真田昌幸の秘密!家康にずーっと恨まれた国衆

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  • Опубліковано 17 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 6

  • @MR-ek7km
    @MR-ek7km Рік тому +3

    家康は昌幸とは直接対決してないからそんなに恨んでないと思う。
    関ヶ原の時も助命したし。
    真田も明治まで家名残したし。

  • @武闘派のび太
    @武闘派のび太 Рік тому +3

    むしろ昌幸がずっと家康を恨んだと言うべきではないだろうか。その証拠に後年、昌幸は九度山でその生涯を閉じ、子の信繁は「大坂の陣」で最後まで敵対したのだから。

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 Рік тому +2

    真田昌幸が徳川家康の与力とされた後も沼田問題はくすぶり続け、豊臣秀吉が「沼田は3分の1を真田領、3分の2を北条領とする」と裁定したものの、北条家が真田領の名胡桃城を奪ったため秀吉による小田原征伐を招くことになった。

  • @キングダムマニア
    @キングダムマニア Рік тому +1

    むしろ、真田昌幸が徳川家康を恨んでいたのでは?
    関ヶ原の戦いでも
    「隠居の身😅」でありながら
    息子の 真田信之に迷惑がかかる
    見事な 「別動隊 徳川秀忠 足止め 戦術😂」
    他方、 徳川家康は 本多忠勝の娘を養女にして
    真田昌幸の息子 真田信之に嫁がせて
    「徳川と真田の 姻戚関係を認めている」ので、
    徳川家康は、 言われるほど 真田昌幸 を気にしていないのでは?
    最終的に 真田昌幸と 真田信繁の 助命嘆願も受け入れてるし…😊

  • @vianeplus
    @vianeplus Рік тому +2

    国盗りできなかったからと言って恨むのは筋違い。
    窮鼠猫を噛むが如く他大名の捨て駒にならないように必タヒに生きただけだし。

  • @naughtnaught
    @naughtnaught Рік тому +1

    関ヶ原の合戦で徳川秀忠が上田城を攻めたのは当初の予定通りだったとか。
    家康に恨まれるというより脅威に思われていたのは間違いなさそうです。