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最後までご視聴いただきの場面で西郷隆盛像がいつも流れてますが最後と西郷を掛けてるのに今気づきました
歴史の解釈の一部はこんな感じで作られてるんだろうなと思いました笑
え、そうなのか!!
鎌倉北条家と血のつながりのない小田原北条氏に圧迫される足利家という図式が面白いですよね。また北条に圧迫されなあアカンのか…という溜め息が聞こえて来そう(^ ^)
その昔、アニメ一休さんにおける足利義満の描かれ方(かなりお茶らけた人物という設定だった)に対して指摘をしたのは喜連川家の末裔の方(当時のアニメージュに監督さんの談話があり、「足利さんという方から義満の設定に対して指摘が入った」とありました)みたいでしたね。
この動画を見てもわかるように喜連川さんは足利の血脈でも何でもないので、足利後裔ズラされる事に非常な違和感を感じてる自分がいます。
網羅性のある構成、分かりやすかったです。ありがとうございます。
そもそも養子入ってるからまるで今の家は別物。
私が住んでいる福岡県柳川市には西方寺があるのですが住職の姓は足利ですよ‼️それに江戸時代初期に筑後1国を領有した田中吉政にその当時の西方寺住職足利氏は弾圧されそうになる寸前でした❕
秀吉の関東公方政策、家康が豊臣政権下で大人しくしている分には害はないけど、関東の王になろうとした瞬間に足枷になるのほんとよくできているなと思いました。
下級武士、農民の出であるとされる秀吉に征夷大将軍なぞ譲れるかと将軍の格式を守った足利義昭。
あの、たーわーけ!の家が今も残っていたんですね
豊臣家も徳川に臣下の礼を取ったら、これくらいは優遇されたのに。
動画でも紹介されたように参勤交代の収入が犯罪性を左右し、特に伊達等の大藩が宿泊するかがキモだったそうな参勤交代側としても余分な出費はしたくないので通過をしたいそうはさせじと、喜連川藩主自らが宿場入口まで挨拶に出向いたのだとか
関東10刹の任命の話は他のチャンネル等では全く出てこなかったのでよくしらべられてますね。因みに足利惇氏の話は吉川英治の取材時の逸話などを収録した随筆私本太平記に出て来ますが南北朝正閏論が強い時代で学習院では昭和天皇と同学年だった為にけっこう辛かったそうですね。
義昭君は、子孫を残し切れなかったんですが、平島公方って、蜂須賀氏にとっては扱いづらい存在だったが、浪人に成った事で、しぶとく残ったのね。
公方存続の為の🧠思考のフル回転が垣間見える。激動の公方家の歴史ですねー。是非とも歴史探偵や英雄たちの選択での放映を❗️
5千石で大名?扱い・・・苦労しただろうな。
ややこしい相続だなぁ
足利幕府唯一、くじ引きで選ばれた将軍有り、びっくりものです。
足利家のその後、勉強になりました。平島公方家も喜連川公方家も、初耳でした。前者は浪人として明治を迎えたため、平民身分となり帰農したのですね。古河公方、と小弓公方が最終的に統合し、これが関東公方家となり、秀吉が家康への牽制して利用したわけですね。秀吉、ここでも家康への締め付けと関東統治へのハードルを上げてますね。その喜連川家が、参勤交代や妻子の江戸居住、諸役を免除されるほどの高待遇を受けていたとは、驚きました。そして、他藩にとっては苦痛と出費でしかない参勤交代によって、収入が増加していたとは、皮肉ですね!今回の動画はなかなか複雑で詳細なので、もう一度見直そうと思います。
平島公方家(阿波を出たあと)ですが、江戸時代は京都で、公家衆とも交際してたのでしようか? 官位など貰ってはいなかつたのかな、と思いました。親しい公家に頼んでも良かったかなあと、思いました。そのまま朝臣になる道もあつたかと思いましたか(堂上?とか。堂上は無理としても、地下ならば、維新後は京都府士族にはなれたかもしれません。)、流石にそんなには甘くないのですね。尤も、平島家は、公家(堂上公家、無理なら地下を)を志向したのかどうか、わかりませんけども。室町時代は日野家や近衛家とは親密であったと思いますし、そのヨシミでなんとかなったかもと勝手に思いました…(さすがに、公家侍には、なるつもりはないかもしれませんけど……。公家侍になっておけば、維新後に京都府士族になれたかもわかりません)。
何かで読んだので確証はないですが、京に出た後は桜井家に仕えたみたいです。
0:12: 🏰 江戸時代以降、足市は力を失いましたが、関東の久保家が遺産を残し、権威を保ち続けました。3:46: 🗾 平島久保は足一門として認められる存在であり、足義明と将軍職を争った系統である。8:04: 🗾 関東地域の戦国時代の歴史についての要点をまとめました。11:33: 🏯 豊臣政権の関東久保家と徳川家康の関係についての要点をまとめると、豊臣政権は関東久保家の権威を確立し、徳川家康は関東房の制約を克服してキレ川班の成立へと進んでいくこととなった。14:19: 🏰 江戸幕府の基盤が固まるにつれキレがけの影響力も弱まっていきますが、権威は保たれ続けています。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
正に楔。気位の高い氏姫が話題に上がることが多いけどお家が存続できた理由が分かりました。
氏姫が喜連川に行かなかったのも、気位の高さというより古河鴻巣御所領を守るためと言えますね。古河、小弓の区別なく公方の権威を守るために団結していたようにも見受けられます。
義昭が断った事から征夷大将軍にはなれなかったけれど、より高位の太政大臣になれたから結果として良かった秀吉。この点に関しては非常に重要で、秀吉没後、徳川政権が誕生した折、征夷大将軍に過ぎなかった家康がより高位にあった秀吉に引け目(徳川時代であるのに豊臣家より下位にあると権威や支配に差し障りがあるため)を感じ、晩年病床にありながら急いで朝廷に打診して太政大臣に任命させたの無理やり秀吉と同列になろうと奔走した感があって好き。
最近の研究では実は義昭は秀吉に征夷大将軍になる様にすすめてたらしいですところが秀吉の方が固辞していたという事が分かってきています
@@もふもふ-x4p その根拠とされる史料について情報はありますか。いつ・どこから見つかったのか、その史料の客観的な信憑性・史料を書いた人物・年代・所蔵元など。
そもそも義昭が断ったというのは江戸時代に林羅山が書いた話で信憑性がない。同時代の多聞院日記には秀吉が将軍任官を断った話が出てくる。信長に三職推任の話がでていた時点で将軍職に義昭の意向も源氏であるか否かも関係ないことがわかると思う
😃
@@user-oq1fr5oy9s 関白就任に比べれば征夷大将軍は大した話ではないですものね。林羅山の話は江戸時代の感覚だからもっともらしく聞こえるのであって。
5:36 蜂須賀重喜がこういう事をしたのは複雑な出自だったからかな?重喜は佐竹家の出身だから血筋的には胡散臭い蜂須賀よりも格上だけど分家の2万石の小大名の四男だからコンプレックスがあったのかも。
ゆかりもない蜂須賀家ですから、自身の権力を家中に示すためにみたいなことはありそうですね。
九州大学の教授の方は平島公方の末裔でしたね。
レキショック様喜連川家に秀吉が深く関わっていたとは思いませんでした。喜連川家は所謂バカ殿はいなかったようですね(領内に一揆が起きなかった)。徳川幕府が盤石になるに連れて、さすがに元将軍として威張っていると幕府に睨まれるので、謙虚に振る舞った部分はあったと思います。暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗とはどのような関係性だったのか気になりました。不勉強で平島公方は初めて聞きました。
動画を見終えて、高評価ボタンを押そうと思ったら、もう次の動画が始まってしまっていて押し損ねるという場合が多いです。次の動画に誘導するのは構いませんが、少し余韻の時間を持たせたら、こう評価やチャンネル登録がもっと増えるんじゃないかな?!
確かにおっしゃる通りかもしれません。最後の部分もう少し余韻持たせてみます。
結局、足利の血が残ったのは平民の平島公方家だけと言う皮肉
マツダイラよー
平島公方を知らないって人見かけるけど、歴史好きなある程度の知識がある人が観てるチャンネルかと思ったら、これから勉強しようとしてる学生さんも観てたんですね。
5000石なら旗本サムネが間違ってる
実高5千石だけど10万石待遇格式だから大名で間違っていない
万石以下で唯一の諸侯(大名)扱いなのが喜連川藩。何にでも例外は存在します。
最後までご視聴いただきの場面で西郷隆盛像がいつも流れてますが
最後と西郷を掛けてるのに今気づきました
歴史の解釈の一部はこんな感じで作られてるんだろうなと思いました笑
え、そうなのか!!
鎌倉北条家と血のつながりのない小田原北条氏に圧迫される足利家という図式が面白いですよね。
また北条に圧迫されなあアカンのか…という溜め息が聞こえて来そう(^ ^)
その昔、アニメ一休さんにおける足利義満の描かれ方(かなりお茶らけた人物という設定だった)に対して指摘をしたのは喜連川家の末裔の方(当時のアニメージュに監督さんの談話があり、「足利さんという方から義満の設定に対して指摘が入った」とありました)みたいでしたね。
この動画を見てもわかるように喜連川さんは足利の血脈でも何でもないので、足利後裔ズラされる事に非常な違和感を感じてる自分がいます。
網羅性のある構成、分かりやすかったです。ありがとうございます。
そもそも養子入ってるからまるで今の家は別物。
私が住んでいる福岡県柳川市には西方寺があるのですが住職の姓は足利ですよ‼️それに江戸時代初期に筑後1国を領有した田中吉政にその当時の西方寺住職足利氏は弾圧されそうになる寸前でした❕
秀吉の関東公方政策、家康が豊臣政権下で大人しくしている分には害はないけど、関東の王になろうとした瞬間に足枷になるのほんとよくできているなと思いました。
下級武士、農民の出であるとされる秀吉に征夷大将軍なぞ譲れるかと将軍の格式を守った足利義昭。
あの、たーわーけ!の家が今も残っていたんですね
豊臣家も徳川に臣下の礼を取ったら、これくらいは優遇されたのに。
動画でも紹介されたように参勤交代の収入が犯罪性を左右し、特に伊達等の大藩が宿泊するかがキモだったそうな
参勤交代側としても余分な出費はしたくないので通過をしたい
そうはさせじと、喜連川藩主自らが宿場入口まで挨拶に出向いたのだとか
関東10刹の任命の話は他のチャンネル等では全く出てこなかったのでよくしらべられてますね。
因みに足利惇氏の話は吉川英治の取材時の逸話などを収録した随筆私本太平記に出て来ますが南北朝正閏論が強い時代で学習院では昭和天皇と同学年だった為にけっこう辛かったそうですね。
義昭君は、子孫を残し切れなかったんですが、平島公方って、蜂須賀氏にとっては扱いづらい存在だったが、浪人に成った事で、しぶとく残ったのね。
公方存続の為の🧠思考のフル回転が垣間見える。激動の公方家の歴史ですねー。是非とも歴史探偵や英雄たちの選択での放映を❗️
5千石で大名?扱い・・・苦労しただろうな。
ややこしい相続だなぁ
足利幕府唯一、くじ引きで選ばれた将軍有り、びっくりものです。
足利家のその後、勉強になりました。平島公方家も喜連川公方家も、初耳でした。前者は浪人として明治を迎えたため、平民身分となり帰農したのですね。古河公方、と小弓公方が最終的に統合し、これが関東公方家となり、秀吉が家康への牽制して利用したわけですね。秀吉、ここでも家康への締め付けと関東統治へのハードルを上げてますね。その喜連川家が、参勤交代や妻子の江戸居住、諸役を免除されるほどの高待遇を受けていたとは、驚きました。そして、他藩にとっては苦痛と出費でしかない参勤交代によって、収入が増加していたとは、皮肉ですね!今回の動画はなかなか複雑で詳細なので、もう一度見直そうと思います。
平島公方家(阿波を出たあと)ですが、江戸時代は京都で、公家衆とも交際してたのでしようか? 官位など貰ってはいなかつたのかな、と思いました。親しい公家に頼んでも良かったかなあと、思いました。
そのまま朝臣になる道もあつたかと思いましたか(堂上?とか。堂上は無理としても、地下ならば、維新後は京都府士族にはなれたかもしれません。)、流石にそんなには甘くないのですね。
尤も、平島家は、公家(堂上公家、無理なら地下を)を志向したのかどうか、わかりませんけども。
室町時代は日野家や近衛家とは親密であったと思いますし、そのヨシミでなんとかなったかもと勝手に思いました…(さすがに、公家侍には、なるつもりはないかもしれませんけど……。公家侍になっておけば、維新後に京都府士族になれたかもわかりません)。
何かで読んだので確証はないですが、京に出た後は桜井家に仕えたみたいです。
0:12: 🏰 江戸時代以降、足市は力を失いましたが、関東の久保家が遺産を残し、権威を保ち続けました。
3:46: 🗾 平島久保は足一門として認められる存在であり、足義明と将軍職を争った系統である。
8:04: 🗾 関東地域の戦国時代の歴史についての要点をまとめました。
11:33: 🏯 豊臣政権の関東久保家と徳川家康の関係についての要点をまとめると、豊臣政権は関東久保家の権威を確立し、徳川家康は関東房の制約を克服してキレ川班の成立へと進んでいくこととなった。
14:19: 🏰 江戸幕府の基盤が固まるにつれキレがけの影響力も弱まっていきますが、権威は保たれ続けています。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
正に楔。
気位の高い氏姫が話題に上がることが多いけど
お家が存続できた理由が分かりました。
氏姫が喜連川に行かなかったのも、気位の高さというより古河鴻巣御所領を守るためと言えますね。
古河、小弓の区別なく公方の権威を守るために団結していたようにも見受けられます。
義昭が断った事から征夷大将軍にはなれなかったけれど、より高位の太政大臣になれたから結果として良かった秀吉。この点に関しては非常に重要で、秀吉没後、徳川政権が誕生した折、征夷大将軍に過ぎなかった家康がより高位にあった秀吉に引け目(徳川時代であるのに豊臣家より下位にあると権威や支配に差し障りがあるため)を感じ、晩年病床にありながら急いで朝廷に打診して太政大臣に任命させたの無理やり秀吉と同列になろうと奔走した感があって好き。
最近の研究では実は義昭は秀吉に征夷大将軍になる様にすすめてたらしいです
ところが秀吉の方が固辞していたという事が分かってきています
@@もふもふ-x4p その根拠とされる史料について情報はありますか。いつ・どこから見つかったのか、その史料の客観的な信憑性・史料を書いた人物・年代・所蔵元など。
そもそも義昭が断ったというのは江戸時代に林羅山が書いた話で信憑性がない。同時代の多聞院日記には秀吉が将軍任官を断った話が出てくる。信長に三職推任の話がでていた時点で将軍職に義昭の意向も源氏であるか否かも関係ないことがわかると思う
😃
@@user-oq1fr5oy9s 関白就任に比べれば征夷大将軍は大した話ではないですものね。林羅山の話は江戸時代の感覚だからもっともらしく聞こえるのであって。
5:36 蜂須賀重喜がこういう事をしたのは複雑な出自だったからかな?重喜は佐竹家の出身だから血筋的には胡散臭い蜂須賀よりも格上だけど分家の2万石の小大名の四男だからコンプレックスがあったのかも。
ゆかりもない蜂須賀家ですから、自身の権力を家中に示すためにみたいなことはありそうですね。
九州大学の教授の方は平島公方の末裔でしたね。
レキショック様
喜連川家に秀吉が深く関わっていたとは思いませんでした。
喜連川家は所謂バカ殿はいなかったようですね(領内に一揆が起きなかった)。
徳川幕府が盤石になるに連れて、さすがに元将軍として威張っていると幕府に睨まれるので、謙虚に振る舞った部分はあったと思います。
暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗とはどのような関係性だったのか気になりました。
不勉強で平島公方は初めて聞きました。
動画を見終えて、高評価ボタンを押そうと思ったら、もう次の動画が始まってしまっていて押し損ねるという場合が多いです。次の動画に誘導するのは構いませんが、少し余韻の時間を持たせたら、こう評価やチャンネル登録がもっと増えるんじゃないかな?!
確かにおっしゃる通りかもしれません。
最後の部分もう少し余韻持たせてみます。
結局、足利の血が残ったのは平民の平島公方家だけと言う皮肉
マツダイラよー
平島公方を知らないって人見かけるけど、歴史好きなある程度の知識がある人が観てるチャンネルかと思ったら、これから勉強しようとしてる学生さんも観てたんですね。
5000石なら旗本
サムネが間違ってる
実高5千石だけど10万石待遇格式だから大名で間違っていない
万石以下で唯一の諸侯(大名)扱いなのが喜連川藩。何にでも例外は存在します。