[HD]北九州市の今昔(門司編)

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  • Опубліковано 3 кві 2015
  • 説明 昔(主に昭和30~40年代)の北九州市の街並み(風景)が現在どう変化しているか、当時撮影したほぼ同じ場所から撮影し、その変貌ぶりをスライドショーで紹介(門司編)
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КОМЕНТАРІ • 12

  • @f4802
    @f4802 4 роки тому +2

    この動画には子供の頃、青春時などの思い出が輻輳します。
    例えば写真のとった場所、清滝は毎日新聞社が、また新聞社を見下ろせる処に、お世話に成った家の墓所がありますね。
    火の山からの写真には水族館も見えますよ、何度も写る門司港湾の堤防「一文字埠頭」泳いで渡っていました。

  • @masa-vs1fm
    @masa-vs1fm 2 роки тому +1

    見ごたえ充分ですね!

  • @user-ww4rx5jb8p
    @user-ww4rx5jb8p 3 роки тому +1

    昭和23年門司生まれです。なつかしいです❗何年に一回は帰りますが、すっかり変わりましたね❗

  • @user-wi2go5yy7i
    @user-wi2go5yy7i 3 роки тому +1

    すごいです!

  • @hidekifujikawa4764
    @hidekifujikawa4764 5 років тому +1

    一文字堤防が懐かしいね。
    真光寺さんの前の船溜まりから泳ぎ陸軍倉庫?の岸伝いに行くと曲がった辺りに木造造船所が、(和布刈公園から下った処)ありましたね。

  • @hidekifujikawa4764
    @hidekifujikawa4764 5 років тому +1

    この中で清滝からの写真、この下に毎日新聞社がありました。
    門司港駅左に門鉄の赤レンガビルが、S41年頃の港にブイに係留された貨物船が見えますね。この間を国鉄連絡船が門司、下関を同時刻に出航し貨物船を間に手前は門司からの船、向こう側は下関から出航で中間あたりで離合しお客さんが互いに手を振っていました。
    パコダも大きく見えますが、樹々に覆い尽くされ小さく見えます。

  • @f4802
    @f4802 3 роки тому

    門司港駅前にバス停、和布刈行きでした、もう一つのバス停は左側(見えませんが)に田の浦行きの二箇所でした。

  • @f4802
    @f4802 3 роки тому

    7:39秒の処、防波堤(一文字埠頭)の手前は、和布刈公園から下った処には遊園地が造られ間を置いて建物は?、記憶が?です、次いで水族館、和布刈神社、で次いで人道トンネルのエレベーター入り口です。
    遊園地ができる前は少し面影が見られますが、木造造船所が有りました。
    また、公園から下った反対側(見えませんが)陸軍関係の倉庫が有り、倉庫を活用した菊人形展は有名でした。

  • @f4802
    @f4802 3 роки тому

    1:37秒の処、パコダが古城山上に見えますね、パコダを中心に左側に国民宿舎、右側には間隔を置いたリフトの橋脚が、その下辺りは国道トンネル入り口です。
    トンネル入り口側(左側)にリフト乗り場が、〜〜パコダを下に見える頃はリフトを降ります。其処のリフトの台座は今でも残って、当時の面影を偲ばせてくれるものがありますよ。また、映画「ビルマの竪琴」が上映されており涙を誘ったものでした。
    国民宿舎とパコダの間の白い建物はトンネルの排気塔と思われます。
    また、関門連絡船の桟橋も(門司港駅に着くと人並みは左方の桟橋に向かっておりました、)僅かな人が、またこの先の左方の改札出口に、正面の改札口は出札口でした。
    この国鉄の桟橋で見えませんが、後ろ側に唐戸行きの桟橋が、(門司港駅を出ると直ぐ左方に)ありました。

  • @user-wq4io3se3v
    @user-wq4io3se3v 3 роки тому +2

    本当に懐かし写真です、我が祖父の地は田ノ浦、始めの菩提寺は真光寺さんでした。1805年迄の墓所の記録がありましたが、残念ながら、江戸末期長州からの侵攻により全ての記録が紛失しました。現在は大蔵院小林様にお世話になって居ます。父は毎日新聞でした。幼い頃新聞社の風呂に入るのが楽しみでした。農林水産省の倉庫は我が家の寄付により建設されました。現在は有りませんが西鉄電車の倉庫は田ノ浦に、我が曽祖父の誘致で出来ましたし。貨物列車の路線等もそうです。現在の関門トンネル、関門橋等は我が家の父が居なければ建設は相当に遅れた筈です。門司港は以前は大陸との大切な接点でした。私幼い頃。真光寺さんの前の漁港で干潮の時には遊んでました。残念ながら盆の墓参りの時ばかりでした。今でも大蔵院小林様様には真光寺さんからの移築で大変お世話になって居ます。墓所には北中累代、更に妹もいずれ母、私も、門司の名家北中は私で終焉を迎え、藤原の朝臣北中慎一は最後になりますが曽祖父の地門司の新たな開発がある事を願います。

  • @toto_cony7931
    @toto_cony7931 3 роки тому +1

    静止画にズームを多用する意味?