禅と念仏の決定的な違いとは【仏教の教え】

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  • Опубліковано 10 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 32

  • @ナオリン-p8c
    @ナオリン-p8c 8 місяців тому +2

    今日もありがとうございます🙇

  • @byBuddhism
    @byBuddhism  8 місяців тому +5

    3か月集中講座、詳細はこちらからどうぞ。
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    • @寿子川村-m8p
      @寿子川村-m8p 8 місяців тому

      今日も、とても大変,学びになりました。ありがとうございました。

  • @sk1478
    @sk1478 8 місяців тому +3

    生きてる現在、一念で幸せの人生にガラリと変わることに衝撃を受けました。
    中学校の時とかに歴史の教科書に浄土宗とか浄土真宗が死んだら救われる(浄土に行ける)ということを信じるものだと書いてあった記憶があったのですが、誤解していたかもしれません。
    今日も一つ、学びを得られました。
    ありがとうございました。

  • @三戸健司-n9j
    @三戸健司-n9j 8 місяців тому +1

    菊谷先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。何時聞いても有り難いです。仏法は聴聞に極まることなり。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏

  • @瑞紀西川
    @瑞紀西川 8 місяців тому +4

    こんばんは。❤今日も、ありがとうございます。❤

  • @小栗光雄
    @小栗光雄 8 місяців тому +1

    ありがとうございました。

  • @ksc4850
    @ksc4850 8 місяців тому +3

    こんばんは!
    今日もありがとうございました!
    (菊谷隆太先生動画視聴メモ)
    ★禅と念仏の決定的な違いとは
    1.座禅とは(禅定、六度万行)
    2.念仏とは(自力と他力の念仏)
    3.無碍の一道(信心決定、無上の幸福)

  • @帝釈転
    @帝釈転 8 місяців тому +2

    有り難うございます🙇

  • @スダディア
    @スダディア 8 місяців тому +2

    至徳の風静かに 衆禍の波転ず 合掌

  • @デジタリアン25号
    @デジタリアン25号 8 місяців тому +1

    善と禅は日本語では偶然同じ発音ですが似ている。
    善は正義と違う。正義は敵があるもの。しかし、善は空間或いは宇宙と同化した状態。
    我々生命には途方もなく難しい状態でしょう。
    ただ、禅の中にそれを見た時即身成仏(即身仏とは違います生きたまま成仏を悟るものです。念のため)の道が見えるのでしょうや。
    瞑想もその入口だと思います。
    念仏も方法は違いますが、念じて委ねる空間と同化することにより即身成仏状態の無心状態を得れる悟。
    生きる事が大変ですが悟る状態は空間の中に同じとして溶け込む事だと思う。それは、欲という自我を越えた状態。
    ただ、それでも生きる行動をするしかなくそれが何か悟りだけで済まないのが人なのでしょう。

  • @靖昭田原
    @靖昭田原 8 місяців тому +4

    栄西や道元は呼び捨て?

  • @よしノリ
    @よしノリ 8 місяців тому +1

    聖道門、淨土門ともに
    素晴らしいですね!😊
    仏法は聴聞に極まる
    南無阿弥陀仏

  • @117neko
    @117neko 8 місяців тому +1

    南無阿弥陀仏m(__)m

  • @Cathy-okari
    @Cathy-okari 8 місяців тому +1

    今日はわかりませんでした😊

  • @mirokuri3296
    @mirokuri3296 8 місяців тому +2

    毎回たくさんの動画を拝見させて頂いておりますが、なぜ親鸞聖人は法然上人の言葉で大きな本願の船に乗せてもらえたと感じたのでしょうか。
    信じる事を貫き続けたからでしょうか?それとも法然上人のお言葉を聞いたからでしょうか?あるいはどちらも縁が揃った条件があったのでしょうか。
    とても興味深いです🙏

    • @byBuddhism
      @byBuddhism  8 місяців тому +1

      法然上人から阿弥陀仏の本願の船を聴聞され、一念に乗せていただいたのです。

    • @mirokuri3296
      @mirokuri3296 8 місяців тому +1

      ご返信ありがとうございます
      菊谷先生は阿弥陀如来の大きな本願の船である一念に乗せていただけたのですか?
      煩悩具足のわたしも船に乗せていただきたいです🙏

  • @kouitikoganei-z9u
    @kouitikoganei-z9u 8 місяців тому +3

    「善い行い」は共通するものが有ります、「自戒」が基本にあります。
    「禅」を組むことに二法あるようです、臨済禅は命題をいただいて瞑想する「思考禅」と曹洞宗の無念無想の禅です。
    親鸞上人は臨済禅も無想禅も知らない比叡山の修業です。
    歴史的に見ても親鸞上人が「禅」を組む方法が異なっている事は明らかです。
    僧侶たちと僧兵の権力闘争で乱れていた比叡山の天台宗の混乱期に修行しています。
    「禅」とは無縁の仏教だったことは明らかにしないと誤りに成ります。
    修行は全て「他力」で「自力」で行うものではありません。
    お釈迦様は全ての煩悩を否定する「出家」をする事も「自力」の否定です、
    衆生の仏心による「布施」によって生かされる「托鉢」に「自力」は有りません。
    お釈迦様が修行の基盤に置いた「托鉢」を日本仏教は軽視しました、「托鉢」を主眼に置いたのは一遍上人の時宗だけと言っても過言ではない様に思います。
    一遍上人は親鸞上人とは別の意味で法然上人の教えを実践した偉人です。
    「無碍の一道」は最高の幸福かね、菊池氏の煩悩の「判断」が混ぜられてしまいます。
    「信心決定」は聴聞で決まるという事は徐々に信心が育つようですね。
    親鸞上人は二十年余りの修業のおかげで、法然上人の説法を聞いて「信心の一念」を決める事が出来た。
    「自戒」と共に仏道を歩むことが出来るようになった、欲と煩悩の違いを心の目で見る事が出来るようになった「無我の境地」。
    煩悩を見る事が出来れば振り回される事が無くなり、無明の闇が晴れて阿弥陀如来の光明を感じる事が出来る。

  • @しづよ
    @しづよ 8 місяців тому +1

    下手なコメントごめんなさい

  • @takumiyamashita-m7s
    @takumiyamashita-m7s 8 місяців тому +1

    親鸞聖人は心を静める事が出来なったですか?それは心が弱かっただけでしょう、世に中の成功者は心が強いから成功したのですよ、他力に頼るのは心の弱い人間のすることです。

    • @小山雅之-o8t
      @小山雅之-o8t 8 місяців тому

      心の弱い人は救われないの?
      佛の慈悲❤

    • @小山雅之-o8t
      @小山雅之-o8t 8 місяців тому

      キリスト教も念仏と同旨♥

    • @takumiyamashita-m7s
      @takumiyamashita-m7s 8 місяців тому

      キリスト教も仏経も妄想です信じる価値はありません、

    • @takumiyamashita-m7s
      @takumiyamashita-m7s 8 місяців тому

      救うなら心の弱い人間を救わないと意味はないでしょう、心の強い人間は救う必要はありませんし宗教なんて信じませんからね。

    • @takumiyamashita-m7s
      @takumiyamashita-m7s 8 місяців тому

      心の弱い人間を救わないと 心の強い人間を救う必要はありませんので。

  • @なしなし-d6z
    @なしなし-d6z 8 місяців тому

    念仏禅というのもあるやろ。浄土教の教えを自ら底を浅くしてるやんけ。