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捨てる神あれば拾う神ありが真っ先に浮かんだw
いつもお世話になってます体調不良で仕事を休んだら 休んだ分の罰を与えられました 罰という言葉にとても驚き 違和感を感じ 辞めたくなりました「罰」についてまたお話し聴かせてください
弱い者を見捨てて、上の人には見捨てられないよう下手にでている人はたくさんいますし、そういう人が社会的に成功していたりしますよね。必ずしも人を見捨てる人が見捨てられる、という風にはなっていないと思いましたが、いかがでしょうか。
コメントありがとうございます。ヨシツグです。良いご質問でしたので、少しだけ補足させていただきます。つまり、自分が見捨てる側でい続ければ見捨てられることはない、つまり、自分が男性的でい続けることさえできれば、女性的になった時の苦しみは被らなくて済む、ということだと思いますが・・・それは、ずっと勝ち続けることさえできれば負けた時の惨めさを感じなくて済む、というのと同じで、残念ながら不可能なことなのです。一時的に勝ち続けているように見える人がいるのは確かですが、だからと言ってその人がこの先も負けないということにはなりません。たとえ、運よく今回の人生では負け知らずだったとしても、なぜそんなにも勝ち続けなければいけなかったのか? という問いに素直に答えてみれば、そこには負けることへの強烈な「恐れ」があったとわかるはずです。つまり、勝ち続けているように見える人は、ただ上手に逃げ続けているだけで、「見捨てられ不安」を本当に克服したわけではない、ということです。そもそも、本当に怖くなければ、それを避ける理由などないからです。ですから、「それを遠ざけようとするのは恐れているからだ、それに囚われてしまうのも恐れているからだ」ということを、何となく覚えておくと役に立つかもしれません。そのあたりのことは、またいずれ別の機会にお話できればと思っております。以上、よろしかったら参考になさってみてください。ありがとうございました。
ヨシツグ先生 お返事ありがとうございます。なるほど、勝ち続けている人は負けを恐れている訳ですね。ただ、私は負けた経験からやっぱり負けは嫌だなと感じ、ますます負けが怖くなってしまいました。結局、勝ち負けの物差しを使っているうちは勝っても負けても苦しいということでしょうかね。その物差しに拘らなくなる方法など、また別の機会にでもご教示いただけたら嬉しいです😊
家族の誕生日祝いで全員集まった日。姉を前にすると母親であることを忘れる母親。今まで普通だった日常の人物像がコロコロ変わる瞬間に違和感を感じていた。周りは和気藹々としてて幸せそうだった事にも。アデル見たけど、フランス映画はだんだん不安になっていく。女も男もイケる恋愛観、日本人的なフツーの概念がなくて自由すぎて、どこにも寄りかかる場所がない。一緒に見てる人に出てくるほぼ全ての人に似てると言われるほど、相手の中に自分の影を感じる。自分に特徴を感じない。白人の美人しかいない全くの美しい世界を見ていると不安になって、日本のどす黒い滑稽な世界を求める。ダサいけど安心する、容姿に重きを置いてない40代50代に寄りかかって生きるようになった。自分なりに問題解決して、気遣いにおいて40代50代のくつろぎに到達することはできたんだけれども、実際の自分の体は20代で、服にアイデンティティーを任せてる同じ20代の不安な世界とも分かち合いたくないと思ってしまう。20代の女性とデートしても、男としか見られない。体しか性しか見えてないガキと話してると会話の質が低すぎて不安になっていく。恋をして、2ヶ月前出たばかりの「ずっと」のremixを聴いてボロ泣きしながら誘ったら、以心伝心して、心読まれてるなりなんなり20代の恋愛を。運命の人と勘違いしてしまった前の恋人と同じような展開がまた起きつつ、どうなってもいいからまた深く繋がって体を超えた瞬間が起きそうででも映画アデルを見たりすると、美しい女性の心と体の世界に、行きたくない。綺麗な世界に行けない。一生彼女できないまま滑稽な生活をしていたい自分もいて今までのアイデンティティが崩壊する瞬間かもしれないし。良くも悪くもモデル顔で、誰も着ないような派手な服を着るとしっくり来て、ありきたりな服を着ると病む。これじゃ外に出られないような下着を着て歩くと落ち着く。どこにも傾かない自分の顔に不安を感じる。自分という存在を体で見せるんではなくて仕事着なんか着て仕事してるからと言いたい。自分という評価から逃げたい感覚がずっとある。イッテQの祭り男の服なんか着て、ずっと自分をコロコロ変えてふざけてないと落ち着かない気がした。この世に居場所を感じない。一人の人間に収まるようなアイデンティティがほしい。どうありたいかの自分に悩んでると思った。
と思ったが、服を愛してる人達のお店に入って、いい買い物ができた。自分一人の服に対するイメージが変わって、救われた。
捨てる神あれば拾う神ありが真っ先に浮かんだw
いつもお世話になってます
体調不良で仕事を休んだら 休んだ分の罰を与えられました
罰という言葉にとても驚き 違和感を感じ 辞めたくなりました
「罰」についてまたお話し聴かせてください
弱い者を見捨てて、上の人には見捨てられないよう下手にでている人はたくさんいますし、そういう人が社会的に成功していたりしますよね。必ずしも人を見捨てる人が見捨てられる、という風にはなっていないと思いましたが、いかがでしょうか。
コメントありがとうございます。
ヨシツグです。
良いご質問でしたので、少しだけ補足させていただきます。
つまり、自分が見捨てる側でい続ければ見捨てられることはない、つまり、自分が男性的でい続けることさえできれば、女性的になった時の苦しみは被らなくて済む、ということだと思いますが・・・
それは、ずっと勝ち続けることさえできれば負けた時の惨めさを感じなくて済む、というのと同じで、残念ながら不可能なことなのです。
一時的に勝ち続けているように見える人がいるのは確かですが、だからと言ってその人がこの先も負けないということにはなりません。
たとえ、運よく今回の人生では負け知らずだったとしても、なぜそんなにも勝ち続けなければいけなかったのか? という問いに素直に答えてみれば、そこには負けることへの強烈な「恐れ」があったとわかるはずです。
つまり、勝ち続けているように見える人は、ただ上手に逃げ続けているだけで、「見捨てられ不安」を本当に克服したわけではない、ということです。
そもそも、本当に怖くなければ、それを避ける理由などないからです。
ですから、
「それを遠ざけようとするのは恐れているからだ、それに囚われてしまうのも恐れているからだ」
ということを、何となく覚えておくと役に立つかもしれません。
そのあたりのことは、またいずれ別の機会にお話できればと思っております。
以上、よろしかったら参考になさってみてください。
ありがとうございました。
ヨシツグ先生 お返事ありがとうございます。なるほど、勝ち続けている人は負けを恐れている訳ですね。
ただ、私は負けた経験からやっぱり負けは嫌だなと感じ、ますます負けが怖くなってしまいました。
結局、勝ち負けの物差しを使っているうちは勝っても負けても苦しいということでしょうかね。
その物差しに拘らなくなる方法など、また別の機会にでもご教示いただけたら嬉しいです😊
家族の誕生日祝いで全員集まった日。姉を前にすると母親であることを忘れる母親。
今まで普通だった日常の人物像がコロコロ変わる瞬間に違和感を感じていた。周りは和気藹々としてて幸せそうだった事にも。
アデル見たけど、
フランス映画はだんだん不安になっていく。女も男もイケる恋愛観、日本人的なフツーの概念がなくて自由すぎて、どこにも寄りかかる場所がない。
一緒に見てる人に出てくるほぼ全ての人に似てると言われるほど、相手の中に自分の影を感じる。
自分に特徴を感じない。
白人の美人しかいない全くの美しい世界を見ていると不安になって、日本のどす黒い滑稽な世界を求める。
ダサいけど安心する、容姿に重きを置いてない40代50代に寄りかかって生きるようになった。
自分なりに問題解決して、気遣いにおいて40代50代のくつろぎに到達することはできたんだけれども、
実際の自分の体は20代で
、服にアイデンティティーを任せてる同じ20代の不安な世界とも分かち合いたくないと思ってしまう。
20代の女性とデートしても、男としか見られない。体しか性しか見えてないガキと話してると会話の質が低すぎて不安になっていく。
恋をして、
2ヶ月前出たばかりの「ずっと」のremixを聴いてボロ泣きしながら誘ったら、以心伝心して、心読まれてるなりなんなり20代の恋愛を。
運命の人と勘違いしてしまった前の恋人と同じような展開がまた起きつつ、
どうなってもいいから
また深く繋がって体を超えた瞬間が起きそうで
でも映画アデルを見たりすると、
美しい女性の心と体の世界に、行きたくない。綺麗な世界に行けない。
一生彼女できないまま滑稽な生活をしていたい自分もいて
今までのアイデンティティが崩壊する瞬間かもしれないし。
良くも悪くもモデル顔で、
誰も着ないような派手な服を着るとしっくり来て、
ありきたりな服を着ると病む。
これじゃ外に出られないような下着を着て歩くと落ち着く。
どこにも傾かない自分の顔に不安を感じる。
自分という存在を体で見せるんではなくて
仕事着なんか着て仕事してるからと言いたい。自分という評価から逃げたい感覚がずっとある。
イッテQの祭り男の服なんか着て、ずっと自分をコロコロ変えてふざけてないと落ち着かない気がした。
この世に居場所を感じない。
一人の人間に収まるようなアイデンティティがほしい。
どうありたいかの自分に悩んでると思った。
と思ったが、服を愛してる人達のお店に入って、いい買い物ができた。自分一人の服に対するイメージが変わって、救われた。