この度も、ありがたく拝聴いたしました。清洲同盟の持つ、歴史上非常に大きな重要性を御教えいただき、ありがとうございます。
なるほど清洲城での場面深いですね。興味深いです。残酷な現実と向き合って出した決断が今のこの世を作ったんだと改めて思います。
坂道で転んで倒されたからって今でも「転ぶと縁起が悪い」とか残ってるの面白いですね。
こういう細かい情報は地元の人が居ないとなかなか分からないです。
いつも楽しみにしてます
ありがとうございます
ありがとうございます!
ほんとにTextkritik(原典・資料批判)は難しいですよね。信頼がおけるといわれる文書でも疑わしい部分は多々あるし、信頼に足らずとされる文書の中にも嘘とは言い切れない部分がある。その見極めは歴史研究者の経験とセンスに多くを負わざるを得ないですね。
市橋先生なら三河の、小和田先生なら駿河の、平山先生なら甲斐の空気・水を肌身で知った五感というセンスをも動員して資料を見極められるのでしょうね。
家康公は瀬名姫には未練は無く息子だけで良かった筈。20.歳の息子を40代で失った事は絶望的に辛く孫とも言えそうな秀忠に継がせる為に人一倍の健康管理で長生きした家康公にリスペクトです。
市橋先生、お疲れ様でした‼️織田信長と徳川家康この同盟で家康が成長して後に天下を取るまでになる❗
織田の同盟者のままなら無理でしょ。
家康が天下を狙える存在になったのは本能寺の変後のバタバタで織田に仲間割れが起こったどさくさの間に甲斐と南信濃を制圧し、秀吉が武力制圧を断然する兵力を手にしたから。
このときに瀬名姫を離別しとけばな
家康、秀吉、信長等戦略能力を持った武将は家族に対する愛情が大変強い。
家康と信康及び築山殿は相性が良いので愛情溢れた家族だっただろう。奪還作戦をやるぐらいだから。
しかし相性が良くても障害になってしまう相手がいる。信康、築山殿はそうした相手だった。
武田と内通していたのは事実だろう。証拠を信長に突きつけられた忠次は反論しても信長を説得出来ないと判断したのだろう。家康も良く理解出来たので忠次を処罰しない。後年まで忠次にブツブツは言った。
秀吉と秀頼及び淀殿も同じ可愛いのだが秀吉にとって障害となる相手。さらに障害となる三成に後事を託すのだから存続
は難しい。信長の気質を持つ幸村も親子の優柔不断さにさぞかし悩まされたことだろう。
大河ドラマでは信康は同じ気質の役者さんが演じるので、家康、信康の苦悩が良く表現できているだろう。
神社なのに「権現」と書いている理由をその神社は説明できたんでしょうか?
寺院に比べると神社は文書管理ができていないので、こういうのは後世の偽造の可能性が高いです。
家康は妻子を取り戻したが、石川やその他の家臣の妻子はどうなった?皆殺しにあったんじゃないんだろうか。それじゃあ家臣たちが離れるのも無理ないよなあ。
アップタイミングですが、
大河ドラマ当日にするなら、お昼ぐらい迄の方がありがたいです。
私の場合、夕方は大河観れるように用事を片付け家事をしながら準備するからです。そして家事をしながら動画を聞いて、その後用事しながらいろいろ妄想して心を整えています。私の場合、ですが👏
桶狭間の戦いのあと、松平元康は駿府城ではなく岡崎城に入城して織田軍を迎え撃つ形で頑張っていたけど、ちょうどその頃に、上杉憲政・長尾景虎連合軍が後北条氏征伐に動き出しました。
甲相駿三国同盟がまだ破棄されていなかったので、北条氏康は今川氏真と武田信玄に救援を求め、両氏は北条に援軍を送った。
二つの出来事が重なり、今川氏真は岡崎城に援軍を送れなかったので、松平元康は今川氏真に失望して、その後に清洲同盟を締結させた。
家康のその後の、女性の好みを思えば、愛憎入り混じった存在だったんだろうなあ。
蓮如上人は一向宗で良いと
ゆうてるらしいけどね
ワタシが数年前に東条城に行った時は雑草だらけで歩くのも大変でがっかりかしました。
最近、整備したんですね。