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今何かと話題の某市長を見る度に、きっと石田三成ってこんな感じの人だったんだろうなぁと思う。
石田三成はあくまでも政治専門の武将であって戦武将ではない。
生き様が美しい無欲、義理…今の日本人が無くしてしまったものを詰め込んだような一生だと感じました
家康を倒さないと豊臣があぶない、というのは正に正解で先を見通してしまったがゆえに早まったんでしょう。だれもあの時、家康は危ないと思ってなかったのに石田三成だけが豊臣の行く末を見通していました。関ヶ原の戦いでもし勝てばもちろん豊臣の領地は安泰で三成の権力復帰もなった。ハンニバル将軍のようになりました。それがならなかったのは徳川家康がおじいさんの清康、お父さんの広忠、妻の築山御膳、せな、長男の信康を犠牲にしてでも耐えたのが神が同情して天下を捕らせたとしかいいようがない
江戸時代の徳川側の人間で唯一?石田三成を正しく客観的に評価した男徳川光圀
なんか、近現代風に言うと石田三成 = 大卒監督者側加藤清正ら = 中卒・高卒現場側というイメージがある。現在は同かは知らないけど、10~20年前くらいまでは大卒者と中卒・高卒者の間に隔たりがあったんだよね。互いに悪く言い合う風潮があった。それに近いものがあったのではなかろうか。
三成が家康の家臣だったらめちゃくちゃ長きにわたって重宝されただろうな(?)
1年前のコメントにすいません。本多忠勝とも仲良かったですからね。三成
三成が秀吉公ではなく家康公と出会っていたらと思った事がありましたが、その歴史だと、ここまで高評価されなかったでしょうね
例え嫌われ者と言われようが「大一大万大吉」の旗の文字に偽りはないと思います。めちゃくちゃ好きです。
同意です。めちゃくちゃ好きです。生き様がカッコいい❗
家康の誘いに乗って立ってみたいと天に自分の運をかけてみたんだが、
秀吉政権下で飴の政策は秀吉の名で、鞭の政策は三成の五奉行の名で一手に大名からの憎悪を引き受けていたからです
秀次が切腹したのは三成の讒言だというからね、秀次が生きてたら家康も簡単に天下を盗めなかったわえ
三成は自分を表現するのが苦手だったんじゃないかと。本当に人望が無ければ知将と呼ばれた形部殿が味方になる訳がない
三成は関ヶ原の戦いに敗れた後自分の領民に慕われてたから、数日は匿われてたけど三成は「自分がここにずっと居ては皆に迷惑がかかる」と言って自ら自主したという説があります。武将には嫌われてたけど民には慕われてたから三成自身は大一大万大吉をちゃんとしていたエピソードですよね。
民に慕われていたエピソードだけど、飢饉の時に領民に年貢を免除して、米を恵んだというけど、他の地域も飢饉のはずなのにどこで調達したのか未だに疑問に思う。
Y H いざという時の為の米倉が有ったのでソコから調達したと伝わってます。他の大名は戦の為に出し渋ってたから飢饉が長引いたとか
石田三成の評価をアップさせたのは1981年TBSの正月ドラマ関ケ原だと思ってます。大岡越前で超有名かつ超善玉の加藤剛さんが演じられたくらいから評価が変わってきたように思います。加藤剛さんは怨霊として恐れられてた平将門も大河ドラマ風と雲と虹とで演じておられ、将門は地元民衆の英雄であったと歴史的評価を一変させてます。歴史上の人物の評価まで変えてしまう凄い役者さんです。
なぜだ、義は我にあるはず、名言でしたね、よく覚えています。
城門前で筵に座る石田三成(加藤剛さん)と門に隠れて様子を伺う小早川秀秋(国広富之さん)がもう大好きな場面です。
何時見てもかの者、哀れな最後ですね。合渡川で島津義弘軍を置き去りして大垣城へ退去。んで決戦当日は小池村と南宮神社の完全シカトで勝てるはずの戦いと言うのがひっくり返しになるとは。
だいたいが秀吉の天下取りもだいぶ無理してるからね。家康はやはりすごいわえ
呆ける事のできないみつにゃんが大好き😆💕
家康は三成の子供まで命を取らなかったからな。そして子孫は現代まで続いてる。家康は理解されない天才に同情していたかもね😢
福島正則あたり「三成に私心がないことは認める。認めてやってもいい。だが、奴は自分に私心がないことを知って、それを最大の武器にしていやがる。おれが気にくわんのは、その点だ!」
歴史じっくり紀行様 いつもありがとうございます。三成殿の知恵や忠誠は誠と思います。ただ、協調性ですよね。
2:34え?地元の長浜じゃん!この銅像、そうなの?知らなかったです。帰ったら見てみます。
三成が西軍にいたのは、律儀に最初の五大老五奉行の多数決による政権運営に従ったからじゃないだろうか。反対2賛成6棄権1的な情勢?追記;五大老のうち、秀頼の傅役に従っただけかもしれない。
14:06✖️豊臣秀吉⭕豊臣秀頼
頭脳だけでは研究者纏めて会社を運営するのが社長家康より器の小ささが命とり
組織に欠かせない歯車だったけど致命的に硬すぎた、巧妙に歯車を抜いた家康のが上手だった
有り難う御座います。
待ってました!三成公‼︎
その協調性の無さが秀吉に買われた部分もあるからなぁ遠慮なく一切手を緩めないから関ヶ原は完全に毛利家の失態
司馬遼太郎作 関ヶ原より本当かどうかは分かりませんが三成が亡くなった後、豊臣家が乱痴気騒ぎ?をしていた時に、同じ五奉行だった浅野長政が「三成が生きていればこのようなことが起こらなかったであろう...」と嘆いたエピソードがあります。
大谷吉継の茶会の件については、江戸時代に作られた逸話説もあります。大谷吉継本人が皮膚病であったとの話も確定的な資料は見つかっていないらしいです。
細川忠興との逸話を聞くたびにいつも思うんだが、なぜ三成だけにコミケが求められるんだ?コミケ不足は忠興も同じだったんじゃないのか?清正の忠誠心もある意味豊臣原理主義すぎる。小早川の裏切りも見抜いていたし、以前ほどではないにしろいつまでたっても三成悪のイメージは崩れないんだな。三成の失策は島津義弘と島左近の献策を退けたことくらい。
単に家康と仲が良かったか悪かったかの差ですよ。歴史は徳川が作ったんですから。
島左近とのエピソードは有名ですけど、改めて考えると、何度も断られて、でも一途に要請して、本当の意味での誠実さというものを三成から教えてもらった気がします。
切れ者の三成の不器用さが好きです。
秀吉の下でやりたい放題してきたんだから自業自得だよホントに忠臣というならば、晩年の秀吉の暴走を諫めるべきだった。しかし諫めないばかりか奉行として従い続けたわけだし、三成は間違った意味での忠臣だと思います
佐竹義宣が、命をかけて加藤清正や福島正則らの襲撃から守ったぐらいですから、悪い人では無かったと思います。誤解されやすい人だったんですね。
いろんな人物評絡みの逸話がある人ですが、実像は空気が読めない、協調性がない、コミュニケーションが下手という評価に当てはまる人ではないと思います。実績で言えば、外交面で上杉(直江)、佐竹、津軽との交渉も円満にこなしており、兵站や検地の管理も個人の算術能力だけでどうにかなるはずもなく、大勢の文官とのチームプレイが必要な中、上記の評価の人物に務まるはずもありません。個人の多少の好き嫌いは当時もあったとしても、あくまで武官と文官、前線部隊と後方部隊という立場の違いによる対立がそのまま、朝鮮出兵失敗による前線武将の恨みを三成一人が引き受ける形になってしまったのかなと。(しかも本来の全責任を担うべき秀吉はもうこの世にはいない。)
>実像は空気が読めない、協調性がない、コミュニケーションが下手という評価に当てはまる人ではないと思います。激しく同意。むしろそういうものを大事にしてたように見えるんだが。ただ実直がゆえ人たらしとか面従腹背とかそういう能力はなかったと思う。
osamu4975 さんただやっぱり敗軍の将の評価は難しくて、三成も評価が二転三転してますからね。たぶん最初の評価の捻れが江戸時代で徳川光圀が忠臣と評価し、新井白石が奸臣と評価した事なのかなと。単純に断定できませんが、これも最近再評価されてる綱吉政権に対して家宣政権が行った評価否定の余波なのかなと半分妄想してます。
五奉行筆頭でしたが行政官の一人に過ぎない三成が、海道一の弓取りと謳われた五大老のトップの家康と、五分の戦いが出来るところまで持っていくことが出来た事事態凄い。協調性の無い外交下手な人間には不可能でしょう。
私心が無い事は見る人が見ればわかる、って例ですね。大谷や黒田はそれを知っていたから、友情もあったし、同情もされたんだな。大将の器ではないけど、仕える人と三成の能力、人柄を理解できる人さえいれば兵站を賄うにこれ程適任な人もいなかったでしょうね。
三成に協調性有り、清正、正則、浅野…等々と、仲良くしていたら…豊臣家も続いたかも、徳川の天下も、もしかしたら…
戦乱の世には向かない人物という印象です。生まれてくるのがあとちょっと遅ければ天下太平の江戸の世で官僚的な力を存分に発揮できたでしょうね。ただ、秀吉以外に彼を「見つける」ことができたかは分かりませんが。
新井白石、間部詮房、松平定信みたいになってたかもしれませんね。
谷吉継に「三成、お前は武将としての器量においては家康には遠く及ばない」と言われてますね。この人、基本切れ者で優秀なんですけど、大将が持つべき求心力がないんですよね。ただ、この人が世の中に対して掲げるスローガンが好きで嫌いにはなれないなぁ。
なんか三成すきなんだよなあ、このチャンネル久々に見返してハマってます
三成は頭は切れても狡猾さには欠けていた松永久秀や宇喜多直家のようなタイプだったら合戦の前に家康を暗殺していたはず徳川家を敵に回すかもしれないが秀忠は大軍を指揮する器量はないから、合戦は違った展開になっていたと思う
数々の逸話に対する信憑性は未知ですが、類まれな才能の持ち主であると同時に熱意にあふれた人物だったのでしょう
切れ者が 相手を切れさせ 打ち首に (悲しいですな)
石田三成は良いね
大垣城で籠城してれば勝てたと思う 野戦に持ち込んだ時点でまけ
三方が原からの教訓がある家康公、佐和山城を潰すと思わせることにより黙ってこもったままだと領民や仲間たちへの影響が大きすぎると思って三成は大垣城を出たんでしょう、実際家康公は後に負け覚悟で信玄に挑んだとして海道一の弓取りと言われた、信玄がなくなったのはかえって建て直しができた、軍制や経済も武田信玄公の影響は大きいのだ
この毛利輝元がまた・・・ついてない・・・
石田三成の、義に対する想い。生き様に感銘を受けます。一方、たぬきと言われた徳川家康の腹黒さはズルさが際立ち好きではないですね
真田信之への手紙見てみるとすごく丁寧なんだけどねぇ…
寡黙な戦国武将でも成功している人多いけど,三成みたいに文官じゃなかったよねー
先が読めなかった(ように感じる)福島正則空気が読めなかった(主君の為に読めないふりをするしかなかった)石田三成本戦の短さを読めなかった黒田官兵衛息子の遅刻を読めなかった徳川家康
家康公は信用信頼人望のある武田信玄公に負け承知で挑んだことでより信用信頼人望と海道一の弓取りの称号のおまけがついた、損害もあったが結果的に利益をもたらした、三成は信用信頼は一部だけ、人望はない、この差はどーにもならんかったかな❓
基本、悪い人じゃないと思うのだがどうにも不器用(仕事はできる)なうえに一方では出しゃばるも癖もある。あと、妙にプライド高いのも問題。まじめな人なんだけど、どうしても他人の心を見抜けないのだよなぁ。
三成はけっして悪い方ではないと思います秀次切腹にも反対だったし秀次の家臣を召し抱えたり優しい面も有りました加藤清正などに嫌われた理由は今で言う官僚がゆえに意識の隔たりが生まれたんだと思います 戦で死んだ家臣領民敵味方問わず弔うため自身の城に千体近い金の地蔵を作らせてます 今でもその地蔵は領民の手で近くの寺に運ばれ大切にされてます
三成と家康の差は単にその時の年齢や経験だったと思います。能力はさほど変わりはない。三成は負けましたが10万からの兵を集めたわけですからそのような偉業は少なくとも対立していた加藤清正や福島なんぞにはできなかったと思います。
黒田長政については、罵倒させないためにやったというのが司馬遼説。長政は歴史ファンから人気がないから穿った見方かもですが。
攻無不克三成殿
まぁ、だいたい女子は、みっつん入りでしょう。私も先代のドラマ関ヶ原入りなので、長いこと一筋でした。たった少し、信念を曲げられたら、別の局面があったでしょう。忍城の件は、秀吉の水攻めごり押しの手紙が存在するようです。コミ障なんでしょうね。敗戦のあと、処刑前礼を尽くしたのは、みっつん襲撃団のトップ長政と忠興ふたり。長政は、父の裏切りを疑われた時、代わり首を見逃してくれた恩に感じていたのだと思います。
小早川秀秋の裏切りで関ヶ原の合戦で敗れたから石田三成は小早川秀秋に激怒したと言う事があるとか無いとか石田三成って根性がある武将ですね
三成様と仲良しだったのは、直江兼続様💑それから、真田信幸様だったとか。共通点は、頭が良く堅物、🥺いーねー❤️
同情できるところもあるんですがやっぱり頭がいいだけでも駄目ですよね今の時代で特にこの大変な時期に仕方なく家から出て仕事に行かなくてはならない人達に(それはお前らがろくに稼げない仕事についてろくに勉強しもないでそんな仕事についたお前らが悪い)と言ってる人がいたんですがその人言ってるいる事は現実で間違いでもないのですが確かですがこの三成と同じで言い方があるでしょうがと言ってやりましたあとやっぱり協調性も大事だよねて思いました
>(それはお前らがろくに稼げない仕事についてろくに勉強しもないでそんな仕事についたお前らが悪い)それ間違いだと思いますけど。むしろ逆。あと現代の(内容)<(言い方)の風潮には辟易する。
@@osamu0727 ごめんなさい逆でした😖💧、でもやっはり言い方ですよね~
辟易してようがリアルで面と向かって思ったことそのまま言うようになったら終わりだわ。「言い方」というのは言葉を向ける先の相手を一人の人間として尊重し、敬い、礼とするもの。もちろん内容も大事だが言いたいように言うような無礼な言葉なんてどれだけ正論でも実質誰も賛同しない。そういうのが嫌いな人はずっとネットで正論吐いてりゃいいんだよ。現実じゃ嫌われてもネットでは仲間できるだろ。昔に比べたら本当に恵まれた時代だよ。
当時の公家の間ではアウトオブ眼中。
武断派セブンは気難しくて短気揃いです
石田三成は過小評価されすぎ。徳川時代に敗軍の将であるためにボロクソ書かれたのが今にも伝わっていると思いますが。本来なら三国志で言えば姜維と同じ立場にあたりもう少し評価されてもいいと思うのですが。
片側一車線の一般道をずっと30キロで走っている車が石田三成。間違ってはいないけど、ただ迷惑。
なぜ家康の死を待てなかったのか関が原が無ければ余程の大義名分がないかぎり家康は主筋の豊臣を滅ぼす事が出来なかったはずその間に秀頼も成長し家康は手出し出来ないまま死を迎えたろうに
加藤、福島、小早川秀秋、浅野といった一門集が一致団結しておけば、ただ待っておけばOK感あったと思う秀吉も秀頼を何とかしてほしいなら死の間際に頼むべきは徳川じゃなくて身内だったのでは?
てか、真田幸村が関ヶ原の合戦で参戦してたら東軍終わってたな
幸村はまともに戦してなかったからどうなんだろうね笑
幸村と、昌幸な
切れ者すぎて、キレるのも早いとか.....wしょうがない、世の中はバカバカばかりなので
桃井かおりですか・・・
のび太対ジャイアンを観てのび太のカッコよさとリンクした石田三成です。個人的にmadの魂対魂の歌詞そのままのスケールの人物だと思いました。
組織には絶対に嫌われ役が必要なのよ、目付役が適任煙たがれ疎まれて、でも誰も反論できず三成はぞんぶんに使命を果たした死に場所も心得ていた
長浜だ!
駅前やね
石田三成は、最初から負けるべくして負けた武将です!戦いに於いて頭が良いとか関係無い❗️勝つ人は勝つ為に勝てるのです❗️負け人は、負ける為に負けるのです❗️これは理屈ではありません!その時のタイミングもあるし、いろいろな条件が重なるのです❗️だから勝つ人は、勝つべくして勝つのです❗️例えば、代表的な人物は、東郷平八郎などは、勝つ人で、負ける人は、石田三成や南雲中将などです❗️言っときますが、理屈では無いのです❗️勝つ人が勝つのは、勝つ様うに、すべて動くのです。運が悪いとかタイミングが悪いとか関係無いです!勝つ様に運も付くし、勝つタイミングにも会っていくのです❗️
上様のくだり字幕では秀頼って書いてありますよ
天下人の器ではない、全世代、光秀も、同様。
三献の茶ほどの心配りを同僚や下僚にはほとんど見せなかった訳だから、やっぱりイヤなヤツか軽いパーソナリティ障害だったんだろうな🤔
大変面白く拝見しているがBGMが酷い 無くすか変えてくれ 気分が悪くなる
三成のどこが切れ者で頭がいいのかよく分からない。裏方作業を地道にこなすイメージしかない。何かエピソード有りました?
検地を全国事業として成功させるだけで、かなり大変だけど極論すると現在の設備があったうえでも、これを取りまとめるプロジェクトリーダーをやれと言われたらかなり大変そして大事なことだがこういう業務のトップは「裏方」の「地道」な作業ではない多数の人と金と物を動かす巨大プロジェクトのリーダーとしての振る舞いが必要
お茶の話って、司馬遼太郎が考えた話??
昔の中国の蕭何みたいに、身の程をわきまえてタイミングよく隠居するのが正答だったとしか思えない
今何かと話題の某市長を見る度に、きっと石田三成ってこんな感じの人だったんだろうなぁと思う。
石田三成はあくまでも政治専門の武将であって戦武将ではない。
生き様が美しい
無欲、義理…今の日本人が無くしてしまったものを詰め込んだような一生だと感じました
家康を倒さないと豊臣があぶない、というのは正に正解で先を見通してしまったがゆえに早まったんでしょう。だれもあの時、家康は危ないと思ってなかったのに石田三成だけが豊臣の行く末を見通していました。関ヶ原の戦いでもし勝てばもちろん豊臣の領地は安泰で三成の権力復帰もなった。ハンニバル将軍のようになりました。それがならなかったのは徳川家康がおじいさんの清康、お父さんの広忠、妻の築山御膳、せな、長男の信康を犠牲にしてでも耐えたのが神が同情して天下を捕らせたとしかいいようがない
江戸時代の徳川側の人間で唯一?
石田三成を正しく客観的に評価した男徳川光圀
なんか、近現代風に言うと
石田三成 = 大卒監督者側
加藤清正ら = 中卒・高卒現場側
というイメージがある。現在は同かは知らないけど、10~20年前くらいまでは大卒者と中卒・高卒者の間に隔たりがあったんだよね。互いに悪く言い合う風潮があった。それに近いものがあったのではなかろうか。
三成が家康の家臣だったらめちゃくちゃ長きにわたって重宝されただろうな(?)
1年前のコメントにすいません。
本多忠勝とも仲良かったですからね。三成
三成が秀吉公ではなく家康公と出会っていたらと思った事がありましたが、その歴史だと、ここまで高評価されなかったでしょうね
例え嫌われ者と言われようが「大一大万大吉」の旗の文字に偽りはないと思います。
めちゃくちゃ好きです。
同意です。めちゃくちゃ好きです。生き様がカッコいい❗
家康の誘いに乗って立ってみたいと天に自分の運をかけてみたんだが、
秀吉政権下で飴の政策は秀吉の名で、鞭の政策は三成の五奉行の名で一手に大名からの憎悪を引き受けていたからです
秀次が切腹したのは三成の讒言だというからね、秀次が生きてたら家康も簡単に天下を盗めなかったわえ
三成は自分を表現するのが苦手だったんじゃないかと。
本当に人望が無ければ知将と呼ばれた形部殿が味方になる訳がない
三成は関ヶ原の戦いに敗れた後自分の領民に慕われてたから、数日は匿われてたけど三成は「自分がここにずっと居ては皆に迷惑がかかる」と言って自ら自主したという説があります。武将には嫌われてたけど民には慕われてたから三成自身は大一大万大吉をちゃんとしていたエピソードですよね。
民に慕われていたエピソードだけど、飢饉の時に領民に年貢を免除して、米を恵んだというけど、他の地域も飢饉のはずなのにどこで調達したのか未だに疑問に思う。
Y H いざという時の為の米倉が有ったのでソコから調達したと伝わってます。他の大名は戦の為に出し渋ってたから飢饉が長引いたとか
石田三成の評価をアップさせたのは1981年TBSの正月ドラマ関ケ原だと思ってます。大岡越前で超有名かつ超善玉の加藤剛さんが演じられたくらいから評価が変わってきたように思います。加藤剛さんは怨霊として恐れられてた平将門も大河ドラマ風と雲と虹とで演じておられ、将門は地元民衆の英雄であったと歴史的評価を一変させてます。歴史上の人物の評価まで変えてしまう凄い役者さんです。
なぜだ、義は我にあるはず、
名言でしたね、よく覚えています。
城門前で筵に座る石田三成(加藤剛さん)と門に隠れて様子を伺う小早川秀秋(国広富之さん)がもう大好きな場面です。
何時見てもかの者、哀れな最後ですね。合渡川で島津義弘軍を置き去りして大垣城へ退去。んで決戦当日は小池村と南宮神社の完全シカトで勝てるはずの戦いと言うのがひっくり返しになるとは。
だいたいが秀吉の天下取りもだいぶ無理してるからね。家康はやはりすごいわえ
呆ける事のできないみつにゃんが大好き😆💕
家康は三成の子供まで命を取らなかったからな。そして子孫は現代まで続いてる。家康は理解されない天才に同情していたかもね😢
福島正則あたり「三成に私心がないことは認める。認めてやってもいい。だが、奴は自分に私心がないことを知って、それを最大の武器にしていやがる。おれが気にくわんのは、その点だ!」
歴史じっくり紀行様 いつもありがとうございます。三成殿の知恵や忠誠は誠と思います。ただ、協調性ですよね。
2:34
え?地元の長浜じゃん!
この銅像、そうなの?
知らなかったです。
帰ったら見てみます。
三成が西軍にいたのは、律儀に最初の五大老五奉行の多数決による政権運営に従ったからじゃないだろうか。反対2賛成6棄権1的な情勢?追記;五大老のうち、秀頼の傅役に従っただけかもしれない。
14:06
✖️豊臣秀吉
⭕豊臣秀頼
頭脳だけでは研究者纏めて会社を運営するのが社長家康より器の小ささが命とり
組織に欠かせない歯車だったけど致命的に硬すぎた、巧妙に歯車を抜いた家康のが上手だった
有り難う御座います。
待ってました!三成公‼︎
その協調性の無さが秀吉に買われた部分もあるからなぁ
遠慮なく一切手を緩めないから
関ヶ原は完全に毛利家の失態
司馬遼太郎作 関ヶ原より
本当かどうかは分かりませんが
三成が亡くなった後、豊臣家が乱痴気騒ぎ?をしていた時に、同じ五奉行だった浅野長政が「三成が生きていればこのようなことが起こらなかったであろう...」と嘆いたエピソードがあります。
大谷吉継の茶会の件については、江戸時代に作られた逸話説もあります。大谷吉継本人が皮膚病であったとの話も確定的な資料は見つかっていないらしいです。
細川忠興との逸話を聞くたびにいつも思うんだが、なぜ三成だけにコミケが求められるんだ?コミケ不足は忠興も同じだったんじゃないのか?清正の忠誠心もある意味豊臣原理主義すぎる。小早川の裏切りも見抜いていたし、以前ほどではないにしろいつまでたっても三成悪のイメージは崩れないんだな。
三成の失策は島津義弘と島左近の献策を退けたことくらい。
単に家康と仲が良かったか悪かったかの差ですよ。歴史は徳川が作ったんですから。
島左近とのエピソードは有名ですけど、改めて考えると、何度も断られて、でも一途に要請して、本当の意味での誠実さというものを三成から教えてもらった気がします。
切れ者の三成の不器用さが好きです。
秀吉の下でやりたい放題してきたんだから自業自得だよ
ホントに忠臣というならば、晩年の秀吉の暴走を諫めるべきだった。しかし諫めないばかりか奉行として従い続けたわけだし、三成は間違った意味での忠臣だと思います
佐竹義宣が、命をかけて加藤清正や福島正則らの襲撃から守ったぐらいですから、悪い人では無かったと思います。
誤解されやすい人だったんですね。
いろんな人物評絡みの逸話がある人ですが、
実像は空気が読めない、協調性がない、コミュニケーションが下手という評価に当てはまる人ではないと思います。
実績で言えば、外交面で上杉(直江)、佐竹、津軽との交渉も円満にこなしており、
兵站や検地の管理も個人の算術能力だけでどうにかなるはずもなく、
大勢の文官とのチームプレイが必要な中、
上記の評価の人物に務まるはずもありません。
個人の多少の好き嫌いは当時もあったとしても、
あくまで武官と文官、
前線部隊と後方部隊という立場の違いによる対立がそのまま、
朝鮮出兵失敗による前線武将の恨みを三成一人が引き受ける形になってしまったのかなと。
(しかも本来の全責任を担うべき秀吉はもうこの世にはいない。)
>実像は空気が読めない、協調性がない、コミュニケーションが下手という評価に当てはまる人ではないと思います。
激しく同意。むしろそういうものを大事にしてたように見えるんだが。
ただ実直がゆえ人たらしとか面従腹背とかそういう能力はなかったと思う。
osamu4975 さん
ただやっぱり敗軍の将の評価は難しくて、三成も評価が二転三転してますからね。
たぶん最初の評価の捻れが江戸時代で徳川光圀が忠臣と評価し、新井白石が奸臣と評価した事なのかなと。
単純に断定できませんが、これも最近再評価されてる綱吉政権に対して家宣政権が行った評価否定の余波なのかなと半分妄想してます。
五奉行筆頭でしたが行政官の一人に過ぎない三成が、海道一の弓取りと謳われた五大老のトップの家康と、五分の戦いが出来るところまで持っていくことが出来た事事態凄い。協調性の無い外交下手な人間には不可能でしょう。
私心が無い事は見る人が見ればわかる、って例ですね。
大谷や黒田はそれを知っていたから、友情もあったし、同情もされたんだな。
大将の器ではないけど、仕える人と三成の能力、人柄を理解できる人さえいれば
兵站を賄うにこれ程適任な人もいなかったでしょうね。
三成に協調性有り、清正、正則、浅野…等々と、仲良くしていたら…豊臣家も続いたかも、徳川の天下も、もしかしたら…
戦乱の世には向かない人物という印象です。
生まれてくるのがあとちょっと遅ければ
天下太平の江戸の世で官僚的な力を存分に発揮できたでしょうね。
ただ、秀吉以外に彼を「見つける」ことができたかは分かりませんが。
新井白石、間部詮房、松平定信みたいになってたかもしれませんね。
谷吉継に「三成、お前は武将としての器量においては家康には遠く及ばない」と言われてますね。この人、基本切れ者で優秀なんですけど、大将が持つべき求心力がないんですよね。ただ、この人が世の中に対して掲げるスローガンが好きで嫌いにはなれないなぁ。
なんか三成すきなんだよなあ、このチャンネル久々に見返してハマってます
三成は頭は切れても狡猾さには欠けていた
松永久秀や宇喜多直家のようなタイプだったら合戦の前に家康を暗殺していたはず
徳川家を敵に回すかもしれないが秀忠は大軍を指揮する器量はないから、合戦は違った展開になっていたと思う
数々の逸話に対する信憑性は未知ですが、類まれな才能の持ち主であると同時に
熱意にあふれた人物だったのでしょう
切れ者が 相手を切れさせ 打ち首に (悲しいですな)
石田三成は良いね
大垣城で籠城してれば勝てたと思う 野戦に持ち込んだ時点でまけ
三方が原からの教訓がある家康公、佐和山城を潰すと思わせることにより黙ってこもったままだと領民や仲間たちへの影響が大きすぎると思って三成は大垣城を出たんでしょう、実際家康公は後に負け覚悟で信玄に挑んだとして海道一の弓取りと言われた、信玄がなくなったのはかえって建て直しができた、軍制や経済も武田信玄公の影響は大きいのだ
この毛利輝元がまた・・・
ついてない・・・
石田三成の、義に対する想い。生き様に感銘を受けます。一方、たぬきと言われた徳川家康の腹黒さはズルさが際立ち好きではないですね
真田信之への手紙見てみるとすごく丁寧なんだけどねぇ…
寡黙な戦国武将でも成功している人多いけど,三成みたいに文官じゃなかったよねー
先が読めなかった(ように感じる)福島正則
空気が読めなかった(主君の為に読めないふりをするしかなかった)石田三成
本戦の短さを読めなかった黒田官兵衛
息子の遅刻を読めなかった徳川家康
家康公は信用信頼人望のある武田信玄公に負け承知で挑んだことでより信用信頼人望と海道一の弓取りの称号のおまけがついた、損害もあったが結果的に利益をもたらした、三成は信用信頼は一部だけ、人望はない、この差はどーにもならんかったかな❓
基本、悪い人じゃないと思うのだがどうにも不器用(仕事はできる)なうえに一方では出しゃばるも癖もある。
あと、妙にプライド高いのも問題。
まじめな人なんだけど、どうしても他人の心を見抜けないのだよなぁ。
三成はけっして悪い方ではないと思います
秀次切腹にも反対だったし
秀次の家臣を召し抱えたり優しい面も有りました
加藤清正などに嫌われた理由は今で言う官僚がゆえに意識の隔たりが生まれたんだと思います 戦で死んだ家臣領民敵味方問わず弔うため自身の城に千体近い金の地蔵を作らせてます
今でもその地蔵は領民の手で近くの寺に運ばれ大切にされてます
三成と家康の差は単にその時の年齢や経験だったと思います。能力はさほど変わりはない。三成は負けましたが10万からの兵を集めたわけですからそのような偉業は少なくとも対立していた加藤清正や福島なんぞにはできなかったと思います。
黒田長政については、罵倒させないためにやったというのが司馬遼説。長政は歴史ファンから人気がないから穿った見方かもですが。
攻無不克三成殿
まぁ、だいたい女子は、みっつん入りでしょう。
私も先代のドラマ関ヶ原入りなので、長いこと一筋でした。
たった少し、信念を曲げられたら、別の局面があったでしょう。
忍城の件は、秀吉の水攻めごり押しの手紙が存在するようです。
コミ障なんでしょうね。
敗戦のあと、処刑前礼を尽くしたのは、みっつん襲撃団のトップ長政と忠興ふたり。
長政は、父の裏切りを疑われた時、代わり首を見逃してくれた恩に感じていたのだと思います。
小早川秀秋の裏切りで関ヶ原の合戦で敗れたから石田三成は小早川秀秋に激怒したと言う事があるとか無いとか石田三成って根性がある武将ですね
三成様と仲良しだったのは、直江兼続様💑それから、真田信幸様だったとか。共通点は、頭が良く堅物、🥺いーねー❤️
同情できるところもあるんですがやっぱり頭がいいだけでも駄目ですよね
今の時代で特にこの大変な時期に仕方なく家から出て仕事に行かなくてはならない人達に(それはお前らがろくに稼げない仕事についてろくに勉強しもないでそんな仕事についたお前らが悪い)と言ってる人がいたんですがその人言ってるいる事は現実で間違いでもないのですが確かですがこの三成と同じで言い方があるでしょうがと言ってやりました
あとやっぱり協調性も大事だよねて思いました
>(それはお前らがろくに稼げない仕事についてろくに勉強しもないでそんな仕事についたお前らが悪い)
それ間違いだと思いますけど。むしろ逆。
あと現代の(内容)<(言い方)の風潮には辟易する。
@@osamu0727 ごめんなさい逆でした😖💧、でもやっはり言い方ですよね~
辟易してようがリアルで面と向かって思ったことそのまま言うようになったら終わりだわ。「言い方」というのは言葉を向ける先の相手を一人の人間として尊重し、敬い、礼とするもの。もちろん内容も大事だが言いたいように言うような無礼な言葉なんてどれだけ正論でも実質誰も賛同しない。
そういうのが嫌いな人はずっとネットで正論吐いてりゃいいんだよ。現実じゃ嫌われてもネットでは仲間できるだろ。昔に比べたら本当に恵まれた時代だよ。
当時の公家の間ではアウトオブ眼中。
武断派セブンは気難しくて短気
揃いです
石田三成は過小評価されすぎ。徳川時代に敗軍の将であるためにボロクソ書かれたのが今にも伝わっていると思いますが。本来なら三国志で言えば姜維と同じ立場にあたりもう少し評価されてもいいと思うのですが。
片側一車線の一般道をずっと30キロで走っている車が石田三成。
間違ってはいないけど、ただ迷惑。
なぜ家康の死を待てなかったのか
関が原が無ければ余程の大義名分がないかぎり家康は主筋の豊臣を滅ぼす事が出来なかったはず
その間に秀頼も成長し家康は手出し出来ないまま死を迎えたろうに
加藤、福島、小早川秀秋、浅野といった一門集が一致団結しておけば、ただ待っておけばOK感あったと思う
秀吉も秀頼を何とかしてほしいなら死の間際に頼むべきは徳川じゃなくて身内だったのでは?
てか、真田幸村が関ヶ原の合戦で参戦してたら東軍終わってたな
幸村はまともに戦してなかったからどうなんだろうね笑
幸村と、昌幸な
切れ者すぎて、キレるのも早いとか.....w
しょうがない、世の中はバカバカばかりなので
桃井かおりですか・・・
のび太対ジャイアンを観てのび太のカッコよさとリンクした石田三成です。個人的にmadの魂対魂の歌詞そのままのスケールの人物だと思いました。
組織には絶対に嫌われ役が必要なのよ、目付役が適任
煙たがれ疎まれて、でも誰も反論できず
三成はぞんぶんに使命を果たした
死に場所も心得ていた
長浜だ!
駅前やね
石田三成は、最初から負けるべくして負けた武将です!戦いに於いて頭が良いとか関係無い❗️勝つ人は勝つ為に勝てるのです❗️負け人は、負ける為に負けるのです❗️これは理屈ではありません!その時のタイミングもあるし、いろいろな条件が重なるのです❗️だから勝つ人は、勝つべくして勝つのです❗️例えば、代表的な人物は、東郷平八郎などは、勝つ人で、負ける人は、石田三成や南雲中将などです❗️言っときますが、理屈では無いのです❗️勝つ人が勝つのは、勝つ様うに、すべて動くのです。運が悪いとかタイミングが悪いとか関係無いです!勝つ様に運も付くし、勝つタイミングにも会っていくのです❗️
上様のくだり
字幕では秀頼って書いてありますよ
天下人の器ではない、全世代、光秀も、同様。
三献の茶ほどの心配りを同僚や下僚にはほとんど見せなかった訳だから、やっぱりイヤなヤツか軽いパーソナリティ障害だったんだろうな🤔
大変面白く拝見しているがBGMが酷い 無くすか変えてくれ 気分が悪くなる
三成のどこが切れ者で頭がいいのかよく分からない。
裏方作業を地道にこなすイメージしかない。
何かエピソード有りました?
検地を全国事業として成功させるだけで、かなり大変だけど
極論すると現在の設備があったうえでも、これを取りまとめるプロジェクトリーダーをやれと言われたらかなり大変
そして大事なことだがこういう業務のトップは「裏方」の「地道」な作業ではない
多数の人と金と物を動かす巨大プロジェクトのリーダーとしての振る舞いが必要
お茶の話って、司馬遼太郎が考えた話??
昔の中国の蕭何みたいに、身の程をわきまえてタイミングよく隠居するのが正答だったとしか思えない