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日本橋女学館は妻の母が戦前通っていた学校ですね。彼女たちは、学徒動員で旧国際劇場(現浅草ビューホテル)で「風船爆弾」の機体制作をしていました。冬はコンニャクイモの成分で手が荒れて大変だったと言っています。昭和5年の生まれなのでまさにこの時代ですね。せっかくですのでこの動画を義母に見せたいと思います。当人のアルバムは東京大空襲ですべて失っています。
人生は短く、儚く、美しい、そして、悲しくて切なくてすばらしい😢
いつも有難う御座います。この女学校は日本橋女学館だったと思います。こんな歴史のある学校だったのですね。私の母はアルバムの方々より3歳年下です。今も一人で暮らしてくれています。有り難い事です。まさに母の女学校時代のアルバムを見ている様です。戦争を生き抜き辛い青春時代だったと思います。同級生からの年賀状は1~2枚になってしまった様です。これからも平和な時代を守る事が我々の使命だと思います。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
初めまして!私も日本橋女学館だと思って確信しています。何故なら私も女学館の卒業生だからです。私は24年前に学校を卒業しました。後で共学になったと聞きましたが神田川に沿ったあの場所はあのままでした。旧校舎に新校舎を付けた感じが今の校舎に覗えます。懐かしい。ごめんなさい、日本橋女学館を知っている方がいて、つい嬉しくなってしまいました。
お疲れ様です。カラーにすると写っている方々の表情が分かり、今の若い人たちと変わらないないんだなあと思いました。
80年も経てば無理はありませんね・・・きっと楽しく素晴らしい学生時代を過ごしたことでしょうね・・。今のわたしの同級生たちも、何処かで過ごしているでしょうし、もう居ない人もいるでしょう・・・。時代は代われど、友の顔は今でもしっかりこの胸にあります。今回も素晴らしい動画、ありがとうございました。
アルバムの表紙に2603という文字が見えました紀元2600年の御祝?が国をあげて1940年に行われたと大正生れの亡母から聞いたことあります2603年つまり1943年の御卒業と云うことですね~とても興味深いです有難う御座いました😀
全く知らない時代の全く知らない人たちの全く知らない写真だけど懐かしく感じるのは何故なのだろう
ご先祖様から引き継ぐDNAの記憶が何となく懐かしく感じさせるのかも知れないですね…私も56才ですが、何故か懐かしい感覚(笑)
自分もご先祖様を敬う気持ちを持ち続けなくてはいけない。
前世の記憶じゃない?
ここに写っている彼女たちはその後どんな人生を送ったのかな?幸せな人生だったら嬉しいけど・・・・
1943年なら勤労奉仕で軍需工場へ動員されていますからお茶の授業とかは戦争が始まる前の写真ですね。いずれにせよ、それなりに裕福な家庭の方々です。
現在では制服が変わり、さらに共学化された模様です。日本橋の名前だけは残った模様ですが。ちなみに、吹奏楽、マーチングの東京代表の常連だったり、近年ではフィギュアスケート選手などが在籍していました。
いつも配信を拝見していて思うのですが、戦前の人々の顔つきがしっかりとして、幸せそうにみえるのですが…戦争がなかったらと、つくづく思います。
同じ時代に生きるのは奇跡的ですね。そしてこの動画を拝見するのも。
素晴らしい動画ありがとうございます。銀座に住む商店の娘さんや馬喰町問屋の子女の方が多くいらしたのでしょうか。女優探検家の和泉雅子さん世代のふたまわり位の先輩方でしょうか。皆さん のびやかでよく笑った女学生をすごされたようですね。後になって想えば最高の時。その時そのときの「今がすべて」ですね。
昭和18(1943)年窣、…戰時ですね。ミッドウェイ海戰の翌年で、ソロモン海域で日本側が次々と島嶼を失陥して行った時節ですね。此の後、彼女等の内どれ程の方が戰後を迎えられたのだろうかと考えて仕舞います。
私の親戚にも戦後ですが、この学校に通っていた人がいます。日本橋女学館という校名になっていました。残念ながら、私が中学の頃にはこの写真のようなお嬢様の学校では無くなってしまい、その後共学になったんですね。
激動の時代を生きた方々。おっしゃるとおり、人生は短くも儚い。必死に生きた人生はとても美しいものだと思います。
おっ可愛い女の子と思ったらアップになりました。主さんと私は同じ美的センスですね。あの娘当然持てたでしょうね。
戦前、旧制中学への進学率が二割台だった頃、このアルバムに登場する生徒たちは下町でも比較的裕福な家庭の女の子だったのではないかと推測します。美人が多いのはさすが東京、花街も近いですし学園の華やかさがしのばれます。この時代から30年ほど後、この学園は都内有数のスケバン女子校に変貌をとげました。日本橋女学館。通称バシカン て言ってましたかここのお姉様たちの集団は洒落にならないくらいの危険なオーラを放っておりましたさらに時を経て、今再び伝統校としての品格と落ち着きを取り戻しているような気がしま
写真に写っている娘さん達は18歳でしょうか?だとしたら、私の亡き母と同じ大正15年生まれになりますね。私の母は宇都宮の女学校を卒業していますが、卒業アルバムは見た記憶はありません。何だか、亡き母の面影を見ているような気持ちになりました。有り難うございます。
旧制高等女学校は5年生までなので、もしかしたら17歳かもしれませんね。いずれにしても大正15年・1週間しかなかった昭和元年・昭和2年あたりの生まれでしょうから。
女学校は5年制で17歳で卒業ですね。
貴重なご教示有り難うございます。勉強不足でした。それでも、あの写真の、はるか彼方の空の下で、亡き母は果たしてどんな青春時代を送っていたのか?
日本橋女学館の歴史がよく分かりました。叔母が卒業生です。叔母は大正15年生まれまさにこの年代。叔母の姿を探してしまいました。
学生は学生らしく、教師は教師らしい時代でしたね。
日教組という組織が出来てから教師や学校は壊れた背後にいる共産党が悪さばかりしてる
あの頃女学校行くのは公立なら一女、二女地頭のいい女の子たち、私立ならいいところのお嬢さんしか行かなかったので今とは全然違いますね
設立は日本橋の繊維関係の商店がお金を出して子女教育のために作ったと聞いています.その後,東京府の日本橋区立になり,戦後は,都立になるか,私立とするかで住民投票.その結果,私立になったと聞いています.その後,日本橋女学館短期大学が,千葉県柏市にできて,学長は中央区関係者が多かったのではないでしょうか.中央区の柏学園という施設が同じ柏市にあります.元日本橋女学館の近くです.
戦時下にあってもちゃんとした学園生活があったのですね。私の両親(昭和11年生まれと15年生まれ)は田舎に疎開したと聞いてます。
一昔前は日本橋女学館だったのにね。
4:06 少し高峰秀子さんに似てると思いました…ご健在なら、今年で99歳ですね…
人は生き、時は流れゆく。時代の最先端で人は生きる。
人生は儚く美しいという言葉にため息が出ました!ありがとうございます
表紙の年号が皇紀なのが時代を感じさせます。近隣から通っていたとすればこの後空襲で焼け出された人も多かったかも。
昭和の終わりごろにはバシカンと言えばお嬢様と正反対の意味で有名でした。バイトの先輩が卒業生でメチャ怖かったのを思い出しました。
写真の女の子たちは高女の卒業アルバムですから現在の中3ですね。JKというよりはJCです。3:00 や4:00 前後の表情や雰囲気もまだ15歳ぐらいの幼さがあります。
15年ほど前まで当時の校舎が残っていました。
みんないい顔してる。
私は宗教もオカルトも特段興味はないが、死生観を考えさせられる動画でした。1943年すなわち昭和18年。2年後の大空襲でも被害を受けられた方が多数いらしたでしょうね。
アルバムの表紙の2603の数字は皇紀の年号ですね。昭和18年です。うちの母親もこの卒業した女学生より若干年下ですが和文タイプの授業などの写真や同じような制服の写真あります。女学校の友人たちとは卒業してからも年に一度の旅行楽しんでましたが母親はもう30年近く前に還暦過ぎで亡くなりました。
戦時中なのに皆さんとても上品で身綺麗にされていますね。まだモンペとか履かなくてもよかったのでしょうか?
昭和18年でもモンペでは無いのがすごい。
母も同じ位の歳で亀戸の下町に暮らしていた。母曰く、裕福ではなかったが、モンペなど履いたことがなかったと言ってました。
@@ヤマネユキオ おしゃれを楽しみたい女子高生 モンペなんてダサいの履くのは嫌だという方もおられたでしょうね。
@@shimashimahirohiro7517 様大空襲で家を焼かれ、母の一家は電気もない田舎の山の中へ移住しました。東京では戦前から地下鉄で遊びにも行ったし、海水浴なども行っていたと言ってましたが、貧乏だったのは確かで、終戦の年は16歳ですが勤労奉仕で工場で働いていたようです。母の口ぶりではモンペも作る余裕もなかったような感じでした。でもまあ、やはり東京は違うと、田舎育ちの私は思ったりしました。
古いアルバムをたどると、いつも時間と人生について考えさせられます。この学校は東京の者には日本橋女学館の名称で浸透してる気がします。昔からある伝統校で、皆さんおさげ髪にセーラー服が可愛らしいですね。昭和18年というと戦時中ですが、修学旅行にも行ったりしてるのをみると、まだ東京下町に空襲はきてなかったみたいですね。
制服が古い‼️文字が今と逆になっている。生きるのが精いっぱいだったんですね‼️それでも友達にあえるだけで・・・幸せだったのではないのですか?
日本橋と言いながら、浅草橋近く ww
今から10年前、20年前を思い返してもそんなに変わりなく思えますが、1950年以降と以前では何故か大きな時間の隔たりを感じるんですよね。やはり戦争を挟んでるからなんでしょうかね。
最初にアルバムの表紙が写ってるけど2603っていう数字はなにかと思ったら皇紀2603年ってことかあ、納得した
いつのものかは、表紙に2603とありますね。(皇紀2603年=1943年=昭和18年)戦争も旗色が明らかになる中を卒業されて、どんな人生を送られたのでしょうか…
アルバムの表紙の2603は皇紀2603年ですかね😊
友達もいいんだけど、同級生って不思議だなぁ。たまたま近くに住んでいた知らない連中と出会い同じ時代、同じ時間を生きる。ここに映っている方々はご健在の方も居れば、2年後の空襲で亡くなっている方も居るのだろう。同級生だったのに、与えられた時間と奪われた時間の差がデカ過ぎる。
いつの間にか校名が変わり共学になってたのか。この学校の近くに住んでましたよ。
日本橋女学館ではないでしょうか?私はそこの卒業生でした。
まだ大日本帝國で戦時中。でもアルバムからは、暗さを感じない。
当時のこの学校の生徒なら日本橋界隈から墨田区辺りの家庭でしょう。恐らく東京大空襲で焼きだされた人たちも多かったのでは。疎開してれば助かったかも知れません。いずれにしてもその後の人生は苦労したはずです。私の母も同年輩で目黒の女子高を出る前に焼きだされ大変な目にあったと語っていたっけ。
この学校が所在する日本橋馬喰町は奇跡的に戦災を逃れた場所があり、校舎が平成までは残っていたようだ。しかし卒業生は卒業したと同時期に激化した空襲を生き延びたのだろうか?
驚きました。私の叔母も15年生まれの卒業生です。20年前位に亡くなりました。
これが男子校てぇと薄っ汚くて汗っ臭いイメージだけど、女子高ともなると花も恥らう乙女達の園という、アルバムを見てもおもわずニッコリしてしまうあたりがいいですね。
お疲れ様です。ご健在なら、戦後の混乱期のお話しをお聞きしたいものです。
@@miharu3748 ありがとうございます。僕の叔父さんも同じ年(昭和18年入隊、17歳海軍、陸戦隊)戻ってきたのは、石だけでした。あの強いばあちゃんが、叔父さんの名を呼んだ時の顔だけは、忘れられません。(当方69歳)
ヨーロッパの様に石作りでは無く木造の建物、当時の面影は全く影を潜める場面ばかり!古い物は残さ無い日本、残念に思われます、良いアルバムばかりなのにねぇ〜。
サムネの生地が綿タフタのようなのが気になる。ウールの紺サージじゃないんだ。セーラーは水夫だからウールニットが本流(今もジャージーニットのところがあるくらい)ウールや綿で紺色黒色暗褐色は家庭で染め直しが効くので1975年くらいまでは「ああ染め直しね」ってのが。学生服はマスプロも多く来てたけど仕立屋もマスプロに対抗できてていた時代なので仕立仕立てなのかマスプロなのか?今もそうだけど学生服や軍服は基本デザインはあるけど作るのは仕立屋かマスプロ制服屋選べる。女性仕立て服の2頭、ドレメや文化服飾に史料あるかも。取材してくれるとうれしい!
お疲れ様です。四半世紀前に浅草橋駅前の松屋で牛丼を食べていたら、ここの女子高生が5人ぐらいで来店して漫画のようにガッツいて牛丼を食べているのを見て時代が変わったのを確信しました。未だに男女平等がと言っている人こそ時代遅れです。
アルバムの表紙に、2603って書いてあるのは、もしかしたら皇紀でしょうか?
この方々のうち、もしご健在の方がおられたなら90台後半ですね!いずれにしても戦時中に学生時代をおくれたのはかなり裕福な人達ですね!
過去も現在、未来も美人は美人…諸精霊追善供養を祈ります
いまの年齢は98才でしょうか?美しい花のような少女たちも、懸命に戦後を生き抜いてそして年老いて、もうほとんどが天に召されておいでなのですね。ほんとうに人生は光のようにはやくて、無情なものですね。でもだからといって、生きることや生きてきたことは尊いことで、いのちのバトンをわたして、愛情もこころざしも受け継がれて行く。そう意味においては、いのちは永遠なのですね。永遠の命や愛が受け継がれて行くのですね。
ひとりひとりは死んでも、日本人というものは続いているですよね、、
良い動画です。皆さん可愛い女学生さんですネ。
書籍の文化が廃れてデータ形式の物が渡される時代が来るのか?このまま続いていくのか?
母の時代を見ているようで・・・母は確か共立女学校だったはずで、同じ時代ですね
昔、昭和初期の写真がコラジューされた、東京メトロのポスターがあった。昭和16年夏、銀座の街を楽しそうに歩く、若い女性3人の姿が印象的だった。その年の暮れに、太平洋戦争が始まり、数年後には、銀座も空襲で廃墟になる・・結果として昭和16年の夏は「帝国時代、最後の`平和な夏`」になるわけで、その後の、戦中戦後を、この3人はどう生きて・・というか、生き延びられたのだろうかなと・・人間、明日にはどうなるかわからないのだから、一生懸命生きないとね
昭和16年はすでに日中戦争中で、皇軍は東亜新秩序建設の為に大陸で戦っていましたから、戦中ですよ。昭和12年の開戦から4年が経過し、海軍航空隊が重慶などへの爆撃を繰り返していた頃です。陸軍はすでに昭和14年にはノモンハンで惨敗しており、苦しい戦いを続けていました。
@@ogikubo15 国内の空気の話だよ。この時期に大陸では激戦状態であっても、すくなくとも昭和16年夏の段階では、若い女の子達がワンピースで銀座に遊びにいける空気があったって事だよ
日本橋女学館は妻の母が戦前通っていた学校ですね。
彼女たちは、学徒動員で旧国際劇場(現浅草ビューホテル)で「風船爆弾」の機体制作をしていました。
冬はコンニャクイモの成分で手が荒れて大変だったと言っています。昭和5年の生まれなのでまさにこの時代ですね。
せっかくですのでこの動画を義母に見せたいと思います。当人のアルバムは東京大空襲ですべて失っています。
人生は短く、儚く、美しい、そして、悲しくて切なくてすばらしい😢
いつも有難う御座います。この女学校は日本橋女学館だったと思います。こんな歴史のある学校だったのですね。
私の母はアルバムの方々より3歳年下です。今も一人で暮らしてくれています。有り難い事です。
まさに母の女学校時代のアルバムを見ている様です。戦争を生き抜き辛い青春時代だったと思います。
同級生からの年賀状は1~2枚になってしまった様です。これからも平和な時代を守る事が我々の使命だと思います。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
初めまして!私も日本橋女学館だと思って確信しています。何故なら私も女学館の卒業生だからです。私は24年前に学校を卒業しました。後で共学になったと聞きましたが神田川に沿ったあの場所はあのままでした。旧校舎に新校舎を付けた感じが今の校舎に覗えます。懐かしい。ごめんなさい、日本橋女学館を知っている方がいて、つい嬉しくなってしまいました。
お疲れ様です。カラーにすると写っている方々の表情が分かり、今の若い人たちと変わらないないんだなあと思いました。
80年も経てば
無理はありませんね・・・
きっと楽しく素晴らしい学生時代を過ごしたことでしょうね・・。今のわたしの同級生たちも、何処かで過ごしているでしょうし、もう居ない人もいるでしょう・・・。時代は代われど、友の顔は今でもしっかりこの胸にあります。今回も素晴らしい動画、ありがとうございました。
アルバムの表紙に2603という文字が見えました紀元2600年の御祝?が国をあげて1940年に行われたと大正生れの亡母から聞いたことあります
2603年つまり1943年の御卒業と云うことですね~とても興味深いです有難う御座いました😀
全く知らない時代の全く知らない人たちの全く知らない写真だけど懐かしく感じるのは何故なのだろう
ご先祖様から引き継ぐDNAの記憶が何となく懐かしく感じさせるのかも知れないですね…私も56才ですが、何故か懐かしい感覚(笑)
自分もご先祖様を敬う気持ちを持ち続けなくてはいけない。
前世の記憶じゃない?
ここに写っている彼女たちはその後どんな人生を送ったのかな?
幸せな人生だったら嬉しいけど・・・・
1943年なら勤労奉仕で軍需工場へ動員されていますからお茶の授業とかは戦争が始まる前の写真ですね。いずれにせよ、それなりに裕福な家庭の方々です。
現在では制服が変わり、さらに共学化された模様です。日本橋の名前だけは残った模様ですが。ちなみに、吹奏楽、マーチングの東京代表の常連だったり、近年ではフィギュアスケート選手などが在籍していました。
いつも配信を拝見していて思うのですが、戦前の人々の顔つきがしっかりとして、幸せそうにみえるのですが…戦争がなかったらと、つくづく思います。
同じ時代に生きるのは奇跡的ですね。そしてこの動画を拝見するのも。
素晴らしい動画ありがとうございます。
銀座に住む商店の娘さんや馬喰町問屋の子女の方が多くいらしたのでしょうか。女優探検家の和泉雅子さん世代のふたまわり位の先輩方でしょうか。
皆さん のびやかでよく笑った女学生をすごされたようですね。
後になって想えば最高の時。その時そのときの「今がすべて」ですね。
昭和18(1943)年窣、…戰時ですね。ミッドウェイ海戰の翌年で、ソロモン海域で日本側が次々と島嶼を失陥して行った時節ですね。此の後、彼女等の内どれ程の方が戰後を迎えられたのだろうかと考えて仕舞います。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
私の親戚にも戦後ですが、この学校に通っていた人がいます。日本橋女学館という校名になっていました。
残念ながら、私が中学の頃にはこの写真のようなお嬢様の学校では無くなってしまい、その後共学になったんですね。
激動の時代を生きた方々。おっしゃるとおり、人生は短くも儚い。必死に生きた人生はとても美しいものだと思います。
おっ可愛い女の子と思ったらアップになりました。主さんと私は同じ美的センスですね。あの娘当然持てたでしょうね。
戦前、旧制中学への進学率が二割台だった頃、このアルバムに登場する生徒たちは下町でも比較的裕福な家庭の女の子だったのではないかと推測します。美人が多いのはさすが東京、花街も近いですし学園の華やかさがしのばれます。
この時代から30年ほど後、この学園は都内有数のスケバン女子校に変貌をとげました。
日本橋女学館。通称バシカン て言ってましたか
ここのお姉様たちの集団は洒落にならないくらいの危険なオーラを放っておりました
さらに時を経て、今再び伝統校としての品格と落ち着きを取り戻しているような気がしま
写真に写っている娘さん達は18歳でしょうか?
だとしたら、私の亡き母と同じ大正15年生まれになりますね。
私の母は宇都宮の女学校を卒業していますが、卒業アルバムは見た記憶はありません。
何だか、亡き母の面影を見ているような気持ちになりました。
有り難うございます。
旧制高等女学校は5年生までなので、もしかしたら17歳かもしれませんね。
いずれにしても大正15年・1週間しかなかった昭和元年・昭和2年あたりの生まれでしょうから。
女学校は5年制で17歳で卒業ですね。
貴重なご教示有り難うございます。
勉強不足でした。
それでも、あの写真の、はるか彼方の空の下で、亡き母は果たしてどんな青春時代を送っていたのか?
日本橋女学館の歴史がよく分かりました。叔母が卒業生です。叔母は大正15年生まれまさにこの年代。叔母の姿を探してしまいました。
学生は学生らしく、教師は教師らしい時代でしたね。
日教組という組織が出来てから教師や学校は壊れた
背後にいる共産党が悪さばかりしてる
あの頃女学校行くのは公立なら一女、二女地頭のいい女の子たち、私立ならいいところのお嬢さんしか行かなかったので
今とは全然違いますね
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
設立は日本橋の繊維関係の商店がお金を出して子女教育のために作ったと聞いています.その後,東京府の日本橋区立になり,戦後は,都立になるか,私立とするかで住民投票.その結果,私立になったと聞いています.その後,日本橋女学館短期大学が,千葉県柏市にできて,学長は中央区関係者が多かったのではないでしょうか.中央区の柏学園という施設が同じ柏市にあります.元日本橋女学館の近くです.
戦時下にあってもちゃんとした学園生活があったのですね。私の両親(昭和11年生まれと15年生まれ)は田舎に疎開したと聞いてます。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
一昔前は日本橋女学館だったのにね。
4:06 少し高峰秀子さんに似てると思いました…
ご健在なら、今年で99歳ですね…
人は生き、時は流れゆく。時代の最先端で人は生きる。
人生は儚く美しいという言葉にため息が出ました!ありがとうございます
表紙の年号が皇紀なのが時代を感じさせます。
近隣から通っていたとすればこの後空襲で焼け出された人も多かったかも。
昭和の終わりごろにはバシカンと言えばお嬢様と正反対の意味で有名でした。
バイトの先輩が卒業生でメチャ怖かったのを思い出しました。
写真の女の子たちは高女の卒業アルバムですから現在の中3ですね。JKというよりはJCです。3:00 や4:00 前後の表情や雰囲気もまだ15歳ぐらいの幼さがあります。
15年ほど前まで当時の校舎が残っていました。
みんないい顔してる。
私は宗教もオカルトも特段興味はないが、死生観を考えさせられる動画でした。
1943年すなわち昭和18年。
2年後の大空襲でも被害を受けられた方が多数いらしたでしょうね。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
アルバムの表紙の2603の数字は皇紀の年号ですね。昭和18年です。うちの母親もこの卒業した女学生より若干年下ですが和文タイプの授業などの写真や同じような制服の写真あります。女学校の友人たちとは卒業してからも年に一度の旅行楽しんでましたが母親はもう30年近く前に還暦過ぎで亡くなりました。
戦時中なのに皆さんとても上品で身綺麗にされていますね。まだモンペとか履かなくてもよかったのでしょうか?
昭和18年でもモンペでは無いのがすごい。
母も同じ位の歳で亀戸の下町に暮らしていた。母曰く、裕福ではなかったが、モンペなど履いたことがなかったと言ってました。
@@ヤマネユキオ おしゃれを楽しみたい女子高生 モンペなんてダサいの履くのは嫌だという方もおられたでしょうね。
@@shimashimahirohiro7517 様
大空襲で家を焼かれ、母の一家は電気もない田舎の山の中へ移住しました。東京では戦前から地下鉄で遊びにも行ったし、海水浴なども行っていたと言ってましたが、貧乏だったのは確かで、終戦の年は16歳ですが勤労奉仕で工場で働いていたようです。母の口ぶりではモンペも作る余裕もなかったような感じでした。でもまあ、やはり東京は違うと、田舎育ちの私は思ったりしました。
古いアルバムをたどると、いつも時間と人生について考えさせられます。
この学校は東京の者には日本橋女学館の名称で浸透してる気がします。昔からある伝統校で、皆さんおさげ髪にセーラー服が可愛らしいですね。
昭和18年というと戦時中ですが、修学旅行にも行ったりしてるのをみると、まだ東京下町に空襲はきてなかったみたいですね。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
制服が古い‼️文字が今と逆になっている。生きるのが精いっぱいだったんですね‼️それでも友達にあえるだけで・・・幸せだったのではないのですか?
日本橋と言いながら、浅草橋近く ww
今から10年前、20年前を思い返してもそんなに変わりなく思えますが、1950年以降と以前では何故か大きな時間の隔たりを感じるんですよね。
やはり戦争を挟んでるからなんでしょうかね。
最初にアルバムの表紙が写ってるけど2603っていう数字はなにかと思ったら皇紀2603年ってことかあ、納得した
いつのものかは、表紙に2603とありますね。(皇紀2603年=1943年=昭和18年)
戦争も旗色が明らかになる中を卒業されて、どんな人生を送られたのでしょうか…
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
アルバムの表紙の2603は皇紀2603年ですかね😊
友達もいいんだけど、同級生って不思議だなぁ。
たまたま近くに住んでいた知らない連中と出会い同じ時代、同じ時間を生きる。
ここに映っている方々はご健在の方も居れば、2年後の空襲で亡くなっている方も居るのだろう。
同級生だったのに、与えられた時間と奪われた時間の差がデカ過ぎる。
いつの間にか校名が変わり共学になってたのか。
この学校の近くに住んでましたよ。
日本橋女学館ではないでしょうか?私はそこの卒業生でした。
まだ大日本帝國で戦時中。
でもアルバムからは、暗さを感じない。
当時のこの学校の生徒なら日本橋界隈から墨田区辺りの家庭でしょう。恐らく東京大空襲で焼きだされた人たちも多かったのでは。疎開してれば助かったかも知れません。
いずれにしてもその後の人生は苦労したはずです。私の母も同年輩で目黒の女子高を出る前に焼きだされ大変な目にあったと語っていたっけ。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
この学校が所在する日本橋馬喰町は奇跡的に戦災を逃れた場所があり、校舎が平成までは残っていたようだ。しかし卒業生は卒業したと同時期に激化した空襲を生き延びたのだろうか?
驚きました。私の叔母も15年生まれの卒業生です。20年前位に亡くなりました。
これが男子校てぇと薄っ汚くて汗っ臭いイメージだけど、女子高ともなると花も恥らう乙女達の園という、アルバムを見てもおもわずニッコリしてしまうあたりがいいですね。
お疲れ様です。ご健在なら、戦後の混乱期のお話しをお聞きしたいものです。
この卒業の2年後に東京の空に爆弾の雨が降るんですよね…
こんなに清楚で純真無垢な少女達も…虫けらのように無差別に吹き飛ばされ人生を奪われたのでしょう…
それを思うとなんて戦争なんて愚かな行為なんだと思い視界がぼやけてきます
@@miharu3748
ありがとうございます。僕の叔父さんも同じ年(昭和18年入隊、17歳海軍、陸戦隊)戻ってきたのは、石だけでした。
あの強いばあちゃんが、叔父さんの名を呼んだ時の顔だけは、忘れられません。(当方69歳)
ヨーロッパの様に石作りでは無く木造の建物、当時の面影は全く影を潜める場面ばかり!古い物は残さ無い日本、残念に思われます、良いアルバムばかりなのにねぇ〜。
サムネの生地が綿タフタのようなのが気になる。ウールの紺サージじゃないんだ。セーラーは水夫だからウールニットが本流(今もジャージーニットのところがあるくらい)
ウールや綿で紺色黒色暗褐色は家庭で染め直しが効くので1975年くらいまでは「ああ染め直しね」ってのが。
学生服はマスプロも多く来てたけど仕立屋もマスプロに対抗できてていた時代なので仕立仕立てなのかマスプロなのか?今もそうだけど学生服や軍服は基本デザインはあるけど作るのは仕立屋かマスプロ制服屋選べる。
女性仕立て服の2頭、ドレメや文化服飾に史料あるかも。取材してくれるとうれしい!
お疲れ様です。四半世紀前に浅草橋駅前の松屋で牛丼を食べていたら、ここの女子高生が5人ぐらいで来店して漫画のようにガッツいて牛丼を食べているのを見て時代が変わったのを確信しました。
未だに男女平等がと言っている人こそ時代遅れです。
アルバムの表紙に、2603って書いてあるのは、もしかしたら皇紀でしょうか?
この方々のうち、もしご健在の方がおられたなら90台後半ですね!いずれにしても戦時中に学生時代をおくれたのはかなり裕福な人達ですね!
過去も現在、未来も美人は美人…諸精霊追善供養を祈ります
いまの年齢は98才でしょうか?美しい花のような少女たちも、懸命に戦後を生き抜いてそして年老いて、もうほとんどが天に召されておいでなのですね。
ほんとうに人生は光のようにはやくて、無情なものですね。
でもだからといって、生きることや生きてきたことは尊いことで、いのちのバトンをわたして、愛情もこころざしも受け継がれて行く。
そう意味においては、いのちは永遠なのですね。永遠の命や愛が受け継がれて行くのですね。
ひとりひとりは死んでも、日本人というものは続いているですよね、、
良い動画です。皆さん可愛い女学生さんですネ。
書籍の文化が廃れてデータ形式の物が渡される時代が来るのか?このまま続いていくのか?
母の時代を見ているようで・・・母は確か共立女学校だったはずで、同じ時代ですね
昔、昭和初期の写真がコラジューされた、東京メトロのポスターがあった。昭和16年夏、銀座の街を楽しそうに歩く、若い女性3人の姿が印象的だった。その年の暮れに、太平洋戦争が始まり、数年後には、銀座も空襲で廃墟になる・・
結果として昭和16年の夏は「帝国時代、最後の`平和な夏`」になるわけで、その後の、戦中戦後を、この3人はどう生きて・・というか、生き延びられたのだろうかなと・・人間、明日にはどうなるかわからないのだから、一生懸命生きないとね
昭和16年はすでに日中戦争中で、皇軍は東亜新秩序建設の為に大陸で戦っていましたから、戦中ですよ。昭和12年の開戦から4年が経過し、海軍航空隊が重慶などへの爆撃を繰り返していた頃です。陸軍はすでに昭和14年にはノモンハンで惨敗しており、苦しい戦いを続けていました。
@@ogikubo15 国内の空気の話だよ。この時期に大陸では激戦状態であっても、すくなくとも昭和16年夏の段階では、若い女の子達がワンピースで銀座に遊びにいける空気があったって事だよ