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とても心が軽くなりました。 許せない自分を自分で責めています。でも酷いことをされて、謝罪もなしで無かったことにされてそれでOKとはどうしても思えずモヤモヤしていました。小林さんのお話に、やっと私は許されたのかなあと嬉しく思ってます。 私の許せない人を、なあなあではなく本当にゆるせるように祈ることにします。ありがとうございます。
本当に長い間、悩んでいた事が、すっきりしました。許すことの意味がわかり、救われました。感謝します。
いつもありがとう!許すは悩ましかったこと。整理がだいぶつきました。五味太郎、カワイイな。
今晩は、拓馬さん この度もとても大切な事を語って下さり有り難う御座います。今の教会の大きな過ちを指摘して下さった事も感謝です。私の友達は同じ教会員に自分の妹を殺されました。その殺人者は他にも人を殺していました。しかしその時教会は妹を殺された友達の立場には立たなくいかにして殺した人を弁護するのかで躍起になっていました。書けば長くなりますからこれで話を止めますが、本当に寄り添わなければいけない友を無視して愛だのぷ~だの形だけぶうたれていた教会の姿には書く言葉もありません。悔い改めは恵みであり聖霊様の力無しでは絶対に不可能な事と信じています。反省なら猿にも出来る様ですから。拓馬さん、此れからも大切な事を語り続けて下さいね。
>本当に寄り添わなければいけない友を無視して愛だのぷ~だの形だけぶうたれていた、教会の姿には書く言葉もありません。教会迷走してるな … こいう時に、本当の崇拝対象が露呈するんだと思いました。その教会の方々の崇拝対象は何だったのか?神様に聞きたい…。そのような教会には、絶対に関わりたくないな。 👈試練として与えることはあるかもですが…私個人としては、関わりたくない(汗) ⇓被害者に自分の意見を押し付けるのは、御言葉がリアルに落とし込めてない(葛藤を経験してない・葛藤から逃げてる)からかもですね。そいう人は、往々にして的外れな正義感を振りかざしがちです(自己正義〈認知の歪み〉)…。悪魔の大好物ですね😅 👈自己正義〈認知の歪み〉
谢谢🙌
相手が未信者で謝罪が無い場合も赦さなければ赦されないと思って長く苦しみました。
ありがとうございます!
スパチャ本当にありがとうございます!!!
謝罪すべき相手が謝罪する前から「赦すのが愛ですよ」っていうのは筋違いですね。そのような誤った赦す態度が教会で蔓延しているのではないでしょうか。
ハレルヤ‼️ハレルヤ‼️ アーメン‼️アーメン‼️ 小林牧士を下さった 神様に感謝します❢❢
聖霊の力によってアーメン🙏
私の夫は教会の神学生と口論になり(私はその場にいなかったので細かいやり取りは分からない)、相手の足を蹴ったということで、牧師から「除名処分」になりました。その後、娘の助命嘆願と教会員たちの面前で陳謝朗読で除名は免れました。夫は2月に天に召されましたが、今でも、あの一件は厳しすぎたのでは、と悔しくなります。
很清楚的听到耶稣的声音
喜欢没有 音响干扰 👍 只有说解说圣经的声音 视频 声音清晰 没有干扰
いつも新しい気づきをありがとうございます。赦しには悔い改めが必要なのはその通りだと思います。ただ、償いも必要というのはどうなんでしょうか。加害者が償いきれないから、赦しが必要なんだと思いますが。反省している人が償いきれなかったら赦さないということでは無いですよね?
償う 償い切れない しかしその心がどこまであるか 神様は見ておられるのでは無いでしょうか。実際 許されるのは主なる神様でイエス様の十字架 です。私達は その心があるかですよね。
アーメンです。同感します。
マタイ18:19~20はエクレシアの定義ではありません。エクレシアというギリシャ語「ekklesia」は、「この世から呼び出された会衆」という意味です。旧約では、荒野でのイスラエルの集会などのように、集会そのものを指していましたが、新約では集っている人々を指すようになりました。エクレシアは、キリストを頭としてのクリスチャンの集まりである、目に見えない「普遍的教会」を指す場合と、目に見える「地域教会」を指す場合の両方が含まれます。もちろん、教会の建物や教派・教団という組織のことではありません。また、地域教会に行かなくても普遍的教会の一員という信仰者もいます。普遍的教会はキリストとクリスチャンの関係ですから完全です。地域教会は、霊的指導者や霊的幼子、未信者、偽信者などを含むので、不完全です。しかし、イエスご自身が黙示録で7つの地域教会の評価をされている通り、地域教会は普遍的教会につながるための重要な役割をするべき存在として認めておられ、期待しておられることも認識しましょう。そういう意味では、クラウドチャーチも小林さんという霊的指導者を中心とした地域教会です。さて、15節から20節はひとくくりで捉える必要があります。そして、この箇所は「地域教会」の中での4つのステップの対応のことを言っています。① 個人的に2人だけで悔い改めを勧める。(15節)② 一人か二人を一緒に連れて、2~3人の証言で悔い改めを迫る。(16節)③ 地域教会に事実を告げて、群れ全体の意向として悔い改めを求める。(17節)④ 教会の交わりから追放する。(17節)もし、ある地域教会から追放され、異邦人のように扱われても、悔い改めることができるなら、別の地域教会で信仰を深めるためのやり直しができます。普遍的教会の頭であるイエス様が、迷った一匹の小羊さえも、捜し出してくださるのです。(13節)その地域教会での対応がフェアでないこともありますが、それはそこに集っておられる普遍的教会のひとりひとりの責任でもあるのです。そして、19節の「二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら」とは、①に対応しており、20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには」とは、②に対応しているのであって、ここはエクレシアの定義ではありません。多くの方がここを教会の定義と位置づけますが、文脈を見れば明らかです。 その後の23節からの例えですが、もう少し深い意味があります。「1万タラントの負債」とは、10万年以上働かないと返せない金額です。それなのに「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言っていますが、返せるはずはないのです。しかし、赦すことのできる方がいます。皆さんお分かりの通り、これは罪の赦しのことであり、それはイエス様の十字架を信じる信仰による返済です。ただし、この時点で、イエス様の十字架はまだ起こっておらず、弟子たちでさえ、聖霊の内住のない状態であり、救われるかどうかもまだペンテコステを待たなければならない状態です。この時点で、今までの罪はイエス様に免除されたが、これから起こす罪に対して、特に赦さない心を持つということに対して、イエス様は「獄吏たち」に引き渡すと言われるのです。もし、ペテロがこれから後、無限に赦す心を持ちえなかったら、救われる前に、イスカリオテのユダのようにこの世を去って行ったことでしょう。ここでの、イエス様の教えは、この時のペテロや弟子たちに言われたのであり、この普遍的教会の一員に言っているのではありません。そうだとするなら、神の福音は、罪が赦されて救われた後も、赦せない心を持っていたら救いが取り消されることになります。現代の私たちクリスチャンは、救いと同時に聖霊が内住され普遍的教会につながり、それが取り消されることはなくなりました。そして聖霊が、私たちに赦すように働いてくださるのです。当時のペテロや弟子たちは、まだその救いの完成までの途中でしたから、自分で赦すように努力しなければなりませんでしたから、イエス様からそのような言葉をいただいても、できないのです。そうです、自分の努力ではできないということを、教えているのです。人はどんな努力や修行によっても救いに至ることはできないからこそ、イエス様に頼る以外に道はないと気づかされるのです。また、この箇所は、負債のある人がどうすべきかという観点はありません。とにかく、赦せない心に、神がイエス様を通して全て赦したように、「赦せるようになれ」と言われているのです。私たちは、このような歴史的時間的背景を聖書から学ぶことができ、信じることで救いは完成され、聖霊が私たちの実質が聖化されるように働いてくださっているという、大いなる恵みに感謝して歩んでまいりましょう。ハレルヤ!
(1)>もし、ペテロがこれから後、無限に赦す心を持ちえなかったら、救われる前に、イスカリオテのユダのようにこの世を去って行ったことでしょう。ここでの、イエス様の教えは、この時のペテロや弟子たちに言われたのであり、この普遍的教会の一員に言っているのではありません。そうだとするなら、神の福音は、罪が赦されて救われた後も、赦せない心を持っていたら救いが取り消されることになります>現代の私たちクリスチャンは、救いと同時に聖霊が内住され普遍的教会につながり、それが取り消されることはなくなりました。そして聖霊が、私たちに赦すように働いてくださるのです。当時のペテロや弟子たちは、まだその救いの完成までの途中でしたから、自分で赦すように努力しなければなりませんでしたから、イエス様からそのような言葉をいただいても、できないのです。 ⇓んー、言い回しが専門的(表現が専門的)過ぎてわからない(汗)。これを一般の人でも解るように噛み砕くと… 「この時点では、この例えの通りになってたはず。だから、ペテロ自身が悔い改めなかったら地獄言ってたかも(誘導されてたかも:自殺含む)。」 「今は、`聖霊の助けあるし・救いが取り去られない(再投獄されない)ことも確定してる`。だから、どんな状況でもこいうふうにはならないはず。」…合ってるかな?(汗)(2)>そうです、自分の努力ではできないということを、教えているのです。人はどんな努力や修行によっても救いに至ることはできないからこそ、イエス様に頼る以外に道はないと気づかされるのです。また、この箇所は、負債のある人がどうすべきかという観点はありません。 ⇓そうですね。確かに『自分の努力ではできないということを、教えているのです。』という観点(適用)はアーメンです。ただ、受け取る人によって観点(適用・神からのメッセージ)は違ってくるので…『~という観点はありません(自分は正しい)。』と定めてしまうのは…どうかなと思います(´・ω・`)。 👈『自分が正しいと定める = 自己正義(認知の歪み) = 人の特性(罪性)』 *反例の一つ:最後の主君の言葉から、負債者としての在り方を学ぶ人がいるかもしれない… *正直、定めたくなる気持ちは分かります(汗)…同じ罪人なので 👈『私自身にも、認知の歪みはあるはず』と自覚してます(3)>そして、19節の「二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら」とは、①に対応しており、20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには」とは、②に対応しているのであって、ここはエクレシアの定義ではありません。多くの方がここを教会の定義と位置づけますが、文脈を見れば明らかです。 ⇓(ⅰ)確かに、エクレシアっていう言葉の定義はしてないですね(間接的解釈としてはありえますが)。アーメン *「エクレシア内では、このようなことが起こる」という解説かも? … 「step1.19・20節のような関係性がある ⇨ step2.そこには、既にエクレシアが存在してる」 👈エクレシアが先に自然発生してる *エクレシアとは、古代ギリシャ語で「人の集い」「集会」「共同体」を意味する言葉 … 単純にこういうふうに捉えればいいのかも? 👈どのような人が集まるか 等の詳細は(神様が)教えてくれたけど、エクレシアっていう言葉の定義は…(神様が)教えるまでもないのかも(汗)(ⅱ)+α … この言葉って、3~17節全てに繋がってるかも?集う様になる ~ 集いを立てあげる ~ 集いを維持し続ける(個人・組織の両方) ⇨ この期間には、3~17節に書かれているような様々な問題が起こります。`その時の心構え+実践的知恵` として19~20節の教えがあるのかもと推測しました。 👇・裁く・許す・お互いに↑2つを行う・お互いに無自覚に罪を犯す後半2つを同時に考慮すると、(人は)完全に詰んでるなと自覚させられます。この解決不可能な問題を解決してくれる。 👈解決するまでは、(自力コントロール不可なので)精神的に無茶クソしんどいですけど…(汗)本当に、神に感謝です(´・ω・`)。 アーメン
7かける70=490回まで許すんですよ。無限ではなく、限界があるという事。天の父もその時が来たら、毒麦をゲヘナの火に放り込むんだから。ましてや謝罪も反省も償いもしない相手とは、絶縁して関わらないのが一番だと思います。
とても大切なことで、たくまさんのことを主にあって愛しているので書かせてください。私たちが赦すように言われているのは、主イエスが私たちの負債を赦してくださったからです。相手が謝罪し、償いをしたから、赦すのではありません。もし相手が謝罪し、償いをしたならば、あなたはもう罪に対する代価(弁償)を受けているのです。それでその人を赦したからと言って、どうして天の父の子と言えるでしょうか。罪人たちですら、謝罪し、弁償し、真摯に償いをした人たちを許しています。私たちが赦すのは、主イエスがまず私たちを赦してくださったからです。天の父は、悪人に太陽を昇らせ、食べ物を与える方です。主イエスは、天の父が完全であるように、私たちも完全であるようにと言われました。人を赦することの最も困難な点は、相手がそれを受けるに相応しくないことですね。本来、その人のやったことの代価/負債はどのような形であれ私に弁償されなければなりません。でも赦したらどうなるのでしょう。その負債を負うのは、本来負うべき相手ではなく、自分になります。だから人を赦すのは困難なのです。なぜ私が、あの人が負うべき負債を負わなければならないのか、誰でもそう思います。でも主イエスは、私たちが罪人であった時に、罪人の私たちのために死に、私たちが負うべきであった負債をその身に負ってくださいました。ここに愛があるのです。これより大きな愛は、誰も持っていません。そしてそのイエスが、天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい、というのです。左の頬を打つものに右の頬を。上着を取るものに下着を。強いて1マイル行けというものに、2マイル一緒に歩きなさい、と言われるのです。それは自分の十字架を背負ってイエスについてゆくのでなければ決して出来ない道です。狭い道であり、小さい門です。そしてそれは、肉には決して成し得ない道だからこそ、肉を十字架で死に渡し、霊に生きなければならないのです。霊に生きるものとは誰でしょう。それは私たち神の子ではありませんか。それが私たちの召命であり、キリストの相続人としての地位です。誰でもキリストを愛し従うというものは、キリストが歩まれたように、自分自身も彼が歩んだ道を歩まなければなりません。そしてそれは十字架の道です。肉を死に渡し、霊に復活する道なのです。兄弟を愛さないものには神の愛は留まっていません。兄弟を愛さないものは、イエスを見ていないし、イエスの中に留まってもいません。どうか拓馬さんがこれからも、イエス様と共に時間を過ごし、キリストだけを見、キリストだけに従うまことの神の子とされますよう、祝福をお祈りしています。
手紙は牧師が他教会におくったのです。文脈が変でしたね。色々ありすぎました。
ア-メン。わかりやすい説明ありがとうございました。
拓馬さんの祈りは、👇こうでしょうか?天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 わたしに負債のある者をゆるさないように、わたしの負債をもおゆるさないでください。 わたしは試みなどなんのその、悪しき者を批判します。
生活に困っている人々に対してはユダヤ教はユダヤ教の仲間に施しをします。イスラム教は生活に困っている人々に対しては喜捨して施しています。キリスト教は財産を共有していませんでしたか?✨現代のキリスト教(特に日本のキリスト教会)は生活に困っている人々に対しては施しはしないで、施し(障害年金や生活保護)は日本政府の政治が行っています。
クリスチャン人口の少ない日本では 生活困窮者を教会だけで 施す事はできませんが 神様が政治にも政府にも手を述べて下さり 障害年金、生活保護の制度があると私は思うのですが…。
とても心が軽くなりました。
許せない自分を自分で責めています。でも酷いことをされて、謝罪もなしで無かったことにされてそれでOKとはどうしても思えずモヤモヤしていました。
小林さんのお話に、やっと私は許されたのかなあと嬉しく思ってます。
私の許せない人を、なあなあではなく本当にゆるせるように祈ることにします。
ありがとうございます。
本当に長い間、悩んでいた事が、すっきりしました。許すことの意味がわかり、救われました。
感謝します。
いつもありがとう!
許すは悩ましかったこと。整理がだいぶつきました。
五味太郎、カワイイな。
今晩は、拓馬さん この度もとても大切な事を語って下さり有り難う御座います。
今の教会の大きな過ちを指摘して下さった事も感謝です。私の友達は同じ教会員に
自分の妹を殺されました。その殺人者は他にも人を殺していました。しかしその時
教会は妹を殺された友達の立場には立たなくいかにして殺した人を弁護するのかで
躍起になっていました。書けば長くなりますからこれで話を止めますが、本当に
寄り添わなければいけない友を無視して愛だのぷ~だの形だけぶうたれていた
教会の姿には書く言葉もありません。悔い改めは恵みであり聖霊様の力無しでは
絶対に不可能な事と信じています。反省なら猿にも出来る様ですから。拓馬さん、
此れからも大切な事を語り続けて下さいね。
>本当に寄り添わなければいけない友を無視して愛だのぷ~だの形だけぶうたれていた、教会の姿には書く言葉もありません。
教会迷走してるな … こいう時に、本当の崇拝対象が露呈するんだと思いました。その教会の方々の崇拝対象は何だったのか?神様に聞きたい…。
そのような教会には、絶対に関わりたくないな。 👈試練として与えることはあるかもですが…私個人としては、関わりたくない(汗)
⇓
被害者に自分の意見を押し付けるのは、御言葉がリアルに落とし込めてない(葛藤を経験してない・葛藤から逃げてる)からかもですね。
そいう人は、往々にして的外れな正義感を振りかざしがちです(自己正義〈認知の歪み〉)…。
悪魔の大好物ですね😅 👈自己正義〈認知の歪み〉
谢谢🙌
相手が未信者で謝罪が無い場合も赦さなければ赦されないと思って長く苦しみました。
ありがとうございます!
スパチャ本当にありがとうございます!!!
謝罪すべき相手が謝罪する前から「赦すのが愛ですよ」っていうのは筋違いですね。そのような誤った赦す態度が教会で蔓延しているのではないでしょうか。
ハレルヤ‼️ハレルヤ‼️ アーメン‼️アーメン‼️ 小林牧士を下さった 神様に感謝します❢❢
聖霊の力によってアーメン🙏
私の夫は教会の神学生と口論になり(私はその場にいなかったので細かいやり取りは分からない)、相手の足を蹴ったということで、牧師から「除名処分」になりました。その後、娘の助命嘆願と教会員たちの面前で陳謝朗読で除名は免れました。夫は2月に天に召されましたが、今でも、あの一件は厳しすぎたのでは、と悔しくなります。
很清楚的听到耶稣的声音
喜欢没有 音响干扰 👍 只有说解说圣经的声音 视频 声音清晰 没有干扰
いつも新しい気づきをありがとうございます。
赦しには悔い改めが必要なのはその通りだと思います。ただ、償いも必要というのはどうなんでしょうか。加害者が償いきれないから、赦しが必要なんだと思いますが。反省している人が償いきれなかったら赦さないということでは無いですよね?
償う 償い切れない しかしその心がどこまであるか 神様は見ておられるのでは無いでしょうか。実際 許されるのは主なる神様でイエス様の十字架 です。
私達は その心があるかですよね。
アーメンです。同感します。
マタイ18:19~20はエクレシアの定義ではありません。
エクレシアというギリシャ語「ekklesia」は、「この世から呼び出された会衆」という意味です。
旧約では、荒野でのイスラエルの集会などのように、集会そのものを指していましたが、新約では集っている人々を指すようになりました。
エクレシアは、キリストを頭としてのクリスチャンの集まりである、目に見えない「普遍的教会」を指す場合と、目に見える「地域教会」を指す場合の両方が含まれます。
もちろん、教会の建物や教派・教団という組織のことではありません。
また、地域教会に行かなくても普遍的教会の一員という信仰者もいます。
普遍的教会はキリストとクリスチャンの関係ですから完全です。
地域教会は、霊的指導者や霊的幼子、未信者、偽信者などを含むので、不完全です。
しかし、イエスご自身が黙示録で7つの地域教会の評価をされている通り、地域教会は普遍的教会につながるための重要な役割をするべき存在として認めておられ、期待しておられることも認識しましょう。
そういう意味では、クラウドチャーチも小林さんという霊的指導者を中心とした地域教会です。
さて、15節から20節はひとくくりで捉える必要があります。
そして、この箇所は「地域教会」の中での4つのステップの対応のことを言っています。
① 個人的に2人だけで悔い改めを勧める。(15節)
② 一人か二人を一緒に連れて、2~3人の証言で悔い改めを迫る。(16節)
③ 地域教会に事実を告げて、群れ全体の意向として悔い改めを求める。(17節)
④ 教会の交わりから追放する。(17節)
もし、ある地域教会から追放され、異邦人のように扱われても、悔い改めることができるなら、別の地域教会で信仰を深めるためのやり直しができます。
普遍的教会の頭であるイエス様が、迷った一匹の小羊さえも、捜し出してくださるのです。(13節)
その地域教会での対応がフェアでないこともありますが、それはそこに集っておられる普遍的教会のひとりひとりの責任でもあるのです。
そして、19節の「二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら」とは、①に対応しており、20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには」とは、②に対応しているのであって、ここはエクレシアの定義ではありません。
多くの方がここを教会の定義と位置づけますが、文脈を見れば明らかです。
その後の23節からの例えですが、もう少し深い意味があります。
「1万タラントの負債」とは、10万年以上働かないと返せない金額です。
それなのに「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言っていますが、返せるはずはないのです。
しかし、赦すことのできる方がいます。
皆さんお分かりの通り、これは罪の赦しのことであり、それはイエス様の十字架を信じる信仰による返済です。
ただし、この時点で、イエス様の十字架はまだ起こっておらず、弟子たちでさえ、聖霊の内住のない状態であり、救われるかどうかもまだペンテコステを待たなければならない状態です。
この時点で、今までの罪はイエス様に免除されたが、これから起こす罪に対して、特に赦さない心を持つということに対して、イエス様は「獄吏たち」に引き渡すと言われるのです。
もし、ペテロがこれから後、無限に赦す心を持ちえなかったら、救われる前に、イスカリオテのユダのようにこの世を去って行ったことでしょう。
ここでの、イエス様の教えは、この時のペテロや弟子たちに言われたのであり、この普遍的教会の一員に言っているのではありません。
そうだとするなら、神の福音は、罪が赦されて救われた後も、赦せない心を持っていたら救いが取り消されることになります。
現代の私たちクリスチャンは、救いと同時に聖霊が内住され普遍的教会につながり、それが取り消されることはなくなりました。
そして聖霊が、私たちに赦すように働いてくださるのです。
当時のペテロや弟子たちは、まだその救いの完成までの途中でしたから、自分で赦すように努力しなければなりませんでしたから、イエス様からそのような言葉をいただいても、できないのです。
そうです、自分の努力ではできないということを、教えているのです。
人はどんな努力や修行によっても救いに至ることはできないからこそ、イエス様に頼る以外に道はないと気づかされるのです。
また、この箇所は、負債のある人がどうすべきかという観点はありません。
とにかく、赦せない心に、神がイエス様を通して全て赦したように、「赦せるようになれ」と言われているのです。
私たちは、このような歴史的時間的背景を聖書から学ぶことができ、信じることで救いは完成され、聖霊が私たちの実質が聖化されるように働いてくださっているという、大いなる恵みに感謝して歩んでまいりましょう。
ハレルヤ!
(1)
>もし、ペテロがこれから後、無限に赦す心を持ちえなかったら、救われる前に、イスカリオテのユダのようにこの世を去って行ったことでしょう。
ここでの、イエス様の教えは、この時のペテロや弟子たちに言われたのであり、この普遍的教会の一員に言っているのではありません。
そうだとするなら、神の福音は、罪が赦されて救われた後も、赦せない心を持っていたら救いが取り消されることになります
>現代の私たちクリスチャンは、救いと同時に聖霊が内住され普遍的教会につながり、それが取り消されることはなくなりました。
そして聖霊が、私たちに赦すように働いてくださるのです。
当時のペテロや弟子たちは、まだその救いの完成までの途中でしたから、自分で赦すように努力しなければなりませんでしたから、イエス様からそのような言葉をいただいても、できないのです。
⇓
んー、言い回しが専門的(表現が専門的)過ぎてわからない(汗)。これを一般の人でも解るように噛み砕くと…
「この時点では、この例えの通りになってたはず。だから、ペテロ自身が悔い改めなかったら地獄言ってたかも(誘導されてたかも:自殺含む)。」
「今は、`聖霊の助けあるし・救いが取り去られない(再投獄されない)ことも確定してる`。だから、どんな状況でもこいうふうにはならないはず。」
…合ってるかな?(汗)
(2)
>そうです、自分の努力ではできないということを、教えているのです。
人はどんな努力や修行によっても救いに至ることはできないからこそ、イエス様に頼る以外に道はないと気づかされるのです。
また、この箇所は、負債のある人がどうすべきかという観点はありません。
⇓
そうですね。確かに『自分の努力ではできないということを、教えているのです。』という観点(適用)はアーメンです。
ただ、受け取る人によって観点(適用・神からのメッセージ)は違ってくるので…『~という観点はありません(自分は正しい)。』と定めてしまうのは…どうかなと思います(´・ω・`)。 👈『自分が正しいと定める = 自己正義(認知の歪み) = 人の特性(罪性)』
*反例の一つ:最後の主君の言葉から、負債者としての在り方を学ぶ人がいるかもしれない…
*正直、定めたくなる気持ちは分かります(汗)…同じ罪人なので 👈『私自身にも、認知の歪みはあるはず』と自覚してます
(3)
>そして、19節の「二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら」とは、①に対応しており、20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには」とは、②に対応しているのであって、ここはエクレシアの定義ではありません。
多くの方がここを教会の定義と位置づけますが、文脈を見れば明らかです。
⇓
(ⅰ)
確かに、エクレシアっていう言葉の定義はしてないですね(間接的解釈としてはありえますが)。
アーメン
*「エクレシア内では、このようなことが起こる」という解説かも? … 「step1.19・20節のような関係性がある ⇨ step2.そこには、既にエクレシアが存在してる」 👈エクレシアが先に自然発生してる
*エクレシアとは、古代ギリシャ語で「人の集い」「集会」「共同体」を意味する言葉 … 単純にこういうふうに捉えればいいのかも? 👈どのような人が集まるか 等の詳細は(神様が)教えてくれたけど、エクレシアっていう言葉の定義は…(神様が)教えるまでもないのかも(汗)
(ⅱ)
+α … この言葉って、3~17節全てに繋がってるかも?
集う様になる ~ 集いを立てあげる ~ 集いを維持し続ける(個人・組織の両方) ⇨ この期間には、3~17節に書かれているような様々な問題が起こります。`その時の心構え+実践的知恵` として19~20節の教えがあるのかもと推測しました。
👇
・裁く
・許す
・お互いに↑2つを行う
・お互いに無自覚に罪を犯す
後半2つを同時に考慮すると、(人は)完全に詰んでるなと自覚させられます。この解決不可能な問題を解決してくれる。 👈解決するまでは、(自力コントロール不可なので)精神的に無茶クソしんどいですけど…(汗)
本当に、神に感謝です(´・ω・`)。 アーメン
7かける70=490回まで許すんですよ。無限ではなく、限界があるという事。天の父もその時が来たら、毒麦をゲヘナの火に放り込むんだから。
ましてや謝罪も反省も償いもしない相手とは、絶縁して関わらないのが一番だと思います。
とても大切なことで、たくまさんのことを主にあって愛しているので書かせてください。
私たちが赦すように言われているのは、主イエスが私たちの負債を赦してくださったからです。相手が謝罪し、償いをしたから、赦すのではありません。
もし相手が謝罪し、償いをしたならば、あなたはもう罪に対する代価(弁償)を受けているのです。それでその人を赦したからと言って、どうして天の父の子と言えるでしょうか。
罪人たちですら、謝罪し、弁償し、真摯に償いをした人たちを許しています。
私たちが赦すのは、主イエスがまず私たちを赦してくださったからです。
天の父は、悪人に太陽を昇らせ、食べ物を与える方です。主イエスは、天の父が完全であるように、私たちも完全であるようにと言われました。
人を赦することの最も困難な点は、相手がそれを受けるに相応しくないことですね。
本来、その人のやったことの代価/負債はどのような形であれ私に弁償されなければなりません。
でも赦したらどうなるのでしょう。その負債を負うのは、本来負うべき相手ではなく、自分になります。
だから人を赦すのは困難なのです。なぜ私が、あの人が負うべき負債を負わなければならないのか、誰でもそう思います。
でも主イエスは、私たちが罪人であった時に、罪人の私たちのために死に、私たちが負うべきであった負債をその身に負ってくださいました。ここに愛があるのです。これより大きな愛は、誰も持っていません。
そしてそのイエスが、天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい、というのです。
左の頬を打つものに右の頬を。
上着を取るものに下着を。
強いて1マイル行けというものに、2マイル一緒に歩きなさい、と言われるのです。
それは自分の十字架を背負ってイエスについてゆくのでなければ決して出来ない道です。狭い道であり、小さい門です。そしてそれは、肉には決して成し得ない道だからこそ、肉を十字架で死に渡し、霊に生きなければならないのです。
霊に生きるものとは誰でしょう。それは私たち神の子ではありませんか。それが私たちの召命であり、キリストの相続人としての地位です。誰でもキリストを愛し従うというものは、キリストが歩まれたように、自分自身も彼が歩んだ道を歩まなければなりません。
そしてそれは十字架の道です。肉を死に渡し、霊に復活する道なのです。
兄弟を愛さないものには神の愛は留まっていません。兄弟を愛さないものは、イエスを見ていないし、イエスの中に留まってもいません。どうか拓馬さんがこれからも、イエス様と共に時間を過ごし、キリストだけを見、キリストだけに従うまことの神の子とされますよう、祝福をお祈りしています。
手紙は牧師が他教会におくったのです。
文脈が変でしたね。
色々ありすぎました。
ア-メン。わかりやすい説明ありがとうございました。
拓馬さんの祈りは、👇こうでしょうか?
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしに負債のある者をゆるさないように、わたしの負債をもおゆるさないでください。
わたしは試みなどなんのその、悪しき者を批判します。
生活に困っている人々に対してはユダヤ教はユダヤ教の仲間に施しをします。イスラム教は生活に困っている人々に対しては喜捨して施しています。キリスト教は財産を共有していませんでしたか?✨現代のキリスト教(特に日本のキリスト教会)は生活に困っている人々に対しては施しはしないで、施し(障害年金や生活保護)は日本政府の政治が行っています。
クリスチャン人口の少ない日本では 生活困窮者を教会だけで 施す事はできませんが 神様が政治にも政府にも手を述べて下さり 障害年金、生活保護の制度があると私は思うのですが…。