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神学者、加藤常昭は、説教とは【対話】であり、愛の手紙である、というプロテスタント本来の説教観をめぐってこう述べています(日本FEBC 1月増刊号より抜粋)【説教の危機「魂への配慮」すなわち「牧会」は、既に「説教」に於いて始まっています。説教と牧会とは、しばしば分けて考えられますが、それは違います。それ故トゥルンアインゼンは、牧会とは二人きりの対話であり、具体的な福音宜教の場として捉えることを求めました。その人の状況の中で具体的に意味を持つ「対話」をすること。だからこそその意味で、説教は愛の手紙、「ラブレター」なのであります。今日の教会の問題は、その説教が力を失っていることです。聴く人の心を捉えない。説教が儀式化してしまい、聖書の命ある言葉が、今ここで聴くべき神の言葉として伝わらない。聖書にはこう書いてありますという説明をするだけで、私たち生身の人間を捕らえて生かし直すような神の言葉として聞かせてくれないのです。確かにそれは、聖書を正確に説明し、解き明かしているかもしれない。しかし、それでは駄目なのです。愛の手紙としての説教は、ただ第二人称の関係(わたしーあなた)で成り立っているものであり、第三人称の関係で語れません。植村正久牧師は、そのような説教はあたかも病気になった人の枕元で病気の原因を理路整然と説明するようなものだと言われた。私たちはそうではなくて今ここで生きて働いておられるキリストを証言すべきだと言いました。これを言い換えれば、説教が「魂への配慮」としての対話になっているかどうかということです。それでは「魂への配慮」とは何を意味するのでしょうか。実は、「牧会」の原語である「ゼールゾルゲ」という言葉には、会を牧する=人をまとめて面倒見るという意味は全くありません。神学者メラーは、「魂への配慮」に関して、ルターの言葉を重要なものとして引用していますが、それが冒頭の言葉なのです。「イエス・キリストの救いを絵空事にするな!」私は時に、この言葉を繰り返すことがあります。今、教会が消滅の危機にあるとして、自らの自己保存のために悩むことは、キリストの救いを絵空事にすることです。そうであってはならないのです。「我々大いなる罪人の共同体に入ってきてくれ。ここにこそ慰めがある。」そういうメッセージがこのルターの叫びから聞こえてくる!私の姉は晩年、教会生活ができなくなり、亡くなる数カ月前には全盲になりました。姉が属していた教会の方たちは、毎日曜日礼拝が終わると、長老の一人が必ず見舞いに来られました。平日には週に一度は女性の徒が来て、一緒に賛美歌を歌ったり祈ったりしていました。そしてある日曜日に長者が訪ねて来て、ヨハネ福音書11章「我はよみがえりなり、命なり」というイエスの言葉を読んだ。姉はとても喜んで祈り、その晩、息を引き取りました。教会に属しているとか関わりがあるかということと関係なく、本当に慰めを必要としている人がおられる。その人々と同伴する借徒の共同体にどうやったらなれるか。そこが今、教会に問われているのです。】
【礼拝説教と、演劇の「第三舞台」と、村上春樹の「地下二階」の言葉】さて、上のコメントに記しました加藤常昭先生の文章から、プロテスタントの【説教とはそもそも対話である】ということが、ルター等の理解から分かります。それが加藤先生が「説教とは愛の手紙である」と呼んだ由縁でしょう。私が視聴しました「説教ープロテスタントの最も神聖な偶像」の中では、終始、逆の理解で、モノローグ的なもの・一方的に話すもの、聖書のことばを解説するだけのようなものを"説教"と呼んでいるようで、それよりも「双方向性、対話式」を少し提案していたようでした。しかし、ことは逆で、その「対話」こそが、本来の意味の説教なのです。ということは、動画配信者は、もしかすると、このような説教を聞いたことが無いのかもしれません。「この説教者は、たぶん完全原稿を持って講壇に上がって、その原稿どおりに話しているようだけど、なんて聞き手である僕らの気持ちが分かって、【対話】してくれているんだろうか!」そういう「説教体験」が無いとすれば、日本の現代の説教がいかに貧しくなっているかという(私もそうなっていないか・そうならないように自戒も込めて)ことであり、加藤先生がこのパンフレットで「説教の危機」と呼んでいる通りであり、このような説教否定論のようなものが出てくるのも無理はない状況と言えるのかもしれません。さらに、単に会衆の気持ちが分かって対話してくれている、にとどまらず、それを超えて、うまく表現できませんが、説教中に、たとえて言えば、イエス様が会堂内を歩かれて、そっと肩に触れてくれたような、あるいは抱きしめてくれたような、そんな体験が、「説教のことば」に触れた時に起こったことは無いでしょうか?あるいは会衆みながそれを味わい、聖なるものに触れて会堂中が一つになったかのような感動を、説教で味わったことは無いでしょうか?(聖霊体験、とか、神の臨在、と表現する方もいらっしゃいますが、この表現も手垢がついてしまった所もあるかもしれません)それはたぶん、説教のことばが、人の心の一番奥深いところまで練られ、編まれていることから来ているでしょう。だからこそ説教作成の時に、みことばと、また会衆とよく対話しながら黙想を重ね、原稿を作ることが重要になります。原稿を作ることは、単に構成を考えることではありません。原語の聖書を読み、注解書なども沢山読みますが、それよりもおそらく重要なのは、いかにみことばそのものと格闘し、そして聞き手と対話しながら、みことばが告げている深みを的確に人の心の一番深いところに届けることばを獲得するかという戦いなのです。というより、聖書のことば自体が、説教者の心の一番深いところを抉ることばであるので、神のことば、キリストのことばをいかに深く聞き取るかの勝負、ということになるでしょう(ああこんなことを書いたら私はいかに力不足か)。ちなみに、「原稿は全く作らない」タイプの説教者がいます。日本で有名なところでいえば、たとえばカトリックなら晴佐久昌英神父、プロテスタントならアーサー・ホーランドが私は思い浮かびましたが、どちらも本当に魅力的な説教です(批判もあるかもしれませんが)(晴佐久神父は霊性神学?が内ある分深いように思いますー個人の感想ですー)。彼らがどのようにその言葉を獲得しているかは分かりませんが、たとえば自然の中で過ごす時の黙想で獲得しているのかもしれません。そして神に生かされている存在そのものとして相手の前に立つ。「説教とは、存在から出ることばでないといけない」と言われる通りです。まさに説教者は真の「証し人」としても聴衆の前に立つのです。ちなみに反対に、講壇で完全原稿を一字一句違えずに読むタイプの名説教者で、オックスフォード大学のジョン・ヘンリー・ニューマンがいます。彼は1000人入る大学の講堂の一番隅っこにいる人の心のひだの一つ一つにまでも染み込むような説教をした、と言われています。対話であり、人の魂を打つのは、原稿を作るか作らないかによらないのです。ところで、演劇で有名な鴻上尚史さんは、自身が主宰した劇団に「第三舞台」と名付けました。この「第三舞台」とは、演劇の上演中に立ち現れてくる舞台のことで、俳優の演技や小道具、そして観客が溶け合い、一つの融合した現実のようなものが生まれる瞬間(不正確だったらすみません)を、「第三舞台」と名付けたそうです。確かにそのような、一体感のある演劇体験を、私も観劇中にしたことがあると思います。そして優れた礼拝説教のことばが持っている力(というより聖書のことばそのものが持っている力)というものは、それと似ているのではないでしょうか?そしてハイチャーチ的な教会のリタジーや、会堂・聖堂内に置いてある様々なものは、それを起こすための舞台装置に似ているのではないでしょうか?聖餐(カトリックではミサ)の持つ力も、このことと関係がありそうです。(もちろん、キリストのことばや見えることばーサクラメントーがもたらすものは、神との出会いであるから、演劇とはそこが異なる、とは言えそうではあります)ところで、作家の村上春樹さんは、自身が創作の際に「降りていく」という、人間の意識の最下層の部分があり、彼自身が「地下二階」呼ぶ空間があるようです。村上春樹の作品は、女性へのミソジニー的視点が(特に性の部分)嫌だという人も多い(私もそこに話が来ると読むのをやめてしまうことがある)のですが、それは別途論じなければならないこととしても、世界的にすぐれた文学と評価されるのはやはり、人間が人間であれば誰もが持っている「意識の地下二階」に語りかける言葉を獲得しているからであるようです。とすると、説教がそのような「第三舞台」のようなものを生み出すことばになる場合は、「意識の地下二階」に語りかけることばになっているから、ということになるのかもしれません。ところで興味深いことに、村上春樹さんはその「人の意識の地下」ということをめぐって、トランプ現象について分析しています。トランプ大統領は、人の意識の地下一階に語りかけるのが非常にうまかった、と言います。私なりに要約するとこんなところです。「あいつらは敵だ」「あいつらを叩け」というのは、人が実は無意識の地下一階で聞きたいと思っている言葉であり、それを聞くと人は弱い。たやすく扇動される。つまり、【犬笛を吹くとバズる】わけです。この熱狂には、家の地上一階部分に語りかける言葉では勝てない。(カマラ・ハリスが勝てなかったのは、このあたりにも要因の一つがあるのかもしれません。)だから教会もよくよく気をつけなければいけません。賛美で盛り上がって一体感を感じ、賛美の中の歌詞に慰められ、感動して涙を流す、というのなら素晴らしいのですが、その後に説教者が、私たちは神の側で、あの人たち(ここに色々入る。特定のグループ)はサタン・悪霊の影響を受けている、などと「敵が味方か」思考みたいなもので、安易に信徒の地下一階に語りかけて煽れば、バズるわけですし、教会も人数が増えるでしょう。しかしそこに罠があります。それこそ、この動画のパワポで言われている3番目の問題点「説教者の考え方が非聖書的でも直せない」問題、ひいては、「説教・説教者のカルト化」も起こりかねないのです。村上春樹は、そういう「業や因縁のドロドロした部分に満ちた地下1階ではなくて、地下2階はもっと深い静かな場所で、まるで自分の心の奥深くと繋がるような感覚であり、自身の中の解消しきれない何かが癒される場所」だと言います。古来よりキリスト教会のすぐれた説教者たちはその静かな場所、地下二階に語りかけることばを獲得して来たはずです。というより、聖書のことばそのものがそのような性質を持つものなのです。そのような説教は、私はまだ力量不足でほとんどできていないでしょう。どうかこの文を読まれた方、私がそのようなことばを獲得できるように祈ってください。そして何よりもあなたの所属する教会の牧師、説教者のために祈ってください。皆さまの祝福を祈りつつ。
神学者、加藤常昭は、説教とは【対話】であり、愛の手紙である、というプロテスタント本来の説教観をめぐってこう述べています(日本FEBC 1月増刊号より抜粋)
【説教の危機
「魂への配慮」すなわち「牧会」は、既に「説教」に於いて始まっています。説教と牧会とは、しばしば分けて考えられますが、それは違います。
それ故トゥルンアインゼンは、牧会とは二人きりの対話であり、具体的な福音宜教の場として捉えることを求めました。その人の状況の中で具体的に意味を持つ「対話」をすること。だからこそその意味で、説教は愛の手紙、「ラブレター」なのであります。
今日の教会の問題は、その説教が力を失っていることです。聴く人の心を捉えない。説教が儀式化してしまい、聖書の命ある言葉が、今ここで聴くべき神の言葉として伝わらない。聖書にはこう書いてありますという説明をするだけで、私たち生身の人間を捕らえて生かし直すような神の言葉として聞かせてくれないのです。
確かにそれは、聖書を正確に説明し、解き明かしているかもしれない。しかし、それでは駄目なのです。愛の手紙としての説教は、ただ第二人称の関係(わたしーあなた)で成り立っているものであり、第三人称の関係で語れません。
植村正久牧師は、そのような説教はあたかも病気になった人の枕元で病気の原因を理路整然と説明するようなものだと言われた。私たちはそうではなくて今ここで生きて働いておられるキリストを証言すべきだと言いました。これを言い換えれば、説教が「魂への配慮」としての対話になっているかどうかということです。
それでは「魂への配慮」とは何を意味するのでしょうか。実は、「牧会」の原語である「ゼールゾルゲ」という言葉には、会を牧する=人をまとめて面倒見るという意味は全くありません。神学者メラーは、「魂への配慮」に関して、ルターの言葉を重要なものとして引用していますが、それが冒頭の言葉なのです。
「イエス・キリストの救いを絵空事にするな!」
私は時に、この言葉を繰り返すことがあります。今、教会が消滅の危機にあるとして、自らの自己保存のために悩むことは、キリストの救いを絵空事にすることです。そうであってはならないのです。
「我々大いなる罪人の共同体に入ってきてくれ。ここにこそ慰めがある。」
そういうメッセージがこのルターの叫びから聞こえてくる!
私の姉は晩年、教会生活ができなくなり、亡くなる数カ月前には全盲になりました。姉が属していた教会の方たちは、毎日曜日礼拝が終わると、長老の一人が必ず見舞いに来られました。平日には週に一度は女性の徒が来て、一緒に賛美歌を歌ったり祈ったりしていました。
そしてある日曜日に長者が訪ねて来て、ヨハネ福音書11章「我はよみがえりなり、命なり」というイエスの言葉を読んだ。姉はとても喜んで祈り、その晩、息を引き取りました。
教会に属しているとか関わりがあるかということと関係なく、本当に慰めを必要としている人がおられる。その人々と同伴する借徒の共同体にどうやったらなれるか。そこが今、教会に問われているのです。】
【礼拝説教と、演劇の「第三舞台」と、村上春樹の「地下二階」の言葉】
さて、上のコメントに記しました加藤常昭先生の文章から、プロテスタントの【説教とはそもそも対話である】ということが、ルター等の理解から分かります。それが加藤先生が「説教とは愛の手紙である」と呼んだ由縁でしょう。
私が視聴しました「説教ープロテスタントの最も神聖な偶像」の中では、終始、逆の理解で、モノローグ的なもの・一方的に話すもの、聖書のことばを解説するだけのようなものを"説教"と呼んでいるようで、それよりも「双方向性、対話式」を少し提案していたようでした。
しかし、ことは逆で、その「対話」こそが、本来の意味の説教なのです。ということは、動画配信者は、もしかすると、このような説教を聞いたことが無いのかもしれません。「この説教者は、たぶん完全原稿を持って講壇に上がって、その原稿どおりに話しているようだけど、なんて聞き手である僕らの気持ちが分かって、【対話】してくれているんだろうか!」
そういう「説教体験」が無いとすれば、日本の現代の説教がいかに貧しくなっているかという(私もそうなっていないか・そうならないように自戒も込めて)ことであり、加藤先生がこのパンフレットで「説教の危機」と呼んでいる通りであり、このような説教否定論のようなものが出てくるのも無理はない状況と言えるのかもしれません。
さらに、単に会衆の気持ちが分かって対話してくれている、にとどまらず、それを超えて、うまく表現できませんが、説教中に、たとえて言えば、イエス様が会堂内を歩かれて、そっと肩に触れてくれたような、あるいは抱きしめてくれたような、そんな体験が、「説教のことば」に触れた時に起こったことは無いでしょうか?あるいは会衆みながそれを味わい、聖なるものに触れて会堂中が一つになったかのような感動を、説教で味わったことは無いでしょうか?(聖霊体験、とか、神の臨在、と表現する方もいらっしゃいますが、この表現も手垢がついてしまった所もあるかもしれません)
それはたぶん、説教のことばが、人の心の一番奥深いところまで練られ、編まれていることから来ているでしょう。だからこそ説教作成の時に、みことばと、また会衆とよく対話しながら黙想を重ね、原稿を作ることが重要になります。原稿を作ることは、単に構成を考えることではありません。原語の聖書を読み、注解書なども沢山読みますが、それよりもおそらく重要なのは、いかにみことばそのものと格闘し、そして聞き手と対話しながら、みことばが告げている深みを的確に人の心の一番深いところに届けることばを獲得するかという戦いなのです。というより、聖書のことば自体が、説教者の心の一番深いところを抉ることばであるので、神のことば、キリストのことばをいかに深く聞き取るかの勝負、ということになるでしょう(ああこんなことを書いたら私はいかに力不足か)。
ちなみに、「原稿は全く作らない」タイプの説教者がいます。日本で有名なところでいえば、たとえばカトリックなら晴佐久昌英神父、プロテスタントならアーサー・ホーランドが私は思い浮かびましたが、どちらも本当に魅力的な説教です(批判もあるかもしれませんが)(晴佐久神父は霊性神学?が内ある分深いように思いますー個人の感想ですー)。彼らがどのようにその言葉を獲得しているかは分かりませんが、たとえば自然の中で過ごす時の黙想で獲得しているのかもしれません。そして神に生かされている存在そのものとして相手の前に立つ。「説教とは、存在から出ることばでないといけない」と言われる通りです。まさに説教者は真の「証し人」としても聴衆の前に立つのです。
ちなみに反対に、講壇で完全原稿を一字一句違えずに読むタイプの名説教者で、オックスフォード大学のジョン・ヘンリー・ニューマンがいます。彼は1000人入る大学の講堂の一番隅っこにいる人の心のひだの一つ一つにまでも染み込むような説教をした、と言われています。対話であり、人の魂を打つのは、原稿を作るか作らないかによらないのです。
ところで、演劇で有名な鴻上尚史さんは、自身が主宰した劇団に「第三舞台」と名付けました。
この「第三舞台」とは、演劇の上演中に立ち現れてくる舞台のことで、俳優の演技や小道具、そして観客が溶け合い、一つの融合した現実のようなものが生まれる瞬間(不正確だったらすみません)を、「第三舞台」と名付けたそうです。
確かにそのような、一体感のある演劇体験を、私も観劇中にしたことがあると思います。
そして優れた礼拝説教のことばが持っている力(というより聖書のことばそのものが持っている力)というものは、それと似ているのではないでしょうか?
そしてハイチャーチ的な教会のリタジーや、会堂・聖堂内に置いてある様々なものは、それを起こすための舞台装置に似ているのではないでしょうか?聖餐(カトリックではミサ)の持つ力も、このことと関係がありそうです。(もちろん、キリストのことばや見えることばーサクラメントーがもたらすものは、神との出会いであるから、演劇とはそこが異なる、とは言えそうではあります)
ところで、作家の村上春樹さんは、自身が創作の際に「降りていく」という、人間の意識の最下層の部分があり、彼自身が「地下二階」呼ぶ空間があるようです。
村上春樹の作品は、女性へのミソジニー的視点が(特に性の部分)嫌だという人も多い(私もそこに話が来ると読むのをやめてしまうことがある)のですが、それは別途論じなければならないこととしても、世界的にすぐれた文学と評価されるのはやはり、人間が人間であれば誰もが持っている「意識の地下二階」に語りかける言葉を獲得しているからであるようです。
とすると、説教がそのような「第三舞台」のようなものを生み出すことばになる場合は、「意識の地下二階」に語りかけることばになっているから、ということになるのかもしれません。
ところで興味深いことに、村上春樹さんはその「人の意識の地下」ということをめぐって、トランプ現象について分析しています。トランプ大統領は、人の意識の地下一階に語りかけるのが非常にうまかった、と言います。私なりに要約するとこんなところです。
「あいつらは敵だ」「あいつらを叩け」というのは、人が実は無意識の地下一階で聞きたいと思っている言葉であり、それを聞くと人は弱い。たやすく扇動される。つまり、【犬笛を吹くとバズる】わけです。この熱狂には、家の地上一階部分に語りかける言葉では勝てない。(カマラ・ハリスが勝てなかったのは、このあたりにも要因の一つがあるのかもしれません。)
だから教会もよくよく気をつけなければいけません。賛美で盛り上がって一体感を感じ、賛美の中の歌詞に慰められ、感動して涙を流す、というのなら素晴らしいのですが、
その後に説教者が、私たちは神の側で、あの人たち(ここに色々入る。特定のグループ)はサタン・悪霊の影響を受けている、などと「敵が味方か」思考みたいなもので、安易に信徒の地下一階に語りかけて煽れば、バズるわけですし、教会も人数が増えるでしょう。しかしそこに罠があります。それこそ、この動画のパワポで言われている3番目の問題点「説教者の考え方が非聖書的でも直せない」問題、ひいては、「説教・説教者のカルト化」も起こりかねないのです。
村上春樹は、そういう「業や因縁のドロドロした部分に満ちた地下1階ではなくて、地下2階はもっと深い静かな場所で、まるで自分の心の奥深くと繋がるような感覚であり、自身の中の解消しきれない何かが癒される場所」だと言います。
古来よりキリスト教会のすぐれた説教者たちはその静かな場所、地下二階に語りかけることばを獲得して来たはずです。というより、聖書のことばそのものがそのような性質を持つものなのです。
そのような説教は、私はまだ力量不足でほとんどできていないでしょう。どうかこの文を読まれた方、私がそのようなことばを獲得できるように祈ってください。そして何よりもあなたの所属する教会の牧師、説教者のために祈ってください。
皆さまの祝福を祈りつつ。