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懐かしい。上大津町に住んでいました。家が農業だったので母がカゴに野菜を入れて市場に持って行き、魚をよく買ってきていました。中学生の時、福江大火が有り町の中心地が全部燃えてしまいました。まだ数家しか燃えていない時に町に行きましたが、今でも、燃えている町並みが目に浮かびます。
大変貴重な映像をありがとうございます!興味深く拝見しました。「生活必需品を本土に頼っている」と言いますが、この時代はほとんど自給自足だったんじゃないかと思います。半農半漁で物々交換で生活していたと聞きます。漁村の人は魚を持って一部地域の米を作っている農家へ行き、米と交換すると。ただし、米は貴重品でしたから正月ぐらいしか食べられなかったそうです。「踊りの起源は解らないが」・・って、起源を研究者に調べてほしいものです。日本にはない独特な踊りが、どこから渡来したのか興味があるし、ロマンを感じますよ。キリシタンに関してですが、仏教の信者も普通にいますね。断崖絶壁の中に隠れるようにしてあるマリア像は、海の上からしか見えないし旅客船の航路沿いにある場所ではないようなので、なかなか見ることはできませんね。そしてやはり電気がくるのが遅かったのですね。福江島でも、戦後までランプを使用していたと話に聞いていたとおりでした。街灯などなかったので、夜道は提灯を使用していたとか。風力発電の風車は今は立派なものが立っているのを三井楽で見ました。手漕ぎの漁船も話に聞いていたとおりでした!八丁櫓と言っていたんですよね。その後、エンジンを積んだ船を使うようになりましたが、速度が相当に遅かったようです。沿岸で良い魚がたくさん捕れていたんですよね。今は「魚が捕れない」が口癖のようになっているのですが、かつては船団を組んで東シナ海に遠洋漁業にも出ていて、物凄い量の魚が捕れていたそうです。とにかく魚が捕れて捕れて、滅茶苦茶に捕りすぎて、その後捕れなくなったそうです。まだ排他的経済水域が無かった時代のことですね。
市場の風景は、福江大火前の堀町通り辺りでしょうか。活気があった昔日の面影は、シャッター通りと化した現在の本町通り商店街から想像もできません。 福江島の名物オーモンデーと紹介されているのは、嵯峨ノ島に伝わる念仏踊り。令和の5年、踊り手不足で中断したのは残念。チャンココやカケ踊りも後継が気になります。 撮影当時は就航間もない新鋭船だった楓丸が懐かしい。 でも、この映像、全体が縦につぶれているように見えます。映画の画像を無理やりテレビサイズにしたのでしょうか。
五島での生活は、自然環境は最高に素晴らしいところです。魚は新鮮で安くとても美味しいのは本当です。ひとつ言えるのは、米と野菜・パン類などがやや高めでその分、食費がかかります。ですから、畑で野菜づくりをするのがよいかと考えます。
私も奈留島だ俺らの子供の頃は福江より良かったと思う学校給食も奈留が福江よりも早いし人口も約8000人以上居た島だ昔は10000人以上と聴いてる船も楓丸他奈留から福江、長崎と運行でしたねその頃の福江は港は浅く大きな船は港に接岸出来ない状態でしたね。
昭和20~30年くらいでしょうか?。通りが狭く、おそらく大火の前でしょうか? 桟橋もないし、鬼岳からの風景にまだ空港はありませんね。ちなみにここに写ってる大瀬崎灯台は昭和40年代に改築され、初代の灯台躯体は現在東京の船の科学館で復元されてます。
昭和32年の楓丸就航から昭和37年の福江大火の間、昭和30年代半ばの撮影でしょう。
おそらくこの頃が人口がピークだと思う。交通とか不便だったが子供も多くいて活気があった。私はまだ生まれていないが、親戚がこの辺に多数いたはず。
奈留島生まれで、福江の緑が丘小学こう
追伸、佐世保時代に福江姉さんって人にはお世話になりました。
半農半漁、踏み絵、私の踏み絵は体重計です!毎日やせろ痩せろの表示です!私は骨太だから骨格が太い。私の踏み絵は体重計☆
懐かしい。上大津町に住んでいました。家が農業だったので母がカゴに野菜を入れて市場に持って行き、魚をよく買ってきていました。中学生の時、福江大火が有り町の中心地が全部燃えてしまいました。まだ数家しか燃えていない時に町に行きましたが、今でも、燃えている町並みが目に浮かびます。
大変貴重な映像をありがとうございます!興味深く拝見しました。
「生活必需品を本土に頼っている」と言いますが、この時代はほとんど自給自足
だったんじゃないかと思います。半農半漁で物々交換で生活していたと聞きます。
漁村の人は魚を持って一部地域の米を作っている農家へ行き、米と交換すると。
ただし、米は貴重品でしたから正月ぐらいしか食べられなかったそうです。
「踊りの起源は解らないが」・・って、起源を研究者に調べてほしいものです。
日本にはない独特な踊りが、どこから渡来したのか興味があるし、ロマンを感じますよ。
キリシタンに関してですが、仏教の信者も普通にいますね。
断崖絶壁の中に隠れるようにしてあるマリア像は、海の上からしか見えないし
旅客船の航路沿いにある場所ではないようなので、なかなか見ることはできませんね。
そしてやはり電気がくるのが遅かったのですね。
福江島でも、戦後までランプを使用していたと話に聞いていたとおりでした。
街灯などなかったので、夜道は提灯を使用していたとか。
風力発電の風車は今は立派なものが立っているのを三井楽で見ました。
手漕ぎの漁船も話に聞いていたとおりでした!八丁櫓と言っていたんですよね。
その後、エンジンを積んだ船を使うようになりましたが、速度が相当に遅かったようです。
沿岸で良い魚がたくさん捕れていたんですよね。
今は「魚が捕れない」が口癖のようになっているのですが、かつては船団を組んで
東シナ海に遠洋漁業にも出ていて、物凄い量の魚が捕れていたそうです。
とにかく魚が捕れて捕れて、滅茶苦茶に捕りすぎて、その後捕れなくなったそうです。
まだ排他的経済水域が無かった時代のことですね。
市場の風景は、福江大火前の堀町通り辺りでしょうか。活気があった昔日の面影は、シャッター通りと化した現在の本町通り商店街から想像もできません。
福江島の名物オーモンデーと紹介されているのは、嵯峨ノ島に伝わる念仏踊り。令和の5年、踊り手不足で中断したのは残念。チャンココやカケ踊りも後継が気になります。
撮影当時は就航間もない新鋭船だった楓丸が懐かしい。
でも、この映像、全体が縦につぶれているように見えます。映画の画像を無理やりテレビサイズにしたのでしょうか。
五島での生活は、自然環境は最高に素晴らしいところです。魚は新鮮で安くとても美味しいのは本当です。ひとつ言えるのは、米と野菜・パン類などがやや高めでその分、食費がかかります。ですから、畑で野菜づくりをするのがよいかと考えます。
私も奈留島だ俺らの子供の頃は福江より良かったと思う学校給食も奈留が福江よりも早いし人口も約8000人以上居た島だ昔は10000人以上と聴いてる船も楓丸他奈留から福江、長崎と運行でしたねその頃の福江は港は浅く大きな船は港に接岸出来ない状態でしたね。
昭和20~30年くらいでしょうか?。通りが狭く、おそらく大火の前でしょうか? 桟橋もないし、鬼岳からの風景にまだ空港はありませんね。ちなみにここに写ってる大瀬崎灯台は昭和40年代に改築され、初代の灯台躯体は現在東京の船の科学館で復元されてます。
昭和32年の楓丸就航から昭和37年の福江大火の間、昭和30年代半ばの撮影でしょう。
おそらくこの頃が人口がピークだと思う。交通とか不便だったが子供も多くいて活気があった。
私はまだ生まれていないが、親戚がこの辺に多数いたはず。
奈留島生まれで、福江の緑が丘小学こう
追伸、佐世保時代に福江姉さんって人にはお世話になりました。
半農半漁、踏み絵、私の踏み絵は体重計です!毎日やせろ痩せろの表示です!私は骨太だから骨格が太い。私の踏み絵は体重計☆