俺たちの臨済録 第三十一回 示衆八①「学道の人 自信を要す」
Вставка
- Опубліковано 5 лют 2025
- 臨済宗建長寺派 満願寺住職 永井宗直
臨済宗建長寺派 満昌寺副住職 永井宗徳
による臨済宗の宗祖である臨済禅師の語録、「臨済録」の公開勉強会です。
第三十一回は「示衆」(師=臨済 が大衆に説法を行うこと)の八の①です。
◎原文
師示衆云、如今學道人、且要自信。莫向外覓。總上他閑塵境、都不辨邪正。祇如有祖有佛、皆是教迹中事。有人拈起一句子語、或隱顯中出、便即疑生、照天照地、傍家尋問、也大忙然。大丈夫兒、莫祇麼論主論賊、論是論非、論色論財、論説閑話過日。
山僧此間、不論僧俗、但有來者、盡識得伊。任伊向甚處出來、但有聲名文句、皆是夢幻。却見乘境底人、是諸佛之玄旨。佛境不能自稱我是佛境。還是這箇無依道人、乘境出來。若有人出來、問我求佛、我即應清淨境出。有人問我菩薩、我即應茲悲境出。有人問我菩提、我即應淨妙境出。有人問我涅槃、我即應寂靜境出。境即萬般差別、人即不別。所以應物現形、如水中月。
◎現代語訳:(参考:「臨済録」入矢義高訳注 岩波文庫p67-70)
師は皆に説いて言った、「今、仏道を学ぼうとする人たちは、ともかく自らを信じなくてはならぬ。決して自己の外に求めるな。そんなことをしても、あのくだらぬ型に乗っかるだけで、邪正を見分けることは全然できぬ。祖師がどうの、仏がどうのというのは、すべて経典の文句の上だけのことだ。もし人が一句もち出して、明暗の両様をあやつって見せたりすると、とたんに君たちはもたついて、ばたばたとうろたえ、わき道の方へ尋ねまわって、ひどいあわてようだ。いっぱしの男子たるものが、やたら政治むきのことをあげつらったり、世間の是非善悪を論じたり、女や金の話など、むだ話ばかりして日を過ごしてはならぬ。
わしのところでは、出家であろうと在家であろうと、どんな修行者が現れても、一目でその内実を見抜いてしまう。たとえ彼がどんな境界から出てきても、彼が持ちだすお題目はすべて夢か幻にすぎない。逆に境を使いこなす者こそが三世諸仏の奥義を体した人である。仏の境界は自ら私は仏の境界ですなどとは言い得ない。この無依の道人こそが境をあやつって立ち現れるのだ。もしたれかがわしに仏を求めたならば、わしは清浄の境として現れる。もし菩薩を求めたならば、わしは慈悲の境として現れる。もし菩提を求めたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を求めたならば、わしは寂静の境として現れる。その境は千差万別であるが、こちらは同一人だ。それだからこそ『相手に応じて形を現すこと、あたかも水に映る月のごとし』というわけだ。