時代に埋もれた城下町 岩槻

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 14 гру 2024

КОМЕНТАРІ • 11

  • @iwatukin
    @iwatukin Рік тому

    ありがとうございました。
    たまたま画面が出て、見ました。
    県庁所在地が浦和になる前、岩槻の庁舎が大火災にあい、幻の県庁所在地だったことも聞きました。
    あと、むかし、岩槻に電車が走っていて、その線路跡が、今でもお寺の前にあるのをyoutubeで見ました。
    歴史の観察、楽しめました。

    • @昭和の残滓Z
      @昭和の残滓Z  Рік тому

      コメントありがとうございます。
      この街はどこか訳アリに見えてしまって、
      そういうところに目が行ってしまうのです。

  • @金田稔-r8v
    @金田稔-r8v Рік тому +1

    岩槻の住人です 地元に歴史的な街並みや建造物が少ないのは人形が地場産業で昭和40年代ごろまではほとんどの市民が人形関係の仕事についていて.その頃の岩槻は人形で有名でしたその関係で古い店や工房は近代的なものに代わり狭かった道路は拡幅されて建て替えられていったからです.その後人形は衰退して多くが廃業して現在にいたっているからなんです.城址公園も整備さてたのは昭和50年代に入ってからで北部の工業団地ができて道路が整備されたのがきっかけです 本丸の町名もその頃で昔は太田町でした城址公園は確かに.おはやし公園で公園の大半はうっそうとした林でした 本丸1丁目の周辺は確かに田圃や沼地で県道側の土手辺りは水が湧き出ていて夏は蛍がたくさんいました.岩槻は大宮と春日部の間にあってなんとなく取り残された感が昔はありましたね さいたま市となった今はインフラも整備されて住みやすくなりました
    古い街並みなど無くなりましたけど 区民参加の歴史祭りなどは季節ごとにあります

    • @昭和の残滓Z
      @昭和の残滓Z  Рік тому +1

      コメントありがとうございます。
      民家の庭先でひな人形の頭部を作っていたり、市街地に土塁の一部が残っていたり、丸山病院の裏手の湿地にホタルがいたりした頃の岩槻は大宮や春日部とは一味も二味も違った街に見えていました。
      50年代にその後の街づくりの方向性について選択があり、決断された結果、住民の方々が満足されておられましたら、よそ者の野次馬如きの妄想は笑い飛ばしていただいてかまいません。
      私は時代の趨勢に乗れない人間ですので、おそらく多くの方々がいいと思っている物事も良くは見えない人間です。
      動画の中に耳障りな言葉が多々あり、多くの方が不快に思われていたかもしれません。
      ただ、川越の街づくりが稀代の傑作であったことは認めざるを得ないものと思っております。

  • @amyu9385
    @amyu9385 6 місяців тому

    スタートが思いっきり岩槻の南端からで草

  • @チャラモ
    @チャラモ Рік тому

    >ところがその先に、何故かこういう道があります。の字幕の場所、
    鹿室にある曙ブレーキ工業のテストコースの場所と聞きました

    • @昭和の残滓Z
      @昭和の残滓Z  Рік тому

      コメントありがとうございます。
      曙ブレーキといえば、慈恩寺の方に工場があったと思いますが、ここにもあったのですね。

    • @チャラモ
      @チャラモ Рік тому

      @@昭和の残滓Z
      慈恩寺の方ってのが鹿室の場所です。
      そこが岩槻文化公園のあの場所管理してたと聞きました。
      今現在は手放したみたいですよ?

    • @昭和の残滓Z
      @昭和の残滓Z  Рік тому

      いまの、あの様子を見ると
      何か訳アリに見えてしまうのです。
      悪い癖ですね。

    • @チャラモ
      @チャラモ Рік тому

      @@昭和の残滓Z
      私も初めてあのエリアに入ったとき未知のエリアで同じような考えでした(笑
      親に聞いたら曙ブレーキテストコース場って教えられました

    • @昭和の残滓Z
      @昭和の残滓Z  Рік тому

      そうですね。
      入ってはいけない所に入ってしまったのかと思いました。