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こんなにも動画が流れているのにも関わらず、今!現在 何もかも変わらない日本の学校歴史教育。
ほな動画見りゃええやんけアホなんけ
教科書検定委員に偏りがあるからだと思います。
共産党系の団体や思想の官僚が未だ存在しているのでしょう。
真珠湾攻撃の時、一般人や子供には攻撃しなかったと、当時、子供だった人がインタビュ-にこたえていたのを見たことがあります。
今のロシア軍と同じ。逆にウク軍は、人質を盾にしている‼️💢😠💀⚰️
@tenhiko であるから道理にかなったものであるという事でしょうか?一般人を殺さない限り露国の爆撃は許されるとい事でしょうか?
@@central162 当時は未だ帝国主義が残存する時代でもあり、パリ不戦条約があったにせよ侵略か自衛かに関しては当事国が決めるというもので、事実上の空文でもあった。そういう中で道理とはどこまでを含めたことを指すのか。例えばその僅か50年前にハワイ王国を白人が滅ぼしそこに彼らが住みついていたことは道理にかなっていたのか。フィリピンやインドネシアやマレー半島はどうか。「戦闘行為」において、旧日本軍は一般人や子供には攻撃しなかった。実際(原則として)それは徹底してたし、そのことの意味自体は小さくは無い。
@@central162 さん逆では?当時子供だった人がまるで自分が見てきたかのように語る滑稽さは、真珠湾攻撃を正しい正しくないの議論で気持ちよくなるところで停止してしまうことに直結した貧困な教育の結果だということなんでは?
当時その島に夫婦で住んでいた人(母の同級生)に聞いた話しでは、人口の40%日本人がいましたが、真珠湾付近の日本人には飛行機から逃げるようにアナウンスしたので、天皇陛下の写真を車のシート下に隠して皆逃げたそうですよ。
攻撃が正しかったか否かではなく、真珠湾攻撃が何故実施されたのか、「正しい」事実を踏まえることは、今後に向けて極めて重要と思います。事実として、南西に向かう作戦に反して東の真珠湾を攻撃した上、何故占領しなかったのか、または何故造船所や石油タンクを破壊しなかったのか、ここに大きなカギが有る様に思います。造船所や石油タンクを破壊しなかったことは、軍事的戦略において極めて稚拙な戦略として、当時のアメリカ軍人の回顧録に記載されています。林千勝氏の調査による書物の他、真珠湾攻撃に関しては「真珠湾攻撃総隊長の回想_淵田味津雄自叙伝(中田整一著)」がリアル感に触れることができ参考になります。
山本五十六が鍵を握っていると言うことですよね。
@@amaneaogiri2173 実行犯および共犯:山本五十六、主犯:永野修身、米内光政の海軍トップ2,風見章、白洲次郎等の国際金融資本系関係者と共産主義者、そして、権力欲旺盛な近衛文麿の合作による「敗戦革命を狙ったもの」と林千勝氏は仮説を立てており、辻褄、納得感がある。林千勝氏の調査では、山本は鍵を握っていたが風見章との手紙等文書は焚火で全て焼き払われ、永野修身の資料は東京裁判中の死亡後何者かによって紛失しているとのこと。真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄中佐は回想の中で、造船所や石油タンクの破壊のための攻撃申し入れを断られそのまま帰還したことに疑問を持ち始め、ミッドウェイ海戦では山本が総指揮を執るといいつつも数百キロ後方で遊んでいたことに愚将と言い放っている。
GHQが日本を骨抜きさせた⁉️アングロサクソン人の生き方を深く深く思考させる日本人で在りたいです‼️ありがとうございます。子供達の未来を守る強い軍事力持つ核を所有する強い強い日本が平和の原点ですね‼️
正しい正しくないの話や感情の鬱憤を晴らすために歴史を用いてる人が多いので、ちゃんと教訓・学びを得るのに歴史から学べるのはありがたいですね!学ぶにも、はじめの動機がどこに向いてるかですべて変わってしまいますね。
なぜ、80年も経ているのに研究が進んでいないのか。闇があるとしか思えない。
仕組まれた敗戦!真珠湾攻撃の裏側【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第7回】裏取引!?闇に葬られた軍司令官【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第8回】この二つの動画の視聴を推奨。
林千勝先生を呼んで大東亜戦争の真実を話して頂くのもいいかなと!近衛文麿と尾崎よしみを掘り下げたいですね
林?あんなペテン師呼んでどないすんねん アホか
@@シュペールエタンダール めっちゃストレス溜まってる生活送ってはるんやなあんた
尾崎よしみって近衛文麿の同時代人なら尾崎秀実のこと言いたいのかな?ちなみに、ほつみと読みます。
真珠湾の歴史に学ぶとすれば、今や林千勝氏の議論を外すわけには行きませんね。認識が根底から変わる事をよく目から鱗が落ちたなどと形容しますが林氏の著書を読んで私は思わず膝を打ってしまいました。私は三田村武夫氏の著書「大東亜戦争とスターリンの謀略」を読んである程度目から鱗が落ち、その後、同氏の「日米開戦陸軍の勝算」を精読して本当の意味で目から鱗が落ちました。林千勝氏を知らない人は是非ググってみてください。
私も林千勝さんのお話で近衛文麿内閣の正体を知り本来なら真珠湾攻撃なんてする必要無かった事に納得しました・・・
陸軍悪玉論、海軍善玉論が蔓延してるからなぁー
事実そのとおりだろ
海軍には残念ながらトロイの木馬が多数いたと言うことです。しかも海軍は解体されていないそうです。
日本は敗戦したので、真珠湾基地を制圧したら戦局はどう変わった可能性はあるのか?何故やめたのか?を論じる意味は有ると思います。タイトルが功罪を謳っているのに内容が踏み込まれていない様に感じました。
今までと違った視点からの考察に感銘しました。
いいお話しです。勉強になります。
全て最初から決まっていた予定調和なのでは、と思ってしまいました。そしていま、自分がその歴史の上でどうすべきか、改めて考えさせられますね。。
わざと古い艦隊を真珠湾に置いてたと言われてるみたいですよ。
インドネシアの油が断たれたのは良くわかりました。では、敗戦までの油は何処から手にいれたのですか。
役目を終えたいそろくは生きてた話が腑に落ちてます。唾だけ相手に吐いてこうやってウチの艦隊を沈めてねと教えたと思ってます。明治から恐ろしさは始まってたんだという考えに落ち着いた。そして今芽吹きが始まってると思います。
私の祖父は帝國軍人「近衛第四師団」でした。生前に真珠湾攻撃は海軍省の陸軍省の戦果えの対抗意思だと言ってました。
当時のオアフ島は、真珠湾だけではなくダイヤモンドヘッドは要塞化されていて、ワイキキビーチにも要塞砲(口径14インチと思われる)があり、島の東部や北部にもトーチカなどの防御施設が設けられていました。日本軍はそういったオアフ島の強固な守りを懸念して、航空隊による奇襲攻撃が精一杯と考えたのではないでしょうか。また、「真珠湾攻撃」と言われていますが、日本海軍が攻撃したのは真珠湾だけではなく、オアフ島東部のカネオヘ基地、同じく東部のベローズ・フィールド基地、島中央部のウィーラー基地をも攻撃しています。南雲艦隊から出撃した約360機の零戦・九九艦爆・九七艦攻のすべてが真珠湾を攻撃したわけではないのです。これらの基地はいずれも航空基地で、これらの基地航空隊の反撃を阻止するために真珠湾と相前後して攻撃したものでしょう。それほどオアフ島内のアメリカの軍事力を高く見積もっていたと考えられます。(カネオヘ基地など真珠湾以外への攻撃については、真珠湾内フォード島にある「パールハーバー太平洋航空博物館」で解説されています。)なお、「真珠湾の入口が狭く、水深も浅いから、艦船による攻撃は不可能」という説明でしたが、真珠湾内のアメリカ海軍艦艇を攻撃するためには真珠湾内に侵入する必要性は乏しく、当時の戦艦の主砲射程ならば、湾外からも射撃可能です。それをアメリカ軍が認識していたからこそのワイキキの要塞砲であり、ワイキキの要塞砲は戦艦などの水上艦から真珠湾を守るためのものでもあったと言えるわけです。
物事は徹底しなければならない。五十六は戦艦と空母の数しか頭になかったようだな。だからこういう中途半端な結果なのだ。大きな戦略上の観点もなければ、やるのであれば戦術上占領までしなければ何の意味もない。
@@RyzenH-ir8lg さまニミッツが「旧式戦艦に乗っていた最も優秀な乗組員を空母と重巡に移せて、戦力はアップした」と言っていますからね。成功して敵将を喜ばせる作戦なんて。優位に立ったはずの日本の戦艦部隊は何もしていませんからね。
@@竜涎香-g9o さまホントにアホです。大きな戦略上から言えば巨大な潜在力をもつ米国にちょっかい出すのは最後にすべき。シナ事変を終わらせソ連を片づけ南方油田地帯を押さえ、ドイツと共に米国を挟撃できる体制になってからでしょ。
ハワイから併合の要請を断った日本の判断は、その後の歴史に大きな変化をもたらした事実も踏まえると、くだんの真珠湾もなかなかに興味深い
石原莞爾の意見や秋丸機関の研究結果を実直に進めていれば、「もしかしたら」もあったのかもしれないのですよね。秋丸機関には優秀な人が多かったけど、問題も多かったみたいですね…… 対米がこのタイミングで起こらなかったらまた違ってたかも?
とても学べましたありがとうございます。完膚なきまでにやられて。模索してわかったことと、改善したところがある日本は素晴らしいと言いたいけれど当時の人は後世の人に重荷を背負わせた部分もありますね。宗教戦略により深い理解があれば、現基督猶戦線の目的もわかったのだろうなぁ、、、、。当時の賭けたトップは途中で逃げたかったんだろうな、、、
皆さん同じスタジオですね♥ 背景は違うけど😁 4次元魂のむすびちゃん♥
正しいかどうか?はどうでもいいとしても、評価できるかどうか?は検討しないといけないのではないですか?評価できないなら、正しいとは言えないのではないですか?
真珠湾攻撃の目的の一つとして米国民の戦意を喪失させることを掲げているが、結果、逆に米国民の戦意を高揚させた。その一点でこの作戦は大失敗である。
山本五十六連合艦隊司令長官と永野総長以外は全員真珠湾攻撃に反対だったそうです。近衛文麿野望と挫折 林千勝著の本に書いてありました。
>逆に米国民の戦意を高揚させた。そうですね。わたしが55年前(昭和42年)アメリカに留学した時はまだ12月7日頃はバーなんかに行かないほうがいいと忠告されました。酔っぱらったアメリカ人に絡まれることがあったのです。(ニューヨークより)
確かにルーズベルトは反戦を公約に掲げているわけだから、向こうから攻撃してくる可能性はなかったかもしれない。ハルノートや経済制裁の挑発に乗ってしまったのなら、やるなら徹底的に、戦略的にやるべきだった。
@@jiropushkin3563 様私も昭和62年、ハワイに留学した時、パールハーバーには行かない方が良いと言われました。しかし、行きました。暴力はなかったですが、英語がわからないと思われ、ちょっと罵られるくらいのことはありました。
だれがどこに掲げているのかな?
ハワイ迄は確かに、遠いし💀行く理由が今一つ理解不能でしょうか~↓空母??何処に??停泊する?撃墜でしょう🙊生きてる内に真実を知りたいです🙏もう67歳です😰
客観的でよかったです。GOOD!
ハワイと日本の子供たちの交流で、真珠湾を訪問しました。ハワイのお母さんたちは、日本の子供たちがハワイの犠牲者に祈って、ハワイの子供たちが日本の犠牲者に祈ることは意義があると言ってくれました。同時に、お母さんたちの本音としては、今は、ハワイが何でアメリカになっているのかという方が問題であると言われました。家も高い、土地の高い、子供たちをアメリカの大学に行かせるにも高い。お母さんたちは、ハワイの王様が、東京で明治天皇に助けてくださいと言ったことも知っていました。
事実として アメリカが暴力で併合した ということを知っておくことは 大前提として大事ですね 。当時の日本には ハワイを助ける余力は なかった 。ほぼ同じような立場で ちょっと距離が遠かったという 大きな違いが あっただけかもしれません 。
すごく勉強になる!ありがとうございます
巷では日本が真珠湾攻撃を行ったのは、日本の帝国主義に基づくものであるとなっておりますが,実際はそうではなかったということをアメリカ大統領 ハーバート フーバーさんも,その著書「裏切られた自由」(原題’Freedom Betrayed’)の中ではっきりと述べていらっしゃいます。分厚い本ですが、私は日本人として,間違った歴史教科書よりも,フーバーさんの書かれたこの記録を読んでほしいと思います。
林千勝先生著書の「日米開戦 陸軍の勝算」を読みましたが、秋丸機関によると南進論は南(東南アジア)へ攻めて西(インド・アラビア)へ攻めれば日本は勝っていたと。ちなみに米国の国力差で東(ハワイ方面)へ攻めたら負けるとも書かれていたので真珠湾攻撃を許可した永野修身は許されない存在でしょう
それなっ!真珠湾攻撃は山本五十六の我儘秋丸機関の計画どうりにやってれば勝ってましたね!
林千勝さんによると、秋丸機関の戦略に、フィリピンを攻略占領の後すぐに返還するという作戦があったと思います。その時、アメリカは黙っているでしょうか。空母が銚子沖にやって来て、山本五十六が「映画」の中で心配していたように、本土が空襲されていたかも知れません。
永野修身は勿論ですが、その背後に居た者達(風見章、白洲次郎、近衛文麿、他の共産主義者と国際金融資本関係者)が国家転覆を狙った主犯です。因みに、真珠湾攻撃で仮に造船所や石油タンクを破壊していたら、アメリカは太平洋側の戦争は離脱していたそうです。アメリカの中学の歴史授業の課題で、真珠湾が再起不能にったらどうするかという問いの答えは、当時の軍事力は日本の方が勝っていたこと、国民世論が戦争反対であったこととハワイでなく本土から太平洋横断距離が遠すぎるの3点から太平洋側の戦争は不戦にしたとのことです。
ではハワイのアメリカ太平洋艦隊をそのまま放置して西進作戦をすると?ドリットルの奇襲空襲作戦の代わりにアメリカの主力戦艦艦隊が42年初期にフィリピンに向けてやってきますが放置して西進するのですか?迎撃する為には海軍のほぼ全てが必要だと思いますが、陸軍だけで西進作戦ですか?42年中にインパール作戦の悲劇を起こせと?
@@無名-u7v アホかお前。米太平洋艦隊から攻撃されるやろが、ボケ
めちゃくちゃ分かり易いです!
ハワイ攻撃では、武器の工場は、破壊されてない民間人も殺害してない。もしハワイに上陸してたら違ってたかも😰ただ古事記から学ぶのは、太陽に向かって戦ってはいけなかった🥲
機動部隊による真珠湾攻撃は、早期に航空機が活躍できる土台を作ってしまい。米国の航空機産業という得意分野を促してしまった。
奮い立たせるためですねアメリカを
いつも大変興味深く拝見しています。私の勝手な思いですがカメハメハ大王を助けてあげれなかった御返しと思っています。
私も同意見です!植民地支配されているのを知っていたのに助けられなかった悔しさとか色んな理由で、真珠湾にあるアメリカの戦艦を攻撃したのではと思っています。
自分も同じ意見です。元々先住民がいた方達を追い出して戦争の道具として島をイジり改造した事。
このチャンネルを見て改めて思う。あの戦争は大東亜戦争だ。太平洋戦争って実は南米の戦争だよ。知らない人はググってね
大東亜戦争の勝者は大日本帝国。太平洋戦争の勝者はアメリカ。戦勝国は大東亜開放の戦争目的を達成した大日本帝国。
1930年代からの日本の国際社会からの孤立、石油禁輸という経済制裁、どこか今のロシアにも通じるところがあります。ロシアの方は戦争には勝つかもしれませんが。国連もアメリカも動きませんでしたね。たられば言うのもあれですが、日本が戦争を避ける方法はあったのか、また戦勝国になる方法はあったのかなどは考えてみるのも面白そうではあります。いずれにせよ西欧列強による植民地支配という悪夢のような世の中が終息へ向かったのは誉れ高きこと、西欧からすれば金づるが減ったというだけでしょうが。国家運営は国防、経済振興、外交などなどつつがなくこなすのは難しい。そもそも現状日本は自力で国を守れませんし。タイムリーなとこでは岸田さんが悪手を放った模様ですね。ロシア批判は無謀というもの、交易にはメリットの方が多かったはずですがみすみす手放すんか~。事実賢明な多くの国はロシアと手を切ってはいないでしょう。何が国のためになるのかを理解できる国民がせめて6割を超えれば日本は再び強くなる可能性はあります。それまで存続していれば、の話ですが。
私の乏しい頭でわ山本五十六が関わった戦い戦略を見るに五十六は米国側の回し者であったとしか思えません。
うん。お前は本当にバカだよ。
アメリカの公文書館にはそんなこと書かれてないようです
@@ioryo5961 さん。まあ、日米公文書には書かれて居ないし、日本兵の戦死者が最も多く出たのは五十六の死後が圧倒的に死者が出て居る作戦で有ったのも事実なので日本の歴史の闇を感じますね。自分だったら百歩譲って真珠湾を攻めるならば空母索敵は素より、第3波攻撃隊を編成して石油備蓄基地を破壊して当分の間の足止めをする又はハワイを完全に占領し日本の支配化に置き米本国からの兵站を絶つ。をしないと真珠湾を狙う意味がないのでわ?日本は本来、東を攻めるベキでは無く、一旦南下してから足を固めながら西へ北上しつつ、石油、天然ゴムなどの資源を確保してシーレーンを確保して行けば勝て無い迄も簡単に負けない戦いが戦略的に出来たのでわ?と思ってしまう。真珠湾の後ドンドン東に出たのは失敗。それが五十六の個人の意思なのか?背後に歴史的に登場して居ない力が働いての事なのか闇が深すぎてわからない。日本の陸、海、空。の自衛隊元幕僚長達を集めて話合い五十六が何故にあんな戦略を取ったのか答えを出して貰いスッキリしたいです。
山本五十六のバックには黒幕がいたと言うことはダイレクト出版の宣伝動画で見ましたけど。
@@amaneaogiri2173 何の根拠にもなりゃしないww
真珠湾攻撃はフィリピン植民地解放戦と同時に行われました。これはひとえに、アメリカがフィリピン奪還作戦を行うのを阻止する為に日本軍が敵基地攻撃を行ったものと解釈しています。
真珠湾攻撃の是非。林千勝さんの意見が最も的を得てます。
あんなマガイモン真に受けてるんですか?
以前の動画で背景が本棚だった回で、落合莞爾氏の著書が並んできたので小名木先生は落合史観についてはご存知のことと存じます。結局あの戦いは八百長だったということではないですか。
とりあえず「最悪の戦犯は山本五十六であって、東条英機ではない。」って事かな。
長五****ロウ
バカですか?
日本軍の真珠湾攻撃のもっと前から太平洋戦争は継続していたような口調ですね。
真珠湾攻撃ー3航空部隊真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、真珠湾内のフォード島北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。技術的な課題は、第一に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第二に戦艦の装甲にどうやって航空爆弾を貫通させるか、の2点であった。詳細は「九一式魚雷」を参照第一の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。第二の爆弾に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量を賄う実験が鹿屋、笠之原で実施された。模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[23]。蒼龍の艦攻搭乗員だった吉岡政光の回想によると、通常なら知らされる目的地は一般の乗組員には知らされなかった。伊勢湾近くでは、伊勢神宮へ向けて総員敬礼が命じられたが、それもかつての航海ではなかったことだった[24]。吉岡は、国力に大差がある米国と開戦すると思っておらず、猛訓練は日中戦争激化への備えと考えていた[25]。吉岡がハワイ攻撃を知らされたのは単冠湾到着後、11月24日で南雲中将からの「宿敵米国ニ対シ愈々十二月八日ヲ期シテ開戦セラレントシ…」[25]、「十年兵ヲ養フハ只一日之ヲ用ヒンガ為ナルヲ想起シ」という訓示が読み上げられた[26]。その後は、ジオラマを使い真珠湾の地形や米戦艦の停泊位置を頭に叩き込んだ[25]。単冠湾は冬でも海氷に閉ざされない天然の良港で、沿岸には天寧(てんねい)や年萌(としもい)という集落があった[27]。11月20日、警戒と機密保持を任務とする先遣隊が到着し、天寧郵便局に電信電話回線の遮断を命じた[27]。11月22日朝には5~6隻の軍艦が目撃されたが、住民は湾を見ないよう指示され、学校でも話題にする生徒はいなかった[28]。夜はサーチライトが空に向けられた[28][27]。増えた艦艇は24日頃から出航し[28]、26日には朝靄の中を空母が岬を通過していくのが目撃されたが、住民はハワイ攻撃とは思わず、ソ連との戦争を噂しあっていた[27]。また、日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込んだ。吉川は日系人を利用して真珠湾のアメリカ軍艦艇の動向を日々調査し、真珠湾のアメリカ軍兵力の詳報を作り上げた。他にも軍令部第3部の鈴木英少佐らが、仏印進駐による経済制裁によりアメリカ行き商船の最終便となった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路に沿って航海して気象条件やアメリカ軍の警戒態勢などの情報を収集している。鈴木らは1941年11月1日にハワイに到着すると、安全を期して吉川との直接の接触は避け、日本総領事の喜多長雄から吉川の調査結果を受け取った。鈴木は無事に日本に情報を持ち帰り、源田らに真珠湾の最新情報を伝えることができた。吉川は攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その情報は暗号電文で総領事館から海軍に伝えられ、第一航空艦隊に伝えられた[29]。特殊潜航艇航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している[30]。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年(昭和16年)1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了。搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員である有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。9月初旬に原田と岩佐が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが、搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信して潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長するなどの研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11日 - 13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた[31]。
流石は小名木先生、この課題を視聴者が考えるための「宿題」として、敢えて御見解を据え置かれましたね。戦後、様々な研究がなされていますが、それほどに当時の作戦計画が終戦までを見通して策定されていたかどうか、甚だ疑問ではあります。ただし、以下の事実は間違いの無いところです。これも参考になりましたら、各位でお考えいただければ宜しいかと思います。1.小名木先生解説の通り、とてもハワイは日本から遠い。従って、この地を占領したとしても、その後長く維持することは恐らく不可能で、米国本土から押し寄せる大艦隊によって、何れは占領されてしまう。だから占領が目的では無かった。南雲艦隊は「真珠湾空襲部隊」と称し、「攻略部隊」ではない。艦隊が占領のための大輸送船団を伴っていなかったことからも、これは明らか。2.一方、日本が目指した南方資源地帯からは、米国領フィリビンがある限り、物資を還送する事が出来ない。当然、フィリビンの攻撃や占領を目指そうとすると、真珠湾から米艦隊が大挙して出撃してくる。これを何とかしておかないと、南方作戦は大変なことになる。だから先制攻撃として、「ハワイの米艦隊と航空部隊」を全滅させておく必要があった。3.もし2の作戦が大成功すれば、ハワイは米国の統治下であること、大量の艦戦が沈められることから、犠牲があまりにも大きく、米国民は戦意喪失に陥るのでは無いかという期待が、山本五十六には有り、これを黒島亀人参謀に計画させた。「ハワイを飛行機でやれないだろうか?」---これが成功すれば、直ちに戦争は講和に持ち込める。米国という国は、大統領制で有り、国民が厭戦気分になれば、大統領はその言葉を聞き届けなければならない。それが最大の狙いだったという説がある。山本は長期戦では適わないことを十分に知っていた「知米派」の一人である。----これは今、一番指示されている説です。確かに占領維持は困難でしょう。4.それにしては、第二次攻撃は行われず(第一波、第二波の攻撃を合わせて第一次攻撃という。石油タンク、工廠、付近に逃げた米空母の総掃討戦が第二次攻撃)、決して真珠湾の基地機能を奪っていない。5.これは、現地指揮艦である南雲提督の判断によるものであり、山本の作戦意図とは異なるものだったと考えられています。作戦が始まったら、部隊の指揮は現地指揮官に委ねられます。呉にいた山本は部隊の指揮は執れません。山本司令長官からは「空母を一隻も失うこと持ち帰ってくれ」という依頼を南雲は受けていました。ここからは現地指揮官の気持ちになって考察する必要があります。・真珠湾在泊艦船は全て叩いた。しかし、空母は叩けていない。現地の基地機能を叩きたいが、第二波攻撃では20機以上の艦爆を失った。敵は反撃の機会をうかがっている。流石に同日に第三波を繰り出すわけにはいかない(攻撃隊収容が必要で時間的に厳しい)。そこで源田参謀から、「基地機能が残っています。山本司令の命令に従い、これを叩きましょう。ただし、米空母が途中で攻撃をかけてくるかも知れない。だから、先に空母艦隊を発見し、それを叩きましょう」との意見具申があった。南雲はこれを承諾した。・戦いは12月9日まで続く。早朝から四方に索敵機が飛ぶが、米空母は発見できない。発見できない間も米空母の脅威が迫っている可能性がある。どうしようか。南雲が迷うが、源田、淵田の両航空参謀は一歩も引かない。「正午まで待って、米空母が発見できない場合は、現海域に残って作戦を継続することは困難だ。補給の問題もある。もう帰りの燃料が心許なくなっている。何とか米空母がたたけたなら、真珠湾の基地機能をたたきつぶそう」と南雲が指示。 この決断は周囲の情報が全くわからない現地指揮官としては最善の策だったと思えます。・結果として、米空母発見は出来ず、南雲は引き返した。これが後々、禍根を残すこととなった。これを戦後問題視しているだけのような気がするのですが。6.その翌日、エンタープライズとサラトガが航空機運版任務から帰ってきたことが歴史の事実。この時点において、米空母艦上には強力な攻撃隊は無く、零戦に勝てる戦闘機もなかったため、実は南雲の心配は杞憂だった。しかし、この情報を南雲は掴んでいなかったため、上記の結果になった。その上、多数の艦艇を失ったにも拘わらず、米政府は「卑怯なだまし討ち」としてこの被害を逆に利用し、米の参戦が決まったというのが一連の流れですね(当時、宣戦布告をしないと敵を攻撃してはいけないというルールは無かった)。勿論、「日本に先に手を出させる」という計画はルーズベルトとチャーチルの仕組んだものですが、まさか、ここまで日本軍が強く、ハワイに来るとは予想していなかった。そのために被害が大きくなってしまった。これは米国の誤算でしたが、かえってその後の作戦は「空母中心」とせざるを得なくなり、戦艦よりも余程強力な武器は失わずに済み、空母の運用まで勉強する事が出来た。やがて珊瑚海、ミッドウェイと空母戦が展開され、真珠湾攻撃が間違いであったかのような展開になってしまった。当時も米国は20隻以上の戦艦を建造し続けていたにも拘わらず。 こんな皮肉なストーリーが今のところ、主流だと思います。個人的に信じてはいますが、まだ不明な部分が多くあります。皆さんも各自の分析をお願い致します。上記は色々な文献、特に米国公文書館の資料に詳しく、チャーチルの「第二次大戦回顧録」等に詳細な記述があります。政治の思惑が大きい気がしていますが、まだ資料が足りません。参考になれば幸いです。
5については、映画「山本五十六」の中で、永野軍令部総長が南雲司令官に依頼あるいは命令したように描かれていました。実際どうだったのかわかりませんが。山本五十六が攻撃隊の司令官として赤城に乗り込んでい「たら」撃って撃って撃ちまくっていたかも知れません。
歴史専門の先生と自衛隊の元管理職以上方の討論を、強く希望します。メッチャ面白そうじゃん!!!
むすびでは林千勝先生に学ばないのですか?
日本の真珠湾攻撃は中途半端だったというのが、小名木とやらが言いたそうだ。このとき2千人もの米軍兵士が死亡したことを触れてない。小名木は何を言いたかったのか?
林千勝氏の指摘に対する小名木先生のご意見を聞きたいですね。秋丸機関策定の対英米戦略にはハワイ奇襲はありません。対米より対英を主目的とした戦略です。南へ進みパレンバンの石油を取り、西へ行きインドを解放する。そして中東あたりでドイツと合流する。対英で勝ち講和に持ち込む。ハワイ攻撃の一ヶ月前まで、この戦略だったというのです。山本の強い意志でハワイ奇襲が行われたことを問題視しています。
中東までどうやっていくんだよ、アホか
林千勝氏が近衛文麿、山本五十六と真珠湾攻撃の闇部分について詳しく解説していましたね。日本が負けるべく負けるように内部から仕掛けられたというか・・・
あんなもんでたらめやんけ。
@@シュペールエタンダール GHQ史観の方がでたらめだよ
@@lefd5iaoc林は明らかに嘘つきだろ
当初の計画に真珠湾攻撃はありません、真珠湾攻撃は山本五十六の我儘です。真珠湾攻撃は大きな間違い、山本五十六がいなければ大東亜戦争は勝ってたよ。
山本五十六の我儘を利用した者達がいることを林千勝氏は調査で指摘しています。更に、間違った真珠湾攻撃でしたが、それでも日本は十分に勝てた攻撃であることが回顧録やジュニアの歴史授業等から確認されています。真珠湾攻撃で仮に造船所や石油タンクを破壊していたら、アメリカは太平洋側の戦争は離脱していたそうです。アメリカの中学の歴史授業の課題で、真珠湾が再起不能にったらどうするかという問いの答えは、当時の軍事力は日本の方が勝っていたこと、国民世論が戦争反対であったこととハワイでなく本土から太平洋横断距離が遠すぎるの3点から太平洋側の戦争は不戦にしたとのことです。「戦争計画違反と故意の稚拙戦略」による人為的に誘導された敗戦といえると思います。
「勝っていた」は言い過ぎだが、「あんな惨めな負け方はしなかった」とは言えそうだ。
私個人的な見解ですが、勝っていたまでは言うのは難しいとは思うが、大日本帝国にとって有利な和平交渉は出来たのかも知れませんね。広島と長崎に、原爆と水爆を投下される前に全面降伏せずとも済んだ可能性はあったと考えます。
ヨーロッパやアジアでの参戦に反対していたアメリカ国民の世論に火を付けてしまった真珠湾攻撃は作戦上完全な失敗でしたね。フィリピンを占領されたくらいでは世論は動かなかったという分析もある。敵情を知る情報収集能力が重要だということだと思います。
1941年8月のギャラップ調査では、既に米国民の7割が対日戦に肯定的でしたが?
@@シュペールエタンダール だからといって、自分の家族から「兵隊」に送り出すことまで同意したとはいえんのじゃないか? 前年の大統領選で、対ドイツ開戦主張の共和党候補に対抗して「あなたの家族を徴兵して海外の戦場に送ったりはしない」と言ってルーズベルトは当選したのだぞ。その「世論調査」の裏には"Not in my backyard "のホンネがあると疑われるが?
@@mtlook0704 あんたの感想はどうでもいいよ。
1941年7月生まれ。5ヶ月後に開戦。生まれたのが一寸遅かった。もし山本五十六の立場だったら、戦艦大和の完成を急がせ、空母一隻と別行動でサンディエゴの軍港を爆撃。アメリカの民間人の厭戦気分を一気に盛り上げ話し合いに持ち込む。シンガポールのイギリスの様に取りあえずは話し合いには応じたはず。はかない夢か、、、、、。間もなくあの世じゃ。
大勝利なんかじゃないよ🤣🤣👍負けの始まりだよ。
すごく、タメになりました!(先ほどは、失礼しました。いいねメッセージで気付きました。老眼怖いですね😅投稿しなおさせていただきました😅)
日曜日に真珠湾攻撃に。金曜日に米航空母艦だけが”演習で”真珠湾を離れた。昔も今も、米海軍の演習は 週末にはナイ。
レキシントンについては演習ではなくウェーキ島に戦闘機を輸送中であったことが確認されています。
ありがとうございました✨🙏🏻
当時の海軍は日本海海戦の栄光を引きずりながらも支那事変では活躍の場がなく、おおくの陸軍将兵が戦いで苦労する中、ロジスティックの安全確保・運送屋を引き受けるぐらいだった。そんな海軍は巨大戦艦建造で国防費の相当額を費やし、陸軍の予算を圧迫、陸軍将兵は白木の箱に入って帰国する中、かっこいい軍服を着て内地を闊歩する海軍に庶民は舌打ちする世相だった。ここで一発、海軍の実力を見せしめて世間をあっと言わせたいというのが山本の心理だったのではないか。治安維持で支那大陸に派遣されていた陸軍にしてみればそんなことをしてアメリカと全面戦争になれば勝ち目はないことぐらい下士官クラスでも理解していた。太平洋戦争は海軍とアメリカの戦争であって発端は海軍の見栄だったというのが真相だろう。
アメリカとの戦争決めたのは陸軍大将東條英機の東條内閣だろ、アホ
そうですね。山本五十六は真珠湾以降のことを何も考えていなかった。そのうえ、国民を信じず、ドゥーリトルの際は「海軍が批判される」と恐れ、拙速にMI作戦を実行し大敗。その後も自分は決して前線に出ようとはしなかった。
@@竜涎香-g9o 前線に出なかったらなんで戦死するんだよww
言われてみると、そうですね😅
御前会議では米とは戦わないって事になったのに海軍が勝手に出ちゃっったと聞いたことがあります
そんなデタラメだれから聞いたんですか?
奇襲は漏れていた。空母は攻撃を知っていて逃げた。 備蓄燃料タンクも攻撃しなかった。何故か?
奇襲が漏れていた可能性は高いが、攻撃目標が、まさか真珠湾であるということまでは予想できていなかった。空母の行動についてはレキシントンはウェーキ等に戦闘機を運ぶ任務を行っており、エンタープライズは演習を終えて真珠湾に変える途中であった。エンタープライズの艦載機が基地の飛行場に降りようとすると味方の対空砲火により数機が撃墜されている。おそらく偶然いなかった。備蓄燃料タンクも重油のため爆撃しても発火せず、それほど大きな被害を与えることはできないからやらなかった。ここら辺が事実かも。
@@565jasdf8詳しい解説ありがとう。勉強になります。
備蓄を攻めない。艦隊は壊滅、まさに謎……備蓄を攻めれば艦隊は自然と壊滅に近い状態になるのに………なぜ、しなかったのか、、、しかもタンクからの反撃は火気の絡みもあって、壊す方が断トツ有利なのに…
@@日下おーじ 備蓄に対してさほど重点的な攻撃が行われなかったのは上コメの通り。さらにアメリカは大国なのだから、燃料を一時的に失ったとしても再度手に入れることができる。資源弱者の日本と一緒にして考えるのは明らかな間違い。そもそも直接艦隊を撃滅できるならそっちのほうが確実。敵戦力をそぐだけでなく他の鑑が接岸できなくという点で燃料攻撃と同等かそれ以上の基地機能阻害を図ることができる。
マレー作戦ー3日本陸軍は12月8日の上陸からジョホール・バル占領に至るまでの55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復、1100キロを進撃し、海上機動距離は650キロ[128]。陸戦戦果は遺棄死体が約5000名、捕虜が約7800名。第25軍は戦死者1535名、戦傷者2257名。第三飛行集団は戦死者185名、戦傷者180名[129]。マレー作戦の航空戦マレー作戦で活躍した飛行第64戦隊指揮官加藤建夫中佐第3飛行集団は優勢に航空作戦を進めていたが、イギリス空軍はゲリラ的少数機で日本軍地上部隊に継続的に爆撃を加え、地上軍にも少なからず損害が生じていた。菅原が絶対的制空権の確保を優先するあまり、地上支援が少ない感じていた第25軍司令官の山下は「まずは地上作戦協力の方が緊急」という不満を抱いていた。山下の不満を受けて南方軍参謀谷川一男大佐は、「遠藤三郎率いる第3飛行団を第3飛行集団から第25軍の指揮下に移してはどうか」とする案を菅原ら第3飛行集団に示したが、菅原らは谷川の提案を一蹴、遠藤が「まずは何より重要なことは全般の制空権を獲得し、その傘の下で作戦することである」との意見を谷川に返した。そのため、引き続き第3飛行団は第3飛行集団の指揮下で菅原の方針通り、制空権確保に全力を投入し、1941年12月21日、第3飛行団がイポーとクアラルンプールでバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファローと交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦を展開し制空権を確保していき、菅原の作戦通り、全般の制空権を確保した第3飛行集団の地上協力によりイギリス軍地上部隊は各地で第25軍に撃破され、シンガポールに向けて退却していった[130][131]。第3飛行集団は、北マレーに配備されていたイギリス軍機100機のうち50機を撃墜破して撤退させ、北マレーの制空権を確保したため、菅原は司令部をカンボジアのプノンペンからマレー半島のスンゲイパタニに前進させた。しかし、菅原の進出直後にスンゲイパタニがブリストル ブレニム爆撃機に奇襲攻撃を受け、あわや全滅か、という窮地に陥ったこともあった[132]。シンガポールが近づいた1942年1月8日、菅原は第25軍のシンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦を命じた。菅原の命令に基づき、1月12日に72機もの大編隊がシンガポールを空襲、迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し、重爆撃機は悠々とイギリス軍飛行場を爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられ、イギリス空軍に多大な損害を与えた[133]。翌13日には、菅原はより前線に近い場所で指揮を執るため、スンゲイパタニで敵機の爆撃によりあわやという経験をしたのにも関わらず、恐れることなくクアラルンプールまで司令部を前進させた[134]。第3飛行集団は1月18日までシンガポールに激しい空爆を加えて、12日からの累計の戦果は敵機110機撃墜破にも上った。その後は、マレー西海岸をシンガポールに向けて猛進している近衛師団の航空支援を行ったが、イギリス軍機の活動はなおも活発であり、1月18日には菅原の司令部があるクアラルンプールも爆撃を受け、菅原は無事であったが、地上で数機の日本軍機が撃破され、死者3名を含む多数の死傷者が出た[135]。シンガポールのイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団の脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーンと加藤率いる第64戦隊が初めて交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜して完勝し、隼の優位性を実証している[136]。その後もハリケーンは日本軍の空襲の迎撃に出撃するが、そのたびに損失が膨んで、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた格好となった[137]。そしてエンドウ沖で壊滅的な損害を被ったイギリス空軍に対して、第3飛行集団は爆撃機によりシンガポールのイギリス軍飛行場を連日攻撃し、たまらずマレー方面のイギリス空軍司令官ホッバム空軍大将やガルフォード空軍少将はシンガポールを脱出し、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に待避してしまった。
タイトルと内容が一致していない。とても残念でした。
ホワイトハウスは日本の艦隊がハワイに接近していることを把握していながら太平洋艦隊司令部に連絡していない。
真珠湾攻撃の裏話でこんな話しを聞いた事がある。日本海軍は真珠湾攻撃をしたが米軍に攻撃され撤退したが米軍は宣戦布告のきっかけを作りたくて自軍により真珠湾攻撃して日本海軍のせいにした。なぜこんな話しが出たかと言うと、真珠湾で破壊された戦艦はすぐになおされ戦争に参加している等傷が浅いのだ。
16:00 〜>第二波攻撃ほんと? 初耳や。w
ありがとうございます。
なんだかんだ東南アジア資源地帯を抑え、鉱山や油田など稼働可能にはなっだけど、そもそもその資源を輸送する船が足りなかったというオチ(一般的に潜水艦に輸送船が多数撃沈されたため資源が日本に届かずと言うが、撃沈される以前に準備・建造された輸送船が明らかに足りなかった)各資源ごとに異なる構造の輸送船が必要なため、既存の船か新規建造船しか充てられないそうな。
戦前は、やっていたのか?開戦シュミレート❕真珠湾をいかに攻略するか?
安濃豊博士が主張されている大東和戦争についての歴史観をどう思われますか?
大東亜ですね。😊
@@MrDonnekorin その通りです。失礼しました。
陰謀論と憶測だけで持論を掲げている論者が多い中で、安濃博士の科学者の眼で捉えた歴史観には目覚めさせられます。
そうか、フィリピンはアメリカ領土だったからアメリカと戦う必要があったんだな…
マレー作戦ー1(マレーさくせん、馬来作戦)は、1941年12月8日に太平洋戦争で日本軍が実施した南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。対英米蘭戦のきっかけとなる戦いであった(真珠湾攻撃が初めてというのは間違い)。南方作戦陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦[4]。マレー作戦は太平洋戦争において全ての他の作戦に先行して攻撃を開始した(海軍の真珠湾攻撃よりも1時間以上も早く、当作戦が事実上、太平洋戦争の開戦である。)[5]。シンガポール島攻略を最終目標にしており[6]、1942年2月15日にそれを達成した[7]。計画英領マレー。マレー作戦の最終目標であるシンガポール島はこの南端にあった。日本軍は南方作戦の実施を開戦と同時に行うことを計画していた。南方作戦の目標は、香港、シンガポール、マニラの重要軍事拠点を覆滅して東亜における英米勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[8]。南方作戦の攻略目標は、マレー、ジャワ、フィリピンの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とし、対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、英米可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題であった[9]。また、南方作戦の議論ではマレー上陸作戦を開戦劈頭急襲的に行うか、航空撃滅戦後に実施するかが課題となった[10]。陸軍は南方作戦の根本方針を先制急襲としており、英領のシンガポールの早期攻略を企図していた。そのため、マレー上陸案として航空撃滅戦と同時に数地点に急襲上陸する甲案を企図した。しかし、この案は英航空戦力をそのままにして長途の渡洋接敵ののち上陸することであり、上陸の前日に企図が暴露することは必然と考えられ、輸送船団や護衛艦隊に大きな損失が出ると予想された。そのため、海軍はこれに反対し、航空撃滅戦を行った後に上陸を行う乙案を出した。その後、議論が重ねられ、甲案を本則として乙案の場合は先遣兵団集合点出発前にこれを決定特令することになった。しかし、敵の航空を撃滅しない危険は残り憂慮され、上陸失敗の場合の対策も講じられた[11]。南方攻略作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す案となって、1941年10月29日までに南方作戦陸海軍中央統帥部における南方作戦の計画書類の策定が終わり[12]、マレー作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称は「E作戦」と定められた[4]。南方作戦陸海軍中央協定には、「英領馬来(マレー)に対する作戦目的は、同方面の敵を撃破して其の要地特に新嘉坡(シンガポール)を攻略し、東亜に於ける英国の根拠を覆滅するに在り」と定められている[13]。陸軍は南方軍作戦計画のマレー方面については、第一期は「第二十五軍(四師団基幹とす)は海軍と協同し速やかに「シンガポール」を攻略す」、第二期は「第二十五軍は海軍と協同し「シンガポール」「ペナン」等馬来方面の要地を確保する」(以下のスマトラ方面については省略)、第三期は「第二十五軍(三師団を基幹とす)は英領馬来、英領「ボルネオ」及北部「スマトラ」の要域を安定確保す」と定めている[14]。
っていうか、山本五十六以下海軍どもが自分たちの腕を試して戦果をあげたいだけだったんじゃないの?
おまえあほ?
山本五十六は反対してたはずです
兵法の常道からははずれている。戦闘においてはトドメをささなければ目的は達成されない。
何かで、聞いたけど真珠湾攻撃は山本五十六の考えで行われたと言っていたなぁ~。どういう意図があって攻撃したか知らないケド。
真珠湾攻撃ー2攻撃の優先順として、主目標は戦艦・空母とし、次にその達成を妨害するだろう敵航空基地・飛行機が副目標となった。工廠(こうしょう)や油槽などの施設は目標とされなかった。戦力を二分していずれの攻撃もが不徹底に終わるよりは艦艇破壊に集中したほうが良いと考えたためであり、工廠や油槽などの後方施設の重要性は認めながらも、これらへの攻撃はあえて切り捨てる方針がとられた[11]。また攻撃は持てる艦載機による一度だけの出撃とされ、発艦は第一波と第二波に分けられ(当時の航空母艦は艦載機用カタパルトは無いので搭載機を一度に全機飛ばすことは出来ず、飛行甲板に最大限並べても2回に分ける必要があった[12])、戦果の如何に関わらず再攻撃は計画されていなかった。しかし一方で山本は、攻撃後、ハワイ上陸の案も幕僚にもちかけていたという[13]。実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の仕上げを命じた[14]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、洋上燃料補給ができない場合もあるとして、一部艦艇の航続力が問題となったが、海軍省軍務局の暗黙の了解のもと、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することとした[15]。使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、連合艦隊は、9月1日に編成された翔鶴(8月8日就役)と瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁する第五航空戦隊も、搭乗員や器材の準備が間に合うなら使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順口攻撃において、港外での敵艦隊夜襲が失敗した一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部の考えは4隻であった[16]。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に赴き、6隻使用は到底了承しがたい旨を伝えて東京に帰った[17]。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、味方空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地だったフィリピン方面に戦力を集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[14]。作戦再考を求めに来た軍令部の参謀に対しては「南方進攻しているあいだに本土を襲われたらどうするのだ」とも語ったという。海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧するのが反対論の主旨であった[18]。10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったので、こちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言している。また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという[3]。援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。
NHKの特集の中で当時の政府の高官が「アメリカと戦争はしたくなかった」という旨の肉声記録が残っていた。真珠湾を攻撃して戦力は削ぎたい。でも、アメリカとは戦争をしたくない。おそらく占領という形をとってしまうと戦争は避けられないから、あえて残すことでそれを回避したかったのかなと、個人的には思います。結局それは甘かったということで。
8月になるとテレビは見ると馬鹿になる報道しかしてないから、先生の話は為になりますね。いざ、真珠湾攻撃で島の占領となると貴重な兵力の投入して時間をかけて占領しなければならない。日本は初期作戦で短期間で石油確保に全力尽くしたかったと思うから、石油確保までの足止めを目的にしてたと個人的に思ってます。だってハワイまでの行って帰ってくるまでに莫大の燃料を使って確保しても、ハワイに燃料がなければそこで詰んでしまうから初期行動で致し方ない苦渋の選択だったと思います。これには日本の情勢がどれだけひっ迫して大東亜戦争をしなければならなかったのか。天皇陛下と閣僚と軍の悔しさが伝わってきます(´;ω;`)
【山本五十六の正体②】本当は勝てた戦争を「ぶっ壊した!男たち」※秋丸機関と真珠湾攻撃「林千勝先生の研究」《後編・第2部》《永久保存版》
ああ、あのインチキクソ動画ね。
南方作戦とはハワイ占領を平行して出来るほど船はあったのだろうか?そして南方作戦展開中に日本本土が強襲されたら撃退するだけの軍備が日本にあったのだろうか?海軍反省会には当時の日本には外国まで攻めていくだけの装備は満足に準備していなかったと書いてあった。
こういう事を今教えているのかと思うと、『日本の現代の若者達よ、君たちが生きている今は、先の大戦で死んで行った人達が生きたかった未来だ。』当時ならこの人はすぐ特高警察から殺される。 当時の事を知らない人が一方的に話しているだけ。 同じ日本人として悲しい。
こんにちは🙇♂️🙇♂️🙇♂️‼️ 日本をカッコ良く………d( ̄  ̄) 。
でも統一教会に乗っ取られています
世間の方はどうして、飛行機の燃料などに石油以外の燃料を使用した事を言わないのだろうか?
日本海軍の真珠湾攻撃には、目的と目的を実施するための詳細な作戦があったはずです。それをなぜ現在の歴史研究家の誰一人として知らないのかが不思議でなりません。ハワイを占領するのは作戦にあったのかもしれません。しかし、第一次攻撃で空母4隻が真珠湾に停泊していなかったことを知って、司令部は作戦が失敗に終わったことを知ったのでしょう。米空母からの反撃を恐れて第3次攻撃をためらったのだと思います。
ありがとうございました。学習していきます。
真珠湾攻撃の犠牲者 へ謝罪と哀悼の意を捧げます。
私は洗脳から解けたした 超ラッキーです これでご先祖様に顔向けができます🙏
真珠湾攻撃は山本五十六元帥閣下が立案された作戦だったんですでも失敗に終わったんです、目的は航空母艦を海の底に沈める為にした作戦だったんです。
何も真実が語られていない
話聞いてーこの動画ではどれが答えとかないって言ってるじゃんー
早期和平を望んでいたから。徹底的にしなかったと思います。でもそれは日本から見た視点。アメリカから見たら、やられたからには徹底的に。そーゆーことです。
山本五十六の真珠湾攻撃は正しかったか正しくなかったのか?これについては失敗だったか、失敗でなかったかについては、持論を持っている。山本五十六は「皇国の荒廃、この征戦にあり、ニイタカヤマノボレ」と言っていながら、連合艦隊司令長官として陣頭指揮をせず、南雲の性格を知っていながら、大変重要な戦闘を任せてしまった。ハワイの占領は兵站が伸び切ってしまう事から、それが正しいか正しくないかは関知しないが、少なくとも戦闘を行うとは、トドメを刺すまで完遂せねばやった事にはならない。兵法のイロハである。山本五十六が陣頭指揮を取り石油貯蔵タンク及びドックまで破壊する第3次攻撃命令を出さなかった事は、大いなる失敗と言える。
当時南雲部隊の作戦には石油タンクの攻撃は入っていません。なぜならあれは弾薬を消耗させるためのダミーだからです。当時の常識として呉や横須賀の海軍基地も地下タンクです。
第一次、第二次攻撃により日本軍の艦載機は27機が撃墜されている。さらに機体に損傷を受けている機は100機近くあった。戦闘力はかなり落ちていた。第一次より第二次攻撃の方が圧倒的に撃墜される機数が増えている。第三次攻撃をすると、さらなる被害が予想される。そしてアメリカの空母2隻の動向はつかめていない。この状況で戦うと戦力は、ほぼ互角になる。石油貯蔵タンク及びドックを完全に破壊するのは極めて困難。終戦直前の呉の海軍基地に対する米海軍機動部隊の攻撃においても破壊には至っていない。正解だと思われていたことが実際は間違いであることもあり、間違いであると思われていたことが実は正解だったりする。その時の状況により判断は様々。
@@565jasdf8 様々では許されない戦闘を仕掛けており、1次2次においても石油貯蔵タンクとドックにも手を付けなかった。戦闘においてはルールは無い。目的は戦艦戦闘機のみに非ず。兵站や施設にトドメを刺さずして目的達成したとは言えない。相当な犠牲の覚悟が足りない。太平洋戦争からの戦略の失敗経験を糧にしなければ、300万犠牲者は浮かばれない。
@@565jasdf8 そうですか 。 詳細な数字が 見えてくると納得できますね 。 軍人は 公務員なので戦闘詳報というのを 書くらしいのですが、 おなじ戦闘での 双方の数字が かなり違うらしい・・・ 沖縄戦での 日米の戦闘詳報を比較しながら ウェブ・サイトを 作ってる 、恐らく退役した自衛隊の将校の方の記事を 読ませてもらったことがあります 。 「データに基づいて…」とか「統計によると …」なんてことすら 鵜呑みには できまず 、結局 推測するしかない…「これが 歴史的事実っ!」っていうのが それぞれの架空の物語だったりする… おなじ戦力でも 指揮する将官によって 戦果は 全く変わる可能性が あり 戦闘や戦争は やってみないとわからない …部分が 必ずある 。 われわれが 語るのは 安全地帯に立っての 後出しジャンケンについての議論 …のように思えます 。
@@derayama1616 さらに言えば赤城、飛龍、蒼龍の3隻の空母は航続距離が短いために、当初は加賀、翔鶴、瑞鶴の3隻で攻撃するという案が出ていました。つまり赤城、飛龍、蒼龍には燃料の余裕がなかったのです。かなり無理をして出撃をしています。長年、第三次攻撃をかけなかったことが失敗であったと言われてきましたが、実際の状況は、そうではなかったと言えるでしょう。
本当はエンタープライズを叩きたかったのによりによって演習で不在。日和った南雲中将が部下の進言を聞かず撤退。
事実は分かりましたけどなんの意図があって攻撃が行われたのかも事実の一つ。それが分かりません。それによっては議論も大いに様変わりすると思われますがそれは残ってないのでしょうか?
日本にもアメリカにもコミンテルン(共産主義)の工作があったというのは事実なんでしょう。それは今もDSという形で続いている?!
米国のブログでは日本軍真珠湾に来てなかったって報告してました。
えっ どう言う事ですか、自作自演て事ですか?
@@tochigiken110 調べてみてください、あちこちで囁かれてます。9/11も双子ビルに突っ込んだのホログラフィの飛行機だったらしい。乗客のリストや旅行用の荷物なんかは一切報告されてないし。ニュース報道の嘘は多かったみたいです。人類初の月面着陸もネバダ州の砂漠の中のスタジオでスタンリーキューブリック監督が撮ったものだし。本人が隠れる3日前にインタビュー記者にバラしちゃった。
@@girlfromtokyo 9/11は映像もありますよね ビルが突然爆発し出す奴とか、後ベトナム戦争のトンキン湾事件も自作自演で有名ですよね。確かにアメリカならやりそうな事ですね 調べてみます。
@@tochigiken110 2つのグループがあったんですよね、かなり穢れてしまってる人たちと人民のために憲法にのっとって戦っている人たちと。暗い方はドンドンお掃除されて居なくなっています、特にここ5年間で。世界中で起こっている事です。表面上の名目で争いは起こってなかった。必ず富を得て好き勝手に振舞っていたグループがいたんです。民族に関係なく裏の同盟があったんです。
日本はインドネシアから石油を運びたかったんですね。
また同じようなことされる予感。現在、南沙諸島周辺は中国が牛耳ってる。インドネシアもほぼ中国には物言えない。中台騒動で日本は米を支持せざるを得ない。さて中国の日本への制裁は?この辺封鎖されたら日本経済に大打撃。まさにこれこそ米の目的かと。米中の日本経済山分け計画。
パナマ運河を破壊すれば米国の戦略を遅れさせ和睦。
日英同盟を破棄したのは幣原だ、今は林だ、何回繰り返すんだ
🌴🌏🐎歴史は大切ですね・太平洋戦争=大東亜戦争みたいですね⛩️✨💫🧜🐉⛩️
石原莞爾が、失脚したのが日本には、大きかったです。
こんなにも動画が流れているのにも関わらず、今!現在 何もかも変わらない日本の学校歴史教育。
ほな動画見りゃええやんけアホなんけ
教科書検定委員に偏りがあるからだと思います。
共産党系の団体や思想の官僚が未だ存在しているのでしょう。
真珠湾攻撃の時、一般人や子供には攻撃しなかったと、当時、子供だった人がインタビュ-にこたえていたのを見たことがあります。
今のロシア軍と同じ。逆にウク軍は、人質を盾にしている‼️💢😠💀⚰️
@tenhiko であるから道理にかなったものであるという事でしょうか?一般人を殺さない限り露国の爆撃は許されるとい事でしょうか?
@@central162
当時は未だ帝国主義が残存する時代でもあり、パリ不戦条約があったにせよ侵略か自衛かに関しては当事国が決めるというもので、事実上の空文でもあった。そういう中で道理とはどこまでを含めたことを指すのか。例えばその僅か50年前にハワイ王国を白人が滅ぼしそこに彼らが住みついていたことは道理にかなっていたのか。フィリピンやインドネシアやマレー半島はどうか。
「戦闘行為」において、旧日本軍は一般人や子供には攻撃しなかった。実際(原則として)それは徹底してたし、そのことの意味自体は小さくは無い。
@@central162 さん
逆では?
当時子供だった人がまるで自分が見てきたかのように語る滑稽さは、真珠湾攻撃を正しい正しくないの議論で気持ちよくなるところで停止してしまうことに直結した貧困な教育の結果だということなんでは?
当時その島に夫婦で住んでいた人(母の同級生)に聞いた話しでは、人口の40%日本人がいましたが、真珠湾付近の日本人には飛行機から逃げるようにアナウンスしたので、天皇陛下の写真を車のシート下に隠して皆逃げたそうですよ。
攻撃が正しかったか否かではなく、真珠湾攻撃が何故実施されたのか、「正しい」事実を踏まえることは、今後に向けて極めて重要と思います。
事実として、南西に向かう作戦に反して東の真珠湾を攻撃した上、何故占領しなかったのか、または何故造船所や石油タンクを破壊しなかったのか、ここに大きなカギが有る様に思います。
造船所や石油タンクを破壊しなかったことは、軍事的戦略において極めて稚拙な戦略として、当時のアメリカ軍人の回顧録に記載されています。
林千勝氏の調査による書物の他、真珠湾攻撃に関しては「真珠湾攻撃総隊長の回想_淵田味津雄自叙伝(中田整一著)」がリアル感に触れることができ参考になります。
山本五十六が鍵を握っていると言うことですよね。
@@amaneaogiri2173 実行犯および共犯:山本五十六、主犯:永野修身、米内光政の海軍トップ2,風見章、白洲次郎等の国際金融資本系関係者と共産主義者、そして、権力欲旺盛な近衛文麿の合作による「敗戦革命を狙ったもの」と林千勝氏は仮説を立てており、辻褄、納得感がある。林千勝氏の調査では、山本は鍵を握っていたが風見章との手紙等文書は焚火で全て焼き払われ、永野修身の資料は東京裁判中の死亡後何者かによって紛失しているとのこと。
真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄中佐は回想の中で、造船所や石油タンクの破壊のための攻撃申し入れを断られそのまま帰還したことに疑問を持ち始め、ミッドウェイ海戦では山本が総指揮を執るといいつつも数百キロ後方で遊んでいたことに愚将と言い放っている。
GHQが日本を骨抜きさせた⁉️アングロサクソン人の生き方を深く深く思考させる日本人で在りたいです‼️ありがとうございます。子供達の未来を守る強い軍事力持つ核を所有する強い強い日本が平和の原点ですね‼️
正しい正しくないの話や感情の鬱憤を晴らすために歴史を用いてる人が多いので、ちゃんと教訓・学びを得るのに歴史から学べるのはありがたいですね!学ぶにも、はじめの動機がどこに向いてるかですべて変わってしまいますね。
なぜ、80年も経ているのに研究が進んでいないのか。闇があるとしか思えない。
仕組まれた敗戦!真珠湾攻撃の裏側【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第7回】
裏取引!?闇に葬られた軍司令官【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第8回】この二つの動画の視聴を推奨。
林千勝先生を呼んで大東亜戦争の真実を話して頂くのもいいかなと!
近衛文麿と尾崎よしみを掘り下げたいですね
林?あんなペテン師呼んでどないすんねん アホか
@@シュペールエタンダール めっちゃストレス溜まってる生活送ってはるんやなあんた
尾崎よしみって近衛文麿の同時代人なら尾崎秀実のこと言いたいのかな?ちなみに、ほつみと読みます。
真珠湾の歴史に学ぶとすれば、今や林千勝氏の議論を外すわけには行きませんね。
認識が根底から変わる事をよく目から鱗が落ちたなどと形容しますが林氏の著書を読んで私は思わず膝を打ってしまいました。
私は三田村武夫氏の著書「大東亜戦争とスターリンの謀略」を読んである程度目から鱗が落ち、
その後、同氏の「日米開戦陸軍の勝算」を精読して本当の意味で目から鱗が落ちました。
林千勝氏を知らない人は是非ググってみてください。
私も林千勝さんのお話で近衛文麿内閣の正体を知り本来なら真珠湾攻撃なんてする必要無かった事に納得しました・・・
陸軍悪玉論、海軍善玉論が蔓延してるからなぁー
事実そのとおりだろ
海軍には残念ながらトロイの木馬が多数いたと言うことです。しかも海軍は解体されていないそうです。
日本は敗戦したので、真珠湾基地を制圧したら戦局はどう変わった可能性はあるのか?何故やめたのか?を論じる意味は有ると思います。タイトルが功罪を謳っているのに内容が踏み込まれていない様に感じました。
今までと違った視点からの考察に感銘しました。
いいお話しです。勉強になります。
全て最初から決まっていた予定調和なのでは、と思ってしまいました。
そしていま、自分がその歴史の上でどうすべきか、改めて考えさせられますね。。
わざと古い艦隊を真珠湾に置いてたと言われてるみたいですよ。
インドネシアの油が断たれたのは良くわかりました。では、敗戦までの油は何処から手にいれたのですか。
役目を終えたいそろくは生きてた話が腑に落ちてます。唾だけ相手に吐いてこうやってウチの艦隊を沈めてねと教えたと思ってます。明治から恐ろしさは始まってたんだという考えに落ち着いた。そして今芽吹きが始まってると思います。
私の祖父は帝國軍人「近衛第四師団」でした。
生前に真珠湾攻撃は海軍省の陸軍省の戦果えの対抗意思だと言ってました。
当時のオアフ島は、真珠湾だけではなくダイヤモンドヘッドは要塞化されていて、ワイキキビーチにも要塞砲(口径14インチと思われる)があり、島の東部や北部にもトーチカなどの防御施設が設けられていました。
日本軍はそういったオアフ島の強固な守りを懸念して、航空隊による奇襲攻撃が精一杯と考えたのではないでしょうか。
また、「真珠湾攻撃」と言われていますが、日本海軍が攻撃したのは真珠湾だけではなく、オアフ島東部のカネオヘ基地、同じく東部のベローズ・フィールド基地、島中央部のウィーラー基地をも攻撃しています。
南雲艦隊から出撃した約360機の零戦・九九艦爆・九七艦攻のすべてが真珠湾を攻撃したわけではないのです。
これらの基地はいずれも航空基地で、これらの基地航空隊の反撃を阻止するために真珠湾と相前後して攻撃したものでしょう。
それほどオアフ島内のアメリカの軍事力を高く見積もっていたと考えられます。
(カネオヘ基地など真珠湾以外への攻撃については、真珠湾内フォード島にある「パールハーバー太平洋航空博物館」で解説されています。)
なお、「真珠湾の入口が狭く、水深も浅いから、艦船による攻撃は不可能」という説明でしたが、真珠湾内のアメリカ海軍艦艇を攻撃するためには真珠湾内に侵入する必要性は乏しく、当時の戦艦の主砲射程ならば、湾外からも射撃可能です。
それをアメリカ軍が認識していたからこそのワイキキの要塞砲であり、ワイキキの要塞砲は戦艦などの水上艦から真珠湾を守るためのものでもあったと言えるわけです。
物事は徹底しなければならない。五十六は戦艦と空母の数しか頭になかったようだな。だからこういう中途半端な結果なのだ。大きな戦略上の観点もなければ、やるのであれば戦術上占領までしなければ何の意味もない。
@@RyzenH-ir8lg さま
ニミッツが「旧式戦艦に乗っていた最も優秀な乗組員を空母と重巡に移せて、戦力はアップした」と言っていますからね。成功して敵将を喜ばせる作戦なんて。優位に立ったはずの日本の戦艦部隊は何もしていませんからね。
@@竜涎香-g9o さま
ホントにアホです。
大きな戦略上から言えば巨大な潜在力をもつ米国にちょっかい出すのは最後にすべき。シナ事変を終わらせソ連を片づけ南方油田地帯を押さえ、ドイツと共に米国を挟撃できる体制になってからでしょ。
ハワイから併合の要請を断った日本の判断は、その後の歴史に大きな変化をもたらした事実も踏まえると、くだんの真珠湾もなかなかに興味深い
石原莞爾の意見や秋丸機関の研究結果を実直に進めていれば、「もしかしたら」もあったのかもしれないのですよね。秋丸機関には優秀な人が多かったけど、問題も多かったみたいですね…… 対米がこのタイミングで起こらなかったらまた違ってたかも?
とても学べましたありがとうございます。完膚なきまでにやられて。模索してわかったことと、改善したところがある日本は素晴らしいと言いたいけれど当時の人は後世の人に重荷を背負わせた部分もありますね。宗教戦略により深い理解があれば、現基督猶戦線の目的もわかったのだろうなぁ、、、、。
当時の賭けたトップは途中で逃げたかったんだろうな、、、
皆さん同じスタジオですね♥ 背景は違うけど😁 4次元魂のむすびちゃん♥
正しいかどうか?はどうでもいいとしても、評価できるかどうか?は検討しないといけないのではないですか?評価できないなら、正しいとは言えないのではないですか?
真珠湾攻撃の目的の一つとして米国民の戦意を喪失させることを掲げているが、結果、逆に米国民の戦意を高揚させた。その一点でこの作戦は大失敗である。
山本五十六連合艦隊司令長官と永野総長以外は全員真珠湾攻撃に反対だったそうです。近衛文麿野望と挫折 林千勝著の本に書いてありました。
>逆に米国民の戦意を高揚させた。
そうですね。わたしが55年前(昭和42年)アメリカに留学した時はまだ12月7日頃はバーなんかに行かないほうがいいと忠告されました。酔っぱらったアメリカ人に絡まれることがあったのです。(ニューヨークより)
確かにルーズベルトは反戦を公約に掲げているわけだから、向こうから攻撃してくる可能性はなかったかもしれない。ハルノートや経済制裁の挑発に乗ってしまったのなら、やるなら徹底的に、戦略的にやるべきだった。
@@jiropushkin3563 様
私も昭和62年、ハワイに留学した時、パールハーバーには行かない方が良いと言われました。
しかし、行きました。暴力はなかったですが、英語がわからないと思われ、ちょっと罵られるくらいのことはありました。
だれがどこに掲げているのかな?
ハワイ迄は確かに、遠いし💀行く理由が今一つ理解不能でしょうか~↓
空母??何処に??停泊する?撃墜でしょう🙊生きてる内に真実を知りたいです🙏もう67歳です😰
客観的でよかったです。GOOD!
ハワイと日本の子供たちの交流で、真珠湾を訪問しました。ハワイのお母さんたちは、日本の子供たちがハワイの犠牲者に祈って、ハワイの子供たちが日本の犠牲者に祈ることは意義があると言ってくれました。同時に、お母さんたちの本音としては、今は、ハワイが何でアメリカになっているのかという方が問題であると言われました。家も高い、土地の高い、子供たちをアメリカの大学に行かせるにも高い。お母さんたちは、ハワイの王様が、東京で明治天皇に助けてくださいと言ったことも知っていました。
事実として アメリカが暴力で併合した ということを知っておくことは 大前提として大事ですね 。当時の日本には ハワイを助ける余力は なかった 。ほぼ同じような立場で ちょっと距離が遠かったという 大きな違いが あっただけかもしれません 。
すごく勉強になる!ありがとうございます
巷では日本が真珠湾攻撃を行ったのは、日本の帝国主義に基づくものであるとなっておりますが,実際はそうではなかったということをアメリカ大統領 ハーバート フーバーさんも,その著書
「裏切られた自由」
(原題’Freedom Betrayed’)
の中ではっきりと述べていらっしゃいます。
分厚い本ですが、私は日本人として,間違った歴史教科書よりも,フーバーさんの書かれたこの記録を読んでほしいと思います。
林千勝先生著書の「日米開戦 陸軍の勝算」を読みましたが、秋丸機関によると南進論は南(東南アジア)へ攻めて西(インド・アラビア)へ攻めれば日本は勝っていたと。
ちなみに米国の国力差で東(ハワイ方面)へ攻めたら負けるとも書かれていたので真珠湾攻撃を許可した永野修身は許されない存在でしょう
それなっ!
真珠湾攻撃は山本五十六の我儘
秋丸機関の計画どうりにやってれば勝ってましたね!
林千勝さんによると、秋丸機関の戦略に、フィリピンを攻略占領の後すぐに返還するという作戦があったと思います。その時、アメリカは黙っているでしょうか。空母が銚子沖にやって来て、山本五十六が「映画」の中で心配していたように、本土が空襲されていたかも知れません。
永野修身は勿論ですが、その背後に居た者達(風見章、白洲次郎、近衛文麿、他の共産主義者と国際金融資本関係者)が国家転覆を狙った主犯です。
因みに、真珠湾攻撃で仮に造船所や石油タンクを破壊していたら、アメリカは太平洋側の戦争は離脱していたそうです。
アメリカの中学の歴史授業の課題で、真珠湾が再起不能にったらどうするかという問いの答えは、当時の軍事力は日本の方が勝っていたこと、国民世論が戦争反対であったこととハワイでなく本土から太平洋横断距離が遠すぎるの3点から太平洋側の戦争は不戦にしたとのことです。
ではハワイのアメリカ太平洋艦隊をそのまま放置して西進作戦をすると?
ドリットルの奇襲空襲作戦の代わりにアメリカの主力戦艦艦隊が42年初期にフィリピンに向けてやってきますが放置して西進するのですか?
迎撃する為には海軍のほぼ全てが必要だと思いますが、陸軍だけで西進作戦ですか?
42年中にインパール作戦の悲劇を起こせと?
@@無名-u7v アホかお前。米太平洋艦隊から攻撃されるやろが、ボケ
めちゃくちゃ分かり易いです!
ハワイ攻撃では、武器の工場は、破壊されてない民間人も殺害してない。もしハワイに上陸してたら違ってたかも😰ただ古事記から学ぶのは、太陽に向かって戦ってはいけなかった🥲
機動部隊による真珠湾攻撃は、早期に航空機が活躍できる土台を作ってしまい。米国の航空機産業という得意分野を促してしまった。
奮い立たせるためですねアメリカを
いつも大変興味深く拝見しています。
私の勝手な思いですがカメハメハ大王を助けてあげれなかった御返しと思っています。
私も同意見です!
植民地支配されているのを知っていたのに
助けられなかった悔しさとか
色んな理由で、真珠湾にある
アメリカの戦艦を攻撃したのではと
思っています。
自分も同じ意見です。元々先住民がいた方達を追い出して戦争の道具として島をイジり改造した事。
このチャンネルを見て改めて思う。
あの戦争は大東亜戦争だ。
太平洋戦争って実は南米の戦争だよ。
知らない人はググってね
大東亜戦争の勝者は大日本帝国。太平洋戦争の勝者はアメリカ。戦勝国は大東亜開放の戦争目的を達成した大日本帝国。
1930年代からの日本の国際社会からの孤立、石油禁輸という経済制裁、どこか今のロシアにも通じるところがあります。
ロシアの方は戦争には勝つかもしれませんが。
国連もアメリカも動きませんでしたね。
たられば言うのもあれですが、日本が戦争を避ける方法はあったのか、また戦勝国になる方法はあったのかなどは考えてみるのも面白そうではあります。
いずれにせよ西欧列強による植民地支配という悪夢のような世の中が終息へ向かったのは誉れ高きこと、西欧からすれば金づるが減ったというだけでしょうが。
国家運営は国防、経済振興、外交などなどつつがなくこなすのは難しい。
そもそも現状日本は自力で国を守れませんし。
タイムリーなとこでは岸田さんが悪手を放った模様ですね。
ロシア批判は無謀というもの、交易にはメリットの方が多かったはずですがみすみす手放すんか~。
事実賢明な多くの国はロシアと手を切ってはいないでしょう。
何が国のためになるのかを理解できる国民がせめて6割を超えれば日本は再び強くなる可能性はあります。
それまで存続していれば、の話ですが。
私の乏しい頭でわ山本五十六が関わった戦い戦略を見るに五十六は米国側の回し者であったとしか思えません。
うん。お前は本当にバカだよ。
アメリカの公文書館にはそんなこと書かれてないようです
@@ioryo5961 さん。
まあ、日米公文書には書かれて居ないし、日本兵の戦死者が最も多く出たのは五十六の死後が圧倒的に死者が出て居る作戦で有ったのも事実なので日本の歴史の闇を感じますね。
自分だったら百歩譲って真珠湾を攻めるならば空母索敵は素より、第3波攻撃隊を編成して石油備蓄基地を破壊して当分の間の足止めをする又はハワイを完全に占領し日本の支配化に置き米本国からの兵站を絶つ。
をしないと真珠湾を狙う意味がないのでわ?
日本は本来、東を攻めるベキでは無く、一旦南下してから足を固めながら西へ北上しつつ、石油、天然ゴムなどの資源を確保してシーレーンを確保して行けば勝て無い迄も簡単に負けない戦いが戦略的に出来たのでわ?と思ってしまう。
真珠湾の後ドンドン東に出たのは失敗。
それが五十六の個人の意思なのか?背後に歴史的に登場して居ない力が働いての事なのか闇が深すぎてわからない。
日本の陸、海、空。の自衛隊元幕僚長達を集めて話合い五十六が何故にあんな戦略を取ったのか答えを出して貰いスッキリしたいです。
山本五十六のバックには黒幕がいたと言うことはダイレクト出版の宣伝動画で見ましたけど。
@@amaneaogiri2173 何の根拠にもなりゃしないww
真珠湾攻撃はフィリピン植民地解放戦と同時に行われました。
これはひとえに、アメリカがフィリピン奪還作戦を行うのを阻止する為に日本軍が敵基地攻撃を行ったものと解釈しています。
真珠湾攻撃の是非。林千勝さんの意見が最も的を得てます。
あんなマガイモン真に受けてるんですか?
以前の動画で背景が本棚だった回で、落合莞爾氏の著書が並んできたので小名木先生は落合史観についてはご存知のことと存じます。結局あの戦いは八百長だったということではないですか。
とりあえず「最悪の戦犯は山本五十六であって、東条英機ではない。」って事かな。
長五****ロウ
バカですか?
日本軍の真珠湾攻撃のもっと前から太平洋戦争は継続していたような口調ですね。
真珠湾攻撃ー3
航空部隊
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。
当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、真珠湾内のフォード島北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。
技術的な課題は、第一に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第二に戦艦の装甲にどうやって航空爆弾を貫通させるか、の2点であった。
詳細は「九一式魚雷」を参照
第一の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。
第二の爆弾に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量を賄う実験が鹿屋、笠之原で実施された。模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。
鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[23]。蒼龍の艦攻搭乗員だった吉岡政光の回想によると、通常なら知らされる目的地は一般の乗組員には知らされなかった。伊勢湾近くでは、伊勢神宮へ向けて総員敬礼が命じられたが、それもかつての航海ではなかったことだった[24]。吉岡は、国力に大差がある米国と開戦すると思っておらず、猛訓練は日中戦争激化への備えと考えていた[25]。
吉岡がハワイ攻撃を知らされたのは単冠湾到着後、11月24日で南雲中将からの「宿敵米国ニ対シ愈々十二月八日ヲ期シテ開戦セラレントシ…」[25]、「十年兵ヲ養フハ只一日之ヲ用ヒンガ為ナルヲ想起シ」という訓示が読み上げられた[26]。その後は、ジオラマを使い真珠湾の地形や米戦艦の停泊位置を頭に叩き込んだ[25]。
単冠湾は冬でも海氷に閉ざされない天然の良港で、沿岸には天寧(てんねい)や年萌(としもい)という集落があった[27]。11月20日、警戒と機密保持を任務とする先遣隊が到着し、天寧郵便局に電信電話回線の遮断を命じた[27]。11月22日朝には5~6隻の軍艦が目撃されたが、住民は湾を見ないよう指示され、学校でも話題にする生徒はいなかった[28]。夜はサーチライトが空に向けられた[28][27]。増えた艦艇は24日頃から出航し[28]、26日には朝靄の中を空母が岬を通過していくのが目撃されたが、住民はハワイ攻撃とは思わず、ソ連との戦争を噂しあっていた[27]。
また、日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込んだ。吉川は日系人を利用して真珠湾のアメリカ軍艦艇の動向を日々調査し、真珠湾のアメリカ軍兵力の詳報を作り上げた。他にも軍令部第3部の鈴木英少佐らが、仏印進駐による経済制裁によりアメリカ行き商船の最終便となった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路に沿って航海して気象条件やアメリカ軍の警戒態勢などの情報を収集している。鈴木らは1941年11月1日にハワイに到着すると、安全を期して吉川との直接の接触は避け、日本総領事の喜多長雄から吉川の調査結果を受け取った。鈴木は無事に日本に情報を持ち帰り、源田らに真珠湾の最新情報を伝えることができた。吉川は攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その情報は暗号電文で総領事館から海軍に伝えられ、第一航空艦隊に伝えられた[29]。
特殊潜航艇
航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している[30]。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年(昭和16年)1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了。搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員である有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。
9月初旬に原田と岩佐が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが、搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信して潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長するなどの研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11日 - 13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた[31]。
流石は小名木先生、この課題を視聴者が考えるための「宿題」として、敢えて御見解を据え置かれましたね。戦後、様々な研究がなされていますが、それほどに当時の作戦計画が終戦までを見通して策定されていたかどうか、甚だ疑問ではあります。ただし、以下の事実は間違いの無いところです。これも参考になりましたら、各位でお考えいただければ宜しいかと思います。
1.小名木先生解説の通り、とてもハワイは日本から遠い。従って、この地を占領したとしても、その後長く維持することは恐らく不可能で、米国本土から押し寄せる大艦隊によって、何れは占領されてしまう。だから占領が目的では無かった。南雲艦隊は「真珠湾空襲部隊」と称し、「攻略部隊」ではない。艦隊が占領のための大輸送船団を伴っていなかったことからも、これは明らか。
2.一方、日本が目指した南方資源地帯からは、米国領フィリビンがある限り、物資を還送する事が出来ない。当然、フィリビンの攻撃や占領を目指そうとすると、真珠湾から米艦隊が大挙して出撃してくる。これを何とかしておかないと、南方作戦は大変なことになる。だから先制攻撃として、「ハワイの米艦隊と航空部隊」を全滅させておく必要があった。
3.もし2の作戦が大成功すれば、ハワイは米国の統治下であること、大量の艦戦が沈められることから、犠牲があまりにも大きく、米国民は戦意喪失に陥るのでは無いかという期待が、山本五十六には有り、これを黒島亀人参謀に計画させた。「ハワイを飛行機でやれないだろうか?」---これが成功すれば、直ちに戦争は講和に持ち込める。米国という国は、大統領制で有り、国民が厭戦気分になれば、大統領はその言葉を聞き届けなければならない。それが最大の狙いだったという説がある。山本は長期戦では適わないことを十分に知っていた「知米派」の一人である。----これは今、一番指示されている説です。確かに占領維持は困難でしょう。
4.それにしては、第二次攻撃は行われず(第一波、第二波の攻撃を合わせて第一次攻撃という。石油タンク、工廠、付近に逃げた米空母の総掃討戦が第二次攻撃)、決して真珠湾の基地機能を奪っていない。
5.これは、現地指揮艦である南雲提督の判断によるものであり、山本の作戦意図とは異なるものだったと考えられています。作戦が始まったら、部隊の指揮は現地指揮官に委ねられます。呉にいた山本は部隊の指揮は執れません。山本司令長官からは「空母を一隻も失うこと持ち帰ってくれ」という依頼を南雲は受けていました。ここからは現地指揮官の気持ちになって考察する必要があります。
・真珠湾在泊艦船は全て叩いた。しかし、空母は叩けていない。現地の基地機能を叩きたいが、第二波攻撃では20機以上の艦爆を失った。敵は反撃の機会をうかがっている。流石に同日に第三波を繰り出すわけにはいかない(攻撃隊収容が必要で時間的に厳しい)。そこで源田参謀から、「基地機能が残っています。山本司令の命令に従い、これを叩きましょう。ただし、米空母が途中で攻撃をかけてくるかも知れない。だから、先に空母艦隊を発見し、それを叩きましょう」との意見具申があった。南雲はこれを承諾した。
・戦いは12月9日まで続く。早朝から四方に索敵機が飛ぶが、米空母は発見できない。発見できない間も米空母の脅威が迫っている可能性がある。どうしようか。南雲が迷うが、源田、淵田の両航空参謀は一歩も引かない。「正午まで待って、米空母が発見できない場合は、現海域に残って作戦を継続することは困難だ。補給の問題もある。もう帰りの燃料が心許なくなっている。何とか米空母がたたけたなら、真珠湾の基地機能をたたきつぶそう」と南雲が指示。 この決断は周囲の情報が全くわからない現地指揮官としては最善の策だったと思えます。
・結果として、米空母発見は出来ず、南雲は引き返した。これが後々、禍根を残すこととなった。これを戦後問題視しているだけのような気がするのですが。
6.その翌日、エンタープライズとサラトガが航空機運版任務から帰ってきたことが歴史の事実。この時点において、米空母艦上には強力な攻撃隊は無く、零戦に勝てる戦闘機もなかったため、実は南雲の心配は杞憂だった。しかし、この情報を南雲は掴んでいなかったため、上記の結果になった。その上、多数の艦艇を失ったにも拘わらず、米政府は「卑怯なだまし討ち」としてこの被害を逆に利用し、米の参戦が決まったというのが一連の流れですね(当時、宣戦布告をしないと敵を攻撃してはいけないというルールは無かった)。勿論、「日本に先に手を出させる」という計画はルーズベルトとチャーチルの仕組んだものですが、まさか、ここまで日本軍が強く、ハワイに来るとは予想していなかった。そのために被害が大きくなってしまった。これは米国の誤算でしたが、かえってその後の作戦は「空母中心」とせざるを得なくなり、戦艦よりも余程強力な武器は失わずに済み、空母の運用まで勉強する事が出来た。やがて珊瑚海、ミッドウェイと空母戦が展開され、真珠湾攻撃が間違いであったかのような展開になってしまった。当時も米国は20隻以上の戦艦を建造し続けていたにも拘わらず。
こんな皮肉なストーリーが今のところ、主流だと思います。個人的に信じてはいますが、まだ不明な部分が多くあります。皆さんも各自の分析をお願い致します。上記は色々な文献、特に米国公文書館の資料に詳しく、チャーチルの「第二次大戦回顧録」等に詳細な記述があります。政治の思惑が大きい気がしていますが、まだ資料が足りません。参考になれば幸いです。
5については、映画「山本五十六」の中で、永野軍令部総長が南雲司令官に依頼あるいは命令したように描かれていました。実際どうだったのかわかりませんが。山本五十六が攻撃隊の司令官として赤城に乗り込んでい「たら」撃って撃って撃ちまくっていたかも知れません。
歴史専門の先生と自衛隊の元管理職以上方の討論を、強く希望します。
メッチャ面白そうじゃん!!!
むすびでは林千勝先生に学ばないのですか?
日本の真珠湾攻撃は中途半端だったというのが、小名木とやらが言いたそうだ。このとき2千人もの米軍兵士が死亡したことを触れてない。小名木は何を言いたかったのか?
林千勝氏の指摘に対する小名木先生のご意見を聞きたいですね。秋丸機関策定の対英米戦略にはハワイ奇襲はありません。対米より対英を主目的とした戦略です。南へ進みパレンバンの石油を取り、西へ行きインドを解放する。そして中東あたりでドイツと合流する。対英で勝ち講和に持ち込む。
ハワイ攻撃の一ヶ月前まで、この戦略だったというのです。山本の強い意志でハワイ奇襲が行われたことを問題視しています。
中東までどうやっていくんだよ、アホか
林千勝氏が近衛文麿、山本五十六と真珠湾攻撃の闇部分について詳しく解説していましたね。日本が負けるべく負けるように内部から仕掛けられたというか・・・
あんなもんでたらめやんけ。
@@シュペールエタンダール GHQ史観の方がでたらめだよ
@@lefd5iaoc林は明らかに嘘つきだろ
当初の計画に真珠湾攻撃はありません、真珠湾攻撃は山本五十六の我儘です。
真珠湾攻撃は大きな間違い、山本五十六がいなければ大東亜戦争は勝ってたよ。
山本五十六の我儘を利用した者達がいることを林千勝氏は調査で指摘しています。
更に、間違った真珠湾攻撃でしたが、それでも日本は十分に勝てた攻撃であることが回顧録やジュニアの歴史授業等から確認されています。
真珠湾攻撃で仮に造船所や石油タンクを破壊していたら、アメリカは太平洋側の戦争は離脱していたそうです。
アメリカの中学の歴史授業の課題で、真珠湾が再起不能にったらどうするかという問いの答えは、当時の軍事力は日本の方が勝っていたこと、国民世論が戦争反対であったこととハワイでなく本土から太平洋横断距離が遠すぎるの3点から太平洋側の戦争は不戦にしたとのことです。
「戦争計画違反と故意の稚拙戦略」による人為的に誘導された敗戦といえると思います。
「勝っていた」は言い過ぎだが、「あんな惨めな負け方はしなかった」とは言えそうだ。
私個人的な見解ですが、勝っていたまでは言うのは難しいとは思うが、大日本帝国にとって有利な和平交渉は出来たのかも知れませんね。
広島と長崎に、原爆と水爆を投下される前に全面降伏せずとも済んだ可能性はあったと考えます。
ヨーロッパやアジアでの参戦に反対していたアメリカ国民の世論に火を付けてしまった真珠湾攻撃は作戦上完全な失敗でしたね。
フィリピンを占領されたくらいでは世論は動かなかったという分析もある。
敵情を知る情報収集能力が重要だということだと思います。
1941年8月のギャラップ調査では、既に米国民の7割が対日戦に肯定的でしたが?
@@シュペールエタンダール だからといって、自分の家族から「兵隊」に送り出すことまで同意したとはいえんのじゃないか? 前年の大統領選で、対ドイツ開戦主張の共和党候補に対抗して「あなたの家族を徴兵して海外の戦場に送ったりはしない」と言ってルーズベルトは当選したのだぞ。その「世論調査」の裏には"Not in my backyard "のホンネがあると疑われるが?
@@mtlook0704 あんたの感想はどうでもいいよ。
1941年7月生まれ。5ヶ月後に開戦。生まれたのが一寸遅かった。もし山本五十六の立場だったら、戦艦大和の完成を急がせ、空母一隻と別行動でサンディエゴの軍港を爆撃。
アメリカの民間人の厭戦気分を一気に盛り上げ話し合いに持ち込む。シンガポールのイギリスの様に取りあえずは話し合いには応じたはず。
はかない夢か、、、、、。間もなくあの世じゃ。
大勝利なんかじゃないよ🤣🤣👍負けの始まりだよ。
すごく、タメになりました!
(先ほどは、失礼しました。いいねメッセージで気付きました。老眼怖いですね😅
投稿しなおさせていただきました😅)
日曜日に真珠湾攻撃に。
金曜日に米航空母艦だけが”演習で”真珠湾を離れた。
昔も今も、米海軍の演習は 週末にはナイ。
レキシントンについては演習ではなくウェーキ島に戦闘機を輸送中であったことが確認されています。
ありがとうございました✨🙏🏻
当時の海軍は日本海海戦の栄光を引きずりながらも支那事変では活躍の場がなく、おおくの陸軍将兵が戦いで苦労する中、ロジスティックの安全確保・運送屋を引き受けるぐらいだった。
そんな海軍は巨大戦艦建造で国防費の相当額を費やし、陸軍の予算を圧迫、陸軍将兵は白木の箱に入って帰国する中、かっこいい軍服を着て内地を闊歩する海軍に庶民は舌打ちする世相だった。
ここで一発、海軍の実力を見せしめて世間をあっと言わせたいというのが山本の心理だったのではないか。治安維持で支那大陸に派遣されていた陸軍にしてみればそんなことをしてアメリカと全面戦争になれば勝ち目はないことぐらい下士官クラスでも理解していた。
太平洋戦争は海軍とアメリカの戦争であって発端は海軍の見栄だったというのが真相だろう。
アメリカとの戦争決めたのは陸軍大将東條英機の東條内閣だろ、アホ
そうですね。山本五十六は真珠湾以降のことを何も考えていなかった。そのうえ、国民を信じず、ドゥーリトルの際は「海軍が批判される」と恐れ、拙速にMI作戦を実行し大敗。その後も自分は決して前線に出ようとはしなかった。
@@竜涎香-g9o 前線に出なかったらなんで戦死するんだよww
言われてみると、
そうですね😅
御前会議では米とは戦わないって事になったのに海軍が勝手に出ちゃっったと聞いたことがあります
そんなデタラメだれから聞いたんですか?
奇襲は漏れていた。空母は攻撃を知っていて逃げた。 備蓄燃料タンクも攻撃しなかった。何故か?
奇襲が漏れていた可能性は高いが、攻撃目標が、まさか真珠湾であるということまでは予想できていなかった。空母の行動についてはレキシントンはウェーキ等に戦闘機を運ぶ任務を行っており、エンタープライズは演習を終えて真珠湾に変える途中であった。エンタープライズの艦載機が基地の飛行場に降りようとすると味方の対空砲火により数機が撃墜されている。おそらく偶然いなかった。備蓄燃料タンクも重油のため爆撃しても発火せず、それほど大きな被害を与えることはできないからやらなかった。ここら辺が事実かも。
@@565jasdf8詳しい解説ありがとう。勉強になります。
備蓄を攻めない。艦隊は壊滅、まさに謎……備蓄を攻めれば艦隊は自然と壊滅に近い状態になるのに………なぜ、しなかったのか、、、しかもタンクからの反撃は火気の絡みもあって、壊す方が断トツ有利なのに…
@@日下おーじ 備蓄に対してさほど重点的な攻撃が行われなかったのは上コメの通り。さらにアメリカは大国なのだから、燃料を一時的に失ったとしても再度手に入れることができる。資源弱者の日本と一緒にして考えるのは明らかな間違い。そもそも直接艦隊を撃滅できるならそっちのほうが確実。敵戦力をそぐだけでなく他の鑑が接岸できなくという点で燃料攻撃と同等かそれ以上の基地機能阻害を図ることができる。
マレー作戦ー3
日本陸軍は12月8日の上陸からジョホール・バル占領に至るまでの55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復、1100キロを進撃し、海上機動距離は650キロ[128]。陸戦戦果は遺棄死体が約5000名、捕虜が約7800名。第25軍は戦死者1535名、戦傷者2257名。第三飛行集団は戦死者185名、戦傷者180名[129]。
マレー作戦の航空戦
マレー作戦で活躍した飛行第64戦隊指揮官加藤建夫中佐
第3飛行集団は優勢に航空作戦を進めていたが、イギリス空軍はゲリラ的少数機で日本軍地上部隊に継続的に爆撃を加え、地上軍にも少なからず損害が生じていた。菅原が絶対的制空権の確保を優先するあまり、地上支援が少ない感じていた第25軍司令官の山下は「まずは地上作戦協力の方が緊急」という不満を抱いていた。山下の不満を受けて南方軍参謀谷川一男大佐は、「遠藤三郎率いる第3飛行団を第3飛行集団から第25軍の指揮下に移してはどうか」とする案を菅原ら第3飛行集団に示したが、菅原らは谷川の提案を一蹴、遠藤が「まずは何より重要なことは全般の制空権を獲得し、その傘の下で作戦することである」との意見を谷川に返した。そのため、引き続き第3飛行団は第3飛行集団の指揮下で菅原の方針通り、制空権確保に全力を投入し、1941年12月21日、第3飛行団がイポーとクアラルンプールでバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファローと交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦を展開し制空権を確保していき、菅原の作戦通り、全般の制空権を確保した第3飛行集団の地上協力によりイギリス軍地上部隊は各地で第25軍に撃破され、シンガポールに向けて退却していった[130][131]。
第3飛行集団は、北マレーに配備されていたイギリス軍機100機のうち50機を撃墜破して撤退させ、北マレーの制空権を確保したため、菅原は司令部をカンボジアのプノンペンからマレー半島のスンゲイパタニに前進させた。しかし、菅原の進出直後にスンゲイパタニがブリストル ブレニム爆撃機に奇襲攻撃を受け、あわや全滅か、という窮地に陥ったこともあった[132]。
シンガポールが近づいた1942年1月8日、菅原は第25軍のシンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦を命じた。菅原の命令に基づき、1月12日に72機もの大編隊がシンガポールを空襲、迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し、重爆撃機は悠々とイギリス軍飛行場を爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられ、イギリス空軍に多大な損害を与えた[133]。翌13日には、菅原はより前線に近い場所で指揮を執るため、スンゲイパタニで敵機の爆撃によりあわやという経験をしたのにも関わらず、恐れることなくクアラルンプールまで司令部を前進させた[134]。第3飛行集団は1月18日までシンガポールに激しい空爆を加えて、12日からの累計の戦果は敵機110機撃墜破にも上った。その後は、マレー西海岸をシンガポールに向けて猛進している近衛師団の航空支援を行ったが、イギリス軍機の活動はなおも活発であり、1月18日には菅原の司令部があるクアラルンプールも爆撃を受け、菅原は無事であったが、地上で数機の日本軍機が撃破され、死者3名を含む多数の死傷者が出た[135]。
シンガポールのイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団の脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーンと加藤率いる第64戦隊が初めて交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜して完勝し、隼の優位性を実証している[136]。その後もハリケーンは日本軍の空襲の迎撃に出撃するが、そのたびに損失が膨んで、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた格好となった[137]。
そしてエンドウ沖で壊滅的な損害を被ったイギリス空軍に対して、第3飛行集団は爆撃機によりシンガポールのイギリス軍飛行場を連日攻撃し、たまらずマレー方面のイギリス空軍司令官ホッバム空軍大将やガルフォード空軍少将はシンガポールを脱出し、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に待避してしまった。
タイトルと内容が一致していない。
とても残念でした。
ホワイトハウスは日本の艦隊がハワイに接近していることを把握していながら太平洋艦隊司令部に連絡していない。
真珠湾攻撃の裏話でこんな話しを聞いた事がある。日本海軍は真珠湾攻撃をしたが米軍に攻撃され撤退したが米軍は宣戦布告のきっかけを作りたくて自軍により真珠湾攻撃して日本海軍のせいにした。
なぜこんな話しが出たかと言うと、真珠湾で破壊された戦艦はすぐになおされ戦争に参加している等傷が浅いのだ。
16:00 〜
>第二波攻撃
ほんと? 初耳や。w
ありがとうございます。
なんだかんだ東南アジア資源地帯を抑え、鉱山や油田など稼働可能にはなっだけど、そもそもその資源を輸送する船が足りなかったというオチ(一般的に潜水艦に輸送船が多数撃沈されたため資源が日本に届かずと言うが、撃沈される以前に準備・建造された輸送船が明らかに足りなかった)
各資源ごとに異なる構造の輸送船が必要なため、既存の船か新規建造船しか充てられないそうな。
戦前は、やっていたのか?開戦シュミレート❕真珠湾をいかに攻略するか?
安濃豊博士が主張されている大東和戦争についての歴史観をどう思われますか?
大東亜ですね。😊
@@MrDonnekorin その通りです。失礼しました。
陰謀論と憶測だけで持論を掲げている論者が多い中で、安濃博士の科学者の眼で捉えた歴史観には目覚めさせられます。
そうか、フィリピンはアメリカ領土だったからアメリカと戦う必要があったんだな…
マレー作戦ー1
(マレーさくせん、馬来作戦)は、1941年12月8日に太平洋戦争で日本軍が実施した南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。対英米蘭戦のきっかけとなる戦いであった(真珠湾攻撃が初めてというのは間違い)。
南方作戦陸海軍中央協定で定められた作戦名称はE作戦[4]。マレー作戦は太平洋戦争において全ての他の作戦に先行して攻撃を開始した(海軍の真珠湾攻撃よりも1時間以上も早く、当作戦が事実上、太平洋戦争の開戦である。)[5]。シンガポール島攻略を最終目標にしており[6]、1942年2月15日にそれを達成した[7]。
計画
英領マレー。マレー作戦の最終目標であるシンガポール島はこの南端にあった。
日本軍は南方作戦の実施を開戦と同時に行うことを計画していた。南方作戦の目標は、香港、シンガポール、マニラの重要軍事拠点を覆滅して東亜における英米勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[8]。南方作戦の攻略目標は、マレー、ジャワ、フィリピンの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とし、対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、英米可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題であった[9]。
また、南方作戦の議論ではマレー上陸作戦を開戦劈頭急襲的に行うか、航空撃滅戦後に実施するかが課題となった[10]。陸軍は南方作戦の根本方針を先制急襲としており、英領のシンガポールの早期攻略を企図していた。そのため、マレー上陸案として航空撃滅戦と同時に数地点に急襲上陸する甲案を企図した。しかし、この案は英航空戦力をそのままにして長途の渡洋接敵ののち上陸することであり、上陸の前日に企図が暴露することは必然と考えられ、輸送船団や護衛艦隊に大きな損失が出ると予想された。そのため、海軍はこれに反対し、航空撃滅戦を行った後に上陸を行う乙案を出した。その後、議論が重ねられ、甲案を本則として乙案の場合は先遣兵団集合点出発前にこれを決定特令することになった。しかし、敵の航空を撃滅しない危険は残り憂慮され、上陸失敗の場合の対策も講じられた[11]。
南方攻略作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す案となって、1941年10月29日までに南方作戦陸海軍中央統帥部における南方作戦の計画書類の策定が終わり[12]、マレー作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称は「E作戦」と定められた[4]。南方作戦陸海軍中央協定には、「英領馬来(マレー)に対する作戦目的は、同方面の敵を撃破して其の要地特に新嘉坡(シンガポール)を攻略し、東亜に於ける英国の根拠を覆滅するに在り」と定められている[13]。陸軍は南方軍作戦計画のマレー方面については、第一期は「第二十五軍(四師団基幹とす)は海軍と協同し速やかに「シンガポール」を攻略す」、第二期は「第二十五軍は海軍と協同し「シンガポール」「ペナン」等馬来方面の要地を確保する」(以下のスマトラ方面については省略)、第三期は「第二十五軍(三師団を基幹とす)は英領馬来、英領「ボルネオ」及北部「スマトラ」の要域を安定確保す」と定めている[14]。
っていうか、山本五十六以下海軍どもが自分たちの腕を試して戦果をあげたいだけだったんじゃないの?
おまえあほ?
山本五十六は反対してたはずです
兵法の常道からははずれている。
戦闘においてはトドメをささなければ目的は達成されない。
何かで、聞いたけど真珠湾攻撃は山本五十六の考えで行われたと言っていたなぁ~。どういう意図があって攻撃したか知らないケド。
真珠湾攻撃ー2
攻撃の優先順として、主目標は戦艦・空母とし、次にその達成を妨害するだろう敵航空基地・飛行機が副目標となった。工廠(こうしょう)や油槽などの施設は目標とされなかった。戦力を二分していずれの攻撃もが不徹底に終わるよりは艦艇破壊に集中したほうが良いと考えたためであり、工廠や油槽などの後方施設の重要性は認めながらも、これらへの攻撃はあえて切り捨てる方針がとられた[11]。また攻撃は持てる艦載機による一度だけの出撃とされ、発艦は第一波と第二波に分けられ(当時の航空母艦は艦載機用カタパルトは無いので搭載機を一度に全機飛ばすことは出来ず、飛行甲板に最大限並べても2回に分ける必要があった[12])、戦果の如何に関わらず再攻撃は計画されていなかった。しかし一方で山本は、攻撃後、ハワイ上陸の案も幕僚にもちかけていたという[13]。
実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の仕上げを命じた[14]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、洋上燃料補給ができない場合もあるとして、一部艦艇の航続力が問題となったが、海軍省軍務局の暗黙の了解のもと、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することとした[15]。
使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、連合艦隊は、9月1日に編成された翔鶴(8月8日就役)と瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁する第五航空戦隊も、搭乗員や器材の準備が間に合うなら使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順口攻撃において、港外での敵艦隊夜襲が失敗した一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部の考えは4隻であった[16]。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に赴き、6隻使用は到底了承しがたい旨を伝えて東京に帰った[17]。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、味方空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。
大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地だったフィリピン方面に戦力を集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[14]。作戦再考を求めに来た軍令部の参謀に対しては「南方進攻しているあいだに本土を襲われたらどうするのだ」とも語ったという。
海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧するのが反対論の主旨であった[18]。
10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったので、こちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言している。
また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという[3]。
援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。
NHKの特集の中で当時の政府の高官が「アメリカと戦争はしたくなかった」という旨の肉声記録が残っていた。
真珠湾を攻撃して戦力は削ぎたい。
でも、アメリカとは戦争をしたくない。
おそらく占領という形をとってしまうと戦争は避けられないから、あえて残すことでそれを回避したかったのかなと、個人的には思います。結局それは甘かったということで。
8月になるとテレビは見ると馬鹿になる報道しかしてないから、先生の話は為になりますね。
いざ、真珠湾攻撃で島の占領となると貴重な兵力の投入して時間をかけて占領しなければならない。日本は初期作戦で短期間で石油確保に全力尽くしたかったと思うから、石油確保までの足止めを目的にしてたと個人的に思ってます。だってハワイまでの行って帰ってくるまでに莫大の燃料を使って確保しても、ハワイに燃料がなければそこで詰んでしまうから初期行動で致し方ない苦渋の選択だったと思います。これには日本の情勢がどれだけひっ迫して大東亜戦争をしなければならなかったのか。天皇陛下と閣僚と軍の悔しさが伝わってきます(´;ω;`)
【山本五十六の正体②】本当は勝てた戦争を「ぶっ壊した!男たち」※秋丸機関と真珠湾攻撃「林千勝先生の研究」《後編・第2部》《永久保存版》
ああ、あのインチキクソ動画ね。
南方作戦とはハワイ占領を平行して出来るほど船はあったのだろうか?そして南方作戦展開中に日本本土が強襲されたら撃退するだけの軍備が日本にあったのだろうか?海軍反省会には当時の日本には外国まで攻めていくだけの装備は満足に準備していなかったと書いてあった。
こういう事を今教えているのかと思うと、『日本の現代の若者達よ、君たちが生きている今は、先の大戦で死んで行った人達が生きたかった未来だ。』当時ならこの人はすぐ特高警察から殺される。 当時の事を知らない人が一方的に話しているだけ。 同じ日本人として悲しい。
こんにちは🙇♂️🙇♂️🙇♂️‼️
日本をカッコ良く………d( ̄  ̄) 。
でも統一教会に乗っ取られています
世間の方はどうして、飛行機の燃料などに石油以外の燃料を使用した事を言わないのだろうか?
日本海軍の真珠湾攻撃には、目的と目的を実施するための詳細な作戦があったはずです。それをなぜ現在の歴史研究家の誰一人として知らないのかが不思議でなりません。ハワイを占領するのは作戦にあったのかもしれません。しかし、第一次攻撃で空母4隻が真珠湾に停泊していなかったことを知って、司令部は作戦が失敗に終わったことを知ったのでしょう。米空母からの反撃を恐れて第3次攻撃をためらったのだと思います。
ありがとうございました。学習していきます。
真珠湾攻撃の犠牲者 へ謝罪と哀悼の意を捧げます。
私は洗脳から解けたした 超ラッキーです これでご先祖様に顔向けができます🙏
真珠湾攻撃は山本五十六元帥閣下が立案された作戦だったんですでも失敗に終わったんです、目的は航空母艦を海の底に沈める為にした作戦だったんです。
何も真実が語られていない
話聞いてー
この動画ではどれが答えとかないって言ってるじゃんー
早期和平を望んでいたから。徹底的にしなかったと思います。でもそれは日本から見た視点。アメリカから見たら、やられたからには徹底的に。そーゆーことです。
山本五十六の真珠湾攻撃は正しかったか正しくなかったのか?
これについては失敗だったか、失敗でなかったかについては、持論を持っている。
山本五十六は「皇国の荒廃、この征戦にあり、ニイタカヤマノボレ」と言っていながら、連合艦隊司令長官として陣頭指揮をせず、南雲の性格を知っていながら、大変重要な戦闘を任せてしまった。ハワイの占領は兵站が伸び切ってしまう事から、それが正しいか正しくないかは関知しないが、少なくとも戦闘を行うとは、トドメを刺すまで完遂せねばやった事にはならない。兵法のイロハである。
山本五十六が陣頭指揮を取り石油貯蔵タンク及びドックまで破壊する第3次攻撃命令を出さなかった事は、大いなる失敗と言える。
当時南雲部隊の作戦には石油タンクの攻撃は入っていません。なぜならあれは弾薬を消耗させるためのダミーだからです。当時の常識として呉や横須賀の海軍基地も地下タンクです。
第一次、第二次攻撃により日本軍の艦載機は27機が撃墜されている。さらに機体に損傷を受けている機は100機近くあった。戦闘力はかなり落ちていた。第一次より第二次攻撃の方が圧倒的に撃墜される機数が増えている。第三次攻撃をすると、さらなる被害が予想される。そしてアメリカの空母2隻の動向はつかめていない。この状況で戦うと戦力は、ほぼ互角になる。石油貯蔵タンク及びドックを完全に破壊するのは極めて困難。終戦直前の呉の海軍基地に対する米海軍機動部隊の攻撃においても破壊には至っていない。正解だと思われていたことが実際は間違いであることもあり、間違いであると思われていたことが実は正解だったりする。その時の状況により判断は様々。
@@565jasdf8
様々では許されない戦闘を仕掛けており、1次2次においても石油貯蔵タンクとドックにも手を付けなかった。戦闘においてはルールは無い。
目的は戦艦戦闘機のみに非ず。兵站や施設にトドメを刺さずして目的達成したとは言えない。相当な犠牲の覚悟が足りない。太平洋戦争からの戦略の失敗経験を糧にしなければ、300万犠牲者は浮かばれない。
@@565jasdf8 そうですか 。 詳細な数字が 見えてくると納得できますね 。
軍人は 公務員なので戦闘詳報というのを 書くらしいのですが、 おなじ戦闘での 双方の数字が かなり違うらしい・・・
沖縄戦での 日米の戦闘詳報を比較しながら ウェブ・サイトを 作ってる 、恐らく退役した自衛隊の将校の方の記事を 読ませてもらったことがあります 。
「データに基づいて…」とか「統計によると …」なんてことすら 鵜呑みには できまず 、結局 推測するしかない…「これが 歴史的事実っ!」っていうのが それぞれの架空の物語だったりする…
おなじ戦力でも 指揮する将官によって 戦果は 全く変わる可能性が あり 戦闘や戦争は やってみないとわからない …部分が 必ずある 。
われわれが 語るのは 安全地帯に立っての 後出しジャンケンについての議論 …のように思えます 。
@@derayama1616 さらに言えば赤城、飛龍、蒼龍の3隻の空母は航続距離が短いために、当初は加賀、翔鶴、瑞鶴の3隻で攻撃するという案が出ていました。つまり赤城、飛龍、蒼龍には燃料の余裕がなかったのです。かなり無理をして出撃をしています。長年、第三次攻撃をかけなかったことが失敗であったと言われてきましたが、実際の状況は、そうではなかったと言えるでしょう。
本当はエンタープライズを叩きたかったのによりによって演習で不在。日和った南雲中将が部下の進言を聞かず撤退。
事実は分かりましたけどなんの意図があって攻撃が行われたのかも事実の一つ。それが分かりません。それによっては議論も大いに様変わりすると思われますがそれは残ってないのでしょうか?
日本にもアメリカにもコミンテルン(共産主義)の工作があったというのは
事実なんでしょう。それは今もDSという形で続いている?!
米国のブログでは日本軍真珠湾に来てなかったって報告してました。
えっ どう言う事ですか、自作自演て事ですか?
@@tochigiken110 調べてみてください、あちこちで囁かれてます。9/11も双子ビルに突っ込んだのホログラフィの飛行機だったらしい。乗客のリストや旅行用の荷物なんかは一切報告されてないし。ニュース報道の嘘は多かったみたいです。人類初の月面着陸もネバダ州の砂漠の中のスタジオでスタンリーキューブリック監督が撮ったものだし。本人が隠れる3日前にインタビュー記者にバラしちゃった。
@@girlfromtokyo 9/11は映像もありますよね
ビルが突然爆発し出す奴とか、後ベトナム戦争のトンキン湾事件も自作自演で有名ですよね。確かにアメリカならやりそうな事ですね 調べてみます。
@@tochigiken110 2つのグループがあったんですよね、かなり穢れてしまってる人たちと人民のために憲法にのっとって戦っている人たちと。暗い方はドンドンお掃除されて居なくなっています、特にここ5年間で。世界中で起こっている事です。表面上の名目で争いは起こってなかった。必ず富を得て好き勝手に振舞っていたグループがいたんです。民族に関係なく裏の同盟があったんです。
日本はインドネシアから石油を運びたかったんですね。
また同じようなことされる予感。
現在、南沙諸島周辺は中国が牛耳ってる。インドネシアもほぼ中国には物言えない。
中台騒動で日本は米を支持せざるを得ない。さて中国の日本への制裁は?
この辺封鎖されたら日本経済に大打撃。まさにこれこそ米の目的かと。米中の日本経済山分け計画。
パナマ運河を破壊すれば米国の戦略を遅れさせ和睦。
日英同盟を破棄したのは幣原だ、今は林だ、何回繰り返すんだ
🌴🌏🐎歴史は大切ですね・太平洋戦争=大東亜戦争みたいですね⛩️✨💫🧜🐉⛩️
石原莞爾が、失脚したのが日本には、大きかったです。