Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
先生、ありがとうございます。阿弥陀様に助けていただける事が、はっきりしました。ありがたや、ありがたや。
かみ砕きましたお取り次ぎに、感謝します南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏合掌
死を恐れず 南無阿弥陀仏と共に 生きて行けます
ろ的で味があり、言葉一つ一つを噛み締めています。勿体なくもただ感謝、感謝です。
子供達にもぜひ聞かせたいとおもっています。有り難く拝聴させて頂いています。
貴重な動画、ありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏🙇
ただ今もありがとうございました。気のすむまで何度も聞かせていただきたいと願っています。納得できるまで…。毎回、「感謝」としか言いようがありません。
ありがとうございますこれからも宜しくお願いいたします
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
親鸞聖人の仏教観は素晴らしいです。
正信偈講座配信ありがとうございます😄「指月の喩え」ありがとうございます🙇法蔵菩薩は世俗的に恵まれたものを投げ捨てて、とてつもない大きな願いを建てられたわけですが、その思いに至ったきっかけはどのようなものがあったのでしょうか。
先生の講題にございます通り「死の解決」だと思います。
親鸞聖人の教えを信じている者です。安心して生死を越えられます。なんまんだぶ
どうしても阿弥陀様の救いの条件に私が含まれているというのは他人事に聞こえてしまう
阿部信幾さん😊いつも尊いお話をありがとうございます。感謝しています。南無阿弥陀仏🙏
先生はまだ30年位は死なないです。
旅衣 木のねかやのね いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 一遍何処であっても浄土に参る機会は与えられる?
自分も浄土真宗の門徒でありまして、たまに菩提寺の住職さんのお説教を聴聞しますが、いまだかって「信心を頂く」には至っておりません。ここ2,3か月前からこの動画を拝見させて頂いてから「信心を頂く」という意味が9割方理解できました。後の1割のどのような”状態”になれば「信心を頂いた」ことになるのかが解かりません。毎日、朝晩仏壇で正信偈を唱えて南無阿弥陀仏の名号を何回も唱えてますし、「自力のはからいを捨てて全てお任せします」の心で阿弥陀様に感謝の念を送っております。どのようにすれば、或いはどのように考えれば信心を頂くことができるのかが解かりません。だれかこのような疑問に答えていただけたら幸いです。
何かを捨てたり、どうにかなって信心ではないのです。考えてすることでもないです。それはすべて自力、人間の行いで信心がえられるとの考えから来ます。これが一番の邪魔です。阿弥陀様を邪魔しているということです。必ず仏にするというほとけが作った南無阿弥陀仏が私に届いている事を信心といっているのです。自らでは渡ることのできない海を渡す船があり、すでに載せられているのです。この状態を信心といい、その証拠は私の口からお念仏が出ているではないですか。何かに変わっていく事を阿弥陀様は望んでいません。無条件で、もし変化するというものがあるとするなら、それは私の方ではないですね。どこまで行っても泥凡夫、往生を今ですよ言われれば、ハタと困る私。飛び上がるほどの感動も喜びも湧いてこない鈍感な私が救いの目当て。もし信心を形にしたら何になりますか?南無阿弥陀仏ですよ。念仏のみぞまことなのです。その仏さまの救うというまことの事がいまお念仏として私の口からお出ましくださる。未だかつてこんな事が無かった(あったら仏に成っている)が、今私に届いている功徳(名号)が働きや形を変えずにお出ましくださっている。これ以上に確かな事はありません。お前を救うのは阿弥陀さまである。これを最初に言ったのは阿弥陀様です。これ以上確かな事がありますか?仏さまが言うのですよ。南無阿弥陀仏と。この功徳を信じさせるが阿弥陀様であり、称えさせているのも阿弥陀様です。そんな仏に関わってもらっている。私の人生に南無阿弥陀仏のお念仏が現れてくださっている。これがありがたい事なのです。有ること難きがありえているのです。それでも信じるって何を信じるかと言えば、阿弥陀様の名号=南無阿弥陀仏が 私を救い出すために完全に完成されている事私が行う事があるとするなら、お念仏、お礼の心で称える南無阿弥陀仏どうやってその心を頂くのか お聴聞しかないです 疑心あることなしまでお聞きください。人にものを伝える って難しい事です 言葉にすれば解釈やその方の経験や語彙力で 伝わる度合いも深さも時には内容さえ違って受け取られる事ってないですか。完全に私の持っている内容やイメージや意図するところまで伝えようとしたらどうしますか。何回も何回も口を酸っぱくして言いつくして言いつくしてそれでも分かってもらいなことも多くって。子どもにいつも注意しているのにもかかわらず、失敗して泣いて帰ってくるってことないですか。いつも言っているでしょうって言っても後の祭りというか聞いてくれていなかったのですね。いう通りにしてくれないのですよ。それでも親は諦めず、大悲を以て包み育み照らし護ってくださっている。真剣にお聴聞に励んでください。たくさんたくさんの言葉の中にあなたへのピッタリがあるのですから。だからどのような状態にもなりませんし、経を読んだ功徳でも、念仏の量でも、感謝の念など仏さまはもとめていませんし、必要な事ではないです。それらは全部御恩報謝をされている状態だと言いますよ。だって既に信心は南無阿弥陀仏という念仏としていただいているのですから。名体不二 名前である南無阿弥陀仏と 南無阿弥陀仏の功徳は 完全に一致している。念仏が称えられるところに阿弥陀様の功徳が届いている。この上はわが身に起きる何事も、善も悪もすべて私が生きてきた結果受けねばならない結果と受け取り生きるのみ。死するときは死するべき時。でもね、人間に生まれてきてよかった。阿弥陀様の功徳に出会える人生であったと、今日、今ここで喜べるのですよ。信は阿弥陀様の願いから起きる事です。私がどうこうして得られるものではない。どうにかなって迎え入れるのではない。すでに南無阿弥陀仏と呼び声になって私自身に飛び込んでいる、これを信という。阿弥陀様は救うべく功徳を完成し届く事も完成し声となって響き渡ることも完成されたのです。だから私が仏なる事は、火を見るより明らかです。当然そういう結果が私の身の上に起きていく超自然なこと。水が高いとことから低いところへ流れるよりも当然起こることである、それが信。言葉が足りない事もあります。お聴聞でまたお会いさせていただきたく存じます。
親切丁寧なお返事いただき大変ありがとうございます。心より感謝いたします。書かれている内容は概ね理解できましたが、自分の中ではまだ薄い霧がかかっている感じです。でもそれはもっともっと聴聞して納得するまでゴールするまで時間をさくこととします。誠にありがとうございました。
@@tarou_momo57 こんばんは、早速ですが、臨終に間に合わん話など糞の屁にもなりません、❮順彼仏願故❯、彼の仏願に順ずるが故に、法然上人が目の覚めたお言葉です、どうしたらは、阿弥陀様が五刧思惟したことです、聞其名号、南無阿弥陀仏と称えてる筈、聞かされてる筈、これに何ら疑心がありますか?、ただ念仏のただとは唯の事、唯とはこれ一つのことなり、二つを嫌う、と唯心しょ、に解かれています、つまりは念仏に何かをプラスしょうとしているのが我ら凡夫の自力と思います、私も考えることの全ては自力ばかりです、
初めまして、返信ありがとうございます。或る若いお坊さんのブログを見ていたら、そのお坊さんは、まだ自分は信心を頂いていないと思っていたら徳の高い仏教系の教授にあなたはもう既に信心を頂いていますよ、と言われたというブログを最近読みました。信心を頂いたどうかは自分自身で分からない人もいらっしゃるのですね。
@@tarou_momo57今後とも宜しくお願いします、 私個人の味わいですが、十刧の昔に完成した名号が諸仏に配達され、それから善知識へ、そして人々を通じて、今(時が計れない時刻の極刻)、昨日でもない、明日でもない、今、届いたのです、この南無阿弥陀仏とは何ですか!、と阿弥陀様に訪ねたら、地獄行きのお前を見とられんと言う、この名号には、信心(南無)と、お前が行う筈の行(阿弥陀仏)が配合されていると言う、私は信じられないと逃げました、信じなくて良いと阿弥陀様、ただこの名号を飲ませてみせると阿弥陀様、飲んだ証拠が南無阿弥陀仏、
如何に石山合戦の解釈
アーバン(都市的・洗練された)とわざわざ付けずとも、「仏教」と言えばよいのではないでしょうか。わざわざ横文字の発言をすることで胡散臭さが際立つ感じるのですが。
阿倍先生!瓜生崇を凝らしめて下さい!
死に際を問わないという話しは良く分かるが、自死さえ問わないという箇所は間違い。自死は罪です。信心を得た者が敢えて自死という罪を犯すというのは「良い薬があるからと言って毒を飲む者はいない」に当てはまる。誤解を与えるので気を付けましょう。
先生、ありがとうございます。阿弥陀様に助けていただける事が、はっきりしました。ありがたや、ありがたや。
かみ砕きましたお取り次ぎに、感謝します
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏合掌
死を恐れず 南無阿弥陀仏と共に 生きて行けます
ろ的で味があり、言葉一つ一つを噛み締めています。勿体なくもただ感謝、感謝です。
子供達にもぜひ聞かせたいとおもっています。有り難く拝聴させて頂いています。
貴重な動画、ありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏🙇
ただ今もありがとうございました。
気のすむまで何度も聞かせていただきたいと願っています。
納得できるまで…。
毎回、「感謝」としか言いようがありません。
ありがとうございますこれからも宜しくお願いいたします
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
親鸞聖人の仏教観は素晴らしいです。
正信偈講座配信ありがとうございます😄
「指月の喩え」ありがとうございます🙇
法蔵菩薩は世俗的に恵まれたものを投げ捨てて、とてつもない大きな願いを建てられたわけですが、その思いに至ったきっかけはどのようなものがあったのでしょうか。
先生の講題にございます通り「死の解決」だと思います。
親鸞聖人の教えを信じている者です。安心して生死を越えられます。なんまんだぶ
どうしても阿弥陀様の救いの条件に私が含まれているというのは他人事に聞こえてしまう
阿部信幾さん😊いつも尊いお話をありがとうございます。
感謝しています。
南無阿弥陀仏🙏
先生はまだ30年位は死なないです。
旅衣 木のねかやのね いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 一遍
何処であっても浄土に参る機会は与えられる?
自分も浄土真宗の門徒でありまして、たまに菩提寺の住職さんのお説教を聴聞しますが、いまだかって「信心を頂く」には
至っておりません。ここ2,3か月前からこの動画を拝見させて頂いてから「信心を頂く」という意味が9割方理解できました。後の1割のどのような”状態”になれば「信心を頂いた」ことになるのかが解かりません。毎日、朝晩仏壇で正信偈を唱えて南無阿弥陀仏の名号を何回も唱えてますし、「自力のはからいを捨てて全てお任せします」の心で阿弥陀様に感謝の念を送っております。どのようにすれば、或いはどのように考えれば信心を頂くことができるのかが解かりません。だれかこのような疑問に答えていただけたら幸いです。
何かを捨てたり、どうにかなって信心ではないのです。考えてすることでもないです。それはすべて自力、人間の行いで信心がえられるとの考えから来ます。これが一番の邪魔です。阿弥陀様を邪魔しているということです。
必ず仏にするというほとけが作った南無阿弥陀仏が私に届いている事を信心といっているのです。自らでは渡ることのできない海を渡す船があり、すでに載せられているのです。この状態を信心といい、その証拠は私の口からお念仏が出ているではないですか。
何かに変わっていく事を阿弥陀様は望んでいません。無条件で、もし変化するというものがあるとするなら、それは私の方ではないですね。どこまで行っても泥凡夫、往生を今ですよ言われれば、ハタと困る私。飛び上がるほどの感動も喜びも湧いてこない鈍感な私が救いの目当て。もし信心を形にしたら何になりますか?南無阿弥陀仏ですよ。念仏のみぞまことなのです。その仏さまの救うというまことの事がいまお念仏として私の口からお出ましくださる。未だかつてこんな事が無かった(あったら仏に成っている)が、今私に届いている功徳(名号)が働きや形を変えずにお出ましくださっている。これ以上に確かな事はありません。お前を救うのは阿弥陀さまである。これを最初に言ったのは阿弥陀様です。これ以上確かな事がありますか?仏さまが言うのですよ。南無阿弥陀仏と。この功徳を信じさせるが阿弥陀様であり、称えさせているのも阿弥陀様です。そんな仏に関わってもらっている。私の人生に南無阿弥陀仏のお念仏が現れてくださっている。これがありがたい事なのです。有ること難きがありえているのです。
それでも信じるって何を信じるかと言えば、阿弥陀様の名号=南無阿弥陀仏が 私を救い出すために完全に完成されている事
私が行う事があるとするなら、お念仏、お礼の心で称える南無阿弥陀仏
どうやってその心を頂くのか お聴聞しかないです 疑心あることなしまでお聞きください。
人にものを伝える って難しい事です 言葉にすれば解釈やその方の経験や語彙力で 伝わる度合いも深さも時には内容さえ違って受け取られる事ってないですか。
完全に私の持っている内容やイメージや意図するところまで伝えようとしたらどうしますか。何回も何回も口を酸っぱくして言いつくして言いつくしてそれでも分かってもらいなことも多くって。子どもにいつも注意しているのにもかかわらず、失敗して泣いて帰ってくるってことないですか。いつも言っているでしょうって言っても後の祭りというか聞いてくれていなかったのですね。いう通りにしてくれないのですよ。それでも親は諦めず、大悲を以て包み育み照らし護ってくださっている。
真剣にお聴聞に励んでください。たくさんたくさんの言葉の中にあなたへのピッタリがあるのですから。
だからどのような状態にもなりませんし、経を読んだ功徳でも、念仏の量でも、感謝の念など仏さまはもとめていませんし、必要な事ではないです。それらは全部御恩報謝をされている状態だと言いますよ。だって既に信心は南無阿弥陀仏という念仏としていただいているのですから。
名体不二 名前である南無阿弥陀仏と 南無阿弥陀仏の功徳は 完全に一致している。念仏が称えられるところに阿弥陀様の功徳が届いている。
この上はわが身に起きる何事も、善も悪もすべて私が生きてきた結果受けねばならない結果と受け取り生きるのみ。死するときは死するべき時。でもね、人間に生まれてきてよかった。阿弥陀様の功徳に出会える人生であったと、今日、今ここで喜べるのですよ。信は阿弥陀様の願いから起きる事です。私がどうこうして得られるものではない。どうにかなって迎え入れるのではない。すでに南無阿弥陀仏と呼び声になって私自身に飛び込んでいる、これを信という。
阿弥陀様は救うべく功徳を完成し届く事も完成し声となって響き渡ることも完成されたのです。だから私が仏なる事は、火を見るより明らかです。当然そういう結果が私の身の上に起きていく超自然なこと。水が高いとことから低いところへ流れるよりも当然起こることである、それが信。
言葉が足りない事もあります。お聴聞でまたお会いさせていただきたく存じます。
親切丁寧なお返事いただき大変ありがとうございます。心より感謝いたします。書かれている内容は概ね
理解できましたが、自分の中ではまだ薄い霧がかかっている感じです。でもそれはもっともっと聴聞して
納得するまでゴールするまで時間をさくこととします。誠にありがとうございました。
@@tarou_momo57 こんばんは、早速ですが、臨終に間に合わん話など糞の屁にもなりません、❮順彼仏願故❯、彼の仏願に順ずるが故に、法然上人が目の覚めたお言葉です、どうしたらは、阿弥陀様が五刧思惟したことです、聞其名号、南無阿弥陀仏と称えてる筈、聞かされてる筈、これに何ら疑心がありますか?、ただ念仏のただとは唯の事、唯とはこれ一つのことなり、二つを嫌う、と唯心しょ、に解かれています、つまりは念仏に何かをプラスしょうとしているのが我ら凡夫の自力と思います、私も考えることの全ては自力ばかりです、
初めまして、返信ありがとうございます。或る若いお坊さんのブログを見ていたら、そのお坊さんは、まだ自分は信心を頂いていないと思っていたら徳の高い仏教系の教授にあなたはもう既に信心を頂いていますよ、と言われたというブログを最近読みました。信心を頂いたどうかは自分自身で分からない人もいらっしゃるのですね。
@@tarou_momo57今後とも宜しくお願いします、 私個人の味わいですが、十刧の昔に完成した名号が諸仏に配達され、それから善知識へ、そして人々を通じて、今(時が計れない時刻の極刻)、昨日でもない、明日でもない、今、届いたのです、この南無阿弥陀仏とは何ですか!、と阿弥陀様に訪ねたら、地獄行きのお前を見とられんと言う、この名号には、信心(南無)と、お前が行う筈の行(阿弥陀仏)が配合されていると言う、私は信じられないと逃げました、信じなくて良いと阿弥陀様、ただこの名号を飲ませてみせると阿弥陀様、飲んだ証拠が南無阿弥陀仏、
如何に石山合戦の解釈
アーバン(都市的・洗練された)とわざわざ付けずとも、「仏教」と言えばよいのではないでしょうか。わざわざ横文字の発言をすることで胡散臭さが際立つ感じるのですが。
阿倍先生!
瓜生崇を凝らしめて下さい!
死に際を問わないという話しは良く分かるが、自死さえ問わないという箇所は間違い。
自死は罪です。
信心を得た者が敢えて自死という罪を犯すというのは「良い薬があるからと言って毒を飲む者はいない」に当てはまる。
誤解を与えるので気を付けましょう。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏