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利根川東遷事業って有名で大規模、重要な割にネット上の解説を見てもどこをどうやったんだかいまいちよくわからなかったたのでわかりやすく解説してくれてありがたいです
GWに関宿城に行ってきて利根川、江戸川の治水の歴史をみてきました。本当に凄い苦労して今の姿があると思いました。昔の人、尊敬します。
元荒川と古利根川が流れる越谷の住人としては非常に興味深い
父がかって水資源開発公団に勤めていました。千葉の東総用水や秩父のダム・水路に関係して単身赴任や長期出張をよくしていて、私も赴任先の周りに何もない宿舎に夏休み中泊まったり、日曜視察と称して利根川にハゼ釣りに行ったりしました。また実家は江戸川の千葉側流域で、こちら側は大きな堤防のお陰でカスリーン台風でも洪水しなかったとか、そこに流れ込む近所の汚い小川も江戸後期に庄屋と住民が半世紀以上かけて整備したもので、そのお陰で今も治水が良いとか聞いたものです。そんなことを思い出しながら、今回のお話を大変興味深く聞きました。ありがとうございました。
小学校の時に治水工事が授業で取り上げられ、水を引くことはもちろん、土を掘ることがどれだけ大変なことなのかを学校の庭の土を使って体験したことがあります。しっかり掘れる現代のスコップを用いても所謂「落とし穴」になるほどの穴をあけるのも大変なのだと身をもって学びました。当たり前に水(川や運河)があること、先人たちの努力にただただ感謝した思い出です。
「家康、江戸を建てる」は名著ですよね。是非読んでほしい。
日本の治水事業は本当に様々な工夫を見れて面白いですね
会の川って今もあるけど、「これが昔の利根川?」ってくらい本当に小さなドブ川です。
利根川東遷工事で銚子方面に水が流れるようになって、利根川沿いの街が物資の集積地として発展したんだが、その発展した街の一つが千葉の佐原で、ここからは伊能忠敬が生まれたんだよな。忠敬は堤防の作成や川の氾濫による農地の測量のし直しで、後の日本地図作成に繋がる測量技術を培ったとも言われてるな。
伊能先生は行く先々で測量術と求積計算法を教えていったと言われてますから偉大な教育者です。たとえばスウェンヘディン博士とかも同様な活動をされております。
魔理沙と霊夢の話題の幅の広さには頭が下がります、健康から世界情勢、クルマから江戸の町作り、参りました、一体何名が台本を書いているのでしょう?毎回楽しみです、頑張って、
伊奈町のものです。三河からの徳川家康の家臣、伊奈忠次の屋敷の跡があります。墓所は鴻巣です。
「家康、江戸を建てる」数年前のNHKの正月時代劇で、伊奈忠次が主人公となって利根川東遷事業を推進していましたね!
待ってました!
水運が経済力を決め、経済力が覇権を決める。現在も同じ。徳川様は流石わかっておられた。
広大な関東平野の各地から河川の舟運で物資を運べるのはとても有利ですね。
今も利根川と江戸川の境目は関宿城博物館の天守閣展望台から観れますよ。地元民なんでとりあげてくれて嬉しいです。
江戸時代〜戦後くらいの治水干拓埋立地の話は本当に面白い
利根川東遷事業のリクエストに応えていただきありがとうございます😊
利根川の水運を利用した銚子の醤油蔵(ヤマサ、ヒゲタ)は、佐原を中継地点として野田まで上り、キッコーマンと同じ様に、江戸川を下り江戸の街に運ばれたのですね。銚子の町で聞く漁師言葉は、海伝いの三浦半島あたりの言葉と似た部分がありますが、佐原の町では〝ひ〟を〝し〟と言ったりする〝江戸弁〟が聞けたりします。どちらも水運の交流によるものだそうですね。
河川土木の動画を見るとめちゃくちゃワクワクして楽しませてもらってます。青森県民として、三本木原の開拓と稲生川を紹介して欲しいです。これも、当時としてはかなり凄い事業だったので!
私が小学生の頃、崙書房という出版社がありまして、千葉県北西部の歴史書を多数出版しておりました。利根川工事や運河等の書籍もあって、古本屋で見つけると嬉しかったものです。今はこうして優しく解説してくれる動画があり、土木好きな子供さんには良い時代になったなと思います。
川魚図志とか面白いですよね
台風や豪雨の際に、利根川の広大な河川敷が水没している時は「ああ、東京を守っているんだな」って思って見ています。
荒川中流域も凄いです。
渡良瀬遊水地もねー
ウチは旧利根川(江戸川)水系の住民ですが、今回の様な治水工事が完了以降では未だに大洪水は発生してませんですね!其れでもまだリスクは高いので油断出来ませんですね!只土地を高くする工事は未だ未知の段階ですので、何れは施工される様ですが、今後のメトロ半蔵門線の延伸計画や大規模治水工事次第では、少なくとも後50年以上は掛かるとは思いますね!
治水には水運って側面もあるのがとても面白いです😊重い物を大量に運ぶには水運って欠かせないですよねありがとうございます
利根川を切り替えたあたりは航空写真を見るとよくわかるね。埼玉北部の一部だけ不自然に直線の部分がある。
加須市と明和村の境界に流れる新川筋のことですね。
埼玉と茨城が、何故か川向こうにも有る地点ですね。
@@saitamaumare83 様:五霞町とか権現堂川が北上流(逆川)になってる辺りですね。
知らなかったが江戸初期に大規模なことやってるな。大阪の大和川、香川の香東川付け替えなど江戸時代に治水工事や干拓工事は積極的にやられているよね。
第二弾で淀川と大和川のつけかえも取り上げて欲しいです
江戸の治水・水運といえば徳川家って印象だったけど、その下で工事を支えた伊奈家の話でしたか。義務教育でもっと触れてもいいと思うんだけどなーこの人たちのおかげで今の東京があるんやで。湿地帯のまま、輸送も困難では、世界に誇る都市にはなりえなかった。
伊奈氏が関東に与えた影響は本当に偉大日本の命名はだいたい人の方が地名をもらうんだけど伊奈氏に限っては埼玉県と茨城県の伊奈町があるそれだけ地元住民にとって感謝してもしきれない存在
今回も面白かったです!現代の土木も面白いですが、江戸時代にもこんな大規模工事が行われていたってほんとにスゴいですよね。長野県の諏訪湖も江戸時代は1/3くらいの大きさしかなかったとか・・・?
いつも動画とても楽しみにしています。土木という非常に身近でありながら語られない分野を知るきっかけとなり、毎度感心しきりです…お身体に気をつけて動画制作頑張ってください!
街並みを作るうえで河川の改造は必須ですが、飲み水確保も大事です。江戸移転後神田上水等も作りましたがそれだけでは今後増えて行くであろう江戸市民の飲み水確保ができないことが想定されたので作られたのが玉川上水。高低差がほとんどない中で羽村から四谷まで上水路を作り上げたのは凄いことです。苦労して作り上げた水路なので少なくとも江戸時代末期まで船を入れさせない等管理して大事にしていきました。
立ちションでちんこチョッキンです。
私は本所亀沢町ですが、近くに亡き男谷(新潟より御家人株を購入)の息子に小吉が荒屋を建て、その息子に勝麟太郎(後に海舟)が7歳住居して入江町(緑町)の岡野旗本屋敷跡に勝海舟が20歳迄、本所におりました。神田川掘削先には隅田川(大川)ですが、玉川上水より豊富な湧水が小川幾度も流れている事を徳川家康の家臣が発見して其処に木管(近くには武蔵野台地の森林を活用)を突き進んでいる最中に神田山々(神田山と駿河台を一つの山でしたので総武線に谷間にした。其処に木管設置)を取り崩しながら、隅田川迄、木管設置しましたが、東側の本所周辺エリアは葦やヨシが繁茂しており、木管も設置が不可能の為に「地下水を3割の下町エリア」に井戸堀が山の手敷地が7割の実体です。浅草や日本橋、神田(小石川養生所は井戸水)より江戸城の山の手の大名屋敷や両替商、呉服店は水道水が半分程度で、日本橋辺りの白木屋の湧水、駿河台の湧水はあります。江戸城は武蔵野山を取り崩して地均しで拡張させて周辺エリアの武蔵野山々を台地にして台地して平野化(現在も武蔵野台地が南北に走行)した後に大名屋敷や各上屋敷が広大な敷地を形成しております。本所周辺エリアは両国橋が架橋されて、埋立てしたり、時代の変遷で土地を強化して水道水が配管工事が為されますが、水道水は共同使用や井戸端会議も土地の硬軟や埋立地に依って不完全でした。年貢もあり、塩や米、鮮魚等もあり、洪水被害や火災もあって幕府の武士や下町の火消、治安や水害は隣組制度や5人組制度に依って江戸時代は共同で町を守る意識が強い時代でした。地質調査学会 松平、本所亀沢町7代末孫
伊奈流を洪水対策を主として見れば、現在も引き継がれてると言えますね。荒川の埼玉県側では中流域から下流にかけて河川敷を広くとっていざという時の遊水域として整備してます、溢水が起きてもそれほどの被害にはならない運動場・ゴルフ場・キャンプ場・公園なんか作ったりして。鴻巣市の「川幅日本一」地点なんかはそれだしさいたま市・戸田市の境にある彩湖もそれ。さいたま市・川口市に広がる見沼たんぼも、ちょいとスケールは落ちるけれど、芝川の洪水対策の遊水機能を持たせてます。まあ見沼田んぼは見沼代用水に象徴される井沢弥惣兵衛為永による紀州流の代表例でもありますけど。
春日部の梅田は、利根川の本流が流れていたと聞いたことがあります。春日部は、古代に川壁が訛って万葉集には、春日部の地と出てくるらしいです。😊
風邪がふけば桶屋が儲かるじゃないけど、利根川東遷事業のお陰で日本人が大量に醤油を消費するようになったみたいな日本食の歴史が面白い。
荒川工事のことなら埼玉県立 川の博物館へ行ってみることをおすすめします。荒川の地形を1/1000で再現したものなんだけど、工事の後など見ることができるし内部展示でも詳しく解説していました。面白かったのでおすすめします。
戦国絵巻や幕末動乱もいいけど「治水」という点に着目した大河ドラマも観てみたいですね。
大洪水のセットをリアルに作るのがむつかしいような気がします。
シティーズスカイライン並の土木工事
しかも手作業で…昔の人の体力は現代人の想像を遥かに凌駕しますねえ。
シティーズスカイラインでもここまでの土木工事はしたくないねぇ…w
土建系ゆっくり動画初めて見たいいね押しといた
待ってました!!この工事は昔調べたんですけどよく分からなかったんですよねぇ。有り難い😆
北条家は駿河東部から少しずつ領土を拡大していった中途に小田原を本拠にしたので、最終的な北条領の領域を一から支配するとなると水運の便のある場所に本拠を置くのが合理的でしょうね。
利根川改修事業を、東北の地で趨勢を見ていた大名がいた。伊達家中仙台藩主、伊達政宗である。伊達の大部分は北上川,鳴瀬川,名取川,阿武隈川の流域で、特に北上川は暴れ川で、10年後の流路が分からぬほどの暴れ川であり、河道付近には三日月湖多く存在して、泥地で稲作が出来なかった。河川改修の第一歩は、北上川に大規模な堤防を建設しで仕切り、流路を北上山地沿いの支流に流し、現在の登米市南岸に流路を変更し、更に石巻まで伸ばした。その後も河川改修を続け、新田開発が進んで泥地は美田に変化し、江戸初期の検地で62万石という石高は、気候変動にもよるが、実質100万石以上200万以下であり、伊達家中には多額の「内部留保」が出来たという。この様な大工事を行うには多額の費用が掛かるが、仙台領内には大谷と鹿折の金山や、細倉鉱山(主に鉛と亜鉛、金と銀の鉱脈も存在する)が存在し、鎖国政策以前は諸外国とも交易が有った。さらに流路には河港の町が形成され、当時としては大きな舟運も行われた。
家康と家康家臣は日本の1000年の計の基礎を作った。 埼玉に住んでるけど坂が少なくて過ごしやすい。
レモンティーを作りながら、流し聞きさせて頂きました。夏休みの宿題の自由研究にオススメですね。
戦国末期に国内で土木技術の革新があり琵琶湖の海運を掌握した信長によって安土城が、秀吉によって宇治川淀川が改修され、その流れで江戸、そして地方都市に波及していったいま各地の米所と言われるところは実は江戸時代の治水工事の前はただの湿地帯だったところが多いよね、北上川の流れを変えた伊達も有名だね
シーカヤックで6日かけて銚子から利根川を漕ぎ上り、関宿から江戸川を下って東京湾まで180㎞をキャンプツーリングした事があります。千葉県は「島」である事を体感しました。
ブラタモリでもこの回ありましたね…最後は観音崎まで行き→元砲台があった島にも「何故浦賀水道には浅い所と深い所があるか?」の回答ありましたね…(深い所は大昔の河の跡)
古利根川と元荒川は越谷市で合流して、中川として東京下町に流れていますが、この流域は西を武蔵野台地・大宮台地、東を下総台地に挟まれた、広大な低地であり、縄文時代で一番暑かった中期には、栗橋まで海でした。弥生時代にかけて海は下がって行きますが、今でも海抜数メートルの低地が深く続き、下流は近代の地下水組み上げのせいで海抜マイナス地帯です。1947年のカスリーン台風では、利根川と荒川の堤防が破れ、水がこの流域に流れ込み、大きな被害を出しました。徳川が入り、大整備を行うまで、この流域は毎年洪水を起こす、不毛な湿地帯だったのです。室町の上杉と古河公方の争いは、この湿地帯が最前線でした。江戸に入った徳川家臣が嘆いたのは、江戸城の眼前に広がる広大な不毛の地を目の当たりにしたからでした。しかし、湿地帯は水さえ抜けば稲作には絶好の、良質な土地です。家康は趣味の鷹狩がてら、領内をくまなく歩き回り、それに気づきました。竹村公太郎先生の「日本史の謎は地形で解ける」が出典です。
カスリーンでは三郷の水元公園の遊水地機能では防ぎきれず、荒川放水路で食い留めました。荒川中流域の広大な河川敷を見るにつけ、ここで水を拡げておいて河口付近では最小の水位上昇に抑えるという壮大壮絶な青山技師のポリシーに打たれます。
君チョット間違えてるだろ、中川は埼玉県羽生市から東京湾迄全区間中川だぞ、古利根川は松伏町で中川と合流して元荒川は越谷市で中川と合流して東京湾迄中川だよ
大阪でも似たようなことがって昔の大和川は直接大阪湾に入るんじゃなくて淀川経由だったらしいそれを無理矢理変えて大阪湾に入るようになったとか
千葉県民だけど利根川めちゃくちゃ広い&長いから、あれを昔人力で掘ったとはとても信じられないわ。
江戸幕府は治水干拓事業を行っただけでもすごい。地形図が変わるほどの、木曽三川治水や濃尾平野と伊勢平野の干拓事業を行った。
現場監督の薩摩武士がほんの些細なことで次々に腹を切ってゆく壮絶な歴史。ちょっとぐらい遅れたっていいじゃねえかとか勘定が合わなけりゃ適当に予算ずらせよ、とかとはぜんぜん別世界の鹿児島のサムライの潔癖な任務遂行意識。仕事(主君)と友達が第1番で、家族が10番ぐらい、自分は100番以下に置く男の中の男たち。
木曽三川の地方の者ですが、何百年も過去の、あまりにダイナミックな各河川改造には驚く以外ありません。その偉業は義務教育でも、図書室の蔵書や道徳、そして社会科の校外学習等を通して語り継がれています。
歴史関係では首をかしげる部分もあるけれど、土建の動画なのでそこは気にしなくていいかなと。分かりやすく説明してくれていてすごく良いと思いました。足尾銅山の辺りは知らなかったので勉強になりました。
江戸川河口の行徳の塩田は皇室御用達だったそうです。鉱毒の塩を上御一人に上げる訳にはいかないと。
利根川ってこんな歴史があったんですね。関連して千葉の新川放水路も取り上げて欲しいです!
元の流れから利根川は下総台地の東側へ、荒川は大宮台地の西側へということです。しかしながら両台地とも北端部は微妙な高低差しかありません。そういうところの測量技術や土木技術も中々だったと言えます。それから当時は江戸川流頭部にも狭さく部がありましてそこでも洪水調節を行っていたようです。
先刻ご存じでしょうけど、関宿の江戸川口の棒出しという狭窄部ですね。今は現存してませんけど関宿閘門が担当してる機能です。今はずうっと空きっぱなしですが。”歴史的農業環境閲覧システム”という政府のサイトにて棒出しが見れます。
こういう歴史を見ると、昨今の大雨による河川氾濫は、近代の観測史上初なだけであって昔からよくあった事なんだろうなぁ
その昔ウチの地元から大坂、和歌山、千葉へ漁民が秀吉・家康に請われて移住したという話が残っています。江戸という新しい都市のデベロッパーとして徳川家康は先見の明があったと思います。
土木が好きって訳じゃないけどこのチャンネルの動画はわかりやすくて好き🤓🤏
語り口がとても良いですよね。たとえは変ですが武田邦彦先生のトークチャンネル。先生の学者ポリシーうんぬんよりも武田先生の江戸前の噺家みたいな口跡や活舌が好きっ!みたいな。
「埼玉県の北埼玉郡・南埼玉郡」(武蔵国埼玉郡)・「埼玉県北足立郡・東京都南足立郡」(武蔵国足立郡)と「埼玉県北葛飾郡・東京都南葛飾郡」(下総国葛飾郡)の境目が、大昔に利根川が流れてた場所ですね。
私は50数年前は埼玉県北足立郡北本宿村でした、東京都足立区から40キロ離れています、でも全国の方は東京都の隣接地だと誤解して、便利な所にお住みですねと言われました。
有る頃、館林徳川家に思いを入れ過ぎて、酔っぱらって乗り過ごし、館林まで行ってしまいました。その頃、利根川東遷にも夢中でした、館林の数週間後にやはり、飲み乗り過ごしで、川俣まで行ってしまいました。始発が出るまで25km位てくてく歩いていたのですが、翌日調べたら、会の川締め切りのすぐ横を歩いていました!!!終電の時間でしたので、全く気がつきませんでした!!!庄内古川の堤防跡もしっかりとみてきました。見沼も、余すことなく踏破しました。それから、凄いなと思うのは、日本堤のボトルネック堤防ですよね!!上流の民は見殺しですね!!数年前の10月の嵐の時に、岩淵水門が閉められた時は、凍りつきました。
とても面白く拝見させて頂きました。外郭放水路についても深堀りして頂けたら有り難いです。
江戸時代の土建工事はスゴイ
途中に、浅間山の噴火による河床上昇もあるのでどっちかと言うと、玉川上水が一番すごいと思う
@@シュウ-y2p 様:浅間天明噴火は利根川水系吾妻川の方に大量噴出物が行ってしまったので折角の大工事も随分とやられてしまったようですね。群馬の八斗島の合流点で3mの川底上昇があったとききます。これが西の千曲川の方に噴出したら下流の信濃川はもっと大変な事になってたでしょうね。一方斜め噴火だったので成層圏へは大きな影響がなく、世界的な厳冬や大飢饉は記録されてないと聞きました。
@@シュウ-y2p 様:遅くなってすみません。玉川上水も素晴らしいプランから実施施工された工事だと思います。カンテラ縄はりと水盛り程度の測量機器で47㎞、標高差たったの20mくらいでよく羽村堰から四谷大木戸まで関東ローム台地を切通してゆけたと感心します。特に笹塚と代々幡あたりの崖線が複雑な所に尾根を沿って走らせているところなんかスリルで胸が熱くなります。またメンテナンスが日本らしく現罰を伴うちゃんとしたものだったので途中のヤバイ所、久我山の神田川とのスレスレの所とか、北沢川とスレスレのところなんか、よく梅雨時など突破されて神田川や多摩川に落水しなかったもんだと感心します。要所の堅固な石組み等も歴史遺産十分だと思います。
@@16yk30 河川変位の失敗例は、阿賀野川の松ヶ崎放水路ですねこれにより色々と影響が出てますし
@@シュウ-y2p 様:そうですね。50㎞も距離が少なくなれば川底勾配は大きくなって従って流速大、浅化が進んで集堆の運搬も著しくなりますね。やがて河口が堆積によって閉塞し、大きな汽水池が出来てしまい、産業や人間の居住が終ります。天然、人為を問わず河川の争奪による流域突破は怖いですね。
江戸が大きく発展した大きな理由は河川改造により関東平野全域から舟運で大量物資が江戸へ運ぶことができたことが大きい。明治時代になると京都に住んでいた皇族や上級公家が京都を捨て関東へ移住しました。
江戸時代に既に事実上の首都だった江戸を東京に変え名実共に首都になったので皇族や上級公家が首都・東京を認めたのですね。
水利関連見てると巨椋池とかやってくれないかなーとか思ったり
江戸時代初期の利根川は東遷させた方が水位が低くて排水が早かった。建設当時の利根運河は最初は江戸川から利根川へ向かって流れていたほど。近年になって利根川下流に堆積が多くなって水位が高くなり今の利根運河は利根川から江戸川へ流れるようになってしまった。利根川東遷は、江戸時代初期の江戸の街は江戸川下流からだいぶ離れていたこともあって(隅田川ぐらい近ければ話は別だが。)、江戸の洪水対策よりは、水運としての開削工事の意味が大きい。
東京って明治も面白いけど江戸も面白いなー。徳川家頭良過ぎ。何手先まで見て街づくりしたのだろうか。優秀な人達がたくさん居たんだな。
すごくわかりやすくて面白いです。東京って大きい川もあれば、小さい川もあくさんあって、水運の都市なんですね。以前から江東区の枝川地区とかの川の多さに興味がありました。是非そのあたりの解説お願いします。
立川とか横川とか本所深川地区はずいぶん川を埋めちゃったですね。
利根運河も忘れてはダメですね。江戸川と利根川を結ぶ短絡路でしたからね。
むさしの村のところに、全国的にも珍しい河畔砂丘があると聞いたけど、なんでこんな小さい会の川に砂丘を作る力があったんだ?と疑問に思ってた。この動画を見て、すっごく納得。
埼玉の小学校には元利根川・元荒川を多少なりと地域勉強をする授業があった。
栃木県南の小学校では田中正造先生の遺徳を偲ぶ授業がありました。
「渡良瀬川〜旧江戸川は人工河川と河川学会調査」利根川と渡良瀬川の下流域(庄内川)が低地帯で錯綜する流域以降を江戸以前では「ふとゐ川」あるいは「太井川」あるいは「太日川」と称し、遠く西へ離れた分流を隅田川と称していた。正保図の村名から現中川筋を木毛川あるいは葛西川と称した可能性が高いですが、いつからの呼称かは不明。1610頃までに流山市~松戸市以降の微高地を南北に縦断する流路(現在の江戸川)が開削され、低地帯中央部の利根川(ふとゐ川)の水の半分がこちらに移された(農業用水のためには可能な限り標高の高い部分を通す)。これが家康時代に策定された利根川治水計画の第一目標だったと考えます。1629に荒川を入間川に付け替えています。低地帯中央部を流れていた荒川の水を西端の隅田川に移す西遷です。(その前に低地帯へ流れていた隅田川の分流を遮断して深川などを陸地化、隅田川少考参照)これが第2目標。1625の新川通し開削に続いて、1641に関宿~野田のバイパス流路が開削され、利根川の水のほとんどがここを経由して新開削の流路(江戸川)を流れるようになります。(まだ江戸川の呼称はありません、風土記によれば水運路としての江戸川とあり、赤堀川通水1654以降の呼称)低地帯に流れ込む利根川と庄内川(渡良瀬川)と荒川の水が数十年をかけて東と西に移動されて低地帯が農地化され、東葛台地西側の荒れ地も水利を得て新田が一斉に開墾された。ここまでが幕府の利根川治水計画は千葉市から銚子へと「田沼意次が開削」したのです。家康の阪東太郎を3回に分けて完成されました。低地帯を流れていたかっての利根川本流(ふとゐ川≒現:新中川筋)は消滅し、かっての分流であった木毛川(葛西川、現中川筋)も排水路化していった。正保図では現中川筋を古利根川と書いていますが、隅田川の方は早々に荒川の水に替わっておりまた古来からの呼称であり、現中川筋がかっての利根川が自然状態で残る唯一だったからでしょう。それも元禄図では無名となってしまい、風土記では猿ケ又以降の旧利根川筋を中川と呼ぶとあります。従って、旧江戸川は太い川と言われた。現在の旧江戸川は上流、下流共に人工河川でした。以上が河川学会の調査結果です。
霞堤と同様の構造は、酒匂川にもあって、開成町~小田原市北部(曽比)に現在でも残ってます。Google Mapで確認できます。子供の頃、なんで堤防が切れているのか不思議だったんだけど、こういうことだったんですね。
関東が発展したのは雪が降らないのも大きいと思う。雪国は雪かきに時間とられる。札幌が何故発展したのか謎。
札幌は雪は諦めても、それを上回る良い所だったんではないでしょうか。洪水・地震・ヒグマ・オオカミ・やぶ蚊が少ないなど。
昨日今日は大雪で札幌お大変ですね。
この利根川東遷事業が地元の関宿城博物館で取り上げられているけど、マイナーなのか、知られてない事実でもあるのでうれしいです。銚子と野田が醤油もこの水運で江戸まで運ばれたとか聞きますね。
関東の太平洋沿いは遠浅の上に波が荒いから、河川水運が生命線でしたね。江戸の醤油文化だけでなく、草加煎餅も千葉の醤油があったから。
房総半島館山の沖では黒潮と親潮がぶつかり合ってて、当時の船では絶対に江戸湾に入ることは出来なかったので利根川水運オンリーで江戸に北からの豊かな物産を搬入しました。ちなみにそこで遭難するとあとはハワイまで助けてもらえない。ジョン万次郎と同じ目にあうこと必至。
@@saitamaumare83 そーかー( ・∇・)(失礼)
@@16yk30 そーなんですかー( ・∇・)(失礼)
鉱毒問題は、東京より千葉の塩田地帯を守る事が大きかったとどっかで読んだ気がします江戸川流域はまだ農村ですからね
皇室御用達です。これは護らねば=千葉と茨城の農民は要らん水が沢山やってきて毎年の台風洪水に悩まされるようになる。とても難しい問題です。大文豪志賀直哉先生がお父さんと仲わるだったのはこの辺の問題です。
いつも楽しく視聴させてもらっています。もし良ければ、佐久間ダムの解説もおねがいします。
関東は多くの河川の地であり、江戸へ物資を供給するのに穏やかな川を使った舟運が担った。
荒川治水資料館に行くとこのエピソードも資料で見れるからオススメ
シティスカの名前をコメ欄で見て思わず笑ってしまったw利根川はなかなかのもので祟りとか言われたりしたの前に見聞きして変わる前のはさぞ利用したり近隣の方々恐怖したんでしょうね土建さん10万人突破していた・・おめでとうございます。(古参アピール現在ではかまぼこってる地元もやはり昔、凄かったんだよなと知れる動画でした。
この歴史を知ると舟運を無くしてしまったのが勿体ない気もしてきた
おかげで千葉から茨城行くのに、渡れる橋が案外少なくて大変!!
いやいや、千葉と茨城の川は昔からあったんですよ。徳川は繋いだだけ。
橋を渡らないと行けない千葉県は島じゃないかな?。
@@矢向敏彰 様:千葉県は立派な島だと思います。
@@saitamaumare83 様:そうですね。常陸川という田んぼの中のいわゆる二級河川に利根川という大一級河川を流し込んだ訳ですから。橋はなかなか掛けられません。
@@saitamaumare83その境目の川は小貝川だと思いますよ、取手市やその付近の固定電話番号は04・・・と千葉県の番号が付いています、それから埼玉県の加須市にある「カスリーン公園」や渡良瀬遊水地の資料館へ行ってみるとよろしいかと思います。
東遷のこと知らなくて、利根川が江戸川に分岐するY字のとこにある千葉の関宿城跡っていうとこに行ったときに、たまたま利根川東遷の看板があって、それ読んだ時、しばらく信じれなかったよ。人の力で川を動かすなんてできるわけないって思っちゃうもん。江戸川区の江戸川が「江戸時代に元々利根川で江戸川」ってのもなんか感慨深かった。歴史って名前にちゃんと残ってるんだなぁって。で、荒川も西遷したってこの動画で初めて知ったΣ(゚Д゚)wだから、元荒川ってのがあるのか!!
地元の人間はこのことについて知る機会があるのですが、最近の研究でこの利根川東遷事業で取り除かれた土砂の量はパナマ運河やスエズ運河の掘削よりも多く、現時点で人類史上最大の土木事業だったということが分かっています。日本のゼネコンとどこかの大学の共同研究からの引用です。
後の浅間山天明大噴火は、噴出物が利根川水系に全て流れ込んだので、利根川東遷工事をすでにやっておいたことでずいぶんと助かったといわれてます。群馬の八斗島という所で噴火直後は河床が3mも上がってしまったような緊急事態は、江戸湾に向かう旧利根川筋だけではとても水と土砂を均し切れなかったといわれてます。
利根川水系に係わらず火山列島の日本の国土が住みやすいのは、行基上人以来1500年以上に渡る治水の結果だと子供の頃に習いました。還暦を過ぎて、会社も嘱託になりましたので、最後のご奉公と想い水利組合の組合長を引き受けましたが、1500年分の利権の垢・苔の類が蔓延っています。行基上人を導いたのは、師匠の道昭上人ですが、道昭上人は、玄奘三蔵(三蔵法師)から治水技術を伝授された方です。詰まる処、中国に教えて戴いた土木技術があってのことと感謝をしてはいるのです。最近多く中国の方が、耕作放棄地の持ち主なられて、組合員としての権利を主張されますし、前述のことを滔々と・・・以下省略・・色々辛いです。
埼玉のニューシャトルで激推ししててたが、そんなに凄い人だったのか...歩いて行ける距離に屋敷跡もあるし、明日行ってきます
敢えて氾濫させる・・・発想の逆転だなしかしまぁ日本ってリアルマイクラやってたんだなぁって
そのために、江戸時代は堤防の内側は年貢を免除していたそうですね。
@@saitamaumare83 様:稲3日といって水没3日すると若い時は枯れてしまい、稲熟期では芽が出てしまって食えなくなるのでリスクを考えてくれて年貢免除になるんですね。
江戸が未開の土地というのも最近は盛られすぎとも言われてますけどね北条氏時代でも上杉氏との最前線だった時期もあり、根拠地としては重要だった気がするまあ前島が残っていたり使いにくい形状だったのは確かだから家康の功績が薄くはなりはしないそういう意味でも水利は重要だとわかる回でしたん
母方の実家が利根川の逆水門利根川の近くにあるが、祖母が子供の時には頻繁に頻繁に床上浸水をしていたので、母方の実家を建て直す時には50cm程かさ上げしてその上に建設していた。
赤堀川は我が地元、台地とは言ってるけど実際には微妙な高低差のある湿地や沼地にポコンと島みたいな土地がある場所当時の道具や技術だと掘削は大変だったんだろうなー って想像がつく場所
現在の明治大学あたりの急な坂、駿河台の丘と神田川を掘削した土砂で日比谷入江の埋め立てて、海だった有楽町や銀座を作ったこととか、家康が江戸の守り神に平将門を祀って神田明神を作った由来とかやってください。
だから江戸川なのね!重機も無いのに、とんでもねぇ事やるなしかし。
荒川も神田川もほぼ飼いならせるようになったのは、平成に入ってから。元都民としては関東の治水をシリーズ化して頂けたら嬉しいです。特に小学校の社会科でやった玉川上水!
見沼代用水もお願いしたいところ
遊水地をぜひ。河川の付け替えじゃなく、遊水地という選択をしたのは何故なのか知りたいです。日産スタジアムが遊水地にあるなんてびっくりしたわ。
写真等々の添付する場所が無くて残念に思います。私の7代は本所(深川の隣)亀沢町の男谷家に勝小吉の妻が深川の民子、其の子供が勝麟太郎(後に海舟)が更に隣が私の3代の祖父母でした、近くには「葛飾北斎が近所にいた」話では葛飾北斎は博学で有名な画家で、河川や変化を娘の「オーイ」と名付けた画作も天才的でした頃の前後や5代綱吉の側用人の田沼意次の利根川東遷や旧江戸川等々の伝記や記録等々を踏まえ、結論をお話を致します。尚、幕府の記録はあったのですが、殆どは残っておりません。1、家康の入府当時は江戸湾に河川は十数の河川があり葦が茂る湿地帯が江戸の下町でした。武家地7割ですので3割の長屋に住み、井戸端会議と言われた通り井戸水でした神田上水木道は日本橋の魚市場で其の先は、摂津の佃島の漁師13名で家康の命で築地、月島等々を埋立てた。住田川は河川の洪水、風水害があって決壊して土嚢を積上げた為に日本堤の位置が変わり、元荒川と住田川、利根川は河川の一つです。本所の回向院の眼の前は江戸城と丸の内の外様大名の屋敷は半浸水を採り込んだ川が神田上水(上様に献上する飲水)を住田川の下流に合流して、江戸湾へ流水した。従って、三多摩の井の頭の湧水が飲水に出来して江戸城や山の手迄、湧水を上水木道(中を刳り貫いた)で飲水した。2、昭和初期完成の荒川、洪水防止の新中川、利根川東遷の後に掘削した旧江戸川は全て人工河川です。利根川と唯一交わった元河川は元荒川ですが、江戸より約90度東へ土木工事を3期に区分して掘削する為に数十の河川は掘削と埋立てした為に河川の流れを変え新たに掘り埋立てして試行錯誤して千葉市等々は知行地となる為に最後に田沼意次が利根川東遷したとあり旧江戸川(旧、太い川)は渡良瀬川の随所を堀削して市川の国府台に里見城を構築する際に外壕の岩盤は固く高い位置にあり、松戸、船橋等々を徐々に下流へ堀削して旧江戸川は誕生します。左右の高低は市川、船橋側が3m程度、篠崎、葛西、浦安側が0m程度と東京都側が低い、昔の地質学的や有楽町層は東京都側が多い事がボーリング検査等々で人工河川が明確でした。河川の逆流も無かったの゙です。明治維新政府の行政区分を間違えていたのです。何かご質問等々は江戸時代迄、回答します。本所亀沢町7代末孫
太閤堤や、大和川の付け替えも、やってほしいな。
古利根川が本当に元々の利根川だったんだな…今の川幅からは想像しにくいので名前だけかと思ってた
かえって強大になった徳川
伊奈忠次は知恵泉で紹介されていました
関東平野の真ん中は現在も高速で沈み続けているけど、湖にならずにすんでいるのは、上流から運ばれる土砂の堆積と沈降がギリギリで均衡してるからだそうだ、お陰で関東の中心なのに海抜10メーター程度の慢性的な排水不良地帯となってしまっている、
あえて、逃す事で洪水を防ぐ頭良すぎるダムだと耐え切れなくなると爆発して、甚大な被害が出る自然と戦うと言うので無く自然を制御と言う感じ
伊奈氏はもっと色々なところで取り上げられるといいのにと思うのです
伊奈氏の活躍をNHK大河にと言った人物がいる。浩宮様(当時)あぁあ、制作されないな😭
結果として、野田の水運業者が力を持ちすぎて、「国道を通すのヤダ、(東京直通の)鉄道通すのヤダ」となって野田市が陸の孤島と化したのだが…元々は、旧奥羽街道(今で言う国道4号)を持つ有力な宿場町だったけど、時代と共に衰退した都市やね。
利根川東遷事業って有名で大規模、重要な割にネット上の解説を見てもどこをどうやったんだかいまいちよくわからなかったたのでわかりやすく解説してくれてありがたいです
GWに関宿城に行ってきて利根川、江戸川の治水の歴史をみてきました。
本当に凄い苦労して今の姿があると思いました。
昔の人、尊敬します。
元荒川と古利根川が流れる越谷の住人としては非常に興味深い
父がかって水資源開発公団に勤めていました。千葉の東総用水や秩父のダム・水路に関係して単身赴任や長期出張をよくしていて、私も赴任先の周りに何もない宿舎に夏休み中泊まったり、日曜視察と称して利根川にハゼ釣りに行ったりしました。また実家は江戸川の千葉側流域で、こちら側は大きな堤防のお陰でカスリーン台風でも洪水しなかったとか、そこに流れ込む近所の汚い小川も江戸後期に庄屋と住民が半世紀以上かけて整備したもので、そのお陰で今も治水が良いとか聞いたものです。
そんなことを思い出しながら、今回のお話を大変興味深く聞きました。ありがとうございました。
小学校の時に治水工事が授業で取り上げられ、水を引くことはもちろん、土を掘ることがどれだけ大変なことなのかを学校の庭の土を使って体験したことがあります。しっかり掘れる現代のスコップを用いても所謂「落とし穴」になるほどの穴をあけるのも大変なのだと身をもって学びました。当たり前に水(川や運河)があること、先人たちの努力にただただ感謝した思い出です。
「家康、江戸を建てる」は名著ですよね。
是非読んでほしい。
日本の治水事業は本当に様々な工夫を見れて面白いですね
会の川って今もあるけど、「これが昔の利根川?」ってくらい本当に小さなドブ川です。
利根川東遷工事で銚子方面に水が流れるようになって、利根川沿いの街が物資の集積地として発展したんだが、
その発展した街の一つが千葉の佐原で、ここからは伊能忠敬が生まれたんだよな。
忠敬は堤防の作成や川の氾濫による農地の測量のし直しで、後の日本地図作成に繋がる測量技術を培ったとも言われてるな。
伊能先生は行く先々で測量術と求積計算法を教えていったと言われてますから偉大な教育者です。たとえばスウェンヘディン博士とかも同様な活動をされております。
魔理沙と霊夢の話題の幅の広さには頭が下がります、健康から世界情勢、クルマから江戸の町作り、参りました、一体何名が台本を書いているのでしょう?毎回楽しみです、頑張って、
伊奈町のものです。三河からの徳川家康の家臣、伊奈忠次の屋敷の跡があります。墓所は鴻巣です。
「家康、江戸を建てる」
数年前のNHKの正月時代劇で、伊奈忠次が主人公となって利根川東遷事業を推進していましたね!
待ってました!
水運が経済力を決め、経済力が覇権を決める。現在も同じ。
徳川様は流石わかっておられた。
広大な関東平野の各地から河川の舟運で物資を運べるのはとても有利ですね。
今も利根川と江戸川の境目は関宿城博物館の天守閣展望台から観れますよ。地元民なんで
とりあげてくれて嬉しいです。
江戸時代〜戦後くらいの治水干拓埋立地の話は本当に面白い
利根川東遷事業のリクエストに応えていただきありがとうございます😊
利根川の水運を利用した銚子の醤油蔵(ヤマサ、ヒゲタ)は、佐原を中継地点として野田まで上り、キッコーマンと同じ様に、江戸川を下り江戸の街に運ばれたのですね。
銚子の町で聞く漁師言葉は、海伝いの三浦半島あたりの言葉と似た部分がありますが、佐原の町では〝ひ〟を〝し〟と言ったりする〝江戸弁〟が聞けたりします。どちらも水運の交流によるものだそうですね。
河川土木の動画を見るとめちゃくちゃワクワクして楽しませてもらってます。
青森県民として、三本木原の開拓と稲生川を紹介して欲しいです。これも、当時としてはかなり凄い事業だったので!
私が小学生の頃、崙書房という出版社がありまして、
千葉県北西部の歴史書を多数出版しておりました。
利根川工事や運河等の書籍もあって、古本屋で見つけると嬉しかったものです。
今はこうして優しく解説してくれる動画があり、土木好きな子供さんには良い時代になったなと思います。
川魚図志とか面白いですよね
台風や豪雨の際に、利根川の広大な河川敷が水没している時は「ああ、東京を守っているんだな」って思って見ています。
荒川中流域も凄いです。
渡良瀬遊水地もねー
ウチは旧利根川(江戸川)水系の住民ですが、今回の様な治水工事が完了以降では未だに大洪水は発生してませんですね!其れでもまだリスクは高いので油断出来ませんですね!
只土地を高くする工事は未だ未知の段階ですので、何れは施工される様ですが、今後のメトロ半蔵門線の延伸計画や大規模治水工事次第では、少なくとも後50年以上は掛かるとは思いますね!
治水には水運って側面もあるのがとても面白いです😊
重い物を大量に運ぶには水運って欠かせないですよね
ありがとうございます
利根川を切り替えたあたりは航空写真を見るとよくわかるね。
埼玉北部の一部だけ不自然に直線の部分がある。
加須市と明和村の境界に流れる新川筋のことですね。
埼玉と茨城が、何故か川向こうにも有る地点ですね。
@@saitamaumare83 様:五霞町とか権現堂川が北上流(逆川)になってる辺りですね。
知らなかったが江戸初期に大規模なことやってるな。大阪の大和川、香川の香東川付け替えなど江戸時代に治水工事や干拓工事は積極的にやられているよね。
第二弾で淀川と大和川のつけかえも取り上げて欲しいです
江戸の治水・水運といえば徳川家
って印象だったけど、その下で工事を支えた伊奈家の話でしたか。
義務教育でもっと触れてもいいと思うんだけどなー
この人たちのおかげで今の東京があるんやで。
湿地帯のまま、輸送も困難では、世界に誇る都市にはなりえなかった。
伊奈氏が関東に与えた影響は本当に偉大
日本の命名はだいたい人の方が地名をもらうんだけど
伊奈氏に限っては埼玉県と茨城県の伊奈町がある
それだけ地元住民にとって感謝してもしきれない存在
今回も面白かったです!
現代の土木も面白いですが、江戸時代にもこんな大規模工事が行われていたってほんとにスゴいですよね。
長野県の諏訪湖も江戸時代は1/3くらいの大きさしかなかったとか・・・?
いつも動画とても楽しみにしています。土木という非常に身近でありながら語られない分野を知るきっかけとなり、毎度感心しきりです…お身体に気をつけて動画制作頑張ってください!
街並みを作るうえで河川の改造は必須ですが、飲み水確保も大事です。江戸移転後神田上水等も作りましたがそれだけでは今後増えて行くであろう江戸市民の飲み水確保ができないことが想定されたので作られたのが玉川上水。高低差がほとんどない中で羽村から四谷まで上水路を作り上げたのは凄いことです。苦労して作り上げた水路なので少なくとも江戸時代末期まで船を入れさせない等管理して大事にしていきました。
立ちションでちんこチョッキンです。
私は本所亀沢町ですが、近くに
亡き男谷(新潟より御家人株を購入)の息子に小吉が荒屋を建て、その息子に勝麟太郎(後に海舟)が7歳住居して入江町(緑町)の岡野旗本屋敷跡に勝海舟が20歳迄、本所におりました。神田川掘削先には隅田川(大川)ですが、玉川上水より豊富な湧水が小川幾度も流れている事を徳川家康の家臣が発見して其処に木管(近くには武蔵野台地の森林を活用)を突き進んでいる最中に神田山々(神田山と駿河台を一つの山でしたので総武線に谷間にした。其処に木管設置)を取り崩しながら、隅田川迄、木管設置しましたが、東側の本所周辺エリアは葦やヨシが繁茂しており、木管も設置が不可能の為に「地下水を3割の下町エリア」に井戸堀が
山の手敷地が7割の実体です。浅草や日本橋、神田(小石川養生所は井戸水)より江戸城の山の手の大名屋敷や両替商、呉服店は水道水が半分程度で、日本橋辺りの白木屋の湧水、駿河台の湧水はあります。江戸城は
武蔵野山を取り崩して地均しで
拡張させて周辺エリアの武蔵野山々を台地にして台地して平野化(現在も武蔵野台地が南北に走行)した後に大名屋敷や各上屋敷が広大な敷地を形成しております。本所周辺エリアは両国橋が架橋されて、埋立てしたり、時代の変遷で土地を強化して水道水が配管工事が為されますが、水道水は共同使用や井戸端会議も土地の硬軟や埋立地に依って不完全でした。年貢もあり、塩や米、鮮魚等もあり、洪水被害や火災もあって幕府の武士や下町の火消、治安や水害は
隣組制度や5人組制度に依って江戸時代は共同で町を守る意識が強い時代でした。地質調査学会 松平、本所亀沢町7代末孫
伊奈流を洪水対策を主として見れば、現在も引き継がれてると言えますね。荒川の埼玉県側では中流域から下流にかけて河川敷を広くとっていざという時の遊水域として整備してます、溢水が起きてもそれほどの被害にはならない運動場・ゴルフ場・キャンプ場・公園なんか作ったりして。鴻巣市の「川幅日本一」地点なんかはそれだしさいたま市・戸田市の境にある彩湖もそれ。さいたま市・川口市に広がる見沼たんぼも、ちょいとスケールは落ちるけれど、芝川の洪水対策の遊水機能を持たせてます。まあ見沼田んぼは見沼代用水に象徴される井沢弥惣兵衛為永による紀州流の代表例でもありますけど。
春日部の梅田は、利根川の本流が流れていたと聞いたことがあります。
春日部は、古代に川壁が訛って万葉集には、春日部の地と出てくるらしいです。😊
風邪がふけば桶屋が儲かるじゃないけど、利根川東遷事業のお陰で日本人が大量に醤油を消費するようになったみたいな日本食の歴史が面白い。
荒川工事のことなら埼玉県立 川の博物館へ行ってみることをおすすめします。
荒川の地形を1/1000で再現したものなんだけど、工事の後など見ることができるし
内部展示でも詳しく解説していました。面白かったのでおすすめします。
戦国絵巻や幕末動乱もいいけど「治水」という点に着目した大河ドラマも観てみたいですね。
大洪水のセットをリアルに作るのがむつかしいような気がします。
シティーズスカイライン並の土木工事
しかも手作業で…昔の人の体力は現代人の想像を遥かに凌駕しますねえ。
シティーズスカイラインでもここまでの土木工事はしたくないねぇ…w
土建系ゆっくり動画初めて見た
いいね押しといた
待ってました!!この工事は昔調べたんですけどよく分からなかったんですよねぇ。有り難い😆
北条家は駿河東部から少しずつ領土を拡大していった中途に小田原を本拠にしたので、最終的な北条領の領域を一から支配するとなると水運の便のある場所に本拠を置くのが合理的でしょうね。
利根川改修事業を、東北の地で趨勢を見ていた大名がいた。
伊達家中仙台藩主、伊達政宗である。
伊達の大部分は北上川,鳴瀬川,名取川,阿武隈川の流域で、特に北上川は暴れ川で、10年後の流路が分からぬほどの暴れ川であり、河道付近には三日月湖多く存在して、泥地で稲作が出来なかった。
河川改修の第一歩は、北上川に大規模な堤防を建設しで仕切り、流路を北上山地沿いの支流に流し、現在の登米市南岸に流路を変更し、更に石巻まで伸ばした。
その後も河川改修を続け、新田開発が進んで泥地は美田に変化し、江戸初期の検地で62万石という石高は、気候変動にもよるが、実質100万石以上200万以下であり、伊達家中には多額の「内部留保」が出来たという。
この様な大工事を行うには多額の費用が掛かるが、仙台領内には大谷と鹿折の金山や、細倉鉱山(主に鉛と亜鉛、金と銀の鉱脈も存在する)が存在し、鎖国政策以前は諸外国とも交易が有った。
さらに流路には河港の町が形成され、当時としては大きな舟運も行われた。
家康と家康家臣は日本の1000年の計の基礎を作った。 埼玉に住んでるけど坂が少なくて過ごしやすい。
レモンティーを作りながら、流し聞きさせて頂きました。
夏休みの宿題の自由研究にオススメですね。
戦国末期に国内で土木技術の革新があり琵琶湖の海運を掌握した信長によって安土城が、秀吉によって宇治川淀川が改修され、その流れで江戸、そして地方都市に波及していった
いま各地の米所と言われるところは実は江戸時代の治水工事の前はただの湿地帯だったところが多いよね、北上川の流れを変えた伊達も有名だね
シーカヤックで6日かけて銚子から利根川を漕ぎ上り、関宿から江戸川を下って東京湾まで180㎞をキャンプツーリングした事があります。千葉県は「島」である事を体感しました。
ブラタモリでもこの回ありましたね…最後は観音崎まで行き→元砲台があった島にも「何故浦賀水道には浅い所と深い所があるか?」の回答ありましたね…(深い所は大昔の河の跡)
古利根川と元荒川は越谷市で合流して、中川として東京下町に流れていますが、この流域は西を武蔵野台地・大宮台地、東を下総台地に挟まれた、広大な低地であり、縄文時代で一番暑かった中期には、栗橋まで海でした。
弥生時代にかけて海は下がって行きますが、今でも海抜数メートルの低地が深く続き、下流は近代の地下水組み上げのせいで海抜マイナス地帯です。
1947年のカスリーン台風では、利根川と荒川の堤防が破れ、水がこの流域に流れ込み、大きな被害を出しました。
徳川が入り、大整備を行うまで、この流域は毎年洪水を起こす、不毛な湿地帯だったのです。
室町の上杉と古河公方の争いは、この湿地帯が最前線でした。
江戸に入った徳川家臣が嘆いたのは、江戸城の眼前に広がる広大な不毛の地を目の当たりにしたからでした。
しかし、湿地帯は水さえ抜けば稲作には絶好の、良質な土地です。家康は趣味の鷹狩がてら、領内をくまなく歩き回り、それに気づきました。
竹村公太郎先生の「日本史の謎は地形で解ける」が出典です。
カスリーンでは三郷の水元公園の遊水地機能では防ぎきれず、荒川放水路で食い留めました。荒川中流域の広大な河川敷を見るにつけ、ここで水を拡げておいて河口付近では最小の水位上昇に抑えるという壮大壮絶な青山技師のポリシーに打たれます。
君チョット間違えてるだろ、中川は埼玉県羽生市から東京湾迄全区間中川だぞ、古利根川は松伏町で中川と合流して元荒川は越谷市で中川と合流して東京湾迄中川だよ
大阪でも似たようなことがって昔の大和川は直接大阪湾に入るんじゃなくて淀川経由だったらしいそれを無理矢理変えて大阪湾に入るようになったとか
千葉県民だけど利根川めちゃくちゃ広い&長いから、あれを昔人力で掘ったとはとても信じられないわ。
江戸幕府は治水干拓事業を行っただけでもすごい。地形図が変わるほどの、木曽三川治水や濃尾平野と伊勢平野の干拓事業を行った。
現場監督の薩摩武士がほんの些細なことで次々に腹を切ってゆく壮絶な歴史。ちょっとぐらい遅れたっていいじゃねえかとか勘定が合わなけりゃ適当に予算ずらせよ、とかとはぜんぜん別世界の鹿児島のサムライの潔癖な任務遂行意識。仕事(主君)と友達が第1番で、家族が10番ぐらい、自分は100番以下に置く男の中の男たち。
木曽三川の地方の者ですが、何百年も過去の、あまりにダイナミックな各河川改造には驚く以外ありません。
その偉業は義務教育でも、図書室の蔵書や道徳、そして社会科の校外学習等を通して語り継がれています。
歴史関係では首をかしげる部分もあるけれど、土建の動画なのでそこは気にしなくていいかなと。
分かりやすく説明してくれていてすごく良いと思いました。
足尾銅山の辺りは知らなかったので勉強になりました。
江戸川河口の行徳の塩田は皇室御用達だったそうです。鉱毒の塩を上御一人に上げる訳にはいかないと。
利根川ってこんな歴史があったんですね。関連して千葉の新川放水路も取り上げて欲しいです!
元の流れから利根川は下総台地の東側へ、荒川は大宮台地の西側へということです。
しかしながら両台地とも北端部は微妙な高低差しかありません。そういうところの測量技術や土木技術も中々だったと言えます。それから当時は江戸川流頭部にも狭さく部がありましてそこでも洪水調節を行っていたようです。
先刻ご存じでしょうけど、関宿の江戸川口の棒出しという狭窄部ですね。今は現存してませんけど関宿閘門が担当してる機能です。今はずうっと空きっぱなしですが。
”歴史的農業環境閲覧システム”という政府のサイトにて棒出しが見れます。
こういう歴史を見ると、昨今の大雨による河川氾濫は、近代の観測史上初なだけであって昔からよくあった事なんだろうなぁ
その昔ウチの地元から大坂、和歌山、千葉へ漁民が秀吉・家康に請われて移住したという話が残っています。江戸という新しい都市のデベロッパーとして徳川家康は先見の明があったと思います。
土木が好きって訳じゃないけどこのチャンネルの動画はわかりやすくて好き🤓🤏
語り口がとても良いですよね。たとえは変ですが武田邦彦先生のトークチャンネル。先生の学者ポリシーうんぬんよりも武田先生の江戸前の噺家みたいな口跡や活舌が好きっ!みたいな。
「埼玉県の北埼玉郡・南埼玉郡」(武蔵国埼玉郡)・「埼玉県北足立郡・東京都南足立郡」(武蔵国足立郡)と「埼玉県北葛飾郡・東京都南葛飾郡」(下総国葛飾郡)の境目が、大昔に利根川が流れてた場所ですね。
私は50数年前は埼玉県北足立郡北本宿村でした、東京都足立区から40キロ離れています、でも全国の方は東京都の隣接地だと誤解して、便利な所にお住みですねと言われました。
有る頃、館林徳川家に思いを入れ過ぎて、酔っぱらって乗り過ごし、館林まで行ってしまいました。その頃、利根川東遷にも夢中でした、館林の数週間後にやはり、飲み乗り過ごしで、川俣まで行ってしまいました。始発が出るまで25km位てくてく歩いていたのですが、翌日調べたら、会の川締め切りのすぐ横を歩いていました!!!終電の時間でしたので、全く気がつきませんでした!!!庄内古川の堤防跡もしっかりとみてきました。見沼も、余すことなく踏破しました。
それから、凄いなと思うのは、日本堤のボトルネック堤防ですよね!!上流の民は見殺しですね!!数年前の10月の嵐の時に、岩淵水門が閉められた時は、凍りつきました。
とても面白く拝見させて頂きました。
外郭放水路についても深堀りして頂けたら有り難いです。
江戸時代の土建工事はスゴイ
途中に、浅間山の噴火による河床上昇もあるので
どっちかと言うと、玉川上水が一番すごいと思う
@@シュウ-y2p 様:浅間天明噴火は利根川水系吾妻川の方に大量噴出物が行ってしまったので折角の大工事も随分とやられてしまったようですね。群馬の八斗島の合流点で3mの川底上昇があったとききます。これが西の千曲川の方に噴出したら下流の信濃川はもっと大変な事になってたでしょうね。
一方斜め噴火だったので成層圏へは大きな影響がなく、世界的な厳冬や大飢饉は記録されてないと聞きました。
@@シュウ-y2p 様:遅くなってすみません。玉川上水も素晴らしいプランから実施施工された工事だと思います。カンテラ縄はりと水盛り程度の測量機器で47㎞、標高差たったの20mくらいでよく羽村堰から四谷大木戸まで関東ローム台地を切通してゆけたと感心します。特に笹塚と代々幡あたりの崖線が複雑な所に尾根を沿って走らせているところなんかスリルで胸が熱くなります。またメンテナンスが日本らしく現罰を伴うちゃんとしたものだったので途中のヤバイ所、久我山の神田川とのスレスレの所とか、北沢川とスレスレのところなんか、よく梅雨時など突破されて神田川や多摩川に落水しなかったもんだと感心します。要所の堅固な石組み等も歴史遺産十分だと思います。
@@16yk30 河川変位の失敗例は、阿賀野川の松ヶ崎放水路ですね
これにより色々と影響が出てますし
@@シュウ-y2p 様:そうですね。50㎞も距離が少なくなれば川底勾配は大きくなって従って流速大、浅化が進んで集堆の運搬も著しくなりますね。やがて河口が堆積によって閉塞し、大きな汽水池が出来てしまい、産業や人間の居住が終ります。天然、人為を問わず河川の争奪による流域突破は怖いですね。
江戸が大きく発展した大きな理由は河川改造により
関東平野全域から舟運で大量物資が江戸へ運ぶことができたことが大きい。
明治時代になると京都に住んでいた皇族や上級公家が京都を捨て関東へ移住しました。
江戸時代に既に事実上の首都だった江戸を東京に変え名実共に首都になったので
皇族や上級公家が首都・東京を認めたのですね。
水利関連見てると巨椋池とかやってくれないかなーとか思ったり
江戸時代初期の利根川は東遷させた方が水位が低くて排水が早かった。建設当時の利根運河は最初は江戸川から利根川へ向かって流れていたほど。近年になって利根川下流に堆積が多くなって水位が高くなり今の利根運河は利根川から江戸川へ流れるようになってしまった。利根川東遷は、江戸時代初期の江戸の街は江戸川下流からだいぶ離れていたこともあって(隅田川ぐらい近ければ話は別だが。)、江戸の洪水対策よりは、水運としての開削工事の意味が大きい。
東京って明治も面白いけど江戸も面白いなー。徳川家頭良過ぎ。何手先まで見て街づくりしたのだろうか。
優秀な人達がたくさん居たんだな。
すごくわかりやすくて面白いです。東京って大きい川もあれば、小さい川もあくさんあって、水運の都市なんですね。以前から江東区の枝川地区とかの川の多さに興味がありました。是非そのあたりの解説お願いします。
立川とか横川とか本所深川地区はずいぶん川を埋めちゃったですね。
利根運河も忘れてはダメですね。
江戸川と利根川を結ぶ短絡路でしたからね。
むさしの村のところに、全国的にも珍しい河畔砂丘があると聞いたけど、なんでこんな小さい会の川に砂丘を作る力があったんだ?と疑問に思ってた。
この動画を見て、すっごく納得。
埼玉の小学校には元利根川・元荒川を多少なりと地域勉強をする授業があった。
栃木県南の小学校では田中正造先生の遺徳を偲ぶ授業がありました。
「渡良瀬川〜旧江戸川は人工河川と河川学会調査」
利根川と渡良瀬川の下流域(庄内川)が低地帯で錯綜する流域以降を江戸以前では「ふとゐ川」あるいは「太井川」あるいは「太日川」と称し、遠く西へ離れた分流を隅田川と称していた。正保図の村名から現中川筋を木毛川あるいは葛西川と称した可能性が高いですが、いつからの呼称かは不明。1610頃までに流山市~松戸市以降の微高地を南北に縦断する流路(現在の江戸川)が開削され、低地帯中央部の利根川(ふとゐ川)の水の半分がこちらに移された(農業用水のためには可能な限り標高の高い部分を通す)。
これが家康時代に策定された利根川治水計画の第一目標だったと考えます。
1629に荒川を入間川に付け替えています。低地帯中央部を流れていた荒川の水を西端の隅田川に移す西遷です。(その前に低地帯へ流れていた隅田川の分流を遮断して深川などを陸地化、隅田川少考参照)
これが第2目標。
1625の新川通し開削に続いて、1641に関宿~野田のバイパス流路が開削され、利根川の水のほとんどがここを経由して新開削の流路(江戸川)を流れるようになります。(まだ江戸川の呼称はありません、風土記によれば水運路としての江戸川とあり、赤堀川通水1654以降の呼称)
低地帯に流れ込む利根川と庄内川(渡良瀬川)と荒川の水が数十年をかけて東と西に移動されて低地帯が農地化され、東葛台地西側の荒れ地も水利を得て新田が一斉に開墾された。
ここまでが幕府の利根川治水計画は千葉市から銚子へと「田沼意次が開削」した
のです。家康の阪東太郎を
3回に分けて完成されました。
低地帯を流れていたかっての利根川本流(ふとゐ川≒現:新中川筋)は消滅し、かっての分流であった木毛川(葛西川、現中川筋)も排水路化していった。
正保図では現中川筋を古利根川と書いていますが、隅田川の方は早々に荒川の水に替わっておりまた古来からの呼称であり、現中川筋がかっての利根川が自然状態で残る唯一だったからでしょう。
それも元禄図では無名となってしまい、風土記では猿ケ又以降の旧利根川筋を中川と呼ぶとあります。従って、旧江戸川は太い川と言われた。現在の旧江戸川は
上流、下流共に人工河川でした。以上が河川学会の調査結果です。
霞堤と同様の構造は、酒匂川にもあって、開成町~小田原市北部(曽比)に現在でも残ってます。Google Mapで確認できます。
子供の頃、なんで堤防が切れているのか不思議だったんだけど、こういうことだったんですね。
関東が発展したのは雪が降らないのも大きいと思う。雪国は雪かきに時間とられる。札幌が何故発展したのか謎。
札幌は雪は諦めても、それを上回る良い所だったんではないでしょうか。洪水・地震・ヒグマ・オオカミ・やぶ蚊が少ないなど。
昨日今日は大雪で札幌お大変ですね。
この利根川東遷事業が地元の関宿城博物館で取り上げられているけど、マイナーなのか、知られてない事実でもあるのでうれしいです。銚子と野田が醤油もこの水運で江戸まで運ばれたとか聞きますね。
関東の太平洋沿いは遠浅の上に波が荒いから、河川水運が生命線でしたね。
江戸の醤油文化だけでなく、草加煎餅も千葉の醤油があったから。
房総半島館山の沖では黒潮と親潮がぶつかり合ってて、当時の船では絶対に江戸湾に入ることは出来なかったので利根川水運オンリーで江戸に北からの豊かな物産を搬入しました。ちなみにそこで遭難するとあとはハワイまで助けてもらえない。ジョン万次郎と同じ目にあうこと必至。
@@saitamaumare83 そーかー( ・∇・)(失礼)
@@16yk30 そーなんですかー( ・∇・)(失礼)
鉱毒問題は、東京より千葉の塩田地帯を守る事が大きかったとどっかで読んだ気がします
江戸川流域はまだ農村ですからね
皇室御用達です。これは護らねば=千葉と茨城の農民は要らん水が沢山やってきて毎年の台風洪水に悩まされるようになる。とても難しい問題です。
大文豪志賀直哉先生がお父さんと仲わるだったのはこの辺の問題です。
いつも楽しく視聴させてもらっています。もし良ければ、佐久間ダムの解説もおねがいします。
関東は多くの河川の地であり、江戸へ物資を供給するのに
穏やかな川を使った舟運が担った。
荒川治水資料館に行くとこのエピソードも資料で見れるからオススメ
シティスカの名前をコメ欄で見て思わず笑ってしまったw
利根川はなかなかのもので祟りとか言われたりしたの前に見聞きして変わる前のはさぞ利用したり近隣の方々恐怖したんでしょうね
土建さん10万人突破していた・・おめでとうございます。(古参アピール
現在ではかまぼこってる地元もやはり昔、凄かったんだよなと知れる動画でした。
この歴史を知ると舟運を無くしてしまったのが勿体ない気もしてきた
おかげで千葉から茨城行くのに、渡れる橋が案外少なくて大変!!
いやいや、千葉と茨城の川は昔からあったんですよ。徳川は繋いだだけ。
橋を渡らないと行けない千葉県は島じゃないかな?。
@@矢向敏彰 様:千葉県は立派な島だと思います。
@@saitamaumare83 様:そうですね。常陸川という田んぼの中のいわゆる二級河川に利根川という大一級河川を流し込んだ訳ですから。橋はなかなか掛けられません。
@@saitamaumare83その境目の川は小貝川だと思いますよ、取手市やその付近の固定電話番号は04・・・と千葉県の番号が付いています、それから埼玉県の加須市にある「カスリーン公園」や渡良瀬遊水地の資料館へ行ってみるとよろしいかと思います。
東遷のこと知らなくて、利根川が江戸川に分岐するY字のとこにある千葉の関宿城跡っていうとこに行ったときに、たまたま利根川東遷の看板があって、それ読んだ時、しばらく信じれなかったよ。人の力で川を動かすなんてできるわけないって思っちゃうもん。
江戸川区の江戸川が「江戸時代に元々利根川で江戸川」ってのもなんか感慨深かった。歴史って名前にちゃんと残ってるんだなぁって。
で、荒川も西遷したってこの動画で初めて知ったΣ(゚Д゚)wだから、元荒川ってのがあるのか!!
地元の人間はこのことについて知る機会があるのですが、最近の研究でこの利根川東遷事業で取り除かれた土砂の量はパナマ運河やスエズ運河の掘削よりも多く、現時点で人類史上最大の土木事業だったということが分かっています。日本のゼネコンとどこかの大学の共同研究からの引用です。
後の浅間山天明大噴火は、噴出物が利根川水系に全て流れ込んだので、利根川東遷工事をすでにやっておいたことでずいぶんと助かったといわれてます。群馬の八斗島という所で噴火直後は河床が3mも上がってしまったような緊急事態は、江戸湾に向かう旧利根川筋だけではとても水と土砂を均し切れなかったといわれてます。
利根川水系に係わらず火山列島の日本の国土が住みやすいのは、行基上人以来1500年以上に渡る治水の結果だと子供の頃に習いました。
還暦を過ぎて、会社も嘱託になりましたので、最後のご奉公と想い水利組合の組合長を引き受けましたが、1500年分の利権の垢・苔の類が蔓延っています。
行基上人を導いたのは、師匠の道昭上人ですが、道昭上人は、玄奘三蔵(三蔵法師)から治水技術を伝授された方です。
詰まる処、中国に教えて戴いた土木技術があってのことと感謝をしてはいるのです。最近多く中国の方が、耕作放棄地の持ち主なられて、組合員としての権利を主張されますし、前述のことを滔々と・・・以下省略・・色々辛いです。
埼玉のニューシャトルで激推ししててたが、そんなに凄い人だったのか...
歩いて行ける距離に屋敷跡もあるし、明日行ってきます
敢えて氾濫させる・・・発想の逆転だな
しかしまぁ日本ってリアルマイクラやってたんだなぁって
そのために、江戸時代は堤防の内側は年貢を免除していたそうですね。
@@saitamaumare83 様:稲3日といって水没3日すると若い時は枯れてしまい、稲熟期では芽が出てしまって食えなくなるのでリスクを考えてくれて年貢免除になるんですね。
江戸が未開の土地というのも最近は盛られすぎとも言われてますけどね
北条氏時代でも上杉氏との最前線だった時期もあり、根拠地としては重要だった気がする
まあ前島が残っていたり使いにくい形状だったのは確かだから家康の功績が薄くはなりはしない
そういう意味でも水利は重要だとわかる回でしたん
母方の実家が利根川の逆水門利根川の近くにあるが、祖母が子供の時には頻繁に頻繁に床上浸水をしていたので、母方の実家を建て直す時には50cm程かさ上げしてその上に建設していた。
赤堀川は我が地元、
台地とは言ってるけど実際には微妙な高低差のある湿地や沼地にポコンと島みたいな土地がある場所
当時の道具や技術だと掘削は大変だったんだろうなー って想像がつく場所
現在の明治大学あたりの急な坂、駿河台の丘と神田川を掘削した土砂で日比谷入江の埋め立てて、海だった有楽町や銀座を作ったこととか、家康が江戸の守り神に平将門を祀って神田明神を作った由来とかやってください。
だから江戸川なのね!重機も無いのに、とんでもねぇ事やるなしかし。
荒川も神田川もほぼ飼いならせるようになったのは、平成に入ってから。
元都民としては関東の治水をシリーズ化して頂けたら嬉しいです。特に小学校の社会科でやった玉川上水!
見沼代用水もお願いしたいところ
遊水地をぜひ。河川の付け替えじゃなく、遊水地という選択をしたのは何故なのか知りたいです。日産スタジアムが遊水地にあるなんてびっくりしたわ。
写真等々の添付する場所が無くて残念に思います。私の7代は本所(深川の隣)亀沢町の男谷家に勝小吉
の妻が深川の民子、其の子供が勝麟太郎(後に海舟)が更に隣が私の3代の祖父母でした、近くには「葛飾北斎が近所にいた」話では
葛飾北斎は博学で有名な画家で、河川や変化を娘の「オーイ」と名付けた画作も天才的でした頃の前後や
5代綱吉の側用人の田沼意次の利根川東遷や旧江戸川等々の伝記や記録等々を踏まえ、結論をお話を致します。尚、幕府の記録はあったのですが、殆どは残っておりません。1、家康の入府当時は江戸湾に河川は十数の河川があり葦が茂る湿地帯が江戸の下町でした。
武家地7割ですので3割の長屋に住み、井戸端会議と
言われた通り井戸水でした
神田上水木道は日本橋の魚市場で其の先は、摂津の佃島の漁師13名で家康の命で築地、月島等々を埋立てた。住田川は河川の洪水、風水害があって決壊して土嚢を積上げた為に日本堤の位置が変わり、元荒川と住田川、利根川は河川の一つです。本所の回向院の眼の前は江戸城と丸の内の外様大名の屋敷は半浸水を採り込んだ川が神田上水(上様に献上する飲水)を住田川の下流に合流して、江戸湾へ流水した。従って、三多摩の井の頭の湧水が飲水に出来して江戸城や山の手
迄、湧水を上水木道(中を刳り貫いた)で飲水した。
2、昭和初期完成の荒川、洪水防止の新中川、利根川東遷の後に掘削した旧江戸川は全て人工河川です。利根川と唯一交わった元河川は元荒川ですが、江戸より
約90度東へ土木工事を3期に区分して掘削する為に
数十の河川は掘削と埋立てした為に河川の流れを変え
新たに掘り埋立てして試行錯誤して千葉市等々は知行地となる為に最後に田沼意次が利根川東遷したとあり
旧江戸川(旧、太い川)は
渡良瀬川の随所を堀削して市川の国府台に里見城を構築する際に外壕の岩盤は
固く高い位置にあり、松戸、船橋等々を徐々に下流へ堀削して旧江戸川は誕生します。左右の高低は市川、船橋側が3m程度、篠崎、葛西、浦安側が0m程度と東京都側が低い、昔の地質学的や有楽町層は東京都側が多い事がボーリング検査等々で人工河川が明確でした。河川の逆流も無かったの゙です。明治維新政府の行政区分を間違えていたのです。何かご質問等々は
江戸時代迄、回答します。
本所亀沢町7代末孫
太閤堤や、大和川の付け替えも、やってほしいな。
古利根川が本当に元々の利根川だったんだな…今の川幅からは想像しにくいので名前だけかと思ってた
かえって強大になった徳川
伊奈忠次は知恵泉で紹介されていました
関東平野の真ん中は現在も高速で沈み続けているけど、湖にならずにすんでいるのは、上流から運ばれる土砂の堆積と沈降がギリギリで均衡してるからだそうだ、お陰で関東の中心なのに海抜10メーター程度の慢性的な排水不良地帯となってしまっている、
あえて、逃す事で洪水を防ぐ
頭良すぎる
ダムだと耐え切れなくなると
爆発して、甚大な被害が出る
自然と戦うと言うので無く
自然を制御と言う感じ
伊奈氏はもっと色々なところで取り上げられるといいのにと思うのです
伊奈氏の活躍をNHK大河にと言った人物がいる。浩宮様(当時)あぁあ、制作されないな😭
結果として、野田の水運業者が力を持ちすぎて、「国道を通すのヤダ、(東京直通の)鉄道通すのヤダ」となって野田市が陸の孤島と化したのだが…
元々は、旧奥羽街道(今で言う国道4号)を持つ有力な宿場町だったけど、時代と共に衰退した都市やね。