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同時代のるるぶである河内名所図会全六巻が実家に遺っていて、十年ほど前に蔵で見つけたのですが、当時の大坂は郊外も含めて実に豊かであり、文化の爛熟期ともいえる状況だといえます。今に残るものも多くあり、大阪の土地勘を持つ者にとってはこの時代の市井の様子は実に興味深いものです。
サムネだけでも見る価値がある!
新町廓の右下に「スナバ」の文字がありますね。此処は現在大阪メトロ「長堀鶴見緑地線 西大橋駅」北側になります。なにわ筋沿いに公園があって、「ここに砂場ありき」という石碑があります。1583年(天正11年)秀吉が大坂城築城のための、資材置場と砂置き場であったため、「砂場」となったわけです。そしてここが江戸の三大蕎麦の1つ「砂場蕎麦」発祥の地と云われています。つまり労働者の腹を満たすため、麺類屋が何軒もできたたそうです。
詳細な説明でよく理解できました👍素敵な動画をアップしていただきありがとうございます。
四ツ橋って本当に四つ橋があったんですね。
生まれも育ちも大阪です😊大阪大好き〜❤ 1番好きな風景は中之島の川のある風景です😊川が見えるカフェでその風景を見ているのがいい感じ👍昔の大阪 興味深いです。 難しいことも沢山あるでしょうけれど大阪が発展していきますように🙏
現代でも残っている地名とか面白いですね😸
見たことのない古地図で、とても興味深く拝聴させていただきました。ところで、11:30の解説で茶屋と説明されておられますが、茶屋ではなく、薬問屋が多かった(道修町で未だに製薬会社がたくさんある町)、ではないでしょうか?
12:03 の時点で道修町とありますし「薬屋多し」の読み間違いでしょうね。
興味深いお話をありがとうございます。堂島、船場から島之内までが大阪の中心地ということがわかります。北御堂が西本願寺の別院、南御堂が東本願寺の別院というのが、東を上にした地図で見るとわかりやすいですね。野田あたりから南に進む道は今の新なにわ筋のあたりですね。阿波座は交差点名、大阪メトロ中央線、千日前線の駅にその名が残っています。難波五座ではなく道頓堀五座だったと思います。中座は跡地に建つ建物の名前に残っています。道頓堀五座が健在だった頃の道頓堀の通りの様子をCGで再現された映像があったと思います。松竹座は五座とは別です。四ツ橋は交差点の名前、そこを南北に通る道、この地下を走る四つ橋線に名前を残しています。交差点に四ツ橋の往時の様子の模型があり、四ツ橋駅には壁面に四つの橋の名前がデザイン文字で書かれています。堺筋の東側、お菓子屋の多いエリアは、今の松屋町筋に繋がるのですね。京橋のアクセントは平板ではなくバシが低くなります。道頓堀のアクセントは平板ではなくボリが低くなります。日本橋のアクセントは平板ではなくバシが低くなります。
車でお世話になっている地域。昔も今も人は変わらないね♪今日は江戸の方の姿を浮かべて車で通ってみます
こういう昔どうだったって話が好きで、ネットで調べたりしたけど、体系立てて調べておられるので、興味深かったです。堂島も「島」だったんですね!
おもしろいですね。近松門左衛門や井原西鶴は自分でも学校で聞いた覚えがありますw
とても興味深いです。ただ、京橋のイントネーションが東京の京橋になってるのが気になりました笑
いまでも使えそうやな。
きょうばし、ちゃう京橋や〜(イントネーション諸説あり
うp主さんの発音は、東京の京橋ですね。
京橋、野田、四ツ橋、日本橋などアクセントが違います。実際の大阪にはあまり馴染みがない人のようですね。
京橋も桜ノ宮もいろいろ発音が全然違う。トーキョーモンか?
曾根崎、新町、道頓堀辺りは大阪の江戸時代の歴史に重要な場所ですので、もう少し説明を、曾根崎の森で、あ初徳兵衞の曾根崎心中でその後露天神社に、新町廓は梅川、久兵衛の悲恋物語、近松門左衛門の浄瑠璃の題材に成ってます、道頓堀は多くの演芸場が有りましたが、其は横の墓と処刑場で、民衆は処刑を見たさに集まり、其は為に演芸場や飲食店が出来て、人間は残酷で、処刑見たさに集まるとは? 今の梅田の再開発地域は、実は無縁仏の墓があった場所で👻、福島は福島城があり、石山本願寺との戦では村上水軍が本願寺に海から秤量を運んだと、大阪と近松門左衛門の関係とか、八軒屋の京伏見との、石松の三十石船とか、ちなちに前にある永田昆布店はその時代からある唯一の名残です!!
きょーばしのアクセントが変です。東京のきょーばしになっています。
👍
きょ→う→ば→しではなくて、関西: きょ↘︎うばしですね。“京都”を読む時の発音で”きょう”を発音するのが正しいです。
閉店した三越に触れて今なお健在である大丸をスルーしたのは残念です。
同時代のるるぶである河内名所図会全六巻が実家に遺っていて、十年ほど前に蔵で見つけたのですが、当時の大坂は郊外も含めて実に豊かであり、文化の爛熟期ともいえる状況だといえます。今に残るものも多くあり、大阪の土地勘を持つ者にとってはこの時代の市井の様子は実に興味深いものです。
サムネだけでも見る価値がある!
新町廓の右下に「スナバ」の文字がありますね。此処は現在大阪メトロ「長堀鶴見緑地線 西大橋駅」北側になります。なにわ筋沿いに公園があって、「ここに砂場ありき」という石碑が
あります。1583年(天正11年)秀吉が大坂城築城のための、資材置場と砂置き場であったため、「砂場」となったわけです。そしてここが江戸の三大蕎麦の1つ「砂場蕎麦」発祥の地と
云われています。つまり労働者の腹を満たすため、麺類屋が何軒もできたたそうです。
詳細な説明でよく理解できました👍
素敵な動画をアップしていただきありがとうございます。
四ツ橋って本当に四つ橋があったんですね。
生まれも育ちも大阪です😊大阪大好き〜❤ 1番好きな風景は中之島の川のある風景です😊川が見えるカフェでその風景を見ているのがいい感じ👍昔の大阪 興味深いです。 難しいことも沢山あるでしょうけれど大阪が発展していきますように🙏
現代でも残っている地名とか面白いですね😸
見たことのない古地図で、とても興味深く拝聴させていただきました。
ところで、11:30の解説で茶屋と説明されておられますが、茶屋ではなく、薬問屋が多かった(道修町で未だに製薬会社がたくさんある町)、ではないでしょうか?
12:03 の時点で道修町とありますし「薬屋多し」の読み間違いでしょうね。
興味深いお話をありがとうございます。
堂島、船場から島之内までが大阪の中心地ということがわかります。
北御堂が西本願寺の別院、南御堂が東本願寺の別院というのが、東を上にした地図で見るとわかりやすいですね。
野田あたりから南に進む道は今の新なにわ筋のあたりですね。
阿波座は交差点名、大阪メトロ中央線、千日前線の駅にその名が残っています。
難波五座ではなく道頓堀五座だったと思います。中座は跡地に建つ建物の名前に残っています。
道頓堀五座が健在だった頃の道頓堀の通りの様子をCGで再現された映像があったと思います。
松竹座は五座とは別です。
四ツ橋は交差点の名前、そこを南北に通る道、この地下を走る四つ橋線に名前を残しています。交差点に四ツ橋の往時の様子の模型があり、四ツ橋駅には壁面に四つの橋の名前がデザイン文字で書かれています。
堺筋の東側、お菓子屋の多いエリアは、今の松屋町筋に繋がるのですね。
京橋のアクセントは平板ではなくバシが低くなります。
道頓堀のアクセントは平板ではなくボリが低くなります。
日本橋のアクセントは平板ではなくバシが低くなります。
車でお世話になっている地域。昔も今も人は変わらないね♪今日は江戸の方の姿を浮かべて車で通ってみます
こういう昔どうだったって話が好きで、ネットで調べたりしたけど、体系立てて調べておられるので、興味深かったです。
堂島も「島」だったんですね!
おもしろいですね。近松門左衛門や井原西鶴は自分でも学校で聞いた覚えがありますw
とても興味深いです。
ただ、京橋のイントネーションが東京の京橋になってるのが気になりました笑
いまでも使えそうやな。
きょうばし、ちゃう京橋や〜(イントネーション諸説あり
うp主さんの発音は、東京の京橋ですね。
京橋、野田、四ツ橋、日本橋などアクセントが違います。実際の大阪にはあまり馴染みがない人のようですね。
京橋も桜ノ宮もいろいろ発音が全然違う。トーキョーモンか?
曾根崎、新町、道頓堀辺りは大阪の江戸時代の歴史に重要な場所ですので、もう少し説明を、曾根崎の森で、あ初徳兵衞の曾根崎心中でその後露天神社に、新町廓は梅川、久兵衛の悲恋物語、近松門左衛門の浄瑠璃の題材に成ってます、道頓堀は多くの演芸場が有りましたが、其は横の墓と処刑場で、民衆は処刑を見たさに集まり、其は為に演芸場や飲食店が出来て、人間は残酷で、処刑見たさに集まるとは? 今の梅田の再開発地域は、実は無縁仏の墓があった場所で👻、福島は福島城があり、石山本願寺との戦では村上水軍が本願寺に海から秤量を運んだと、大阪と近松門左衛門の関係とか、八軒屋の京伏見との、石松の三十石船とか、ちなちに前にある永田昆布店はその時代からある唯一の名残です!!
きょーばしのアクセントが変です。東京のきょーばしになっています。
👍
きょ→う→ば→し
ではなくて、
関西: きょ↘︎うばし
ですね。
“京都”を読む時の発音で”きょう”を発音するのが正しいです。
閉店した三越に触れて今なお健在である大丸をスルーしたのは残念です。