バイブル・エッセイ 1180『共に祈る家族』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父)

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  • Опубліковано 16 січ 2025
  • 説教:
    行方不明になったイエスを、ようやく探し当てた両親に、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言いました。口答えのようにも聞こえますが、きっとイエスは、いま起こっている出来事の意味がまだよくわかっていない両親を、教え導くようにやさしく語ったのでしょう。「人間は誰も、父なる神の家に帰る。人間の思いではなく、父なる神の思いに従って生きることこそ、人間の幸せなのだ」、イエスはきっと、両親にそのことを教えたかったのだと思います。
    聖家族というとき、わたしはマザー・テレサから聞いた、「共に祈る家族は、共にいる。決して離れ離れになることがない」という言葉を思い出します。「共に祈る」ということは、朝晩に祈りの時間を決めて、一緒に集まって祈るということでしょう。共に祈る限り、共にいるというのは、ある意味で当たり前のことにも思えます。
    しかし、マザーのこの言葉には、もっと深い意味があるように思います。祈るというのは、自分自身の限界を認め、神さまの声に耳を傾けることだからです。家族の場合で言えば、親は、「神さまがこの子どもにどんな使命を与えておられるのか、わたしにはわからない」ということを素直に認めて、「神さま、この子が進むべき道を、わたしたちにお示しください」と祈る。子どもは、「神さまがなぜこの両親のもとに自分を送ったのか、わたしにはわからない」ということを素直に認めて、「神さま、わたしはこの両親のために何をすべきなのでしょうか」と祈る。家族の全員が父なる神の前にひざまずいて祈り、父なる神に家族を委ねるとき。親でも子どもでもなく、父なる神が家族を指導するとき、その家族は、いつまでも離れ離れになることがありません。そのような家族こそが、「聖家族」なのだと言ってよいでしょう。
    マリアは、行方不明になったイエスを見つけたとき、「なぜこんなことをしてくれたのです」といってイエスを責めました。イエスが自分たちの思った通りに行動することを期待していたからです。もしマリアがこのとき、イエスを父なる神に委ねていたのならば、「神さま、なぜこの子はこんなことをしたのでしょう」と祈りのうちに神に尋ねるべきだったでしょう。わたしたちもつい、同じようなことをしてしまいがちです。神の思いを尋ねる前に、自分の思いを子どもに、あるいは親に押しつけてしまいがちなのです。「どうしてわたしを探したのですか」というイエスの言葉には、「まずは、神さまの思いを探しなさい。そうすれば、何もあわてる必要がないことがわかる」というイエスの思いが込められていたのかもしれません。
    すべての出来事を「心に納めて」思い巡らすうちに、マリアは次第に、イエスの使命に気づいていきます。父なる神に導かれながら、ヨセフ、マリア、イエスは、少しずつ「聖家族」になっていったのです。わたしたちも、家族と共に祈ることで、「聖家族」の理想に近づいていくことができるよう祈りましょう。

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