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私は小学生の頃以来秀吉が一番好きでしたが、歴史についての知識が増えるにしたがって信長が秀吉以上に好きになりました!そして、この弾正に関する知識を知って信長をより一層好きになりました。
今の日本政治は、本当のうつけしか議員になっていないんだなぁ。うつけを装っている議員が必要だな。
今弾正台があったら、消されすぎて国会が荒れ野原になりそう
ありがとうございます。先生のおかげで信長の心を知ることができました。合点がいきました。宣教師が信長をほめていたことを思い出しました。ざっくり言って人間的にすごい人だと言っていたように記憶しています。
信長のエピソードで好きなのが、宣教師の奴隷から家臣に取り立てられた黒人青年の弥助についてです。この件について、当時の奴隷貿易について触れつつ、どこかで講義していただけたら嬉しいです。
奴隷から側近に取り立てられたのに、首を持ち去って、デスマスクを作り、それを売り物にした。織田重臣が探しても見つからなかったのはそういうことでしょう。恩を仇で返すとはこの事。
その最後の部分は隠しておいて、もう16世紀には黒人のサムライがいたというドラマを彼を主役にしてつくったら本当に世界中の黒人社会に受けて日本のイメージさらに爆上がりだと思うよ
@@sihandai666 デスマスクの話は初めて聞きました出典はなんですか?
@@くまのプーさん-v6c あくまで伝承なので、民俗学的なものなのですが、詳しくはネットで調べてください。
@@sihandai666 弥助は信長の死を見届けてすぐ信忠の所に行ってますよね。あなたの言うように恩を仇で返したなら信忠の所には行かず、南蛮寺に逃げ込んでると思うのですが如何てしょうか。
よく理解出来ました。振り子で上手く切り抜けた信長を尊敬します。面白い講義でした。
歴史の奥にある真理を垣間見たような感じです。今弾正がいればいいですね
大局の願いのために、若いころから欲(よく見られたいとか)をはき捨てて、フェイクイットして生きる生き様はすごくかっこいい!当時は評価されなかったんだろうと思っても後の人が光を当ててくれるのが歴史の学びですね!正誤を問うよりも良いものを見出して、光ある未来のために吸収していきたいですね!!
昨今益々磨きが掛かる小名木先生の熱い講談調での信長異譚おもしろかったです
ただ一辺倒に歴史を知るより、人、背景、人間関係、環境などあらゆる角度から物事を見る癖が先人に学ぶ(真似る)なのかもしれません。本日も勉強になりました。自分なりの行動反映と結果計測に活かしたいと思います。ありがとうございました🙇🏻♂️
学生の頃から、今でも信長公が一番好きです。本能寺の変だけがどうしても合点が行かない。一度だけタイムマシンで過去に戻れるとしたら本能寺か池田屋事件です。😅
いつも詳しい解説、心から感謝申し上げます。🙇♂️人間の歴史そのものが、人間の思想の変化であり、人間のレベルアップなのです。それは、少しずつ向上して行きます。科学技術の発達は、人間のモラル(倫理観)の発達と、比例の関係性後ありますが、時にバランスが崩れどちらかが急に発展することもあります。何故人間のレベルの発展にバラツキがあるのは、技術の発展を利用して悪用する人間が居るからです。悪用することによって、発展するベクトルは停滞したり下降することもあります。そういった上がり下がりを繰り返しながら、少しづつでしかレベルアップしないのです。時代の思想によって、科学技術が認められなかったり、多岐にわたる障壁を超越した時、初めて立証されます。信長の直感力と洞察力、判断力は何百年経た現代でも通用する総合的な能力が備わっていたと思われます。民衆(現代人でも)は、目で見える"見た目"でしか評価をしません。その時、その時代の本質を観れる指導者が今の日本には必要です。
圧倒されました!共感と拍手👏!世直しにいい薬なメッセージと伝わってきました❗ありがとうございます😊
無知もいいところだな。史学に真剣に立ち向かえば~
勿論先生のお説はそのとおりです❗全く惜しいのは織田の弾正の意味をキチンと伝えるべきですねありがとうございます⁉️
僕は、うつけ時代が大好きです。先生、もう桑名市、長島スパーランドのあたりも信長公は支配していて、貿易もしていて、うつけの時代に、もう鉄砲500丁所持していたと言われますが、またよろしかったらそのあたりの解析動画もお願いします🙇♀️
合理的な御解説で納得性があり興味深く拝聴させていただきました。ありがとうございました。
信長公の奇行には色々説がありますが、私が以前何かの本で読んだのは信長さんは京から呼んだ貴族に歌や蹴鞠を教わるのを断っただけだと書いてありました。理由は、戦国時代では歌や蹴鞠が上手くても戦には勝てないからです。それだけなのに、この話が尾張国外に伝わった時に尾ひれがついてしまって「うつけ者」にまでなってしまったと。もちろん、小名木先生の話も頷けます。実際がどうなのかはわかりませんから、想像するしかない。それも楽しいですね。
うつけの格好しても尾張国内の地理を調べたり信頼できる仲間を集めたりしてました。代替わりして短期間で尾張をまとめ上げたのはうつけ時代にしっかり下準備してたからですね。
👏👏👏👏👏👏ありがとうございました😊
信長さま、何となく好きなんですよね~
現代日本に【弾正】が欲しいですね、同感です。 実在した上級国民への緩い対応、シロアリ官僚の天下りなど、日本は鎖放題。
ありがとうございます!
いつも素晴らしい歴史の真実の解説をありがとうございます。ひとつ疑問です・・・。織田信長がそういう深慮のできる人物だったのであれば、どうして明智光秀に撃たれたんでしょう?それが何故かどうしても知りたいです。非常に不思議・・・。合点がいかない・・・。
軍事的空白地帯の京に信長、信忠父子がいたからとしか
@@matukawatositane そういうことですか・・・。背景を良く調べずコメントしたのはまずかったかな。
明智光秀は藤原氏が送りこんだスパイです
実際に信長に会っていないので、実のところはわかりませんが、若き頃は本当に不良だったのでは?と私は思っています。日本人には若き頃は不良であっても年齢を重ねるごとに真面目になっていく人も多く居るような気がします。私が織田信長のことで1番気にるのは、信長はキリスト教を許していて、何百年も過ぎた今でも英雄として取り上げられていますが、後を継いだ秀吉はキリスト教を却下し、今では悪いイメージばかり植え付けられるように先導されているように見えます。今の学校で学ぶ歴史の教科書にもこの影響が色濃く出てしまっているように思います。正直なところ豊臣秀吉が天下統一をしたことが日本の為に本当に良かったことだと思っています。宗教問題があるのでこれ以上は言いません!
太閤さん
信長もキリスト教は切り捨てざるを得なかったかなと
信秀の見方が変わってとてもすばらしかったです
信長の奇行は自分の頭で考えて行動する稀な人物像からだと思います。誰彼構わず疑問をぶつけて普通に会話していたそうですし、それらの応えが『皆がやっているから』とか『昔からそうしてきたから』という流しに反発し自ら価値ある行動や身なりにこだわっていたのは、大人になってからも一ミリも丸くなっていないようにも思えます。また、信長の特異な点として、疑問質問に対して解らないとか間違える相手には驚くほど寛容ですが、バカにしたり考える事を拒否する相手には瞬間沸騰器のようにブチ切れるというのがあるように思うのですが、これも幼少時にバカにされてきた弊害でしょうか。
「大学」という名乗りをやめるべき事案。織田家を弾正忠家だけで語る点、勢力が落ち目の信秀の息子にうつけを演じる余裕はない点等々。大学ではなく歴史講談家としては如何でしょうか?
織田 信行ー2(真面目な対抗馬の弟も中々やり手だったという点かつ、許してやったのに再度反抗するもんだから、厳格な支配者になっていった理由の一環)弾正忠家の当主を名乗るしかし、天文22年(1553年)10月、信行は信長の関与なしで独自に判物[注釈 17]を発給した[32]。信行が港町・熱田の豪商である加藤家のうち東加藤家にたびたび判物を発給した[5][15]一方で、信長も同じく西加藤家に判物を発給していることから、商業地である熱田の権益を巡って両者が争っていたことが伺える[15]。天文23年(1554年)4月頃、守護代・織田大和守家は、信長と叔父の織田信光の共同作戦によって滅ぼされた[33]。信光も同年11月に暗殺されて[33]、弾正忠家内部の争いから脱落した。この頃、信行(信勝)は達成と改名した[32]。改名の時期は、残された文書から、天文22年(1553年)10月から天文23年(1554年)11月22日のあいだのいずれかの時点だと推定される[32]。この名のうち「達」の字は守護代の織田大和守家の当主の名[注釈 18]との関連性が指摘され[注釈 19]、信行もそのことを意識して改名したと思われる[32][11][34][注釈 20]。これについて、信行が、滅亡した守護代家の役割の代行を表明したという見方もある[11]。同じ頃、信行は官途名として「弾正忠」[注釈 21][注釈 22]を名乗った[32][11]。これにより信行は自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったと考えられる[32][11]。対して、信長は尾張守護の子である斯波義銀を擁立した[11]。こうして信行と信長は対決の道を進んだ[11]。守山城をめぐる争い弘治元年(1555年)6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された[36]。それを聞いた信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わせた[37]。これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って[注釈 23][38]、信次を処罰しようともしなかった[5]。この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる[5][38]。信次は逐電したため、守山城主の地位には、信行の兄弟[注釈 6]である織田安房守(信時ないし秀俊)がついた[39]。安房守は信長方の人物だったと考えられる[37][36]。ところが、時をおかずに、翌年の弘治2年6月頃、安房守は横死してしまった[40]。安房守を死に追いやったのは守山城年寄衆・角田新五であった[39]。しかし角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守謀殺に信行が関与していた可能性が指摘される[39][36]。前々年の叔父・信光の殺害に続き、安房守も死去したことで、織田弾正忠家内の覇権争いに生き残ったのは、信行と信長の2人となった[39]。稲生の戦い「長良川の戦い」および「稲生の戦い」も参照弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった美濃国の戦国大名・斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去した[41]。義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き[41]、信長は苦境に立たされた。同じ頃、未遂に終わったものの、信行派の林美作守らが信長を殺害しようとした事件もあった[42]。同年8月、信行は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした[41]。信行らは、信長の直轄領である篠木三郷を押領しようとした[41]。この動きに対し、信長は名塚砦を築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った[41]。 信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った[41]。8月24日、両者は稲生で激突する[41]。結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した[41][注釈 24]。敗れた信行は末森城に籠城する[41]。信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された[41]。最期龍泉寺から、篠木三郷のあった春日井市を望む。稲生の戦いにおける敗北を境に、信行が「弾正忠」を名乗ることはなくなった[44]。信行は勢威を大きく後退させ[45]、「武蔵守信成」と改名している[44]。しかし、信行はその後も信長に対する敵意を持ち続けた[44]。翌年の弘治3年(1557年)4月、美濃国の斎藤高政(義龍)は、信行に書状[注釈 25]を送っているが、この書状は信行に対して再度の決起を促す意図の文書だった可能性があるという[46]。また、独自の判物発給[注釈 5]も継続して行っていた[46]。永禄元年(1558年)3月、信行は龍泉寺城の築城[注釈 22]を始めた[41]。これは駿河の戦国大名・今川氏に対する防御のためだったとも、信長に対して備えるためだったとも考えられる[46]。いずれにせよ、信長にとって、信行が敵対勢力と提携する危険は無視できないものだった[46]。同年中[注釈 1]、『信長公記』[注釈 26]によれば、信行は、岩倉城の織田信安に通じるなどして謀反を企てた[41]。信行は再び篠木三郷を押領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に密告した[41]。『信長公記』[注釈 26]によれば、信行は若衆の津々木蔵人を重用し、勝家を蔑ろにしていたのである[52]。信長が仮病を装うと[41]、信行は11月2日に清洲城へ見舞いに行き、そのまま誘殺されてしまった[41][注釈 27]。信行という脅威を除いた信長の勢力は飛躍的に拡大し[46]、信行殺害からわずか数か月後、信長は守護代家の岩倉織田家打倒に成功した[46]。すでに守護家の斯波義銀も追放されていたため、尾張の守護・守護代体制は完全に解体され、信長が同国の大半を支配することとなった[46]。信行の子の坊丸(後の津田信澄)は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍した[53]が、本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれた[53]。ただし信澄の子の織田昌澄は生き延び、最終的に江戸幕府の旗本となった。人物信行がどのような人物であったかを伝える史料は乏しい[注釈 28]。信行は美濃国の白山社に仏像光背を寄進しており、その銘の写し[注釈 29]が残っている[11]。このことから、父・信秀が深く帰依していた白山信仰を、信行もまた受け継いでいたとされる[11][注釈 30]。新井喜久夫は、信行の人物像を示す逸話として、政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が天文24年に残した言葉[注釈 21]を紹介している[12]。沢彦宗恩の言によれば、信行は百舌鳥を飼いならしており、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだ[12]。獲物を逃してしまうことは決してなく、非常に高い腕前を誇っていたという[12]。
面白いです。
さすが先生、うつけを装うに当たって信長はイクサをその頃から敵に油断させる為にウツケを演じたと思います。あの人ほど先見の明があった武将もいないですよね!現に信長を侮った今川もやられてしまった。(諸説あり)
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます...私もうつけものだと自負しております。 ありがとうございます...
忌みます
群雄割拠の戦国時代を生き抜く方策としての行いと言う事が後の行動から分かる。うつけでは無い。今川氏に敗れていたらただのうつけで終わっていたのだろう。天下布武。もう少しの所だってのに無念であったろう。
今、弾正がいたら、日本の政治家や官僚で生きてる人数えるほどしか居ないかも?
4:37なるほど、むかし刑部省の他に弾正台があったみたいに今の世の中には警察とは別の組織として「上級国民取り締まり処」を作るといいですね
その通りです😄
素晴らしい解釈ありがとうございました‼️人の行動には理由があるものですね。真の意図は隠して、それを演じる、戦略ってこともあるでしょう。心が優しく正しい人間こそ、そういう演じ方もあったのかもしれないなあと思いました。🤗❤️自分が身内に反乱分子がいる長だったら、、、と。その子どもだったら、、、と思いを馳せてみると、見え方は違うだろうし、子どもの頃は無意識で不良をやっていたということもあると思います。というかそこまで考えていたとしたら、天才‼️ですよ。天下統一の形をつくったという偉業を考えても、自分が鬼になる選択をするという演技も考えられます。それはそれでカッコいいですね〜👍現代に生きる私達が後からあーだこーだいうのはいくらでもできますが、事実がある限り、小名木先生の解釈は心の奥深くまで想像してみると納得します!🤗ましてや、本当に大うつけだったら、部下だって誰もついて来ないだろうし、天下統一などということもできないのではないかしら。🤔
ガチャガチャして歩く。。クルマのキーや携帯をガチャガチャ音をたてて歩く名古屋人に気質がひきつがれてますね。きっと。。
もし信秀の時代に織田家の腐敗が事実なら、そんな家を継ぎたくないと、子供信長が考えて不良になったとも考えられますが、如何でしょうか?
今回の先生の説はおかしいと思います。信長はうつけのふりをしていたのではなく、当時、若者たち流行りの傾奇者であるでけです。現代で言うと中小企業の社長の息子がヤンキー兄ちゃんであるような事であるように思います。
実際ヤンキー時代の側近で三河に行かず残ってんの何人?ってくらいですし
父親が、私にバカになれと言ってました。その頃は分かりません、後に出来が悪い成果社会に出てバカにされる毎日 待てよ親父が言った馬鹿なれ?バカにされてる でもバカは一緒だと想いバカの徳な所 を探しました気が付いたのが人の本性をが視える事、悲しい哉!見下したり ぺこぺこしたり良く見えます。バカを知り役に立ちました。
うーん 残念だけど全然違うね。 純粋に当時は傾くことが若者の間で大流行してて信長や利家や成正たちは異形をすることに熱狂しただけだよ。それをすると周りの若者に尊敬されるし女にもモテた。それ以上の理由など無い。
警戒されないために
『歴名土代』に「織田弾正忠、平信長」と記載があり、朝廷に公認された官職である。弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。「弾正」を称した戦国大名では、当主が代々「弾正忠(だんじょうのちゅう / だんじょうのじょう)」を自称した家系である「織田弾正忠家」出身の織田信長の場合、『歴名土代』に「織田弾正忠、平信長」と記載があり、朝廷に公認された官職である。戦国大名・武将松永久秀も永禄3年(1560年)弾正少弼に任命されていることが歴名土代で確認できる。上杉謙信は天文21年(1552年)に弾正少弼に叙任とされ[2]、後に養子の景勝に弾正少弼の官職を譲った。景勝の子定勝は弾正大弼に叙任され、以後、江戸時代の米沢上杉家当主は代々、弾正大弼に叙任され名乗った。ここから米沢上杉家を「上杉弾正大弼家」と呼ぶことがある。ほかに弾正忠を自称したものでは、甲斐武田氏家臣の三弾正こと高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正) などが特に知られている。律令制下の八省の一つ。 ⇒ 弾正台(律令制)明治時代の太政官制における省庁の一つ。 ⇒ 弾正台(明治時代)この項目では官庁としての弾正台のほか、官名・称号としての「弾正」についても記述する。弾正台(律令制)古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構である。唐名は、御史台(ぎょしだい)、憲台(けんだい)、霜台(そうたい)、粛正台(しゅくせいだい)、正台(せいだい)など。概要・沿革弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであり、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。官舎は皇嘉門付近にあった[1]。行政官・立法官である太政官の影響を受けないよう独立した監察機関として設置されたが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少なく、裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。嵯峨天皇時代に令外官として検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。長官・吏員長官は弾正尹(だんじょうのいん/だんじょうのかみ)で従三位相当官。機能を喪失するとともに親王が任ぜられることが多く弾正尹宮などと呼ばれた。また大納言が兼帯することもあり、尹大納言などと言われた例がある。なお、単に弾正と称した場合には弾正台の職員を指す。四等官として、尹(いん / かみ 唐名:御史大夫、御史尚書) - 1人弼(ひつ / すけ 唐名:御史中丞)大弼(だいひつ / だいすけ) - 1人少弼(しょうひつ / しょうすけ) - 1人忠(ちゅう / じょう 唐名:侍御史)大忠(だいちゅう / だいじょう) - 1人少忠(しょうちゅう / しょうじょう) - 2人疏(そ / さかん 唐名:御史録事、御史主簿)大疏(だいそ / だいさかん) - 1人少疏(しょうそ / しょうさかん) - 2人がある[1]。その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた[1]。弾正尹の辞令(宣旨)の例「薩戒記」從二位行權大納言藤原朝臣定親正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保宣奉 勅件人宜令兼任彈正尹者嘉吉三年六月十五日 大外記中原朝臣師郷奉(訓読文)従二位行権大納言藤原朝臣定親(中山定親 43歳)正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保(三條西公保 46歳)宣(の)る勅(みことのり 後花園天皇 25歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく弾正尹を兼任せしむべし者(てへり)嘉吉3年(1443年)6月15日 大外記中原朝臣師郷(押小路師郷 57歳 正四位下)奉(うけたまは)る任官・自称した人物前近代の日本で「弾正(尹・大小弼・大小忠)を名乗る人物には、朝廷から弾正台の四等官として正式に任命された公認の称号もあれば、そうでない非公式な自称もある。公家・皇族為尊親王は弾正宮と呼ばれ、源仲国は弾正少弼であった[1]。また、幕末に朝廷の中心人物の一人であった中川宮朝彦親王は、二品弾正尹に任ぜられ尹宮(いんのみや)と称された。弾正台(明治時代)近代官庁としての弾正台は、明治2年5月22日(1869年7月1日)、太政官制に基づき、刑法官監察司の職務を引き継いで設置された明治新政府の省庁である。明治4年8月24日(1871年7月9日)、司法省新設により廃止された。設置弾正台はそれまでの刑法官監察司に代わる監察機関として設置され、明治2年7月8日東京の本台のほかに留守官として京都に支台がおかれた。長官である弾正尹には九条道孝、次官である弾正大弼には池田茂政が任じられた[3]。職員の階級として尹、弼各1名の下に、大忠、少忠、大疏、少疏が各2名、巡察が10名のほか、史生が置かれた[4]。同年7月官制で、弼は大弼に少弼が加わり、大忠、少忠は、大・少・正・権各1名となり、大忠は勅任官、権大忠以下は奏任官、大疏、少疏は判任官となった[5][6][7]。実務上の最高責任者だった弾正大忠の経験者には、吉井友実、門脇重綾、安岡良亮、河田景与、海江田信義、渡邊昇らがいる。新政府内「尊攘派」の拠点この省庁の設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さく、主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の幹部の非違を糾すという名目で彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げる程度で満足しなければならなかった[8]。明治4年5月13日(1871年6月30日)には神戸でキリスト教の禁教を犯した罪で市川栄之助が逮捕される事件が起こった。弾正台に送られた市川は、拷問によってキリスト教信者であるか否かの取り調べを受けたのち、弾正台廃止後の明治5年11月25日(1872年12月24日)に獄内で秘密裏に処刑されたが、公式発表は牢死とされた。粟田口止刑事件設置前後に起こった横井小楠および大村益次郎の襲撃・暗殺事件においては、これを取り締まるべき弾正台の海江田信義(弾正大忠)・古賀十郎(大巡察)ら自身が横井・大村の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至った。特に京都支台の海江田が中心となって明治2年12月21日(1870年1月21日)、大村襲撃犯の処刑執行を直前で差し止めた「粟田口止刑事件」は東京の新政府内部で問題化した[9]。明治3年4月(1870年5月)、特に過激であった古賀ら大巡察9名が人員削減を名目に免官となり[10]、これを機に政府による尊攘派切り捨てが本格化し、弾正台自体も刑部省への統合が決定された。廃止以上の結果弾正台は、明治4年8月24日(1871年7月9日)、刑部省との統合による司法省の新設にともなって廃止された。その他の「弾正」佐渡に「弾正」姓を名乗る人々がいる。また、熊本県上益城郡山都町にあった阿蘇氏の居館=浜の館・館跡には、「弾正杉」と呼ばれる杉の大木が19世紀後半頃まであった。現在は「弾正さん」とよばれる百日紅の古木がある。弾正杉の西には阿蘇家の息女ないし侍女の墓と石祠・女性像があり、母乳の出る効能があるとして信仰されている。
小名木先生の話だけ、途中で入って来なくなる笑
私は今から32年前織田信長の幽霊に思い切り怒られた経験が有ります、バスのドライバーで岐阜城の麓に有る長良川温泉の有名な料理旅館十ハ楼にお客様を送客した時旅館が満室で旅館から5軒程離れた2階建の2階に泊まる事になりました、部屋には窓が有り岐阜城が見えていました、ベッドが足を岐阜城に向けて寝る形で何と無くマズイと思いましたが疲れて熟睡していた所夜中に雷が落ちた音がした後(ゴウラア俺の方へ足を向けて寝るじゃあねえやあ)と思い切り怒られてびっくりして寝ぼけながら起きて無意識に相手の顔を見て鉄だったのでロボットに怒られたと思って目が覚めて見たら面頬を着けた甲冑姿の武将(身長150前後位)が仁王立ちをして足元にいました甲冑の色は黒で新品みたいで漆が塗りたてでピカピカ光っていました初めて甲冑姿を見てじっくり眺めていた時足元方向の窓が見えて無いのに気付き武将の後ろに巨大な穴みたいなバックスクリーン(縦180センチ横200センチ)が有りその周りを青い半透明な帯が三本蠢いていたのを見たら恐ろしくなって布団に潜って3分位して顔を上げたら武将は居ませんでした、長い間誰だかわからないかったのですが去年の3月にUA-camで織田信長が柴田勝家に私を崇拝しなさい決して仇に思うな!寝る際は私の方へ足を向けて寝ない様に言ったと有りましてあの時の武将は織田信長だったと確信しました信長は家臣を怒る時良くコラアと怒っていたらしいです、そしてあの時私が居た場所は信長の屋敷から500メートルも離れていない場所でしたので私を家臣と間違えた可能性が有ります信長は何十万人も人を殺したので成仏出来ないであの辺りをさまよっているのかも知れません!
パフォーマンス
織田信秀は津島の国内貿易で豊かになったと聞いていますが
織田信長はただの軍事的な天才ってだけじゃね?
尾張の守護代は織田大和守家で、弾正忠家は大和守家の家臣なので斯波家が連れてきたのではないのでは?第一、応仁の乱の後にはすでに織田家の存在は尾張で確認できたはず
現代の弾正は、検察❤ 頑張って欲しい❣️日本🇯🇵の不正不公平の解明を。
確かに解説はザックリした方ですね .
松本城の写真出てきて嬉しいw
「荒振る神等をば、神問わしに問わし賜い、神掃いに掃い賜いて・・」というやつですね。
信長のうつけものエピソードって信長公記の首巻依拠なものだからちょっと怪しいわけですよ
サムネ織田信長さんに失礼ですよ
織田 信行ー1(真面目な対抗馬も中々やり手だったという点)(おだ のぶゆき[3])は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ[3])・達成(みちなり[4])・信成(のぶなり[4])である[5]。父は織田弾正忠家の織田信秀[5]、母は土田御前で[5]織田信長の同母弟である。信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した[6]。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い[7]、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった[8]。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが[9]、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された[5]。信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている[10]。また、白山を信仰していたとされ[11]、鷹狩の名手であったという[12]。名前陽明文庫本『信長公記』。この人物は、基本史料の一つである『信長公記』においては、一貫して「勘十郎」という通称で記されている[12]。勘十郎なる人物の実名は、江戸時代の『織田系図』[13]などの系図類では「信行」と記載され[12]、一般的にも「信行」として知られる[5]。しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない[8]。昭和44年(1969年)、新井喜久夫[注釈 2]は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎信勝」[注釈 3]として一次史料に残る人物が、天文23年(1554年)に「勘十郎達成」[注釈 4]として文書に見える人物と同一人物であると明らかにした[12]。さらに、達成について、弘治3年(1557年)に「武蔵守信成」[注釈 5]として文書を発給している人物とも同一人物であると比定した。そしてこの人物が後に「信行」と改名したと主張している[12]。「勘十郎」=「信勝」=「達成」=「信成」であることは、その後の研究者も踏襲している[5][8][16][17]。つまり、「勘十郎」について一次史料で確認できる実名は、「信勝」「達成」「信成」の3通りのみである[5]。なお、勘十郎が実名を「信勝」から「達成」に、その後に「信成」と変更した背景には、尾張守護代・織田大和守家の存在や稲生の戦いにおける敗北といった理由があったとされる[16]。(後述)このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。例えば、谷口克広の『織田信長家臣人名事典 第2版』は項目名に「織田信勝」を[5]、岡田正人の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」を[18]それぞれ採用している。このほか、池上裕子[17]や村岡幹生[19]も「信勝」という表記を使用している。なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている[9][11][20]。このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。生涯「織田信勝/信行」の登場父・信秀の居城であり、後に信行の居城ともなった末森城跡。現在は城山八幡宮となっている。織田信秀の三男または四男として生まれており[注釈 6]、織田信長はすぐ上の兄にあたる[5]。母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で[5]、信秀の嫡出子は2人だけだった[18][注釈 7]。生年は不詳[5][1]であるが、天文5年(1536年)であるともいう[1]。童名は伝わっていない[18]。父・信秀は、織田弾正忠家の当主であり、守護代の織田大和守家の家臣でありながら、戦国の混乱のさなか、尾張国内に勢力を急激に拡大した人物であった[22]。しかし、晩年は度々美濃・三河に侵攻するもいずれも敗退し、その支配は動揺していた[22]。この危機にあたって、天文18年(1549年)、信秀は、那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制が築かれた[23]。天文20年(1551年)前半頃になると、信秀は病床に伏したが[24]、替わって登場したのが信行であった。織田弾正忠家の領域支配を、信行は信長と共同で担うことになる[24]。同年9月20日、信行は、備後守信秀と三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮寺座主に対して自ら判物を発給し、その権益を保証した[8]。これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である[24]。笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件 天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押) 熱田座主御坊- 密蔵院文書[注釈 3]この文書において、信行の使用した花押は、信秀の花押と類似している[6]。信行は、病床の信秀とともに末森城に在城しており、信秀を後ろ盾として、尾張の統治権をある程度まで掌握していた[6]。また、同じ頃、信長が熱田加藤氏に対して権益保証を行う判物[注釈 8]を発給しているが、その際に「取次」を担当したのも、信行であった[8]。鳥居和之によれば、この時期の信行判物と信長判物は、いずれも信秀の右筆により書かれている[25][注釈 9]。信行と信長はいずれも信秀に従属する立場にあった[25]。そして、信秀の存命中、信行と信長はどちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限に大きな差異はなかったと考えられる[25]。父・信秀の死去天文21年時点の尾張の勢力図。天文21年(1552年)3月[注釈 10]、父・信秀が死去した[27]。信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」[注釈 11]と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった[10][27]。この逸話はおおよそ事実であったと考えられている[10]。村岡幹生は『信長公記』において両者が対等に記されている[注釈 12]ことに着目し、信行と信長はいずれも喪主の立場にあったのではないかと述べる[28]。そして、葬儀の場における信長の奇行は、弾正忠家の明確な後継者を定めることなく死去した信秀に対する不満の現れであると推測している[28]。ただし、谷口克広はこの推測を否定している[10]。信秀の死後に、当主の居城であった末森城を継承したのは、信行であった[8]。さらに、柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有していたようである[8]。弾正忠家の家督は信長が単独で継承したとされるが[27]、信秀所領の西部を信長が継承し、東部を信行が継承するという合意があったのではないかとする説もある[28][注釈 13][注釈 14]。この段階において、信長は弾正忠家の当主として確固たる地位を築いていたわけではなかった[8]。信行は、叔父の守山城主・織田信光らと並び、信長にとっての大きな脅威となっていたのである[8]。とはいえ、柴裕之によれば、翌年の天文22年(1553年)7月の段階では、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる[30]。信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対する織田大和守家と戦っていた[注釈 15]からである[30][注釈 16]。
そのうつけ時代の信長様に惚れた男も多数いたんですよね、前田利家とか
人間心理として、うつけ者と思っている奴にひどい事されたら、まっとうだと思っている奴に同じ事されるより腹が立つと思うな。信長の行動は父親との軋轢とかではなかったのかと思います。、
信長の政策と支配政策「織田政権」[注釈 4]も参照信長の政権構想信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた[225]。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる[225]。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる[225]。上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」[注釈 75]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[336]。従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され[337]、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている[338][339]。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり[340]、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である[153][341]。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した[153]。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている[153]。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる[153]。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである[153]。幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている[342][343]。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える[342][343]。しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる[344][注釈 76]。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった[341]。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった[345]。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた[345]。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという[345]。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった[346]。それに対して、義昭追放後に信長が右大将に任官し織田政権成立と天下人に公認され天下人意識の形成と上様への尊称変更とともに[347]、天下の概念が拡大・変容し、「自身と天下の一体化」を主張し、やがて神田千里の畿内布武の天下規定を地理的に超えて「列島日本」の意味となったという説もある[348][349]。このことにより、各地の国人領主にも「天下一統」へ信長に従うように柴田勝家などの方面軍司令官が要求しており、全国にわたる緩やかな大名統合を目指して統一戦争へと突き進んだとする[350]。後の豊臣政権の前段となる統一政権の原型となる政権構想を打ち出したとの説がある[351]。領域支配織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する[352]。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである[352]。九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった[180]。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている[180]。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている[180]。このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった[352]。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた[352]。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという[352]。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている[352]。こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した[352]。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している[352]。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる[352]。
洋の東西を問わず馬鹿な親分には馬鹿しか集まらない偉い親分には偉い人材が集まる。馬鹿な親分には犬みたいな人を集めて暫く繁栄してもたとえまともな箴言する人がいても馬鹿な親分は判断力がないからごますりに従って何れ潰れます。今も昔も人の世界は変わらないですね。
夜中に8でやっているタイムスリップものドラマで伊藤君が信長やっていますね。
異様な風体は当時他にも一杯いて、カブキ者とか言われてましたですねぇ。
多神教と一神教の更に上に君臨しようとした信長ー3奥村徳義案-1858年(安政5年)層塔式7重8階又は7階で初重平面は長方形である。壁は真壁で色彩は分からないが破風も千鳥破風と唐破風のみというシンプルな外観である。6・7重は八角堂に四方の望楼という姿である。土屋純一案-1930年(昭和5年)望楼式6重7階で初重平面は長方形である。壁は下見板張りで、3重目に吹き降ろした屋根に付属するように小柄の入母屋が付く。破風の位置は名古屋城天守や福山城天守に類似する。5・6重は八角堂に熊本城天守のような内高欄廻縁の四方の望楼が乗るような姿である。桜井成広案-1959年(昭和34年)望楼式6重7階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、3重に向唐破風の出窓4重目に大入母屋がある。5・6重は八角堂に宝形屋根の四方の望楼が乗った姿である。内藤昌案-1980年(昭和55年)望楼式5重7階地下1階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、複雑に入り組んだ屋根が特徴的。4・5重は赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。内部構造は「天守指図」に準拠した、四層吹抜けにしている。西ヶ谷恭弘案-1993年(平成5年)望楼式6重7階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、大入母屋を交互に重ねた形。5・6重は夢殿を模した八角堂に金閣を模した杮葺の切妻を載せたような入母屋屋根(しころ屋根)で全面金箔貼の四方平面の望楼が乗る姿である。宮上茂隆案-1994年(平成6年)望楼式5重6階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、3重目に大入母屋がある。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。佐藤大規案-2005年(平成17年)望楼式5重6階地下一階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで2重目・3重目を交互に大入母屋が乗る。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。支城安土城を守備するかのように琵琶湖周辺には重臣の居城が配置されている。また子や兄弟・甥、方面軍の大将格となる武将を分国に入れて(ただし、柴田勝家などには独断せず、信長の指示を仰ぐように命じている)支城を任せている。かつての拠点だった那古野城や小牧山城 は廃城にした。坂本城 - 明智光秀の居城。近畿・山陰方面軍(対本願寺など)としてほかに亀山城 。長浜城 - 羽柴秀吉の居城。中国方面軍(対毛利)としてほかに姫路城 。大溝城 - 安土城と上記二城で琵琶湖を跨ぎ四角形を形成する。城将は津田信澄。大坂の代官も兼ね、遊軍として各地に転戦。岐阜城 - 後継者とされる織田信忠の居城。甲信方面軍(対武田)として河尻秀隆が信忠を補佐。分国である尾張の清洲城には番将を置く。北ノ庄城 - 北陸方面軍(対上杉)で家臣筆頭格の柴田勝家の居城。「手取川の戦い」では北ノ庄まで後退した織田軍の最前線として防備。神戸城 - 織田信孝(神戸信孝)の居城。南海方面軍(対高野山および長曾我部)として丹羽長秀が信孝を補佐。松ヶ島城 - 織田信雄(北畠信意)の居城。東海方面軍(対今川および一向一揆)の役割を担う織田家の同盟者・家康とは別動軍として、一向宗徒[注釈 5]・伊賀・志摩などの鎮圧を担当。安濃津城 - 織田信包の居城。縄張りは関東方面軍(対北条)の滝川一益[12]。・逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎「破壊王」信長がニッポンを変えた!シリーズ220万部を突破した歴史ノンフィクションの第10巻。 本書では、織田信長に関する歴史学界の定説を覆します。 残虐で合理主義的な無神論者とされてきたが、実は政治方針を初めて世論に問うた、民主的で極めて寛容な政治家だったと論じ、新たなる「信長論」を構築します。 そして、「比叡山焼き討ち」「一向一揆大虐殺」は宗教弾圧ではない、安土城は政治理念を具現化した「神殿」だ、秀吉の「大阪城」「朝鮮出兵」は信長の構想、「生き神」となって天皇家を“消去”しようとした等、信長の虚像を論破し、日本史上最大の謎とされる本能寺の変の真相にも迫ります。 旧体制を徹底的に滅ぼし、新しい世界を生み出した「破壊王」信長は、構造改革の進まない日本のあるべき姿を照射し、日本人の生き方の指針となります。
良くも悪くも純粋なお坊ちゃん(うつけ)、尚且つ見た目がカッコ良くてヒーローっぽい。それが信長だったんじゃないかな?で、この坊ちゃんに目をつけたのが秀吉。秀吉からしたら、この坊ちゃんを見つけた瞬間「こいつを見つけた俺の勝ち。 俺は天下を獲れる。」って思ったんじゃない?後は本能寺が予定より少し早かった為「皇」になれず、「関白」止まりだった事が悔やまれるだけで、概ね目標は達成。みたいな。以上、個人的妄想史観でした。
織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは? 日本の歴史や日本のお城、神社、お寺、刀剣の雑学・コラム NHK大河ドラマ「麒麟がくる」特集 織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは?織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは?織田家にゆかりのある地域はいくつかあるんだけど、愛知県津島市もその1つ。津島は「信長公記」にも登場するよね。津島市には織田家の繁栄を支えた「津島湊(つしまみなと)」があったんだよ。 ここでは織田家のメインバンクとなった津島湊についてまとめてみよう。津島湊は、2007年(平成19年)に日本の歴史公園100選に選ばれた天王川公園のこと♪ 早速、詳しく見てみよ〜♪目次【津島湊ってなに?】【織田家のメインバンクであった商都・熱田】【先見の目があった織田信長の祖父・織田信定】【津島湊ってなに?】 愛知県津島市には、織田家の繁栄を支えた津島湊があった場所なんだ。津島湊は尾張と伊勢を結ぶ河川交通の要衝であり、当時、交易が盛んに行われた商業都市だったんだ。津島湊は、昭和初期の神戸・横浜に匹敵する大貿易港でもあり、日本の東西物産交流の接点でもあったよ。紙、木綿、海苔、塩、魚、鳥など様々な商品が売買されていて、伊勢の甲冑、弓矢などの武具職人の店もたくさんあったんだ。織田信秀の父・信定(信長の祖父)の時代に、物資が多く集まるこの土地を掌握したんだよ。津島の経済力を手にした織田家は、信秀の代に飛躍し、尾張統一に向けて躍進していくことになるんだ。津島湊があった跡地は、現在は天王川公園として整備されているよ。現在は、土砂の堆積によって天王川はなくなってしまい(江戸期に消滅したといわれているよ)、天王川公園に残る丸池だけが、当時をしのぶ貴重な遺構となっているんだ。江戸時代に川がなくなってしまったことによって、湊町としての機能を失ってしまった津島湊は、時代の流れとともに衰退していったんだよ。 また津島は津島神社の門前町としてもにぎわっていたといわれていて、織田家は津島神社を氏神として仰ぎ、造営にも協力していたそう。津島を掌握していた織田信長の父・信秀は大変な大金持ちで、信長はかなりのおぼっちゃまだったんだよ。一説には、信長が後年、安土城築城の際に、城を提灯でライトアップしたといわれているんだ。この提灯によるライトアップは、津島の天王祭をマネして行ったと言われているよ。織田家を語る上で、津島は切っても切り離せない土地といえるね。織田信長の津島の記憶が津島の天王祭を求めていたのかもですね!【織田家のメインバンクであった商都・熱田】 津島湊とともに、織田家の経済力を支えていたのが商都・熱田だったんだ。織田家のメインバンクともいわれた商都・熱田は、東海道と伊勢湾に面した交通の要衝で、熱田神宮の門前町として古くから商業が盛んな地域だったの。 熱田神宮は、かつて海に面して鎮座しており、三種の神器の1つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祭って、朝廷や武将から崇敬を集めていたよ。尾張の領主である織田氏にとって、膝元にある商業都市は重要な資金源であり、商都の存在は領国支配には欠かせないものだったんだ。熱田の豪商と津島の町衆の財力は、信秀が織田大和守家中で頭角をあらわしていく過程において、重要な財源として役割を果たしたよ。その結果、信秀の元へ大量のお金がなだれ込んできて、多数の兵士を養う軍資金となったんだ。三種の神器の1つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)は、とっても有名だよね!熱田神宮の初詣には毎年200万人以上が訪れるんだから凄いよね!【先見の目があった織田信長の祖父・織田信定】 信定が生きていた戦国時代の貿易湊というところは、経済力を背景に地元の人々によって自治が行われていたんだ。自由都市のような、言ってみれば独立国的な様相であったそう。津島も四家、七党、四性という町衆によって自治が行われていて、そこに軍事的に介入したのが信長の祖父・信定だったんだ。 信定は津島の貿易による経済力、津島牛頭天王社の持つ全国的なネットワークを手に入れようとする先見性があったんだよ。この先見性は、息子の信秀、さらには孫の信長にまで引き継がれていくことになるね。
小名木先生はタイムトラベラーなのかもしれない。
織田上総之介三郎平朝臣信長、お読みの通り織田信長公は平氏の流れを汲む家系で有ったと言われます。
織田の弾正忠家は自称では?しかも守護代では無い守護代は清須織田家(信友だか達勝だか…)父信秀は地位的には守護代の家臣ちゃんと勉強してください出鱈目はダメですよー
勇気付けられたけど、今は。。。
信長様はいわばシャアに近い人なんだろうな、いわば生粋のプリンス
俺もかっこよく!生きてえもんだなぁ。
信長の調停外交と政略外交天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった[353]。例えば、信長は天正7年に島津氏・大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している[353]。しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった[353]。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる[353]。通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる[354]。ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという[354]。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない[354]。実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる[354]。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった[355]。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている[355]。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている[355][353]。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという[355][353][356]。なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。中村栄孝は、信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[357]。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる[358]。本郷和人は、外交をし、交易を盛んにすることは、まさに信長の望みであり、「日本を統一した暁に、信長が海外に派兵した可能性は大いにある」「物流や交易を重視する信長ならば、おそらくは海外に進出しただろう」として、信長であれば、秀吉のように領土の獲得に固執するのではなく、ポルトガルのゴア、スペインのマニラのように「点」の獲得を目指し、しかるべき都市を入手してそこを城塞化し、貿易拠点を築くようなことをしたのではないかと指摘している[359]。結果、信長がもう少し生きていれば、日本にとって良い結果を生むか、悪い方に転ぶかは分からないが、日本はもっと早く国際化したのではないだろうか、と指摘している[359]。朝廷政策上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた[360]。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている[360]。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった[361]。信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある[362]。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた[363]。1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』[注釈 77]を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された[363]。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている[362]。平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである[364][362]。
他のかたも書いていますが信長の人間的考察は推測なのでいいとしても、ある程度共有されている事実はちゃんと伝えましょうこの動画をなにも知らない素人が見て真に受けると可哀想に思うゆっくり解説がまだましかな
前田慶次みたいな風貌だったのね( ・ω・)フムフム
父親を取り巻く保守的勢力による暗殺を防ぐためですよね。強力な独裁的な司令官になるためには、父親が集めていたような土豪たちの連合体では戦えないから。独裁的な司令官になるには、彼ら独立的な土豪たちをすべてすりつぶす必要があったから。
すり潰せましたか?
今川を討った時も 天候など運が良かったと言う人もいますが緻密な情報戦や戦略を駆使し結果を出している事からボンボンだから調子に乗っていたって訳では無く、それにはそれ相応の理由が有ったってのは私なりに凄い納得出来ました。
信長公記的には偶然説っぽさもあるのでして
運や偶然も、もちろんあったでしょうがそれだけだの調子に乗ったボンボンが天下人になれるとは世の中甘くない説
@@らむさ 無論信長は運だけじゃないんだけど要所要所の強運さはあるかなと
若い衆は、皆 『馬鹿者』出ないと、
実際問題現代に弾正が存在したら国会議院のほとんどがいなくなるな。まあ一向に構わんけど。
弾正の話が長いですね‥
成る程・・・
大石内蔵助良雄も織田信長を手本にしたんでしょうかね!?
信秀の織田家は織田の分家の分家ですよ❗小此木さんの講義間違いが多いですよ
反乱か…本家からしたら分家が何言ってんだ?って感じなのかな。
家老みたいなもんだよね
うつけは無能なやつが大嫌いだった説ー3武芸紺糸威胴丸前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[290]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた[290]。信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[291]。天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[292]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[293]。足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 70]。天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[296]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[297]。天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[298]。天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[299]。天正8年(1580年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[300]。このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[301]。趣味織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[302]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[303]。そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[304]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 58]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[305]。『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという[306][信頼性要検証]。ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[304]。また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[307]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[308][307]。相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[308]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[309]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[309]。幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[310]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[311]。風流の精神信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[312]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[312]。例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている[312]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[313]。信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[314]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[314]。異国への関心イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った[315]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[316]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[315]。信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[317]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[317]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[318]。宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという[318]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[319]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[320]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[318]。女性観・男色信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[321]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[322]。なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[323][324][注釈 71]。信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[326][327][注釈 72]。しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[327]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[327]。
平手 政秀ー傅父に切腹されて諫死されたらそりゃあ、アンタ、ちったあしっかりしようかなという気にもなりますよという説の根拠。(ひらて まさひで)は、戦国時代の武将。織田信秀、信長の2代に仕える。尾張国春日井郡にあった志賀城[注釈 1]の城主。生涯織田信秀の重臣として主に外交面で活躍。茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。また安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。享年62。菩提寺は政秀寺、墓碑は平和公園政秀寺墓地に移転[2]。首塚が名古屋市西区中小田井の東雲寺にある。自刃の理由『信長公記』の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている。不和の原因を作ったのは政秀の長男・五郎右衛門で、信長が五郎右衛門の持っている馬を所望したとき、五郎右衛門は「自分は馬を必要とする武士だから、(馬を献上するのは)お許しください」と言って拒否したのを信長が逆恨みしたのだとされる[3]。その他にも以下の説が唱えられている。信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため - 美談として有名。信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞・通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立。没後愛知県名古屋市千種区平和公園の墓所(政秀寺より移転)政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立[注釈 2]し、菩提を弔った。政秀には『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされるが、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされている。『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれている。系図の位置が不明な平手長政(孫右衛門)という人物を長男の五郎右衛門に当てはめる場合もあれば、五郎右衛門は養子として弟の政利のことであるともされる。娘(雲仙院)が信長の弟・織田長益(有楽斎)の正室となっている。登場する作品風雲児 織田信長(1959年)、演:月形龍之介国盗り物語-昭和48年(1973年)、演:田崎潤織田信長 (1989年のテレビドラマ)、演:若山富三郎信長 KING OF ZIPANGU - 平成4年(1992年) NHK大河ドラマ、演:二谷英明麒麟がくる - 令和2年(2020年)NHK大河ドラマ、演:上杉祥三[4]備考新田次郎の小説『梅雨将軍信長』に登場する政秀の弟、平手左京亮は架空の人物である。
賢いなあ
織田信長ってこのハゲチョンマゲの絵が一番有名なのに、何故かラノベ・コミック・ゲームのイラストはフサフサチョンマゲばかりなのが納得出来ない。
ただのゆとり世代だと思うけどなぁ。でも信秀にはそうした策略があったのかもだし、頭をよぎってそう
調理中のBGMでマ〇ゲンを思い出した。
信長が、うつけのふりをした演技をしていたとは思えないんだな。そんな器用な真似をするような男とは思わないよ。うつけも、狂気も全てが信長であったということだ。結び大学の先生とは、違う意見で申し訳ない。
まぁバカを演じてたってより、回りがバカに見えてやってられなかったんでしょうね
敵は 本能寺に 有り
まあ、想像で言うしかないでしょう。
合法的な永久不逮捕特権を持つ上級国民が存在していた世の中だったのか
織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。生涯家督相続永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。大永年間(1521〜8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る[5]。信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる[3]。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たち[注釈 3]と数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)[7][8]。天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。勢力拡大天文7年(1538年)頃、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区[注釈 4])を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した[9]。その後も勢力の拡大に伴って天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き、居城として2つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。信長の幼年時か、天文15年(1546年)の元服前に那古野城を譲っている[10]。そして天文17年(1548年)には末森城(名古屋市千種区)を築き、また居城を移した。当時の戦国大名は生涯あるいは代々、本拠地を動かさないことが多く、特異な戦略である[11]。経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。天文10年9月にはその礼として朝廷より三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す(『多聞院日記』)[12][注釈 5]。天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の土岐頼次が、斎藤道三によって尾張へ追放される。信秀は頼芸を支援して、越前国で同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置いていた朝倉孝景と連携し、美濃に出兵して斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った[13]。また『信長公記』によると、同年の第1次小豆坂の戦いでも今川義元を相手に勝利を収め、西三河の権益を保持したという[注釈 6]。こうして信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。天文13年(1544年)に道三の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。そして、天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、道三が大垣城の奪還のために攻めよせ、救援のため信秀が出陣し後ろ巻きするが、その留守中に、織田達勝の跡を継いだ織田信友が古渡城を攻めたことにより、帰って大和守家とも争うが、翌年には和解している[15]。大垣城はやがて道三側に取り戻された。天文16年(1547年)の9月に信秀が松平広忠の岡崎城を攻め落として広忠を降伏させた[16]。また、広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの時の出来事と考えられている[17]。また、これに対して、翌天文17年(1548年)には斎藤道三が松平広忠に働きかけて、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が挙兵(『武家聞伝記』)し、斎藤道三や今川義元が信秀に対抗するために積極的な工作をしていたと考えられている[17]。没年には、天文18年(1549年)説[23][注釈 8][注釈 9]や、天文20年(1551年)説[24][注釈 11]や、天文21年(1552年)3月9日説[25][注釈 12]がある[23]。人物智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作った[26]。何度かの苦戦や困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、天文13年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている[27]。父・信定の築いた勝幡城を継承し、近辺の港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これは信長に継承されている[28]。那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ若年の城主・今川氏豊に友好的に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略したと『名古屋合戦記』[29]に記され、そのまま史実ではなくても、那古野城が突然に信秀のものになったのは事実で、同様のことがあったと見られ、武将としての性格を示して有名である。前記したように同書には年数の合わない享禄5年(1532年)春のこととされている[30]。「大うつけ」と呼ばれ長老衆や周囲の悪評の高い信長に那古野城を譲り、その後も一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる[31]。居城を勝幡城・那古野城・古渡城・末森城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏・朝倉氏・後北条氏・毛利氏・上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた[11]。子福者であり、40代前半で死去するまでに正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけた[32]。籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった[33]。天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた[34]。現・京都市東山区の建仁寺の塔頭寺院で1536年の「天文法華の乱」で焼失した禅居庵摩利支天堂を天文16年(1547年)再建したと伝えられている[35]。
なっている、うけるわヾ(≧∀≦*)ノ〃
楚の荘王
歴史観からすると、かような解釈もあるでしょうが、私は別な視点こら。信長自身パーソナルが、発達障害であったのではないか?と。感情をコントロールでき、周囲に合わせる、事が出来ない脳みそであったのではないかと?!
尾張内でも内紛状態だったから、敵対しそうな者の炙り出しの為だと思うよ😅後に尾張統一してるし😊
女装趣味ていけない事なのか????あなたの偏見だろ今を生きる人間が不世出の天才 信長の心情を解ったような事判ることなんて無理と思うな一人で思っているのはいいけど、講釈たれるな
自民党も悪い物をを潰さねば!
割と本当にうつけものだったんじゃないかな。
私は小学生の頃以来秀吉が一番好きでしたが、歴史についての知識が増えるにしたがって信長が秀吉以上に好きになりました!そして、この弾正に関する知識を知って信長をより一層好きになりました。
今の日本政治は、本当のうつけしか議員になっていないんだなぁ。
うつけを装っている議員が必要だな。
今弾正台があったら、消されすぎて国会が荒れ野原になりそう
ありがとうございます。先生のおかげで信長の心を知ることができました。合点がいきました。宣教師が信長をほめていたことを思い出しました。ざっくり言って人間的にすごい人だと言っていたように記憶しています。
信長のエピソードで好きなのが、宣教師の奴隷から家臣に取り立てられた黒人青年の弥助についてです。この件について、当時の奴隷貿易について触れつつ、どこかで講義していただけたら嬉しいです。
奴隷から側近に取り立てられたのに、首を持ち去って、デスマスクを作り、それを売り物にした。織田重臣が探しても見つからなかったのはそういうことでしょう。恩を仇で返すとはこの事。
その最後の部分は隠しておいて、
もう16世紀には黒人のサムライがいたという
ドラマを彼を主役にしてつくったら
本当に世界中の黒人社会に受けて
日本のイメージさらに爆上がりだと
思うよ
@@sihandai666
デスマスクの話は初めて聞きました
出典はなんですか?
@@くまのプーさん-v6c あくまで伝承なので、民俗学的なものなのですが、詳しくはネットで調べてください。
@@sihandai666
弥助は信長の死を見届けてすぐ信忠の所に行ってますよね。
あなたの言うように恩を仇で返したなら信忠の所には行かず、南蛮寺に逃げ込んでると思うのですが如何てしょうか。
よく理解出来ました。
振り子で上手く切り抜けた信長を尊敬します。
面白い講義でした。
歴史の奥にある真理を垣間見たような感じです。今弾正がいればいいですね
大局の願いのために、若いころから欲(よく見られたいとか)をはき捨てて、フェイクイットして生きる生き様はすごくかっこいい!当時は評価されなかったんだろうと思っても後の人が光を当ててくれるのが歴史の学びですね!正誤を問うよりも良いものを見出して、光ある未来のために吸収していきたいですね!!
昨今益々磨きが掛かる小名木先生の熱い講談調での信長異譚おもしろかったです
ただ一辺倒に歴史を知るより、
人、背景、人間関係、環境などあらゆる角度から物事を見る癖が先人に学ぶ(真似る)なのかもしれません。
本日も勉強になりました。
自分なりの行動反映と結果計測に活かしたいと思います。
ありがとうございました🙇🏻♂️
学生の頃から、今でも信長公が一番好きです。本能寺の変だけがどうしても合点が行かない。
一度だけタイムマシンで過去に戻れるとしたら本能寺か池田屋事件です。😅
いつも詳しい解説、心から感謝申し上げます。🙇♂️
人間の歴史そのものが、人間の思想の変化であり、人間のレベルアップなのです。それは、少しずつ向上して行きます。
科学技術の発達は、人間のモラル(倫理観)の発達と、比例の関係性後ありますが、時にバランスが崩れどちらかが急に発展することもあります。何故人間のレベルの発展にバラツキがあるのは、技術の発展を利用して悪用する人間が居るからです。悪用することによって、発展するベクトルは停滞したり下降することもあります。そういった上がり下がりを繰り返しながら、少しづつでしかレベルアップしないのです。
時代の思想によって、科学技術が認められなかったり、多岐にわたる障壁を超越した時、初めて立証されます。
信長の直感力と洞察力、判断力は何百年経た現代でも通用する総合的な能力が備わっていたと思われます。
民衆(現代人でも)は、目で見える"見た目"でしか評価をしません。
その時、その時代の本質を観れる指導者が今の日本には必要です。
圧倒されました!共感と拍手👏!
世直しにいい薬なメッセージと伝わってきました❗
ありがとうございます😊
無知もいいところだな。史学に真剣に立ち向かえば~
勿論先生のお説はそのとおりです❗全く惜しいのは織田の弾正の意味をキチンと伝えるべきですねありがとうございます⁉️
僕は、うつけ時代が大好きです。先生、もう桑名市、長島スパーランドのあたりも信長公は支配していて、貿易もしていて、うつけの時代に、もう鉄砲500丁所持していたと言われますが、またよろしかったらそのあたりの解析動画もお願いします🙇♀️
合理的な御解説で納得性があり興味深く拝聴させていただきました。ありがとうございました。
信長公の奇行には色々説がありますが、私が以前何かの本で読んだのは信長さんは京から呼んだ貴族に歌や蹴鞠を教わるのを断っただけだと書いてありました。理由は、戦国時代では歌や蹴鞠が上手くても戦には勝てないからです。それだけなのに、この話が尾張国外に伝わった時に尾ひれがついてしまって「うつけ者」にまでなってしまったと。もちろん、小名木先生の話も頷けます。実際がどうなのかはわかりませんから、想像するしかない。それも楽しいですね。
うつけの格好しても尾張国内の地理を調べたり信頼できる仲間を集めたりしてました。代替わりして短期間で尾張をまとめ上げたのはうつけ時代にしっかり下準備してたからですね。
👏👏👏👏👏👏ありがとうございました😊
信長さま、何となく好きなんですよね~
現代日本に【弾正】が欲しいですね、同感です。
実在した上級国民への緩い対応、シロアリ官僚の天下りなど、日本は鎖放題。
ありがとうございます!
いつも素晴らしい歴史の真実の解説をありがとうございます。
ひとつ疑問です・・・。
織田信長がそういう深慮のできる人物だったのであれば、どうして明智光秀に撃たれたんでしょう?
それが何故かどうしても知りたいです。非常に不思議・・・。合点がいかない・・・。
軍事的空白地帯の京に信長、信忠父子がいたからとしか
@@matukawatositane そういうことですか・・・。背景を良く調べずコメントしたのはまずかったかな。
明智光秀は藤原氏が送りこんだスパイです
実際に信長に会っていないので、実のところはわかりませんが、若き頃は本当に不良だったのでは?と私は思っています。
日本人には若き頃は不良であっても年齢を重ねるごとに真面目になっていく人も多く居るような気がします。
私が織田信長のことで1番気にるのは、信長はキリスト教を許していて、何百年も過ぎた今でも英雄として取り上げられていますが、後を継いだ秀吉はキリスト教を却下し、今では悪いイメージばかり植え付けられるように先導されているように見えます。
今の学校で学ぶ歴史の教科書にもこの影響が色濃く出てしまっているように思います。
正直なところ豊臣秀吉が天下統一をしたことが日本の為に本当に良かったことだと思っています。
宗教問題があるのでこれ以上は言いません!
太閤さん
信長もキリスト教は切り捨てざるを得なかったかなと
信秀の見方が変わってとてもすばらしかったです
信長の奇行は自分の頭で考えて行動する稀な人物像からだと思います。誰彼構わず疑問をぶつけて普通に会話していたそうですし、それらの応えが『皆がやっているから』とか『昔からそうしてきたから』という流しに反発し自ら価値ある行動や身なりにこだわっていたのは、大人になってからも一ミリも丸くなっていないようにも思えます。
また、信長の特異な点として、疑問質問に対して解らないとか間違える相手には驚くほど寛容ですが、バカにしたり考える事を拒否する相手には瞬間沸騰器のようにブチ切れるというのがあるように思うのですが、これも幼少時にバカにされてきた弊害でしょうか。
「大学」という名乗りをやめるべき事案。
織田家を弾正忠家だけで語る点、勢力が落ち目の信秀の息子にうつけを演じる余裕はない点等々。
大学ではなく歴史講談家としては如何でしょうか?
織田 信行ー2(真面目な対抗馬の弟も中々やり手だったという点かつ、許してやったのに再度反抗するもんだから、厳格な支配者になっていった理由の一環)
弾正忠家の当主を名乗る
しかし、天文22年(1553年)10月、信行は信長の関与なしで独自に判物[注釈 17]を発給した[32]。信行が港町・熱田の豪商である加藤家のうち東加藤家にたびたび判物を発給した[5][15]一方で、信長も同じく西加藤家に判物を発給していることから、商業地である熱田の権益を巡って両者が争っていたことが伺える[15]。
天文23年(1554年)4月頃、守護代・織田大和守家は、信長と叔父の織田信光の共同作戦によって滅ぼされた[33]。信光も同年11月に暗殺されて[33]、弾正忠家内部の争いから脱落した。
この頃、信行(信勝)は達成と改名した[32]。改名の時期は、残された文書から、天文22年(1553年)10月から天文23年(1554年)11月22日のあいだのいずれかの時点だと推定される[32]。この名のうち「達」の字は守護代の織田大和守家の当主の名[注釈 18]との関連性が指摘され[注釈 19]、信行もそのことを意識して改名したと思われる[32][11][34][注釈 20]。これについて、信行が、滅亡した守護代家の役割の代行を表明したという見方もある[11]。
同じ頃、信行は官途名として「弾正忠」[注釈 21][注釈 22]を名乗った[32][11]。これにより信行は自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったと考えられる[32][11]。対して、信長は尾張守護の子である斯波義銀を擁立した[11]。こうして信行と信長は対決の道を進んだ[11]。
守山城をめぐる争い
弘治元年(1555年)6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された[36]。それを聞いた信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わせた[37]。これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って[注釈 23][38]、信次を処罰しようともしなかった[5]。この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる[5][38]。
信次は逐電したため、守山城主の地位には、信行の兄弟[注釈 6]である織田安房守(信時ないし秀俊)がついた[39]。安房守は信長方の人物だったと考えられる[37][36]。ところが、時をおかずに、翌年の弘治2年6月頃、安房守は横死してしまった[40]。安房守を死に追いやったのは守山城年寄衆・角田新五であった[39]。しかし角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守謀殺に信行が関与していた可能性が指摘される[39][36]。
前々年の叔父・信光の殺害に続き、安房守も死去したことで、織田弾正忠家内の覇権争いに生き残ったのは、信行と信長の2人となった[39]。
稲生の戦い
「長良川の戦い」および「稲生の戦い」も参照
弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった美濃国の戦国大名・斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去した[41]。
義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き[41]、信長は苦境に立たされた。同じ頃、未遂に終わったものの、信行派の林美作守らが信長を殺害しようとした事件もあった[42]。
同年8月、信行は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした[41]。信行らは、信長の直轄領である篠木三郷を押領しようとした[41]。この動きに対し、信長は名塚砦を築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った[41]。 信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った[41]。8月24日、両者は稲生で激突する[41]。結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した[41][注釈 24]。
敗れた信行は末森城に籠城する[41]。信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された[41]。
最期
龍泉寺から、篠木三郷のあった春日井市を望む。
稲生の戦いにおける敗北を境に、信行が「弾正忠」を名乗ることはなくなった[44]。信行は勢威を大きく後退させ[45]、「武蔵守信成」と改名している[44]。しかし、信行はその後も信長に対する敵意を持ち続けた[44]。翌年の弘治3年(1557年)4月、美濃国の斎藤高政(義龍)は、信行に書状[注釈 25]を送っているが、この書状は信行に対して再度の決起を促す意図の文書だった可能性があるという[46]。また、独自の判物発給[注釈 5]も継続して行っていた[46]。
永禄元年(1558年)3月、信行は龍泉寺城の築城[注釈 22]を始めた[41]。これは駿河の戦国大名・今川氏に対する防御のためだったとも、信長に対して備えるためだったとも考えられる[46]。いずれにせよ、信長にとって、信行が敵対勢力と提携する危険は無視できないものだった[46]。
同年中[注釈 1]、『信長公記』[注釈 26]によれば、信行は、岩倉城の織田信安に通じるなどして謀反を企てた[41]。信行は再び篠木三郷を押領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に密告した[41]。『信長公記』[注釈 26]によれば、信行は若衆の津々木蔵人を重用し、勝家を蔑ろにしていたのである[52]。
信長が仮病を装うと[41]、信行は11月2日に清洲城へ見舞いに行き、そのまま誘殺されてしまった[41][注釈 27]。
信行という脅威を除いた信長の勢力は飛躍的に拡大し[46]、信行殺害からわずか数か月後、信長は守護代家の岩倉織田家打倒に成功した[46]。すでに守護家の斯波義銀も追放されていたため、尾張の守護・守護代体制は完全に解体され、信長が同国の大半を支配することとなった[46]。
信行の子の坊丸(後の津田信澄)は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍した[53]が、本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれた[53]。ただし信澄の子の織田昌澄は生き延び、最終的に江戸幕府の旗本となった。
人物
信行がどのような人物であったかを伝える史料は乏しい[注釈 28]。信行は美濃国の白山社に仏像光背を寄進しており、その銘の写し[注釈 29]が残っている[11]。このことから、父・信秀が深く帰依していた白山信仰を、信行もまた受け継いでいたとされる[11][注釈 30]。
新井喜久夫は、信行の人物像を示す逸話として、政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が天文24年に残した言葉[注釈 21]を紹介している[12]。沢彦宗恩の言によれば、信行は百舌鳥を飼いならしており、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだ[12]。獲物を逃してしまうことは決してなく、非常に高い腕前を誇っていたという[12]。
面白いです。
さすが先生、うつけを装うに当たって信長はイクサをその頃から敵に油断させる為にウツケを演じたと思います。あの人ほど先見の明があった武将もいないですよね!現に信長を侮った今川もやられてしまった。(諸説あり)
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます...
私もうつけものだと自負しております。 ありがとうございます...
忌みます
群雄割拠の戦国時代を生き抜く方策としての行いと言う事が後の行動から分かる。
うつけでは無い。今川氏に敗れていたらただのうつけで終わっていたのだろう。
天下布武。
もう少しの所だってのに無念であったろう。
今、弾正がいたら、日本の政治家や官僚で生きてる人数えるほどしか居ないかも?
4:37なるほど、むかし刑部省の他に弾正台があったみたいに今の世の中には警察とは別の組織として「上級国民取り締まり処」を作るといいですね
その通りです😄
素晴らしい解釈ありがとうございました‼️
人の行動には理由があるものですね。
真の意図は隠して、それを演じる、戦略ってこともあるでしょう。
心が優しく正しい人間こそ、そういう演じ方もあったのかもしれないなあと思いました。🤗❤️
自分が身内に反乱分子がいる長だったら、、、と。その子どもだったら、、、と思いを馳せてみると、見え方は違うだろうし、子どもの頃は無意識で不良をやっていたということもあると思います。
というかそこまで考えていたとしたら、天才‼️ですよ。
天下統一の形をつくったという偉業を考えても、自分が鬼になる選択をするという演技も考えられます。
それはそれでカッコいいですね〜👍
現代に生きる私達が後からあーだこーだいうのはいくらでもできますが、
事実がある限り、小名木先生の解釈は心の奥深くまで想像してみると納得します!🤗
ましてや、
本当に大うつけだったら、部下だって誰もついて来ないだろうし、天下統一などということもできないのではないかしら。🤔
ガチャガチャして歩く。。クルマのキーや携帯をガチャガチャ音をたてて歩く名古屋人に気質がひきつがれてますね。きっと。。
もし信秀の時代に織田家の腐敗が事実なら、そんな家を継ぎたくないと、子供信長が考えて不良になったとも考えられますが、如何でしょうか?
今回の先生の説はおかしいと思います。
信長はうつけのふりをしていたのではなく、
当時、若者たち流行りの傾奇者であるでけです。
現代で言うと中小企業の社長の息子がヤンキー兄ちゃん
であるような事であるように思います。
実際ヤンキー時代の側近で三河に行かず残ってんの何人?ってくらいですし
父親が、私にバカになれと言ってました。その頃は分かりません、後に出来が悪い成果社会に出てバカにされる毎日 待てよ親父が言った馬鹿なれ?バカにされてる でもバカは一緒だと想いバカの徳な所 を探しました気が付いたのが人の本性をが視える事、悲しい哉!見下したり
ぺこぺこしたり良く見えます。バカを知り役に立ちました。
うーん 残念だけど全然違うね。 純粋に当時は傾くことが若者の間で大流行してて信長や利家や成正たちは異形をすることに熱狂しただけだよ。それをすると周りの若者に尊敬されるし女にもモテた。それ以上の理由など無い。
警戒されないために
『歴名土代』に「織田弾正忠、平信長」と記載があり、朝廷に公認された官職である。
弾正台
(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。
「弾正」を称した戦国大名では、当主が代々「弾正忠(だんじょうのちゅう / だんじょうのじょう)」を自称した家系である「織田弾正忠家」出身の織田信長の場合、『歴名土代』に「織田弾正忠、平信長」と記載があり、朝廷に公認された官職である。
戦国大名・武将
松永久秀も永禄3年(1560年)弾正少弼に任命されていることが歴名土代で確認できる。上杉謙信は天文21年(1552年)に弾正少弼に叙任とされ[2]、後に養子の景勝に弾正少弼の官職を譲った。景勝の子定勝は弾正大弼に叙任され、以後、江戸時代の米沢上杉家当主は代々、弾正大弼に叙任され名乗った。ここから米沢上杉家を「上杉弾正大弼家」と呼ぶことがある。
ほかに弾正忠を自称したものでは、甲斐武田氏家臣の三弾正こと高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正) などが特に知られている。
律令制下の八省の一つ。 ⇒ 弾正台(律令制)
明治時代の太政官制における省庁の一つ。 ⇒ 弾正台(明治時代)
この項目では官庁としての弾正台のほか、官名・称号としての「弾正」についても記述する。
弾正台(律令制)
古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構である。唐名は、御史台(ぎょしだい)、憲台(けんだい)、霜台(そうたい)、粛正台(しゅくせいだい)、正台(せいだい)など。
概要・沿革
弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであり、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。官舎は皇嘉門付近にあった[1]。行政官・立法官である太政官の影響を受けないよう独立した監察機関として設置されたが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少なく、裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。嵯峨天皇時代に令外官として検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。
長官・吏員
長官は弾正尹(だんじょうのいん/だんじょうのかみ)で従三位相当官。機能を喪失するとともに親王が任ぜられることが多く弾正尹宮などと呼ばれた。また大納言が兼帯することもあり、尹大納言などと言われた例がある。なお、単に弾正と称した場合には弾正台の職員を指す。
四等官として、
尹(いん / かみ 唐名:御史大夫、御史尚書) - 1人
弼(ひつ / すけ 唐名:御史中丞)
大弼(だいひつ / だいすけ) - 1人
少弼(しょうひつ / しょうすけ) - 1人
忠(ちゅう / じょう 唐名:侍御史)
大忠(だいちゅう / だいじょう) - 1人
少忠(しょうちゅう / しょうじょう) - 2人
疏(そ / さかん 唐名:御史録事、御史主簿)
大疏(だいそ / だいさかん) - 1人
少疏(しょうそ / しょうさかん) - 2人
がある[1]。その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた[1]。
弾正尹の辞令(宣旨)の例
「薩戒記」
從二位行權大納言藤原朝臣定親
正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保宣
奉 勅件人宜令兼任彈正尹者
嘉吉三年六月十五日 大外記中原朝臣師郷奉
(訓読文)従二位行権大納言藤原朝臣定親(中山定親 43歳)
正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保(三條西公保 46歳)宣(の)る
勅(みことのり 後花園天皇 25歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく弾正尹を兼任せしむべし者(てへり)
嘉吉3年(1443年)6月15日 大外記中原朝臣師郷(押小路師郷 57歳 正四位下)奉(うけたまは)る
任官・自称した人物
前近代の日本で「弾正(尹・大小弼・大小忠)を名乗る人物には、朝廷から弾正台の四等官として正式に任命された公認の称号もあれば、そうでない非公式な自称もある。
公家・皇族
為尊親王は弾正宮と呼ばれ、源仲国は弾正少弼であった[1]。また、幕末に朝廷の中心人物の一人であった中川宮朝彦親王は、二品弾正尹に任ぜられ尹宮(いんのみや)と称された。
弾正台(明治時代)
近代官庁としての弾正台は、明治2年5月22日(1869年7月1日)、太政官制に基づき、刑法官監察司の職務を引き継いで設置された明治新政府の省庁である。明治4年8月24日(1871年7月9日)、司法省新設により廃止された。
設置
弾正台はそれまでの刑法官監察司に代わる監察機関として設置され、明治2年7月8日東京の本台のほかに留守官として京都に支台がおかれた。長官である弾正尹には九条道孝、次官である弾正大弼には池田茂政が任じられた[3]。
職員の階級として尹、弼各1名の下に、大忠、少忠、大疏、少疏が各2名、巡察が10名のほか、史生が置かれた[4]。同年7月官制で、弼は大弼に少弼が加わり、大忠、少忠は、大・少・正・権各1名となり、大忠は勅任官、権大忠以下は奏任官、大疏、少疏は判任官となった[5][6][7]。実務上の最高責任者だった弾正大忠の経験者には、吉井友実、門脇重綾、安岡良亮、河田景与、海江田信義、渡邊昇らがいる。
新政府内「尊攘派」の拠点
この省庁の設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さく、主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の幹部の非違を糾すという名目で彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げる程度で満足しなければならなかった[8]。
明治4年5月13日(1871年6月30日)には神戸でキリスト教の禁教を犯した罪で市川栄之助が逮捕される事件が起こった。弾正台に送られた市川は、拷問によってキリスト教信者であるか否かの取り調べを受けたのち、弾正台廃止後の明治5年11月25日(1872年12月24日)に獄内で秘密裏に処刑されたが、公式発表は牢死とされた。
粟田口止刑事件
設置前後に起こった横井小楠および大村益次郎の襲撃・暗殺事件においては、これを取り締まるべき弾正台の海江田信義(弾正大忠)・古賀十郎(大巡察)ら自身が横井・大村の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至った。特に京都支台の海江田が中心となって明治2年12月21日(1870年1月21日)、大村襲撃犯の処刑執行を直前で差し止めた「粟田口止刑事件」は東京の新政府内部で問題化した[9]。明治3年4月(1870年5月)、特に過激であった古賀ら大巡察9名が人員削減を名目に免官となり[10]、これを機に政府による尊攘派切り捨てが本格化し、弾正台自体も刑部省への統合が決定された。
廃止
以上の結果弾正台は、明治4年8月24日(1871年7月9日)、刑部省との統合による司法省の新設にともなって廃止された。
その他の「弾正」
佐渡に「弾正」姓を名乗る人々がいる。
また、熊本県上益城郡山都町にあった阿蘇氏の居館=浜の館・館跡には、「弾正杉」と呼ばれる杉の大木が19世紀後半頃まであった。現在は「弾正さん」とよばれる百日紅の古木がある。弾正杉の西には阿蘇家の息女ないし侍女の墓と石祠・女性像があり、母乳の出る効能があるとして信仰されている。
小名木先生の話だけ、途中で入って来なくなる笑
私は今から32年前織田信長の幽霊に思い切り怒られた経験が有ります、バスのドライバーで岐阜城の麓に有る長良川温泉の有名な料理旅館十ハ楼にお客様を送客した時旅館が満室で旅館から5軒程離れた2階建の2階に泊まる事になりました、部屋には窓が有り岐阜城が見えていました、ベッドが足を岐阜城に向けて寝る形で何と無くマズイと思いましたが疲れて熟睡していた所夜中に雷が落ちた音がした後(ゴウラア俺の方へ足を向けて寝るじゃあねえやあ)と思い切り怒られてびっくりして寝ぼけながら起きて無意識に相手の顔を見て鉄だったのでロボットに怒られたと思って目が覚めて見たら面頬を着けた甲冑姿の武将(身長150前後位)が仁王立ちをして足元にいました甲冑の色は黒で新品みたいで漆が塗りたてでピカピカ光っていました初めて甲冑姿を見てじっくり眺めていた時足元方向の窓が見えて無いのに気付き武将の後ろに巨大な穴みたいなバックスクリーン(縦180センチ横200センチ)が有りその周りを青い半透明な帯が三本蠢いていたのを見たら恐ろしくなって布団に潜って3分位して顔を上げたら武将は居ませんでした、長い間誰だかわからないかったのですが去年の3月にUA-camで織田信長が柴田勝家に私を崇拝しなさい決して仇に思うな!寝る際は私の方へ足を向けて寝ない様に言ったと有りましてあの時の武将は織田信長だったと確信しました信長は家臣を怒る時良くコラアと怒っていたらしいです、そしてあの時私が居た場所は信長の屋敷から500メートルも離れていない場所でしたので私を家臣と間違えた可能性が有ります信長は何十万人も人を殺したので成仏出来ないであの辺りをさまよっているのかも知れません!
パフォーマンス
織田信秀は津島の国内貿易で豊かになったと聞いていますが
織田信長はただの軍事的な天才ってだけじゃね?
尾張の守護代は織田大和守家で、弾正忠家は大和守家の家臣なので斯波家が連れてきたのではないのでは?
第一、応仁の乱の後にはすでに織田家の存在は尾張で確認できたはず
現代の弾正は、検察❤ 頑張って欲しい❣️日本🇯🇵の不正不公平の解明を。
確かに解説はザックリした方ですね .
松本城の写真出てきて嬉しいw
「荒振る神等をば、神問わしに問わし賜い、神掃いに掃い賜いて・・」というやつですね。
信長のうつけものエピソードって信長公記の首巻依拠なものだからちょっと怪しいわけですよ
サムネ織田信長さんに失礼ですよ
織田 信行ー1(真面目な対抗馬も中々やり手だったという点)
(おだ のぶゆき[3])は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ[3])・達成(みちなり[4])・信成(のぶなり[4])である[5]。父は織田弾正忠家の織田信秀[5]、母は土田御前で[5]織田信長の同母弟である。
信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した[6]。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い[7]、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった[8]。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが[9]、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された[5]。
信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている[10]。また、白山を信仰していたとされ[11]、鷹狩の名手であったという[12]。
名前
陽明文庫本『信長公記』。
この人物は、基本史料の一つである『信長公記』においては、一貫して「勘十郎」という通称で記されている[12]。勘十郎なる人物の実名は、江戸時代の『織田系図』[13]などの系図類では「信行」と記載され[12]、一般的にも「信行」として知られる[5]。しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない[8]。
昭和44年(1969年)、新井喜久夫[注釈 2]は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎信勝」[注釈 3]として一次史料に残る人物が、天文23年(1554年)に「勘十郎達成」[注釈 4]として文書に見える人物と同一人物であると明らかにした[12]。さらに、達成について、弘治3年(1557年)に「武蔵守信成」[注釈 5]として文書を発給している人物とも同一人物であると比定した。そしてこの人物が後に「信行」と改名したと主張している[12]。「勘十郎」=「信勝」=「達成」=「信成」であることは、その後の研究者も踏襲している[5][8][16][17]。
つまり、「勘十郎」について一次史料で確認できる実名は、「信勝」「達成」「信成」の3通りのみである[5]。なお、勘十郎が実名を「信勝」から「達成」に、その後に「信成」と変更した背景には、尾張守護代・織田大和守家の存在や稲生の戦いにおける敗北といった理由があったとされる[16]。(後述)
このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。例えば、谷口克広の『織田信長家臣人名事典 第2版』は項目名に「織田信勝」を[5]、岡田正人の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」を[18]それぞれ採用している。このほか、池上裕子[17]や村岡幹生[19]も「信勝」という表記を使用している。
なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている[9][11][20]。
このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。
生涯
「織田信勝/信行」の登場
父・信秀の居城であり、後に信行の居城ともなった末森城跡。現在は城山八幡宮となっている。
織田信秀の三男または四男として生まれており[注釈 6]、織田信長はすぐ上の兄にあたる[5]。母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で[5]、信秀の嫡出子は2人だけだった[18][注釈 7]。生年は不詳[5][1]であるが、天文5年(1536年)であるともいう[1]。童名は伝わっていない[18]。
父・信秀は、織田弾正忠家の当主であり、守護代の織田大和守家の家臣でありながら、戦国の混乱のさなか、尾張国内に勢力を急激に拡大した人物であった[22]。しかし、晩年は度々美濃・三河に侵攻するもいずれも敗退し、その支配は動揺していた[22]。この危機にあたって、天文18年(1549年)、信秀は、那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制が築かれた[23]。
天文20年(1551年)前半頃になると、信秀は病床に伏したが[24]、替わって登場したのが信行であった。織田弾正忠家の領域支配を、信行は信長と共同で担うことになる[24]。
同年9月20日、信行は、備後守信秀と三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮寺座主に対して自ら判物を発給し、その権益を保証した[8]。これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である[24]。
笠覆寺領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件
天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押)
熱田座主御坊
- 密蔵院文書[注釈 3]
この文書において、信行の使用した花押は、信秀の花押と類似している[6]。信行は、病床の信秀とともに末森城に在城しており、信秀を後ろ盾として、尾張の統治権をある程度まで掌握していた[6]。
また、同じ頃、信長が熱田加藤氏に対して権益保証を行う判物[注釈 8]を発給しているが、その際に「取次」を担当したのも、信行であった[8]。
鳥居和之によれば、この時期の信行判物と信長判物は、いずれも信秀の右筆により書かれている[25][注釈 9]。信行と信長はいずれも信秀に従属する立場にあった[25]。そして、信秀の存命中、信行と信長はどちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限に大きな差異はなかったと考えられる[25]。
父・信秀の死去
天文21年時点の尾張の勢力図。
天文21年(1552年)3月[注釈 10]、父・信秀が死去した[27]。
信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」[注釈 11]と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった[10][27]。この逸話はおおよそ事実であったと考えられている[10]。
村岡幹生は『信長公記』において両者が対等に記されている[注釈 12]ことに着目し、信行と信長はいずれも喪主の立場にあったのではないかと述べる[28]。そして、葬儀の場における信長の奇行は、弾正忠家の明確な後継者を定めることなく死去した信秀に対する不満の現れであると推測している[28]。ただし、谷口克広はこの推測を否定している[10]。
信秀の死後に、当主の居城であった末森城を継承したのは、信行であった[8]。さらに、柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有していたようである[8]。弾正忠家の家督は信長が単独で継承したとされるが[27]、信秀所領の西部を信長が継承し、東部を信行が継承するという合意があったのではないかとする説もある[28][注釈 13][注釈 14]。
この段階において、信長は弾正忠家の当主として確固たる地位を築いていたわけではなかった[8]。信行は、叔父の守山城主・織田信光らと並び、信長にとっての大きな脅威となっていたのである[8]。
とはいえ、柴裕之によれば、翌年の天文22年(1553年)7月の段階では、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる[30]。信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対する織田大和守家と戦っていた[注釈 15]からである[30][注釈 16]。
そのうつけ時代の信長様に惚れた男も多数いたんですよね、前田利家とか
人間心理として、うつけ者と思っている奴にひどい事されたら、まっとうだと思っている奴に同じ事されるより腹が立つと思うな。信長の行動は父親との軋轢とかではなかったのかと思います。
、
信長の政策と支配
政策
「織田政権」[注釈 4]も参照
信長の政権構想
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた[225]。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる[225]。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる[225]。
上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」[注釈 75]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[336]。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され[337]、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている[338][339]。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり[340]、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である[153][341]。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した[153]。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている[153]。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる[153]。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである[153]。
幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている[342][343]。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える[342][343]。
しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる[344][注釈 76]。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった[341]。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった[345]。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた[345]。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという[345]。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった[346]。
それに対して、義昭追放後に信長が右大将に任官し織田政権成立と天下人に公認され天下人意識の形成と上様への尊称変更とともに[347]、天下の概念が拡大・変容し、「自身と天下の一体化」を主張し、やがて神田千里の畿内布武の天下規定を地理的に超えて「列島日本」の意味となったという説もある[348][349]。このことにより、各地の国人領主にも「天下一統」へ信長に従うように柴田勝家などの方面軍司令官が要求しており、全国にわたる緩やかな大名統合を目指して統一戦争へと突き進んだとする[350]。後の豊臣政権の前段となる統一政権の原型となる政権構想を打ち出したとの説がある[351]。
領域支配
織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する[352]。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである[352]。
九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった[180]。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている[180]。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている[180]。
このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった[352]。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。
通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた[352]。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという[352]。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている[352]。
こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した[352]。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している[352]。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる[352]。
洋の東西を問わず馬鹿な親分には馬鹿しか集まらない偉い親分には偉い人材が集まる。馬鹿な親分には犬みたいな人を集めて暫く繁栄してもたとえまともな箴言する人がいても馬鹿な親分は判断力がないからごますりに従って何れ潰れます。今も昔も人の世界は変わらないですね。
夜中に8でやっているタイムスリップものドラマで伊藤君が信長やっていますね。
異様な風体は当時他にも一杯いて、カブキ者とか言われてましたですねぇ。
多神教と一神教の更に上に君臨しようとした信長ー3
奥村徳義案-1858年(安政5年)
層塔式7重8階又は7階で初重平面は長方形である。壁は真壁で色彩は分からないが破風も千鳥破風と唐破風のみというシンプルな外観である。6・7重は八角堂に四方の望楼という姿である。
土屋純一案-1930年(昭和5年)
望楼式6重7階で初重平面は長方形である。壁は下見板張りで、3重目に吹き降ろした屋根に付属するように小柄の入母屋が付く。破風の位置は名古屋城天守や福山城天守に類似する。5・6重は八角堂に熊本城天守のような内高欄廻縁の四方の望楼が乗るような姿である。
桜井成広案-1959年(昭和34年)
望楼式6重7階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、3重に向唐破風の出窓4重目に大入母屋がある。5・6重は八角堂に宝形屋根の四方の望楼が乗った姿である。
内藤昌案-1980年(昭和55年)
望楼式5重7階地下1階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、複雑に入り組んだ屋根が特徴的。4・5重は赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。内部構造は「天守指図」に準拠した、四層吹抜けにしている。
西ヶ谷恭弘案-1993年(平成5年)
望楼式6重7階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、大入母屋を交互に重ねた形。5・6重は夢殿を模した八角堂に金閣を模した杮葺の切妻を載せたような入母屋屋根(しころ屋根)で全面金箔貼の四方平面の望楼が乗る姿である。
宮上茂隆案-1994年(平成6年)
望楼式5重6階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、3重目に大入母屋がある。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。
佐藤大規案-2005年(平成17年)
望楼式5重6階地下一階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで2重目・3重目を交互に大入母屋が乗る。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。
支城
安土城を守備するかのように琵琶湖周辺には重臣の居城が配置されている。また子や兄弟・甥、方面軍の大将格となる武将を分国に入れて(ただし、柴田勝家などには独断せず、信長の指示を仰ぐように命じている)支城を任せている。かつての拠点だった那古野城や小牧山城 は廃城にした。
坂本城 - 明智光秀の居城。近畿・山陰方面軍(対本願寺など)としてほかに亀山城 。
長浜城 - 羽柴秀吉の居城。中国方面軍(対毛利)としてほかに姫路城 。
大溝城 - 安土城と上記二城で琵琶湖を跨ぎ四角形を形成する。城将は津田信澄。大坂の代官も兼ね、遊軍として各地に転戦。
岐阜城 - 後継者とされる織田信忠の居城。甲信方面軍(対武田)として河尻秀隆が信忠を補佐。分国である尾張の清洲城には番将を置く。
北ノ庄城 - 北陸方面軍(対上杉)で家臣筆頭格の柴田勝家の居城。「手取川の戦い」では北ノ庄まで後退した織田軍の最前線として防備。
神戸城 - 織田信孝(神戸信孝)の居城。南海方面軍(対高野山および長曾我部)として丹羽長秀が信孝を補佐。
松ヶ島城 - 織田信雄(北畠信意)の居城。東海方面軍(対今川および一向一揆)の役割を担う織田家の同盟者・家康とは別動軍として、一向宗徒[注釈 5]・伊賀・志摩などの鎮圧を担当。
安濃津城 - 織田信包の居城。縄張りは関東方面軍(対北条)の滝川一益[12]。
・逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎
「破壊王」信長がニッポンを変えた!
シリーズ220万部を突破した歴史ノンフィクションの第10巻。 本書では、織田信長に関する歴史学界の定説を覆します。 残虐で合理主義的な無神論者とされてきたが、実は政治方針を初めて世論に問うた、民主的で極めて寛容な政治家だったと論じ、新たなる「信長論」を構築します。 そして、「比叡山焼き討ち」「一向一揆大虐殺」は宗教弾圧ではない、安土城は政治理念を具現化した「神殿」だ、秀吉の「大阪城」「朝鮮出兵」は信長の構想、「生き神」となって天皇家を“消去”しようとした等、信長の虚像を論破し、日本史上最大の謎とされる本能寺の変の真相にも迫ります。 旧体制を徹底的に滅ぼし、新しい世界を生み出した「破壊王」信長は、構造改革の進まない日本のあるべき姿を照射し、日本人の生き方の指針となります。
良くも悪くも純粋なお坊ちゃん(うつけ)、
尚且つ見た目がカッコ良くてヒーローっぽい。
それが信長だったんじゃないかな?
で、この坊ちゃんに目をつけたのが秀吉。
秀吉からしたら、この坊ちゃんを見つけた瞬間
「こいつを見つけた俺の勝ち。 俺は天下を獲れる。」
って思ったんじゃない?
後は本能寺が予定より少し早かった為「皇」になれず、「関白」止まりだった
事が悔やまれるだけで、概ね目標は達成。
みたいな。
以上、個人的妄想史観でした。
織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは?
日本の歴史や日本のお城、神社、お寺、刀剣の雑学・コラム NHK大河ドラマ「麒麟がくる」特集 織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは?
織田家の財源を支えた愛知県津島市にあった商業都市「津島湊」とは?
織田家にゆかりのある地域はいくつかあるんだけど、愛知県津島市もその1つ。
津島は「信長公記」にも登場するよね。津島市には織田家の繁栄を支えた「津島湊(つしまみなと)」があったんだよ。
ここでは織田家のメインバンクとなった津島湊についてまとめてみよう。
津島湊は、2007年(平成19年)に日本の歴史公園100選に選ばれた天王川公園のこと♪ 早速、詳しく見てみよ〜♪
目次
【津島湊ってなに?】
【織田家のメインバンクであった商都・熱田】
【先見の目があった織田信長の祖父・織田信定】
【津島湊ってなに?】
愛知県津島市には、織田家の繁栄を支えた津島湊があった場所なんだ。
津島湊は尾張と伊勢を結ぶ河川交通の要衝であり、当時、交易が盛んに行われた商業都市だったんだ。津島湊は、昭和初期の神戸・横浜に匹敵する大貿易港でもあり、日本の東西物産交流の接点でもあったよ。紙、木綿、海苔、塩、魚、鳥など様々な商品が売買されていて、伊勢の甲冑、弓矢などの武具職人の店もたくさんあったんだ。
織田信秀の父・信定(信長の祖父)の時代に、物資が多く集まるこの土地を掌握したんだよ。津島の経済力を手にした織田家は、信秀の代に飛躍し、尾張統一に向けて躍進していくことになるんだ。津島湊があった跡地は、現在は天王川公園として整備されているよ。
現在は、土砂の堆積によって天王川はなくなってしまい(江戸期に消滅したといわれているよ)、天王川公園に残る丸池だけが、当時をしのぶ貴重な遺構となっているんだ。
江戸時代に川がなくなってしまったことによって、湊町としての機能を失ってしまった津島湊は、時代の流れとともに衰退していったんだよ。
また津島は津島神社の門前町としてもにぎわっていたといわれていて、織田家は津島神社を氏神として仰ぎ、造営にも協力していたそう。津島を掌握していた織田信長の父・信秀は大変な大金持ちで、信長はかなりのおぼっちゃまだったんだよ。
一説には、信長が後年、安土城築城の際に、城を提灯でライトアップしたといわれているんだ。この提灯によるライトアップは、津島の天王祭をマネして行ったと言われているよ。織田家を語る上で、津島は切っても切り離せない土地といえるね。
織田信長の津島の記憶が津島の天王祭を求めていたのかもですね!
【織田家のメインバンクであった商都・熱田】
津島湊とともに、織田家の経済力を支えていたのが商都・熱田だったんだ。織田家のメインバンクともいわれた商都・熱田は、東海道と伊勢湾に面した交通の要衝で、熱田神宮の門前町として古くから商業が盛んな地域だったの。
熱田神宮は、かつて海に面して鎮座しており、三種の神器の1つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祭って、朝廷や武将から崇敬を集めていたよ。尾張の領主である織田氏にとって、膝元にある商業都市は重要な資金源であり、商都の存在は領国支配には欠かせないものだったんだ。
熱田の豪商と津島の町衆の財力は、信秀が織田大和守家中で頭角をあらわしていく過程において、重要な財源として役割を果たしたよ。その結果、信秀の元へ大量のお金がなだれ込んできて、多数の兵士を養う軍資金となったんだ。
三種の神器の1つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)は、とっても有名だよね!
熱田神宮の初詣には毎年200万人以上が訪れるんだから凄いよね!
【先見の目があった織田信長の祖父・織田信定】
信定が生きていた戦国時代の貿易湊というところは、経済力を背景に地元の人々によって自治が行われていたんだ。
自由都市のような、言ってみれば独立国的な様相であったそう。
津島も四家、七党、四性という町衆によって自治が行われていて、そこに軍事的に介入したのが信長の祖父・信定だったんだ。
信定は津島の貿易による経済力、津島牛頭天王社の持つ全国的なネットワークを手に入れようとする先見性があったんだよ。この先見性は、息子の信秀、さらには孫の信長にまで引き継がれていくことになるね。
小名木先生はタイムトラベラーなのかもしれない。
織田上総之介三郎平朝臣信長、お読みの通り織田信長公は平氏の流れを汲む家系で有ったと言われます。
織田の弾正忠家は自称では?
しかも守護代では無い
守護代は清須織田家(信友だか達勝だか…)
父信秀は地位的には守護代の家臣
ちゃんと勉強してください
出鱈目はダメですよー
勇気付けられたけど、今は。。。
信長様はいわばシャアに近い人なんだろうな、いわば生粋のプリンス
俺もかっこよく!生きてえもんだなぁ。
信長の調停外交と政略
外交
天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった[353]。例えば、信長は天正7年に島津氏・大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している[353]。
しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった[353]。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる[353]。
通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる[354]。ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという[354]。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない[354]。
実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる[354]。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった[355]。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている[355]。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている[355][353]。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという[355][353][356]。
なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。中村栄孝は、信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[357]。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる[358]。本郷和人は、外交をし、交易を盛んにすることは、まさに信長の望みであり、「日本を統一した暁に、信長が海外に派兵した可能性は大いにある」「物流や交易を重視する信長ならば、おそらくは海外に進出しただろう」として、信長であれば、秀吉のように領土の獲得に固執するのではなく、ポルトガルのゴア、スペインのマニラのように「点」の獲得を目指し、しかるべき都市を入手してそこを城塞化し、貿易拠点を築くようなことをしたのではないかと指摘している[359]。結果、信長がもう少し生きていれば、日本にとって良い結果を生むか、悪い方に転ぶかは分からないが、日本はもっと早く国際化したのではないだろうか、と指摘している[359]。
朝廷政策
上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた[360]。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている[360]。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった[361]。
信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある[362]。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた[363]。1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』[注釈 77]を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された[363]。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている[362]。
平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである[364][362]。
他のかたも書いていますが信長の人間的考察は推測なのでいいとしても、ある程度共有されている事実はちゃんと伝えましょう
この動画をなにも知らない素人が見て真に受けると可哀想に思う
ゆっくり解説がまだましかな
前田慶次みたいな風貌だったのね( ・ω・)フムフム
父親を取り巻く保守的勢力による暗殺を防ぐためですよね。強力な独裁的な司令官になるためには、父親が集めていたような土豪たちの連合体では戦えないから。独裁的な司令官になるには、彼ら独立的な土豪たちをすべてすりつぶす必要があったから。
すり潰せましたか?
今川を討った時も 天候など運が良かったと
言う人もいますが緻密な情報戦や戦略を
駆使し結果を出している事から
ボンボンだから調子に乗っていたって訳では
無く、それにはそれ相応の理由が有ったってのは私なりに凄い納得出来ました。
信長公記的には偶然説っぽさもあるのでして
運や偶然も、もちろんあったでしょうが
それだけだの調子に乗ったボンボンが
天下人になれるとは世の中甘くない説
@@らむさ 無論信長は運だけじゃないんだけど要所要所の強運さはあるかなと
若い衆は、皆 『馬鹿者』出ないと、
実際問題現代に弾正が存在したら国会議院のほとんどがいなくなるな。
まあ一向に構わんけど。
弾正の話が長いですね‥
成る程・・・
大石内蔵助良雄も織田信長を手本にしたんでしょうかね!?
信秀の織田家は織田の分家の分家ですよ❗小此木さんの講義間違いが多いですよ
反乱か…
本家からしたら分家が何言ってんだ?って感じなのかな。
家老みたいなもんだよね
うつけは無能なやつが大嫌いだった説ー3
武芸
紺糸威胴丸
前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[290]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた[290]。
信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[291]。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[292]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[293]。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 70]。
天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[296]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[297]。
天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[298]。
天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[299]。
天正8年(1580年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[300]。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[301]。
趣味
織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)
信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[302]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[303]。
そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[304]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 58]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[305]。『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという[306][信頼性要検証]。
ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[304]。
また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[307]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[308][307]。
相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[308]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[309]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[309]。
幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[310]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[311]。
風流の精神
信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[312]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[312]。
例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている[312]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[313]。
信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[314]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[314]。
異国への関心
イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った[315]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[316]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[315]。
信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[317]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[317]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。
南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[318]。宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという[318]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[319]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[320]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[318]。
女性観・男色
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[321]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[322]。
なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[323][324][注釈 71]。
信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[326][327][注釈 72]。
しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[327]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[327]。
平手 政秀ー傅父に切腹されて諫死されたらそりゃあ、アンタ、ちったあしっかりしようかなという気にもなりますよという説の根拠。
(ひらて まさひで)は、戦国時代の武将。織田信秀、信長の2代に仕える。尾張国春日井郡にあった志賀城[注釈 1]の城主。
生涯
織田信秀の重臣として主に外交面で活躍。茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。また安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。享年62。
菩提寺は政秀寺、墓碑は平和公園政秀寺墓地に移転[2]。首塚が名古屋市西区中小田井の東雲寺にある。
自刃の理由
『信長公記』の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている。不和の原因を作ったのは政秀の長男・五郎右衛門で、信長が五郎右衛門の持っている馬を所望したとき、五郎右衛門は「自分は馬を必要とする武士だから、(馬を献上するのは)お許しください」と言って拒否したのを信長が逆恨みしたのだとされる[3]。
その他にも以下の説が唱えられている。
信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるため - 美談として有名。
信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞・通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立。
没後
愛知県名古屋市千種区平和公園の墓所(政秀寺より移転)
政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立[注釈 2]し、菩提を弔った。
政秀には『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされるが、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされている。『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれている。系図の位置が不明な平手長政(孫右衛門)という人物を長男の五郎右衛門に当てはめる場合もあれば、五郎右衛門は養子として弟の政利のことであるともされる。
娘(雲仙院)が信長の弟・織田長益(有楽斎)の正室となっている。
登場する作品
風雲児 織田信長(1959年)、演:月形龍之介
国盗り物語-昭和48年(1973年)、演:田崎潤
織田信長 (1989年のテレビドラマ)、演:若山富三郎
信長 KING OF ZIPANGU - 平成4年(1992年) NHK大河ドラマ、演:二谷英明
麒麟がくる - 令和2年(2020年)NHK大河ドラマ、演:上杉祥三[4]
備考
新田次郎の小説『梅雨将軍信長』に登場する政秀の弟、平手左京亮は架空の人物である。
賢いなあ
織田信長ってこのハゲチョンマゲの絵が一番有名なのに、何故かラノベ・コミック・ゲーム
のイラストはフサフサチョンマゲばかりなのが納得出来ない。
ただのゆとり世代だと思うけどなぁ。でも信秀にはそうした策略があったのかもだし、頭をよぎってそう
調理中のBGMでマ〇ゲンを思い出した。
信長が、うつけのふりをした演技をしていたとは思えないんだな。そんな器用な真似をするような男とは思わないよ。
うつけも、狂気も全てが信長であったということだ。
結び大学の先生とは、違う意見で申し訳ない。
まぁバカを演じてたってより、回りがバカに見えてやってられなかったんでしょうね
敵は 本能寺に 有り
まあ、想像で言うしかないでしょう。
合法的な永久不逮捕特権を持つ上級国民が存在していた世の中だったのか
織田 信秀
(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。
生涯
家督相続
永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。大永年間(1521〜8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る[5]。
信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる[3]。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たち[注釈 3]と数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)[7][8]。天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。
勢力拡大
天文7年(1538年)頃、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区[注釈 4])を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した[9]。
その後も勢力の拡大に伴って天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き、居城として2つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。信長の幼年時か、天文15年(1546年)の元服前に那古野城を譲っている[10]。そして天文17年(1548年)には末森城(名古屋市千種区)を築き、また居城を移した。当時の戦国大名は生涯あるいは代々、本拠地を動かさないことが多く、特異な戦略である[11]。
経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。天文10年9月にはその礼として朝廷より三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す(『多聞院日記』)[12][注釈 5]。
天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の土岐頼次が、斎藤道三によって尾張へ追放される。信秀は頼芸を支援して、越前国で同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置いていた朝倉孝景と連携し、美濃に出兵して斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った[13]。また『信長公記』によると、同年の第1次小豆坂の戦いでも今川義元を相手に勝利を収め、西三河の権益を保持したという[注釈 6]。
こうして信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。
天文13年(1544年)に道三の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。そして、天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、道三が大垣城の奪還のために攻めよせ、救援のため信秀が出陣し後ろ巻きするが、その留守中に、織田達勝の跡を継いだ織田信友が古渡城を攻めたことにより、帰って大和守家とも争うが、翌年には和解している[15]。大垣城はやがて道三側に取り戻された。
天文16年(1547年)の9月に信秀が松平広忠の岡崎城を攻め落として広忠を降伏させた[16]。また、広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの時の出来事と考えられている[17]。また、これに対して、翌天文17年(1548年)には斎藤道三が松平広忠に働きかけて、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が挙兵(『武家聞伝記』)し、斎藤道三や今川義元が信秀に対抗するために積極的な工作をしていたと考えられている[17]。
没年には、天文18年(1549年)説[23][注釈 8][注釈 9]や、天文20年(1551年)説[24][注釈 11]や、天文21年(1552年)3月9日説[25][注釈 12]がある[23]。
人物
智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作った[26]。
何度かの苦戦や困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、天文13年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている[27]。
父・信定の築いた勝幡城を継承し、近辺の港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これは信長に継承されている[28]。
那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ若年の城主・今川氏豊に友好的に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略したと『名古屋合戦記』[29]に記され、そのまま史実ではなくても、那古野城が突然に信秀のものになったのは事実で、同様のことがあったと見られ、武将としての性格を示して有名である。前記したように同書には年数の合わない享禄5年(1532年)春のこととされている[30]。
「大うつけ」と呼ばれ長老衆や周囲の悪評の高い信長に那古野城を譲り、その後も一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる[31]。
居城を勝幡城・那古野城・古渡城・末森城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏・朝倉氏・後北条氏・毛利氏・上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた[11]。
子福者であり、40代前半で死去するまでに正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけた[32]。
籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった[33]。
天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた[34]。
現・京都市東山区の建仁寺の塔頭寺院で1536年の「天文法華の乱」で焼失した禅居庵摩利支天堂を天文16年(1547年)再建したと伝えられている[35]。
なっている、うけるわヾ(≧∀≦*)ノ〃
楚の荘王
歴史観からすると、かような解釈もあるでしょうが、
私は別な視点こら。
信長自身パーソナルが、発達障害であったのではないか?
と。感情をコントロールでき、周囲に合わせる、事が出来ない脳みそであったのではないかと?!
尾張内でも内紛状態だったから、敵対しそうな者の炙り出しの為だと思うよ😅後に尾張統一してるし😊
女装趣味ていけない事なのか????あなたの偏見だろ
今を生きる人間が不世出の天才 信長の心情を解ったような事判ることなんて無理と思うな
一人で思っているのはいいけど、講釈たれるな
自民党も悪い物をを潰さねば!
割と本当にうつけものだったんじゃないかな。