沖縄で本土復帰前の映画ロケ地調査をしてきた【網走番外地】
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- Опубліковано 7 лют 2025
- 今回は「網走番外地 南国の対決」という映画のロケ地巡りをしてきました。
沖縄県那覇市、沖縄市、嘉手納町などを巡っています
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#映画ロケ地 #高倉健 #網走番外地
素晴らしい動画をありがとうございます。続編を期待してます。
ありがとうございます!
チャンネルの趣旨が独自性があって面白い!
多分若い兄ちゃんだと思うけど、昭和の映画にフォーカスしてて良いね
@@virgocourage8788 ありがとうございます!
お疲れ様です、網走なのに南国、しかもシリーズだったなんて知らなかった、配信ありがとうございます
シリーズものなんですが、ストーリーはあまり繋がってなさそうです。
お疲れ様です🍵
沖縄は『男はつらいよ』や『涙そうそう』など…色々な映画に使われたので、気軽に異国情緒が出せるロケ地が多いですね。
@@usamaru. 男はつらいよ、は以前やりました!
お疲れ様です!
当時のロケ地が変わりすぎてるのに、見つけ出したのには敬服します。映画を観てから動画のロケ地を探訪したいと思います!ありがとうございました。
ありがとうございます!
現在59歳嘉手納出身の自分は、親の給料日にコザのステーキ屋さんに家族で行くのが楽しみで(両親、自分、妹)、BC通りの華やかなネオンを観るのが子供心に楽しみでした。記憶が蘇ってきました、ありがとう。
なるほど、華やかな所だったんですね
今回も素晴らしい動画ありがとうございました!とても興味深く勉強になりました!
ありがとうございます!
ペリーは「開国しろ」と江戸に行ったあと「ちょっとしたらまた来る」のちょっとを琉球王国で停泊して過ごしてたようです。琉球王国の高官に英語が話せる人が何人か居たり何年か前に座礁した英国船を手厚くもてなした琉球王国の話が広まっていたので不便しなかったのもあったからだそうですね。
中城村に「ペリーの旗立岩」ってのが残っていますね。
ペリー艦隊の部下が沖縄で女性を襲って男衆に殺された事件(前年には恩納村で銃撃騒動)もあったらしい
外人墓地に葬られている水兵ってこの人なんだろうか?
沖縄県民と比べて多いかどうかはわからんが米軍狼藉この頃からあったのね(汗)
あ、一回江戸に行ってからの琉球王国だったんですね。
映画自体は見たことないですが、ロケ当時は「外国」だったというのが感慨深いですね。
ぜひみてみてください!
昔は、大山電波堂がかなり遠くから見えていたんだよなあ。
親父の車で遠出するたびに未来っぽい形が好きで見ていた。
上之屋あたりからほんと高い建物なかった
かつてのBC通りとアオハルwしていたバブルの頃の中央パークアベニューを闊歩していた沖縄県民です。コリンザが建つ前はアメリカ人が7割くらいのディスコ街でした。朝まで飲んで踊って、こうk…(ゲホゲホ)へ行ったのはいい思い出。中央パークアベニューはバブル期だった頃はもっと活気があってお店もぎっしり営業していてとても賑やかでした。その頃を見ていると今の同所は大分廃れたなぁと物悲しくなります。BC通りの頃は、ザ・アメリカンな街並みでした。私はBC通りの猥雑とした街並みが好きでした。チャーリー多幸寿は復帰前から営業している本島中部では指折りの老舗です。タコスの生地がパリパリでおいしいです。肉の種類も選べます。あとはアメリカ軍関係者から依頼を受けて部隊のワッペンの製作やジャケット等へ刺繍したり、ワッペン等を販売している刺繍店もあります。歩道の話をされていましたが、そんなに狭く感じませんでしたよ。普通にすれ違えるくらいでしたし。もし昔の街並みの名残をご覧になりたければ、近くのゲート通りを回られるとよかったのではと思いました。今でもペイデイ(アメリカ軍関係者の給料日)には米兵の皆さんで賑わいます。(撮影地巡礼の趣旨から外れてしまいますけど…)。嘉手納ロータリーが改修された頃は運転して通るときは違和感しかありませんでした(笑)。長文すみませんでした。楽しい動画をありがとうございました。
私は1960代生まれの、コザ小、KOZA中出身です、高校の頃一番街を闊歩していました、よろしくお願いします。
@@闇世の鴉 こんにちは。レスありがとうございます。バリバリのコザんちゅですね。すごいっす(私の高校時代の友人で、コザ幼稚園→コザ小→コザ中→コザ高で、「俺大学に行けなかったら最終学歴はコザ自動車学校だなw」と笑っていたコザ大好きな奴がいました。結局最終学歴は琉大になりましたけど)。
一番街もサンシティもバブルの頃が最盛期でしたね。上間天ぷら店が美味しいかったのもその時まででした(今の同店は全くの別物)。よく寄り道して天ぷら買って食べていました。銀天街も最盛期でお惣菜のお店がまた最高で。本当に楽しかったなぁ。
こちらこそよろしくお願いします。
@@redteamproject ごめんなさい、上間て天ぷらは私の一個先先輩中央高校出身で具志川の中部病院の前で店営業していました。
@@redteamproject ちなみに中央高校、当間ミキオ(羽賀研二)の同級生です当時駅伝部兼ねています、私の悪友が。
@@redteamproject 中高生の頃は学ラン刺繍が当たり前でした、私の頃はハーフ(短め)、ズボンぼん裾は8インチ。
とても興味深い動画でした!
沖縄は何度も訪れてますが、58号線の景色とかチャーリータコスとか、何気ない景色の中に沖縄の歴史が感じられ面白かったです。
ありがとうございます!
おつかれさまです!嘉手納ロータリーにロータリー弁当屋があって、観光で行ったときに購入した思い出があります。沖縄返還前の映画、興味ありますね~
弁当屋ですか、、今あったかなぁ、、
1961年から1963年の3年間、返還前の沖縄に住んでおりました。
父の転勤で東京から突然引越し、3年後突然東京に戻った経験があります。
泊小学校に通ってました。
この動画の冒頭、泊港から始まってましたが、当時この沖は全てゴミ捨て場で異臭が思いっきり漂っていたのを思い出します。
うろ覚えですが、通常のタクシーが15セント、アメ車ハイヤーが25セントだったと思います。
(360円/ドル)
コザの説明がありましたが、当時のコザビーチは鉄条網で囲われ完全に隔離されたビーチでしたね。
当然、環境は違っていたと思います。
いずれにしても懐かしい光景にドキドキして拝見しました。
また、動画アップそして丁寧な説明ありがとうございました。
すごい時期に沖縄にいたんですね!沖がゴミ捨て場だった、、あまり海は綺麗じゃなかったんですかね?
4:30あたりから始まる宜野湾市内の国道沿いは、水平基調のアメリカっぽいビルが今でも沢山残っています。
大変面白い企画なので、ぜひ続編を!
ありがとうございます!
1970年頃club cavern に家族を大戦で失った自称「みなし児ハッチ」と言う女性がいました、御存命であれば現在80歳前後です。
地元の方しか知らないような情報ありがとうございます!
@ ちなみに近くにペギラ山があります、霊山です、詳しくは後ほど。
南国の対決のロケ地気になっていました。
コザと嘉手納ロータリーはわかっていましたが、細かいところがわからなかったので
楽しめました。
次回期待してます。
ありがとうございます!
いつもご苦労様です。砂の器といい網走番外地といい私の好きな映画のロケ地を訪問してくださるのでホントにうれしいです。来夏でも結構ですのでぜひ網走番外地シリーズ第一作のロケ地訪問をリクエストします。
第1作もやってみたいですねぇ
砂の器、良い小説です、私は、動画では丹波哲郎より、仲代達矢の方が好きです。
パークアベニューから徒歩200歩(笑)の場所からコメントしてます。
とても興味深く拝見させていただきました。
去年最寄りのTSUTAYAがなくなってしまいレンタルできませんが、いつか映画も観たいと思います。
おお、とても近いですね
ロケ地巡りと
歴史巡りの両方楽しかったです😊
ありがとうございます!
今の沖縄も本土とはいろいろ違うなあと思わされますが、60年代の返還前の沖縄は本当に独特ですね(本土でも60年代は今とはだいぶ異なるが、それを考えても異質)。
面白い町並みですよね
こたつさん、お疲れ様です。
沖縄に行かれていて、びっくりしました。凄いなぁ。(*^^*)
@@あらいぐま本田 いつもありがとうございます!
とても興味深い内容でした。
半世紀以上も前の映画のロケ地を巡って考証するなんて視点が面白いですね
先月那覇にいたので更に面白かったです
“アメリカ世”だった頃の沖縄が舞台の映画なんて興味が湧きますね
ありがとうございます!
はじめまして、こんな映画があったんですね。先日沖縄に行きまして27日には旧コリンザにある図書館の3階で行われた島唄の会を見に行きました。バスで行ったので胡屋で降りてパークアベニューも歩きました。あまりじっくり探索出来なかったのでまた行きたいと思っています。
コザは那覇市とは違う独特な雰囲気があって良いですよね
ほぼ違うの場所と思ったら、意外に変わらないの場所もいたですね。
でもかなり変わったとは思います。
おつかれさまです
網走番外地は子供の頃見たきりで、ほとんどストーリーは覚えていません。この機会に見直したいと思います
ぜひ!
楽しく見ています
ちょっと勘違いしている方が多いですが、元々沖縄県の家屋は木造でしてお家を台風から護るために石垣や防風林で囲うようにしていました
一般庶民は茅葺の簡素な小屋みたいな家に住んでました
戦後沖縄にコンクリート製の建物が激増したのは、台風のせいではなくて深刻な木材不足という理由からです
空襲や沖縄戦で建材になり得る木がほとんど消失しました
輸入木材はめちゃくちゃ高価でした
当時は木造住宅を建てたくても建てられなかったんです
代わりに米軍が持ってきたコンクリート資材であれば、木材より安く簡単に大量に手に入りました
沖縄の戦後すぐ建てられた建物で特徴的なコンクリート瓦も資材不足から生まれてこの頃盛んに作られ、たくさんの建物の屋根材として使われました
コンクリート製の建物は暴風に対して頑丈で防風林や石垣を不要にできる利点があったので、家屋を護る囲いがない真四角の家屋が増えていきました
そういう時代背景があって戦後の沖縄ではコンクリート製の建物が多いのです
台風に強いからというのは後付けです
建材がコンクリートしかないので建ててみたら暴風に強くてメリットがあったということですね
暴風に吹き飛ばされやすいかはやはり家屋を守る囲いがあるかや家の作り、屋根の材質や形に依存します
ただ沖縄で困るのは暴風だけではなく、豪雨にも湿気にも耐えなければなりません
コンクリートは風には頑丈ですが、意外と水が染み込みやすく湿気こもりやすいし、ヒビが入ったら修繕は完全に難しいことも多いし、意外とシロアリにも食われますので万能な訳ではありません
戦後の沖縄ではコンクリート信仰が強いのですが、 きちんと手入れをして伝統工法で建てた木造であれば百年以上もつことが判明していますので
昔ながらの木造住宅の良さが見直され、最近では結構木造住宅が増えてきています
失礼しました。コンクリートだったんですね。
木造住宅が増えてきているのは知りませんでした。
映画で最初に出てくる天井の低い店が地下部分で、最後に乗り込んだ店は地上部分のお店かと。
古い映画に映り込んでいる当時の背景は今となっては貴重な記録ですね!ところで嘉手納ロータリーのあたりで沖縄の建物を石造りと紹介しておりましたが、正しくはコンクリート造りです。沖縄もかつては木造が主流でしたが、米軍向けのコンクリートの建物が台風に強いことを見て今ではコンクリート造りの家だらけになりました。動画に出てくる宜野湾市のロケ地の近くに住んでいます。我が家は沖縄で外人住宅と呼ばれている軍関係者向けの築50年は過ぎているコンクリートの造りの建物です。
失礼しました。コンクリートですね。。
ついこの間BSでやってたので、ありがとうございます
ありがとうございます!
😄沖縄県は日本でいちばん恵まれています😄ありがとうございます🙏
本当にそうですよね。私も毎年訪れています。
club cavern の場所は正確には16:48で映る樹木とコリンザの間の道路です、元は洞窟入り口です。
お疲れ様です✨網走番外地6作目は、沖縄なんですね😮続網走番外地を、観ましたが函館でした😆CLUB CAVERNは、クラブキャバーンですかね?ビートルズがデビュー前に演奏していたところですが関係は無いでしょうが、名前だけ使ったのではと思います🤔勿論確信はありません🙇
イギリスの(cavern)キャヴァーン同様表からは分かりませんが、元々はガマの入り口(洞窟)のあった場所に建てられていて、半地下です、沖縄戦時中の遺骨が収集されていないので、自殺者や幽霊が出ることで有名です、ちなみに隣は集団墓地です。
@@闇世の鴉 そうBCコザ(旧コリンザ)周辺は墓地跡の建物が多い
@@轟鉄平 スミマセン、2002年に慰霊碑建てられていました、コリンザ建設中に遺骨が出てきたかも知れません、当時沖縄は建物を建てると不発弾か無縁仏がたまに出て工事STOP します。私の実家も60㎡の土地から7柱出てきました。
読み方キャバーンでしたか!
「男はつらいよ」の「ハイビスカスの花」のロケ地巡りをお願いします。
以前やりました!またやりたいですね
説明がわかりやすいやっさ🫡チャンネル登録したさ〜🤲
ありがとうございます!
男はつらいよのロケ地めぐりもよさそうですね
以前やりました!
@@cotatsu_travel そうでしたか!ありがとうございます 「海燕ジョーの軌跡」「ウンタマ義留」あたりもめぐってみると面白そうかと思います
一郎君と母親は現在のコリンザから東シナ海(おそらく伊佐あたり)まで走っています。
場所が急に飛びますよね。海が見えるところに。
沖縄ロケかぁ〜。
動画見てて、沖縄行きたくなってきました。(沖縄行ったことないもので💦)
ぜひ!
ウルトラセブンの第9話「アンドロイド0指令」も少し後の1967年夏から秋頃に沖縄ロケをしています。那覇や嘉手納基地周辺の当時の映像が出てきます。アメリカ色が強いですね。再放送を子供の時に見ていたのですが、英語の看板が多く車が右側通行なのは何故なんだろうと思ってました。沖縄が日本返還されたのは1972年5月15日ですが、日本本土と同じ左側通行になったのは1978年7月30日。この事を"ななさんまる交通変更方法"というらしいです。
その話も見てみたいですねー
ウルトラセブンの第9話「アンドロイド0指令」のDVDを鑑賞したのですが沖縄の風景は一切映ってなかったです。何か勘違いしてるのでは?
間違えてましたか…沖縄出身でウルトラマンやウルトラセブンの多くの作品を手掛けた脚本家の金城哲夫さんの作品なのは確かです。第14/第15話ウルトラ警備隊西へ前編/後編だったのかも知れません。撮影の主な撮影場所が神戸でキングジョーが出てくるやつです。金城さん脚本の別のゼブンのエピソードにも沖縄ロケのものがある様です。何話か混同してしまってるかも知れません。記憶があいまいですいません。
@@Zero-v8o7z 「アンドロイド0指令」はチブル星人が出てましたよ。
当時、歩道の整備がされていないのではなく、1号線は特に緊急時の滑走路として利用を想定されていたので、(当時のアメリカのクルマ文化もあって)駐車帯として使われていました。だからお店の前に車を横付けする光景は、アメリカそのものでした。
あ、そうだ。滑走路の話は聞いたことがあります。
5:30のコンクリ瓦屋根は最近まであった気がする 地元だけど徐々に変わるからあんまり変化がわからないな
変化が激しいですよね
BCコザ(前コリンザ)昔はペプシの絵があるバーがあったはずです。
80年代まではそのバー・クラブありましたね。
20年前くらいはアイリッシュバーもあり、ストリップバー(デジャヴは最近まで)ありましたね。
嘉手納ロータリーは青い歩道橋がありました。
草地の広場辺りは建物が建っていたはずです。
オブリガードというタコスやメキシコ料理のお店もありました。
70年後半は店名をFIREにして米兵ONLYのDISCです周辺爆音ですがお咎めなしです、その当時はさすがの私でも近づきません。
2000年ぐらいまでは夜の街の名残があったんですかね?
高倉健主演の映画「海峡」も素晴らしい映画です。
以前竜飛岬にロケ地巡りに行きました。
@ 本州と北海道の開通の瞬間、高倉健のガッポーズ最高です、何かをやり遂げた男の達成感を感じます。
BC通りは、黒人街
ゲート通りは、白人街だったそうですよ。
高校生の頃沖縄市良く行きましたが、BC通りは、昼間でも
怖い感じがしました。
沖縄帰りたいゎ
すみません、私BC通りに住んでいましたが、ネイティブアメリカンとお会いしたことありません、ネイティブ・アメリカンはコザ十字路かと、すみません当時近隣で白人しか見たことがなくて。
黒人街、白人街、なるほど.
少し緊張感がありそうですね。
@@ャペルチ 韓国ドラマに「悲しき恋歌」があります、当時の私の育った環境に近いです(当時は日常当たり前)、出演女優のキムヒソン好きです。
@@ャペルチ 私も年金生活になっら帰る予定でしたが、沖縄の地価や物価の高騰でやめました、福祉が充実して60歳以降も雇用があり時給が高い東京周辺の地区に住んでいます。
@@闇世の鴉さん、"ネーティブ アメリカン" とは、"アメリカ インディアン"(アメリカ先住民)の意味で、黒人は "アフリカン(アフリカ系) アメリカン"ですよ~。コザ十字路周辺が黒人街、BCストリートやゲート2ストリート周辺(胡屋)が白人街でした。
パークアベニューは全盛期に比べると人も店も激減してますよ、私が若い頃はアーケード街含めてほんと人と店が賑やかでしたよ
やっぱりそうなんですねぇ
中央パークアベニューになった後も数件のストリップバーがありましたよ。
バナナをあそこに入れて切るパフォーマンス等もしてたそうです。
パークアベニューに変わった当初は舗装がレンガを敷いてましたがどんどんボコボコになってアスファルトに変えていました。
さびれている感じがしないとおっしゃっていますが、昔は人がすれ違うのも大変なぐらい混雑していましたよ。土日
すごいパフォーマンスですね。。!
映画の一郎とバスに乗って会話している場面は、伊佐三叉路から普天間神宮向け、嘉手納ロータリーから歩いた先は嘉手納基地第3ゲート付近、一郎が熱中症で倒れた場所は北谷宮城海岸埋立地、遠くに見えるは北谷城跡かな?
詳しいですね。感嘆します。健さんが一郎にパスポートをすられた場所は那覇港の前ですよね。沖縄製粉のサイロが見えますね。
@@パグぶるお そのシーンには違和感があります、当時日本本土はパスポートのいる外国、それは今後会えないかもしれない、でも五色のテープがありません、日本本土行きには必ず五色のテープが舞っています、なので近場の離島行きでしょうね、それにしては船が大きいのが気になります、ま途中下船されています。
@@闇世の鴉 そのシーンを勘違いしてるのでは? 先日TVで放映されていたので録画したのであらためて鑑賞したのですが確かに那覇港の前で当時の構内の倉庫がグーグルマップで映ってますよ。
詳細ありがとうございます。そのあたり確信が持てなかったのでスルーしました。あとラストの港もわかってないです
@@cotatsu_travel 那覇港です。「【懐かしの古き沖縄】那覇市編」の動画でそれらしき景色が確認できます。また、客船に「宮古高等学校本土修学旅行団」の横断幕が映ってますね。
私の記憶
2。コザ暴動を目の当たりにしました、幼少ながらに、え、戦争が始まった思いました。
沖縄県民ですGメン75で夏木陽介が犯人を追って基地内に入って銃で撃たれたのが衝撃でした。今では米君もフレンドリーでしたが、子供のころ車でピースをしたら笑ってくれて鼻に拳をくっつけるしぐさ(鼻が高いということ?)をすると殺されるという都市伝説もありましたよ
そのG'メン75のストーリーも見てみたいですね
松方弘樹と千葉真一が共演した沖縄やくざ戦争(1976)は沖縄ではなく京都で撮っているから
古の沖縄ファンは要注意な
ご意見ありがとうございます。
教えて下さい、本土から来たヤクザ役は梅宮辰夫ですか、年齢的に記憶が曖昧ですみません。
@@闇世の鴉 地井武男さんだはず。
@@パグぶるお 曽根晴美さんだったはず
地井さんは松方さんの子分を撃ってました
@@gr-me2bt すみません、氷屋、キンタマ切断シーンなければ別の映画です。
当時戦争でなにもかも破壊された街を復興中だったんじゃないでしょうか
「発展途上」とは表現が違うような気がします。
当時発展より米兵の性の捌け口として八重島、センター、ゲートが琉球政府と赤線で取りかわせれています、遺体は窪地に埋めて土を被せる、または穴を掘って埋めるの急ピッチで進められました、ちなみに近くにコザ小学校がありますがブレザーの制服です、それは米国と琉球政府の密約束事でこの制服を着けている女子は襲うなとの密約です。
発展途上市です、もともと二束三文の地価が戦後100倍以上に根上がっています、戦争ががなく米兵が基地がなければ、今頃過疎地のど田舎以下です。
確かに復興という言葉でも合ってるかもしれません
bcストリートに15年前くらいにストリップ店があったけど今もあるのかな
ストリップバーはなかったような。。
発展途上国とはなんだ、当時ここはアメリカだぞ。
発展途上感がある、とは言いました。
@@cotatsu_travel いやいや5:59に「見るからに発展途上国の道」とおっしゃっています。
@@chitake2370 失礼しました。コイツ確かに言ってますね
私の記憶
1。当時毒ガス輸送で学校は休校、輸送ルートの傍で無邪気に遊ぶ当時の自分姿が滑稽です、
琉球政府関係者避難、地元住民には毒ガスも配布されておりません、by安倍のマスク。
沖縄が日本固有の領土でないことは歴史が証明している。
その証拠に沖縄はかつて琉球王国という独立国で、琉球王国には日本の主権も領有権も及んでいなかった。
歴史的事実として琉球王国は1854年7月11日にアメリカ合衆国と琉米修好条約を締結し、翌年の1855年11月24日にはフランスと琉仏修好条約を締結している。
また、1859年7月6日にはオランダとも琉蘭修好条約を締結しているし、1854年7月11日に締結した琉米修好条約は翌年の1855年3月9日にアメリカ議会で批准されていて、同日、第14代大統領のフランクリン・ピアースによって公布されている。
このような歴史的事実からも明らかなように琉球王国は諸外国から国際法の主体として外交権を持つ主権国家(独立国)であると承認されていた。
前近代の近世において琉球王国のように欧米諸国と国際条約を締結したことがあるのは沖縄の前身である琉球王国だけで、琉球以外で欧米諸国と国際条約を締結したことがある地域(藩)はない。
そもそも琉球王国が日本の領土だったなら、その琉球王国に日本政府が軍隊を派遣して武力的威嚇のもとに併合するわけがないし併合する必要もなかったはずである。
沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに日本政府が沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで自ら証明してしまったと言える。
@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家
だったら何かあるわけ?昔のことじーぐいさんけぇ。
琉球王国ではない。琉球国が正しい。!
@@heart-of-gold3571
歴史学では「琉球王国」ともいう。
ちなみに日本政府の一組織である文部科学省が検定して合格させた日本史Bの教科書にも「琉球王国」と書かれているし、沖縄県庁、沖縄県立博物館、沖縄県公文書館、那覇市歴史博物館のホームページにも「琉球王国」と書かれている。
@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家
蝦夷共和国もフランスに承認されてなかったっけ
@
フランスと国際条約を結んだことがあるのは琉球王国だけ。
健さん亡くなって10年ですか、早いものです。
10周年だったんですねぇ
唐の世(ゆ~)からヤマトの世、ヤマトの世からアメリカ世……そうです、沖縄は日本ではなく、文化も伝統も言語も違う琉球王国であるべきです。
私の記憶
3家の前に旭琉會会長の豪邸が建ちました、周辺アパートヤ⚪︎ザ構成員だらけ、ペギラ山を返せ。
怖い奴らと思いましょうが、本当に怖い奴らです、by 鶴田浩二
そもそも、個人的に琉球、沖縄の呼称が間違い、正しくは「うるま」琉球は中国がつけたな名、沖縄は薩摩がつけた名、現地の人は「うるま」と呼ぶ。