよく聞かされました。この辺を通るたびにこんなとこに飛行場があったのかとも思っていましたが。考えてみれば厚木基地や深谷通信所、瀬谷 の補給基地など近くにたくさんの旧日本軍、米軍関連施設がたくさんあり現役で利用されている施設もあります。先の大戦の痕跡とわかる人がだんだん少なくなってきましたが、貴殿のように掘り下げてくれるコンテンツに感謝します。
新旧画像の比較が分かりやすくてとてもよかったです。
こういう歴史的な考察はとても面白いですね。
古い航空写真だけではなかなかイメージが湧かなかったのですが現在の写真と重ねてみることでようやく位置関係がハッキリしました。
同時に当時からある道の存在もわかり今回の動画の着想にも繋がることになります。
ちなみにこの動画もスマホ編集ですがさすがにスマホの小さい画面で写真の合成はできずその部分だけはタブレットを使って作成してます。
こういう歴史(近代史?)モノもわりと好きなジャンルなので私のドライブ動画に絡める形でまた作れたらと思います。
子供のころ、かっ走路でトノ様バッタを採取しました。海軍の飛行場後に民間のレジャー用の運用をされていなしゅた。セスナ機が江の島方向日離陸するのが日常的でした。ゼロ戦の格納豪が二基永く残っていました。バイパスを渡って左に行ったところから滑走路に入れました。テニススクールのあるところが滑走路で今のそのコンクリートがそのまま使われています、
有難うございます。
とても興味深く見入ってしまいました。素晴らしい動画、レポートでした!
再び失礼します、工場の受付を入った所に、昔の滑走路の
コンクリート舗装が今でも残ってますよ。
昭和35年頃の、小学生時代。飛行場に、自由に入られました。セスナ機が多く停めてあり、操縦席に入り込みました。
元地元ですけれど飛行場だったんですね。国鉄大船工場も昔は軍用地みたいだし…勉強になります🤔
懐かしいですね。子どもの頃、荏原製作所のトラック付きグラウンドでしょっちゅう遊んでいました。さらに野球場が3面ほど、南北に延びていた滑走路の名残りも一部あって、とにかく広大だった印象が残っています。近くに防空壕もありましたね。
私もいけなかったかもしれませんが、荏原製作所のグラウンドで午後7時頃、誰もいなくて30分くらいトラックをグルグル走ってました。30年くらい前の話ですが。その後、離れてしまいましたが、今はマンションになってるのかどこだったのか分かりません。
SSCのテニスクラブは当時既にあって、少しだけテニススクールに通ったのですが、面白さが分からずすぐに辞めてしまいました。今から考えると後悔です、健康的な趣味になったかもしれないのに
近くに「関東航空計器」という会社が存在するのも名残りです。
両親がデートでこの飛行場からセスナに乗ったと聞いていました。
私も地元のスポーツ店が始めたアメフトのクラブチームに入り、飛行場跡地が練習場所だったので毎週通っていました。
懐かしい場所の紹介をしていただきありがとう御座いました!
余談ですが、飛行場があったからかは判りませんが善行駅から善行団地にかけての住宅地の地下にはアリの巣のように防空壕が存在していたそうです。
稲荷加圧ポンプ所の西側に隣接して北へ向かう直線が誘導路の跡です。修道院入口交差点から西側に入って関東航空計器がある建物の隣には、当時の格納庫の建物がそのまま残っていました。しかし、現在、絶賛解体中です。また一つ当時の遺構が消えつつあります。
18年ほど前には老人福祉センター前交差点の近くにコンクリート製の燃料庫が3つありました。ここは宅地開発の際に全て撤去されています。これはインターネット飛行機雑誌「ヒコーキ雲」にて、藤沢海軍航空隊の燃料庫として詳しくレポートしてあります。
現在、大庭に住んでおりますが、飛行場があった事はまったく知らず、この動画を見て驚きました😳
毎日、仕事帰りに飛行場跡のすぐそばを通っているので、今度散策してみます😊
20年ほど前に荏原製作所で働いていましたが飛行場の痕跡はほとんど残っていいませんでした。
テニスコートから引地川へ下って行った交差点付近にレンガ作りの燃料庫あとが残っていましたが宅地開発で今ではもうありません。
昭和45年頃藤沢市西富に住んでいました、現在住宅団地や工場があるあたり当時は細長い広大な空き地でした
藤沢飛行場懐かしく反応して仕舞いました。
飛行場の下の方にあった小学校に通っていました、6年生の時U2が不時着し騒ぎに成ってました、この頃かな?よくグライダーの練習見に行ってました、あ~模型飛行機(ゴム動力の)大会で48秒飛んで入賞したっけな~。
地元です、子供の頃、工場が出来る前の放置されて劣化した滑走路跡で良く凧揚げをしてました。
グリーンハウスは、ドラマ「タイヨウのうた」や「ガリレオ」のロケ地になった場所で2階にかつてあった玉屋食堂さんは劇中の帝都大学の食堂とされていました。
懐かしく拝見しました。
なるほど、藤沢飛行場は、初めて聞いたよ!たしかにあの辺って入り組んでるね!
三共自動車!懐かしいね本町駅その裏側ですね!
グリーンハウスの裏手の森に穴は塞がれてしまっているが
燃料庫だったか防空壕があった気がします。
植木屋の頃、入れないフェンス中の草刈りを数ヶ月しましたね。
昔の何かの痕跡はありましたねぇ〜
当時は20歳頃だから、興味は無かったけど…
総合教育センターで、グリーンハウスにマッカーサー元帥が来たとか聞きました。
厚木は有名でしたが、善行にも来ていた様です。
歴史を感じましたね~
私が子供の頃に今ある工場の敷地が一般開放の日があり、近所なので両親といった思いがあります滑走路のようなものがあって人に聞いた話では飛行機が離発着していたと言う話を覚えています。多分私はその頃は昭和45年から47年位の時だと思います。
こんにちは。
藤沢市のことは知らないことだらけですが、先ずはゴルフ場があったことと、その後飛行場が有ったことを初めて知りました。興味深い映像有難うございました。
クラブハウスの設計者であったアントニオ・レ-モンドが日本で開設した設計事務所は、昭和50年頃には六本木にありました(今でも代々木に事務所を構えています)。六本木ではありますが、コンクリ-トの建物ではなく和風の平屋の建物で、仕事で何度もここを訪れたことを想い出しました。
ここに飛行場があるという話を知ったのは実は結構前の話です。
尺の都合で全く触れてませんが飛行場末期に米軍の偵察機が不時着する事件が発生したそうです。
現地で何も発見できなかった探索ですが最後にグリーンハウスを絡めて強引に締めてしめいました。
私が動画を作るにあたって事前に色々調べたりしますがソースはだいたいWikipediaになります。
あれも一度見だすと気になるワードをたどってなかなか止まらなくなりますがおかげで色々な事を知ることができました。
使用者がコロコロ変わりながら次第に老朽化してきたグリーンハウスですが過去に保存計画が浮かんでは消えていたようです。
その過程でレーモンド事務所自身が耐震評価を手掛けているなど興味深いエピソードもありました。
モダニズム建築の権威と言われた(らしい)レーモンドが自身の様式と全く異なる設計で作られたグリーンハウスですがそれが逆に稀少性を生み保存運動のきっかけになったようです。
結局は東京2020大会が契機になりスポーツセンターの再整備と合わせて改修工事が実施されて今に至ります。
海へ出て行くそのグライダーの曳航を小学校の頃校庭から眺めていました
ここは戦後 米偵察機の不時着がありましたね
初めまして!明治小学校のご出身でしょうか?
およそ60年前になりますが、鵠沼に住む義兄が飛行機のライセンスを取りに通っていました。
一度付いて行ったときに二人乗りの小型機に乗せてもらい江ノ島の上をふわふわと飛びました。まだ周りには戦時中の飛行機の格納庫が残っていました。
その後ほどなく飛行場は竜ケ崎に移ったと聞きました。
残念ながら飛行場のよすがは残っていないようですが、たいへん懐かしく見させていただきました。
ありがとうございました。
23の頃にバイトでこのあたりを、
トラックで走ったのが懐かしい…
戦時中は飛行場があったのか…
うわーなんとなく見てたらグリーンハウスって食堂じゃないですか。よくプールの帰りにオムライス食べてました。ポストミックス飲みながら帰ったのが懐かしい思い出。
その飛行場跡地は荏原製作所藤沢工場になっています。
30年近く前に工場検査で伺いましたが敷地が台地でほぼ水平になっている事から、以前は軍の飛行場だったのでは?と思っていました。
戦時中は、主に関東から西日本地域にかけて相当数の飛行場が作られたとの事ですのでその中の1つだと思います。
当時工場は冷凍機等を作っていましたが現在も操業していると思います。
コメントありがとうございます。
今となってはここに飛行場があったことなど遠い昔話ですが戦時中は確かにあちこちに飛行場があったようです。
横須賀市追浜にある日産追浜工場もかつては飛行場だったそうですし愛川町中津の内陸工業団地もそうだったようです。
相模原市中心部付近の国道16号も道路脇にかなり余裕がありますがこれも戦時中の軍都計画の一環で臨時の滑走路として使う想定だったと言われています。
戦争の記憶も遠くなった現在はその事に気が付かずただ通りすぎるだけなのでしょうね。
知り合いが昔この下にコンクリート製の格納庫が有って登って遊んでいたと言ってました。
その話から滑走路は丘の下だと思っていましたが、飛行場が有ったのは丘の上だったのですね。
厚木飛行場の北の端には防空壕らしき空洞が有り、子供の遊び場になってたと友達が話していました。
戦前生まれの父から、荏原製作所の場所には海軍の飛行場があったと聞いていました。
ただ、戦争末期には飛ばす飛行機も尽きていたようで、張り子の飛行機を並べていただけのようです。
グリーンハウスには、私自身が宿泊したことがあります。もう40年以上前の中学2年生のときに何かの学校行事で1泊した思い出があります。当時はまだ現役の教育施設でした。
子供の頃、大庭大橋(当時はまだなかった)を登った辺りに
広大な原っぱがあり、夏休みに毎日ソフトボールをしていたことがあります。
「今日エバラいこーぜ」みたいに話していたのですが
飛行場跡地の端っこの方だったんですね。知りませんでした。
小学生の頃に映画館で観た「黒いジェット機事件(U2不時着事件)」のニュース映画で藤沢飛行場の存在を知りましたが、その後1974年に藤沢に転居してきた頃には、まだ滑走路跡地の荏原製作所脇の畑に掩蔽壕が残っており、農業資材置き場として使われていたのを見た記憶があります。
コメントありがとうございます。
かつては掩体壕があったのですか。
神奈川では金沢区の野島に現存するそうですがこれも隣接する日産追浜工場がかつては海軍飛行場だったからでしょう。
動画内で少し触れた旧香取航空基地もやはり掩体壕がありいくつか現存します。
近くでは見れませんでしたが遠くから確認できました。
大戦中司令部だったグリーンハウスには地下への入口があって結構広大な地下施設になっているという都市伝説があるんですがどうなんでしょうね。入口っぽいのはあるんですが流石に入る事できなくて…
Google Earth北側に出ている小学校出身です。S50年前後の高校生頃まで荏原製作所も出入りが緩く陸上のトラックも使わせてもらいましたが当時はハッキリ滑走路あととわかる広い舗装された場所が南北を貫いていました。セスナのような飛行機も関東航空計器の脇にあった気がします。映像にある周辺の道路は今でも生活道路です。
情報ありがとうございます。
あの手の企業の施設は今ではセキュリティが厳しいとは思いますが昔は緩かったんですね。
関東航空計器は戦後に設立されて現在も存在しますが同時期に東洋航空工業が設立されて藤沢飛行場を運営すると共に航空機の製造も行っていたようです。
藤沢飛行場が廃止になったのはこの東洋航空工業の業績が思わしくなかった為と思われます。
飛行場廃止後に荏原製作所が入ったのは昭和40年だそうですがそれから10年くらいはまだ滑走路跡も残っていたんですね。
南側の住宅地はまだ新しい印象を持ちましたがそうやって徐々に飛行場の痕跡が消えて行ったのでしょうね。
今は外れてしまいましたが6年ほど前まで、跡地にあるこの大きな某事業所さんはわたしの管理担当得意先の1社さんで、月に2回ほど工場敷地内に伺っていました。その際、部署の方との雑談の中で時折このゴルフ場と飛行場の話が出てきたものです。工場敷地を東西方向に貫く比較的広い道路が昔の滑走路の名残りだそうですよ、と当時社員の方からは聞いたことがありましたが、HAKASEさんの今回の検証で滑走路は南北に近い向きであったと知り驚きました。
この辺りの丘陵地は優雅な起伏を湛えた風光明媚な所ですので、先人がゴルフ場を着想するのも、現代の人々が瀟洒な家を建てて暮らしたいと思うのも、素敵な安らぎを求める同じ心のはたらきなのだと感じます。いい場所です。ありがとうございました。
あの中に入った事があったのですか。
それでも雑談レベルの話しか出てこないのはやはりハッキリわかるような痕跡は残っていないという事なのでしょうか。
あの滑走路のあった一帯はあそこだけ突き出した小山のような地形なので何も無かった当時は空母のような感じだったのでしょうね。
西には天気が良ければ富士山も見えるようなので高台らしい眺めのいい場所なのでしょう。
お客様の施設内のことなので詳しくお話しすることはできませんが、僭越ながらもう少しだけお赦しいただけるのなら、今回のHAKASEさんの検証結果を照らし合わせ、現在の当該事業所の敷地内にはかつての飛行場の痕跡はもう何も残ってはいないといえます。多くは語れませんが、それは中に何十回も入れていただき隅々まで見せていただいた者の確信に近い印象です。
以上、失礼しました。
@@境川枸杞弘
実際に中にも入った方の話を聞けるとは思ってなかったので貴重な話をありがとうございました。
ちなみにグリーンハウスという名前は実は正式名称ではなくゴルフ場時代に隣接する修道院の修道女達がそう呼んでいたのがルーツらしいです。
あまり詳しくは言えませんが実はその修道院は仕事で関わりがあります。
人と人との関わりの中で思わぬところで繋がる事もあるので縁って面白いですね。
荏原製作所内の構内道路の感じが元飛行場の後と言う感じがします。さすがに建物は無かったですね。
荏原製作所に仕事で行ったときに、荏原製作所の人から「知っていますか、この場所は昔飛行場だったんですよ」と言われ、そう言えば会社に敷地は平らで真っすぐな道が伸びていた。今は住宅地になっているが、住宅地の工事をしているときに滑走路に向かって旧日本軍の大きなトンネルが見つかったそうです。
私の親は、ここの荏原の飛行場からゼロ戦が飛んだのを見たと、言っておりました。その後は東大のグライダー部が使っていたのは、私自身見ております。
近くの横須賀市在住の者ですが、横須賀には旧海軍の飛行場が3カ所有りました。現在、ソレイユの丘と駐車場が跡地で残ってます。
藤沢市は全く知りませんでした。!!
コメントありがとうございます。
追浜に飛行場があったのは知っていましたがソレイユの丘がそうだったのは知りませんでした。
武山に駐屯地があるのはそれと何か関係があるのでしょうか。
当時の飛行場の痕跡は・・さすがに無いんでしょうね。
陸海空と教育隊ですね。詳しくは分かりませんが、旧海軍施設ですね。もう一つの飛行場は南下浦の農道になります。😊
大学のグライダー 部で使わせていただいてました、地形の特性で海からの上昇気流が良い塩梅で…大昔の話です。
コメントありがとうございます。
ここは滑走路が短いせいで軽飛行機くらいしか使えなかったみたいですね。
高台の上にあって滑走路の前後はほぼ崖なのでグライダーで着陸する時にちょっとでもコースがズレたら崖下一直線なんて事にならなかったのでしょうか、なんて思ったりします。
藤沢市民です。地元の老人が飛行場と空中戦、砲撃の話をしてくれました。実際に飛行場があった映像をみて感激しました。
今度、グリーンハウスまでサイクリングします。
コメントありがとうございます。
善行駅前にあった案内板によれば「戦時中飛行機を隠した土塁」というものがあるようですが車でちょっと走り回るだけでは見つけられませんでした。
もうちょっと現地を歩き回ってつぶさに観察したら何か見つかるかもしれませんね。
10年前くらいに荏原製作所に外部の作業者として3日間仕事をしました。
ごく普通の工場が並んでいました。
こんにちは。
此方の「旧藤澤カントリー俱楽部/クラブハウス」がBS朝日で12月1日(水)22:00~22:30に放映されます。
番組の詳細は不詳ですが、録画予約を先ほど済ませました。
こんにちは。
グリーンハウスは戦時中に旧海軍の司令部となり戦後は連合軍が駐留したようですがそれ以降は飛行場とは関係がなくなり広大なゴルフ場跡地やグリーンハウスを巡って色々と争奪戦が繰り広げられたようです。
おそらく飛行場とはあまり関係のない内容になると思いますが激動の時代を生き抜いてきたグリーンハウスの特集番組は興味深いですね。
もうさすがに痕跡を見つけるのは難しいですね。私の子供の頃は映像最初の大庭大橋登って左折した交差点、あそこを右折してすぐに燃料庫?と噂されてた地下壕があった。セブンイレブンのある場所には掩体壕があったし、すぐ裏の道からファミマ~映像の中の住宅地の道は誘導路の名残。荏原の中はSSC出来る前はもっと滑走路っぽかった。米軍のU2が不時着した事件も。
先程の高台に行く上り坂は石名坂ですね
私は、子供の頃おじいちゃんと散歩に石名坂を登り飛行場に行った事が何回か有ります。
プロペラ機が数台並んでいました。
周りは砂利道でしたね
本鵠沼に住んでいましたが小さい頃に上空でグライダーが飛んでいるのをよくみました。また父から聞いた話としては近所に零戦のパイロットの方の住まいがありその方が帰投されると上空で翼端を振って通過したとか飛行場付近で零戦が不時着した場所があるとか色々な話がありました。
’87~92 頃、この外周路に、
夜になると車趣味の仲間と集い
ラリーの SSゴッコ に興じたものです。
現代の映像を拝見するに、
路面やフェンスは当時と殆ど同じ。
チョイとばかり血は騒いだけど、
70歳過ぎ(還暦+①巡+1年)の年寄り、
身の程を弁えましょうかね。
滑走路は、幅60メートル・長さは945メートルとの記録がありますね。滑走路があまりに短いため、米軍接収も1年で解除となったようです。
その後、東洋航空が25メートル×824メートルの滑走路として認可を得て、民間に貸していたとのこと。
藤沢市善行在住です。
荏原製作所が飛行場だった事は、昔から通っていた歯医者さんで聞きました。
詳しい事は荏原製作所の社内見学会で知りました。工場内のメイン道路はその名残りと聞いています。
私は子どもの頃善行団地に住んでました(S.43年)その当時セスナ機が着陸してたと父が言ってました。
少年野球の練習で荏原製作所のグランドに行きながら滑走路をあるていた記憶があります。
また、ワークマンやセブンイレブンに防空壕があり小学生の頃遊んでたらおじさんに「入るみな!」と怒られたこともありました😅
この地区に住んでいるのに知らない事ばかりでした。この付近に航空計器関連の会社があるのもその名残なのでしょうか。
民間飛行場だった時代はここに東洋航空工業という会社があって飛行機の製造を行っていたと共に飛行場の運営も行っていたようです。業績が芳しくなく結局は倒産してしまったようですがそれも飛行場が無くなった一因なのでしょう。
関東航空計器は現在も存在しますがその頃からあったようなので飛行場があった頃の名残といえばそうと言えるのかも知れませんね。
本土上陸への防戦基地だったんですね。米軍はコロネット作戦と言ってたらしいですが。特攻機は10000機、帝国陸軍軍人軍属3000万人ですから私はアメリカ海兵隊600万は壊滅したと思ってます。胸熱ですね。
地元民ですが、昔からゴルフ場と飛行場の存在は知っていましたが、どちらも一般道からのアプローチでは存在は窺い知る事ができません。グリーンハウスや市の記録ぐらいでしかわからず、二、三十年住んでるくらいの方は「えっそんなのあったの?」というくらい認知度は低いです。
ゴルフ場は南のキリスト系学校の敷地もそうだったし、北は善行北から国道に出る辺りまでがそうでした。あの時代には良いゴルフ場らしかったので、GHQ 含めたお偉いさんの御用達だったと聞いています。飛行場は聞いた所だと高台にあるので戦争に関係しているとか。戦後はゴルフ場への航空アクセスとかなんとか。
あと余談ですが、ゴルフ場と飛行場の間の谷の部分ですが、大昔は海の入江でした。飛行場のある高台の一部の稲荷という地名に貝塚があり、善行駅北側の消防署脇にさらに貝塚があった石碑があります。
他にも善行という地名に由来や善行大橋というのはどこなのか?と地元民にとっても謎多き場所となっています。
厚木飛行場が近くにあるのに
わざわざ何で作ったのかが不思議。
厚木飛行場は元々軍のパイロットを養成する為の施設として作られて戦況の悪化で次第に首都圏防空の要となっていったようです。
一方で藤沢飛行場は軍用機の無線機や光学機器を整備するための整備兵を養成する為に作られたそうで元々の使用目的は全く異なるようです。
神奈川県で調べたら愛川町中津にある内陸工業団地はかつて軍の飛行場があったようですし現在の日産追浜工場もかつて飛行場だったようです。
今では考えられないですが戦時中は軍の影響力が強く軍の意向に逆らうと非国民扱いされる風潮だったようなので土地の収用も強制的にできたのでしょうね。
@@hakasedrive5911 日産自動車工場は元々予科練の飛行場だったそうです、後に茨城県の阿見町に移転しています。
折角素晴らしい検証をしているのに、4分47秒付近の解説の「ら」抜き言葉で台無し。
「ら抜き言葉」。
見れる、食べれる、寝れる・・などの「れ」の前の「ら」が脱落した言い方
です。
一時期、日本語の乱れの象徴として叩かれましたが、今ではアナウンサーも
原稿を離れたトークなどの場面では話していますし、画面に出るテロップも
「見れる」となっていることがあります。
(私も、「辛い物は食べられない」と言った時に、「食べられない?どこの
方言?」と真面目な顔で日本人に質問されたことがあります・・・。)
実は、この「ら抜き言葉」。
日本語教師の間では、「理由のある現象」として捉えられています。
(なんていうと、「ら抜き言葉、絶対認めない!」と言っている先生方に
怒られそうですが・・。)
今日は、どうして「ら抜き言葉は理由のある現象」として捉えられているかを
お話したいと思います。
「食べられる」
これだけを聞いて、皆さんは「可能表現」か、「尊敬表現」かの区別が
つきますか?
私は「これだけでは、どちらか分かりません」という答えです。
そうなのです。
この「~られる」という言い方は、可能表現と尊敬表現の両方で使われる厄介な
ものなのです。
特に、会話で主語を省略する傾向のある日本語は、「食べられる」だけで
話すこともあるので、外国人にとっては、「可能?尊敬?」と混乱を招く原因
となっています。
また、この「ら抜き言葉」は「上一段活用」と「下一段活用」の動詞と「来る」
の可能表現だけに表れる現象です。
動詞の多くを占める「五段活用」の可能表現は、「書ける」、「読める」、
「話せる」のように、「らを入れない」のです。
要するに、動詞の多数は「ら」を入れずに可能を表すのに、ある限られた動詞
のみ「らを入れなければならない」というイレギュラーが生じているのです。
(日本人はこれをイレギュラーと考えないかもしれませんが、日本語を外からの
視点で見ている外国人は「ら有り言葉=イレギュラー」と捉えています)
まとめると、
①「見られる」、「食べられる」のように「ら有り(?)言葉」では、
可能表現か、尊敬表現かの区別がつかないので、
その区別を付けるために可能表現の時に「ら」の脱落が起きている。
②動詞の大部分を占める「五段活用」の可能表現のルール同様、「上/下一段
活用」、「来る」も「ら」をつけない変化をさせた結果が「ら抜き言葉」
ということが言えます。
こう考えると、この「ら抜き言葉」も、それなりの理由がある現象だと言える
のではないでしょうか。
仰る通り、カ行変格活用の他に上/下一段
活用でも「ら」抜き言葉が生じる事は認識しておりますし、可能形か尊敬表現かの区別を容易につけられるというメリットも存じております。
しかし、例えば「きれる」という文字だけ目にした時、刃物で切る事が出来るのか、服を着る事が出来るのか、前後の文章を読んで繋がりから意味を推測しなくてはいけないという弊害も生じる事は避けられません。
上記のように、一長一短かと思います。
何だかんだ言っても、我々一般人は、もはや何でもアリの世の中だ。権利だ個性だを主張すれば、たいがいのことはまかり通る。賛同を得ることができる。四角四面は己の首を絞めることもあれば、安心していられる隠れ家のようでもある。私は自分がどうするかを選ぶとき、天皇家ならどちらを選択するか?を考えて決定します。それが私の自尊心であり、自己評価です。