石見神楽(いわみかぐら)「恵比寿(えびす)」 浜田市職員石見神楽同好会 2024.10.11 松江城下特設ステージ  撮影:CANON EOS R7+SIGMA 10-18mm F2.8

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  • Опубліковано 4 лис 2024
  • Wikipediaより
    石見神楽とは
    石見神楽(いわみかぐら)は、日本の神楽の様式のひとつ。島根県西部(石見地方)と広島県北西部(安芸地方北部)において伝統芸能として受け継がれている。日本神話などを題材とし、演劇の要素を持つ。
    起源については諸説あるが、石見地方において室町時代後期には既に演じられていたと言われ、田楽系の神楽である大元神楽[1]をルーツとし、出雲流神楽(佐陀神能)・能・狂言・歌舞伎などが影響を与えて演劇性を増し、現在の石見神楽が形成されたとされる[2]。
    その後広島県北西部へと伝わり、各々の地方において独自の変化を遂げている。現在では、広島県北西部での神楽を『芸北神楽』『ひろしま安芸高田神楽』と呼んで区別する場合もある。また戦後、野村砂男によって北九州に伝えられた石見神楽は北九州地域の気質に合う形に変化した『折尾神楽』となり地域の郷土芸能として定着している[3]。
    1979年、前述の大元神楽が国の重要無形民俗文化財に指定されたほか、各県各地多くの神楽が県または市町村の無形民俗文化財に指定されている[4]。2017年には高円宮殿下記念地域伝統芸能大賞を受賞[5]。2019年5月20日には、石見神楽(および15の構成文化財[6])が日本遺産に認定された
    七座(神楽面なしで舞う、清めや祓いの採物舞)と神能(神話劇、能舞)とが整然と分かれず、演劇性・エンターテインメント性を強めた大衆的な芸能として発展している。一般的な神楽のイメージとは一線を画した「軽快かつ激しい囃子と舞い」が特徴で、盛んな石見地方・ 広島県北西部では子供から高齢者にまで幅広く人気がある。
    石見神楽はもともと、収穫期に自然や神へ五穀豊穣を感謝する神事として、氏神社において夜を徹して朝まで奉納されるものだったが、現在はこの奉納神楽に加え、地元ほか各地で行われる定期上演、競技会(競演大会)、祭りや民間各種イベントなどでも披露されている。各種競技大会や観光向け定期公演などを除けば無料で観られる場合が大半であり、観覧制限もないため、石見神楽を観られる機会は年中を通して非常に多くなっている。
    また、島根県立しまね海洋館アクアス(浜田市/江津市)、神楽の里・舞乃市(江津市)[8]、温泉テーマパーク「神楽門前湯治村」(広島県安芸高田市)、国営備北丘陵公園(同県庄原市)など、神社以外にも神楽専用の舞台を常設している施設もある。2019年4月には、当該地域外では初となる常設の定期公演施設「石見神楽なにわ館」(大阪・難波)がオープンしている[9]。
    近年は全国各地での上演機会も増え、ヨーロッパやアジア、中東などに遠征しての外国公演も行なわれている。以上から、当該地域の神楽は地元の主要観光資源としての様相も呈してきている
    神楽団体は石見地方および広島県北西部で各々100以上に及び[11]、その地域や団体毎に様々な特徴がある。
    大正以前は、各地域の神職または氏子が奉納のために集まって団体を形成していた。20世紀後半からは「同好会・保存会」として結成された団体や、島根県外の有志で発足した団体も増加している。このため氏子として地元の団体へ弟子入りせず、好みの団体へ加入するケースが主流となっている[12]。子供神楽も盛んであり、石見神楽の伝承に力が注がれている。
    奉納先からの奉納金、観客からの花代(祝儀)、寄付等を収入として活動経費に利用している。石見神楽を興行化した団体は存在せず、すべての所属者は他に仕事等を持っている。
    奏楽は、大太鼓・締太鼓・手打鉦(銅拍子、チャッパ)・横笛の四者で構成される。楽譜はなく、大太鼓の奏者が演目を掌握しながらリードし、他の奏者は大太鼓の流れに合わせて型を奏する。場合により笛奏者がリードする役割を持つこともある。阿吽の呼吸が必要となるため、奏者は鍛錬と技術が求められる。
    また奏者は演奏しながらその演目に合わせた短歌形式の神楽歌(舞歌)を唄い、また掛け声などでより雰囲気を盛り上げる。
    演目序盤は神楽歌と共にゆったりとした囃子で、物語が進み鬼と神との格闘といったクライマックスになると一気に速いテンポの激しい囃子へと切り替わる。
    調子とは囃子や神楽歌を含む奏楽の旋律を総合的に示したものであり、一般的には手組みやテンポの遅速でその違いを感じられる。石見神楽では概ね「六調子」と「八調子」に分かれる。
    明治時代初期より過去は、神主または社人ら神職による優雅で緩やかな(六調子)舞が神社等において奉納されていた。明治時代初期に石見地方の国学者たちによる神楽様式の改正が行われ、また神職演舞禁止令・神懸り禁止令により神能を民間の氏子が務めるようになった(神俗交代[13])際に、多くの地域で激しく速いテンポ(八調子)を取り入れ娯楽性を高めた神楽へと変化していった。
    なお同じ石見神楽であっても、調子や囃子、演舞(後述)の型は各地域・団体で異なっており、いくつかの系統に分かれている。
    石西八調子(概ね、益田市周辺)
    浜田八調子(概ね、浜田市以東の日本海側)
    阿須那系八調子(概ね、旧羽須美村および広島県旧高田郡周辺[14])
    矢上系六調子(概ね、旧石見町および広島県山県郡周辺[14])
    現代では大まかに上記4系統へ分類され[15]、他にも出雲神楽と折衷した型を持つ団体(大田市周辺)、調子を区分できない独特の型を持つ団体(抜月神楽団[16])なども存在する。このため、石見神楽の中だけでも多様な囃子や舞いを観ることができる。
    舞手は金糸銀糸を用いた絢爛な衣装(舞衣)と神楽面を着用し、武器・扇・幣といった採物を手に持ち、物語に応じた口上も交えながら舞う。演目によっては舞衣や神楽面の早変わり、花火類やドライアイス煙幕の使用など、趣向を凝らした演出も用いられる。
    神楽面は現在でも一部で木彫りの面を用いているものの、もっぱら石州和紙の張子面を付ける。割れにくく軽量な和紙製の面が石見神楽にもたらした効果は計り知れない。しかし軽量とはいえ、衣装の重さと石見神楽特有の激しい舞いへの要求から、全編通して面をつけて舞うのは体力の消耗が激しい。そこで鬼や悪者を退治した後の『喜びの舞』については神方が面を外して舞う事が許されており、現在は多くの団体でそのように行っている。広島県北西部(阿須那系)では神方が着面せず、白塗りの化粧をして舞うことが多い。

КОМЕНТАРІ • 4

  • @masadat654
    @masadat654 7 днів тому +2

    石見神楽好いですね。私は邑南町や川本、江津で何度も観たことありますが、松江城特設ステージで、浜田の石見神楽同好会が有るのですね。それと広島地区の新神楽舞も観たことあります。スピードがとても速かったですね。

    • @shimanekamachan
      @shimanekamachan  6 днів тому +1

      神楽って本当に良いですよね~久々にゆっくり観れました!

  • @森と水を巡る旅
    @森と水を巡る旅 7 днів тому +1

    市職員の同好会ってのがいいですね。これも行政サービス?