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子供の頃、まさにこういう場所で暮らしていました。幼かった私にとってはこの界隈が世界の全てでしたのでなんの不満もなく、みんなで遊んだ楽しかった記憶しかありません。でも、世間ではこんなふうに見られてたんですね。「スラム」から頑張って公営団地に脱出してくれた両親に感謝。
亡父は戦前下町で育ち、3・10で焼き出されて都下に移りましたが、戦前並みの生活に戻ったのは東京オリンピックの頃だと言っていたのを思い出しました。昭和30年代は教科書ではもはや戦後ではないと言われたとか、三丁目の夕日みたいに美化されていますが、実際はそんな一般層に満たない多くの貧困層が、このビデオのように苦しい生活を送っていたことを忘れてはいけないのかもしれません。
この動画から10年後の70年代前半くらいまでは、関東の地方都市にも若干残ってたよ。ドブ川というか完全にケミカル臭がするドブがあったり、屋根に石載ってる。その後おんなじような形をした若干近代的な家々に建て替えられた。今、そういうのも建て替えられてマンションと、空いてる場所はタイムズになってる。
スラムというのは、移民が不法占拠して住み出したエリアだったはずです。。関東大震災後に焼け出されて、浮浪児らが住みついたエリア。。。昭和36の大阪では、一部、敗戦後に、戦勝者として占拠しにきた朝鮮半島系中国人の人たちが、住みついたエリアがあり、当然のことながら、そこに近づくことは怖いことで、鶴橋や釜ヶ崎エリアを思い出すのですが。。日本人としてのしもた屋は、胸算用にも出てくる古くからの長屋で、江戸時代にはお殿様の城下や江戸屋敷の周辺に作られてた。建てる時、長屋だと便利。 庭が繋がってるので,なんとなく、隣の異常にも気づく。。通風,日当たりも計算されてるし,上水,下水工事もしやすい。。質素だけど,合理的な住まいでした。移民の人たちの特徴は、孤立性、セキュリティ完備があるのか?平野の幼稚園に通園する途中に、そういう意味で不気味な集落があった。どういう人が住んでるのか見えず、誰か潜んでるような不気味さがあった。。冒頭の映像にある街路を想定せずに、占拠した者勝ちの建て方は、、まさしく、、侵略者としての建て方の特徴です。
@@DZB00167 カラー映像で、しかもデジタルでないからフィルムできたので、いつ?この映像は、いくつかの資料をデジタル編集され、洗脳,扇動目的に作られたものではないか?
@@DZB00167 私が知ってる昭和36時期のスラム化してないスラムは、我孫子にあったお手伝いさんに来てくれてたきたださんというおばあさんのお家です。まず、日本の他の住宅と違って馴染めなかったのは、、何軒かの長屋ときただサンちの平家、お台所と一間。トイレは共同だけど,怖くて行けなくて、外で新聞紙にしたことを覚えています。建物の真ん中に井戸と共同の水道洗濯場があり、ご主人は大工さん? おばさんは帰るまでに食事の準備をするのに真剣でした。きっと,酔っ払って暴力を振るうから?と今は推測します。6軒ほどの家の門があり、その門の隣の門の前に,駄菓子屋さんがあったので、後日、近くの友達を連れて(当時はバスや自転車だったから覚えていた)行ったけれど、友達は憂鬱な表情をしてました。そこから推測するのに、、そこは実は、戦後,移民系の人たちが日本に入って最初に住みついた一種のスラムだったのではないか? ただ、、その中に、患者さんの銀行に勤めてる家族もそこで暮らしてらしてたから、、その家だけは、家の中も電気で明るく、普通に見えたので、トイレに行きたい時は、尋ねたのだけど、やはり、共同トイレしかなかったようでした。。日本人の和式トイレは、洋式と違い,お尻をつけず、トイレというと、雪隠、、人と共有しない文化がある。。清潔感、通風、採光が考えられてる。。当時、出かけ先には、電気のないトイレが多く、怖かった。外出前の用足しは必至で、お化け屋敷と同じくらいの存在で、お腹が痛くなるほど怖かった。クモも住みついてて、、それは、雨戸の戸袋にも居て、殺虫剤エアゾールが出て,本当に助かった。ここの映像の建物は、住んでる人の大人も子供も、どちらかというと、、朝鮮半島からのお顔として見覚えのある容貌ですが、、きっと,戦時中に疎開したままになった空き家に住み着いたのではないでしょうか?
@@CIA戦後疑獄トルーマン全然話が伝わらない。
この動画を見て、親に感謝しました。当たり前だと思っていた生活が、贅沢だったと気づけた。
まさか60年後にこんな動画がたくさんの人に見られて 良かったと思われるなんて、作ってる側も想像してなかったろうね 映像も100年後 200年後 貴重な資料となる事を改めて知りました
こう言う昔のドキュメンタリー好きです。貴重な映像ありがとう御座います。
あっしも好きだわ(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ
ウェーイ!(゚∀゚)人(゚∀゚)
貧乏なりの工夫が沢山あって尊敬する
嫌とは感じない、いい動画です。頑張って生きてこられた。感動しかない。
そうかなあ? 日本人が一生懸命、江戸時代から明治,大正,昭和通じて良かれと建てた日本家屋が、酷い状態にされてることに恐怖を感じる?ここは日本人大工さんが出入り禁止区域だったのではないか?とか。。?
スゴいよなぁ。再現・セット・演技じゃなく実録
実際にこの時を過ごした方々が当時のことをコメントで教えてくれるので私の知らない日本について学べることにこの動画のありがたみを感じました。
昭和33年生まれの私だが、死んだ親父がよく言っていた。「働けど、働けど我が暮らし楽にならざり。」貧しかったが 昔の日本人は今より本当によく 働いたと思う。でも、夕食 食う時は必ず家族全員で食べてた記憶があり 、貧乏だとか 考えず楽しかった記憶しかない。
同感です貧しくても家族みな幸せでした✨
私もです。同じく1958年生まれです。既に高度経済成長期に生まれましたので、自分自身は分からないのですが何故か懐かしい気がします。
私も、33年生まれです。小、中学時代、ってこんなもんでしたよ、屋根裏には、恩取りさんも二人居たよ!マアゎ、戦争孤児みたいな人だね!今の、人にはわかんないよな?
@@成行脇本恩取りさんって何ですか?すみません!47年生まれです。
私も同年代。家は隠居さんの離れで便所も水も風呂も共同だった。資本家の家は近所になかったが、ただ近郊農家が羨ましかった。軽トラがある。自転車通学が認められていた。ピアノ教室に通う農家の娘さんもいた。収穫時には彼らだけ早退も認められていた。なにより1人部屋があった。貧しい農家と労働者は団結せよなんて小学生の私はまったく信じていなかった。バブルになって近郊農家の同級生らは外車を乗り回しフランス人の女と結婚した者もいる。名刺はアパート経営。こういうのを語る者が本当に少ない。今もだ。
この時代がこの綺麗な映像で残ってるのは素晴らしい
この映像で不自然なのは、お釜が異常に綺麗で、おそらく?本来は、まともな一軒家だったところをスラム化させたのではないか?昭和36には、日本はすでに、好景気に入っていて、松下幸之助さんや早川徳次さんたちの電気産業の時期です。。薩摩から集団就職で中学を卒業した若者が大阪にも就労し、我が家にも、祖父の従姉妹のうちに就職した人の友人が、就職先の新物屋さんのご主人がハラスメントするので、子供が3人で開業してたので、彼女を雇ってくれないかと,いうのできてもらうことになって、我が家も安定した。我孫子のスラムになってないスラムから手伝いに来てもらってる間には,夜中に泥棒が入ったり、、怖い事件が起こった。
こんな環境でも布団をきちんとたたみ鉢植えを飾るのが素晴らしい。現代のゴミ屋敷動画を見た後だと何とも言えない気持ちになる。
貧困でなければきちんとした衛生観念のある草木を愛でる心がある方なんですよね…理由があってここに住んでいるんでしょうが…貧困差は今もあるしどうにかならないのか…
@@ママ-i9v戦災で焼け出されたり外地からの引き揚げ者で、敗戦前はそれなりの生活されていた故に心に余裕があるのかもですね
極めて貴重なカラー映像をネット上で観れる時代に感謝です。69年生まれの私では 万博開催で再開発が進んだ事もあり こうした光景を直面しませんでしたが、大阪市下各所には まだまだ名残は残っていました。違う視点で見ても 当時の建設作業風景で 半裸に鉢巻き姿で簡単な足場での作業で 労災事故は極めて多かったと思います。
当時はボートピープルもいましたね。
自分も、こういう所で育った。差別を感じて惨めな思いもしたけど、産まれる家は選べないから仕方ない。今は結婚して皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけど、子供の頃住んでいた家が懐かしく戻りたいと思うこともある。貧乏だけど楽しかったです。
私もそうでした。我が身を見るよう。教室も半数以上はこういう処から来てましたね。ごく当たり前の日常でした。
変に興味深い内容でした。Attractiveナノは、きっと生活のエネルギーが、溢れているから。
わかる。
>皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけどこの辺りに想像を絶する差別を受けたのかなと感じ入ってしまう…
承認欲求に飢えているんでしょう工夫と努力をすれば自力で貧困から富裕層へ行ける資本主義社会に感謝せねば同時に不成功者達からの妬みも受けますが
貧しくても多くを望まない、子供達の笑顔…人間らしくていいなって思う。
BGMってすごいな、子供が遊んでるシーンはほのぼのしてるのに、ドーンて音楽で一気に殺伐とした雰囲気に感じるもんな。
お上主導のスラムはとっとと除去して再開発したが良いよって啓発と正当化の映画ですから暗く描くのは当然かと思う
ここから、発展していったのは、すごい。大人たちは、暗い顔してる人もいるけど、子供たちは、楽しそうだ。住居は、貧しかったけど心は豊かだったと思います。
これ、、もし!本当にs36にこういうところに住んでた子供がいたとすると、、明るい表情で外を駆け回ってない。。親に言われて。ひっそり,家に隠れ住んでたと思う。。
本当に貴重な映像です。高画質で当時の風景がリアルに伝わってきます。ありがとうございます。特にスラムから改良住宅への引越しのシーンがリヤカーなのがとても印象的でした。
この時期、引越し者がリヤカーというのは、聞いたことはある。でも、、花嫁布団積んだトラックをしばしば見かける時期でしたが。。ただ、リヤカーでひっそり夜中に,というのも、昭和50代60代になると、、彼女たち,彼らが強くなってる時期。。苦笑それまでは、漱石関係の裁判官だった方たちの家族が大阪に暮らし、早川徳次さんの活動に期待をかけてた時期ですが。。五輪の前後に、長居公園になる前のススキが原のところで、山口組の決闘があり、ハワイ関係の移民系の人たちが、離婚され、残された家族は再婚してる。。鉄の女と言えそうな,強い女性らと再婚し子供を作ってる。。同時に朝鮮系の人脈出てしたとして、住み着いてる。。
この動画に映る子供達ももうご年配もしかしたら懐かしい友人達や御両親の姿を見つけたりしているのだろうか。そう考えると貴重な映像を残してくれた事が素晴らしいと思う。
昭和の頃の浪商のもと朝鮮学校のペチャンコの学生鞄と学ラン、、女学生は、スケ番、、、通学の際、よく友人たちは恐れていた。。
こんな素晴らしい映像を無料で見られる時代になったんだなと……祖父や祖母はきっとこんな景色を見ていたんだろうなと、しみじみ思います。
だねえ
せやなぁ
人は生まれながら平等ではないのでこういう貧困家庭になったとしても抜け出すために公平な生活環境を与えることが国力の底上げになるのだなと思った。
菅総理「自助、自助、自助」
@@ag7404 👍️
福沢諭吉の「学問ノスゝメ」では、なぜ最初に平等を説いたのでしょうか。個々に学び、個々に底上げを為した「良民」が増えれば、その良民の上に築かれる国はより良くなるだろう、と説いています。冒頭の「初編」8ページだけでもご一読をお奨め致します。
無理だと思います。日本の忌まわしき慣習で、差別は続いていると思います。少なくとも平成16年までは第三者が就職希望者の戸籍謄本を役所で取り寄せることが可能でした。日本の大手企業は、興信所を使って戸籍謄本を調べ上げて、就職希望者(最終面接後の段階)の両親や祖父母のの出自まで調べ上げます。直系の在日コリアン(日韓併合時も含める)、または被差別部落の出自の場合、否応無く落とします。
生まれ持った能力の時点で公平じゃないから無理。平等、公平なんて虫が良すぎる綺麗事野郎!
ひと昔前の東南アジアの映像を見てるみたいだ貴重な映像だなぁ
東南アジアにはこういうの,多かったよね。。
これも日本の歴史の1つ。この部分に焦点をあてたのは素晴らしい
これ?本当に日本? 東南アジアの昭和50代の写真じゃないの?日本でも、ごく一部、移民が占拠した一般人は出入りしない鶴橋や釜ヶ崎と言う治外法権エリアじゃないのかなあ。。
ここから這い上がった人たちがいるんだろうなぁ と思うと感慨深い
そういう人が,力を持つとどうなるか?怖い!
つげ義春の作品で出てくる家並みの表現が、これを見てリアルだったんだと初めて知りました。
つげさんのマンガって、平成近くの不穏になり始めた時期に出回ったマンガ。。手塚治虫さんたち,ジブリ系統とは違い、闇夜の切先を感じる作品に感じたんだけど。。
歴史的価値のあるものすごく貴重な映像
でも、、改竄だよ! 真に受けては洗脳される?
日本の発展の下ごしらえを支えた人々、ありがとうございます。安らかな晩年を切に願います。
昭和36、こう言う人が日本に居たとすると、、移民部落だと思います。こんなにも、元々,ちゃんとした作りの日本家屋を無惨にできると言うことは、、日本人同士,見てられないはず。。近所に日本人が居なかったのではないか?疎開したまま、帰郷しなかった家ではないだろうか。。実際に,和歌山でも明治政府のかく県議会が設立し、役場と小学校ができた時期には、移民が毒を流したり,飲ませたりしてることもあるから、、(江戸時代までの和歌山市は、猟師町の方が発言権が強かったからね)段々、日本人は大阪に出て、サラリーマンや街中で働くことが多くなる。。戦時中,戦後の闇米買いは、こうした移民が田畑を持ってたと言うことの一つの証として昭和期には話題にされてたけれど。。ピアノや晴れ着とお米を交換,,とかね。。
こういうのを知ってるか知らないかで、今見てる景色、暮らしの風景への見方も変わってきますね。なんだろう、誰かの過去の記憶を体験した感じがします。いつの日か未来の誰かが、今の私達の暮らし、生活の記憶を見てる時がくるんでしょうね。過去から現在、現在から未来へ。
先人の方々の涙ぐましい犠牲と努力でこのような歴史の延長上に今の自分が生かされてる事を思い深い感謝と感動を覚えました。ありがとうございます!
この時代に作られた改良住宅も既に建て替えが進んでいるんだよな。
どんな環境でも、子供達はどの時代も可愛らしい😊
子供のウンコも?💩
どんな場所にも生活はある。スラムという嫌煙されがちな場所で生命を営む人々への敬いと、問題を解決したいという真剣さが感じられる良い映像だった
人間が生きるという意味を改めて考えさせられる映像ですね。スラムで生きる人々の顔に生命力が溢れているように見えるのはなぜなんだろう。
出自や身分がどうであれ、個々に懐かしい風景があるんだろうと思う。
ものすごくリアルで歴史を感じさせる映像。集落とは、何かという手がかりを見つけさせてくれた、素晴らしい動画です。
子供の💩のシーンがインパクトが強すぎて、それ以降の話が頭に入って来ませんでしたが、戦後から16年の月日が流れても、憲法で保障された生活を送れずに、スラムの中で貧しい生活を送りながらも、みんなで慰め、励ましながら強く生きる人々の強さと、戦後の高度成長期における光と闇を知る貴重な動画だと思いました。
悟空が言ってるのがキツいw
ソロキャンプで新聞💩いかが?
色といい柔らかさといい模範的だと思います栄養状態が良くなかったら、あれほどの物は出てこないでしょう彼の食生活が健全であろうことを喜ばしく思いますね
印度だと今でも普通に見れますよ。谷崎潤一郎の文章で戦前阪急電車で子供に車内でくそさせて新聞包んで捨てるって記述がありました
臭いをかぐネッコ。
私は1965年生まれ大阪西成区で生まれそだった、うちは商売してたので日銭はあったので食物には不十しなかったが家はぼろぼろやった、有るときテレビを観ていたらマザーテレサが来日来阪の様子が流れてきて、日本最大の同和地区に大阪西成の〇〇地区とやっていた西成の中でも我が家とは反対の端に有る地域で在ったが初めて自分の住んでいる西成にそういう地域が有るんやと知った、小学生ながらテレビで特定した場所を伝えて良いのだろうかと思いもした、でも私自身も親にはその地域には近づいてはいけないと言われていた、同級生達にも貧しい家庭がたくさんあったしお金持ちもいた、でも皆苦しい中頑張って日本を作って来てくれたと思うと、先輩方を尊敬したいと思います。🙏
あいりん地区は同和地区じゃないよ。労働者とかドヤ街があるだけで同和地区は鶴○橋とかあっちのほう
@@mhp4g あいりん地区とは言ってないよ、地名を出さないほうが良いから。
@@mhp4gいやいや。当時はその辺り総てがそんなフンイキやったよ。大国町、動物園前、鶴橋、阿倍野、杭全…西成〜何なら我孫子、針中野もそう。なんばの南側はカオスやった。
映画でどんなに金かけたって、この空気感は出せないね。
役者にしてもそうやね本物には敵わない
今は政令市のマンションが林立する地域。都市高速通ってる界隈が当時親から絶対行くなと言われた朝鮮部落がこんな雰囲気だった。頭の良い旧制中学からの伝統校のすごく可愛い女子生徒がこんなほったて小屋に住んでるって知った時は軽くショックだった。親からチョン子とは付き合うなって言われた。
Real unko 💩
@@sunami808 チョン子っていう言葉も、朝鮮半島系の人たちが使ったと思うよ?朝鮮半島って、450年前から,つまり、藤吉郎が豊臣秀吉になったきっかけの朝鮮遠征というけれど,実際には、当時,朝鮮半島が占領されていて、秀吉は千利休になりすましたい津田宗久?宗及?に騙されて、救出に出さされたということ。。その時の末裔は、日本人を支えてくれてきた人たちでもあるけれど、、2001以降、彼らも不穏に巻き込まれてしまってる。。
これは、すごい映像だな。都市のそういう住宅だろうなあという場所は今でも有るが、その時の記録ってのは、意外と映像として見れることは少ない。 そしてなぜか?このぼろぼろの家屋の連なりに引き付けられる。
たった60年くらい前まで日本にもこんなスラムがあったんやな。ここから世界第2位の経済大国(今は3位になっちゃったけど)まで日本を引き上げた先人たちの苦労と頑張りには感謝の念しかない。
そのかわり公害と物価高には悩まされました。
世界第2位の日本は,もう過去のもの。日本人の給料は米国の4割、韓国以下。そのうち内に東南アジアへ仕事を求める時代も近いかな。
この当時、既に日本のGDPは世界3位(西側諸国で)だったけどね。これが爺さん連中の思う貧困。エアコン付きの普通の住宅に住んでスマホを持ってる今の貧困層は貧困では無いって事だな。
@@koinuya7756 バカも休み休み言え
@@koinuya7756 だから政治家が現代の低所得で未婚の若年層の貧困の実態を理解すらできんのだよね。
この動画を見ると自分は贅沢な生活送ってるなぁって思った
高度経済成長期には光と影の両方存在してたわけだが、影の部分を扱っているドキュメントはあまりないので参考になる
橋の下とか川沿いにズラッとあばら家が並んでる光景は今じゃ考えられないね鉄筋の団地が建てられたあたりで急激に近代的な映像になって感動した団地は、この時代この層の人たちにとっては近代の象徴なのかもしれんな今では築60年以上になるからほとんど取り壊されてるとは思うけど、築50何年くらいなら探せばまだちらほら残ってるんよねなんというか、本当に過渡期なんだなという感慨が押し寄せてくる映像
これに近い家に住み大きくなりました。懐かしい 田舎から神戸に来て高架下の家に住むそこからぬけだし今では 懐かしい思い出です。
高架の下の家を不思議に思ってました。阪和線を熊野博ブームで高架するという時、高架の人たちが最後まで反対して、結局は社会の方向が暴走するのを止めてくれてることを思った。。こういうのは、、日本にしか居ない日本人にはわからない予感?だと思うけれど、、秀吉が騙されて連れ帰った朝鮮系の識者や技術者の末裔?
スラムで生きるのに精いっぱいでありながら、鉢植えを育てたり花を飾ったりしているのなんか良いな
人間、苦しみの中でも『楽しみ』を求めるもの。現代では、こういったものは見ることはないが、当時はそれが心の癒しだったのではないでしょうか。自分と他人とでは良いと思うものが違う。素直に出ているものだと思います。
@@shunhira6390 やっぱ人間いくら貧しくても楽しみがないと生きていけないよな
見習おうと思いました。
韓国ソウルの表と裏の顔が有る
ナレーション安藤昇?
後半、涙出ました。慎ましく苦しい生活の中心荒むことなく生きている生命もあるその姿に私も微力ながら人や社会のお役に立てる人間であるよう頑張ろうとそう思いました。
いつも貴重な映像をありがとうございます。昔はこの様な町や暮らしは日本中どこでも見られました。
いかに日本の戦後復旧が異次元的なスピードであったかを理解するための貴重な映像。すでにスラムの背景を知らない世代へと移り変わっている。意味不明に昭和レトロと持て囃される今、それぞれに意味があった時代を誰かが伝えていかなくてはならない。戦争だけでなく、戦争からいかに急速に復興できたかを語る人も高齢を迎えている。
これが正真正銘のドキュメンタリー映像です🥺
正真正銘の改竄フィルムです。
ほんの60年前の日本貴重な映像を見れて良かったUA-cam万歳🙌🏻
これ,ガセネタだよ!
不法占拠地の○鮮部落
俺が子供の頃、この映像の名残りがほんの少しだけ街には残ってましたね。しかし男の子のウンコの素晴らしい太さと質感よ。ひねり出し具合もソフトクリーム並みの滑らかさですね。猫が臭いに来るのもまた素晴らしい。
そうですね
同時代の農村も貧しさは似た様な物だろうけど、家屋は密集してないし屎尿は使い道があるしで衛生面ではもっとマシだったんじゃないか…と、今は亡き祖父母の慎ましい暮らしを偲ぶ。
団塊の世代ですが子供の頃はまさにこうでした。否定的な見方もあるでしょうがみんな貧乏でも楽しく暮らしていました。現代が進歩したなんて思わない。その後妙な時代にしたのは私の世代に責任があるのかも。
仕方がないですよ、皆さんだって国を良くしようと思われこそすれ、悪くしてやろうだなんて思ってやってきた訳ではないんですから。団塊Jr.だからかも知れませんが本当にそう思っています☺️お父さんお母さん、私たちのために本当にどうもありがとう。
今も昔も犯罪率も差別感情も凶悪な団塊世代良い時代なわけねえじゃろうが、自分らが日本を食い潰した白アリと反省せえや
@@カマカマタマタマ 団塊の世代は菅総理から末端の私まで実に多様な考え方の人間がいます。それが団塊世代です。逆に私は「いまどきの若者は」という言葉でフォルダ分けはしません。
今だっていい子たくさんいますよね。
でもスラムと言っても壮絶に雑然としている訳でもなくて、工夫してきれいにうまく収納棚などを取り付けて保管していたりしていて、そういう知恵がすごいなぁと思いました。
なんなんだー、この音楽は!😱ビバルデイの、春、でも流したら、見る目変わるよねー
このころのBGMって、現代音楽っぽいのが多くて、不気味というか奇妙というか、なにか不安な気持ちを感じさせられますね😅
ボスMMDerドッピオ,(‥°3°)⁾⁾@KAORIn そうそう、不気味、不安な気持ちにさせられますね
日本人の几帳面さ。ですね。
ドヤ街綺麗だな
いい歴史素材ですね。この情報を知ることは、普通の日常ではほぼないわけですが、映像が残っていることで、色々知ることができます。当時の人々の言葉で語られる情報も貴重なものですし。こういった貴重な情報こそ、国自体も残すように努力するべきです。民間に頼りすぎ。 そして残したくないものを排除。困ったものです。
共有ありがとうございます。若者の私にとっては非常に興味深い資料でした。過去の方々の努力、思いの上で自分たちは豊かな生活を享受できているんだと身に染みて感じました。改めて、感謝します。
今でも大阪の鶴見橋商店街から少し路地へ入るとビックリするほど狭い路地があって、当時の名残を少し感じますね。でも、ここから数十年で隅々まで清潔な国にしてくれた先人達に感謝。いくら日本が衰退してるとはいえ、さすがにここまでのスラムはないと思う。
かの国の不法占拠した人がつくったスラムでは。
東南海地震の脅威が叫ばれている昨今、このような家の存在は都市機能の危険度が増しますので、バラックが多い住宅地などは耐震性に優れた住宅への再開発が必要ですね。
あと50年くらい衰退し続けたら元に戻ってしまうかもですね……アルゼンチンも先進国だったのに、今は多くスラムを抱える国になってしまいましたから
そのうちマンガ喫茶にも三国人が居座り、行政に地代を要求するのだろう。
ほとんど 大阪やわ。1964生まれですが、世代ギリギリでこの光景を目の当たりににした事がある。敗戦で貧富の差が出来上がってしまったのかなぁ。貧困が差別をつくりワルをつくっていったのだと考えさせる映像です。大阪ゎ万博を契機にだいぶ変わって行きました
インフラの必要性を感じます✨
@@芦柄金太郎-x3e30:58 文化住宅とか結構この頃建てられたけど、それらの家には風呂が付いて無いから、結局は銭湯に通うしか無かったわ。だからおじいさんたちと仲良くなれた。
昭和40年代子供の頃車窓からこのような風景を見たような気がする。
環状線。。
新今宮もだいぶ綺麗にはなったがどことなくこの空気は変わらない
懐かしいね。私の青春時代ですね。何も無かったから皆んな一生懸命働いて生活していたな〜!!。阪神工業地帯でしたから、何処へ行っても汚い長屋ばかりだったと思います。でもテレビを見るのも泥んこになって遊ぶのも楽しかったですよ。
あの頃の思い出は便所の悪臭とどぶ溝の臭いみんなが貧乏だったあの生活が普通だと思ってたまだ戦後を引きずってた,生きるのに精いっぱいだった
過去の美化やめろ今のほうが断然素晴らしい時代
こういう中に育った子どもにも後にエリートになった優秀なのがいたんだろうか?
バラックの中に本瓦の立派だったろう家も存在する
@@Gaocon6 さん、ソフトバンクの社長がそうらしい、後、アパの男の社長のほうもかなり似た環境で育ったらしい
@@Gaocon6 様はい。日本のエリート層には結構います。
昭和33生まれですが懐かしい。うちは銀行員で鉄筋アパート社宅でしたが、すぐ横の福岡市薬院どぶ川に友達のアッちゃんが船上生活してました。一緒にコマ遊びしてましたが、小学校に上がって疎遠に。風の噂で肺炎で死んだと。他にもボロ小屋にすんでた友人も。道路は未舗装で雨降ると凸凹水溜まり。全部良い想い出。
割烹着姿の女性が振る舞っている料理やお好み焼きは、体に良い自然なもので、ファストフード、ジャンクフードまみれの現代人よりずっと豊かな食生活だと思います。布団を干していることも素晴らしい😊
音楽は不気味だけど、住んでる人全員が悲壮な昭和枯れすすき状態じゃ無かった筈。つげ義春や水木しげるの描く街並みがリアルカラーで観れて興奮します。あと、SIRENシリーズの家みたい
今から60年前の低所得世帯のリアル。生々しい現状。そんなスラムをやっと出て、憧れの「改良住宅」=団地に住むようになったけど、60年後、今度はその団地で孤立死なる問題が起こっている。昔も今も、潜在的に解決されずに残っている深刻な問題を、このドキュメンタリーはものの見事にあぶり出している。
努力して大きな屋敷を建てても、核家族化の影響で子どもたちが家を出てしまい、家の中で孤独死(お金はあってもケガ・病気の時に通報とか応急処置さえしてくれる人がいない)ということも普通にあるから人の住む環境ってまだまだ闇が深いですね。
「足るを知る」とはどういう事かを教えてくれる良い資料です。同時に日本の最も基礎の部分を造り支えてこられた先代の方々に敬意を。
この時代の新今宮、萩之茶屋界隈は大分土地区画整理がされ、ドヤも今はバックパッカー相手のホテルが出来るほど発展している中でも桜ノ宮のすぐ横を流れる大川沿いに最近までスラム街があったが今は立ち入り規制が掛かっておりやがて姿を消すと思います。
音楽作為的すぎる。映像すばらしい。ナレーションも含め再編集したら全然違うものになりそう。でも、こういう仕上がりになっているのも製作された時代の背景が映し出されているという点も含め、素晴らしい作品ですね。
でも解体の効果音は昭和ゴジラ
一柳慧と高橋悠治だから、時代を感じる。
現代音楽ってBGMとしてはこういうシュールを超えた奇怪な動画かホラーにしか合わない説
おおよそ60年前にこんなひどい住宅環境、スラムがあったとは思いもよらなかった。動画で見ることでとても貴重な経験ができた。
アニメ 「あしたのジョー」観ると同じような光景が出てくるよね
改良住宅、この当時の公団は今でもまだまだ沢山残ってるだろ…建て替えがすんできれいになってるところもあるけど団地の一階になぜか飲食店が入る経緯もわかりやすい。(もとはスラム内で営業してた飲食店だったんだよ…)改良住宅や1960~1970チックな公団があった場所は昭和の当時は元はたいていはこういうところだったのよ現状が不満で「日本は貧しくなったぁー」「昭和はよかったー」みたいな奴にこそ、こういう映像を見せてやりたい
敗戦後の貧しかった時代です。どこの都市にもスラムがありました。50年代の日本製品は品質が悪くて箱を開けたら違うものが入ってたということもよくあったみたいですから。
@@mhp4g 大まかですが当時の公団か否かの基準が1Fや敷地内にマーケット的な物があり現在はシャッターが閉まってて寂れてる感がありますよね「剝げかかったナショナル電気の看板等」実は都心である新宿の明治通り沿いや周辺にも当時の建物が残ってるのはちょっと感動しましたね
今もありそうだけどね。
1960年代生まれの私にとって、とても懐かしい感じがする映像です。メンコ、ゴム飛び、凧揚げ、なつかしい遊び、駄菓子屋でお菓子をかう。。。
昔のあの長屋?!みたいな、もう少し現代風だと孤独死とかないんだろうなと思いました。 高齢化独り者、社会で支え合う環境として考えるものがある気がします。
昭和40年生だけど、水溜りだらけの近所の道路が数日でアスファルトに変わって、信号や歩道橋まで出来て生活が一変した事を思い出した。バキュームカーとの遭遇が日常だったなw
布団ちゃんと干してるのなんか凄い感心
トタン屋根の家で生まれ育った身としては、瓦屋根ってだけで高級感感じる…
1961年の映像にしては、アヴァンギャルドな音楽誰だろうと思ったら一柳慧氏オノ・ヨーコの最初のご主人、納得。
この特徴的な不快な音楽、やはり一柳か 笑
@@KM-ix1so 様ホントに音楽が不協和音的というか、狙い過ぎがウザいというか、聴く者の身体に悪いというか、です。WW 個人的に。
一方の同じ映画会社が制作した和歌山編は改良住宅で生活が向上して住民の表情もとても明るい雰囲気ですね
オノヨーコさんの「ギャアア~」もこの人の影響なんだなw
こんな環境でも、子供たちはなぜか楽しそう。
s36,には、子供はみんな小学校に行ってるはずです。そこで、本当に,こういう家の子が通学してると、先生は家庭訪問をしますから、それに、地域でPTA活動、子供会があるので、問題になる,話題に上がる事態だと思います。。こんな地区が昭和36時点にあったとすると、、子供もおらず、ひっそりと密入国して空き家に潜んでる人だと思う。府営住宅,市営住宅が木造で庭付きであり、そういうところにまず,入ってるはずなので、こういう、壊れた危険な家に住んでることはまずない。。当時の大阪市は大阪府の方が田舎で、大阪市は明治以降、活発で才覚のある人が集まってたので、こういうところは子供が攫われる危険があるというのでも、みすごしてはいないはずです。
めちゃくちゃ貴重な映像。音楽も素敵。14:52 ガチ過ぎて声出たw
タイミング良すぎるネコよ。
4分過ぎに出てくる建物の中で大きな物は江戸時代は庄屋格の豪農や藩から認められた商人しか住めなかった造りの家です。元々は相当裕福な人たちが住んでいた地域だったはずですが、戦時中の混乱や工業化や都市化で出て行った後に住み着いたんでしょうかね。
被差別部落の中には特権階級もあって公家等の家に上がれる人々もいましたので元はそういう人達だったのかもしれません。被差別部落は差別と言うより利権の管理の為に生まれたので特定の物の流通に関与してたり技能系だとそこら辺の農民より上の生活だったりしました。江戸幕府から明治政府に代わった時にそういう利権が無くなり貧しくなったのかもしれません。
見た感じ板とトタンで出来たまさにバラック、といった感じの家と、傾きボロボロではあるが漆喰造りで瓦屋根もある戦前の町屋らしき家も散見されますね。元々はシャンとした日本家屋だったのでしょう。綺麗にしてれば様にはなってそうですがまあ当然直す資金が抽出出来なかったんでしょうね。
この時に建った多くの公営住宅が築50〜60年を迎えていますね。鉄筋コンクリートの建築技術が未熟なのと低品質材のため、だいたい30年くらいしか持たない建物を無理やり延命させたり、アスベスト使いまくってたりして修繕もままならない物もあります。一部の人しか知りませんが、これがまた大変な問題になっているのが切ないですね。
カラー映像の効果も相まってかリアルで皆さんが逞しく生きている力が映像越しに凄く伝わってきました!時折流れるJAZZの曲が凄く心地よい!
自分が子供の頃、「なんじゃこりゃ?これが人間の住む場所なのか?」とびっくりするような街並みがけっこうあったんだよね。まさにこの映像そのものの。同級生にもこういうところに住んでいる奴がけっこういて。遊びに行ったとき、マジでびびったことを覚えている。ただ、もう自分が中学生になった80年代には完全消滅してたなぁ。きれいな公園や市営住宅になっていたんだけどね。
戦争に勝てば豊かになれるからと 様々な辛苦に耐えた先が、空襲や飢餓、引き揚げ、戦後の復興と言う、先の時代の方々の生活や御苦労を思いました。積み重ねて下さった現代の、清潔で快適な日常と比較し言葉を失くします。ありがとうございます
十数年前にタイへ行った時を思い出した。近代的な建物が立ち並ぶ区画から少し離れたら舗装もされていない粗末な建物が立ち並ぶ場所、それでもまだマシでバスで高速道路上から見た光景は本当にバラックが無数に並んでいた。日本車が数多く走っている国だけど、経済格差の大きさを実感。
インドのムンバイは空港の滑走路から嫌でもこれの何十倍の大きなスラムが見える。大阪伊丹も往時は知らないけど、焼肉ドラゴンのような世界だったんだろうといつも想像する。
今日の日本でも貧困層が増えていると言われている。事実子供達の6人に一人が貧困層に属するという統計もある。しかし同じ貧困層でも時代によってその定義が大きく異なる事をこの1961年(昭和36年)に制作された映像は教えてくれる。
この頃はみんなで助け合い、今は無視しあい、あと精神病がやたら多い、たすけても奇声をあげる
@@THE.Everestlist 恐らくこの頃は人々の間に共同体意識が強かったんでしょう。現在は核家族が進みお隣通し干渉し合わない個人主義的気風が強くなったのでしょうね。
「相対的貧困」が現代。数年前に、テレビで取材された貧困女子高生の暮らしぶりに「???」な指摘がありましたね。クーラーがあって、SNS利用できて、姉が働いて派手な生活していて・・・。でも、相対的貧困。社会学とか学問領域の学者さんたちが提唱し始めたのかなと思っています。 マスメデイアから聞こえてくる「貧困家庭」とか「貧困層」「子供の貧困」は、「相対的貧困」を指しているのだろうけど、受け取る方は「絶対的貧困」をイメージしてしまう。3食食べられない子供のために「子供食堂を」なんていう活動を見ていると、食べ物が足らない訳ではないし、食べ物を買うお金がない訳でもないのに、それちょっと違うかな?と思う。生活費を生きていくのに大切な食費に回せない、食べ物を買って準備できない親の生活改善しないと、解決しない問題だよなと。 山村の田舎育ちの私の子供の頃は、飼っているニワトリが産んだ卵一個は働く父親の膳についたし、魚肉ソーセージの入ったカレーライスが御馳走で、年に一回くらい年取った飼っているニワトリを捌いて骨ごと甘辛く煮て食べさせてもらった。でも、親たちの口から「うちは貧乏だ」なんて言葉聞いたことなかったので、「貧乏に」育ったなんていうことは一切思わない。親は、自分たちの稼ぎに見合った暮らしを重ねて、私たち子供をきちんと学校に進学させてくれたし、結婚する時家を持っ時何らかの経済的支援もしてくれた。お陰で、兄弟皆 都市部近郊で持ち家を持ち子供を育て「貧乏」を嘆くことなく生活できた。 もっと時代が進んで、このフイルムの風景すら知らない人たちばかりになったら、「絶対的貧困」すらイメージすらできないようになるだろうな。
コロナでますます貧困になる
女の子がけっこうちゃんとした服を着てるのを見ると安心する
貧しい生活の中でも、女の子にみすぼらしい格好はさせたくないという精一杯の親心だと思いますが。
映画に写ると言うんで親御さん、無理してきれいな服をきせたのかも。
子供服は、お下がりか近所からの貰い物だから案外と不自由はないはず。
昔サイズアウトで着られなくなった服はバザーに出してた。多分その流れ。
貴重な映像資料ですね。新潟市のど真ん中、新潟駅から真っ直ぐ萬代橋の橋詰めにもこの様な集落がありました。一体何なのか、どういった人々が暮らしているのか、親に聞いても判然とせず。ネット環境が整った昨今、調べてみてもヒットせず。アラカン同世代でも関心の無さから記憶になく、若い世代はやすらぎ堤が出来てからの記憶しかあるはずもなく、上の世代はそろそろ怪しい人ばかり。…無かった事になるのかな。ワタシとて、それを知ってどうなるものでもないのだけれど。
戦争で都市のほとんどの面積 地方都市も空襲を受けて 庶民はなんの保証もなく戦後国債もないに等しい事になり銀行も突然システムが変わり それでもここまでに出来る私たちこれからも頑張れそうですね☺️わらべの唄と笑い声に 救われました貴重な映像ありがとうございました✨
ウルトラマンを見ていた子供はまだ貧しかったけど、仮面ライダーを見ていた子供はもう貧しくなかった。大阪万博を境に日本はガラっと変わった。モノはあふれたが心は空っぽになっていった。
定期的にみたくなる
東京オリンピックの時浅草合羽橋に住んでました。河童寺の前の材木店の2階共同トイレ、台所、襖1枚で仕切られた6畳一間の部屋が6世帯東京オリンピック関係の内職を6畳間に母の姉妹3人泊まり込みでやってました。従姉妹も来て夜どうやって寝てたか忘れたけど楽しかったのは忘れない❗
何年も前だけど、大阪の鶴橋駅から外を見たらこんな風景があった都会の一角には、このような地域が結構ありますよね
昔、博多の那の津に住んでました。この映像は大変懐かしい、身近な日情を彷彿とさせてくれます。貧しさは懐かしさです。70年位前の事です。
この頃に発行された、とある百科事典にも「人々の生活比較」として、高級住宅からスラムまでの比較を、主人から子供の育ちまで解説したものを写真付きで記していたのを記憶しております。多分現在だと完全にアウトな内容でした。
事実を指摘するとアウトとされる現代の方がおかしいと思う。言葉や表現を制限したところで事実は 何も変わらない。臭いものに蓋をして嫌なものを見ない振りする社会の方が残酷で冷血
アウトな社会なのがおかしいんだけどな。
隠すからこそ、みっともないもの、恥ずかしいものとして成り下がってしまうのかもね。
まあ、死体を映すようなものかな。見たくない現実は見えなくしてしまうような。
昭和43年東大阪生まれです。祖父母や両親に長屋で一所懸命に育ててもらいました。この時代より5〜6年後ですが、それでもまだまだこんな感じのところがあったような記憶あります。たまらなく懐かしい。帰りたいです。昭和に。
44年生まれだけど、こんなとこたくさんあったよね俺んちも長屋に毛が生えたくらいのアパートだった政令指定都市の「区」なのにどっぽん便所一軒家のやつらからはウサギ小屋とバカにされてたわw
@@katanafish0627 ちょっと悲しくなりました・・・私の実家、確かに政令指定都市でもない九州の田舎なんですが21世紀になってもボットン便所だったので(泣)今は水洗になってるんですが、工事したのは2012年。別に山の中って訳でもなく、普通の田舎って位なのですが・・・昭和44年生まれと、平成2年生まれが共通の便所体験を持っているというのは色々と驚きです。
その気持ち、すごくわかります。
私は二度とあの時代に帰りたくないです。
帰りたい人と帰りたくない人が一緒のコメント欄にいて何だか感慨深いです
ここ迄ではないですが、60年前の私たちも同じような環境下に暮らしてました。贅沢と豊かさを求め人情を忘れた世の中、これからの日本はどうなるんでしょうかね。悲しいです。
7:58は国鉄環状線から見える今のヘップファイブやメンズ館あたりの景色。梅田コマ劇場、梅田劇場、スカラ座、北野劇場!!これはすごいな。道頓堀も写ってる。西成とかは大体こんなのスラムだったんだろう。日雇いはトンネル掘ったり高速道路造ったりしてインフラ建築を担ったのでしょうな。
あしたのジョーの世界だ。実際の映像を観ると本当にこんな感じだったのかと驚く。
震災前の神戸市ではよくある風景でした。再開発で見なくなりましたね。再開発後は人との繋がりが薄くなって、昔のご近所さんと助け合いながら生きていく、人の温かさはなくなってしまいました。
自家用車や家電製品が、まだまだ金持ちの贅沢品だった時代。というのがよくわかる動画です。
子供の頃、まさにこういう場所で暮らしていました。幼かった私にとってはこの界隈が世界の全てでしたのでなんの不満もなく、みんなで遊んだ楽しかった記憶しかありません。
でも、世間ではこんなふうに見られてたんですね。「スラム」から頑張って公営団地に脱出してくれた両親に感謝。
亡父は戦前下町で育ち、3・10で焼き出されて都下に移りましたが、戦前並みの生活に戻ったのは東京オリンピックの頃だと言っていたのを思い出しました。
昭和30年代は教科書ではもはや戦後ではないと言われたとか、三丁目の夕日みたいに美化されていますが、実際はそんな一般層に満たない多くの貧困層が、このビデオのように苦しい生活を送っていたことを忘れてはいけないのかもしれません。
この動画から10年後の70年代前半くらいまでは、関東の地方都市にも若干残ってたよ。ドブ川というか完全にケミカル臭がするドブがあったり、屋根に石載ってる。
その後おんなじような形をした若干近代的な家々に建て替えられた。
今、そういうのも建て替えられてマンションと、空いてる場所はタイムズになってる。
スラムというのは、移民が不法占拠して住み出したエリアだったはずです。。関東大震災後に焼け出されて、浮浪児らが住みついたエリア。。。
昭和36の大阪では、一部、敗戦後に、戦勝者として占拠しにきた朝鮮半島系中国人の人たちが、住みついたエリアがあり、当然のことながら、そこに近づくことは怖いことで、鶴橋や釜ヶ崎エリアを思い出すのですが。。
日本人としてのしもた屋は、胸算用にも出てくる古くからの長屋で、江戸時代にはお殿様の城下や江戸屋敷の周辺に作られてた。
建てる時、長屋だと便利。 庭が繋がってるので,なんとなく、隣の異常にも気づく。。通風,日当たりも計算されてるし,上水,下水工事もしやすい。。
質素だけど,合理的な住まいでした。
移民の人たちの特徴は、孤立性、セキュリティ完備があるのか?平野の幼稚園に通園する途中に、そういう意味で不気味な集落があった。
どういう人が住んでるのか見えず、誰か潜んでるような不気味さがあった。。
冒頭の映像にある街路を想定せずに、占拠した者勝ちの建て方は、、まさしく、、侵略者としての建て方の特徴です。
@@DZB00167 カラー映像で、しかもデジタルでないからフィルムできたので、いつ?
この映像は、いくつかの資料をデジタル編集され、洗脳,扇動目的に作られたものではないか?
@@DZB00167 私が知ってる昭和36時期のスラム化してないスラムは、我孫子にあったお手伝いさんに来てくれてたきたださんというおばあさんのお家です。まず、日本の他の住宅と違って馴染めなかったのは、、何軒かの長屋ときただサンちの平家、お台所と一間。トイレは共同だけど,怖くて行けなくて、外で新聞紙にしたことを覚えています。建物の真ん中に井戸と共同の水道洗濯場があり、ご主人は大工さん? おばさんは帰るまでに食事の準備をするのに真剣でした。きっと,酔っ払って暴力を振るうから?と今は推測します。6軒ほどの家の門があり、その門の隣の門の前に,駄菓子屋さんがあったので、後日、近くの友達を連れて(当時はバスや自転車だったから覚えていた)行ったけれど、友達は憂鬱な表情をしてました。そこから推測するのに、、そこは実は、戦後,移民系の人たちが日本に入って最初に住みついた一種のスラムだったのではないか? ただ、、その中に、患者さんの銀行に勤めてる家族もそこで暮らしてらしてたから、、その家だけは、家の中も電気で明るく、普通に見えたので、トイレに行きたい時は、尋ねたのだけど、やはり、共同トイレしかなかったようでした。。
日本人の和式トイレは、洋式と違い,お尻をつけず、トイレというと、雪隠、、人と共有しない文化がある。。清潔感、通風、採光が考えられてる。。当時、出かけ先には、電気のないトイレが多く、怖かった。外出前の用足しは必至で、お化け屋敷と同じくらいの存在で、お腹が痛くなるほど怖かった。クモも住みついてて、、それは、雨戸の戸袋にも居て、殺虫剤エアゾールが出て,本当に助かった。
ここの映像の建物は、住んでる人の大人も子供も、どちらかというと、、朝鮮半島からのお顔として見覚えのある容貌ですが、、
きっと,戦時中に疎開したままになった空き家に住み着いたのではないでしょうか?
@@CIA戦後疑獄トルーマン全然話が伝わらない。
この動画を見て、親に感謝しました。
当たり前だと思っていた生活が、贅沢だったと気づけた。
まさか60年後にこんな動画がたくさんの人に見られて 良かったと思われるなんて、作ってる側も想像してなかったろうね 映像も100年後 200年後 貴重な資料となる事を改めて知りました
こう言う昔のドキュメンタリー好きです。貴重な映像ありがとう御座います。
あっしも好きだわ(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ
ウェーイ!(゚∀゚)人(゚∀゚)
貧乏なりの工夫が沢山あって尊敬する
嫌とは感じない、いい動画です。頑張って生きてこられた。感動しかない。
そうかなあ? 日本人が一生懸命、江戸時代から明治,大正,昭和通じて良かれと建てた日本家屋が、酷い状態にされてることに恐怖を感じる?
ここは日本人大工さんが出入り禁止区域だったのではないか?とか。。?
スゴいよなぁ。再現・セット・演技じゃなく実録
実際にこの時を過ごした方々が当時のことをコメントで教えてくれるので私の知らない日本について学べることにこの動画のありがたみを感じました。
昭和33年生まれの私だが、死んだ親父がよく言っていた。「働けど、働けど我が暮らし楽にならざり。」貧しかったが 昔の日本人は今より本当によく 働いたと思う。でも、夕食 食う時は必ず家族全員で食べてた記憶があり 、貧乏だとか 考えず楽しかった記憶しかない。
同感です
貧しくても家族みな幸せでした✨
私もです。
同じく1958年生まれです。
既に高度経済成長期に生まれましたので、自分自身は分からないのですが何故か懐かしい気がします。
私も、33年生まれです。小、中学時代、ってこんなもんでしたよ、屋根裏には、恩取りさんも二人居たよ!マアゎ、戦争孤児みたいな人だね!今の、人にはわかんないよな?
@@成行脇本恩取りさんって何ですか?すみません!47年生まれです。
私も同年代。家は隠居さんの離れで便所も水も風呂も共同だった。資本家の家は近所になかったが、ただ近郊農家が羨ましかった。軽トラがある。自転車通学が認められていた。ピアノ教室に通う農家の娘さんもいた。収穫時には彼らだけ早退も認められていた。なにより1人部屋があった。貧しい農家と労働者は団結せよなんて小学生の私はまったく信じていなかった。バブルになって近郊農家の同級生らは外車を乗り回しフランス人の女と結婚した者もいる。名刺はアパート経営。こういうのを語る者が本当に少ない。今もだ。
この時代がこの綺麗な映像で残ってるのは素晴らしい
この映像で不自然なのは、お釜が異常に綺麗で、おそらく?本来は、まともな一軒家だったところをスラム化させたのではないか?
昭和36には、日本はすでに、好景気に入っていて、松下幸之助さんや早川徳次さんたちの電気産業の時期です。。
薩摩から集団就職で中学を卒業した若者が大阪にも就労し、我が家にも、祖父の従姉妹のうちに就職した人の友人が、就職先の新物屋さんのご主人がハラスメントするので、子供が3人で開業してたので、彼女を雇ってくれないかと,いうのできてもらうことになって、我が家も安定した。
我孫子のスラムになってないスラムから手伝いに来てもらってる間には,夜中に泥棒が入ったり、、怖い事件が起こった。
こんな環境でも布団をきちんとたたみ鉢植えを飾るのが素晴らしい。
現代のゴミ屋敷動画を見た後だと何とも言えない気持ちになる。
貧困でなければきちんとした衛生観念のある草木を愛でる心がある方なんですよね…理由があってここに住んでいるんでしょうが…貧困差は今もあるしどうにかならないのか…
@@ママ-i9v戦災で焼け出されたり外地からの引き揚げ者で、敗戦前はそれなりの生活されていた故に心に余裕があるのかもですね
極めて貴重なカラー映像をネット上で観れる時代に感謝です。
69年生まれの私では 万博開催で再開発が進んだ事もあり
こうした光景を直面しませんでしたが、
大阪市下各所には まだまだ名残は残っていました。
違う視点で見ても 当時の建設作業風景で 半裸に鉢巻き姿で
簡単な足場での作業で 労災事故は極めて多かったと思います。
当時はボートピープルもいましたね。
自分も、こういう所で育った。
差別を感じて惨めな思いもしたけど、産まれる家は選べないから仕方ない。
今は結婚して皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけど、子供の頃住んでいた家が懐かしく戻りたいと思うこともある。
貧乏だけど楽しかったです。
私もそうでした。我が身を見るよう。教室も半数以上はこういう処から来てましたね。ごく当たり前の日常でした。
変に興味深い内容でした。Attractiveナノは、きっと生活のエネルギーが、溢れているから。
わかる。
>皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけど
この辺りに想像を絶する差別を受けたのかなと感じ入ってしまう…
承認欲求に飢えているんでしょう
工夫と努力をすれば自力で貧困から富裕層へ行ける資本主義社会に感謝せねば
同時に不成功者達からの妬みも受けますが
貧しくても多くを望まない、子供達の笑顔…人間らしくていいなって思う。
BGMってすごいな、子供が遊んでるシーンはほのぼのしてるのに、ドーンて音楽で一気に殺伐とした雰囲気に感じるもんな。
お上主導のスラムはとっとと除去して再開発したが良いよって啓発と正当化の映画ですから暗く描くのは当然かと思う
ここから、発展していったのは、すごい。大人たちは、暗い顔してる人もいるけど、子供たちは、楽しそうだ。住居は、貧しかったけど心は豊かだったと思います。
これ、、もし!本当にs36にこういうところに住んでた子供がいたとすると、、明るい表情で外を駆け回ってない。。親に言われて。ひっそり,家に隠れ住んでたと思う。。
本当に貴重な映像です。高画質で当時の風景がリアルに伝わってきます。ありがとうございます。
特にスラムから改良住宅への引越しのシーンがリヤカーなのがとても印象的でした。
この時期、引越し者がリヤカーというのは、聞いたことはある。
でも、、花嫁布団積んだトラックをしばしば見かける時期でしたが。。
ただ、リヤカーでひっそり夜中に,というのも、昭和50代60代になると、、彼女たち,彼らが強くなってる時期。。苦笑
それまでは、漱石関係の裁判官だった方たちの家族が大阪に暮らし、
早川徳次さんの活動に期待をかけてた時期ですが。。
五輪の前後に、長居公園になる前のススキが原のところで、山口組の決闘があり、ハワイ関係の移民系の人たちが、離婚され、残された家族は再婚してる。。鉄の女と言えそうな,強い女性らと再婚し子供を作ってる。。
同時に朝鮮系の人脈出てしたとして、住み着いてる。。
この動画に映る子供達ももうご年配
もしかしたら懐かしい友人達や御両親の姿を見つけたりしているのだろうか。
そう考えると貴重な映像を残してくれた事が素晴らしいと思う。
昭和の頃の浪商のもと朝鮮学校のペチャンコの学生鞄と学ラン、、女学生は、スケ番、、、通学の際、よく友人たちは恐れていた。。
こんな素晴らしい映像を無料で見られる時代になったんだなと……祖父や祖母はきっとこんな景色を見ていたんだろうなと、しみじみ思います。
だねえ
せやなぁ
人は生まれながら平等ではないのでこういう貧困家庭になったとしても抜け出すために公平な生活環境を与えることが国力の底上げになるのだなと思った。
菅総理「自助、自助、自助」
@@ag7404 👍️
福沢諭吉の「学問ノスゝメ」では、なぜ最初に平等を説いたのでしょうか。個々に学び、個々に底上げを為した「良民」が増えれば、その良民の上に築かれる国はより良くなるだろう、と説いています。冒頭の「初編」8ページだけでもご一読をお奨め致します。
無理だと思います。日本の忌まわしき慣習で、差別は続いていると思います。少なくとも平成16年までは第三者が就職希望者の戸籍謄本を役所で取り寄せることが可能でした。日本の大手企業は、興信所を使って戸籍謄本を調べ上げて、就職希望者(最終面接後の段階)の両親や祖父母のの出自まで調べ上げます。直系の在日コリアン(日韓併合時も含める)、または被差別部落の出自の場合、否応無く落とします。
生まれ持った能力の時点で公平じゃないから無理。平等、公平なんて虫が良すぎる綺麗事野郎!
ひと昔前の東南アジアの映像を見てるみたいだ
貴重な映像だなぁ
東南アジアにはこういうの,多かったよね。。
これも日本の歴史の1つ。この部分に焦点をあてたのは素晴らしい
これ?本当に日本? 東南アジアの昭和50代の写真じゃないの?
日本でも、ごく一部、移民が占拠した一般人は出入りしない鶴橋や釜ヶ崎と言う治外法権エリアじゃないのかなあ。。
ここから這い上がった人たちがいるんだろうなぁ と思うと感慨深い
そういう人が,力を持つとどうなるか?怖い!
つげ義春の作品で出てくる家並みの表現が、これを見てリアルだったんだと初めて知りました。
つげさんのマンガって、平成近くの不穏になり始めた時期に出回ったマンガ。。
手塚治虫さんたち,ジブリ系統とは違い、闇夜の切先を感じる作品に感じたんだけど。。
歴史的価値のあるものすごく貴重な映像
でも、、改竄だよ! 真に受けては洗脳される?
日本の発展の下ごしらえを支えた人々、ありがとうございます。安らかな晩年を切に願います。
昭和36、こう言う人が日本に居たとすると、、移民部落だと思います。
こんなにも、元々,ちゃんとした作りの日本家屋を無惨にできると言うことは、、日本人同士,見てられないはず。。
近所に日本人が居なかったのではないか?
疎開したまま、帰郷しなかった家ではないだろうか。。
実際に,和歌山でも明治政府のかく県議会が設立し、役場と小学校ができた時期には、移民が毒を流したり,飲ませたりしてることもあるから、、
(江戸時代までの和歌山市は、猟師町の方が発言権が強かったからね)
段々、日本人は大阪に出て、サラリーマンや街中で働くことが多くなる。。戦時中,戦後の闇米買いは、こうした移民が田畑を持ってたと言うことの一つの証として昭和期には話題にされてたけれど。。
ピアノや晴れ着とお米を交換,,とかね。。
こういうのを知ってるか知らないかで、今見てる景色、暮らしの風景への見方も変わってきますね。
なんだろう、誰かの過去の記憶を体験した感じがします。
いつの日か未来の誰かが、今の私達の暮らし、生活の記憶を見てる時がくるんでしょうね。
過去から現在、現在から未来へ。
先人の方々の涙ぐましい犠牲と努力でこのような歴史の延長上に今の自分が生かされてる事を思い深い感謝と感動を覚えました。ありがとうございます!
この時代に作られた改良住宅も既に建て替えが進んでいるんだよな。
どんな環境でも、子供達はどの時代も可愛らしい😊
子供のウンコも?💩
どんな場所にも生活はある。スラムという嫌煙されがちな場所で生命を営む人々への敬いと、問題を解決したいという真剣さが感じられる良い映像だった
人間が生きるという意味を改めて考えさせられる映像ですね。スラムで生きる人々の顔に生命力が溢れているように見えるのはなぜなんだろう。
出自や身分がどうであれ、個々に懐かしい風景があるんだろうと思う。
ものすごくリアルで歴史を感じさせる映像。集落とは、何かという手がかりを見つけさせてくれた、素晴らしい動画です。
子供の💩のシーンがインパクトが強すぎて、それ以降の話が頭に入って来ませんでしたが、戦後から16年の月日が流れても、憲法で保障された生活を送れずに、スラムの中で貧しい生活を送りながらも、みんなで慰め、励ましながら強く生きる人々の強さと、戦後の高度成長期における光と闇を知る貴重な動画だと思いました。
悟空が言ってるのがキツいw
ソロキャンプで新聞💩いかが?
色といい柔らかさといい模範的だと思います
栄養状態が良くなかったら、あれほどの物は出てこないでしょう
彼の食生活が健全であろうことを喜ばしく思いますね
印度だと今でも普通に見れますよ。谷崎潤一郎の文章で戦前阪急電車で子供に車内でくそさせて新聞包んで捨てるって記述がありました
臭いをかぐネッコ。
私は1965年生まれ大阪西成区で生まれそだった、うちは商売してたので日銭はあったので食物には不十しなかったが家はぼろぼろやった、有るときテレビを観ていたらマザーテレサが来日来阪の様子が流れてきて、日本最大の同和地区に大阪西成の〇〇地区とやっていた西成の中でも我が家とは反対の端に有る地域で在ったが初めて自分の住んでいる西成にそういう地域が有るんやと知った、小学生ながらテレビで特定した場所を伝えて良いのだろうかと思いもした、でも私自身も親にはその地域には近づいてはいけないと言われていた、同級生達にも貧しい家庭がたくさんあったしお金持ちもいた、でも皆苦しい中頑張って日本を作って来てくれたと思うと、先輩方を尊敬したいと思います。🙏
あいりん地区は同和地区じゃないよ。労働者とかドヤ街があるだけで
同和地区は鶴○橋とかあっちのほう
@@mhp4g あいりん地区とは言ってないよ、地名を出さないほうが良いから。
@@mhp4g
いやいや。当時はその辺り総てがそんなフンイキやったよ。
大国町、動物園前、鶴橋、阿倍野、杭全…
西成〜何なら我孫子、針中野もそう。なんばの南側はカオスやった。
映画でどんなに金かけたって、この空気感は出せないね。
役者にしてもそうやね
本物には敵わない
今は政令市のマンションが林立する地域。都市高速通ってる界隈が当時親から絶対行くなと言われた朝鮮部落がこんな雰囲気だった。頭の良い旧制中学からの伝統校のすごく可愛い女子生徒がこんなほったて小屋に住んでるって知った時は軽くショックだった。親からチョン子とは付き合うなって言われた。
Real unko 💩
@@sunami808 チョン子っていう言葉も、朝鮮半島系の人たちが使ったと思うよ?
朝鮮半島って、450年前から,つまり、藤吉郎が豊臣秀吉になったきっかけの朝鮮遠征というけれど,実際には、当時,朝鮮半島が占領されていて、秀吉は千利休になりすましたい津田宗久?宗及?に騙されて、救出に出さされたということ。。その時の末裔は、日本人を支えてくれてきた人たちでもあるけれど、、2001以降、彼らも不穏に巻き込まれてしまってる。。
これは、すごい映像だな。
都市のそういう住宅だろうなあという場所は今でも有るが、その時の記録ってのは、意外と映像として見れることは少ない。
そしてなぜか?このぼろぼろの家屋の連なりに引き付けられる。
たった60年くらい前まで日本にもこんなスラムがあったんやな。
ここから世界第2位の経済大国(今は3位になっちゃったけど)まで日本を引き上げた先人たちの苦労と頑張りには感謝の念しかない。
そのかわり公害と物価高には悩まされました。
世界第2位の日本は,もう過去のもの。日本人の給料は米国の4割、韓国以下。そのうち内に東南アジアへ仕事を求める時代も近いかな。
この当時、既に日本のGDPは世界3位(西側諸国で)だったけどね。
これが爺さん連中の思う貧困。
エアコン付きの普通の住宅に住んでスマホを持ってる今の貧困層は貧困では無いって事だな。
@@koinuya7756
バカも休み休み言え
@@koinuya7756
だから政治家が現代の低所得で未婚の若年層の貧困の実態を理解すらできんのだよね。
この動画を見ると自分は贅沢な生活送ってるなぁって思った
高度経済成長期には光と影の両方存在してたわけだが、影の部分を扱っているドキュメントはあまりないので参考になる
橋の下とか川沿いにズラッとあばら家が並んでる光景は今じゃ考えられないね
鉄筋の団地が建てられたあたりで急激に近代的な映像になって感動した
団地は、この時代この層の人たちにとっては近代の象徴なのかもしれんな
今では築60年以上になるからほとんど取り壊されてるとは思うけど、築50何年くらいなら探せばまだちらほら残ってるんよね
なんというか、本当に過渡期なんだなという感慨が押し寄せてくる映像
これに近い家に住み大きくなりました。懐かしい 田舎から神戸に来て高架下の家に住む
そこからぬけだし今では 懐かしい思い出です。
高架の下の家を不思議に思ってました。
阪和線を熊野博ブームで高架するという時、高架の人たちが最後まで反対して、結局は社会の方向が暴走するのを止めてくれてることを思った。。
こういうのは、、日本にしか居ない日本人にはわからない予感?だと思うけれど、、秀吉が騙されて連れ帰った朝鮮系の識者や技術者の末裔?
スラムで生きるのに精いっぱいでありながら、鉢植えを育てたり花を飾ったりしているのなんか良いな
人間、苦しみの中でも『楽しみ』を求めるもの。
現代では、こういったものは見ることはないが、当時はそれが心の癒しだったのではないでしょうか。
自分と他人とでは良いと思うものが違う。
素直に出ているものだと思います。
@@shunhira6390 やっぱ人間いくら貧しくても楽しみがないと生きていけないよな
見習おうと思いました。
韓国ソウルの表と裏の顔が有る
ナレーション安藤昇?
後半、涙出ました。
慎ましく苦しい生活の中
心荒むことなく生きている生命もある
その姿に私も微力ながら人や社会のお役に立てる人間であるよう頑張ろうと
そう思いました。
いつも貴重な映像をありがとうございます。昔はこの様な町や暮らしは日本中どこでも見られました。
いかに日本の戦後復旧が異次元的なスピードであったかを理解するための貴重な映像。
すでにスラムの背景を知らない世代へと移り変わっている。
意味不明に昭和レトロと持て囃される今、それぞれに意味があった時代を誰かが伝えていかなくてはならない。
戦争だけでなく、戦争からいかに急速に復興できたかを語る人も高齢を迎えている。
これが正真正銘のドキュメンタリー映像です🥺
正真正銘の改竄フィルムです。
ほんの60年前の日本
貴重な映像を見れて良かった
UA-cam万歳🙌🏻
これ,ガセネタだよ!
不法占拠地の○鮮部落
俺が子供の頃、この映像の名残りがほんの少しだけ街には残ってましたね。
しかし男の子のウンコの素晴らしい太さと質感よ。ひねり出し具合もソフトクリーム並みの滑らかさですね。猫が臭いに来るのもまた素晴らしい。
そうですね
同時代の農村も貧しさは似た様な物だろうけど、家屋は密集してないし屎尿は使い道があるしで
衛生面ではもっとマシだったんじゃないか…と、今は亡き祖父母の慎ましい暮らしを偲ぶ。
団塊の世代ですが子供の頃はまさにこうでした。否定的な見方もあるでしょうがみんな貧乏でも楽しく暮らしていました。現代が進歩したなんて思わない。その後妙な時代にしたのは私の世代に責任があるのかも。
仕方がないですよ、皆さんだって国を良くしようと思われこそすれ、悪くしてやろうだなんて思ってやってきた訳ではないんですから。団塊Jr.だからかも知れませんが本当にそう思っています☺️お父さんお母さん、私たちのために本当にどうもありがとう。
今も昔も犯罪率も差別感情も凶悪な団塊世代
良い時代なわけねえじゃろうが、自分らが日本を食い潰した白アリと反省せえや
@@カマカマタマタマ 団塊の世代は菅総理から末端の私まで実に多様な考え方の人間がいます。それが団塊世代です。逆に私は「いまどきの若者は」という言葉でフォルダ分けはしません。
今だっていい子たくさんいますよね。
でもスラムと言っても壮絶に雑然としている訳でもなくて、工夫してきれいにうまく収納棚などを取り付けて保管していたりしていて、そういう知恵がすごいなぁと思いました。
なんなんだー、この音楽は!😱ビバルデイの、春、でも流したら、見る目変わるよねー
このころのBGMって、現代音楽っぽいのが多くて、不気味というか奇妙というか、なにか不安な気持ちを感じさせられますね😅
ボスMMDerドッピオ,(‥°3°)⁾⁾@KAORIn そうそう、不気味、不安な気持ちにさせられますね
日本人の几帳面さ。ですね。
ドヤ街綺麗だな
いい歴史素材ですね。
この情報を知ることは、普通の日常ではほぼないわけですが、映像が残っていることで、色々知ることができます。
当時の人々の言葉で語られる情報も貴重なものですし。
こういった貴重な情報こそ、国自体も残すように努力するべきです。
民間に頼りすぎ。 そして残したくないものを排除。
困ったものです。
共有ありがとうございます。若者の私にとっては非常に興味深い資料でした。過去の方々の努力、思いの上で自分たちは豊かな生活を享受できているんだと身に染みて感じました。改めて、感謝します。
今でも大阪の鶴見橋商店街から少し路地へ入るとビックリするほど狭い路地があって、当時の名残を少し感じますね。
でも、ここから数十年で隅々まで清潔な国にしてくれた先人達に感謝。
いくら日本が衰退してるとはいえ、さすがにここまでのスラムはないと思う。
かの国の不法占拠した人がつくったスラムでは。
東南海地震の脅威が叫ばれている昨今、このような家の存在は都市機能の危険度が増しますので、バラックが多い住宅地などは耐震性に優れた住宅への再開発が必要ですね。
あと50年くらい衰退し続けたら元に戻ってしまうかもですね……
アルゼンチンも先進国だったのに、今は多くスラムを抱える国になってしまいましたから
そのうちマンガ喫茶にも三国人が居座り、行政に地代を要求するのだろう。
ほとんど 大阪やわ。
1964生まれですが、世代ギリギリでこの光景を目の当たりににした事がある。
敗戦で貧富の差が出来上がってしまったのかなぁ。貧困が差別をつくりワルをつくっていったのだと考えさせる映像です。
大阪ゎ万博を契機にだいぶ変わって行きました
インフラの必要性を感じます✨
@@芦柄金太郎-x3e
30:58
文化住宅とか結構この頃建てられたけど、それらの家には風呂が付いて無いから、結局は銭湯に通うしか無かったわ。
だからおじいさんたちと仲良くなれた。
昭和40年代子供の頃車窓からこのような風景を見たような気がする。
環状線。。
新今宮もだいぶ綺麗にはなったがどことなくこの空気は変わらない
懐かしいね。私の青春時代ですね。何も無かったから皆んな一生懸命働いて生活していたな〜!!。阪神工業地帯でしたから、何処へ行っても汚い長屋ばかりだったと思います。でもテレビを見るのも泥んこになって遊ぶのも楽しかったですよ。
あの頃の思い出は便所の悪臭とどぶ溝の臭い
みんなが貧乏だったあの生活が普通だと思ってた
まだ戦後を引きずってた,生きるのに精いっぱいだった
過去の美化やめろ
今のほうが断然素晴らしい時代
こういう中に育った子どもにも後にエリートになった優秀なのがいたんだろうか?
バラックの中に本瓦の立派だったろう家も存在する
@@Gaocon6 さん、ソフトバンクの社長がそうらしい、後、アパの男の社長のほうもかなり似た環境で育ったらしい
@@Gaocon6 様
はい。
日本のエリート層には結構います。
昭和33生まれですが懐かしい。うちは銀行員で鉄筋アパート社宅でしたが、すぐ横の福岡市薬院どぶ川に友達のアッちゃんが船上生活してました。一緒にコマ遊びしてましたが、小学校に上がって疎遠に。風の噂で肺炎で死んだと。他にもボロ小屋にすんでた友人も。道路は未舗装で雨降ると凸凹水溜まり。全部良い想い出。
割烹着姿の女性が振る舞っている料理やお好み焼きは、体に良い自然なもので、ファストフード、ジャンクフードまみれの現代人よりずっと豊かな食生活だと思います。
布団を干していることも素晴らしい😊
音楽は不気味だけど、住んでる人全員が悲壮な昭和枯れすすき状態じゃ無かった筈。
つげ義春や水木しげるの描く街並みがリアルカラーで観れて興奮します。
あと、SIRENシリーズの家みたい
今から60年前の低所得世帯のリアル。生々しい現状。そんなスラムをやっと出て、憧れの「改良住宅」=団地に住むようになったけど、60年後、今度はその団地で孤立死なる問題が起こっている。昔も今も、潜在的に解決されずに残っている深刻な問題を、このドキュメンタリーはものの見事にあぶり出している。
努力して大きな屋敷を建てても、核家族化の影響で子どもたちが家を出てしまい、家の中で孤独死(お金はあってもケガ・病気の時に通報とか応急処置さえしてくれる人がいない)ということも普通にあるから人の住む環境ってまだまだ闇が深いですね。
「足るを知る」とはどういう事かを教えてくれる良い資料です。同時に日本の最も基礎の部分を造り支えてこられた先代の方々に敬意を。
この時代の新今宮、萩之茶屋界隈は大分土地区画整理がされ、ドヤも今はバックパッカー相手のホテルが出来るほど発展している中でも桜ノ宮のすぐ横を流れる大川沿いに最近までスラム街があったが今は立ち入り規制が掛かっておりやがて姿を消すと思います。
音楽作為的すぎる。映像すばらしい。ナレーションも含め再編集したら全然違うものになりそう。でも、こういう仕上がりになっているのも製作された時代の背景が映し出されているという点も含め、素晴らしい作品ですね。
でも解体の効果音は昭和ゴジラ
一柳慧と高橋悠治だから、時代を感じる。
現代音楽ってBGMとしてはこういうシュールを超えた奇怪な動画かホラーにしか合わない説
おおよそ60年前にこんなひどい住宅環境、スラムがあったとは思いもよらなかった。動画で見ることでとても貴重な経験ができた。
アニメ 「あしたのジョー」観ると同じような光景が出てくるよね
改良住宅、この当時の公団は今でもまだまだ沢山残ってるだろ…建て替えがすんできれいになってるところもあるけど
団地の一階になぜか飲食店が入る経緯もわかりやすい。(もとはスラム内で営業してた飲食店だったんだよ…)
改良住宅や1960~1970チックな公団があった場所は昭和の当時は元はたいていはこういうところだったのよ
現状が不満で「日本は貧しくなったぁー」「昭和はよかったー」みたいな奴にこそ、こういう映像を見せてやりたい
敗戦後の貧しかった時代です。どこの都市にもスラムがありました。50年代の日本製品は品質が悪くて箱を開けたら違うものが入ってたということもよくあったみたいですから。
@@mhp4g 大まかですが当時の公団か否かの基準が1Fや敷地内にマーケット的な物があり現在はシャッターが閉まってて寂れてる感がありますよね「剝げかかったナショナル電気の看板等」
実は都心である新宿の明治通り沿いや周辺にも当時の建物が残ってるのはちょっと感動しましたね
今もありそうだけどね。
1960年代生まれの私にとって、とても懐かしい感じがする映像です。メンコ、ゴム飛び、凧揚げ、なつかしい遊び、駄菓子屋でお菓子をかう。。。
昔のあの長屋?!みたいな、もう少し現代風だと孤独死とかないんだろうなと思いました。 高齢化独り者、社会で支え合う環境として考えるものがある気がします。
昭和40年生だけど、水溜りだらけの近所の道路が数日でアスファルトに変わって、信号や歩道橋まで出来て生活が一変した事を思い出した。
バキュームカーとの遭遇が日常だったなw
布団ちゃんと干してるのなんか凄い感心
トタン屋根の家で生まれ育った身としては、瓦屋根ってだけで高級感感じる…
1961年の映像にしては、アヴァンギャルドな音楽
誰だろうと思ったら一柳慧氏
オノ・ヨーコの最初のご主人、納得。
この特徴的な不快な音楽、やはり一柳か 笑
@@KM-ix1so 様
ホントに音楽が不協和音的というか、狙い過ぎがウザいというか、聴く者の身体に悪いというか、です。WW 個人的に。
一方の同じ映画会社が制作した和歌山編は改良住宅で生活が向上して住民の表情もとても明るい雰囲気ですね
オノヨーコさんの「ギャアア~」もこの人の影響なんだなw
こんな環境でも、子供たちはなぜか楽しそう。
s36,には、子供はみんな小学校に行ってるはずです。
そこで、本当に,こういう家の子が通学してると、先生は家庭訪問をしますから、それに、地域でPTA活動、子供会があるので、問題になる,話題に上がる事態だと思います。。
こんな地区が昭和36時点にあったとすると、、子供もおらず、ひっそりと密入国して空き家に潜んでる人だと思う。
府営住宅,市営住宅が木造で庭付きであり、そういうところにまず,入ってるはずなので、こういう、壊れた危険な家に住んでることはまずない。。
当時の大阪市は大阪府の方が田舎で、大阪市は明治以降、活発で才覚のある人が集まってたので、こういうところは子供が攫われる危険があるというのでも、みすごしてはいないはずです。
めちゃくちゃ貴重な映像。音楽も素敵。
14:52 ガチ過ぎて声出たw
タイミング良すぎるネコよ。
4分過ぎに出てくる建物の中で大きな物は江戸時代は庄屋格の豪農や藩から認められた商人しか住めなかった造りの家です。元々は相当裕福な人たちが住んでいた地域だったはずですが、戦時中の混乱や工業化や都市化で出て行った後に住み着いたんでしょうかね。
被差別部落の中には特権階級もあって公家等の家に上がれる人々もいましたので元はそういう人達だったのかもしれません。
被差別部落は差別と言うより利権の管理の為に生まれたので特定の物の流通に関与してたり技能系だとそこら辺の農民より上の生活だったりしました。
江戸幕府から明治政府に代わった時にそういう利権が無くなり貧しくなったのかもしれません。
見た感じ板とトタンで出来たまさにバラック、といった感じの家と、傾きボロボロではあるが漆喰造りで瓦屋根もある戦前の町屋らしき家も散見されますね。元々はシャンとした日本家屋だったのでしょう。綺麗にしてれば様にはなってそうですがまあ当然直す資金が抽出出来なかったんでしょうね。
この時に建った多くの公営住宅が築50〜60年を迎えていますね。
鉄筋コンクリートの建築技術が未熟なのと低品質材のため、だいたい30年くらいしか持たない建物を無理やり延命させたり、アスベスト使いまくってたりして修繕もままならない物もあります。
一部の人しか知りませんが、これがまた大変な問題になっているのが切ないですね。
カラー映像の効果も相まってかリアルで皆さんが逞しく生きている力が映像越しに凄く伝わってきました!
時折流れるJAZZの曲が凄く心地よい!
自分が子供の頃、「なんじゃこりゃ?これが人間の住む場所なのか?」とびっくりするような街並みがけっこうあったんだよね。まさにこの映像そのものの。同級生にもこういうところに住んでいる奴がけっこういて。遊びに行ったとき、マジでびびったことを覚えている。ただ、もう自分が中学生になった80年代には完全消滅してたなぁ。きれいな公園や市営住宅になっていたんだけどね。
戦争に勝てば豊かになれるからと
様々な辛苦に耐えた先が、空襲や
飢餓、引き揚げ、戦後の復興と言う、先の時代の方々の生活や御苦労を思いました。積み重ねて下さった現代の、清潔で快適な日常と比較し言葉を失くします。ありがとうございます
十数年前にタイへ行った時を思い出した。近代的な建物が立ち並ぶ区画から少し離れたら舗装もされていない粗末な建物が立ち並ぶ場所、それでもまだマシでバスで高速道路上から見た光景は本当にバラックが無数に並んでいた。
日本車が数多く走っている国だけど、経済格差の大きさを実感。
インドのムンバイは空港の滑走路から嫌でもこれの何十倍の大きなスラムが見える。
大阪伊丹も往時は知らないけど、焼肉ドラゴンのような世界だったんだろうといつも想像する。
今日の日本でも貧困層が増えていると言われている。事実子供達の6人に一人が貧困層に属するという統計もある。しかし同じ貧困層でも時代によってその定義が大きく異なる事をこの1961年(昭和36年)に制作された映像は教えてくれる。
この頃はみんなで助け合い、今は無視しあい、あと精神病がやたら多い、たすけても奇声をあげる
@@THE.Everestlist 恐らくこの頃は人々の間に共同体意識が強かったんでしょう。現在は核家族が進みお隣通し干渉し合わない個人主義的気風が強くなったのでしょうね。
「相対的貧困」が現代。数年前に、テレビで取材された貧困女子高生の暮らしぶりに「???」な指摘がありましたね。クーラーがあって、SNS利用できて、姉が働いて派手な生活していて・・・。でも、相対的貧困。社会学とか学問領域の学者さんたちが提唱し始めたのかなと思っています。
マスメデイアから聞こえてくる「貧困家庭」とか「貧困層」「子供の貧困」は、「相対的貧困」を指しているのだろうけど、受け取る方は「絶対的貧困」をイメージしてしまう。3食食べられない子供のために「子供食堂を」なんていう活動を見ていると、食べ物が足らない訳ではないし、食べ物を買うお金がない訳でもないのに、それちょっと違うかな?と思う。生活費を生きていくのに大切な食費に回せない、食べ物を買って準備できない親の生活改善しないと、解決しない問題だよなと。
山村の田舎育ちの私の子供の頃は、飼っているニワトリが産んだ卵一個は働く父親の膳についたし、魚肉ソーセージの入ったカレーライスが御馳走で、年に一回くらい年取った飼っているニワトリを捌いて骨ごと甘辛く煮て食べさせてもらった。でも、親たちの口から「うちは貧乏だ」なんて言葉聞いたことなかったので、「貧乏に」育ったなんていうことは一切思わない。親は、自分たちの稼ぎに見合った暮らしを重ねて、私たち子供をきちんと学校に進学させてくれたし、結婚する時家を持っ時何らかの経済的支援もしてくれた。お陰で、兄弟皆 都市部近郊で持ち家を持ち子供を育て「貧乏」を嘆くことなく生活できた。
もっと時代が進んで、このフイルムの風景すら知らない人たちばかりになったら、「絶対的貧困」すらイメージすらできないようになるだろうな。
コロナでますます貧困になる
女の子がけっこうちゃんとした服を着てるのを見ると安心する
貧しい生活の中でも、女の子にみすぼらしい格好はさせたくないという精一杯の親心だと思いますが。
映画に写ると言うんで親御さん、無理してきれいな服をきせたのかも。
子供服は、お下がりか近所からの貰い物だから案外と不自由はないはず。
昔サイズアウトで着られなくなった服はバザーに出してた。多分その流れ。
貴重な映像資料ですね。
新潟市のど真ん中、新潟駅から真っ直ぐ萬代橋の橋詰めにもこの様な集落がありました。
一体何なのか、どういった人々が暮らしているのか、親に聞いても判然とせず。
ネット環境が整った昨今、調べてみてもヒットせず。
アラカン同世代でも関心の無さから記憶になく、若い世代はやすらぎ堤が出来てからの記憶しかあるはずもなく、上の世代はそろそろ怪しい人ばかり。
…無かった事になるのかな。
ワタシとて、それを知ってどうなるものでもないのだけれど。
戦争で
都市のほとんどの面積 地方都市も空襲を受けて 庶民はなんの保証もなく戦後国債もないに等しい事になり銀行も突然システムが変わり それでもここまでに出来る私たち
これからも頑張れそうですね☺️
わらべの唄と笑い声に 救われました
貴重な映像ありがとうございました✨
ウルトラマンを見ていた子供はまだ貧しかったけど、仮面ライダーを見ていた子供はもう貧しくなかった。大阪万博を境に日本はガラっと変わった。モノはあふれたが心は空っぽになっていった。
定期的にみたくなる
東京オリンピックの時浅草合羽橋に住んでました。河童寺の前の材木店の2階共同トイレ、台所、襖1枚で仕切られた6畳一間の部屋が6世帯東京オリンピック関係の内職を6畳間に母の姉妹3人泊まり込みでやってました。従姉妹も来て夜どうやって寝てたか忘れたけど楽しかったのは忘れない❗
何年も前だけど、大阪の鶴橋駅から外を見たらこんな風景があった
都会の一角には、このような地域が結構ありますよね
昔、博多の那の津に住んでました。この映像は大変懐かしい、身近な日情を彷彿とさせてくれます。貧しさは懐かしさです。70年位前の事です。
この頃に発行された、とある百科事典にも「人々の生活比較」として、高級住宅からスラムまでの比較を、主人から子供の育ちまで解説したものを写真付きで記していたのを記憶しております。
多分現在だと完全にアウトな内容でした。
事実を指摘するとアウトとされる現代の方がおかしいと思う。言葉や表現を制限したところで事実は 何も変わらない。臭いものに蓋をして嫌なものを見ない振りする社会の方が残酷で冷血
アウトな社会なのがおかしいんだけどな。
隠すからこそ、みっともないもの、恥ずかしいものとして成り下がってしまうのかもね。
まあ、死体を映すようなものかな。
見たくない現実は見えなくしてしまうような。
昭和43年東大阪生まれです。祖父母や両親に長屋で一所懸命に育ててもらいました。この時代より5〜6年後ですが、それでもまだまだこんな感じのところがあったような記憶あります。
たまらなく懐かしい。帰りたいです。昭和に。
44年生まれだけど、こんなとこたくさんあったよね
俺んちも長屋に毛が生えたくらいのアパートだった
政令指定都市の「区」なのにどっぽん便所
一軒家のやつらからはウサギ小屋とバカにされてたわw
@@katanafish0627
ちょっと悲しくなりました・・・
私の実家、確かに政令指定都市でもない九州の田舎なんですが
21世紀になってもボットン便所だったので(泣)
今は水洗になってるんですが、工事したのは2012年。
別に山の中って訳でもなく、普通の田舎って位なのですが・・・
昭和44年生まれと、平成2年生まれが共通の便所体験を持っている
というのは色々と驚きです。
その気持ち、すごくわかります。
私は二度とあの時代に帰りたくないです。
帰りたい人と帰りたくない人が一緒のコメント欄にいて何だか感慨深いです
ここ迄ではないですが、60年前の私たちも同じような環境下に暮らしてました。贅沢と豊かさを求め人情を忘れた世の中、これからの日本はどうなるんでしょうかね。
悲しいです。
7:58は国鉄環状線から見える今のヘップファイブやメンズ館あたりの景色。梅田コマ劇場、梅田劇場、スカラ座、北野劇場!!これはすごいな。
道頓堀も写ってる。西成とかは大体こんなのスラムだったんだろう。日雇いはトンネル掘ったり高速道路造ったりしてインフラ建築を担ったのでしょうな。
あしたのジョーの世界だ。実際の映像を観ると本当にこんな感じだったのかと驚く。
震災前の神戸市ではよくある風景でした。再開発で見なくなりましたね。再開発後は人との繋がりが薄くなって、昔のご近所さんと助け合いながら生きていく、人の温かさはなくなってしまいました。
自家用車や家電製品が、まだまだ金持ちの贅沢品だった時代。というのがよくわかる動画です。