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こういうの、ありがたいです!せっかく興味持っていろいろな渋い神社に辿り着いているのに、いつも読み取り方が薄くてもったいないことをしていたんだなと思いました。
有難うございます◎今年は妻が撮影に付き合ってくれることになったので、ロケバージョンをメインにやっていきたいと思っております。僕も見落としてることがあると思いますので、皆様からも教えて下さいね(^ ^)
今回も、とても興味深く拝聴いたしました。天神さん、探していました。お待ちしております。
有難うございます◎菅原道真=天神さん?と疑問をお持ちの方は何気に結構いらっしゃると思いますが、しっくりくる説明を聞きたことがないので、また持論をぶちまけてみますね。伏線ばかり散らかしてすいません(^_^;)
@@nakabunken 楽しみにしています。天満宮(人)と天神社(神)と混合されていて、人に尋ねても天神の名前がなかなか見つからずに暗中模索状態ですw海の神なのでしょうが、真名が見つからないんです。表層な私のレベルでは、全く歯が立ちません。首を長くして、お待ちしておりますm(_ _)m
クナト大神の原形がシバ神。シバ神は、自在天神(天神さま)。菅原道真さま(富 大田彦/野見宿祢大田彦の子孫(皇室も同じ))の天満天神が一般的に成る以前は手間天神。少名彦(=コトシロヌシ/富 八重波津身命(皇室の直系祖先))だった。我々の地方に「天神」地域がありますが志筑(シヅキ)神社(式内社)を指し、祭神は、少名彦さまの手間天神さま。地名も神社由来で志筑。加太の淡島神社から奉迎鎮座らしい。(淡島神社は元々は友ヶ島の神島(元々は淡島/粟島?)に在った(日本標準時の子午線が通る!と言うより神島と西神戸(明石)の「神出」(「全ての神が出(産まれ)た」に由来)の雌丘山(メッコウサン)/淡路島の篝場山を見通したラインが子午線と追認しただけwww))この辺り(志筑)は源 義経の室(側室)、静御前の一族の領地だったらしい。「静御前の墓」(供養塔)が古来あり、それを整備して「静の里」公園として町起こし(以前、一億円の金塊(それが更に子を産んでw2つに)で一躍有名になった)大黒天(大黒(大国)さま)。地蔵菩薩/閻魔大王(表裏一体)。 閻魔帳wのデータ収集はそれこそどこにでもいる?地蔵さんが😒)不動明王(シバ神が原形)。幸媛命/サビメ大神やサルタ彦大神も不動明王(=揺るぎなく不動なる大元の神=幸の神))他数多。(大山祇。大山咋(松尾(松葉は女神。尾は男性、=幸の神。また、松尾をマッツォ(遊牧民等の素朴なパン。餅の語源?だと食糧の神))/咋(クイ等棒状の物や刀剣や矛等の鋭利な物は男、男神の形代))。 大歳。(元来は出雲王国の直轄地域だった播磨地方(~神戸(神戸の地名は出雲の神門臣家に由来?神門と神戸は同儀))は全域に大歳神社が密集して在る(数百社)特異な地域)根の神(木の根子はクナト大神の形代の一つ、根子=大王(天皇の別称号が大倭根子)))【久】はクナト大神の暗号?
神社ロケありがとうございます♪小さな祠、何かがにじみ出て良いですね。大きく祀られているのは政治的にあとからつけられたり元々の神さまが奥宮や摂社にひっそりと…と言う場合が結構ありますね。サイノカミって厄除け神社か〜。大山咋神って、大年神の子か…誰なんだろう。🤔妄想が膨らみます。松尾神社だったら秦族の神社ですよね。丹波自体が、海部氏🌊ですしね。石標、かわいいですね。味わい深いです。💞
有難うございます、大山咋神の実体については謎が多いですね。僕の子供の頃からの産土さんなんですが、まだまだ分からないというか、深いです(^^)一般的には大年神の子といえますが、その場合、大年神をスサノオ系とみるか出雲族系とみるかによっても大山咋神のイメージはかわりますよね。秦氏もしかり。僕は基本的に一万年以上かけてで成熟した縄文社会が、ちょっとやそっとの異文化(スサノオなど)の侵入によって、その文化やヒエラルキーが揺らいだとは思っていません。なのでスサノオの子孫をスサノオの系統として考えることにも慎重になっています。僕は本来は大山咋神は出雲族の神名だと考えています。ただニギハヤヒの大和支配の実態は、海部氏(スサノオ系)と出雲族によるものと考えているのですが、こういった縄文文化と弥生文化の融合から、次第に力関係が逆転していく中で、秦氏が大山咋神を祀るケースなど、本来は純粋な国津神的存在の大山咋神からそれ以上の性格が習合されていったようなイメージを持っています。ホツマツタヱにはニニギの指示で、大山咋神が60年かけて京都盆地の土を比叡山に盛り上げたという話も出てきますし、山王信仰や磐座とも絡んで、追いかければどんどん面白い神様だなと結構苦労しています(^^)また何かお気付きのことがあれば教えて下さい◎
@@nakabunken さま丁寧なお返事、ありがとうございます♪出雲の伝承を読みました。全てが真実とは思いませんが、霧が晴れる事が沢山ありました。おっしゃる通り、ヤマト政権とは、東出雲王家・富家の分家である登美家と西出雲王家・神門家の親族である海家が婚姻によって一緒になって出来たものと分かりました。海家は徐福の子孫でありながら、子の五十猛は、徐福に置き去りにされ出雲のサポートで成長し出雲式に育てられたようで、サイノカミ信仰の大年神から『大年彦』とも呼ばれ出雲の中の秦族をまとめ地域と融合してゆく努力をしたようです。先住民と渡来系の摩擦のちょうど仲介役のようなカタチとなったようですね。ヤマトで大王となったのはその子の村雲ですが実質上の実力者は皇后の兄の登美家のクシヒカタでしょう。ホツマツタヱの前半を書いたとされる方ですが、大王家の表の顔は村雲でも一番重要な祭祀を司るのは女性である登美家の皇后であり、その後も3代続いて登美家から皇后が出ているということは血筋的にも大きく登美化している上に当時の縄文母系社会では子は母の家で育ち、教育されたため、どんどん出雲化してゆき第二の出雲王朝と呼ばれたというのも記紀の系図とかなり合致します。欠史と呼ばれ、謎につつまれていた海・磯城王朝の全容が辻褄のあうカタチで観えて来た感じです。海家というのは渡来系秦族でありながら既に五十猛の頃から出雲とかなり融合しヤマト政権になってからはほぼ出雲系王朝と言って良い縄文の香りを色濃く残す王朝であったことがわかります。その後に九州から東征して来る同じ徐福の子孫である物部はかなり大陸的要素を含む部族であったのと対照的です。徐福自体はヤマト入りせず九州で亡くなったようですが、その子孫たちの権力争奪戦を記紀は海幸・山幸の逸話として描いてある。徐福・饒速日の息子はホホデミで記紀の山幸🐗の名前と一致します。徐福・火明🔥の息子が海家🐟の五十猛という事でしょう。山幸🐗勢力が、海王朝🐟を倒す物語…天火明命を祀る籠神社に饒速日命と市杵島姫の絵馬があったのも納得しました。そして、何故、草薙剣が熱田神宮にあるのか…消された初代天皇・海村雲は天叢雲剣となって、その子孫の尾張氏が保管しているという訳ですね。長くなりましたが大年神を大年彦であった五十猛とすると、徐福はスサノヲに例えられているので系図としても繋がります。五十猛はかなり地域に貢献したようですし、その子であれば、出雲族と秦族両方から支持されていたことも想像できます。勿論、出雲族との縁戚関係はあったでしょう。どなたかな?!と、妄想しています。海部氏の系図で適当な方はいませんか?!
@@girasole4172 さん富家(斎木)本、読みましたか(^^)どこまでが伝承でどこからが推測なのかよく分からないですが、妙に説得力もあったりして不思議な面白さがありますね。でもおっしゃる通り完全にハマるのは危ないです笑ただ丹波を楽しむにはこの上ない伝承の一つですし、そもそも考古学を見た場合、確実に大和よりも先に列島最大級の弥生王墓が現れるのが丹後で、その副葬品や遺跡の出土物のレベルは大和と丹後ではゼロ百に近い差があります。丹後を超えるのは現状では福岡だけでしょう。しかし丹後と福岡では発掘成果のデータにかなりのバイアスがあります。丹後が福岡並みに開発され、発掘調査が行われれば、逆転するかもしれないと思ったりもしますが、おそらく永遠に埋もれたままですね。なので富家伝承は考古学的には真っ当な内容だと思います◎僕は今のところ、大山咋神は出雲族の神名で個人の名では無いと捉えています。逆側から見れば大物主となるか、或いは集合されている感を持ってまいす。大山を喰う神、杭の神と捉えれば確かに土木イメージの強い秦氏に似つかわしいし、そのものかもしれません。また古事記が記す別名の「山末之大主神」と聞くと山頂の主、山王ともなって国津神の印象が強くなる気がします。ただ京都の松尾に「大利」という地名があってほぼ毎日通るのですが、やはり大年神との関係は濃厚な気はします。富家伝承や丹後国風土記残欠が語るように大己貴命とホアカリ(五十猛)はともに行動していますね。丹後国風土記では大己貴命にしっかりと仕えるホアカリが、播磨国風土記では大己貴命の子としてホアカリが暴れる話がありますが、いずれも記紀史観では理解不能です。おそらく全国の風土記が揃っていれば、国津神の歴史の実態がもっと分かったはずですが(^^)だから残らなかったんでしょうね、大和国風土記すらほぼ無いなんておかしいですもん笑海部氏や尾張氏は面白すぎですね。そこに関係して丹波道主や日子坐王のことも取り上げたいのですが…因みに四道将軍の一人である丹波道主命は崇神朝に大和から丹波平定に向かった将軍として書記に記されますが、そもそもは丹後から大和に進出した丹後の王族の代名詞が丹波道主命なんです。その父が日子坐王であり、実体はホアカリです。なので彼らは丹波の至る所で祀られています◎そしてここに大山咋さんも無関係ではないのがまた面白くて、僕もまだしばらくは勉強させられそうです…僕も長くなってすいません(^_^;)
@@nakabunken さま沢山の興味深い情報をありがとうございます💓丹後と福岡の巨大墳墓や埋葬品…弥生遺跡なのですね。とすると、やっぱり徐福らと思われる秦族の渡来によって新たな埋葬形式が生まれたと考えられますね。どちらも、徐福が引き連れて来たと言われる秦族の拠点地です。それ以前から栄えていた出雲王国は風葬であったため、大きな墳墓は作らず、山の頂上に神籬(霊隠木)を作り安置し、3年後に籠から出され、洗骨され、頂上付近の大きな磐座の脇に埋葬された…と、伝承に書かれています。つまり、その後に現れる大きな墳墓と違い、限りなく自然の中に溶け込むような埋葬方式で、古代人が拝んでいた磐座の中にはどなたかが埋葬されているものも多いのではないかと思います。あまりにも、自然と同化してしまってそれが重要人物の墓とは気づかない場合の方が多いのかも知れないですね。縄文時代は、自然に帰ることで母なる地球🌏の子宮に帰り、蘇りが出来ると考えていたのかも🦆と思いました。とすると、弥生時代に入り多くの埋葬品とともに大きな墳墓が出現しだすというのは明らかに新しい別の価値観が出現し、異文化をもたらした何かの流入があったのだと感じます。出雲の伝承の記述が時代的にも、地域的にもそのことを裏付けるようで霧が晴れる感じです。出雲の伝承については細かいことは色々別の視点もありますが、大きな流れとしてそのような事が実際にあったのだろうと感じています。私は系図が大好きの系図オタクなので、伝承のお話は、記紀では縦の繋がりしか分からなかった系図が放射状に次々と繋がり、だたの文字であった名前が命を吹き込まれ、勝手に動いてゆく感覚になりました。読む前から、丹波がとても気になっていましたが、読んだら、丹波がジョーカー🃏だったと思いました。😆丹波の伝承もとても興味深いです。発信を楽しみにしています。ありがとうございました。💓
@@girasole4172 さん日本の墓の歴史は面白いですね。出雲族の磐座への葬法は興味深いですが、非常に説得力があります。君が代も、大君はイワオとなりて…とうたうように「人は死ぬとイワに帰る」という観念を、間違いなく古代人は持っています。高貴な人が亡くなることを「岩隠る(いわがくる)」とも言い、アマテラス(縄文の?)もまた岩に隠れました。近いうちにイワや磐座についての動画も撮ろうと思います(^^)因みに系図でいうと富家伝承の大名持系図の初代から八千矛までの部分は、但馬に伝わっていた系図と全く同じですので、富家はそれを参考にしている可能性も無きにしもあらずです。よければch.tanba@gmail.comにメール頂いたらその資料を返信しますよ。いつも有難うございます、これからもご意見よろしくお願いいたします◎
自分の住んでる地方にも天満宮・天神社がたくさんありますが、聞いた話ですと全部が全部菅原道真公が祀られてるわけではなく中には天照大御神を祀ってるものもあると聞きましたが、どうやって御祭神を見分けるのでしょうか天神社とか特に小規模な神社が多く、神社の由来など書かれていない場所が多いようです
コメント有難う御座います、僕は天満宮で祀られている天神は本来なら天照大御神としてのスサノオだと考えています。菅原道真はスサノオの子孫(天神一族、雷族)として後に習合、合祀されたと考えています◎祭神不明の小祠は、中を開けれるならお札を確認するという手もあります。僕は鍵がなければ深くお参りをしてから、拝見しますよ☆その方が喜んでもらえると信じています^_^
@@nakabunken 自分は宮崎在住なのですが、天照大御神は身近でも出雲のスサノオは、どうも縁遠くw祠を開けたことがありませんが、今度そのような神社に行った時は拝見させていただきたいと思います有難う御座いました
勉強になります。丹波の大山咋様が特に。秦氏が祀ってますが、元は出雲?大山祇との関係は?気になります。
コメント有難う御座います。大山咋神は奥深いですよね!秦氏や賀茂氏に祀られている大山咋神ですが、本来は原出雲族の神だと考えています。出雲族の山神に秦氏や賀茂氏の雷神の性格が習合しているように感じます。かなり説明が必要ですが、近いうちに大山咋神に踏み込んだ動画を撮りたいと思っています。またご意見頂けると嬉しいです^_^
石標はいい!わしも好き。神社のなかの石標は初めて見た。
コメントありがとうございます。僕もローカルな道標を探すのが好きなので、また他にもご紹介させて頂きます◎
こういうの、ありがたいです!せっかく興味持っていろいろな渋い神社に辿り着いているのに、いつも読み取り方が薄くてもったいないことをしていたんだなと思いました。
有難うございます◎
今年は妻が撮影に付き合ってくれることになったので、ロケバージョンをメインにやっていきたいと思っております。
僕も見落としてることがあると思いますので、皆様からも教えて下さいね(^ ^)
今回も、とても興味深く拝聴いたしました。
天神さん、探していました。お待ちしております。
有難うございます◎
菅原道真=天神さん?と疑問をお持ちの方は何気に結構いらっしゃると思いますが、しっくりくる説明を聞きたことがないので、また持論をぶちまけてみますね。伏線ばかり散らかしてすいません(^_^;)
@@nakabunken 楽しみにしています。
天満宮(人)と天神社(神)と混合されていて、人に尋ねても天神の名前がなかなか見つからずに暗中模索状態ですw
海の神なのでしょうが、真名が見つからないんです。表層な私のレベルでは、全く歯が立ちません。
首を長くして、お待ちしておりますm(_ _)m
クナト大神の原形が
シバ神。
シバ神は、
自在天神(天神さま)。
菅原道真さま(富 大田彦/野見宿祢大田彦の子孫(皇室も同じ))
の天満天神が一般的に成る以前は
手間天神。少名彦(=コトシロヌシ/富 八重波津身命(皇室の直系祖先))だった。
我々の地方に「天神」地域がありますが
志筑(シヅキ)神社(式内社)を指し、祭神は、
少名彦さまの手間天神さま。
地名も神社由来で志筑。
加太の淡島神社から奉迎鎮座らしい。
(淡島神社は元々は友ヶ島の神島(元々は淡島/粟島?)に在った
(日本標準時の子午線が通る!と言うより神島と西神戸(明石)の「神出」(「全ての神が出(産まれ)た」に由来)の雌丘山(メッコウサン)/淡路島の篝場山を見通したラインが子午線と追認しただけwww))
この辺り(志筑)は源 義経の室(側室)、静御前の一族の領地だったらしい。
「静御前の墓」(供養塔)が古来あり、それを整備して「静の里」公園として町起こし
(以前、一億円の金塊(それが更に子を産んでw2つに)で一躍有名になった)
大黒天(大黒(大国)さま)。
地蔵菩薩/閻魔大王(表裏一体)。
閻魔帳wのデータ収集はそれこそどこにでもいる?地蔵さんが😒)
不動明王(シバ神が原形)。
幸媛命/サビメ大神やサルタ彦大神も不動明王(=揺るぎなく不動なる大元の神=幸の神))
他数多。
(大山祇。
大山咋(松尾(松葉は女神。尾は男性、=幸の神。また、松尾をマッツォ(遊牧民等の素朴なパン。餅の語源?だと食糧の神))
/咋(クイ等棒状の物や刀剣や矛等の鋭利な物は男、男神の形代))。
大歳。
(元来は出雲王国の直轄地域だった播磨地方(~神戸(神戸の地名は出雲の神門臣家に由来?神門と神戸は同儀))は全域に大歳神社が密集して在る(数百社)特異な地域)
根の神
(木の根子はクナト大神の形代の一つ、
根子=大王(天皇の別称号が大倭根子)))
【久】はクナト大神の暗号?
神社ロケありがとうございます♪
小さな祠、何かがにじみ出て良いですね。
大きく祀られているのは
政治的にあとからつけられたり
元々の神さまが
奥宮や摂社にひっそりと…
と言う場合が結構ありますね。
サイノカミって
厄除け神社か〜。
大山咋神って、大年神の子か…
誰なんだろう。🤔
妄想が膨らみます。
松尾神社だったら
秦族の神社ですよね。
丹波自体が、海部氏🌊ですしね。
石標、かわいいですね。
味わい深いです。💞
有難うございます、大山咋神の実体については謎が多いですね。僕の子供の頃からの産土さんなんですが、まだまだ分からないというか、深いです(^^)
一般的には大年神の子といえますが、その場合、大年神をスサノオ系とみるか出雲族系とみるかによっても大山咋神のイメージはかわりますよね。秦氏もしかり。
僕は基本的に一万年以上かけてで成熟した縄文社会が、ちょっとやそっとの異文化(スサノオなど)の侵入によって、その文化やヒエラルキーが揺らいだとは思っていません。なのでスサノオの子孫をスサノオの系統として考えることにも慎重になっています。僕は本来は大山咋神は出雲族の神名だと考えています。
ただニギハヤヒの大和支配の実態は、海部氏(スサノオ系)と出雲族によるものと考えているのですが、こういった縄文文化と弥生文化の融合から、次第に力関係が逆転していく中で、秦氏が大山咋神を祀るケースなど、本来は純粋な国津神的存在の大山咋神からそれ以上の性格が習合されていったようなイメージを持っています。
ホツマツタヱにはニニギの指示で、大山咋神が60年かけて京都盆地の土を比叡山に盛り上げたという話も出てきますし、山王信仰や磐座とも絡んで、追いかければどんどん面白い神様だなと結構苦労しています(^^)
また何かお気付きのことがあれば教えて下さい◎
@@nakabunken さま
丁寧なお返事、ありがとうございます♪
出雲の伝承を読みました。
全てが真実とは思いませんが、
霧が晴れる事が沢山ありました。
おっしゃる通り、ヤマト政権とは、
東出雲王家・富家の分家である登美家と
西出雲王家・神門家の親族である海家が
婚姻によって一緒になって出来たものと
分かりました。
海家は徐福の子孫でありながら、
子の五十猛は、徐福に置き去りにされ
出雲のサポートで成長し
出雲式に育てられたようで、
サイノカミ信仰の
大年神から『大年彦』とも呼ばれ
出雲の中の秦族をまとめ
地域と融合してゆく努力をしたようです。
先住民と渡来系の摩擦の
ちょうど仲介役のようなカタチと
なったようですね。
ヤマトで大王となったのは
その子の村雲ですが
実質上の実力者は
皇后の兄の登美家のクシヒカタでしょう。
ホツマツタヱの前半を
書いたとされる方ですが、
大王家の表の顔は村雲でも
一番重要な祭祀を司るのは
女性である登美家の皇后であり、
その後も3代続いて登美家から
皇后が出ているということは
血筋的にも大きく登美化している上に
当時の縄文母系社会では
子は母の家で育ち、教育されたため、
どんどん出雲化してゆき
第二の出雲王朝と呼ばれたというのも
記紀の系図とかなり合致します。
欠史と呼ばれ、謎につつまれていた
海・磯城王朝の全容が
辻褄のあうカタチで観えて来た感じです。
海家というのは
渡来系秦族でありながら
既に五十猛の頃から
出雲とかなり融合し
ヤマト政権になってからは
ほぼ出雲系王朝と言って良い
縄文の香りを色濃く残す
王朝であったことがわかります。
その後に九州から東征して来る
同じ徐福の子孫である物部は
かなり大陸的要素を含む部族であったのと
対照的です。
徐福自体はヤマト入りせず
九州で亡くなったようですが、
その子孫たちの権力争奪戦を
記紀は海幸・山幸の逸話として描いてある。
徐福・饒速日の息子はホホデミで
記紀の山幸🐗の名前と一致します。
徐福・火明🔥の息子が
海家🐟の五十猛という事でしょう。
山幸🐗勢力が、海王朝🐟を倒す物語…
天火明命を祀る籠神社に
饒速日命と市杵島姫の絵馬があったのも
納得しました。
そして、何故、
草薙剣が熱田神宮にあるのか…
消された初代天皇・海村雲は
天叢雲剣となって、
その子孫の尾張氏が保管している
という訳ですね。
長くなりましたが
大年神を大年彦であった五十猛とすると、
徐福はスサノヲに例えられているので
系図としても繋がります。
五十猛はかなり地域に貢献したようですし、
その子であれば、出雲族と秦族両方から
支持されていたことも
想像できます。
勿論、出雲族との縁戚関係はあったでしょう。
どなたかな?!
と、妄想しています。
海部氏の系図で
適当な方はいませんか?!
@@girasole4172 さん
富家(斎木)本、読みましたか(^^)
どこまでが伝承でどこからが推測なのかよく分からないですが、妙に説得力もあったりして不思議な面白さがありますね。でもおっしゃる通り完全にハマるのは危ないです笑
ただ丹波を楽しむにはこの上ない伝承の一つですし、そもそも考古学を見た場合、確実に大和よりも先に列島最大級の弥生王墓が現れるのが丹後で、その副葬品や遺跡の出土物のレベルは大和と丹後ではゼロ百に近い差があります。丹後を超えるのは現状では福岡だけでしょう。
しかし丹後と福岡では発掘成果のデータにかなりのバイアスがあります。丹後が福岡並みに開発され、発掘調査が行われれば、逆転するかもしれないと思ったりもしますが、おそらく永遠に埋もれたままですね。
なので富家伝承は考古学的には真っ当な内容だと思います◎
僕は今のところ、大山咋神は出雲族の神名で個人の名では無いと捉えています。逆側から見れば大物主となるか、或いは集合されている感を持ってまいす。大山を喰う神、杭の神と捉えれば確かに土木イメージの強い秦氏に似つかわしいし、そのものかもしれません。また古事記が記す別名の「山末之大主神」と聞くと山頂の主、山王ともなって国津神の印象が強くなる気がします。
ただ京都の松尾に「大利」という地名があってほぼ毎日通るのですが、やはり大年神との関係は濃厚な気はします。
富家伝承や丹後国風土記残欠が語るように大己貴命とホアカリ(五十猛)はともに行動していますね。丹後国風土記では大己貴命にしっかりと仕えるホアカリが、播磨国風土記では大己貴命の子としてホアカリが暴れる話がありますが、いずれも記紀史観では理解不能です。おそらく全国の風土記が揃っていれば、国津神の歴史の実態がもっと分かったはずですが(^^)
だから残らなかったんでしょうね、大和国風土記すらほぼ無いなんておかしいですもん笑
海部氏や尾張氏は面白すぎですね。そこに関係して丹波道主や日子坐王のことも取り上げたいのですが…
因みに四道将軍の一人である丹波道主命は崇神朝に大和から丹波平定に向かった将軍として書記に記されますが、そもそもは丹後から大和に進出した丹後の王族の代名詞が丹波道主命なんです。その父が日子坐王であり、実体はホアカリです。なので彼らは丹波の至る所で祀られています◎そしてここに大山咋さんも無関係ではないのがまた面白くて、僕もまだしばらくは勉強させられそうです…
僕も長くなってすいません(^_^;)
@@nakabunken さま
沢山の興味深い情報を
ありがとうございます💓
丹後と福岡の巨大墳墓や埋葬品…
弥生遺跡なのですね。
とすると、やっぱり
徐福らと思われる秦族の渡来によって
新たな埋葬形式が生まれたと
考えられますね。
どちらも、徐福が引き連れて来たと言われる
秦族の拠点地です。
それ以前から栄えていた出雲王国は
風葬であったため、
大きな墳墓は作らず、
山の頂上に神籬(霊隠木)を作り安置し、
3年後に籠から出され、洗骨され、
頂上付近の大きな磐座の脇に
埋葬された…
と、伝承に書かれています。
つまり、その後に現れる大きな墳墓と違い、
限りなく自然の中に溶け込むような
埋葬方式で、
古代人が拝んでいた磐座の中には
どなたかが埋葬されているものも
多いのではないかと思います。
あまりにも、自然と同化してしまって
それが重要人物の墓とは
気づかない場合の方が
多いのかも知れないですね。
縄文時代は、自然に帰ることで
母なる地球🌏の子宮に帰り、
蘇りが出来ると考えていたのかも🦆
と思いました。
とすると、弥生時代に入り
多くの埋葬品とともに
大きな墳墓が出現しだすというのは
明らかに新しい別の価値観が出現し、
異文化をもたらした何かの流入が
あったのだと感じます。
出雲の伝承の記述が
時代的にも、地域的にも
そのことを裏付けるようで
霧が晴れる感じです。
出雲の伝承については
細かいことは
色々別の視点もありますが、
大きな流れとして
そのような事が実際にあったのだろうと
感じています。
私は系図が大好きの系図オタクなので、
伝承のお話は、
記紀では縦の繋がりしか
分からなかった系図が
放射状に次々と繋がり、
だたの文字であった名前が
命を吹き込まれ、
勝手に動いてゆく感覚になりました。
読む前から、
丹波がとても気になっていましたが、
読んだら、
丹波がジョーカー🃏だったと
思いました。😆
丹波の伝承もとても興味深いです。
発信を楽しみにしています。
ありがとうございました。💓
@@girasole4172 さん
日本の墓の歴史は面白いですね。出雲族の磐座への葬法は興味深いですが、非常に説得力があります。君が代も、大君はイワオとなりて…とうたうように「人は死ぬとイワに帰る」という観念を、間違いなく古代人は持っています。高貴な人が亡くなることを「岩隠る(いわがくる)」とも言い、アマテラス(縄文の?)もまた岩に隠れました。近いうちにイワや磐座についての動画も撮ろうと思います(^^)
因みに系図でいうと富家伝承の大名持系図の初代から八千矛までの部分は、但馬に伝わっていた系図と全く同じですので、富家はそれを参考にしている可能性も無きにしもあらずです。よければ
ch.tanba@gmail.com
にメール頂いたらその資料を返信しますよ。
いつも有難うございます、これからもご意見よろしくお願いいたします◎
自分の住んでる地方にも天満宮・天神社がたくさんありますが、聞いた話ですと全部が全部菅原道真公が祀られてるわけではなく
中には天照大御神を祀ってるものもあると聞きましたが、どうやって御祭神を見分けるのでしょうか
天神社とか特に小規模な神社が多く、神社の由来など書かれていない場所が多いようです
コメント有難う御座います、僕は天満宮で祀られている天神は本来なら天照大御神としてのスサノオだと考えています。菅原道真はスサノオの子孫(天神一族、雷族)として後に習合、合祀されたと考えています◎
祭神不明の小祠は、中を開けれるならお札を確認するという手もあります。僕は鍵がなければ深くお参りをしてから、拝見しますよ☆その方が喜んでもらえると信じています^_^
@@nakabunken
自分は宮崎在住なのですが、天照大御神は身近でも出雲のスサノオは、どうも縁遠くw
祠を開けたことがありませんが、今度そのような神社に行った時は拝見させていただきたいと思います
有難う御座いました
勉強になります。
丹波の大山咋様が特に。
秦氏が祀ってますが、元は出雲?
大山祇との関係は?気になります。
コメント有難う御座います。大山咋神は奥深いですよね!秦氏や賀茂氏に祀られている大山咋神ですが、本来は原出雲族の神だと考えています。出雲族の山神に秦氏や賀茂氏の雷神の性格が習合しているように感じます。かなり説明が必要ですが、近いうちに大山咋神に踏み込んだ動画を撮りたいと思っています。またご意見頂けると嬉しいです^_^
石標はいい!わしも好き。神社のなかの石標は初めて見た。
コメントありがとうございます。
僕もローカルな道標を探すのが好きなので、また他にもご紹介させて頂きます◎