第1452回「元寇を思う - 敵国降伏の門 -」2024/12/28【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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- Опубліковано 27 гру 2024
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■管長日記「元寇を思う - 敵国降伏の門 -」
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最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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鎌倉時代に二度にわたり元の国が日本に攻めてくるということがありました。
「元寇」といいます。
『広辞苑』には、「元寇」
鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。
元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの10万を送ったが、2度とも大風が起こって多くの元艦が沈没した。
蒙古襲来。文永・弘安の役。」
と解説されています。
そんな元寇と縁が深いのが円覚寺であります。
円覚寺は、弘安の役が終わった明くる年に創建され、元寇で亡くなった敵味方両軍の御霊を供養したのでした。
九州博多にある筥崎宮もまた元寇に縁の深い神社であります。
先日は博多にでかけた次いで、筥崎宮にお参りしました。
十二月は、はじめの一週間は臘八の大摂心で一歩も寺の外に出ることなく、修行に励み、月の後半は、京都に行っては花園大学での授業、禅文化研究所の仕事を済ませていったん鎌倉に帰り、山口にでかけて朴の森で講演してまた一度鎌倉に帰り、新大阪で若獅子の会で講演し、そのまま博多に出かけました。
博多に私の兄弟子が住したお寺があり、そこで兄弟子の津送が行われたのでした。
筥崎宮にお参りすると、その入り口の看板には次のように書かれていました。
「筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(九二三年)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。
宇佐・石清水両宮と共に日本三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめた。
なお、「敵国降伏」の宸翰を掲げる楼門は伏敵門として有名である。」
という古い由緒のある神社であります。
「伏敵門」には、「敵国降伏」の大きな額が掲げられています。
亀山上皇について、これも筥崎宮にあった掲示板に書かれていたことを参照します。
亀山上皇と蒙古襲来という解説の掲示であります。
「亀山上皇は鎌倉時代、正元一年(一二五九)に第九十代天皇に即位され、文永十一年(一二七四)で譲位、上皇となられた。
この時期、二度に亘り起こったのが、日本最大の国難と云われる蒙古襲来 (元寇) である。
モンゴル高原モンゴル族のチンギス・ハンは蒙古国を興し、勢力を伸ばした。
その孫であるフビライ・ハンは国号を元と改め、大陸での支配域を急速に拡大すると共に、我が国も支配下に治めようと文永五年(一二六八)より幾度か国書を携えた使者を立て服属を迫った。
朝廷及び鎌倉幕府はこれを断固一蹴、執権北条時宗は御家人に異国警固を命じ、防御体制の強化を図った。
亀山上皇はこの国難に際し「我が身を以て国難に代わらん」と自ら異国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣に祈願を命じられた。
このような日本の対応に業を煮やしたフビライは武力による日本侵攻を決意したのである。
文永十一年(一二七四)、元は兵士およそ三万人、軍船九百艘で対馬・壱岐を侵略、十月二十日博多湾の今津に達し、百地原沿岸より上陸した。
九州御家人の大将少弐氏が指揮する武士団は箱崎をはじめ各地で元軍を迎え撃った。
初めは元軍の戦法に苦戦を強いられたが、赤坂、鳥飼(とりかい)、百道原(ももちばる)、姪浜(めいのはま)に於いて武士団は奮戦勝利した。
元軍は日没と共に船に撤退したがこの夜大風が吹き大半が海の藻屑と化した。
これを文永の役という。
この時、筥崎宮も兵火に遭ったが、亀山上皇は被害を受けた本宮社殿の再建に尽くされ国家安泰を祈念して「敵国降伏」の御宸翰を下賜された。
幕府は再度の襲来に備えて湾内西は今津から東は香椎まで約二十キロにわたり石築地(元寇防塁)を設けるなど更なる防衛体制の強化に務めた。」
と書かれていました。
文永の役は、ここにある通りわずか一日の戦闘で元軍は撤退しました。
この文永の役のときには、大風は吹かなかったのではないかという説が今日有力であります。
筥崎宮には、この亀山上皇の大きな尊像がお祀りされています。
明治時代に博多出身の彫刻家 山崎朝雲によって作られたものであります。
本殿に向かって拝礼すると、小さな板に、「敵国降伏のいわれ」が書かれていました。
これも書き写してきました。
「敵国降伏のいわれ
筥崎宮楼門に揚げられる敵国降伏とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです
その意味は武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく徳の力をもって導き相手が自ずから靡(なび)き降伏するという王道である我が国のあり方を説いています」
と書いてくださっています。
降伏といっても決して力で打ち負かすことではないことが説かれているのです。
その橫には明治天皇の御製が掲げられていました。
おのが身はかへりみずして
人のためつくすぞ
人のつとめなりける
という御製であります。
解説も書かれていました。
「自分自身のことは考えもせずしてただ人のため世のため一生懸命につくすということが、人の世に生きてゆく大事なつとめである。
とかく人は自分のことには力をつくすが、人のためにつくすということはさけて通やすいものである、それだけ人のためにつくすといふことはありがたく尊いことである」
と書かれていました。
お参りしてこういうよい教えをいただけるのは有り難いことであります。
弘安の役には、十万を超える軍勢が襲ってきたのでした。
そして二ヶ月にもわたって奮戦して上陸を防いだのでした。
また筥崎宮に入り口に明石元二郎の顕彰碑が最近できたようで、拝見しました。
明石元二郎は、日露戦争にも大きな功績がありました。
戦争中ロシア国内の攪乱を狙った諜報活動を展開していたのでした。
大正七(1918)年には台湾総督になっています。
釈宗演老師にも参禅された方でもあります。
筥崎宮にお参りして、亀山上皇の敵国降伏の額を拝むことができました。
元寇は実に国難でありました。
北条時宗公は、この国難にたちむかい、元寇の明くる年弘安五年に円覚寺を開いて敵味方の御霊を供養して、弘安七年数え年三十四歳でお亡くなりになったのでした。
横田南嶺
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