真珠湾 ボーフィン潜水艦博物館(潜水艦ボーフィン)
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- Опубліковано 10 гру 2024
- 潜水艦ボーフィン (USS Bowfin, SS/AGSS-287) は、アメリカ海軍のバラオ級の潜水艦です。1944年8月22日、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦です。艦名はアメリカ東部に生息する淡水魚ボーフィン(アミア・カルヴァ)に因みます。
現在ボーフィンは、真珠湾、アリゾナ記念館入口とフォード島に渡る橋との間に係留され、博物館として多くの見学者が訪れています。パラオ級のこの潜水艦は、全長95メートル、ディーゼルエンジンと蓄電池を動力とする米国海軍の潜水艦で、退役後、1979年から真珠湾に係留されています。黒く塗られた円筒形のような現在の潜水艦とは違う形をしています。
ボーフィンは、第二次世界大戦中の1942年、メイン州ポーツマス海軍造船所で建造され進水。翌年、パナマ運河を通って太平洋に移り、太平洋戦争中、オーストラリアを補給地としながら、フィリピン周辺海域や南シナ海、日本近海で、日本船舶に対する哨戒任務にあたり、複数の日本船を撃沈しています。1944年(昭和19年)8月22日、沖縄の疎開する学童等を乗せて那覇港を発ち本土に向かった対馬丸がトカラ諸島付近でボーフィンにより撃沈され、多くの民間の犠牲者が出ています。
朝鮮戦争時、1951年に現役艦として再度太平洋で任務に復帰した後、1971年に引退しました。
真珠湾には、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナに加え、戦時中に西太平洋に展開していた潜水艦、そして沖縄戦にも投入され、東京湾で降伏文書調印がなされた戦艦ミズーリが保存されており、平和学習の場となっています。
1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いが終結し、アメリカ軍は同島からB-29爆撃機を出撃させることが可能となり、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになりました。これを受けて政府は、沖縄県知事泉守紀に宛てて『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達しました。一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となりました。
対馬丸も、この命令に基づいて兵員輸送と疎開活動に当たっていた輸送船の1隻でした。8月1日3時、対馬丸はモ05船団に加入して門司を出港し、8月5日に嘉手納沖に到着しました。
8月21日18時35分、対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を出港しました。対馬丸には民間人および那覇国民学校の児童と介添者を合わせた1,661名を乗せていました。また、当時の乗組員は86名でした。他の2隻も疎開者を乗せており、船団最優秀船の和浦丸には学童疎開者だけ1,514名、鹵獲船の暁空丸には一般疎開者だけ約1,400名が乗船していました。
対馬丸の乗客の多くは、軍隊輸送船として兵員収容区画へ改装されていた船倉に居住することになりましたが、階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの出入り困難な状態でした。
一方、アメリカ潜水艦ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) は7月16日に6回目の哨戒で真珠湾を出撃して東シナ海で行動しており、奄美大島、徳之島、伊平屋島、与論島近海で哨戒を行っていました。
アメリカ海軍は暗号解読などによって、ナモ103船団の予定航路をおおよそ把握していました。8月22日4時10分頃、ボーフィンはレーダーでナモ103船団を探知しました。ボーフィンは潜航状態で観測を行いましたが、哨戒機2機が「機械的な旋回飛行」しかしなかったとはいえ常時張り付いていたことと、強烈なジャミングを発していたことから「重大任務の船団」と識別して夜間攻撃を行うことに決めました。
8月22日22時9分、ボーフィンは距離2,800ヤード(約2.6キロメートル)で艦首発射管から魚雷6本を発射し、予定通り面舵で方向転換した後、艦尾発射管からの攻撃に備えました。ボーフィンの観測によれば約1分後、魚雷は「対馬丸と暁空丸の双方に2本ずつ、蓮に1本命中して対馬丸は早くも沈み始め、蓮は粉砕された」としましたが、実際に被雷したのは対馬丸だけでした。攻撃された対馬丸は見張員が魚雷発射を確認し、ただちに反撃の砲撃にとりかかろうとしました。船橋では西沢船長が「取舵一杯、両舷全速前進」を下令しました。しかし、いずれの効果もほとんど示さぬまま魚雷は接近し1本は対馬丸の船首前方をかすめ去りましたが、続く3本の魚雷が対馬丸の第一、第二、第七船倉左舷に命中しました。間を置いて、別の魚雷1本が対馬丸の第五船倉右舷に命中。魚雷命中による夥しい海水の流入で縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなりました。
西沢船長は「総員退船」を命じ、引率教師はなかなか起きない児童を蹴っ飛ばしてまで起こし、何名かの対馬丸乗組員とともに梯子を登らせようとしたが上手くいかず、何人かは梯子を踏みはずして下に転落する有様でした。脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢おり、対馬丸の乗組員は何人かの児童をブルワークから引き離して海に放り投げました。一方、配られた救命胴衣が大きすぎたことでうまく使いこなせず溺れた児童もいました。
魚雷命中から11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発を起こして沈没しました。ボーフィンは船尾発射管から2本の魚雷を発射して1本の命中と対馬丸の確認をした後、横当島方向へと移動していきました。最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにしました。一方で、生き残った児童はわずかに59名でした。
2018年8月撮影