Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
およそ2年前の動画を見直したら、気にいらないことだらけなので、自己批判しておきます。1.「本能」という言葉を多用しているが、そもそも本能などという概念は怪しげであるし、防衛機制・自己保存といった生物学的な行動を社会的・文化的な行動に勝手に拡大している。「多様性を受け入れたくないのが人間の本能」などというまるで根拠のない話をしている。2.多様性を守るのは自分にとっても得・有利という論を展開しているが、まったくだめ。多様性を尊重する動機は、生存戦略上有利か不利かなどといった損得の次元に落としてよい話ではない。3.自分が痛い目にあいたくないから、自分が多数派でいられるとは限らないから弱者やマイノリティを尊重するなど、そんな尊大な精神の持ち主が相手を対等に見るなんてことが、ありうるだろうか? そんな保険業者のセールストークのような理屈が多様性の尊重なのだろうか?4.古典を読むのは異質なものを受け入れるトレーニングとは、それ自体はいまだに異存はないが、そのトレーニングから現実的な人間相手に対する受け入れの精神が育つかと言えばはなはだ怪しい。現実的な多様性を受け入れるトレーニングは、現実を通してやるしかないだろう。
ちょうど二番に関して考えていたところなので助かります!
私はホテルの受付をしていた時、多様性を受け入れた方が仕事がしやすいとずっと思っていました。なので休みの日は、今まで行ったことがなく入るのに少し勇気がいる場所に行ってみたり、今まで読まなかったジャンルの本を買って読んでみたりしていました。するといろんなお客さんが来た時に自然にリラックスして対応できることが増えてきました。仕事をしていく上では、多様性を嫌でも受け入れた方が自分がやりやすいです。まさに自分を守るために多様性を受け入れるっていう姿勢が重要なんだと思います。
読書によって多様性を受け入れる訓練をまさにされたわけですね素晴らしい体験談をありがとうございます自分の提案は間違っていないと、勇気を頂きました!
以前、「LGBTQに寛容、死刑制度に賛成」している若者が多いのではないかと友人と議論しました。2つの立場は、他者の生存の権利を認める点では同じものとして扱えるはずなのに、直感的に上記のように考えてしまうのはなぜか、という内容です。確かに自分に危害が加わるか、攻撃性があるかの点では異なりますが、それ以上に他者への興味の無さが根本にあり、思考の形成は周囲の情報によって決定されているのではないかと考えました。上記のように、多様性を認めていると言いながら、それは本当に多様性を認めているのか?と、いつもモヤモヤします。
多様性と古典なるほどなぁというテーマでした。古典読みたくなってきました!
全ての多様性をごっちゃにして語る風潮は良くないと思いますね。私は思想的・学問的多様性は積極的に推進すべきだし、文化的多様性は積極的に排除すべきだし、(これによって全世界的視点において文化の多様性が保たれる。また他文化を享受することは禁止しない)人種的多様性は消極的に排除すべき(文化的多様性の排除の障害になるから)だと思います。
多様性を受け入れる大切さわかりやすかったです。ただ、一方で現在の状況にそぐわない面もあるなと感じました。確かにローマ帝国はそれでうまくいきましたが、現在は逆なのでは?と思っています欧州は移民を最初快く受け入れてましたが、そのせいで社会が無茶苦茶になり、現在はトランプ政権を始めヨーロッパの国がどんどん右傾化している傾向にあると思います。もし、多様性を受け入れることで良い国がつくれていたのであれば、ここまで世界中が右傾化することはなかったのかなと思いました。また、多様性を受け入れると言いながら、LGBTは容認するのにロリコンは許せないなど、結局守られているのは一部のマイノリティーにすぎない気もします。この違いはなんでしょうか?理性的に考えたらロリコンも保護しなければいけないということでしょうか?
charlotte 51 ローマ帝国はその領土を広げる上で、多民族の地のコミュニティや故郷あるいはナショナリズムさえもある程度保っていたのではないかなと思うので、移民はそこを失っているので簡単に比較できないんじゃないですかね
charlotte 51 また、ロリコン問題は自分でも整理できてないけど、lgbtと大きく異なるのはロリコンの性的な対象となるロリが圧倒的に弱者である点かなと思います。 ロリコンとロリが対等な立場になることが不可能に近いためロリコンは社会的に認められることが難しいんだと思います。
@@はさ-d8w 対象が弱者、なるほどです。
10:24 おれらは多様性を受け入れるために古典を読んでたってことか… なるほど、説得力がある。新しい視点を手に入れた!ありがとう!
個人的な理解や考え。・多様性を求める理由。多様性を求めるのは、今まで求める事が出来なかった、少数派の人の権利、自由、幸福を求めるだけ社会が醸成したと思うからです。難しいのは少数派と多数派の幸福追求がお互いの権利を奪い合う関係の場合は問題があると思うのですが、それこそ議論して合意形成が出来るべきなのかなと思います。・多様性を受け入れるとは?多様性を受け入れるとは、受け入れるのではなく、理解して住み分ける。時に幸福追求が重なる場合は合意形成ができる様な議論を行える様にするという事だと思います。・多様性を受け入れるメリットこれからの課題解決において集合知を活かせる。・提案また、教育レベルでも多様性を受け入れるとはどういうことか?様々な価値観や、主義主張がぶつかったときどの様に合意形成するかを学ぶべきかなと思いました。・課題多様性を受け入れるとはということの理解や実践の場が自分含め足りていない。社会(政治)が基本多数意見を取り入れるための仕組みなので、多様性を取り込み明文化できる仕組みになっていない?
多様性ってそれぞれの正しいを侵害しないことだと思う
多様性と言う言葉を使って認めさせる行為が嫌い
古典を読むこと、なるほどな〜と思った。マジで感動。その通りだ。だから、今の価値観で間違ってる昔の作品を断罪する動きを最近見かけるけどアレよくないな〜と思った
もっと大きいスケールでは、多様性を認めることは種の保存、生命、に有利に働きませんか。ニュートンは所謂、社会不適合者だったと聞いたことがあります。直接、生に利益を与えたとは言い難いですが、彼は人類の文化的発展に寄与したと思います。また、生物的には、遺伝子的に遠い異性を好きになりやすいというのも聞いたことがありますね。
多様性の反対は一様性で、どちらも長所短所があり、一方を無条件で正当化できない。結局、多様性と一様性との中間を、目的に即して取捨選択し、組み立てるしかない。古典を参考にするのも新説を参考にするのも自由であって、多様の中から、自分にとって意味あるものを少数選ぶしかない。
多様性を認めなければいけない論理についてやっぱりまだ納得できません。多様性の話をすると盲目的に生物学的な「人」を枠とした平等を掲げられることが多いように思えます。異質な「人」を人間として平等に扱わなければいけなくて、異質である他の生物を平等に扱わなくてもいいのはおかしいと思ってしまいます。稚拙な文章で申し訳ありませんが返信よろしくお願いします。
認めるというのが段階を踏んでいないのが気になるんですかね。認知するならもうすこしいい気がしますね。人と動物に関しては、主体と客体的な考え方をしてるんじゃないですかね。
gg 71 自分と違う人を客体化したら、その人を同等に扱わなくてもよくなりますかね
@@伴将義-x2f 全員をそうできればしてもいいんじゃないですか
今回の論理は「自分を危険にさらさないために、異質なものも認めたほうが良いよ」という話でした。要するに、自己保存の本能を逆手にとってるわけです「多様性」というときに、人間以外の生物を無視するのはおかしい、ということですか?そのあたりの議論はたぶん、誰もしていなさそうです殺生を禁じる宗教がしているかもしれないですね
多様性が求められる場面での自分のあり方・立ち位置、古典に向かう時の態度など、最近の自慰問題もあわせ、ネオさんの動画にドキッとさせられ、自省的に自分自身を見つめるいい機会を与えてもらっている。いろいろと自信を持って、言動しがちな年齢に達した。どうしても不必要な頑なさ、がんこさや思い込み、他者への過剰な批判(世代・集団ごとのレッテル貼り含め)として表出しがちだ。これは自分と現実や社会を見誤る原因をつくる。身近な青年の過ちを指摘しているときに、心のなかで「最近の若者は・・・」というつぶやきが声に出そうになった。自分が若者だったときに、年配者から「最近の若者は~」といわれ、「あんたみたいなじじいには絶対ならない」と反発した。それに気がついて、話し方を変えたことがあった。それ以降、新たに哲学や数学など自分が手を出してこなかった(知らない)分野の勉強をはじめ、「知らない」自分を一生懸命確認しているが、楽しい作業でもある。恥ずかし告白めいたコメントになったけれど、ネオさんやじゅんちゃん、名著解説の猫さんの動画はその道を照らしてくれていて、ありがたい。感謝してます。
自分の精神を耕す為!!ほんとそれ!
最近多様性について悩んでいる事があるのですが、マイノリティが「多様性を尊重せよ」という文言で自らの存在を肯定する事は、マジョリティ思考がマジョリティと共有のものであるから受け入れやすい(?)一方で、「多様性を尊重せよ」という主張を強制する人に対しての批判は思考のマイノリティであるからか、思想が統一されつつある最近は受け入れ難くなっているように思えます。しかし思考が均一化する事は結果的に文化の均一化にはつながらないでしょうか。勿論、文化を保護するという事にどれほどの価値があるのかは未知ですが、今現在進行している多様性の受け入れが、表面上の多様性の受け入れであり、根幹の部分の均一化であるような気がして、それは本当に多様性を維持しているのかなぁ、と思っています。
違う視点で考えると…。競争▪戦いなどでは、多様性は、大切です。欧米などは、相手の努力や能力を、無駄や無効化にするような戦略を上手くよく使う。多様性のない、一様な組織は、お互いのコンビネーションや訓練などにより、神業的にまで、戦術的な能力は高めるものの。次第に、その高い能力を、無効化されて、勝てなくなっていきます。
まじか!!!!ありがとうございます!!帰ったら見ます!!
多様性のあるところでは多様性を認めるのが当然正しいが、多様性のないところに多様性を求められたら、突っぱねるのが正。性別であれば男女の2つしかないから、第三の性など認めてはいけない。性的指向であれば異性愛、同性愛、両性愛の3つしかないから、それ以外は存在すらしない故、認めるもヘチマもない。
ないはない、というパルメニデスの論理ですね。
同性愛者の多い海外の都市に住んでたのですが、本当の多様性とは何なのかと考えさせられることもありました自分は同性愛者でもないし好きにすればいいと思うのですがやはり宗教的にどうしても攻撃的になってしまう人たちもいるみたいですただ、その地域も多様性を訴えるあまりがんじがらめになってるようになってた気がしますね多様性を訴えるあまり他者に攻撃的になったりと訳の分からないところもありました。
同質の問題は色んなところで生じてると思います菜食主義とかもそうですね多様性とは、人間存在のあり方の全体を指すものですだから本当は複雑な問題なんですが、どうもそれが単純な善悪の問題に抽象されてしまい、無益にして不毛ないさかいばかりが起こりますね
多様性とは芸術也本当の多様性ならやんわりブロックすれば良い
日本の古典は読まれてますか?
多様性を受け入れないということも多様性のひとつ
頑張って専門外のことを理解しようと懸命に聞いているが、全くわからない.....。単純に言葉ってめんどくさいよねって思った。後この動画は知らないが、なんでも昔の人の意見引用しても所詮昔の人なんで今の時代のお偉いさんの人の意見を引用してなら話がわかりそうなので、そこから議論を進めてもらいたいなと思います。脳が動いていないので、コメントメチャクチャかもしれません、すみません。
今の時代の本を読んでも、自分と同じ常識が書いてあるから多様性を受け入れるには不十分だという話をしているのですが全く伝わってないようで申し訳ないです!所詮昔の人、所詮海外の人、所詮よそもの、所詮自分じゃない人、とどんどん多様性を受け入れる余白が狭まります
加害行為を正当化するのに多様性を持ち出す人が居るのですがさすがに受け入れられないです例えば動物虐待や体罰なんかの界隈にこの手の人間が散見されます。曰く法的に問題無ければ虐待・暴行するのも多様性だというのです私としては多様性は他者を侵害しない範囲で適応されるべきだと考えていますし、この私の考えが絶対的な前提にならずに多様性のなかの一つとして片付けられられると理不尽が横行してしまうので、多様性の濫用は危惧しています
愚かなことを考える人もいるもんですね多様性と価値/善悪は全く別の問題ですからねなぜ法的にという限定をしてるのかもよく分からないです法を守らないことも多様性といえば多様性ですが笑
@@neomin 彼らが法を特別視している理由は、法に対しては多様性という屁理屈が通用しないのを分かっているからだと思います勝てる相手、泣き寝入りさせられる相手だけ選んで加害しているんです。卑怯者です
ふーむ。そうなんですね。相手にしないのが一番なんですけどね
なぜ人を殺してはいけないのかという問いに似ていますね
ニュートンさん!コメントありがとうございます。ぜひ哲学者降臨生放送にもいらしてください!笑
ネオ高等遊民:哲学マスター 今度伺ってみようと思いますライプニッツがいるようなのでコメントはしないかも笑
およそ2年前の動画を見直したら、気にいらないことだらけなので、自己批判しておきます。
1.「本能」という言葉を多用しているが、そもそも本能などという概念は怪しげであるし、防衛機制・自己保存といった生物学的な行動を社会的・文化的な行動に勝手に拡大している。「多様性を受け入れたくないのが人間の本能」などというまるで根拠のない話をしている。
2.多様性を守るのは自分にとっても得・有利という論を展開しているが、まったくだめ。多様性を尊重する動機は、生存戦略上有利か不利かなどといった損得の次元に落としてよい話ではない。
3.自分が痛い目にあいたくないから、自分が多数派でいられるとは限らないから弱者やマイノリティを尊重するなど、そんな尊大な精神の持ち主が相手を対等に見るなんてことが、ありうるだろうか? そんな保険業者のセールストークのような理屈が多様性の尊重なのだろうか?
4.古典を読むのは異質なものを受け入れるトレーニングとは、それ自体はいまだに異存はないが、そのトレーニングから現実的な人間相手に対する受け入れの精神が育つかと言えばはなはだ怪しい。現実的な多様性を受け入れるトレーニングは、現実を通してやるしかないだろう。
ちょうど二番に関して考えていたところなので助かります!
私はホテルの受付をしていた時、多様性を受け入れた方が仕事がしやすいとずっと思っていました。
なので休みの日は、今まで行ったことがなく入るのに少し勇気がいる場所に行ってみたり、今まで読まなかったジャンルの本を買って読んでみたりしていました。
するといろんなお客さんが来た時に自然にリラックスして対応できることが増えてきました。
仕事をしていく上では、多様性を嫌でも受け入れた方が自分がやりやすいです。
まさに自分を守るために多様性を受け入れるっていう姿勢が重要なんだと思います。
読書によって多様性を受け入れる訓練をまさにされたわけですね
素晴らしい体験談をありがとうございます
自分の提案は間違っていないと、勇気を頂きました!
以前、「LGBTQに寛容、死刑制度に賛成」している若者が多いのではないかと友人と議論しました。2つの立場は、他者の生存の権利を認める点では同じものとして扱えるはずなのに、直感的に上記のように考えてしまうのはなぜか、という内容です。
確かに自分に危害が加わるか、攻撃性があるかの点では異なりますが、それ以上に他者への興味の無さが根本にあり、思考の形成は周囲の情報によって決定されているのではないかと考えました。
上記のように、多様性を認めていると言いながら、それは本当に多様性を認めているのか?と、いつもモヤモヤします。
多様性と古典なるほどなぁというテーマでした。古典読みたくなってきました!
全ての多様性をごっちゃにして語る風潮は良くないと思いますね。私は
思想的・学問的多様性は積極的に推進すべきだし、
文化的多様性は積極的に排除すべきだし、(これによって全世界的視点において文化の多様性が保たれる。また他文化を享受することは禁止しない)
人種的多様性は消極的に排除すべき(文化的多様性の排除の障害になるから)だと思います。
多様性を受け入れる大切さわかりやすかったです。
ただ、一方で現在の状況にそぐわない面もあるなと感じました。確かにローマ帝国はそれでうまくいきましたが、現在は逆なのでは?と思っています
欧州は移民を最初快く受け入れてましたが、そのせいで社会が無茶苦茶になり、現在はトランプ政権を始めヨーロッパの国がどんどん右傾化している傾向にあると思います。
もし、多様性を受け入れることで良い国がつくれていたのであれば、ここまで世界中が右傾化することはなかったのかなと思いました。
また、多様性を受け入れると言いながら、LGBTは容認するのにロリコンは許せないなど、結局守られているのは一部のマイノリティーにすぎない気もします。この違いはなんでしょうか?
理性的に考えたらロリコンも保護しなければいけないということでしょうか?
charlotte 51 ローマ帝国はその領土を広げる上で、多民族の地のコミュニティや故郷あるいはナショナリズムさえもある程度保っていたのではないかなと思うので、移民はそこを失っているので簡単に比較できないんじゃないですかね
charlotte 51 また、ロリコン問題は自分でも整理できてないけど、lgbtと大きく異なるのはロリコンの性的な対象となるロリが圧倒的に弱者である点かなと思います。
ロリコンとロリが対等な立場になることが不可能に近いためロリコンは社会的に認められることが難しいんだと思います。
@@はさ-d8w 対象が弱者、なるほどです。
10:24 おれらは多様性を受け入れるために古典を読んでたってことか… なるほど、説得力がある。新しい視点を手に入れた!ありがとう!
個人的な理解や考え。
・多様性を求める理由。
多様性を求めるのは、今まで求める事が出来なかった、少数派の人の権利、自由、幸福を求めるだけ社会が醸成したと思うからです。
難しいのは少数派と多数派の幸福追求がお互いの権利を奪い合う関係の場合は問題があると思うのですが、それこそ議論して合意形成が出来るべきなのかなと思います。
・多様性を受け入れるとは?
多様性を受け入れるとは、受け入れるのではなく、理解して住み分ける。時に幸福追求が重なる場合は合意形成ができる様な議論を行える様にするという事だと思います。
・多様性を受け入れるメリット
これからの課題解決において集合知を活かせる。
・提案
また、教育レベルでも多様性を受け入れるとはどういうことか?
様々な価値観や、主義主張がぶつかったときどの様に合意形成するかを学ぶべきかなと思いました。
・課題
多様性を受け入れるとはということの理解や実践の場が自分含め足りていない。
社会(政治)が基本多数意見を取り入れるための仕組みなので、多様性を取り込み明文化できる仕組みになっていない?
多様性ってそれぞれの正しいを侵害しないことだと思う
多様性と言う言葉を使って認めさせる行為が嫌い
古典を読むこと、なるほどな〜と思った。マジで感動。その通りだ。
だから、今の価値観で間違ってる昔の作品を断罪する動きを最近見かけるけどアレよくないな〜と思った
もっと大きいスケールでは、多様性を認めることは種の保存、生命、に有利に働きませんか。ニュートンは所謂、社会不適合者だったと聞いたことがあります。直接、生に利益を与えたとは言い難いですが、彼は人類の文化的発展に寄与したと思います。
また、生物的には、遺伝子的に遠い異性を好きになりやすいというのも聞いたことがありますね。
多様性の反対は一様性で、どちらも長所短所があり、一方を無条件で正当化できない。
結局、多様性と一様性との中間を、目的に即して取捨選択し、組み立てるしかない。
古典を参考にするのも新説を参考にするのも自由であって、
多様の中から、自分にとって意味あるものを少数選ぶしかない。
多様性を認めなければいけない論理についてやっぱりまだ納得できません。
多様性の話をすると盲目的に生物学的な「人」を枠とした平等を掲げられることが多いように思えます。
異質な「人」を人間として平等に扱わなければいけなくて、異質である他の生物を平等に扱わなくてもいいのはおかしいと思ってしまいます。
稚拙な文章で申し訳ありませんが返信よろしくお願いします。
認めるというのが段階を踏んでいないのが気になるんですかね。認知するならもうすこしいい気がしますね。
人と動物に関しては、主体と客体的な考え方をしてるんじゃないですかね。
gg 71 自分と違う人を客体化したら、その人を同等に扱わなくてもよくなりますかね
@@伴将義-x2f 全員をそうできればしてもいいんじゃないですか
今回の論理は「自分を危険にさらさないために、異質なものも認めたほうが良いよ」という話でした。
要するに、自己保存の本能を逆手にとってるわけです
「多様性」というときに、人間以外の生物を無視するのはおかしい、ということですか?
そのあたりの議論はたぶん、誰もしていなさそうです
殺生を禁じる宗教がしているかもしれないですね
多様性が求められる場面での自分のあり方・立ち位置、古典に向かう時の態度など、最近の自慰問題もあわせ、ネオさんの動画にドキッとさせられ、自省的に自分自身を見つめるいい機会を与えてもらっている。
いろいろと自信を持って、言動しがちな年齢に達した。どうしても不必要な頑なさ、がんこさや思い込み、他者への過剰な批判(世代・集団ごとのレッテル貼り含め)として表出しがちだ。これは自分と現実や社会を見誤る原因をつくる。
身近な青年の過ちを指摘しているときに、心のなかで「最近の若者は・・・」というつぶやきが声に出そうになった。自分が若者だったときに、年配者から「最近の若者は~」といわれ、「あんたみたいなじじいには絶対ならない」と反発した。それに気がついて、話し方を変えたことがあった。
それ以降、新たに哲学や数学など自分が手を出してこなかった(知らない)分野の勉強をはじめ、「知らない」自分を一生懸命確認しているが、楽しい作業でもある。恥ずかし告白めいたコメントになったけれど、ネオさんやじゅんちゃん、名著解説の猫さんの動画はその道を照らしてくれていて、ありがたい。感謝してます。
自分の精神を耕す為!!ほんとそれ!
最近多様性について悩んでいる事があるのですが、マイノリティが「多様性を尊重せよ」という文言で自らの存在を肯定する事は、マジョリティ思考がマジョリティと共有のものであるから受け入れやすい(?)一方で、「多様性を尊重せよ」という主張を強制する人に対しての批判は思考のマイノリティであるからか、思想が統一されつつある最近は受け入れ難くなっているように思えます。
しかし思考が均一化する事は結果的に文化の均一化にはつながらないでしょうか。勿論、文化を保護するという事にどれほどの価値があるのかは未知ですが、今現在進行している多様性の受け入れが、表面上の多様性の受け入れであり、根幹の部分の均一化であるような気がして、それは本当に多様性を維持しているのかなぁ、と思っています。
違う視点で考えると…。
競争▪戦いなどでは、多様性は、大切です。
欧米などは、相手の努力や能力を、無駄や無効化にするような戦略を上手くよく使う。
多様性のない、一様な組織は、お互いのコンビネーションや訓練などにより、神業的にまで、戦術的な能力は高めるものの。
次第に、その高い能力を、無効化されて、勝てなくなっていきます。
まじか!!!!ありがとうございます!!帰ったら見ます!!
多様性のあるところでは多様性を認めるのが当然正しいが、多様性のないところに多様性を求められたら、突っぱねるのが正。
性別であれば男女の2つしかないから、第三の性など認めてはいけない。
性的指向であれば異性愛、同性愛、両性愛の3つしかないから、それ以外は存在すらしない故、認めるもヘチマもない。
ないはない、というパルメニデスの論理ですね。
同性愛者の多い海外の都市に住んでたのですが、本当の多様性とは何なのかと考えさせられることもありました
自分は同性愛者でもないし好きにすればいいと思うのですがやはり宗教的にどうしても攻撃的になってしまう人たちもいるみたいです
ただ、その地域も多様性を訴えるあまりがんじがらめになってるようになってた気がしますね
多様性を訴えるあまり他者に攻撃的になったりと訳の分からないところもありました。
同質の問題は色んなところで生じてると思います
菜食主義とかもそうですね
多様性とは、人間存在のあり方の全体を指すものです
だから本当は複雑な問題なんですが、どうもそれが単純な善悪の問題に抽象されてしまい、無益にして不毛ないさかいばかりが起こりますね
多様性とは芸術也
本当の多様性ならやんわりブロックすれば良い
日本の古典は読まれてますか?
多様性を受け入れないということも多様性のひとつ
頑張って専門外のことを理解しようと懸命に聞いているが、全くわからない.....。
単純に言葉ってめんどくさいよねって思った。
後この動画は知らないが、なんでも昔の人の意見引用しても所詮昔の人なんで今の時代のお偉いさんの人の意見を引用してなら話がわかりそうなので、そこから議論を進めてもらいたいなと思います。
脳が動いていないので、コメントメチャクチャかもしれません、すみません。
今の時代の本を読んでも、自分と同じ常識が書いてあるから多様性を受け入れるには不十分だという話をしているのですが全く伝わってないようで申し訳ないです!
所詮昔の人、所詮海外の人、所詮よそもの、所詮自分じゃない人、とどんどん多様性を受け入れる余白が狭まります
加害行為を正当化するのに多様性を持ち出す人が居るのですがさすがに受け入れられないです
例えば動物虐待や体罰なんかの界隈にこの手の人間が散見されます。曰く法的に問題無ければ虐待・暴行するのも多様性だというのです
私としては多様性は他者を侵害しない範囲で適応されるべきだと考えていますし、この私の考えが絶対的な前提にならずに多様性のなかの一つとして片付けられられると理不尽が横行してしまうので、多様性の濫用は危惧しています
愚かなことを考える人もいるもんですね
多様性と価値/善悪は全く別の問題ですからね
なぜ法的にという限定をしてるのかもよく分からないです
法を守らないことも多様性といえば多様性ですが笑
@@neomin
彼らが法を特別視している理由は、法に対しては多様性という屁理屈が通用しないのを分かっているからだと思います
勝てる相手、泣き寝入りさせられる相手だけ選んで加害しているんです。卑怯者です
ふーむ。そうなんですね。相手にしないのが一番なんですけどね
なぜ人を殺してはいけないのかという問いに似ていますね
ニュートンさん!
コメントありがとうございます。
ぜひ哲学者降臨生放送にもいらしてください!笑
ネオ高等遊民:哲学マスター
今度伺ってみようと思います
ライプニッツがいるようなのでコメントはしないかも笑