横浜銀蝿が3年間で解散した理由、再結成秘話に驚愕!逮捕された不祥事からオリジナルメンバー36年ぶりに集結した経緯に涙腺崩壊!

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  • Опубліковано 26 жов 2023
  • 【音ON街】をご視聴いただきありがとうございます♪
    日本の音楽界の裏側を紹介します!
    今回は、横浜銀蝿について♪
    ================
    ポンパドールの髪形にサングラス、ライダー革ジャン、
    白いドカン(ズボン)という独特の服装で登場。
    「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り
    1980年代前半に一気に若者の人気を獲得した。
    その独特な存在からデビュー以来、幅広いミュージシャン、バンドに影響を与えている。
    「銀蝿一家」として弟分グループなども展開し、
    1983年の大晦日に「解散」したが1998年に活動再開し40周年で解散。
    楽曲としては、4人で演奏するシンプルなロックンロール、バラードなどから、
    笑いを誘うコミックソングまで幅広いものがある
    メンバー
    翔(しょう、本名:田宮 将吉、1958年6月8日 - ) - ヴォーカル&リズム・ギター
    楽曲の多くに作詞・作曲で名を記す。
    ヴォーカリストでありサイド・ギタリスト。血液型B型。
    またタレントしても活動し、1990年代後半にものまね王座決定戦によく出演しており、
    審査員や司会者も務めたが、覚醒剤使用で1997年、1998年、2003年に逮捕されたことで、
    タレント業は大幅に縮小し、音楽に軸足を置いた活動をしている。
    Johnny(ジョニー、本名:浅沼 正人、1958年5月9日 - ) - リード・ギター、ヴォーカル
    血液型はO型。グループ所属中もソロでレコードリリースなどの活動をしていた。
    メンバーの中で一番人気があり、バレンタインデーにはトラック何台分もの大量のチョコレートが贈られ、
    本人はその事が不思議だったらしく、大量のチョコレートを見て
    「この国はどうなってるんだ?」と思ったと言う。
    解散後もソロ活動を継続した後、1988年にキングレコードに就職。
    中山美穂、的場浩司らをディレクターとして手掛け、
    2002年からは「ベルウッド・レコード」プロデューサー。
    1998年の再結成時には、復活第一弾アルバム『ぶっちぎりVII』のレコーディング及び
    CD・ライヴパンフレット用の写真撮影のみに参加し、
    ライヴは本業が多忙なために不参加、
    以降は横浜銀蝿関係の活動には参加しなかったが、
    2019年の「40th」でメンバーとして復帰。
    2007年1月まで、インディーズバンドを支援する「YOKOHAMA FACTORY」を展開した。
    2013年7月、キングレコード上席執行役員と兼務で
    関連会社のベルウッド・レコードの代表取締役社長に就任した。
    2020年からはベルウッド・レコードがグループ活動のマネジメントを行っている。
    TAKU(タク、本名:秋葉 卓志、1960年9月22日 - ) - ベース、ヴォーカル(コーラス)
    中央大学杉並高等学校卒業。
    血液型B型。
    作詞作曲編曲家として銀蝿一家の作品の他、中森明菜、三原順子をはじめ
    岩井小百合・おニャン子クラブ等のアイドルの作品も手がける。
    特に三原はTAKUの楽曲でオリコンベスト10入りをはたし
    第33回NHK紅白歌合戦(1982年)に出場、岩井は第14回日本歌謡大賞(1983年)の
    最優秀新人賞を受賞した。
    また、1990年に(株)日音に入社。原盤ディレクターとして、
    槇原敬之、島田歌穂、本田美奈子等を担当。
    日音制作部“秋葉プロジェクト”チーフプロデューサーとして
    最盛期にはオリコンチャートベスト20以内に同時に3曲を送り込んだ。
    銀蝿復活後2007年以降よりプロデューサー兼ベーシストとして、
    BRAIN WASH BAND、チェリーボーイズ等の
    昭和のロックンロールバンドを復活させている。
    嵐(らん、本名:田宮 淑行、1955年4月15日 - 2022年7月4日) - ドラム、
    最年長者。リーダーで、翔の実兄。
    キャンディーズのランこと伊藤蘭のファンだったことから、これをもじって「嵐」と名乗った。
    血液型AB型。数曲の作者として「タミヤヨシユキ」名でクレジットされている。
    2001年の第19回参議院議員通常選挙に自由連合公認で比例代表区から立候補したが、
    落選した。
    2004年に脳梗塞にかかり開頭手術を受けた。
    2006年6月9日の結成25周年記念コンサートでは、
    デビュー曲「横須賀Baby」を演奏したが、その後もリハビリを続け、
    ドラムをサポートメンバーに委ねながらもコーラスやボーカルでステージに参加していた。
    キャラクターと違い声は甲高く、柔らかい人物とされた。2022年7月4日、肺炎のため67歳で死去。

КОМЕНТАРІ • 3

  • @JET33333
    @JET33333 2 місяці тому

    Johnnyさんの男気にしびれた

  • @user-iz3kv7nd2s
    @user-iz3kv7nd2s 8 місяців тому +1

    毎回 全くチケットが買えず終わった(笑)

  • @user-tx1hg5wg3g
    @user-tx1hg5wg3g 8 місяців тому

    「3年間で解散した理由」って、彼らは最初から3年で解散を謳ってた。
    1980年代、彼らはロックンローラーとは認められず、原宿界隈やクールスなんかに馬鹿にされてた。