天智天皇~苛烈な後継者争いを制した革命家のハードな人生~

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  • Опубліковано 28 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 18

  • @chlorine-y2u
    @chlorine-y2u 9 місяців тому +1

    乙巳の変百済などと関連する白村江の戦いなどに関連して天智天皇などは百済などの王族の翹岐(ぎょうき)などであり藤原鎌足(中臣鎌足)などは百済などの王族の扶余豊璋(ふよほうしょう)などであるとの説もあるらしいです。

  • @北川裕治-l4g
    @北川裕治-l4g 3 роки тому +9

    日本史の名コンビ
    天智天皇と藤原鎌足
    伊達政宗と片倉小十郎
    徳川吉宗と大岡忠相

    • @subuya428
      @subuya428 3 роки тому +3

      明治天皇と伊藤博文の大日本帝国興隆コンビも忘れずに

  • @seijidaisuki
    @seijidaisuki 3 роки тому +4

    この時代は血を血で洗う権力闘争や骨肉の争いが絶えない時代だったんですね。学びになりました。

  • @nattousenbei
    @nattousenbei 3 роки тому +2

    実は歴代天皇の中で一番やらかした説がある人。最後も含めてこの人の歴史は謎すぎて。だれかこっそり文字でこの頃の歴史残してない?

  • @pleasure5458
    @pleasure5458 3 роки тому +6

    大王家といえど、親戚付き合いは大変や😭
    偉大な先祖を持つ悩みですね。

  • @ジャングルマン-z4t
    @ジャングルマン-z4t Рік тому

    乙巳の変を中大兄皇子が主導したとするのは不自然に思える。
    乙巳の変後、天皇だった母親(皇極天皇)は天皇の座を追われた。
    中大兄皇子は天皇の座から遠ざかったことになる。
    乙巳の変は軽皇子(後の孝徳天皇)が皇極天皇から皇位の座を奪ったクーデターと見るべきだろう。
    そして、一度は皇位を奪われた皇極天皇が孝徳天皇から皇位の座を奪い返して斉明天皇となり、
    自分の息子の中大兄皇子に皇位を譲ったと考える方が自然だろう。

  • @kyotodoll4636
    @kyotodoll4636 3 роки тому +1

    いつも大変勉強になります😃👍
    ありがとうございますm(__)m

  • @田宮れん
    @田宮れん 3 роки тому +3

    紙で作った鎧はイマイチですよ…

  • @yaskato
    @yaskato 3 роки тому +5

    日本書紀は中臣鎌足の息子である藤原不比等が編纂の
    主務を務めています
    つまり親父を悪く書く訳が無く必然的に蘇我氏を殊更
    悪役にしていると思うのです
    中臣鎌足自身は百済の王子という説もありその鎌足と
    組んだ中大兄皇子は民衆に実は人気が無かったという
    記事もあります
    皇太子にも関わらず即位出来なかったのもそれが故と
    も言えるのではないでしょうか
    自分には天智天皇が革命家とはどうしても思えないの
    です

    • @nattousenbei
      @nattousenbei 3 роки тому

      蘇我の方が革命家だった説あるしな。

  • @itom1494
    @itom1494 3 роки тому +1

    BGMがうるさい!繰り返しの単純メロディーは気が散るので邪魔ですよ。何でBGMなんか入れるのだろう。

  • @知らぬ顔の半兵衛-z7j
    @知らぬ顔の半兵衛-z7j 3 роки тому

    お母さんが偉大だっただけで、天智自身は無能で皆から相手にされないエンガチョ的な存在だったと思う。