Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
丁度大河ドラマ「龍馬伝」の前の年…、その年の大河ドラマの舞台を旅していて、新潟県の寺泊という小さな港町に行った時、駅に置かれた最後の一冊の観光案内の中に、土佐勤王党そして武市半平太と岡田以蔵の名前を目にしました。何故寺泊で?実は以蔵が初めて手にかけた相手の故郷だったのです。こんな小さな町からも、都を目指し未来を変えようとした若者がいた。幕末は、長く続いた武士の世を幕府に対する不満を、変えなければと思う志の人々が沢山いたのです。山口県防府市のとある小高い山の中にも、土佐勤王党37番目の方のお墓があります。名前はなくて、ただ国の名前が記されてるだけ。この方は、中岡慎太郎と仲が良くて、防府にあった国を変えよう世を変えようとした人々が集まり、学問や武芸を学んだ学問所でも、慎太郎達と一緒でした。土佐を脱藩して後、龍馬も大洲の港から防府近くの港に辿り着き、そして慎太郎らもやってきます。防府天満宮のそばには、彼等が集い密かに話し合いをした隠れ部屋とも言われる建物が残されています。一般には入れないのですが、移築されて再建されたそこには、龍馬や慎太郎等当時の有名どころの名前が記されています。勝海舟と行動していた頃、馬関戦争を止めなければと神戸より大分そして長崎へと旅した二人の足跡の場所も、大分では佐賀関の寺に宿泊…阿蘇地方の峠越え…そして熊本城の側で宿泊した場所。この往復をしたとの肥後街道豊後街道での場所も今も偲ぶことができます。清岡さんらが集ったという野根山街道…、私も行きましたが田野からだと車でもけっこうな距離。昔の人は、強い信念に突き動かされると物凄い原動力で突き進んだのだと感心します。以蔵の墓は、大河ドラマの放送前に、草に埋もれるようなものを発見して家族の元に置かれたと聞きました。彼を産んだ母親の墓はそこにはありません。時代でしょうね。彼の払拭できないイメージの為、この世に産み落としたとした責任を問われたのでしようか…、大河より数年後心優しい人が、身分が低すぎて草履も履けなかったとした以蔵のために、白いスニーカーをそっとそばに置いて帰ったことがあった。その後ケースに入れられて、暫くはそこに説明をつけて置かれていました。私は彼等土佐者の足跡を訪ねて旅をするのですが、故郷土佐の事を大河ドラマの頃までさほど気にもとめなかったことが悔しく思えました。😐以蔵達が入れられていたとした山田橋たもとの獄舎の一部が、今も高知市のくんてきさんとして染みを込めて呼ばれる神社の一角に移築されています。そこには誰が入っていたかはわかりませんが、土佐勤王党の者たちも関わった獄舎の一部です。なかなかしっかりとした造りで、やはりけっこう狭そう…もし、彼らを偲びたいのならば、そちらの方も訪ねてみてはいかがでしょう。獄舎は外側からしか見ることはできませんが、偲ぶことはできると思いますよ。
ひろめ市場の近くに長宗我部というお店があってびっくりしましたw
初めまして、道之助の子は邦之助1人だけなのでしょうか?私の父親の家に道之助の家紋が有る家から出てきたので私がひ孫の孫なのですが、父親とあまり会わず私が6代目になるぐらいしか伝えられてませんw諭吉の娘と結婚してたみたいですけど。
ご視聴ありがとうございます。清岡道之助の子孫の方ですか。道之助の子供は邦之助の他は書かれていませんね。邦之助は生き延びて、維新後は慶應義塾に入り、後年、福澤諭吉の三女と結婚したということです。
@@TV-nv6pm やはりそうでしたか、父は(なのすけ)と読んでたので那の那と呼び間違えたんだと思いますw 携帯電話すら持たない人物なので連絡が面倒いのですが、今度会話した時に道之助お祖父様と福澤俊お祖母様の事を色々聞いて来ようと思います。
維新後、武市半平太の有無は土佐〜高知の参政影響力に大きな差を生んだろうね。
岡田一族の墓がまとめられていたがあれは維新後に功労者の墓としてまとめられたのかな?連名で意見書を出しただなのに全員即刻処刑の野根山二十三士の件は極めて強行策にしか思えない。明らかに藩の政治的意図があったとしか。
岡田一族の墓は功労者としてではなく、岡田家が造った墓所のようです。
@@TV-nv6pm 岡田一族というのも才谷集落の坂本家と同じく地元に対する村意識が強かった一族なのかも。
哀しいかな、明治維新という大津波は、薩長土肥という雄藩の中でもその流れの主流をとらえきれず、ついて行くにやっとだったがその流れにいる志士の面々は、儚くも無惨にも露と消えたが、名は家族の思いで立派に残っているはさすがだ思います。
丁度大河ドラマ「龍馬伝」の前の年…、その年の大河ドラマの舞台を旅していて、新潟県の寺泊という小さな港町に行った時、駅に置かれた最後の一冊の観光案内の中に、土佐勤王党そして武市半平太と岡田以蔵の名前を目にしました。何故寺泊で?
実は以蔵が初めて手にかけた相手の故郷だったのです。
こんな小さな町からも、都を目指し未来を変えようとした若者がいた。
幕末は、長く続いた武士の世を幕府に対する不満を、変えなければと思う志の人々が沢山いたのです。
山口県防府市のとある小高い山の中にも、土佐勤王党37番目の方のお墓があります。
名前はなくて、ただ国の名前が記されてるだけ。
この方は、中岡慎太郎と仲が良くて、防府にあった国を変えよう世を変えようとした人々が集まり、学問や武芸を学んだ学問所でも、慎太郎達と一緒でした。
土佐を脱藩して後、龍馬も大洲の港から防府近くの港に辿り着き、そして慎太郎らもやってきます。
防府天満宮のそばには、彼等が集い密かに話し合いをした隠れ部屋とも言われる建物が残されています。
一般には入れないのですが、移築されて再建されたそこには、龍馬や慎太郎等当時の有名どころの名前が記されています。
勝海舟と行動していた頃、馬関戦争を止めなければと神戸より大分そして長崎へと旅した二人の足跡の場所も、大分では佐賀関の寺に宿泊…阿蘇地方の峠越え…そして熊本城の側で宿泊した場所。この往復をしたとの肥後街道豊後街道での場所も今も偲ぶことができます。
清岡さんらが集ったという野根山街道…、私も行きましたが田野からだと車でもけっこうな距離。
昔の人は、強い信念に突き動かされると物凄い原動力で突き進んだのだと感心します。
以蔵の墓は、大河ドラマの放送前に、草に埋もれるようなものを発見して家族の元に置かれたと聞きました。
彼を産んだ母親の墓はそこにはありません。
時代でしょうね。
彼の払拭できないイメージの為、この世に産み落としたとした責任を問われたのでしようか…、大河より数年後心優しい人が、身分が低すぎて草履も履けなかったとした以蔵のために、白いスニーカーをそっとそばに置いて帰ったことがあった。その後ケースに入れられて、暫くはそこに説明をつけて置かれていました。
私は彼等土佐者の足跡を訪ねて旅をするのですが、故郷土佐の事を大河ドラマの頃までさほど気にもとめなかったことが悔しく思えました。😐
以蔵達が入れられていたとした山田橋たもとの獄舎の一部が、今も高知市のくんてきさんとして染みを込めて呼ばれる神社の一角に移築されています。
そこには誰が入っていたかはわかりませんが、土佐勤王党の者たちも関わった獄舎の一部です。
なかなかしっかりとした造りで、やはりけっこう狭そう…
もし、彼らを偲びたいのならば、そちらの方も訪ねてみてはいかがでしょう。獄舎は外側からしか見ることはできませんが、偲ぶことはできると思いますよ。
ひろめ市場の近くに長宗我部というお店があってびっくりしましたw
初めまして、道之助の子は邦之助1人だけなのでしょうか?私の父親の家に道之助の家紋が有る家から出てきたので私がひ孫の孫なのですが、父親とあまり会わず私が6代目になるぐらいしか伝えられてませんw諭吉の娘と結婚してたみたいですけど。
ご視聴ありがとうございます。清岡道之助の子孫の方ですか。道之助の子供は邦之助の他は書かれていませんね。
邦之助は生き延びて、維新後は慶應義塾に入り、後年、福澤諭吉の三女と結婚したということです。
@@TV-nv6pm やはりそうでしたか、父は(なのすけ)と読んでたので那の那と呼び間違えたんだと思いますw 携帯電話すら持たない人物なので連絡が面倒いのですが、今度会話した時に道之助お祖父様と福澤俊お祖母様の事を色々聞いて来ようと思います。
維新後、武市半平太の有無は土佐〜高知の参政影響力に大きな差を生んだろうね。
岡田一族の墓がまとめられていたがあれは維新後に功労者の墓としてまとめられたのかな?
連名で意見書を出しただなのに全員即刻処刑の野根山二十三士の件は極めて強行策にしか思えない。
明らかに藩の政治的意図があったとしか。
岡田一族の墓は功労者としてではなく、岡田家が造った墓所のようです。
@@TV-nv6pm
岡田一族というのも才谷集落の坂本家と同じく地元に対する村意識が強かった一族なのかも。
哀しいかな、明治維新という大津波は、薩長土肥という雄藩の中でもその流れの主流をとらえきれず、ついて行くにやっとだったがその流れにいる志士の面々は、儚くも無惨にも露と消えたが、名は家族の思いで立派に残っているはさすがだ思います。