#54 難波には「幽霊橋」が?!美術史の観点から見る、大阪と怪談の関係性とは 【ゲスト:橋爪節也(美術史家/大阪大学 名誉教授)】
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- Опубліковано 5 лют 2025
- ホラー作家・田辺青蛙が
怪談・オカルト・都市伝説など、
世の中に溢れる様々な奇妙なものたちを
好奇心の赴くままに探っていくポッドキャスト番組。
ゲストは、大阪大学 名誉教授の
橋爪 節也さんです。
◎美術史の観点から見る、大阪と怪談の関係性は?
◎文楽作品の舞台にも?難波にあった「幽霊橋」を考察
◎大阪のミステリースポット・千日前を様々な資料から読み解く
◎"市中引き回しの上打ち首獄門"の実態は?派生した個性派神社も語る
感想は「#きみょたん」でお願いします!
【橋爪節也さん プロフィール】
東京芸術大学 大学院にて、
日本や東洋の美術史を専攻。
1984年に修士課程を修了し、
芸術学科の講師や
大学内研究施設の助手を務められました。
1990年には大阪府教育委員会の学芸員に。
大阪市立近代美術館(現:中之島美術館)をはじめ、
様々な美術館の運営に携わってこられました。
その後は
大阪大学大学院 文学研究科の教授を経て、
大阪大学 名誉教授に。
著書も多数執筆されています。
#田辺青蛙
#奇妙探求
#橋爪節也
#mbsラジオ
東京の人間ですが何故か大阪が大好きで、年に1〜2回大阪にボーっとしに行ってます。
知ってる地名や良く行く場所の話が出てくると、不思議な気分になりますね。
大阪の怪談話の歴史的民俗学的考察が興味深く面白いですね、こうゆう話大好きです!
「きみょたん」はいつも穏やかな話し方のゲストさんが多く、聴いていて耳心地がとても良く、興味深い話ばかりです。
大阪弁のお二人のお話を聴いているうちに、大阪在住の叔父の事を思い出しました。
高齢の叔父は体調があまりよくなく、話の出来るうちに会いに行きたいなと思いました。
まさか、橋爪先生が登場されるとは!びっくりしました。橋爪先生の『モダン道頓堀探検』や『モダン心斎橋コレクション』は私の愛読書です。明治、大正、昭和初期の大阪ならではの階段を聞かせてくださることを期待しております。
大学の講義のようでした。今回は古地図も満載で見どころたっぷりで大満足でした。アカデミックな内容も定期的にお願いします!
ゲストに橋爪先生!!多彩なコラムをずっと読んできました。専門用語を交えずいつも面白く分かりやすい解説や文章大好きです。
余談
昔、鉄腕アトムの実写版があった
漫画キングダムに『幽連』ってキャラが登場する
千日前の灰は、肥料として売ったらしい
千日前の灰山はなぜ埋葬されなかっだのだろう
大阪市史編纂所で把握している限り、「大坂の陣の死者を千日墓所に埋葬した」ことを示す史料は、確認されていないとのことです。千日刑場での刑の執行については、藤井嘉雄氏の「千日刑場(間口一八間・奥行九間)においては獄門刑のみを執行した。つまり、罪人を松屋町牢屋敷内で斬首し、その刑首をここで晒〔肆〕した」(『大坂町奉行と刑罰』117ページ)という説に基づき、市史が編纂されているように思えますが、他にも、渡辺忠司氏の『大坂町奉行所異聞』で、大坂町奉行所与力・同心勤方記録の「三ヶ条大下書」の「御仕置振」の記述をあげ「死罪と決まった罪人は大坂町奉行所内の御仕置場で斬罪に処された。牢屋敷内の空き地に仕切りを作り、周囲から見えないようにして執行された。」とある一方で、「地方覚書 八田本」を根拠とした佐古慶三氏『古板大坂地図集成に就いて』の「(道頓堀)刑場但斬罪も行之」(46頁)という記述があり、『道頓堀○×関係文書』には、相対死による千日墓所での出切の事例がいくつか記されてますが、相対死は当初、心中といって取り締まる法規がなく、享保七年に心中を取締る条項を設けて、相対死と呼ぶようになったとのことです。また、大阪市史編纂所としては、『新修大阪市史』第三巻に記した、千日墓所設置を含む「墓地の移転に関する時期については、(中略)大坂が幕府の直轄地となった元和五年(一六一九)七月以後のことと考える方が妥当」(335ページ)としてます。なお、かしくについては、『浪華人物誌巻四』で、「引廻し上千日寺にて獄門にかけられたり」という記述がありますが、千日で処刑されたのではなく、先の大坂町奉行所与力・同心勤方記録の「三ヶ条大下書」の「御仕置振」の記述のとおり、松屋町牢屋敷の死罪場で、斬首を執行した後、その刑首を千日刑場にて獄門にした(晒した)と考えるほうが合理的だとおもいます。このことについては、法制史の藤井嘉夫氏も、著書『大坂町奉行と刑罰』(P240)にて、「死刑に該当する犯罪に付いては、大坂町奉行・大坂城代に手限仕置権がなかったから、大坂町奉行は、大坂城代を経由して、老中に対し、吟味伺書を提出し、老中の御指図をまって獄門刑を執行した。(中略)大坂においては、獄門刑は牢屋敷内において罪人を斬首し、その刑首を千日刑場で晒した。」と記しており、また、ここでは『浪華人物誌巻四』でのかしくの犯行から処刑迄の期間が一ヶ月足らずであることについての記述は、明らかな誤解であると言うべきであろう。と指摘してます。獄門の場合、場所は異なりますが、あの江戸時代中期の関東各地を荒らした真刀徳次郎についても、『幕府時代届申渡抄録』や『徳川禁令考』の記述では「武州大宮宿におゐて獄門」との記述がありますが、蕨市本陣の岡田家から発見された『政房入道善休日記』の記述では、寛政元年閏六月七日の記述に、真刀他三つの首(合計四つ)の刑首が江戸から大宮宿に向けて運ばれてくる描写が記されています。大宮宿において、斬首の執行は行われなかったということです。
なお、道頓堀墓所の場所があまりに良すぎたため、多くのものを処理せねばならず、道頓堀の聖より天明四年正月、不公平なことは改めて、今後は六墓所順番にして欲しいとの願い出を出しているという記録が。すでに天和三年に道頓堀墓所の灰捨場の灰がまるで山のようになって、どうしようもなく溜まっていたと記す関係文書の記述があります。
道頓堀墓所の死体の処理は当時、既に火葬が一般的で、薪代の経済的理由により土葬にされる場合もあったとのことです。火葬料は、寛政四年当時、十五歳以上が四百五十文で、年齢に応じて高下します。元文元年から文化十一年までの毎一年間の道頓堀墓所の死者の処理数は、おおよそ6000人から8000人で、最高は天明四年の11,784人で、最低は寛政十一年の5,426人です。土葬の最高最低の年、人数もわかりますが、きちんと資料として認識されています。