september4 # 016  文豪たちの愛した湯河原へ、そして不動滝 | 国木田独歩・夏目漱石・島崎藤村の湯河原  2020/10 |【 vlog 旅と写真 】

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  • Опубліковано 8 жов 2024
  • 夏目漱石の天野屋、国木田独歩の中西屋、島崎藤村の伊藤屋。
    古く、懐かしく、暖かい宿、
    また滅び去った人車鉄道のなごりはまだあるのか、
    と湯河原の海から奥湯河原までを散策してみました。
    天野屋はエクシブに変わりましたが、
    まだ「日本の宿」は残っていて、
    私たちに豊かな夢を見せてくれました。
    ■人車鉄道について
    人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、
    小田原~熱海間を走っていた。
    明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、
    翌29年3月に熱海~小田原間が開通した。
    当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、
    政財界の大物や文人が盛んに訪れていた。
    が、東京・横浜方面から熱海に至るには
    海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、
    駕籠か人力車を利用しなければならず、
    熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が
    小田原熱海間に鉄道計画を興し、
    経費も安価であったことから人車鉄道を建設した。
    豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。
    駕籠で約6時間かかっていたところを
    約4時間で走った。
    1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していた。
    6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復。
    急な上り坂になると、
    客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られたのだった。
    雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として
    事業に当たっていたが、
    明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になった。
    しかし大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、
    復旧を断念。
    翌13年に鉄道事業の幕を閉じた。
    ■夏目漱石と天野屋について
    「天野屋」は、明治9(1876)年創業。「銘木旅館」と呼ばれ、
    さまざまな意匠が施されていた。
    国登録有形文化財に指定されていたが、現在は取り壊されている。
    夏目漱石のほか、横山大観などの定宿であり、
    安井曽太郎はこの旅館の一室をアトリエとして使っていた。
    また「天野屋」は漱石最後の作品『明暗』に登場する。
    「宿は手代のいった通り森閑としていた。
    夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、
    全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、
    自分の室へ案内された彼は、
    好時季に邂逅(めぐり)あわせてくれたこの偶然に感謝した(172)」
    と建物の第一印象を語り、
    「津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気がついた。
    意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、
    目的の湯壺を眼の前に見出した彼は、
    実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
    風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。
    左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった(173)」
    という風呂の様子、洗面所から自分の部屋に帰る主人公は方向に迷い
    「ぐるぐる廻っているうちには、
    いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興も手伝った。
    彼は生れて以来旅館における始めての経験を
    故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
    廊下はすぐ尽きた。そこから筋違に二三度上あがるとまた洗面所があった。
    きらきらする白い金盥が四つほど並んでいる中へ、
    ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、
    絶えずざあざあ落ちるので、
    金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、
    縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮かに眺められた。
    金盥の中の水は後から押されるのと、
    上から打たれるのとの両方で、
    静かなうちに微細な震盪を感ずるもののごとくに揺れた(176)」
    と広くて静かな旅館の様子を描写している。
     
     昔の恋人・清子と会った津田は、部屋でリンゴを清子に剥いてもらう。
    「津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。
    滴たるように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、
    ぐるぐると剥けて落ちる後に、
    水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は
    彼に一年以上経たった昔を憶い起させた。
    『あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、
    こういう林檎りんごを剥むいてくれたんだっけ』
    ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、
    長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、
    ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。
    それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。
    もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、
    そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。
    柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、
    当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、
    燦然たる警戒の閃きを認めなければならなかった(187)」
    と、津田はかつての思い出に浸る。
    「津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった」とある。
    『明暗』は、漱石の死によって未完に終わった作品である。
    ■二・二六事件と伊藤屋について
    昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起した2.26事件は、
    陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、
    約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した事件である。
    この時、元内大臣であった牧野伸顕伯爵が宿泊していたのが伊藤屋で、
    東京以外で唯一事件の舞台となった。
    宿泊者は牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名。
    宿泊先の条件は独立した建物であるということから、
    弊館別館「光風荘」が選ばれた。
    牧野伯は滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。
    襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため
    弊館本館に宿泊。
    牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻った。
    その後兵を連れ自動車で湯河原に入り、
    夜明けを待って光風荘を襲撃した。
    その際牧野伯はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れた。
    牧野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により
    助かったとのことである。
    襲撃の際、光風荘は全焼。現在ある建物はその後建てられたものである。
    河野大尉らが襲撃前の偵察に宿泊した本館の客室は、
    当時のまま現在も利用されている。
    また「伊藤屋」は島崎藤村ゆかりの宿といわれる。
    この伊藤屋で、「夜明け前」の原案を練った。
    遺稿・愛用品が残っている。
    ■冨士屋旅館について
    江戸時代の創業とされ、客室数は17室。庭は江戸期のもので、
    建物の一部が明治期に建てられた。
    15年ほど前に廃業し旅館前が長年立ち入り禁止となっていた。
    美しい景観、豊かな食材は行楽・静養の地として、
    明治中期からは国木田独歩、夏目漱石、与謝野晶子、谷崎潤一郎など
    多くの文人が訪れ、創作の場、交友の場として発展してきた。
    17年間眠りについていた神奈川・湯河原の老舗温泉旅館「富士屋旅館 湯河原」が、
    飲食業界でも有名な「際コーポレーション株式会社」社長の中島武氏の手により、
    当時の姿を残しつつも現代の利便性を兼ね備えた、
    素晴らしい温泉旅館として2019年2月に蘇った。
    ■奥湯河原の「加満田」について
    昭和14年の創業以来、小林秀雄・水上勉をはじめとする多くの文人墨客に愛された、
    当時の風情を今にとどめる純和風旅館。
    ■湯河原温泉について
    箱根火山の一つである湯河原火山では、
    浸食を受けて広い谷が形成されている。
    この谷底に発達しているのが湯河原温泉である。
    万葉集でも歌われたこの温泉は、
    昭和初期の乱掘で枯渇の危機に直面したため、
    厳しく保護されており、
    町による集中管理も行われている。
    藤木川及び千歳川沿岸に湧出する温泉である。
    開湯伝承には諸説あるが、
    万葉集に「あしかりのとひのかふちのいずるゆの」
    と読まれたのがこの温泉と伝えられ、
    歴史の古さを物語っている。
    中世には「こごめ湯」あるいは「ここみ湯」と呼ばれた。
    江戸時代後期には3源泉を数えたが、
    1934年(昭和9年)に丹那トンネル開通によって
    東海道線が通過し急速に発展した。
    文学者が多く訪れ、
    また東京以外で唯一、二・二六事件の舞台となるなど、
    歴史的な魅力も多い場所である。
    ■不動滝について
    湯河原町奥湯河原にある落差15mの滝である。
    滝をつくる崖は、溶岩や凝灰岩など湯河原火山の噴出物からできている。
    湯河原火山の岩石中には、沸石と呼ばれる白色の鉱物が産する。
    この場所で発見された沸石に、湯河原の地名がついた湯河原沸石がある。
    滝の左側には身代わり不動尊、右側には出世大黒尊が祭られている。
    #湯河原温泉 登録有形文化財 旅館 伊藤屋  #デジタル少女写真
    湯河原温泉 登録有形文化財 旅館 伊藤屋 www.itouya-net.jp/
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