Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
途中まではずっと幕末から日清、日露戦争、上海事変等の陸軍の栄光の話で全く問題なしの戦意高揚話だったのだが、最後に木下監督が田中絹代を使ってのこのシーン。田中絹代が子供を探して祈るシーンを当時の軍関係者たちが「日本の母親なら泣かない。これでは欧米の母親だ」と激怒しつつも、これをカットするとストーリーが成り立たなくなってしまう。また本物の軍隊や福岡市民を再動員する手間、そして何よりこの田中絹代の演技力。カットしたくてもできなくて公開となった。さすが二十四の瞳の木下監督だと思った。
陸軍省は戦意高揚の目的でこの映画を作らせたと思うのですが、木下恵介監督の手にかかると、最後のシーンは、息子の無事を祈る母親の愛情が前面に出た感動的なシーンになっています。
「生きる息子の姿を見る はこれが最後となるか・・」 母親の心理を 田中絹代が よく表してるな・・
この映画はラストシーンの母親と出征する息子のシーンだけでも立派な映画になってます。もう帰ってこない息子との最後になる場面で感動しました。
死地に赴く息子を一目見ようと、それまでの慎みも忘れて足早に駆け出すおっかさんの姿には泣ける。息子は、きっとお役に立って帰ってくるとニッコリ笑っても、それを見送る親の気持ちを思うと……。
7:37 行進の向こう側から路面電車(巨大な機械=戦車の暗喩)がやってくる。歩兵の死を暗示→それを見た母は立ち止まり、息子の冥福を祈る。(この動画にないが、シーン冒頭の母の軍人勅諭のつぶやきは念仏)涙なしには見られないシーンです😭😭😭
母の思い泣けた
生きて帰ってきてほしいな
戦地に赴く息子を心配しながらも、笑顔で送ってやろうと懸命に笑顔を作っているのがひしひしと伝わってきます。きっとこれが当時の母親の本当の姿なんでしょうね。この役者さんには見事だというほかありません。最近の映画は直接言葉に表していますが、実際に戦争を経験している方たちのこの「演技」には、どんな言葉を並べようとも叶わないと思いました。
たぶん、ちゃんとわかってない笑顔で送ろうなんていま風の考え方
@@kenkenha1992あっそ
出征する兵隊さんたちは俳優ではなく、この日まさに出征なさっていくところを撮影。封切りされると、家族や恋人が何度も観にきていたそうです。
軍国主義真っただ中の戦時下、自国内でこんな強いメッセージを表現した木下恵介監督を日本はもっと誇らないといけないし顧みなければいけない
なんで自分は戦後生まれなのにこの映画のラストシーンで涙出てくるんだろう、子を想う母親の切ない映画💦
神仏に拝む 家内ががんに侵されていくばくもなったとき、ほんとに神仏に拝んだ。拝むしかないし、それしか無いし。
この映画が公開されたのが1944年12月ということは、この頃にはもうサイパンやグアムやテニアンやペリリューで日本軍が玉砕してるんですよねえ……
それどころか、レイテ島のオルモックに米軍が上陸して捷号決戦が崩壊して山下大将がルソン島持久に作戦変えているよ。
陸軍省協力のもとこの映画を撮ったわけですが、このラストシーンに陸軍省からクレームがついて木下恵介監督は戦後になるまで松竹から干されます
こんなシーンカットしているようじゃ米国に勝てるわけねえわな。
その干された時期を描いた木下恵介生誕百周年記念映画が『はじまりの道』となりましたが。
2:00〜に出てくるビルは福岡市赤煉瓦文化館としてまだ現存してるやつですね!戦前の市内の姿を映す貴重な映画ですね
1:41は今のPARCO旧岩田屋も見えますね。数少ない戦前からの天神地区の建造物。岩田屋は昭和50年に隣の新館建設に併せて味も素っ気もない外装になって今に至りますが
いい映画だったよ、本当に。
戦意高揚映画としても傑作だし歴史の証言としても貴重。田中絹代が行進を追いかけるシーンは全国民に代わる視野の提供。80年後の今、当時の実存が味わえる。優れた映画は制作者の手を離れてさらに高い価値を生み出す。90%が農民で都会のビルを見なかった時代、その中をゆく出征兵士の頼もしさが伝わってくる。邦画屈指の名シーン
木下恵介がどのような意図で製作したかは分からないが、映画とはいえ昭和19年の福岡市民一人一人の軍に対する信頼、期待がひしひしと伝わって来る。とても貴重。
何と言うか、行進を見て兵隊を送り出す群衆と、息子を探し出して我が子を見送る母親の対比に見えたこの母親は兎も角、他の人達は【誰】を見送っているんだろうって思ってしまったどうしても【何】を見送っているのか、に思えてしまう
涙が出てくるのなんでだろう
このラストシーンのお蔭で木下監督暫くの間干されました。
嘘ではない。内閣直属の情報局から睨まれて終戦まで仕事ができなかった。
すごく悲しい物語である
Bs2てことは2000年代くらいに放送したってことかぁ凄いなぁ戦時中の映画流すって
はじまりの道を見てぇ💕
con5151con2 年前(編集済み)歌詞はこうではないか・・・引用させて頂きました。曲も歌詞も素晴らしいと存じます。父母の慈愛に抱かれて男子(おのこ)となりて幾年ぞ身は軍服に包むもの君に見えざるこのいくさ胸にし点ず祖先の血流れて永久に国護る国にふたつの道あらず人にふたつの心無し兵の道こそ一億の心とすべき鏡なれわが大君のため国のため仰ぎ挺身身を擦れど我に抗する敵ありて出陣の日の来たるときみこと畏みいでゆけば軍靴の響き地を発し士気は溢れて天を衝く歩武堂々と 大地抜く
歌詞は↓に出ていますが、こちらの方が意味がわかるし文法的にも正しいと思います。ua-cam.com/video/T-H8EZmW9iM/v-deo.html
@@ぺろいす 有難う御座います。
この頃は戦争は海の向こうで身内でない兵隊がするもので、まさか数年後に家焼かれるなんて思ってないんだろうな。どこか他人事だから、まるでオリンピックに選手団を送り込むような心境だったのかな?威勢良く、どこかお涙頂戴的なドラマを盛り込み、戦国物語でも見るような感じで報じ、演劇を見ていたのかもしれない。戦争が身近なら、みんな嫌だろうし、家族と居たいに決まってるんだから、戦争やれ!という風潮にはならなかったように思う。
この映画は1944(昭和19年)12月公開ですが、公開から数年後どころかほんの半年後の1945(昭和20年)6月に、福岡大空襲を受けて、このシーンで映っている福岡市中心部の風景は、現実で焼け野原や瓦礫と化す羽目になりました。幼少期から「お前らはお国の為に尽くす身分だ」という教育を受け続け、「お国の為に○んでこい」と送り出し、戦死して遺骨が箱に入って帰れば(それすらまだラッキーなレベルで、戦死した場所の小石しか入っていないとか、何も帰ってこない例もザラ)、人前では喜ばなきゃならんような立場の母親の、リアルな心境を非常に上手く描いたものですね。 それも、当時の「戦争に批判的な場面を撮って公開しようとする時点でアウト、その人達は処罰」というような状況で検閲を通しながら、上手く撮り編集して公開させて、「監督が本当に伝えたいメッセージ」を全国の観客に伝え、70年以上経っても現代の我々に伝わりまくる、というような木下監督やスタッフ、演じた皆さんの高度なスキルを発揮した、名シーンに思います。
この悲劇的な歴史の教訓をよくかみしめる必要がある。。。
wiki見たら悲しくなった。兵士たちのエキストラが……
カラーで観たい🎌この映画🎥撮影風景を想像する。
カメラの前で変顔する子供…やっぱ博多っ子だなぁと思った。自分の先輩の兄さんはこの撮影覚えてたですね。当時国民学校4年生。当時は中呉服町に居を構えてたようです。あの辺一角は風向きの関係で焼失免れたんですよ
戦前の福岡の街並み美しいですね。これらはすべて焼けたのでしょうか?
ほとんど焼けました。今PARCOになってる旧岩田屋は天神地区に残るその後の空爆も乗り越え平成の地震にも耐え令和の今でも健在です。岩田屋からPARCOにする際昭和50年以前の姿にして欲しかったですね
筆舌に尽くしがたい実に酷い時代を生きた人たちに何と慰めを言っていいものか。
戦時中に、これ戦意高揚に全然ならないどころか逆になっちゃてるぞ。
7:27→子供がカメラにピースしてる(笑)
この映画がよく検閲で通ったと思う。明らかかな反戦映画であり、出征兵士をおくる母の気持ちをこのラストシーンはあまりにも端的に表している。木下恵介氏のなせた技か、あるいはアッツもサイパンも連合国軍に落とされた後で検閲官も現実を見ていたのかもしれない。昭和19年にはまだ大規模な空襲こそなかったが物資の欠乏いよいよ甚だしく南方へ送られる兵士は帰ってくる見込みはほぼなかった時期。出征兵士を送る側はこうしたお祭り騒ぎをしていたが、自分の夫、息子を送り出した家族の気持ちは如何許り。この写真が果たしてどの程度の映画館で上映されたのかは不明。すでに映写用のカーボンもアークを灯す電力も足りなくなっていてしかも映写機の補修部品も手にひらなくなってきていた中で。この写真を見た出征兵士おうぃ出した家族の気持ちは最後の田中絹枝の表情の中に描かれている心情そのものだろう。昭和天皇は戦争に反対だった。支那事変の拡大もお喜びにはならなかった。大東亜戦争も反対だった。だが軍は今戦わねばと陛下のご意思に叛て戦争を遂行した。陛下が終戦の詔勅で述べられている中に2600年築き上げてきた赤子を多く失う事になったことを神先祖に詫びている。226事件の反乱軍兵士に呼びかけた中村アナウンサーの言葉が思い出される。陛下のご意思に叛奉りて逆賊としての汚名を永遠に受けることがあってはならない。この言葉を大東亜戦争へ導いた為政者に伝えるすべがあるのならば伝えたいものだ。私は天皇陛下のご意思に叛いたという意味で東條英機や白鳥顧問の靖国神社への合祀は日本人として認めがたい。昭和天皇が合祀されていこう靖国神社にご参拝されなくなったのはそういう意味だということは多くの日本人が知るべきことであるとおもう。
ごめんけど母親役があやなんにしか見えん
いざ!我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ
何処の軍だって?
映像みる限り、良い歳した息子の方はマザコンでなさそうなのは解るけど、マザコンの逆のチルコンみたいなことは多少OKというか許される風潮が不思議だ。儒教的には、子が親を思うのが良いことのはずだが、イザベラ・バードの日本見聞録には、日本人はやたら父親も母親も、時間さえあればいつも子供を可愛がって構っている、とあるから、今に始まったことでも無いのでしょう。
”チルコン”と云うより、動物的・人間的本能と思われる。魚類・爬虫類は基本的に、子孫を構わないそうだ。
今や子供を虐待する親が多くなっていますね
我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ
我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ返信1
お、おう
他所のお母さんはそんなことしてないのに、自分のお母さんだけまとわりついてきたら鬱陶しいでしょ。映画だからドラマチックだけど、現実だと過保護の母親(笑)
ひねくれた考えだね 素直に感動することができない人間になってしまったのかな 今の世の中 複雑だから 仕方ないかもしれないけど 忘れちゃならない 本当の真心を
@@user-vg6qw8in9d この人は母親の愛を知らないんでしょう、かわいそうに
いや、お前ドラマにツッコミ入れているようで寒いわ笑
途中まではずっと幕末から日清、日露戦争、上海事変等の陸軍の栄光の話で全く問題なしの戦意高揚話だったのだが、最後に木下監督が田中絹代を使ってのこのシーン。田中絹代が子供を探して祈るシーンを当時の軍関係者たちが「日本の母親なら泣かない。これでは欧米の母親だ」と激怒しつつも、これをカットするとストーリーが成り立たなくなってしまう。また本物の軍隊や福岡市民を再動員する手間、そして何よりこの田中絹代の演技力。カットしたくてもできなくて公開となった。さすが二十四の瞳の木下監督だと思った。
陸軍省は戦意高揚の目的でこの映画を作らせたと思うのですが、木下恵介監督の手にかかると、最後のシーンは、息子の無事を祈る母親の愛情が前面に出た感動的なシーンになっています。
「生きる息子の姿を見る はこれが最後となるか・・」 母親の心理を 田中絹代が よく表してるな・・
この映画はラストシーンの母親と出征する息子のシーンだけでも立派な映画になってます。もう帰ってこない息子との最後になる場面で感動しました。
死地に赴く息子を一目見ようと、それまでの慎みも忘れて足早に駆け出すおっかさんの姿には泣ける。
息子は、きっとお役に立って帰ってくるとニッコリ笑っても、それを見送る親の気持ちを思うと……。
7:37 行進の向こう側から路面電車(巨大な機械=戦車の暗喩)がやってくる。歩兵の死を暗示→それを見た母は立ち止まり、息子の冥福を祈る。(この動画にないが、シーン冒頭の母の軍人勅諭のつぶやきは念仏)
涙なしには見られないシーンです😭😭😭
母の思い泣けた
生きて帰ってきてほしいな
戦地に赴く息子を心配しながらも、笑顔で送ってやろうと懸命に笑顔を作っているのがひしひしと伝わってきます。きっとこれが当時の母親の本当の姿なんでしょうね。この役者さんには見事だというほかありません。最近の映画は直接言葉に表していますが、実際に戦争を経験している方たちのこの「演技」には、どんな言葉を並べようとも叶わないと思いました。
たぶん、ちゃんとわかってない
笑顔で送ろうなんていま風の考え方
@@kenkenha1992
あっそ
出征する兵隊さんたちは俳優ではなく、この日まさに出征なさっていくところを撮影。
封切りされると、家族や恋人が何度も観にきていたそうです。
軍国主義真っただ中の戦時下、自国内でこんな強いメッセージを表現した木下恵介監督を日本はもっと誇らないといけないし顧みなければいけない
なんで自分は戦後生まれなのにこの映画のラスト
シーンで涙出てくるんだろう、子を想う母親の切ない映画💦
神仏に拝む 家内ががんに侵されていくばくもなったとき、ほんとに神仏に拝んだ。拝むしかないし、それしか無いし。
この映画が公開されたのが1944年12月ということは、この頃にはもうサイパンやグアムやテニアンやペリリューで日本軍が玉砕してるんですよねえ……
それどころか、レイテ島のオルモックに米軍が上陸して捷号決戦が崩壊して
山下大将がルソン島持久に作戦変えているよ。
陸軍省協力のもとこの映画を撮ったわけですが、このラストシーンに陸軍省からクレームがついて木下恵介監督は戦後になるまで松竹から干されます
こんなシーンカットしているようじゃ米国に勝てるわけねえわな。
その干された時期を描いた木下恵介生誕百周年記念映画が『はじまりの道』となりましたが。
2:00〜に出てくるビルは福岡市赤煉瓦文化館としてまだ現存してるやつですね!
戦前の市内の姿を映す貴重な映画ですね
1:41は今のPARCO旧岩田屋も見えますね。数少ない戦前からの天神地区の建造物。岩田屋は昭和50年に隣の新館建設に併せて味も素っ気もない外装になって今に至りますが
いい映画だったよ、本当に。
戦意高揚映画としても傑作だし歴史の証言としても貴重。田中絹代が行進を追いかけるシーンは全国民に代わる視野の提供。80年後の今、当時の実存が味わえる。優れた映画は制作者の手を離れてさらに高い価値を生み出す。90%が農民で都会のビルを見なかった時代、その中をゆく出征兵士の頼もしさが伝わってくる。邦画屈指の名シーン
木下恵介がどのような意図で製作したかは分からないが、映画とはいえ昭和19年の福岡市民一人一人の軍に対する信頼、期待がひしひしと伝わって来る。とても貴重。
何と言うか、行進を見て兵隊を送り出す群衆と、息子を探し出して我が子を見送る母親の対比に見えた
この母親は兎も角、他の人達は【誰】を見送っているんだろうって思ってしまった
どうしても【何】を見送っているのか、に思えてしまう
涙が出てくるのなんでだろう
このラストシーンのお蔭で木下監督暫くの間干されました。
嘘ではない。
内閣直属の情報局から睨まれて終戦まで仕事ができなかった。
すごく悲しい物語である
Bs2てことは
2000年代くらいに放送したってことかぁ
凄いなぁ戦時中の映画流すって
はじまりの道を見てぇ💕
con5151con2 年前(編集済み)歌詞はこうではないか・・・引用させて頂きました。曲も歌詞も素晴らしいと存じます。
父母の慈愛に抱かれて
男子(おのこ)となりて幾年ぞ
身は軍服に包むもの
君に見えざるこのいくさ
胸にし点ず祖先の血
流れて永久に国護る
国にふたつの道あらず
人にふたつの心無し
兵の道こそ一億の
心とすべき鏡なれ
わが大君のため国のため
仰ぎ挺身
身を擦れど
我に抗する敵ありて
出陣の日の来たるとき
みこと畏みいでゆけば
軍靴の響き地を発し
士気は溢れて天を衝く
歩武堂々と 大地抜く
歌詞は↓に出ていますが、こちらの方が意味がわかるし文法的にも正しいと思います。
ua-cam.com/video/T-H8EZmW9iM/v-deo.html
@@ぺろいす 有難う御座います。
この頃は戦争は海の向こうで身内でない兵隊がするもので、まさか数年後に家焼かれるなんて思ってないんだろうな。どこか他人事だから、まるでオリンピックに選手団を送り込むような心境だったのかな?威勢良く、どこかお涙頂戴的なドラマを盛り込み、戦国物語でも見るような感じで報じ、演劇を見ていたのかもしれない。
戦争が身近なら、みんな嫌だろうし、家族と居たいに決まってるんだから、戦争やれ!という風潮にはならなかったように思う。
この映画は1944(昭和19年)12月公開ですが、
公開から数年後どころかほんの半年後の1945(昭和20年)6月に、
福岡大空襲を受けて、
このシーンで映っている福岡市中心部の風景は、
現実で焼け野原や瓦礫と化す羽目になりました。
幼少期から「お前らはお国の為に尽くす身分だ」という教育を受け続け、
「お国の為に○んでこい」と送り出し、
戦死して遺骨が箱に入って帰れば(それすらまだラッキーなレベルで、戦死した場所の小石しか入っていないとか、何も帰ってこない例もザラ)、
人前では喜ばなきゃならんような立場の母親の、
リアルな心境を非常に上手く描いたものですね。
それも、当時の「戦争に批判的な場面を撮って公開しようとする時点でアウト、その人達は処罰」
というような状況で検閲を通しながら、
上手く撮り編集して公開させて、
「監督が本当に伝えたいメッセージ」を全国の観客に伝え、
70年以上経っても現代の我々に伝わりまくる、
というような木下監督やスタッフ、演じた皆さんの高度なスキルを発揮した、名シーンに思います。
この悲劇的な歴史の教訓をよくかみしめる必要がある。。。
wiki見たら悲しくなった。兵士たちのエキストラが……
カラーで観たい🎌この映画🎥
撮影風景を想像する。
カメラの前で変顔する子供…やっぱ博多っ子だなぁと思った。自分の先輩の兄さんはこの撮影覚えてたですね。当時国民学校4年生。当時は中呉服町に居を構えてたようです。あの辺一角は風向きの関係で焼失免れたんですよ
戦前の福岡の街並み美しいですね。これらはすべて焼けたのでしょうか?
ほとんど焼けました。今PARCOになってる旧岩田屋は天神地区に残るその後の空爆も乗り越え平成の地震にも耐え令和の今でも健在です。岩田屋からPARCOにする際昭和50年以前の姿にして欲しかったですね
筆舌に尽くしがたい実に酷い時代を生きた人たちに何と慰めを言っていいものか。
戦時中に、これ戦意高揚に全然ならないどころか逆になっちゃてるぞ。
7:27→子供がカメラにピースしてる(笑)
この映画がよく検閲で通ったと思う。明らかかな反戦映画であり、出征兵士をおくる母の気持ちをこのラストシーンはあまりにも端的に表している。木下恵介氏のなせた技か、あるいはアッツもサイパンも連合国軍に落とされた後で検閲官も現実を見ていたのかもしれない。昭和19年にはまだ大規模な空襲こそなかったが物資の欠乏いよいよ甚だしく南方へ送られる兵士は帰ってくる見込みはほぼなかった時期。出征兵士を送る側はこうしたお祭り騒ぎをしていたが、自分の夫、息子を送り出した家族の気持ちは如何許り。この写真が果たしてどの程度の映画館で上映されたのかは不明。すでに映写用のカーボンもアークを灯す電力も足りなくなっていてしかも映写機の補修部品も手にひらなくなってきていた中で。この写真を見た出征兵士おうぃ出した家族の気持ちは最後の田中絹枝の表情の中に描かれている心情そのものだろう。昭和天皇は戦争に反対だった。支那事変の拡大もお喜びにはならなかった。大東亜戦争も反対だった。だが軍は今戦わねばと陛下のご意思に叛て戦争を遂行した。陛下が終戦の詔勅で述べられている中に2600年築き上げてきた赤子を多く失う事になったことを神先祖に詫びている。226事件の反乱軍兵士に呼びかけた中村アナウンサーの言葉が思い出される。陛下のご意思に叛奉りて逆賊としての汚名を永遠に受けることがあってはならない。この言葉を大東亜戦争へ導いた為政者に伝えるすべがあるのならば伝えたいものだ。私は天皇陛下のご意思に叛いたという意味で東條英機や白鳥顧問の靖国神社への合祀は日本人として認めがたい。昭和天皇が合祀されていこう靖国神社にご参拝されなくなったのはそういう意味だということは多くの日本人が知るべきことであるとおもう。
ごめんけど母親役があやなんにしか見えん
いざ!我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ
何処の軍だって?
映像みる限り、良い歳した息子の方はマザコンでなさそうなのは解るけど、マザコンの逆のチルコンみたいなことは多少OKというか許される風潮が不思議だ。
儒教的には、子が親を思うのが良いことのはずだが、イザベラ・バードの日本見聞録には、日本人はやたら父親も母親も、時間さえあればいつも子供を可愛がって構っている、とあるから、今に始まったことでも無いのでしょう。
”チルコン”と云うより、動物的・人間的本能と思われる。魚類・爬虫類は基本的に、子孫を構わないそうだ。
今や子供を虐待する親が多くなっていますね
我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ
我が皇軍は、拉致被害者を救出に行くぞ
返信
1
お、おう
他所のお母さんはそんなことしてないのに、自分のお母さんだけまとわりついてきたら鬱陶しいでしょ。映画だからドラマチックだけど、現実だと過保護の母親(笑)
ひねくれた考えだね 素直に感動することができない人間になってしまったのかな 今の世の中 複雑だから 仕方ないかもしれないけど 忘れちゃならない 本当の真心を
@@user-vg6qw8in9d この人は母親の愛を知らないんでしょう、かわいそうに
いや、お前ドラマにツッコミ入れているようで寒いわ笑