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ライトアップの女性姿に、その側「仏間の前」で病床に臥せっていた【露子】お姉さんを偲んでいます。当時10歳(S19年)だった私は、その笑顔姿を見て美人だなと思いました。ライトアップの光がすぐ下に見えている様な気がしますね。思えば亡くなって埋葬されるおり墓所について行った想いが蘇っています。
素晴らしい紅葉ですね! こういう綺麗な色づいた紅葉を撮りたいです〜 ライトアップも綺麗ですね〜。 私も裏ですが茶道やっていまして。。 興味津々で見てしまいました。 有難うございます
takaさん。コメントありがとうございます。takaさんも茶道やってたんですねw私はいつも利休や織部の侘びた佇まいに惹かれます(^^)
2022、12/31京都・清水寺参拝、辺りが暗くなる頃門前会の灯りが消され追い立てられる様に帰りました。近くのコンビニで年越しそばを買い宿で食しました。翌日は上賀茂神社、下賀茂神社、金閣寺、西本願寺、仁和寺、天龍寺、銀閣寺などを巡る2泊3日のバスツァーで88歳の我が身には皆さんの手綱での参拝でした、感謝しています。
藤江の塀に沿って右折した先には奥の院?、お宮?があり4.5畳と6畳位の2部屋が、4.5畳には床の間、押し入れと思われる広さが、部屋には頻りが無く6畳の部屋からは一段高い所と同じ高さで渡れ其処には祠がありました。双方の天井には百人一首?の絵と文字が架かれた(40㎝位の正方形)ものが鏤めた天井でした。塀などは無く真下には今のお茶屋が見えてました。(当時は一軒の農家がありました。)私は雪舟さんが此処で生活をしたのではと想像していました。(食事は藤江から運べる近さでしたからね)。(収穫祭?の頃には村人が集まり祠にお供えをしたりして皆で食事をしていました。)
コメントありがとうございます。すごくお詳しいですね(^^)奥の院が雪舟さんの生活の場だったのという説は説得力がありますね!内部の作りなども藤川さんの説明から想像できたので楽しいです(^^)
玄関入り口の処に馬車の車輪(2個)が立てかけられていますが、3畳位の広さの部屋にS20年頃の一時期住まわせてもらった事があります。今はガラス戸の様ですが、当時は格子戸で所々穴?が、破れていたので謡の本(父が大事にしていた観世流謡の物)を解き障子紙にした記憶がありますね。
映像ライトアップにご先祖様も喜んで、ご覧になって居る様な想いがしました。動画が6分を経った頃の処、奥の院入り口を出た処の坂道を(左側)を上ると、そう遠くない処(左側)には藤江家の墓所がありライトアップの灯りが樹々の間から漏れて見える様な気がしています。考古学の先生が20坪相当の敷地内の墓石の戒名等で歴史の歩み以来(壇ノ浦からの流れが?)が偲ばれるのではと、ロマンを求めていましたね。ただし、定かではありませんがね!。因みに私が小3の後半頃に佐世保から、父の実家に疎開、小4(11歳)終戦を荒平で迎えました。その頃に一時的に藤江家に間借りした記憶がありますよ。16代当主となる敬麿さんは当時10歳?、その下の方はお二方ともご健在と思われます。私が歴史に興味を覚えたのは真崎小の5年の先生に、肉丸先生の授業を聞きながらの草取りで教室からの声を澄まして聞いた記憶の余韻は伝わってきます。
「映像ライトアップにご先祖様も喜んで、ご覧になって居る様な想いがしました」そう言ってもらえるとすごく嬉しいです(^^)
2022、8/2〜6京都に、大原三千院、大覚寺、八坂神社、伏見稲荷神社、京都迎賓館、天の橋立、など行って来ました。生憎、寂光院は休日でしたのでまたの機会とします。2022に管理者が変わった様ですね、寂しい気がします。敬子さんが3歳の頃、お母さんとお話ししました、敬麿(敬子さんのお父さん)さんは亡くなっておられたですね、敬麿さんは私より2歳したです。私の出自はお店の裏(池、広場)「6399番地」でしたが庭園化に伴い転籍しました。87歳の今、過疎化が一段と進み帰省も思う様には行かなくなりました。S 18年頃を知る者にとって荒平の移り変わりは遠い過去のものになっています。道楽TVさんは京都に詳しい方の様なので【建礼門院徳子】【阿波内侍】などご教授願いたいですね。
ライトアップの女性姿に、その側「仏間の前」で病床に臥せっていた【露子】お姉さんを偲んでいます。当時10歳(S19年)だった私は、その笑顔姿を見て美人だなと思いました。
ライトアップの光がすぐ下に見えている様な気がしますね。
思えば亡くなって埋葬されるおり墓所について行った想いが蘇っています。
素晴らしい紅葉ですね! こういう綺麗な色づいた紅葉を撮りたいです〜 ライトアップも綺麗ですね〜。 私も裏ですが茶道やっていまして。。 興味津々で見てしまいました。 有難うございます
takaさん。コメントありがとうございます。
takaさんも茶道やってたんですねw
私はいつも利休や織部の侘びた佇まいに惹かれます(^^)
2022、12/31京都・清水寺参拝、辺りが暗くなる頃門前会の灯りが消され追い立てられる様に帰りました。近くのコンビニで年越しそばを買い宿で食しました。
翌日は上賀茂神社、下賀茂神社、金閣寺、西本願寺、仁和寺、天龍寺、銀閣寺などを巡る2泊3日のバスツァーで88歳の我が身には皆さんの手綱での参拝でした、感謝しています。
藤江の塀に沿って右折した先には奥の院?、お宮?があり4.5畳と6畳位の2部屋が、4.5畳には床の間、押し入れと思われる広さが、部屋には頻りが無く6畳の部屋からは一段高い所と同じ高さで渡れ其処には祠がありました。双方の天井には百人一首?の絵と文字が架かれた(40㎝位の正方形)ものが鏤めた天井でした。塀などは無く真下には今のお茶屋が見えてました。(当時は一軒の農家がありました。)私は雪舟さんが此処で生活をしたのではと想像していました。(食事は藤江から運べる近さでしたからね)。(収穫祭?の頃には村人が集まり祠にお供えをしたりして皆で食事をしていました。)
コメントありがとうございます。
すごくお詳しいですね(^^)
奥の院が雪舟さんの生活の場だったのという説は説得力がありますね!
内部の作りなども藤川さんの説明から想像できたので楽しいです(^^)
玄関入り口の処に馬車の車輪(2個)が立てかけられていますが、3畳位の広さの部屋にS20年頃の一時期住まわせてもらった事があります。今はガラス戸の様ですが、当時は格子戸で所々穴?が、破れていたので謡の本(父が大事にしていた観世流謡の物)を解き障子紙にした記憶がありますね。
映像ライトアップにご先祖様も喜んで、ご覧になって居る様な想いがしました。動画が6分を経った頃の処、奥の院入り口を出た処の坂道を(左側)を上ると、そう遠くない処(左側)には藤江家の墓所がありライトアップの灯りが樹々の間から漏れて見える様な気がしています。考古学の先生が20坪相当の敷地内の墓石の戒名等で歴史の歩み以来(壇ノ浦からの流れが?)が偲ばれるのではと、ロマンを求めていましたね。ただし、定かではありませんがね!。因みに私が小3の後半頃に佐世保から、父の実家に疎開、小4(11歳)終戦を荒平で迎えました。その頃に一時的に藤江家に間借りした記憶がありますよ。16代当主となる敬麿さんは当時10歳?、その下の方はお二方ともご健在と思われます。私が歴史に興味を覚えたのは真崎小の5年の先生に、肉丸先生の授業を聞きながらの草取りで教室からの声を澄まして聞いた記憶の余韻は伝わってきます。
「映像ライトアップにご先祖様も喜んで、ご覧になって居る様な想いがしました」
そう言ってもらえるとすごく嬉しいです(^^)
2022、8/2〜6京都に、大原三千院、大覚寺、八坂神社、伏見稲荷神社、京都迎賓館、天の橋立、など行って来ました。生憎、寂光院は休日でしたのでまたの機会とします。
2022に管理者が変わった様ですね、寂しい気がします。
敬子さんが3歳の頃、お母さんとお話ししました、敬麿(敬子さんのお父さん)さんは亡くなっておられたですね、敬麿さんは私より2歳したです。
私の出自はお店の裏(池、広場)「6399番地」でしたが庭園化に伴い転籍しました。
87歳の今、過疎化が一段と進み帰省も思う様には行かなくなりました。
S 18年頃を知る者にとって荒平の移り変わりは遠い過去のものになっています。
道楽TVさんは京都に詳しい方の様なので【建礼門院徳子】【阿波内侍】などご教授願いたいですね。